・第一話「イントロダクション」 (1) 「…………」  紅魔館の数少ない窓の、更に少ないカーテンの引かれていない窓から外に浮かぶ月を眺めながら、レミリアは赤い紅茶の香りを楽しむ。その向かいのイスには、分厚い本に目を落としながらコーヒーのカップに手をかけるパチュリーが腰掛けている。 「状況が良くないわ。このまま何もしないで見ているつもり」 「そうね」 「今回で力は五分かそれ以上……早めに手を打たないと、このままじゃ危険だわ」  紅茶に少し口をつけると、さして美味しくもなさそうな表情で口を開く。 「まだ何もしなくてもいいわ。羽を休める場所を用意しておくだけ」 「そう。何もしなくてもいいのね」 「盤も駒もまだ揃ってない。これじゃゲームもできない」 「黒鳥でこっちの戦力が削がれるかもしれないわ。そうなると面倒よ」 「我が血族は失われないわ。黒鳥も、所詮は霊力の高い人間に過ぎないのよ」  発達した犬歯を見せ付けるように口元だけで笑みを浮かべる。 「そうなると、次が現れるまでは約二十年……二人がかりなら何とかなるんじゃないの?」  どこからとも無く取り出した紙の上に、レミリアにも見えるように器用にも逆さまに文字を書く。その様を静かに眺めていると思いきや、ペンが全ての文字を走らす前に、既に答えが決まっていたかのようにレミリアは言葉を発する。 「……面倒だわ」  パチュリーはそれもそうねと呟きながら、レミリアの性格を考えると五十年あったとしても自分から面倒なことに首を突っ込むことはしないだろうと思い直した。 「それに、ダムピールや我が血族にはまだやってもらうことがあるわ」 「保険も切り札も奥の手もこちらにある……事が起こらなければ動く必要がないわね」  本をぱたんと閉じると、カップに残っていたコーヒーを飲み干す。コーヒーが冷めていたのか、思いのほか苦かったのか、パチュリーは顔をしかめながら空になったカップを置いた。 「しばらくはなんとかして暇を潰しているわ……夜の国の復活とか」 「私は図書館にいるから関係ないけど」 「もう朝だわ。ゆっくり寝ようかしら」  飲みかけの紅茶と空になったコーヒーのカップをメイドに下げさせ、レミリアは音も無く立ち上がり、マジカルアワーを過ごすことなく扉の向こうに去っていった。 「……レミィのことだから心配ないけども、牽制はしておいたほうがいいわね」  パチュリーは中空に魔法陣を描き、術式を整え始めた。 (2) 「…………」  紅魔館の数少ない窓の、更に少ないカーテンが引かれていない窓から外に浮かぶ月を眺めながら、レミリアは赤い紅茶の香りを楽しむ。その向かいのイスには、分厚い本に目を落としながらコーヒーのカップに手をかけるパチュリーが腰掛けている。  この前と変らない、パチュリーが紅魔館に来てからずっと続いている丑三つ時のティータイム。変ったことと言えば、レミリアの側に咲夜が静かに佇んでいることくらいだ。  普段のゆったりとした雰囲気ではなく、どことなく空気が張り詰めていることを咲夜は肌で感じ取っていた。 「動き出したわね」 「どうするの、今回は」  レミリアは紅茶を一口飲むと、満足げな笑みを浮かべながら後味を楽しんでいる。咲夜が来てからというもの、紅茶が格段に美味しくなった。昔はあまり飲まずに多く残していたが、最近は飲んでからの就寝が習慣になっている。 「三年と七ヶ月の間、まったく動きを見せなかったのに、今になって活発な動きをみせている。その真意は何かしら」  いぶかしげにコーヒーにミルクを入れる。前までブラック派だったのだが、こちらも咲夜が来てから趣向が変ったようだ。 「動けなかったのか、動かなかったのか。どっちでもいいんだけどね」 「ダムピールと接触した形跡も無ければ、争った痕跡もない。黒鳥に喰われるリスクを負いながら、その存在を隠していた」  パチュリーはカップの中身を少しすすった。特に表情の変化も無く、また本に目を落とす。 「単に見つけられなかったわけじゃないですよね」  ティーポットを温めながら、動作を止めることなく咲夜が二人の会話に口を挟む。 「あれは今までの記憶と匂いを嗅ぎ分ける能力がある。その気になれば三日もかからないわ」 「なら、意図的に隠れていたと推測するのが自然ね」 「状況が変ったかもしれませんね。人間は色々とあれですから」 「運命的に殺しあう二人があれね」  咲夜とパチュリーはお互いに納得したようだが、同じ意味合いで落ち着いたかどうかは疑わしい。 「さぁ……で、咲夜」  運命を操るとされるレミリアは、はぐらかして話を仕切りなおす。 「はい」 「暇を与えるわ」 「……はい」  瀟洒なメイド長とは思えないほどの間の抜けた声が、口から漏れる。それでも、スフレロールを切り分ける手だけは止めない。微妙な表情をしながら皿に盛り付け、パチュリーの前にだけすっと置く。 「あら、美味しそう」 「私も一つ貰おうかしら」 「お嬢様はもうお休みの時間なので、甘いものは控えてください」 「私は夜の王よ、虫歯なんかにはならないわ」 「前のそう言ってなりました」 「む……」  本来、血液が主食のヴァンパイアに虫歯は存在しない。咲夜が来る前でも紅茶とケーキを食べていたが、それは嗜好品ではなく血が入った主食だったので、あまり美味しくは無い。その食事を美味しくしたのが咲夜だった。そのおかげでメイド長に抜擢されたかどうかはまた別の話。 「情報収集させる気ね」  二杯目のコーヒーは濃い目のブラックを注文する。スフレロールの甘さとコーヒーの苦味とのメリハリが好みらしい。 その辺の味覚は人間と同じようで、咲夜は料理に特別な気は使っていない。もちろん、いつも美味しく調理することは心がけている。 「今は断片的なことしか伝わってこないから、対策が立てれないわ」  パチュリーの口元に羨ましげな視線を向け、紅茶をすする。 「確実な情報は少ないわね……敵は中にも外にも外にもいる」 「敵も味方も使いようよ、あくまで相対的に過ぎない」 「まぁ、貴重な情報も取ってくれたけど」 「あの、私が行くんですよね。その割には勝手に話が進んでるような気がするんですけど」 「いいえ、決定よ。咲夜は明日、外の世界に行ってきなさい」  欠伸を一つ挟み、咲夜にカップを片づけるようにと上目遣い目配せした。 「出発は明日の夜中」 「私は人間ですよ、昼の方がいいです」 「寝てる間にいなくなられたら、夜逃げみたいであんまりいい気分じゃないから」 「はぁ、分かりました」 「それじゃ、おやすみ」  咲夜は恭しく頭を下げると、私室に戻るレミリアを視界から消えるまで見送ってから頭を上げた。 「本当にいいの、嫌なら別に私が行くわよ」 「お嬢様の命令ですから」 「ふむ……」 「でも、結界は抜けられるんですか。あのスキマ妖怪の気まぐれ待ちでは」  ちょっと前に紫に会ってきた咲夜だが、どこに住んでるかも分からないし、会うには骨が折れる。 「できないことはないわ。入って来れたんだから、出れないことは無い」 「それはそうですけど」 「貴方も本を読みなさい。色々と書いてあるわよ」 「暇があったら読みますわ」  パチュリーが本を勧めると、レミリアも咲夜も同じ言い訳でかわして、結局は読まずじまいに終わってしまう。主従関係でも似ることもあるらしい。咲夜の場合は本当に忙しいのだろうが、レミリアは絶対に暇な時間があるだろう。 「ごちそうさま。美味しかったわ」  パチュリーは口を拭き、準備準備と呟きながら出て行った。 (3) 今日一日、働くことを止められた咲夜は自室で外の世界へ行くための準備を始めていた。  いつもは掃除をしている時刻なのだが、全て他のメイド達に任せている。仕事をしていないせいか、どことなく落ち着かない様子だ。