時々、仕事をするために自室に閉じこもることがある。例えば、新曲の写譜。それから、ライブの予定や、曲目や、チケットの販売。もちろん会場の予約を取るのも忘れてはいけない。仕事と言ってもいろいろある。それらはすべて長女である私の仕事だ。メルランは何でも勢いで突っ走るきらいがあるし、リリカには別に家事をお願いしている。大体、こういうのは年長者が執り行うべきだろうというのもある。部屋のデスクでやることにしている。妹たちと共用のリビングは集中するには賑やかすぎるから、私は必ず、部屋の机に向かって作業をする。この机が、また、良い物なのだ。手触りと言い、重みと言い。 「ねえねえ、姉さん。ちょっといいかしら」  妹のリリカが呼ぶ声がしたが、私は無視した。仕事中は返事をしないと、妹二人にはあらかじめ言い含めてある。部屋には鍵も掛けている。 「姉さんってば。凄い発見をしたのよ、ちょっと来て」  仕事に集中しようと机に向き直ったとき、再びリリカの声が響いた。普段はもっと聞き分けが良いから、わずかに腰が浮いた。 「リリカ、姉さんは今仕事をしているんだ。後で行くから待っててくれ」 「でも今すぐがいいの。絶対びっくりすると思うわ」 「いいから。夕飯のときで良いだろう」  噛んで含めるように言うと、戸の向こうの気配はようやく遠ざかっていった。流石に冷たすぎただろうか。静かになった戸を見ながら考えた。胸がちくりと痛むが、決まりごとは決まりごとだ。順守すべきだろう。と自分を納得させて、再び机に向き直った。そして、 「姉さん、じゃーん」 「キャァアアアアアアアアアアアッ!?」  にゅっ、と。机に生えてきたリリカの生首に。にこやかに話しかけられて、私はあられもない悲鳴を上げた。 § 「――それで、何」 「うん、いやその、驚かしたことは悪かったと思ってる」  私はリリカを正座させて説教していた。後頭部がズキズキ痛む。リリカの生首を見た衝撃で思わずのけぞった私は、椅子ごと後ろにひっくり返った。というのがリリカの談だ。私気を失ってたからよくわからないけど、目が覚めたらそういう話が……作り話だとは思わないけど。しばらく時間は経っているはずだけど、ティーカップを持つ手の震えが止まらない。熱々の紅茶が手の甲にかかった。ちくしょう。 「キャァアアアアッ、だって。空手家の霊でも居ついたかと思ったわ」  メルランの顔にティーカップを投げつけて黙らせる。 「ああああ熱っつぁああああああああ!」 「で、何だ。その、さっきのは」 「……メル姉は」 「すぐ治る」 「ああそう……えーと、あれがその、私の発見ってやつなんだけど」 「うん」 「水! 水! 冷たい水――へぶっ」  顔を両手で押さえて賑やかに洗面所へ駆けていくメルランを二人で見送って(あちこちに顔面をぶつけながら走っていった。騒がしい)、私は改めてリリカの話を聞いた。  曰く、我々は霊体だ。それは知っている。霊体は、エーテル体とも呼ぶ。肉体を入れ物とすると、中身の人格を司る精神的な物質のことだ。だからなんだと言うと、零体だということは、本来物質的なものとは存在する次元が違う、ということだ。つまり。本来、我々のエーテル体では物体には触れられないはずだ。というのだ。言われてみればそんな気もしてくる。実際さっき、リリカは言った通りのことをやってのけたのだから。しかし、疑問もある。 「……じゃあ、どうして私は椅子に座ったり、メルランは顔でティーカップを受け止めたりできたわけ?」  私たちは普段、物質的な家屋で生活している。家具や食器や食物に触れることができているということだ。その質問をリリカは予想していたようで、したり顔で答えた。 「それはね。思い込みよ」 「思い込み……思い込みで茶碗が持てるのか」  そんな疑問も一蹴される。 「姉さんったら、普段どうやって演奏してるのよ」 「……ああ、なるほどね」  ポルターガイスト現象(思い込み)か。上手いことを言う。 「というわけでね、私はこっそり練習していたの。ついに完璧にできるようになって、お披露目をしたかったってわけ」 「最悪の形でね」 「うぅ、もう良いじゃない……」 「まあもう良いけど。それより」  何だかんだで。私とて騒霊のはしくれだ。 「うん?」 「それ、私にもできるかな?」  面白そうなことは、私だって大好きなのだ。 § 「姉さん……」 「センス無いねえ」 「うるさいな……」  晩御飯を食べてから練習を始めて、あっという間に半日経った。丑三つ時をゆうに回って、外はすっかり静かになっている。私は一向に、リリカの言う思い込みを解消できずにいた。