ジリリリリ 「――う〜ん……」 物部布都(もののべふと)は布団の中で身じろぎしながらうっすらと目を開けた。 「なんだ、今日は随分早く鳴ったな……」 目をこすりながら目覚まし時計を見つめると、いつも起きる時間よりだいぶ早い。なぜ、こんな時間にセットしていたのだろう。……まあいいか、二度寝してしまえば済むことだ。 そう思いなおし、再び布団を被って目を閉じた。 「…………………………………………!」 それから暫くうつらうつらとし始めた布都が、ある事に気付いて目を見開く。 「……ち、遅刻だーっ!」 「しまったぁーーーーっ!」 制服への着替えもそこそこに、どたどたと階段を転がり落ちるように降りた布都は、大急ぎでダイニングに駆け込んだ。 「むぐっ!? ……ど、どうしたんですか、お姉ちゃん!?」 まだ登校時間には早いためか、のんびりと朝食の食パンを食べていた妹の早苗(さなえ)が驚いて布都を見る。 が、布都にとっては全然早くなかったのである。 「今日は日直だったのを忘れておったー!」 布都は叫びながら自分の分の食パンを引っつかむと、口に咥えながら大慌てで再びダイニングを飛び出した。 「ま、待ってくださいお姉ちゃん! そんな格好で表出ちゃダメですってば!」 が、早苗も大慌てで玄関までついてきた。 布都は慌てながらも、追いかけてきた妹を振り返る。 「なに、ちゃんと制服は着ておるぞ!?」 「もっとちゃんと着てください!」 「……え?」 早苗の制止に布都は一旦止まって、玄関の鏡で自分の姿を省みる……と、同時に真っ赤になって固まった。 それも当然である。よほど慌てていたのか、セーラー服のリボンはちゃんと結んでいないし、胸元のスカーフもしっかり留まっていないために下着がのぞいている。おまけにスカートのホックも留めていないためか、脚に絡み付いてはいるものの、今にも脱げそうだった。当然の事ながら、走ったら転ぶと同時に恥ずかしい姿を世間様に晒す事になるだろう。 「す、すまん。慌てていたもので……」 「謝るのは後でいいですから、ちゃんと服整えてください!」 指摘した後で早苗も恥ずかしくなったのか、顔を赤くしながら姉の制服をさっさっと整えていく。……ものの一分強で仕上がる辺り、早苗も手馴れたものだった。 「いやあ、助かった。危うくご近所に痴態を晒すところであったわ」 布都は天真爛漫な笑顔で早苗に礼を述べた。 ご近所どころの騒ぎではないが、この際ツッコミどころはそこではないのだろう。早苗としても姉のそんな姿が知れ渡るのは絶対に避けたいはずだ。 「もう……はい、これで大丈夫です。じゃ、気をつけて行ってらっしゃい。私も後で行きますから。あ、お弁当は後で」 「おう!」 早苗の慣れた手つきに制服を整えてもらった布都は、先ほどよりは落ち着いて、しかし慌てていることに変わりは無く、玄関を勢いよく飛び出して学校へ向かったのであった。 「――遅いぞ、物部」 自宅の玄関を飛び出した勢いそのままに教室に飛び込んだ布都を待っていたのは、同じく今日の日直である、クラスメイトで友人の蘇我屠自古(そがとじこ)だった。 「はぁ、はぁ……すまんすまん、今日が日直だというのをすっかり忘れておった。危うく二度寝するところであったわ」 「やれやれ……」 屠自古は、大きく息を荒げて遅刻の原因を説明する布都を眺めながら溜息をついた。 「まあ、ある程度は掃除も終わってる。まずはその二度寝した頭をしゃきっとさせてきなさい」 「いや、二度寝はしていないぞ? しそうにはなったがな」 「……気付かないうちに二度寝したから、妹さんに制服整えてもらうほど慌てていたんでしょうが」 屠自古の呆れた口調に、布都は目を丸くした。 「よく分かったな?」 「物部が自分で制服を着た時と妹さんが整えた時では、リボンの結び方が違う」 屠自古は「そんなことはいいから顔洗ってきなさい」と告げて、箒を手に取った。 それを見た布都は、急いで水飲み場に向かう。 友人が一人で掃除を始めてくれていたんだ、早く洗面を済ませて手伝わねば。 「よーし!」 布都は張り切って冷たい水で顔を覆った。 私立東方学園。 中高一貫の規模の大きな私立学園。 物部布都はその高等部に通う学生であり、現在二年生である。 由緒ある神社の跡継ぎ娘として産まれ育ってきたためか勉学熱心で、学校の成績は五教科満遍なくトップクラスという才女である。強いて言うなら、数学が多少苦手なくらいか。 その反面、少し浮世離れしており、周りを置いてけぼりにして深読みをしすぎることがある。 しかし、根は素直で真面目な少女だ。 環境や趣味のせいか少々時代がかった物言いが特徴で、周りからは奇異の視線を向けられることもあるが、本人は気に入っているようでそのまま通している。 何かと真っ直ぐ且つ天真爛漫な性格で、トレードマークであるくせっ毛のポニーテールを揺らしながら高等部と中等部を駆けずり回る姿は、一部では学園の名物にもなっていた。 因みに本人的には策略家のつもりだが、どちらかといえば知らず知らずのうちに他人を自分のペースに巻き込むタイプである。他人が興味を抱きやすいタイプの人間であると言えよう。 そんな彼女は、今日も元気に中等部校舎の廊下を走っていた。途中、中等部の教師に咎められ、謝りつつも、布都はそのまま一目散に目的地に向かって駆け抜ける。 高等部二年の彼女が中等部の校舎を走り回っているのにはわけがあった。 ガラッ 「――早苗ー! 弁当をもらいにきたぞー!」 勢いよく教室の扉を開けた布都は、楽しそうに妹の名前を呼んだ。 「もう、そんな大声出さなくても聞こえてますよ」 早苗は少々呆れながら、自分の鞄から二つの弁当箱を取り出した。 布都の妹・早苗は、同じ学園の中等部所属で、現在三年生。 丁寧そうな口調とは裏腹に、姉に似て活発で社交的である。 次女な為か、跡継ぎとして育った姉とは違って、ごく一般的な立ち振る舞いの少女である。 が、本人的にはそれが些か物足りないらしく、時折突飛な行動を取ることがある。布都にとってはそれが心配の種でもあり、妹の可愛いところでもあった。 勉強は中の下といったところで、あまり成績がよいほうではないが、布都からよく勉強を教えてもらっている。 