「――馬酔木の花を見ておりますと」
午後のお茶のひととき。
窓の外に目をやったメイドが、ふとつぶやいた。
「思い出すことが御座います」
何を? と問いかけたのは彼女の主にして、館の主。
「お前は悠遠たる時の檻に幽閉されし囚われびと。
何かを見るたび、かように思い出していては、
およそキリがないのではなくて?」
いかさま、とメイドは苦笑いしつつ、
「――とはいえ、忘却するにはいまだ生々しい記憶も御座います」
とおのれの手をながめる。
「頭では忘れても、この手が憶えておりますもの」
それはいつかの春――いや、冬というべきかもしれぬ。
なんとなれば例年ならば春となるべき時候になっても、
なお冬の凍えが過ぎゆかないという事態であったから。
館のメイドは主の許しを得、原因を究明すべく旅立った。
その旅程の話である。
落ちていく。
キラキラと氷の粒を撒き散らしながら落ちていく。
――他愛もない。
メイドはまつ毛を払った。
何度か冷気がかすめたせいで、少し凍結していたのだ。
いま彼女が斃したのは、『冬の忘れ物』と称する妖怪だった。
もしや、この永い冬をもたらしている元凶では――とも思ったが、
さほどの脅威ではなかった。
所詮は僥倖たる延びし冬を愉しむだけの小物にすぎなかったようだ。
――とはいえ。
一応、とどめをさしておくのが正解であろう。
「ナイフも回収しなくてはね」
得物にして商売道具のナイフは、なるほど大事なものではあるのだった。
地上に降り立ち、おや、とメイドはいぶかった。
落下していったはずの妖怪の姿がない。
もしやすでに消滅したか、とも思ったが、ナイフが見当たらぬ。
――あの深手で動けようとは?
不審に思い、しばし時間を巻き戻してみる。
すると、目の前にかの妖怪が落下してきた。
虫の息で、今にも消え失せそうな頃合だ。
そこへ、一体の妖精が飛来してきた。
――あれは。
その妖精には見覚えがあった――湖でよく見かける、いたずら好きの氷の精。
そういえば先ほども、ちょっかいを出してきたので軽く追い払ってやったのだが。
氷精は、気息奄々の妖怪に肩を貸すと、そのまま飛び去ってしまった。
メイドもその後を追った。
氷の精は木陰に妖怪を下ろすと、介抱をはじめた。
――気まぐれな妖精が人?助けとはね。
意外の感に打たれていると、妖怪はなにごとかつぶやき、
ひときわ深い息をついて、動かなくなった。
そして、溶けていく。
氷の精は無言でそれを見ていた。
泣きたそうな表情。だがきっと、妖精は涙を知らない。
ふいに、氷の精がメイドに気づいた。
その瞳に宿る、冷たい炎。
――無駄なことを。
と思いつつ、メイドはひそかに気圧されていた。
人であれ人外のものであれ、激情に駆られた者はときに恐ろしいと知っていたから。
ナイフの刃こぼれが、増えていた。
――また、砥ぎ直さなくては。
氷の精は――氷の精だったものは、木陰にもたれて動かない。
メイドは、時の流れを速めた。
せめてその骸が溶け去って氷の粒となり、
風に乗って精の生ま変わる場所へ還れるように。
氷の精は飛散し、宙へと舞った。
風に揺れたのは、いまだつぼみだった花。
――馬酔木か。
いまだ冬の気配濃き中で、咲きほこるその白い花房は、美しくも、儚かった。……
「――馬酔木には毒があるというけれど」
館の主がお茶をすすりながらいった。
「お前も、その毒にあてられたのではなくて?」
かもしれません、とメイドは答え、
「けれど、いずれ忘れることでしょう。
私は、お嬢様のことだけを憶えていられたなら、それでいいのですから」
メイドは主の手をとり、口づけた。
私の爪にも毒があるわよ、と主はほほ笑んだ。
たとえそうでも、とメイドは思った。心配御座いませんよ。
だって私は、とうにあなたの毒に冒されているのですから。