それに準備といっても、ほとんど手ぶらで幻想郷までやってきた咲夜にとって、準備するものは少ない。代えのナイフと、せいぜい秒針が3本付いた不思議な懐中時計くらいなものだ。  他に持っていけるようなものがあるものかと、部屋中を捜し回ってみたところ、クローゼットの片隅にまるで隠れているかのように古ぼけた財布が転がっていた。中を確かめてみると、紙幣四枚と硬貨が十数枚出てきた。  幻想郷では流通していない、何の価値も無いただの紙切れと金属の塊。あっても、手品のタネくらいか。 「外では必要か……」  何をするにも金が必要な外の世界では、命よりも大切なときもある。 コンコン 「空いてるわ」  扉を叩く音に反応して返事をする。 「失礼するわ」 「あら、パチュリー様」  部下のメイドかと思いきや、ドアから出てきたのはパチュリーだった。少しぞんざいな言葉遣いをしてしまったと、咲夜は気を引き締めなおした。何か急ぎの仕事があるのかと思い、僅かに期待をしている。 「邪魔したかしら?」 「いえ、持っていく物なんて少ないですから、暇を持て余していたところです」 「……あなたがここに来たときも、ほとんど何も持っていなかったわね」 「本当に大切なものは、なかったですから」  『なかったですから』。過去形の表現にパチュリーは眉をひそめながら目を細める。微妙な表情に咲夜は理解に苦しんだが、それくらいで疑問に思うようでは様々な種族が混在している紅魔館では働いてはいられない。 「なくしてから探さないことね」 「ずっと離さないように、戻るんです」 「そうだったわ……そのついでに頼みごといいかしら?」 「できることなら何でもいたしますわ」 「おつかいを頼むわ」 「おつかい、ですか?」  神妙な話をした後で、緊張感の無い頼みごとだ。 「外の世界の本を幾つか見繕ってきてほしいの」 「はい、どのような本がよろしいですか」 「そろそろ月旅行に行こうと思うの」 「あぁ、あれは本気だったのですね」 「えぇ。時代に取り残されるわけにはいかないし」 「分かりました。探しておきます」 「これ、お駄賃」  パチュリーは懐からお金が入っているだろう小袋を取り出す。左右に振って、中身がちゃんと入っていることを確認している。カシャカシャと音が響いていることから、小銭も入っていることが分かる。  そもそも、買い物はおろか紅魔館の外にすらほとんど出ないパチュリーがどうしてお金を持っているのだろうか。経理も取り仕切っている咲夜も出所が分からない。使途不明金など一銭たりとも無い。裏金としてどこかにプールしていたのかもしれない。 「これは外では使えませんよ」 「あら、そう」 「お金はこちらで工面しますから」  当てにするものは何一つとして無いが、好意だけ受け取っておくだけにした。 「なら手間賃として取っておきなさい」  パチュリーは咲夜の手に小袋を握らせて踵を返す。だが、扉を半分開けたところでもう一度踵を返す。 「これはレミィの友人としての忠告。レミィはあれだから言わないけど、あなたと一緒の未来を望んでいるわ」 「それと、私からのお願い。あなたの淹れたコーヒーは美味しいから、まだ飲みたいわ」 「だから、必ず戻ってきて」 「…………」 「…………」  沈黙が包むなかパチュリーは視線を落とし、気を紛らわすように左手で髪をいじる。 「……っ」  その動作がきっかけで何か思いついたようで、いつもより大きい歩幅で咲夜に近づく。そしてちょうどパチュリーの目線の高さに揺れている咲夜の三つ編みの手を伸ばす。 「パチュリー様?」 「じっとしてて」  リボンを解き、流れるような仕草で三つ編みをほどいていく。 「私のリボン、持って行きなさい。魔法力上がるから」  ゆるいおさげを結んでいるピンクのリボンを一つ解き、再び三つ編みを編み直す。薬の精製を手伝ったときは失敗も多く、咲夜は髪を任せるのが少々心配だったが、手付きを見ていると不器用なわけではないようだ。 「じゃ、また夜に会いましょう」  今度こそ部屋を出て行く。咲夜は部屋から遠ざかる足音を確認する。 「パチュリー様も大概にあれじゃないですか」 (4)  午前零時二十三分。  博麗神社の境内に、ヴァンパイアと魔女と人間が集まる。その光景は幻想郷でも珍しく、一目見ただけでは信じることの出来ない取り合わせだ。 「何も、神社の正面でやらなくてもいいんじゃないですか?」 「いいのよ咲夜。敵陣は正面から壊してこそよ」 「敵って……後で面倒ですよ」 「紅白が来るわね、間違いなく」 「私に恐怖する人間を一人くらい増やしていくわ」  レミリアは右手を目の高さまでもっていき、魔力を溜め始める。  しばらくは咲夜もいなくなるし、レミリアは退屈しのぎに麗夢を挑発する気でいる。ここで一悶着おこしておけば、少しのきっかけでまた前のように紅魔館に攻め込んで来るだろうとふんでいる。 「はぁ……私が術式で結界にほんの少しだけ干渉するから、大人しくしてて」 「術式はまどろっこしいわね。私が壊せば済むのに」 「知恵の輪を壊して外すようなものよ、それは」 「元に戻す必要があるんですね」 「壊したままだと、困る人が多いでしょう」 「……ま、そうね」  パチュリーの一言に右手で高めていた魔力を空間に放出し、レミリアは音も無く神社の屋根を跳び越して奥にある森の中に消えていった。  一方、残ったパチュリーは空と地面に魔法陣を描きつつ、スペルカードをばらまき始める。音には聞こえないが、口を動かすたびに無数のスペルカードが幾何学模様を描き出している。喘息持ちではあるが、鍛えられあげた魔力はかなりのもの。咲夜にリボンを一つあげたくらいでは揺るぎもしない。 「…………」  咲夜はおののいていた。いつもの喘息持ちで小食のか細いイメージは砕けていた。半歩のけぞり、暑くも無いのに頬を伝う 脂汗をそのままにしている。 「まだ時間がかかるから、好きにしてていいわよ」 「は、はい……」  好きにしてていいわと言われてもすることは特にない。手伝おうとも、越えられない種族の壁を改めて認識した咲夜は、それをためらわずにはいられなかった。  咲夜は静かに賽銭箱の前まで歩いていく。 「…………」  黒く古ぼけた、縁にギザギザの付いた小銭を賽銭箱に放り投げて、二回手を叩いて頭を下げる。祈るものなど持ち合わせてはいないが、これから迷惑をかける霊夢への慰謝料くらいにと思っている。 「何を祈っているのかしら?」  気配も感じさせずに咲夜の隣に舞い降りてくるレミリア。咲夜は振り向くことなく口を開いた。 「何も祈っていません」 「賢明ね……咲夜」 「はい」 「これを持っていきなさい」  レミリアは咲夜にナイフを手渡した。魔力で作ったナイフと思いきや、細工を見る限り、一昨日回収し逃した咲夜のナイフだった。違うのは全体が赤く、吸い込まれそうに輝いていた。 「ナイフな十分にありますよ」 「私の魔力を込めておいたわ」  咲夜はうっすらと赤みがかった銀のナイフの切先を見つめる。月の光もないのに不気味に輝いていて、咲夜の表情を映しこんでいる。 「お守りに取っておきます」 「その必要は無いわ。形ある力は使いなさい、命令よ」 「……分かりました」  紅い銀のナイフを懐に入れ、代わりに手の平から濁りの無い銀のナイフを取り出してレミリアに差し出す。 「これ以上持ちきれません。私のナイフをお願いします」 「えぇ」 「戻ってきたらお茶にしましょう」 「楽しみに待ってるわ」  お互いに顔を見合わせ少し微笑み、膨大な魔力を放出しているパチュリーの元に歩む。 「こっちの目星はついたわ」 「そう言えば、お嬢様は何をなさっていたのですか?」 「結界の綻びを探してたのよ。