反面、家事には堪能で、いつも自分と姉の弁当を作っており、今日は布都が日直のために早出したので、後から取りに来たというわけだ。 「おお、いつもいつも感謝するぞ」 ニコニコしながら、布都は自分の弁当箱を受け取る。 そんな姉を見て、早苗は苦笑しながら提案した。 「どうせだからここで食べていきます?」 「うむ、そうだな。たまには妹と一緒に食べるのも悪くない」 早苗の誘いに、布都は上機嫌なまま頷いた。注意を受ける可能性はあるが、今から戻るのも面倒なのである。 早苗が上機嫌な布都のために手近な椅子を借り、二人は早苗の机でそれぞれの弁当箱を開いた。 「――うむ、やはりいつ食べても美味い。早苗はいい嫁になれるぞ」 一口食べるなり、布都は妹を絶賛する。まあ、これもいつものことではあるが、早苗の方も嬉しそうに聞いていた。 「お姉ちゃんがおいしそうに食べてくれるから、私も作りがいがあります」 「うむ、美味い物は美味いというのが正しい事だと、我は思っているからな」 言いながら、布都はものすごい勢いで弁当をかきこむ。 「――むぐっ!? げほげほげほ!」 そして、案の定むせる。 「だ、大丈夫ですか、お姉ちゃん。はい、お茶」 慌てて早苗の差し出すお茶を受け取って一気に飲んだ。 「――ふう。助かった」 「もう。お腹空いたのは分かりましたから、もっと落ち着いて食べてくださいよ」 「すまんすまん」 息を整えた布都はあまり悪びれずに謝った。 布都は細身な身体に似合わずかなりの健啖家で、さほど大食らいというわけではないが、ちょくちょく何か食べている姿が目撃されている。 にもかかわらずその細身の体型を維持しているのは、早苗や友人の屠自古から見れば垂涎の的であった。 しかし本人としては、些か小柄なため、早苗と身長差が無い(どころか、もしかしたら早苗の方が高いかもしれない)ことを気にしている。そして、発育は完全に負けている辺りは凹む要素である。 とはいえ、二人ともお互いのことが好きな仲の良い姉妹であった。 キーンコーンカーンコーン 放課後。 「ん〜〜〜〜っ。さて、帰るかな」 布都は身体を伸ばして席から立ち上がった。 今日は特に予定も無い。真っ直ぐ帰って予習と復習でもやろう。 そう決めた布都が鞄を掴んで教室から出て行こうとすると、 「物部」 屠自古に呼び止められた。 「なんだ?」 「客だぞ」 「客?」 怪訝そうに屠自古が示す方を見ると、教室の入口に長身でショートカットの女子生徒が立っていた。 布都が近づくと、相手も気付いたように視線を合わせる。 「む、お主は確か……」 「はい、寅丸星です」 女子生徒――寅丸星はペコリと姿勢よく頭を下げた。 寅丸星。確か隣のクラスの委員長だったか。成績上位者として名前を見たことがある。あまり面識は無いが、いつも布都とは成績で接戦を繰り広げている仲だ。 他方、スポーツも万能で背も高く、小柄な布都とは頭一つ分ほど違う。 布都は見上げるようにして星を見た。 「我に何か用か?」 「はい、一つお聞きしたいことがありまして」 「ほほう」 礼儀正しく用件を伝える星に、布都は面白そうに口端を持ち上げた。 「高等部の智嚢たる我の評判を聞きつけてきたのだな。よしよし、何でも答えてやるぞ」 そして「ふふん」と笑いながら先を促す。 「え? え、ええ、まあ、評判……と言えば評判なのですが……」 そんな布都をみた星は、困惑して口を止めてしまった。 が、どうも布都はそのことに気付かないようで、上機嫌に星を見る。……こういうところは悪い癖だ。 見かねた屠自古が星の助け舟を出した。 「こら、物部。寅丸さんが困ってるだろう。ちゃんと用件を聞きなさいよ。……申し訳ないわね。この子、すぐ調子に乗っちゃうから」 「い、いえ、そんなことは……」 星は頭を振って布都を庇った。どうやら精悍そうな外見に比べて、内面は大人しいようだ。 「むむ、それは聞き捨てならんな、屠自古。我のどこが調子に乗っているというのだ?」 布都は流石に心外である、と口を尖らせるが、屠自古はそれに返すほど目的を見失ってはいない。 「はいはい、口ゲンカなら後でやってやんよ。それより今はお客さんの相手をしなさい」 「む、そうだな。すまぬ、寅丸。屠自古が余計なことを言ったようで」 「どっちがだ!」 が、今のは聞き捨てならなかったようで、ものの見事に乗った。 「え、ええと……あ、そうそう、用件なのですが……」 埒が明かないと見たのか、星は困惑しながらも、恐る恐るといった感じで用件を切り出した。 終わってみれば何のことは無く、星は単に「実家の寺に置く庭石を探すのにいい場所はありませんか?」と聞きにきただけであった。なんでも、寺の敷地内に日本庭園があるらしい。 布都は拍子抜けしたが、それならそれで庭石屋に顔が利く。快く知り合いの庭石屋まで連れて行って紹介すると、星は嬉しそうに感謝していた。 「――しかし、物部」 「ん?」 星と別れた後、ついてきた屠自古はそのまま切り出した。 「よく庭石屋なんて知り合いに居たわね」 「まあ、古い家だからな、そういう文化的な付き合いも多いのだ。父も母も遠くに住んでいるから、こちらでのそういう付き合いは我がやっておかねばならん」 「ふ〜ん。物部のそういうところは素直に偉いと思うわ」 屠自古の賞賛に布都はふふん、と得意気に鼻を鳴らす。 どこか惚けた印象のある布都だが、そういった家のことを妹任せにせず進んでやっている責任感の強さは、立派な長所である。 だが、賞賛した屠自古に対し、布都は怪訝そうに話を続ける。 「しかし屠自古、お主の家も古いはずだが」 「私はそんな立場じゃないし、物部みたいな跡継ぎとかじゃないもん。何かに縛られるのは真っ平ごめんだわ」 「そうかもしれんがなぁ」 布都はもったいなさそうに友人を眺めた。いや、実際、もったいないと感じていた。 家のことでやることはたくさんあったが、それらは結構楽しかったりするのだ。神職の家に産まれるべくして産まれたと言ってもいいくらいに布都は精力的に駆けずり回っている。とても高校生とは思えないくらいに。 