自覚はしていたが、私は随分頑固な性格らしい。どうしても”そこに見えている”と”そこに存在している”を繋げて考えてしまうのだ。 「だからね、これは霧みたいなもの。実際には無いの。壁はね、姉さんが、姉さん自身のポルターガイストで作ってるの。それを意識して」 「そう、言われても」  私の目の前には明らかに、壁がある。何度もたたいたり触ったり寄りかかったりしたことがあるから、よく知っている。これは、壁だ。通り抜けられない。 「あーもー、まどろっこしいなあ。いいじゃん駄目元でぶつかってみればさ」 「ちょっとメルラン、駄目元っていうかこれは駄mへぶっ」 「あ、あー……」  鼻の痛みに視界を滲ませながら、私は机に置いたティーカップを投げつけようとして、 「……あれ」 「出来たじゃん」  空振りした。目を擦って確かめれば、確かにそこにカップはある。改めて手を伸ばすとちゃんと掴めた。一応メルランに投げつけておく。カップは過たずメルランの顔面の真ん中に吸い込まれ、その向こうの壁にぶつかって派手な音を立てて割れた。私が要領を飲み込めずにいる間に、メルランはあっというまに壁を自由にすり抜けられるほど熟練していた。ちくしょう。……それはともかく。 「……できた、ね。できてたよね、今」 「うんうん、確かにすり抜けてたよ」 「もう一回……」  何とかもう一度同じことを、と机を叩く。机は堅く、私の手を押し返してくる。リリカが、何か思いついたように声を上げた。 「そうだ」 「なんだ」 「目を閉じてやってみたら?」 「なんでだ」 「いいから」  目を閉じて。机があったところに、手を振り下ろす。何に触れた感触もなく、手は真下まで振り下ろされた。驚いて目を開いた。机は確かにそこに存在している。もう一度、今度は目を開いたまま試す。先ほどと同じく、手は机をすり抜けた。 「おお、おお、すり抜ける。面白いな、これ」 「やった! おめでとう! これで姉さんも一流のポルターガイストの仲間入りね!」 「必修だったのか……」  そんな講習は騒霊として生を受けてからというもの受けた覚えがない。履修漏れか。 「いくら才能のない姉さんでも、視界さえ無ければすり抜けくらいは……よし、ちょっと待ってて」  随分引っかかる言い方をながらリリカが取ってきたのは、黒い布だった。広げて見せられて、ようやく何か判った。アイマスクだ。それを着けてさえいれば、壁は見えないのだからぶつかるはずがない。自分は壁を通り抜けられる、という自信を付ければ今後の訓練にもいい影響がある。という。 「なるほど」  なるほど、アイマスクをつけてみれば確かに何も見えない。見えなければぶつかる筈もない。分かりやすい。 「はい、真っ直ぐ歩いてー。いち、に、いち、に、右に曲がるー。いち、に」 「歩くからそのリズム取るのはやめろ」 「プリズムリバー楽団のリズム隊にリズムを取るなと!?」 「今はそういう話してないだろう」  馬鹿話をしながら、言われるままにあっちへフラフラ、こっちへフラフラ。見えないというのは心もとないが、歩き始めてから何にもぶつかってないのは確かだ。壁をすり抜けて移動する自分を想像する。騒霊らしくてかっこいいと思う。 「おっと……」  考え事をしていたら何かに足を取られ、バランスを崩した。……ん? 躓いた? 何に? 考えているうちにも私の身体はどんどん落ちていく。強烈な浮遊感。……まさか。床をすり抜けた? 「あっちょっとメル姉! 何してるの!」 「熱々の紅茶のお返しよ、足を掛けるくらい良いでしょー?」 「だってこれじゃ、あっやっば、ルナ姉!?」 「姉さんが消えた!?」 「すり抜けちゃったのよ! 目隠しのせいで床が見えなくて!  リリカやメルランの声がはるか上の方から聞こえる。そしてどんどん遠ざかっていった。 §  ……騒霊、覚悟があれば何でもできるらしい。視界が無くては我が家には帰れないと、意を決してアイマスクを取ったのだ。取ったとて、ここは土の中。何が見えるでもないが、まあ、気分の問題だ。私は暗い土の中を、目隠しなしで自由に移動していた。 「まさかこんな深くまで落ちるとは……地上はどっちだろう」  気が動転して、どのくらい落ちたのかよく覚えていない。重力も……こう暗くては、どちらが上かもなかなか感じ取れないものだ。嘘だと思ったら夜の海でスキューバダイビングをしてみるといい。命の保証はしない。  まあ、適当にまっすぐ進んでみようか。きっとどこかの地上には出られるだろう。一つため息をついて、私はゆっくりと進み始めた。 § 「姉さんね、今ブラジルにいるって」 「見つかったの?」 「絵葉書が届いた」