少しでもパチェの負担を減らすために」  暢気な紅白の巫女の適当な仕事に感謝している。この前も北東方向の結界が薄くなっていたのを気がつかなかった。  今夜も、結界の境である博麗神社の綻びにも気付いていない。 「だったら花が咲くまで待っててほしかったわ」 「あぁ、六十年のね。それでは遅すぎよ」 「分かってるけど……こっちはまだ掛かるから、適当に時間を潰してて」 「そう。じゃあ事の説明でもしようかしら」 「レミィ……言ってなかったの」 「パチェが説明してくれると思ったわ」 「そう言えば、外では何をするんですか聞いていませんでしたね」 「こっちも……」  自分のことなのに何も聞こうとしない咲夜。レミリアを信頼しているのか、ただ抜けているのか分からない。 「外に出たら、ローズレッド・ストラウスという人物に会うこと。そしてそれの補佐ね」 「監視……ではなくてですか」 「接触すれば分かるわよ」 「私と同じような魔力だからすぐに分かるわ」 「ヴァンパイア、ですか」 「根本はね。ちょっと違うけど」 「それはさほど意味はないよ」 「なすべき事は一緒……っと完成」  もはや形容のしようが無いほど複雑に作り上げられた幾何学模様の魔法陣が回り始めた。パチュリーは縁にある石に腰掛け、術式の作動具合を眺めていた。 「ちょっと! 何してんのよ!?」  異常なほどの魔力を察知した紅白が、怒声を上げながら文字通り飛んできた。 「第三と第七を省略。あと3秒で終わらせるわ」  気付かれてしまっては、もはや抑える必要はない。急に立ったために起こった立ちくらみを我慢しながら、魔法陣の一部をかき消し、尚且つ加速度的に回し始める。レミリアと咲夜もタイミングを計るために麗夢を無視して霊力と魔力を溜めている。 「何するかは分からないけど、とりあえず止めてもらうわ!」 「人間風情が、今夜こそ畏れなさい」  パチュリーは立ちくらみに耐えかねて尻餅を付く直前に、魔法陣が回りきった。術式で干渉する。そして、寸分の狂いも無くレミリアの魔力が干渉地点を膨張させる。干渉時間はマイクロセカンドだけだが、咲夜にとっては時間は関係ない。 「さぁ、棺桶に戻る覚悟はいい?」  少し前にも聞いた台詞が、幻想郷で最後に耳に入った言葉だった。  咲夜は少し後悔していた。  急いでいたとはいえ、別れの言葉を言うのを忘れていた。戻ったときは、再会の挨拶を始めに言おうを心に誓っていた。 ・第二話「咲夜の帰還」 (5)  久しぶりの外の世界は、特に感慨も無かった。  見上げた空も、感じる風も、幻想郷のそれとは何も変わりは無い。咲夜は鳥と虫の鳴き声に耳を傾けながら、状況を確認する。 「場所は……不明。時刻も……不明ね」  ここには場所と時刻を確認できるものは何も無い。あるのは森にひっそりと建てられた神社だけだ。よくよく見ると博麗神社に似ているが、ずいぶんとうらぶれているのだ良く分からない。咲夜は無意識に触れていた懐中時計に視線を落とす  時計は午前一時を少し回っているくらいだが、これは幻想郷で合わせたものなので、ここも時刻を正確に指しているかは疑わしい。ついでに、場所も幻想郷との境であるかどうかも疑わしい。 「…………」  結局のところ、何一つ分からない迷子になっていた。唯一、分かっているのがここで見る月はつい数時間前の月と少し違うくらいだ。もっとも、人間の咲夜はさほど気にしてはいないが。  これからどうしたものかと考え、とりあえず明かりのある所に行こうと比較的、道だと思われる所を歩いていく。とは言っても、咲夜の腰辺りまで草が生い茂っている、木と比べると道と言えないことも無い背丈の道を掻き分けて進む。  夜の森は危険だろうが、妖怪が跋扈している所に慣れている咲夜にとっては安全なものだ。飛んで人目に付くことのほうがよほどリスクが高い。 (6)  もうどれくらい歩いただろうか。木々の切れ目がようやく見えてきて、人工的なアスフェルトの地面を踏みしめる。  特注のメイド服に引っかかった小枝や枯れ葉をぱっぱっ、とはたき落とす。 「何にも無いわね」  舗装された道路にどれだけ目を凝らしても、人も車も通る気配がなく、街灯すらたっていない。場所はどこかは知らないが、こんな寂れた田舎町だったらわざわざ歩いていく必要もなかったとため息をつき、道沿いを少し歩いて見つけたバスの停留所のベンチに腰をかける。  木ばかりの変わりばえのしない景色の中を歩いてきたせいか、時間の感覚が少し麻痺していたように覚えた。ちらりと懐中時計を見れば、長針は90度も動いていない。気の長い妖怪たちと付き合っているうちに人間の感覚と差が出来てきたいるのかもしれない。 「(次のバスはいつかしら)」  少し立ち上がり、左手を腰に当てて時刻表を見る。  現在の時刻があやふやなので、時刻を確認してからバスを待つのではなく、時刻を確認するためにバスを待つことにした。公共交通機関の時間は信用がおける日本では、正確な時間を知るのは適当な手段だろう。 「はぁ……」  人がいないことをいいことに咲夜は大きなため息をついた。  時刻表が錆び付いて見にくい上に、午前と午後で各一往復しかしない。  自然は残っていそうで大変結構なことであるものの、不便にも程がある。咲夜にはもっと上手い移動方法はあるが、昼に生きる人間としてはこのような手段も用いないといけなくなる。  ここまでろくに睡眠や食事もとっていない咲夜は、暗いし歩き疲れたりで、ここで夜を明かそうと決めてホワイトブリムを外す。幸いにもベンチは咲夜の体を預けられほど長く、時刻表は錆びていても掃除も行き届いている。ここだけでなく、信仰の失った神社も綺麗にすればいいのにと考えた。  目を閉じようとしたとき、視界の端にぼんやりとした明かりが現れる。柔らかな自然の光ではない。必要な波長だけを不自然に増幅させた、突き刺すような光だった。  どうして今まで気がつかなかったのだろうか。そんなことが頭によぎったが、疲れていたせいだろうと結論付け、光源のほうへ歩み寄る。 「自動、販売機?」  いくら外の世界に長いこといなかった咲夜でも、一目見ただけでは見慣れた自動販売機かと思わず疑問符を付けたくなるような外見をしている。こんなものがまだ現役で動いているものだろうか。思ってはいても、実際にあるのだから納得するしかない。  自動販売機の照明が点いたり消えたりを不規則に繰り返し、外見の塗装が剥げて地金の金属光沢が無い内側が見える。見た目は古いが、田舎には誰が買うのか分からない所にある自動販売機もあるので、それと同じだろう。  種類はいくつかあったが、名前だけで味を判定できるのはおしるこ缶だけだったので、冒険したくない咲夜は迷わずお金を入れてボタンを押した。  出てきた缶の飲み口を拭いて、少しだけ口に含む。 「………甘」  一口飲んだが、二口目にいく勇気もなく、温もりを手に伝えるだけのものになってしまった。  どこかも分からないが、この懐かしくもあり、それでいてつまらない味にとりあえず外の世界には出てきたことで咲夜はほっと胸を撫で下ろす。それと同時に、張り詰めていた思考回路が正確に動き始めた。 「……あの、バス停」  握っているおしるこ缶を離すことも忘れ、あまり機能していないバス停の表示を凝視する。 「覚えがある。これは確か、ダムに沈んだ村?」  幻想郷に来る前に、テレビのワイドショーで特集を組まれていたのを思い出した。  思い出の場所がなくなるとか、税金の無駄遣いとかには関心はないが、とりあえず映していただけのテレビから流れていたのを小耳に挟んでいた。 「時間の流れが違う……いえ、私が来る前にはもうダムの底に沈んでいた。けど、今は確かに存在する。時間は逆には流れない。