布都は、屠自古もそういう楽しみを感じられると思うのだが、と思ったが、当の屠自古はあまりそういう方面には関心が無いようだった。 「布都はそういう如才なさに加えて、勉強も出来るんだからなー、こっちが羨ましくなるわ」 屠自古は「はー」と溜息をつきながら布都を見やる。が、布都はきょとんとして、続いて軽くジト目になりながら反論した。 「そうか? 我としてはお主のスタイルのよさが羨ましいのだが」 実際、屠自古のスタイルは高校生としてはかなり良い方に入ると思われる。先ほどの寅丸星は、運動にも優れているためか均整の取れた、それでいて美しいと表現できる体躯をしていたが、屠自古の体躯は寧ろ女性的で、同性から見ても綺麗な体だと思う。 小柄でどちらかと言えば子供っぽい体型の布都にとっては、実に羨ましい限りであった。 「ええい、そんなトコ見てるんじゃない!///」 布都の言葉に赤くなる屠自古だが、その布都はあまり悪びれずに続けた。 「良いではないか、減るもんでもあるまいに。はー、妹にすら負けてしまう体型なのはちょっとなぁ……凹んでしまうわ」 (妹さんは、中学生にしてはかなり発育がいいほうだからな……) 屠自古の呟きには気付かず、布都はがっくりと肩を落すのであった。 一方、噂の早苗である。 こちらはまだ学校に居た。 「う〜ん……」 教室で頭を抱えながら問題を解いている。要は居残りであった。現国の成績が芳しくないので、残って問題を解いていたのである。 「全然わかりません……」 何が難しいって、早苗は国語が大の苦手なのだ。特に漢字が。 早苗はかろうじて数学がそれなりに取れる程度で、特に文系科目は全滅なのが常だった。 布都などはそれに関して「物部家の次女ともあろう者が……」なんて渋い顔をしていたが、それはそれ、これはこれ、である。それに布都もそこまで口うるさく言うわけではないし、怒ったことも一度も無い。単なる言い回しの話だろう。 「お姉ちゃんが居れば簡単なんだろうけどなぁ……」 まあ、姉は呆れつつもしっかりと勉強を教えてくれていたので、かろうじて文系の成績は平均弱まで押し上げられている。が、どうも一人で解くと上手く行かないようだ。 「ふー、お姉ちゃんに聞こうかなぁ……」 早苗は窓の外を眺めた。もう既に日が落ちかけている。きっと布都も帰路についている頃だろう。 別に居残りと言っても強制では無いので、そこまで居座る必要はなかったのだが、やはり何も出来ないままというのは悔しかったのだ。 しかし居るだけでは何の解決にもならないのであった。問題的にも状況的にも。 「う〜ん」 「――あれ、物部さん?」 早苗が帰ろうかまだやろうか迷っていると、教室のドアからクラスメイトの魂魄妖夢がひょっこり顔を出していた。 早苗は怪訝そうに妖夢を見る。 「あ、ようちゃん。どうしたんですか?」 「うん、部活が終わったから帰ろうと思ったんだけど、ちょっと忘れ物があって。物部さんこそどうしたの? もう下校時間だよ?」 「う〜ん、それがですね……」 早苗はかいつまんで説明した。 「というわけで、帰ろうかどうしようか迷ってたとこですよ」 「そうなんだ。……ちょっと見せてくれる?」 妖夢は早苗から問題を見せてもらうと、「ふむふむ」と目を通している。 「ようちゃん、助けてください〜」 妖夢が問題集を見ている最中、早苗は情けない声で助けを求めた。 「う〜ん、漢字くらいなら手伝えるけど、私もそれ以外は成績がいいわけじゃないからなぁ……」 「それでいいですから〜」 渋る妖夢だが、早苗としてはどれか一つできるだけでもありがたい話なのだ。是非、手助けを請いたいものである。 すがりつく早苗を見た妖夢は、ふぅ、と溜息をついた。 「しょうがないなぁ。手伝ってあげるわ」 「ありがとう!」 早苗はクラスメイトに深く深く感謝するのであった。 「――まあ、こんなものかな」 二人は暫く勉強した後、適当なところで切り上げた。 「助かりましたよ、ようちゃん。お返しに、今度何かお菓子を作ってあげます」 「それはありがたいわね。物部さん、料理上手いし」 何かと多忙な姉に変わって家事を一手に引き受けている早苗は、家事の腕にはそれなりの自負があった。尤も、それでよく勉強を疎かにしてしまっているのだが。 さて、その家事の腕を存分に振るう時間はこれからだ。早く帰って姉のためにご飯を作ってあげねば。 そう決意した早苗は席を立った。 「ようちゃん、本当にありがとう」 「気にしないで。私もいい勉強になったし。じゃあ帰ろう?」 「そうですね」 二人はどちらから言うでもなく、一緒に帰る事にした。 校舎を出て暫く歩いたところで、妖夢が切り出した。 「そういえば、物部さんのお姉さんって凄く頭いいのよね」 「そうです。こないだのテストなんて、学年順位が一桁でした」 早苗は「ふふん」と得意気になりながら、我が事のように誇る。 彼女が布都のことを褒められると得意気になるのはよくある光景だが、見る人には悪い印象を与えず、寧ろお姉ちゃんっ子の印象を与えている。そういったところは、早苗の人徳と言うか、得なところであった。 妖夢もご多分に漏れず、早苗に対してそういうイメージを持ったようだ。 「物部さん、お姉さんが大好きなのね」 「ええ、自慢のお姉ちゃんです。勉強は出来るし、優しいし、可愛いし」 「……お姉さんなのに可愛いの?」 「はい!」 妖夢のなんともいえないような表情にも、早苗は屈託なく答えた。実際、小柄な体躯も相俟って、早苗にとっては頼りになる姉でありつつも、何か小動物のような印象を受けていた。もちろん軽んじているのではなく、特にご飯の時に頼ってきてくれるのが嬉しいからなのだが。 「それに、仕事してるときの横顔とかカッコいいんですよー」 「仕事? アルバイトでもしてるの?」 「いえ、ウチは神社の家系なのでそっちの仕事です。お父さんとお母さんは離れて暮らしてるので、そういう切り盛りはお姉ちゃんがやってるんですよ」 「へぇ〜」 その家業の切り盛りに加えて、自らの成績はトップクラス、さらに妹の勉強も見ているとあれば、自身が勉強は苦手と言うことを差し引いても、早苗が尊敬するのも無理はなかった。 何より、中学生で親元を離れているのは流石に早すぎたのだろう。