午後のお茶のひととき。
窓の外に目をやったメイドが、ふとつぶやいた。
「思い出すことが御座います」
何を? と問いかけたのは彼女の主にして、館の主。
「お前は悠遠たる時の檻に幽閉されし囚われびと。
何かを見るたび、かように思い出していては、
およそキリがないのではなくて?」
いかさま、とメイドは苦笑いしつつ、
「――とはいえ、忘却するにはいまだ生々しい記憶も御座います」
とおのれの手をながめる。
「頭では忘れても、この手が憶えておりますもの」
それはいつかの春――いや、冬というべきかもしれぬ。
なんとなれば例年ならば春となるべき時候になっても、
なお冬の凍えが過ぎゆかないという事態であったから。
館のメイドは主の許しを得、原因を究明すべく旅立った。
その旅程の話である。
落ちていく。
キラキラと氷の粒を撒き散らしながら落ちていく。
――他愛もない。
メイドはまつ毛を払った。
何度か冷気がかすめたせいで、少し凍結していたのだ。
いま彼女が斃したのは、『冬の忘れ物』と称する妖怪だった。
もしや、この永い冬をもたらしている元凶では――とも思ったが、
さほどの脅威ではなかった。
所詮は僥倖たる延びし冬を愉しむだけの小物にすぎなかったようだ。
――とはいえ。
一応、とどめをさしておくのが正解であろう。
「ナイフも回収しなくてはね」
得物にして商売道具のナイフは、なるほど大事なものではあるのだった。
地上に降り立ち、おや、とメイドはいぶかった。
落下していったはずの妖怪の姿がない。
もしやすでに消滅したか、とも思ったが、ナイフが見当たらぬ。
――あの深手で動けようとは?
不審に思い、しばし時間を巻き戻してみる。
すると、目の前にかの妖怪が落下してきた。
虫の息で、今にも消え失せそうな頃合だ。
そこへ、一体の妖精が飛来してきた。
――あれは。
その妖精には見覚えがあった――湖でよく見かける、いたずら好きの氷の精。
そういえば先ほども、ちょっかいを出してきたので軽く追い払ってやったのだが。
氷精は、気息奄々の妖怪に肩を貸すと、そのまま飛び去ってしまった。
メイドもその後を追った。
氷の精は木陰に妖怪を下ろすと、介抱をはじめた。
――気まぐれな妖精が人?助けとはね。
意外の感に打たれていると、妖怪はなにごとかつぶやき、
ひときわ深い息をついて、動かなくなった。
そして、溶けていく。
氷の精は無言でそれを見ていた。
泣きたそうな表情。だがきっと、妖精は涙を知らない。
ふいに、氷の精がメイドに気づいた。
その瞳に宿る、冷たい炎。
――無駄なことを。
と思いつつ、メイドはひそかに気圧されていた。
人であれ人外のものであれ、激情に駆られた者はときに恐ろしいと知っていたから。
ナイフの刃こぼれが、増えていた。
――また、砥ぎ直さなくては。
氷の精は――氷の精だったものは、木陰にもたれて動かない。
メイドは、時の流れを速めた。
せめてその骸が溶け去って氷の粒となり、
風に乗って精の生ま変わる場所へ還れるように。
氷の精は飛散し、宙へと舞った。
風に揺れたのは、いまだつぼみだった花。
――馬酔木か。
いまだ冬の気配濃き中で、咲きほこるその白い花房は、美しくも、儚かった。……
「――馬酔木には毒があるというけれど」
館の主がお茶をすすりながらいった。
「お前も、その毒にあてられたのではなくて?」
かもしれません、とメイドは答え、
「けれど、いずれ忘れることでしょう。
私は、お嬢様のことだけを憶えていられたなら、それでいいのですから」
メイドは主の手をとり、口づけた。
私の爪にも毒があるわよ、と主はほほ笑んだ。
たとえそうでも、とメイドは思った。心配御座いませんよ。
だって私は、とうにあなたの毒に冒されているのですから。