それは、良く知っている。だけど、それは」  この場所には判断材料が乏しい。  自分の知識と能力を信じるにしても、相反する答えが導き出されてしまう。些末ではあるが、どこか心に引っかかった。単に同じ地名なのかもしれない。  しかし、この場所に出てきたことに意味があるのならどうだろう。  ベンチに腰をかけ、腕と足を組みながら思考を巡らす。明日からはレミリアのために動かなければならない身ではあるものの、頭は冴え、とても休んでいられる状態ではない。  そして、どことなく、嫌な予感がしていた。 (7)  嫌な予感は程無く的中した。誰も歩いてきそうの無い道路に、人影が映る。  その不自然なまでに規則的な足音が、咲夜に近づいていた。一歩目には咲夜は気付かず、二歩目で訝しげな表情をし、三歩目で何か確信したかのように腕を組んだまま立ち上がって、音源のほうへ射るような視線を向ける。  しばらくすると、おぼろげに姿が見えてきた。  太陽光も雨も降っていないのに傘を差し、人型はしているが人間らしさは微塵も感じさせないものなんて一人しか思い当たらない。幻想郷の境に棲み、あらゆる境を操る能力を持つ『八雲紫』だ。  レミリアもパチュリーも解っていたはずだろう。幻想郷と外の世界の間を越えるためには二人の人物を説得するなり力で抑え込むなりしなければならないことを。一人目の博麗霊夢は、夜間の奇襲によってほとんど何もさせないうちに対処できた。二人目の八雲紫は、何の動きも見せなかった。咲夜はそのことに不気味さを感じていたが、どうやら今まで紫の手の上だったようだ。  背筋に板を入れたような真っ直ぐな姿勢で紫が止まるのを待つ。手にナイフは握っていない。ここがまだ外の世界ではなく紫の支配する空間であれば、どうしたところで敵う相手ではない。外の世界に出さないつもりなら、もとよりこんなことはしないだろう。  張り詰めている咲夜とは反対に、飄々と服を揺らしながら歩いている紫。対峙すると思いきや、咲夜の横を抜けてベンチにゆっくりと腰を下ろした。 「疲れているんでしょう、座ったらどう」 「あなたの隣に」 「別にとって食おうなんで考えてもいないわ」  こんな胡散臭くて信用の置けない妖怪もいない。  人と喋るときは相手の顔を見て話せと言うが、紫相手にそんなことはしない。顔を見ても目を見ても、次に口から吐く言葉が予想できない。瀟洒でいるためにはいかなるときでも相手の先を予想して、然るべき対応を心がけている咲夜でさえ読み取ることができない。 「あなたは何のためにここに来たのかしら?」  組んでいる腕を解き、紫の隣に座る。警戒は怠っていないが、このままではどうしようもない。不本意だが紫の言う通りにする。 「住んでいる場所に異常な干渉があったら。主なら駆けつけるでしょ」  一年の半分は以上は眠っていて、式神の式神を使いに出している妖怪の台詞ではない。 「ここはまだ幻想郷なのね」 「半分正解。幻想郷と外、あるとない、思いと現実、幻と実体、全ての界面よ」 「正解と間違いが同居している……ここが界面」 「博麗神社に良く似た建物。機能することのないバス停。新しくない自動販売機。ここは、ダムにしずんだ過疎の村。じんわりと忘れられたもの。これから時間をかけて幻想郷に取り入れられる。誰も不思議に思わない。そう思う人間もそうやってきたのだから」 「それで、なぜいるのかしら」  咲夜は努めて冷静に言葉を切りかえす。少しでも揺らぐと引き込まれそうになる。幻想郷でも屈指の力の持ち主の雰囲気は計り知れない。  紫は咲夜の脇に置かれていた、気温と同じくらいまで冷めてしまったおしるこ缶に口をつける。 「悪くないわね」  美味しそうに飲んでいるのが演技なのか、本気なのか。どちらにせよ、胡散臭いのには変わりない。 (8) 「あのとき、第三と第七術式を省略したでしょう。そのお陰で結界に歪みができてしまったから、見に来ただけ」  あのときと言うのは、もちろんパチュリーが結界に干渉したときだ。術式を省略してしまったせいで、直接外の世界には出れずに、紫の世界とも言うべき幻想郷と外の世界の界面に来てしまったようだ。 「幻想郷の境に来た異物を排除しにきたのではないの」  まったりとした会話から弾幕ごっこに発展した過去をもつので、紫にその気はなさそうでも、いつでもナイフを投げれるように準備している。 「いいえ、私はただ干渉された結界が傷ついていないかを確認しに来ただけ。何も無かったらそれで良い、何かあったら直して帰るだけ」 「真実にどれほどの価値があるか、何も視ていないあなたには分からないでしょう。その眼で見てくるがいい。そして、 ローズレッド・ストラウスと共に最悪の展開にならないように努めなさい」 「その名前!?」 「元の世界に還してあげる」  おしるこ缶をゴミ箱に放り投げ、左手の指をぱちんと鳴らすと、今まで停まっていた月が追われるように動き出す。しばらくすると、闇夜は払われ、その位置は太陽に取って代わられた。紫も太陽に照らされると、影のように消えてしまった。  紫がいた場所には新聞が残されていて、その西暦は咲夜が予測しただけの時間が進んでいた。  今度こそ本当に、外の世界にやってきたようだ。 ・第三話「吸血同盟」 (9) 「はぁ……」  咲夜は新聞を凝視して疲れた目をほぐしながら溜め息をついた。紫のことだから気を利かせることも無く、今日の日付の新聞を残すことはしないだろうと思っていた。  経済や世界情勢などなど、咲夜がいたころに比べると随分と変ってしまったことも多いが、どれも直線的に繋がっていた。予想できるはずも無かったが、驚くような出来事は特に起きていなかった。もっとも、一日の朝刊だけで決め付けるわけにはいかないが。  折り目正しく新聞を畳むと、傍らに置いた。 「何か……」  咲夜はすっとナイフを取り出す。  人に見つかったら銃刀法違反で捕まっても文句の言えない格好だ。  一瞬、時空の歪みのようなものを感じ、すぐに消え、またすぐに歪みを感じた。いったい何なのだろうか。咲夜は立ち上がり気味の悪い空気を一掃しようと背中と首を一緒に伸ばした。その時、咲夜はひどく驚いた。 「!?……」  声を上げようにもあまりの驚愕に声すら上げることも出来なかった。  幻想郷ならともかく、外の世界で空に浮かんでいるのは雲か飛行機か鳥くらいなものだろうと思っていた咲夜は動揺を隠せなかった。銀のナイフを手から落とし、もう一度ベンチに座り、冷や汗とかき身震いをしている。  頭上には、咲夜の常識の範疇を越えた異形の物体が空に浮かんでいた。見た目には生物的な球体ではあるが、決して浮遊できそうに無い。地上にいる人類の誰もが畏怖を抱き、気分を害することだろう。 「これは、いったい……」  咲夜はあっけにとられた表情で呟いた。そして、すぐに察した。自分はこれをどうにかするために外の世界に出たのだと。  まだ震えが止まらない。空に浮かんでいるものを信じることができない。汗が滲む手で落ちたナイフを拾うと、今日何度目かの溜め息をついた。  落ち着け、現実を見ろ。出る声は呟きでも、心の中では勢い良く声を発する。   この不気味な物体に対して咲夜はなにができるのだろうかと考えたが、レミリアに命令された以上、どうにかしないうちに戻ったらしかられるだろう。 「早くローズレッド・ストラウスと合流しないと」  頭上の物体が何かを考えるには情報がまるで足りない。こんな頭で何を考えても無駄だと強引に割りきり、勢い良く立ち上がった。ホワイトブリムを付け直し、つま先でアスファルトの地面を何度か叩いて靴のずれを直す。  一呼吸置いて、誰の目も気にすることなく地を蹴り始めた。  