本人が気付いているかいないかはともかくとしても、布都を慕うのは早苗の寂しさの裏返しでもあった。 しかし甘えているだけでは満足しなかった早苗は、姉のそばにいたい、姉の力になりたい、そう思ったが故に、せめて家事だけは人一倍の腕になろうと決心して今がある。そしてそれはなかなかに達成されている目標だった。早苗が同級生から羨ましがられる点はそこにある。 才女の姉、家庭的な妹。 姉妹の評判はそういった辺りだろうか。 加えて早苗は顔が広く、仲間内での話でも姉の長所をよく話題に出すので、布都はそれなりに有名人でもあった。 現在、横に居る妖夢も十分に感化されたらしく、同級生から『凛々しい瞳』と称される目で早苗に笑顔を向ける。 「立派なお姉さんね。私もそんなお姉さんなら欲しいわ」 「おーっと、いくらようちゃんの頼みでも、お姉ちゃんはあげられませんよ」 とは言いつつも、姉を評価されたことはまんざらでもないのか、早苗はにこやかに妖夢に向き直った。 その「えへん」とした仕草がおかしかったのか、妖夢は大きく笑った。 「あはは、そこまでは言わないわよ。ところで、仕事以外にお姉さんって普段何やってるの?」 「そうですね……。予習復習とか、私の勉強を見てくれたり、友達とどっか行ったりしてますね。たまに私の気付かないうちにどこか行って、知らない間に帰ってきてたりしますけど」 早苗は顎に指を当てて妖夢の質問に丁寧に答えた。 実際、布都はいつの間にか行方をくらましていることがある。勉強部屋に篭っているかと思いきや、お茶を持っていけば既に部屋にいなかったり、休日に朝早くから出かけてたと思いきや、昼ごろには既に二階で本を読んでたりしている。 その空白の時間帯に何をやっているかは早苗もよく分からない。 一度聞いてみた事はあるが、「なに、野暮用だ」と言われてはぐらかされてしまった。 「なんか気になる話だね」 「そうですねぇ」 妖夢の言うとおり、確かに気にはなっていた。が、しかしあの優等生の姉のことだ。危ない真似はするまい。 「まあ、ミステリアスなお姉ちゃんも、それはそれでいいと思いますけどね。不思議のある人はカッコいいものです」 「物部さんらしいね」 能天気な発言で妖夢を苦笑させた早苗は、少し引っかかるものを覚えつつも、我が家へと帰る道を辿っていった。 「じゃあな、物部」 「おう!」 布都は屠自古と別れると、一人帰路に着いた。 後は自分の家まで十数分だ。早苗は帰っているだろうか、今日のご飯はなんだろうか、今日はどこまで復習をやろうか、などと考えつつ、一人で歩く……前に歩みを止めた。 「……さて、我と屠自古の後、いや、我の後をつけてきたのは、何か用向きがあってのことか?」 「!」 布都はゆっくりと振り向く。 その視線の先には、今しがた屠自古と別れた交差点の一つ前の交差点の角に立っている、一人の女子学生が居た。 制服から察するに同じ学園の生徒、スカーフの色から察するに、布都の一年後輩……一年生と見える。 布都が振り向いた姿勢のまま歩みを進め、屠自古と別れた交差点まで戻ると、相手も恐る恐る歩を進め、同じ交差点までやってきた。 既に屠自古の姿は無い。あまり時間はたっていないが、早々に曲がり角を曲がったようだ。 布都はそれを確認すると、ためらいなく口を開いた 「何を隠れていたのか知らんが、今、ここには我とお主しかおらん。何か用があるなら遠慮なく申してみよ」 「……」 女子生徒は髪を左右に揺らしながら布都に近づく。心なしか表情は深刻で、何かに困っているように見受けられた。 女子生徒は布都の目の前に立った。 布都より少し長身で、ストレートのロングヘアが特徴の紅い目をした少女だ。 「あの……物部布都先輩でしょうか?」 「いかにも。我が高等部二年の物部布都である」 確認のために恐る恐る問うた女子生徒に対し、布都は小柄な身体で鷹揚に頷く。体躯とは裏腹に、その仕草は大きさを感じさせるものだった。 「申遅れました……私は因幡鈴仙と言います」 ロングヘアの女子生徒は、深々と頭を下げながら自己紹介をした。 布都は因幡鈴仙という名には聞き覚えが無かったが、どうやら向こうは布都の事を知っているようだ。 布都は記憶の糸を手繰り寄せた。 「ふむ……因幡、因幡……そういえば、我の同級生に因幡てゐという者がいるが、その縁者か?」 「は、はい、てゐは私の従姉です」 首肯する鈴仙を見て、布都は再び頭をめぐらせる。さて、そうなると用件はいくつかに絞られる。 布都は鈴仙に向かって口を開いた。 「ふむ、では用件は、その因幡さん関連か?」 「い、いえ、てゐのことではなく、私の友人のことで……」 どもってはいるが、鈴仙は明確に否定した。 布都は更に質問を重ねる。 「では、我に聞きたいことでもあったか?」 「聞きたい事、といいますか……」 今度は歯切れが悪い。先ほどの寅丸星と同じ用件であればここまで歯切れが悪くなることはあるまい。性格の違いによるものかもしれないが、それはさておいても、明確に布都に用件を告げに来た星とは違い、鈴仙は言い出すことを躊躇っているように見受けられた。恐らく「言っていいものだろうか」という躊躇いを。 と、なると、自身が尾行されていた理由は恐らく一つ―― 「……どんな相手であっても、表立っては言えないようなこと、だな?」 「!」 布都の言葉に鈴仙の身が硬直する。 「お主と我は初対面だ。いきなり通常の頼みごとをしたりされたりする仲ではない。加えて、お主は我を知ってはいても、その容姿までは確信していなかった。更に、我が誰かと一緒にいるととても言えるような事ではなく、、且つ喩えその状況が解消されても、尚、言い出しづらい用件……」 布都はそこで一旦言葉を区切る。 鈴仙は目を見開き、怯えるように布都を見ている。 そのような反応は、これまで初対面の相手に幾度と無く見ている。……最早疑いようは無かった。 「よかろう、お主の依頼、確と引き受けた」 布都は、鈴仙の言葉を待たずにそういった。 「……せ、先輩は、私が何を依頼に来たか、わかっているというのですか……?」 「我を誰だと思っておる。我がやっていることなど、そう多くは無い。それ以外の可能性が無くなったからこそ、それしか考えられなかっただけだ。そしてお主は、我のそういった意味での評判を聞きつけたからこそ、我に依頼にきたのであろう?」 よどみない布都の言葉に、鈴仙は些か震えながら頷く。 「では、依頼書を見せてほしい。いくら我でも仔細を知らなければ動けない」 「……わかりました」 布都の凛とした言葉に多少の安心感を抱いたのか、鈴仙は持っていた鞄から、丁寧に織り込まれた一枚の紙を取り出し、そのまま布都に手渡した。 布都はその場で紙を開き、さっと目を通して書かれた内容を読むと、そのまま目を閉じた。 「仔細、よく分かった。我に任せよ」 「お、お願いします……」 鈴仙は震えながらも深々と頭を下げる。先ほどより幾分かマシになったとはいえ、その姿はいまだ不安に包まれていた。 それを見た布都は、鈴仙を宥めるように、穏やかな口調で続ける。 「心配するな、お主の友はきちんと助けよう。なに、今までにもよくあったこと……さあ、あまり長話をしていると、後々に詮索を受けるぞ。日も暮れるし、帰りなさい」 「は、はい」 鈴仙は最後にもう一度深々と頭を下げると、踵を返して布都と屠自古が歩いてきた道を戻っていった。 「ふむ……」 布都は顎に手を当ててもう一度文書を確認すると、丁寧に紙を折り込み、鞄の中へとしまって帰路についた。 「ただいま帰りましたー」 そろそろ夜になろうかという頃、布都が自室で本を読んでいると、早苗の元気な声が聞こえてきた。どうやらようやく帰ってきたようだ。 布都は読んでいた本を閉じると、トントンと音を立てて階段を降り、早苗を出迎えた。 「お帰り、早苗。買い物にしては遅かったな?」 「ちょっと買い物の前に居残りしてまして……」 「居残り? また国語ではまっておったのか」 「う〜」 布都の呆れ声に早苗はがっくりと落ち込んだ。布都は「やっぱりか」と呟くと、一歩踏み出して早苗の頭を撫でた。 「お主は勉強の仕方が巧くいっていないだけだ。現に、我が見ているときはきちんと出来ておるだろう。やれば出来る、ではなく、現に出来ておるのだ。そう落ち込むな」 「えへへ……ありがとうございます、お姉ちゃん」 布都に頭を撫でられた早苗は、はにかみながら礼を述べた。 布都は「しょうのないやつだ」と苦笑しながら、妹の手を取って玄関に上げる。こうしている時は、布都はきちんとした姉であった。 が、 「じゃあ、ご飯作っちゃいますね。お姉ちゃんもお腹空いてるでしょう?」 「おお、無論だ!」 立場一転、廊下にあがった早苗に代わり、今度は布都が満面の笑みを浮かべた。 実際、毎日勉強やら読書やらでエネルギーを使っているので空腹である。布都が健啖家であるのはそういったことも理由の一つであるのかもしれなかった。 だが、布都は家事が苦手である。強いて言うなら、整理整頓が得意なぐらいだろうか。 故に早苗が家事に堪能になったのである。炊事、洗濯といった家事は早苗任せだ。 布都があまり文句を言わずに早苗の勉強をよく見ているのも、そこに原因があった。自分の代わりに家事をやってもらっている以上、布都もあまり口うるさくしたくないのである。 まあ、それでなくとも、布都は早苗の作るご飯が好きという事もあるが。 「今日の夕食は何だ?」 「お姉ちゃんの好きなホワイトシチューですよ」 「おお! 楽しみだなぁ」 早苗のにっこりとした表情に、布都は子供のようにきらきらした瞳で応じるのだった。 早苗が『可愛い姉』と評するのはこういうところに理由があるのだと、布都は知るよしも無かったが。 ――布都はよく深夜まで起きている。その理由は読書だったり仕事だったり勉強だったりするが、いずれにしても没頭している。 早苗もそれは承知していて、出来るだけ布都の邪魔にはならないように気を遣っている。それ故、夕食後はあまり布都の部屋にはやってこなかった。 ただ、早苗が夜にあまり布都の部屋に来ないのは、普段から賑やかで、昼間に散々エネルギーを消費して夜はさっさと寝てしまうという、現代っ子にしては珍しく健康的な生活を送っているせいもあるが。 そして、早苗の発育がいいのはその為かもしれなかった。 そう考えると、布都は少し複雑な気持ちになる。 「ううむ、何も無ければ我も早寝したほうがいいのかも知れんな……」 とは言いつつも、何も無ければ読書で夜更かししてしまうのがいつもの布都である。そして朝は寝坊している。というより早苗に起こされている。 そんな生活が気に入ってしまっているのは問題かもしれなかった。 ちらり、と自室の扉に視線を向ける。 その先には、向かい合わせになるように早苗の部屋がある。 ――30分ほど前に寝る挨拶に来たから、既に早苗は寝入っている頃であろう。 キイ、と小さな音を出して扉を開けた布都は、眼前にある『さなえのへや』と木製のプレートがかかった扉を、今度は音を立てないように開ける。 「すー……すー……」 やはり早苗は眠っていた。規則正しい寝息が聞こえてくる。 布都は無言でベッドに近づくと、早苗を静かに見下ろした。 「すっかり成長したが……、寝顔はまだまだ子供だな」 ふう、と息を吐きながら苦笑いを浮かべた布都は、そのまま踵を返して、音を立てずに早苗の部屋を出た。 そして再び自分の部屋に篭る。今日はやらなければならないことがあるのだ。今からその準備をしなければならない。 ――夕方出会った少女、因幡鈴仙からの依頼をこなすために。 夜も更けた道を歩きながら、布都は独り呟いた。 「あいもかわらず、嫌な温さだな……」 気温が高いわけではない。身体にまとわりつく空気が妙にべたつく感じがする。その不快感を生み出す源は、服装ではなかった。 ――布都は神職の服装をしていた。 それも女性用の水干ではなく、男性用の烏帽子を整えた狩衣であった。 月夜の下、袖を翻しながら歩く布都は、正に纏う空気からして神職そのもの。神聖な少女、物部布都の姿がそこにはある。 しかし、着ている本人は外見ほど達観してはいなかった。 「外見も重要とはいえ……」 独りぼやく。 この格好で移動するとき、誰かに見られてやしないかといつもヒヤヒヤしている。何せ昼間でも目立つのに、夜中に男性神職の常装で歩いているところなど見つかったら、怪しまれるどころではない。