あんな薄気味の悪いものが空に浮いているのだから、自分一人くらい飛んでいたところで気にすることはないだろう。移動用のバスを待つことなく、転落防止用のガードレールを踏み台にして思い切り飛び上がる。  そして、集中力を乱さないように霊力による策敵を行った。 (10)  一向に無くならない頭上の不愉快な物体と歪みを感じながら、咲夜は人里にある建物の屋上に降り立った。人里とは言っても幻想郷のそれとは違い、静かでひっそりとした趣ではなく、人がせわしなく動き、自然が少なく、木々の代わりに高層ビルが立ち並んでいる。あくせくと人も時間も動いているためか、皆、咲夜が飛んできたことにさえ気がついていない。  手すりに手を掛けて、そんな人並みを見下ろしながら、咲夜は困惑の表情を浮かべていた。  いつまで経ってもローズレッド・ストラウスの気配が見つからないのだ。魔力と霊力の痕跡が異常に残っていることよってつい最近、ここで催眠結界が巡らせて戦いが行われていた事は分かっているのだが。  もとより咲夜の霊力は時空を操る能力に特化しており、策敵などには向いていない。強力な魔力や霊力が発せられれば感じ取れても、ただ所持しているだけではそれを感じ取りにくい。それなのにここまで来れたのは、レミリアから教えてもらったブラックスワンという霊力の高い人間がここで一悶着起こしたおかげで、高い残留霊力が漂っているからだ。 (どうしようか)  咲夜は今日何度目かの溜め息をついた。佇まいこそ落ち着いているが、内心はあせっている。ここで何かが起きたということ以外、手がかりはなにもないからだ。いつもの癖で、咲夜は右手でナイフを握った。  その時、ふと視界が開けたような感じがした。  咲夜が握っていたのは、いつもの銀のナイフではなく、レミリアから手渡された紅い銀のナイフだった。『形ある力は使え』。主がこのことを予見していたように言った言葉を思い出した。 「こういうことだったんですね」  ナイフを握っている右手からレミリアの魔力を感じる。気高く、力強く、それでいて繊細で包み込むような大きな魔力だ。  もう一度握り直し、目を閉じた。霊力を練り、意識を集中させる。金属音のような振動が咲夜の頭の中に響き、そのぶれが徐々に無くなると町中で発せられている魔力と霊力の所在が手に取るように分かり始めた。魔力の痕跡は思いのほか少ないが、特徴的な霊力が点々と続いている。ブラックスワンの霊力だ。  霊力の終着地点をを辿り、目的の場所は分かった。高層ビル群が立ち並ぶなかでも異質とも思える純日本家屋。そのなかにいくつもの魔力と霊力を発している人物が多数存在している。  咲夜は迷うことなく、屋上から飛び降りた。 (11)  レミリアに渡されたナイフの力を使ってようやくたどり着いた目的の場所は、工事車両が出入りする屋敷だった。広い土地に広い建物。都会の真ん中にこれだけのものを建てたのではどれだけのお金が掛かったのだろうか。資産やお金にはあまり興味が無い咲夜でもついつい想像してしまう。  入り口に警備は二人。黒いスーツに黒いサングラスといかにもといった感じだ。正面から用件を言っても通してはくれないだろう。  二人に少しの霊力も感じない。霊力をまったく持たない人間のようで、咲夜の能力を使えば戦って勝つことなり、気付かれずもせずに抜けることは難しくないだろうが、霊力を使って中にいる人達に気付かれるのは良くない。 ここはひとまず裏口から……と思ったが、正門の警備がこれなら裏口も変わりないだろう。普通の人間は入り口とは思わない側面から侵入することにした。周囲に人がいないことを確認し、一息に塀を飛び越える。  侵入自体は何の阻止も無くあっけなく成功した。  工事をしているのは家屋の外側や中庭のみで、人がいそうな内部には工事関係者はいない。護衛のような黒服の男は何人かいたが、それでも人は少なかった。ヴァンパイア王にブラックスワン。護衛が必要な人物はこの館にはそういないのであろう。  咲夜は慎重に、足音も立てずに歩き出した。始めて立ち入った家で内部構造こそ分かっていないが、目的の場所は分かっている。ここに純粋な魔力を発しているのはヴァンパイアしかいないからである。  魔力の感じる扉の前に付いた。咲夜はナイフをしまってドアノブに手をかけた。 「遅かったではないか」  咲夜が来ることが分かっていたように、ローズレッド・ストラウスは振り向きもせずに口を開いた。緊張している咲夜とは対照的に、ベッドに横になりながらアイスコーヒーをストローでかき混ぜている、緊張感のきの字も感じられない格好で咲夜を出迎えた。  レミリアとフランドールしかヴァンパイアを知らない咲夜にとって、見た目でストラウスをヴァンパイアと認めるにはためらいもあったが、感じる魔力の波長が咲夜の知っているヴァンパイアと同じなので、納得することにした。 「ローズレッド・ストラウスですね」 言わずもがな、咲夜は分かっているが事務的に尋ねる。 「いかにも、私がローズレッド・ストラウスだ」 ストラウスはベッドから起き上がると、すらりとのびた長い手で椅子を動かして座る。 「まぁ、座ったらどうかな?」 その言葉にも咲夜は微動だにしない。 「今、飲み物でも用意させよう」 そう言った瞬間、ドアが開いた。 (12) 「ストラウスー、話聞いてきたよ」  ドアが開くと、ちんまりとした少女がヴァンパイア王の名を気軽に呼びながら部屋に入ってきた。手には飲み物が入ったグラスが乗っているお盆を持っている。 「……ってお前は誰だ!?」  咲夜の存在がその少女には予想外だったのか、明らかな敵意をむき出しにして身構える。そして、可愛らしいネコの形をしたバッグから何とも似つかわしくないマシンガンを取り出して、その銃口を咲夜に向けた。  咲夜は凛として動かない。撃たれても能力を使って回避できる自信はあるし、ストラウスと対称の位置から咲夜だけを狙うのは無理があるだろうと思っていた。 「まぁレティ、落ち着いて話を聞きなさい」 「けどっ!」 「いいから。彼女は味方だよ」 「……ぶぅ」  不満顔でマシンガンにロックをかけ、鞄の中にしまう。 「レティ、飲み物をもう一つ持ってきてくれないか?」 「……ストラウスがそう言うなら持ってくるよ」  まだ信用していない様子のレティと呼ばれた少女は、不満顔のままで入ってきた扉から出て行く。 「あの娘もヴァンパイアですか?」 「いや、ダムピールといって人間との混血だ」 「混血……」  そんなものが在りえるのか、と口から出そうになったが、ストラウスに嘘をつく理由もないし、そもそも幻想郷で 外の世界では在りえないものに大量に遭遇しているので咲夜にとってその言葉の意味は薄らいでいた。  咲夜はストラウスに勧められたように椅子に座ろうかと思い、背もたれに手をかけた。 「あと一つ、いいですか?」 「何かな」 「空に大量に浮かんでいるあれは何ですか。私がこっちにいるときはありませんでしたけど」  咲夜は天井を指差しながら口を開く。 「私も全てを知っているわけではないが、聞いた情報によると……異星人の艦艇。通称ビッグ・モーラ」 「異星人?」  憮然とした表情でストラウスに視線を向ける。妖怪やヴァンパイアに囲まれて生活している咲夜にとって異星人は驚くに値しないが、咲夜の知っている宇宙人とは随分とイメージが違う。月に住んでいる宇宙人が人型をしているのに対して、これには人型の宇宙人は乗っていそうに無い。 「地球を侵略しようとしている異星人……星人フィオという」 「地球を侵略……あれが全部ですか?」 「いや、本体はたった一隻らしい」 「一隻!?」 「直径3460kmになる球体で、月と同じ地球の4分の1の大きさをしている。