そもそもこんな時間に歩いていれば、どんな服装であろうと、警察に見つかったら即補導されるだろう。 尤も、幸いにして一度も見つかったことは無いが。 布都が辺りを警戒しながらぶつぶつ言っていると、どこからともなく声が聞こえた。 「――そうぼやくでないよ、主様」 声の主は、飄々とした口調で布都を諭す。 「燐……」 虚空から聞こえた声にも怯むことなく、布都はただそのまま応じる。 「我はお主のように姿を変えられるわけではないからな。自ずと警戒もするよ」 「やっぱり、人間ってのは不便だねぇ」 布都が被っていた烏帽子を取ると、中には一匹の猫が潜んでいた。 猫は「にゃーん」と一声鳴くと布都の頭からジャンプし、アスファルトの上に降り立つ。 「……で、今回の件はどんなのなんだい?」 そしてそのまま言葉を発する。 人語を話す猫。普通であればありえない光景。しかし、布都はそんな光景を見ても構わずそのまま歩き続けた。 「……端的に言えば、『友が何かに取り憑かれた故、助けてほしい』とのことだろう。彼女はそこまで認識してはいないだろうが、な」 「ふーん……」 猫――燐は返事をした後、布都の後に続いて歩き出す。傍目には、どうにも違和感のある、猫の散歩という状況だった。 ――因幡鈴仙の依頼書には、纏めるとこう書かれていた。 『友人である十六夜咲夜が、原因不明の病に侵されている。ところが病院に行っても全く解決しないし、症状もよく分からない。しかし、途方に暮れていたとある夜中のこと、彼女を外で見かけた。声をかけようかとも思ったが、その目と顔は何か獣じみていて、恐ろしくなり逃げ帰ってしまった。漠然としていて申し訳ないが、あれは尋常ではないことのように思える。他の友人に言うのも憚られる為、どうか力を貸してほしい』 ……布都の一通りの説明を聞き終えると、燐は再び「にゃーん」と鳴くと、先ほどより幾分か真面目な声音で続ける。 「なるほどねぇ。ま、よくあることってことだ」 「よくあっても困るのだがな……」 燐の言葉に布都は頭を振った。 「まあ、ねぇ。こんな世の中に、そんな『非科学的』なことが起こっちゃあ、主様たちとしてはねぇ」 燐はけらけらと笑いながら面白そうに続けた。 布都は燐の言葉に応えない。実際、よくあっては困ることなのだが、こういうことは以前にも何度かあったことだ。だからこそ、鈴仙にもそう言って帰したのである。 「……獣のことに関しては、お主のほうが感知し易いであろう。どうだ、何か分かるか?」 「今のところは無いねぇ。とりあえず、目撃情報のあったところから探してみてはどうだい、主様」 燐の提案に布都は頷いた。 元々、鈴仙が友人を目撃した場所から調査を開始しようと思っていたところだ。 布都は燐を連れ立ってその場所へと向かった。 そして十数分ほど歩いた頃だろうか。 「……ここだな」 「うん、ここまで来ればさすがに感知できるねぇ……って、言うまでも無いか」 燐の視線の先、そして布都の視線の先にはパジャマ姿の一人の少女がいた。少し癖のある銀髪に高めの身長。依頼書に同封されていた写真とも合致する。彼女が恐らく鈴仙の友人、十六夜咲夜だろう。 「話し合いで解決できれば、とも思ったが」 「どうも、そういう雰囲気じゃ無さそうだね……!」 燐は毛を逆立てるようにして十六夜咲夜を威嚇している。 ――あの時、鈴仙は逃げて正解だっただろう。今の彼女に他人、いや人間の区別はつくまい。 「……!」 咲夜の目は赤く燃え上がり、素人目にも殺気が溢れている。その目はまるで獲物を狙う獣のようで、お世辞にも友好的とは言いがたかった。 燐はそんな人間離れした少女を前に、布都に向かって不平を漏らす。 「主様。『狗』の憑き物に『猫』のあたいを呼び出すなんて、ちょっと人が悪いんじゃないのかい」 「諦めよ、我とてそこまでの詳細は把握しておらぬ」 燐は今にも飛び掛らんとする体勢をとり、布都は袖から札を取り出す。 「……」 咲夜がゆっくりとこちらを向く。 見開いた目をこちらに向け、今にもこちらに襲い掛かろうと――いや、燐と同じく飛び掛らんとする体勢をとっていた。 正に獣、そして『狗』というよりは『狼』であった。 「燐、どう見る?」 「身体能力は主様よりずっと上、あたいとは同等、ってとこかね。ただ、相手が『狗』ってことであたいは相性が良くない。……というか、あの子本当に人間かね? 『狗』の方は引っぺがせりゃ主様の敵じゃないだろう。だが、あの子に取り憑いてるせいで大幅に強化されてるんだが」 燐の分析に、布都は溜息で応じる。 「それほどまでに彼女と相性が良かったというのもあるのだろう。その怨み、かなり深いと見た……まあ、犬神などという法に晒されれば、それは怨みも深くなろうが」 布都は札を持ったまま低く身構える。 その優れた身体能力が十六夜咲夜の元からのものかどうかは知らないが、『狗』に憑かれた彼女の常人をはるかに越えている。重ねて思うが、よほど彼女の身体が適合したのであろう。 そして、常人よりは場数に優れている、というレベルの布都より遥かに上であることは言うまでもなかった。 まともにぶつかりあっては勝てるわけが無い。まずはあの『狗』を引き剥がさねばならなかった。 だが布都は落ち着いている。このようなことは初めてではない。寧ろ相手に勝るのはこの場数……。仮に憑き物が何度目かの寄り代であろうとも、十六夜咲夜に憑いてからは日が浅い。十分に付け入る隙はあった――いや、十二分の勝機があった。 「燐、言うまでも無いが、剥がせれば確実に我らの勝ちだ。それまではお主の力が頼りとなる。任せたぞ」 「あいよ、主様」 「――来るぞ!」 バッ 布都の声とともに、二人は横っ飛びに別れて跳んだ。 ブンッ! それと同時に、十六夜咲夜の右腕が布都と燐のいた位置に振り下ろされる。 ガツンッ 咲夜の腕がアスファルトに叩きつけられると同時に、アスファルトにヒビが入る。人体に叩きつけられれば骨折は避けられまい。あの細腕から良くもそんな膂力が発揮されるものだ。 だが、それ以外にも布都には振り下ろされた右手に『爪』が見えていた。