そして、地球から約42万km離れた地点にいる」 「月と……同じ……」  今から立ち向かおうとしているものの巨大さ咲夜は困惑している。椅子に手をついているのでよろめきはしなかったが、内心では絶望感すら覚えていた。 「空に浮かんでいるのはビッグ・モーラを投影している装置に過ぎない」  ストラウスは足を組みなおして聞かせてやった。今起こっている不快な出来事についてと、オーバームーン作戦の現状についてを。 「やれやれ、厄介なときにこっちにきたものだな」 「……そのようです」 「今の私は絶対的な敵に首輪をつけられ、それと共通の敵と戦おうというのだぞ」 「ブラックスワンですね」 「そうだ。あれに私は勝てない。そして、お前が来たということは、私の予想の範囲外の敵が現れるということだ」 「…………」  咲夜は何も答えない。自身もストラウスの言う予想外の敵というものが分かっていない。ただ、主のことは信じている。何があろうとも、それだけは変らない気持ちだ。 「では、失礼して」  咲夜が座ったと同時に、扉が開いた。 (13) 「お嬢さんの言ってたことは本当だったみたいですね」  開いた扉の方に咲夜が視線を向けると、ストラウスに言われたとおりに新しい飲み物を持ったレティシアと見慣れない男がそこに立っていた。  男の軍服のような固い服装をしているものの、左頬には奇妙なペイントが施されており、普通の人物ではなさそうだ。 ただ、咲夜は霊力も魔力も感じてはいないので、普通の人間ではあるようだ。 「森島か」 「私も一緒にお茶をしてよろしいでしょうか?」  森島と呼ばれた男は、左手に持っていた缶コーヒーを高く掲げる。 「私は構わないが」  ストラウスは視線で咲夜に同意を求める。 「私も構いません」 「じゃ、そういうことで」  森島は咲夜の隣に座った。レティシアも咲夜の前に飲み物を置くと、ストラウスの隣に座った。 「まずは自己紹介をしておきます。私は十六夜咲夜。レミリアお嬢様の命により、ストラウス様を補佐するべくやってきました」 「レミリアお嬢様というのは?」  森島が缶コーヒーの蓋を開けながら尋ねる。咲夜は答えようとしていたのだが、ストラウスが先に口を開いた。 「私と同じ、ヴァンパイアだよ」 「なっ!?」  口をつけようとしていたコーヒーをテーブルに叩きつけるように置き、驚愕の声を上げる。森島は不満げな、それでいて納得いかなげに咲夜を見る。咲夜は涼しげな顔をして、ストローでレモンスカッシュを飲んでいる。 「ヴァンパイアはあなたと女王しかいないと聞いていましたけど」 「あたしも、ストラウスとアーデルハイト様以外にヴァンパイアはいないと思ってたよ」 「特に言う必要も無かったし、言っても信じるかどうか分からないだろう」 「それはまぁ……」  一旦、間を置くようにして森島とレティシアはゆっくりと飲み物に口をつける。 「それでだ……十字碑の破壊に咲夜も連れて行ってはもらえないか?」 「アーデルハイト様の封印を解きに?」  十字碑の封印を解きに行く。オーバームーン作戦の概要を聞いた咲夜にとっては、それは納得できるものではなかった。 「ストラウス様、それではお嬢様との約束が果たせません」 「オーバームーン作戦準備中は、私に行動の制限がかかる。咲夜は近寄れもしないだろう。それではレミリアの思った通りの補佐ができはしまい。それなら、十字碑の破壊に従事してもらったほうがいい」 「お嬢様もそうお考えと思いますか?」 「私はそう思っている」  咲夜はしばしの間、顎に指をあて天井を見上げ考えていた。こんなとき、レミリアならパチュリーならどんな言葉をかけるだろうか。自分にとっての最善な行動とはいったい何だろうか。 「分かりました。ストラウス様の言うとおりに致しますわ」 「咲夜のことをよろしくたのむな、森島」 「まぁ……一人増えたところでオーバームーン作戦に支障がなさそうなのでそれもいいでしょう」  森島は缶コーヒーを一気に仰いで少し強めにテーブルに置く。  カランと高めの音が響いたのをみると、コーヒーを飲み干したのだろう。 「じゃ、姐さんには私から上手く言っておきますよ」  森島は最初に来たみたいに缶コーヒーの空き缶を高く掲げながら扉の向こうへと出て行った。  ストラウスは森島の気配が消えるのを待ってから、優しく懐かしげな眼差しで咲夜を見やる。 「どうかしました?」 「そのリボン……懐かしいな」  ストラウスは咲夜の三つ編みのリボンを軽く手に取る。 「これが何か?」  咲夜はリボンを解いてストラウスに手渡す。 「知り合いの、パチュリーのリボンだな……これは、演算魔法陣が書かれている」 「演算魔法陣?」 「論理結界という一種の結界を解くのに必要な魔法陣だ……幻想郷もそうだな」 「まさか、パチュリー様はこのことを見越して?」 「その可能性が高いな。一人でも帰れるようにしたのだろう」 「思ったよりも早く戻ることになりそうですね」 そう言って、咲夜はレモンスカッシュを空にした。 ・第四話「暗躍」 (14) 幻想郷の結界に干渉してから早幾日。時間は順調に過ぎ去っていた。  あのときに無理をして術式を完成させたせいで、こじらせてしまった喘息もすっかり良くなり、パチュリーはいつものように窓の無い図書館でいつもの通り本を読んでいた。 「十字碑は順調に破壊されているみたいね」  魔道書に視線を落としながらパチュリーがぽつりと呟く。  レミリアほどの魔力は無いが、魔女として研ぎ澄まされたパチュリーの魔力も相当なもの。博麗大結界があろうとも、女王が封印されている十字碑は感覚の範囲内に収めている。そして、一つずつ無くなっていく封印も知覚していた。   「パチュリー様、紅茶をお持ちしました」  パチュリーは自分と同じように、いつのころからかこの紅魔館に住み着いている悪魔に紅茶を持ってこさせた。悪魔と言っても悪さをするわけではない。いたって人畜無害で話も通じるようなので、この図書館で手伝いをさせている。名前は特に無いが、無いと不便だと言う理由で、便宜上「小悪魔」と呼ぶことにしている。  主に雑用なのだが、本人も不満はないし、パチュリーとしても助かっている。 「ありがとう、そこに置いておいて」  テーブルの上に山のようにうず高く積み重なっている魔道書の隙間を指差して、そこに置くように指示を出す。いや、むしろそこにしかカップを置くスペースがないと言ったほうが良い。  小悪魔はカップを指定された場所に置くと、両手にトレイを抱えてパチュリーの向かいの席に座った。 「ストラウスと咲夜は分断されてるみたいね。予想通り、いえ、予定通り」  誰に聞かせるわけでもなく、パチュリーは口を開く。 「いったい誰の予定通りですか?」  小悪魔がぱっちりと瞳を開けて興味ありげに尋ねる。  特に答える必要は無いのだが、時間もあるし話し相手もいたほうがいいので、小悪魔相手に少しばかり話をすることにした。 「さしあたって全員のね。人間に私にレミィに……咲夜はどうか分からないけど」 「みなさん忙しそうですね」 「忙しくなるのはこれからよ」  パチュリーは小悪魔の淹れた紅茶を一口ふくむ。ほど良い温度で、口の中に甘味が広がる。 「門番さんも忙しそうに動き回ってましたよ」  門番さんというのは、紅美鈴のことだ。ここ紅魔館ではそのように繋げるのが一般的だ。 「あぁ、すっかり忘れてたわ……」  パチュリーはカップを置いた。 「ええと、昨日持ってきた報告書をお願い」 レミリアへの報告は美鈴から咲夜へ、それからレミリアへと口答で伝わることが大概だが、パチュリーへはそれに加えて情報は報告書という形で伝達される。その報告書は美鈴が自らかいている。 「はい、どうぞ」  小悪魔はさして探す様子も無くそれを見つけ、パチュリーに差し出す。小悪魔抜きではパチュリーは仕事に専念できそうにない。いつも読む魔道書とは形式の違う報告書を受け取る。  渡された報告書を一枚二枚とめくりながら紅茶を飲む。 「ふぅん、これは聞きにいく必要がありそうね」  報告書をぱたんと閉じて、近くの魔道書の上に置く。 「ちょっと出かけてくるから、留守を頼むわね」 「はい、分かりました」  パチュリーは紅茶を飲み干すと、魔道書を片手に久しぶりに図書館を出て行った。 (15) 「隙が多いわよ」 「痛!?」  のほほんと紅魔館の門番の仕事をこなしている美鈴の頭を魔道書の角で小突く。パチュリーの腕力はさほどでもないが、持ち上げたら後は自然に任せて落とすだけなので、分厚い魔道書だけにその威力は計り知れない。  その衝撃に、昼食を終えた後でまったりとした時間の柔らかな陽光が肌に当たり、閉じかけそうな目が、一瞬にして丸くなる。帽子を被っていて少しは衝撃を吸収できたようだが、泣きそうな目で頭を押さえながら振り返る。 「痛たた……パチュリー様?」 「門番の仕事はちゃんとしているのかしら?」 「していますよ」 「それにしては背後に注意を向けていなかったようだけど」 「パチュリー様の気配が無かったからですよ」  魔法で移動をしているので、歩いているときよりは気配が消えているだろうが、そんなことをしようとはまったくしていない。パチュリーの気配すら感じ取れないのは門番としてどうかと思う。これをネタに一時間は説教できるパチュリーだが、そんな立場でもないしそんな余裕も無い。 「門番は後ろからの攻撃は考えていないんですよ」 「どうしてかしら」 「味方を心から信頼しているからですよ」  えへんと胸を張って、ぽんと叩く。しかし強く叩きすぎたのか少しむせる。これでは門番も形無しだ。やれやれといった風にパチュリーは溜め息を一つつき、辺りを見回す。 「まぁいいわ。それで、今日はどうかしら?」 「昨日出した報告書通りです。偵察されていますね」  美鈴はさっきまでの情けない姿をすっと潜めさせ、ゆっくりと首を左右に動かす。その立ち居振る舞いと目つきからは紅魔館の門番に相応しい雰囲気を漂わしている。 「偵察ね。意味はあるのかしら」 「そこなんですよね。紅魔館を偵察したって何も出てこないような気もするんですけど」 「……あなた、何も知らないのね」  呆れ顔でパチュリーが言う。 「それはパチュリー様が教えてくれないから」  ここにはレミリアが居る以上に大切なものがある。  これからは美鈴の力も必要になってくるだろうし、事実を知っておけば士気も違うだろう。パチュリーはこめかみに指を二、三度あて、思い出したかのような口ぶりで話始める。 「ここには女王が眠っているの、昔に世界を滅ぼしかけたね」 「女王……滅ぼしかけた?」 「時期が来れば嫌でも分かるわ」  預言書でも読むようにパチュリーはすらすらと口を開く。今まで起こったことと、今確認したことでこれから起こることをある程度は予想できたらしい。この予想が当たってくれればいいとは思わない。このまま特に何も起こらずに、変わらず咲夜のコーヒーを飲みながら本を読んでいたいと思っていた。   しかし、それは叶わぬ願いだろうとパチュリーは考えていた。時期が来れば、遠からずここは必ず戦場になるだろう。そうなれば、おとなしく本を読んでいる場合ではない。 「これからが大事になるから、気を引き締めてね」 「は、はい……」 美鈴の返事を聞いて、もう一度辺りを見回して、パチュリーは紅魔館の中へと消えていった。 (16) 咲夜のいないティータイム。相変わらず赤い紅茶を美味しそうも無く飲んでいるレミリアと、それよりも色の薄い紅茶を飲んでいるパチュリーがいる。今日は趣向を変えてテラスで時間を過ごしている。 「最近は暇ね」  昼でも無いのにあくびを一つ挟むレミリア。確かに咲夜を外の世界に送り出してから今まで、紅魔館の中から一歩も外に出ていない。見上げれば変らず月はあるだろうが、それだけで暇が潰れることにはならない。 「ここにきて宇宙人も動き出したわ」 パチュリーは話の種になるかと思い、起こっている出来事の一つを話す。 「そうみたい。小物がわらわらと現れているようね」  分かっているかのごとく相槌をいれる。いや、実際に分かっているのだろう。そうでなければ退屈そうにあくびなどするはずがない。レミリアは紅茶を口に含む。 「やっぱり咲夜がいないとだめね」  それはレミリア自身に言っているのか、飲んでいる紅茶の味に言っているのかは分からない。しかし、紅茶の味に関してはパチュリーも同意見だった。淹れる人が違うだけでコーヒーも紅茶もどうしてこう味が違うのだろう。今日飲んだ小悪魔が入れた紅茶といい、メイドに淹れさせた紅茶といい、結構な味の違いがある。  パチュリーはいつもの魔道書や報告書とも違う形式の書物を見やりながら、カップを指でもてあそぶ。 「何を読んでいるの?」  いつもと違うその様子に、カップに手をかけながらパチュリーの上からレミリアがひょいと顔をのぞかせる。 「何って……レミィと咲夜が持ってきたんでしょ」 「そうだったかしら?」  そうよと言って、パチュリーがページをめくって月を見上げる。  自分で勝手に持ってきたくせに、自分が忘れるなんてなんとまあ、無責任なことだろう。しかもそれを確認するなり、興味なさげに紅茶を口に含んだ。 「ま、もののついでというやつよ」 「そのお陰で情報も得られてるんだけど」  パチュリーはもう一度、月を見上げた。 「咲夜は今頃何してるのかしら……」  レミリアがふっ、と心配げに呟く。いつもは強気のレミリアが、ほんの少しだけ弱々しく見えた。 「演算魔法陣を入れたリボンには気付くでしょうから、咲夜が気が付かなくてもストラウスが気が付くでしょうから一人でも帰ってこられると思うけど、自分で迎えにいってみる?」 「私が居ない間にここに何かあったら困るでしょう?」 「それもそうね」  と、乱れや遊び無く言ってパチュリーは立ち上がる。カップの中の紅茶は残ったままだ。 (17)  夜もすっかり明け、レミリアが寝室に入ってしまったので、パチュリーはまた図書館に戻った。パチュリーが図書館の半ばに差し掛かったところだろうか、異変を感じた。  いつも座っている席の向かいの席に、小悪魔以外の影を見つけた。誰かお客が来て小悪魔が通したのだろうか。だが、ここの図書館に穏便に入ってくる人なんてのなそうそう思いつかない。魔理沙なら強引に入って本の数冊を勝手にもっていくだろう。  考えても判らないので、とりあえず歩みを進めてその姿を確認する。 「私も隣に座ってもいいかしら?」  姿を確認する前に、その影の主から声が聞こえた。 「歓迎はできないわね。お茶くらいは出すけど、勝手にしなさい」  少しばかり非難めいた言葉をかけると、パチュリーはいつもの席に腰を落ち着けた。そして正面を見ると、幻想郷のなかでひっそりと暮らし、いつもは式を使いに出してくる八雲紫の姿があった。 「あの人間、咲夜とかいったかしら。ちゃんと外の世界に出しておいたわよ」 「……それに関しては、素直にお礼を言っておくわ」  術式を省略してしまったため上手くいくかどうかほんの少し懸念していたために、紫の所業はありがたいと思っている。 「殊勝ね」 「だけど、それとこれとは話が別よ。何の用?」  ゆっくり本を読んでいたいだけなのに、どうしてこうも騒動ばかり起こるのだろう。騒動が起こるにしても、もう少し先のことだろうと考えていた。紫の訪問は、まったくの予想外のことなのだ。 「宇宙人も動き出したことだし、忠告にきたのよ」 「……あなた、どこまで知っているの」 「全てよ。