改めて見直してみても咲夜の腕は普通の少女のもの。しかし、振り下ろされた瞬間に鋭利な爪が煌くのが見えた。腕力も恐ろしいが、その切れ味も恐ろしいものであると推察できる。 獣の爪。そう形容するのがしっくりくる爪だった。 「まともに食らいたくは無いものだが……」 そう呟く布都に、容赦なく咲夜は飛び掛ってくる。どうやら、『狗』は布都の方に狙いを定めたようだった。 「ええい!」 咲夜の横薙ぎに払った腕を、今度は大きくバックステップしてかわす。 ハラリ しかし完全にはかわせなかったようで、布都の服の腹部辺りに切れ込みが入る。 「くっ、また繕わなければならぬでは無いか!」 喫緊の状況に似合わぬ布都のぼやきにも容赦せず、咲夜はそのまま、今度は左腕を振りかざして布都に襲い掛かる。 「しつこいわ!」 布都は札を持つ手とは逆の手で袖から3枚の平瓮を取り出し、咲夜に向かって投げつけた。 「……」 咲夜は難無く避けるが、一瞬動きを止める。 元々、当てることは布都も狙ってはいない。あれはただの牽制用だ。追撃さえ防げればそれで十分だった。 そして咲夜がもう一度横薙ぎに、今度は布都の顔を狙って腕を振るおうとしたその瞬間、 「――おっと、あたいをお忘れでないよ!」 「!」 燐が横から咲夜に飛び掛る。通常の猫を遥かに越えた膂力に、たまらず咲夜はバランスを崩す。 「燐! くれぐれも傷を付けるでないぞ! 咲夜に傷を付けたらこの依頼は失敗だ!」 「承知の上さぁ!」 燐は布都の叫びに応え、気合を込める。 「――これなら傷は付けなくて済むだろう!」 「!」 咲夜の横から飛び掛った燐は、いつの間にかその姿を変え、赤い髪にみつあみの少女の姿になっていた。歳の頃は早苗や咲夜くらいの、頭に猫の耳を生やした深緑のドレスをきた少女は、その変化した手で咲夜を押さえ込む。 自らに飛び掛ってきた質量が急激に変化したことに耐えられなかったのか、そのまま咲夜は横に倒れこんだ。 ドシン 「許してよね、お姉さん!」 「!」 燐はその変化した人型の腕で咲夜の腕を後ろ手に回し、しっかりと押さえ込む。 「今だよ、主様!」 「ご苦労だった、燐!」 布都は燐の声に応え、今の今まで構えていた札を咲夜の額に貼り込んだ。 「う、うぅぅぅぅ……!」 咲夜が呻く。だが、これで為すべきことは為した。後は最後の仕上げである。 『……!』 咲夜の頭上からなにやら黒い靄が湧き上がる。と、同時に咲夜がぐったりと力を失った。どうやら気絶したようだ。 「燐! 咲夜をつれて一旦下がれ!」 「あいよ、主様!」 布都が指示をすると、燐は咲夜を抱え上げて布都の後ろに下がった。 布都は袖からもう一枚の札を取り出すと、再び指の間に挟んで構える。 これこそが『狗』の本体であろう。ならばこれを片付ければ依頼は完了だ。 靄はふよふよと漂いつつも、布都に向かって迫ってくる。どうやら今度は布都に乗り移ろうとしているようだった。 「憐れなる存在ではあるが……愚かな」 布都はそれを一瞥すると、そのままこちらに向かってくる靄を前に動きを止めた。 布都は静かに目を閉じ、顔の横に札を構える。 靄は変わらず、ゆっくりと布都に向かう。そして布都の頭上にさしかかろうかという、その刹那―― 「我を誰だと思っておる……!」 バシッ! 布都はきっと目を見開き、すれ違いざまに札を靄に向かって叩きつける。 『!?』 札を貼られた靄は金縛りにあったように動きをとめ、そのまま固まるようにして地面に落ち、そして札に飲み込まれた。 背を向けたままその光景を見ることもなく、布都は高らかに告げる。 「――我こそは物部! 我が体躯に流るるは隠然たる鬼(モノ)の血よ! 雑多な霊如きでは我に触れることすら叶わぬ!」 布都のその宣言によって、因幡鈴仙からの依頼は成功に終わった。 依頼書に書いてあった鈴仙の携帯電話に連絡して彼女を呼び出すと、彼女は直ぐに来た。 ぐったりした咲夜を抱えながら何度も頭を下げる鈴仙に必要事項を言い含めて帰すと、布都と燐も帰路につく。 「――時に、主様」 「なんだ?」 そうして暫く歩いたところで、既に猫の姿に戻った燐がおもむろに口を開く。 「前から聞こうと思ってたことなんだけどさ、主様にゃ妹御がいるだろう?」 「ああ、いる」 「こういうことをやってること、あの子には言わなくていいのかい」 ぴたりと歩みを止めた布都に構わず、燐は続ける。 「主様の家は神や鬼とは切っても切れぬ関係……あの子もいずれは知らなきゃならないことだと思うけどね。跡継ぎじゃないからって知らぬ存ぜぬではいられないってことさ」 「……」 布都は再び歩き出す。 確かにそのことはずっと気にはなってはいた。 自分が早苗の歳の頃には、既にこの仕事は行っていた。だが、それは跡継ぎゆえと自らも分かっていた。出来れば早苗を巻き込むことはしたくないと思う姉心もある。 しかし、いずれは話さなければならないのだろう。この仕事のこと、家のこと、燐のこと……そして、布都のことも。 布都は歩きながら燐の言葉に応え始めた。 「だが、今はまだその時では無い。早苗もまだ幼いからな」 「主様とは二歳しか変わらないけどねぇ」 「茶化すな。我とて自らが幼いのは分かっている。だが、我は嫡子だ。父もそれを踏まえて、我には伝えて早苗には伝えていないのであろう……それに、我はまだ、早苗を巻き込みたくは無い」 「ふぅん……」 燐は布都の答えに満足したのだろうか、再び口を開いた。 「ま、あたいは主様がそう言うなら従うだけさ。あたいとしても、その気持ちは分かるしねぇ。……やれやれ、あたいも随分と人間染みたもんだよ、物の怪なのにさ」 燐はそれだけ言うと、「じゃあ、あたいは戻るよ」と告げ、再び烏帽子をどけた布都の頭に飛び乗った。そして布都が烏帽子を被ると、その気配を消す。 「……」 布都はそのまま歩き続ける。 「……そう言ってくれるな、燐」 燐の『物の怪なのにさ』という言葉を心に刻み込みながら、布都は一人呟いて狩衣を翻し、そのまま独り夜道を歩いていった。 明くる日。 「お姉ちゃ〜ん、起きてくださいよ〜。朝ごはんですよ〜」 「う〜む……」 ベッドで寝ていた布都は、早苗に揺り動かされて目が覚めた。 むくりと起き上がると、エプロン姿の早苗が立っている。 「うむ〜。お早う、早苗……」 「お早うございます。もうご飯できてますよ」 布都が起きたのを確認した早苗は、そのまま身を翻して部屋を出る。 「やはり一仕事終えた翌日は眠いのう……」 布都は寝ぼけ眼をこすりながらベッドから降り立つと、早苗の後を追うようにして台所へと向かった。 ――今日は休みである。 流石に布都と言えど起き抜けでいきなり勉強する気などなかったため、朝食を食べた後は居間でのんびりと時代劇を見ていた。 「やはり仕事人シリーズはいいなぁ」 「お姉ちゃんは時代劇大好きですからね。私は仮面ライダーとかのほうが好きですけど」 「早苗は特撮好きだものな。見方を変えればどちらも勧善懲悪ではあるが……っと、最近の特撮はそうでもないのか?」 「そうですねー、最近は、というよりも、結構昔から深いテーマありますよ」 台所で洗い物をしている早苗ととり止めも無い会話をしていると、 ガラガラ 「ごめんくださ〜い」 玄関の戸が開き、声が聞こえてきた。 「あれ、休みの日の朝からお客さんなんて珍しいですね。はーい、どちら様ですかー」 「ああ、待て早苗。我が行こう」 布都は早苗を制すと、居間のソファからぴょこんと跳び降りて玄関へと向かった。 「はいはい、どちら様かな」 「ああ、物部さん、お早うございます」 布都が玄関に顔を出すと、そこに立っていたのは寅丸星だった。横に小柄な女の子を連れ、なにやら小包を持って立っている。 「寅丸? どうしたのだ?」 「朝早くから申し訳ありません。昨日のお礼を、と思いまして」 星はそう言って小包を差し出した。 布都は受け取りつつ、怪訝な表情で応える。 「我は紹介しただけだぞ、そこまでされるようなことはしておらん」 「いいところを紹介していただいたのですから、お礼はしておきたいですし。それに、この子からも勧められましてね」 星は隣にいる小柄な女の子の頭を撫でながらにっこりと笑った。 布都はその小柄な女の子に視線を向ける。少し警戒心の強そうな目つきをしているが、利発そうな女の子である。 布都は、少し昔の自分を見ているような気になった。自分もこのくらいの歳のときには、父や母の陰に隠れていたものだった。 「ふむ、まだ小さいのに立派な心がけだ。では、ありがたくいただくとしよう。その子はお主の妹か?」 「はい、私の妹でナズーリンといいます」 星に紹介されたナズーリンはペコリと頭を下げる。 「そうか、よろしく。おお、そうだ。我も妹を紹介しておこう。――早苗〜、ちょっと来てくれ〜」 「は〜い」 早苗がエプロン姿のまま玄関に現れると、星はポン、と手を打った。 「ああ、貴方が物部さんの妹さんでしたか」 「おや、知っていたのか?」 どうやら星は、早苗の事を姿だけは知っていたようだった。 いったいどこで知ったのか気になったが、その答えはすぐに出た。 「お姉ちゃんのライバルがどんな人か一度見てみたくて……」 「ええ、一度話したことがあるんですよ。あの時は名前も聞きそびれてしまって、誰なんだろうとずっと気になっていたのですが……まさか物部さんの妹さんだったとは」 二人の言葉に布都はカクッとずっこけた。 どうやら早苗は、姉と上位成績で張り合ってる人物を見てみたくなったと見える。本当に、普段は普通なのに、なぜかいきなり突拍子も無いことをやらかす妹である。しかし、そんな早苗を見て笑ってる星も星だ、とも思う。おおらかと言うか天然と言うか……。 呆れている布都をよそに、早苗と星は笑い合っている。どうやら相性はよいようだった。 と、 クイクイ ナズーリンが星の服の裾を引っ張る。 「どうしました、ナズーリン? 時間? ……ああ。これはうっかり話し込んでしまいました。すいません物部さん、私は用事があるのでこれで……」 「む、そうか。すまぬな、もてなしも出来ずに」 「いえ、寧ろ朝早くに押しかけてしまって申し訳ありません。それではまた」 最後に二人してペコリと頭を下げると、寅丸姉妹は仲良く手をつないで帰っていった。 「じゃあ、私も戻りますね、お姉ちゃん」 「うむ」 早苗も一言残して台所に戻る。 「なんとも仲のよさそうな姉妹だったな」 布都は二人の去っていった戸を眺めながらそんなことを呟いた。 自分と早苗も仲はいい方だと思う。だが、あのように二人して出かけることはあまりなかったように感じた。 (少し、気張りすぎていたかもしれんな) 布都は、仕事に勉強、読書と何かとそういうことにばかりかまけていた記憶がある。物部家の長女として恥じぬよう、早苗の姉として恥じぬよう、振舞ってきたつもりだった。 それは間違ってはいなかった、と布都は思っている。しかし、昨日燐に語ったように早苗を気にかけているなら、一緒に出かけたりするのも悪くないと思う。何せたった二人の姉妹なのだ。勉強を見るだけではなく、たまには姉妹二人で外出するのも楽しそうだった。 「――お姉ちゃんと出かけるのも久しぶりですね」 「そうだなー、勉強や仕事ばかりしていたからな」 昼下がりのショッピングモール。 布都と早苗は二人で買い物を楽しんでいた。 「そうですよ、たまには一緒に出かけたりしないと!」 「ははは、悪かった悪かった」 早苗が布都を煽動するように道を歩く。――うん、やはり一緒に出かけて正解だった。 布都が顔を綻ばせる間にも、早苗はあちらこちらを見て周る。 「――あ、あのアクセサリー、お姉ちゃんに似合うんじゃないですか?」 「そ、そうか? 我はそういうことにはとんと疎いからな……」 「もう。だめですよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんも年頃なんですからオシャレしないと!」 「う〜む、そういうものか……」 予想以上に嬉しそうな早苗に気圧されながらも、布都は妹の後ろについて色々と店を回る。 (なあ、燐。確かにお主の言うとおり、早苗にも言わねばならぬのだろう。だが、もう少し妹と遊ぶ時間を楽しんでも、罰は当るまい?) 途中、着せ替え人形ばりにいろんな服を着させられながらも、布都は大事な妹の存在と、自分の楽しみを再確認したのだった。 終