あなたの知らないことまでね」 紫は淀みなく口を開く。 「あの〜……お茶をお持ちしました」  緊迫した雰囲気に怖気づいていたのか、紅茶を持ってきた小悪魔がしり込みしながらパチュリーと紫の前に紅茶を置いた。そして、すぐに小走りでそこを去っていってしまった。 「怖がらせたかしら?」 「雰囲気でね」  パチュリーは臆することなく続ける。 「それで、宇宙人がどうかしたの?」 「じきに攻めてくるわよ」 「分かっているわ」 「あら、分かっているの?」  パチュリーは目を閉じて、ひとさし指を宙でくるくると回す。 「あんなに偵察をしておいて、何もしてこないってほうが不自然ね。ここ数日中に攻めてくるでしょうね」 「ふぅん……それなら今はそれでいいわ」 「今はって……あなたな何をしようとしているの?」 「別に。最悪の事態を起こさないようにしているだけ」 「何を知って?」 「さっきも言ったとおり、全てよ」  パチュリーは紅茶を一口飲んで、疑念を持った目で紫を見る。 「今はそれでいいわ、警戒を続けていなさい」 「言われなくてもよ」 「さてと、またお邪魔しようかしら」 「紅茶、飲まないの?」  紫は踵を返すと口を開いた。 「カフェインが多そうだからやめておくわ。これから眠るから」  そう言って鼻歌交じりに図書館を出て行った。 「……関係ないくせに」  パチュリーは紅茶で唇を湿らせた。 ・第五話「紅魔館攻防戦」 (18) 「敵襲!!」  紅魔館の門番である美鈴が警戒を促す。メイド達がほとんどの持ち場を離れて、臨戦態勢を取る。普段は敵でも咲夜のつくり出した空間の迷宮に取り込まれて終わりだが、今日は強力な後ろ盾が無い。日頃からの訓練は怠っていたとは考えていないが、本格的な実戦は紅魔館が建ってから初めてなので、美鈴は不安でしかたがない。巫女やら魔法使いが1人で攻めてきたこともあったが、あれはあくまでイレギュラーな事件であり、実戦には含まれていない。 「あなたは堂々と立っていればいいの」  どこからともなくパチュリーの声が響く。美鈴の安定しない心中を察してか、自分が良く知っている門番の教えを確認させられる。 (勝ってても押されてても声を上げて、陣の真ん中で堂々と……)  手の平に書いて飲み込もうとして思いと止まり、目を閉じて、深く息を吸い、一瞬止めて、大きくはきだす。瞼を開けて、両手を腰に当てて門番であることを誇らしげに示す。緊張も高揚もしていない。左手を大きくかかげ、美鈴の発する言葉は全て正しいと思わせるような満天の表情で指揮を始める。 「北西と北東の部隊は陽動。最低限の攻撃で追い払うこと」  頭の中に紅魔館内外の間取りを正確に思い描く。パチュリーから送られてくる情報と、戦場でリアルタイムで得られる情報とを突合せ、地図上に敵と味方の位置を考察する。 (敵の目的は何? 世界を滅ぼしかけた女王?) 美鈴の頭にふとよぎったパチュリーの言葉。 「今はそんなこと考えている場合じゃないか……ここを防衛しないと」 「西から来たわよ、次は南ね」 「は、はい」  門番らしく正門の前でどっしりと構えながら、テキパキと指示を出す美鈴。実際のところ、彼女が指示をだしているわけではない。本当に指示を出しているのは、紅魔館の奥の奥で魔導書を読みながら自分で淹れたコーヒーをすすっているパチュリーだった。  隣にレミリアはいない。小さな水溜りが、雲間から溢れた太陽光を乱反射して輝いている。 「やっぱり美味しくないわね」  顔をしかめながら自分で淹れたコーヒーの味を評する。やはり咲夜の淹れたコーヒーでないと舌が受け付けなくなっているようだ。もう一口すすると、カップをソーサーに戻し宙に視線を向ける。 (あの2人は……感覚の範囲にはいないわね) カップの縁を指でもてあそびながら、紅魔館の周囲に張り巡らされた、警戒網を感じ取る。 「本命は因幡てゐ、および鈴仙・優曇華院・イナバの二名。この二名が出てくるまでは警戒と戦いを続けなさい。逆に、この2名が出てくれば相手も追い詰められたということ。分かった?」 「はい」 (あの2人が単独で出てくれると助かるんだけど、そう簡単にはいかないわよね。だけど、真に気をつけるのは……) レミリアと違って食べ物を残すというもったいないことはできないパチュリーは、あまり美味しくないコーヒーを最後まで飲み干してソーサーの上に置いた。 (19) 「見え見えの偵察をするだけして、何の捻りもない正面突破をするだけ?」  パチュリーは紅茶を小悪魔に注文し、紅魔館周辺に張り巡らされた警戒網を感じ取りながら作戦を考えていた。陣形を見ているとある程度の作戦は分かる。作戦を指揮しているのはてゐかレイセンだが、本当に考えたのはおそらく…… 「パチュリー様、紅茶をお持ちしました」 「ありがとう、ここに置いて」 自分の目の前を指さす。淹れたての紅茶は香り高く、ストレートで飲むのが一番だ。香りを楽しんでから紅茶を一口飲む。 「いくらこちらの戦力を疲弊させても、レミィがいる限り目的は達成できない……これ自体が陽動?」  考える前に手を出してしまうレミリアがいないせいか、じっくりと自分のタイミングで考えている。戦況は拮抗している。第一波が来たままで、どちらにも動きが無い。もとより、紅魔館側は動く必要はない。守りきればいいだけだ。 「これからこの館はどうなっちゃうんでしょうか?」  小悪魔がパチュリーの対面の席に座って口を開く。前にもこんなことがあった気がするとパチュリーは思っていた。喋る必要は無いが紅魔館の住人として喋らない理由もない。ここは小悪魔に話を聞いてもらおう。 「心配はいらないわ。ここの門番は優秀だし、レミィが起きれば強引にでも事態を収拾できる」 「でも……」  パチュリーに不安は無くとも、小悪魔は不安を隠せないでいる。当然か。紅魔館が組織的に攻められたことはない。ただの一回戦ったことのある小悪魔が心配がるのも無理は無い。  パチュリーはカップをソーサーに置くと、小悪魔の手を取った。パチュリーよりも少し大きな手だが、弱々しく震えていた。何も心配いらないという風にその手を両手で握り締める。 「安心して、ここには守護結界も張ってあるから、紅魔館では2番目に安全な所よ」 「あ、あの1番安全な所は……?」  まだ不安げな小悪魔に、ふっ、とパチュリーは口元だけで笑みを浮かべた。 「レミリアの隣よ」  紅魔館のもっとも大事なレミリアがいる部屋には、メイドは誰もいない。その必要も無い。レミリアがこの騒動に目を覚ませば、その圧倒的な力をもって安眠の妨げになっている騒動を力ずくで収めるだろう。それはもう、強引な手段で。 「レミリアに添い寝してみる?」 「い、いえっ! 遠慮しますっ!」  怖がりな小悪魔も安全なレミリアの隣はさすがに嫌なようだ。たとえ紅魔館に住んでいても、レミリアには畏怖の念を抱いているようだ。 「少しは安心した?」 「は、はい」  小悪魔がすがるようにパチュリーの方を向いた。パチュリーの握る手に震えは伝わってこなかった。例え少しの間でもいい、不安を解消させることができたのならばパチュリーの思惑は成功したも同然だ。 パチュリーは目を見開いて、上の方に視線を向けた。小悪魔の手を離し、紅茶のカップに手をやった。 「来た」 警戒網に2人の気配を感じ取った。因幡てゐおよび鈴仙・優曇華院・イナバの気配だ。今までのはほんの前哨戦。ただの小競り合いに過ぎない。本当の戦いはこれから始まる。 (20) 一方、少し前の永遠亭にて。  永遠亭は竹林の中に隠されたように立てられた、日本風の家屋だった。ブラックスワンの住んでいる建物と似ていないことも無い。この中で生活をしているのはほんの数人。大きくはあるが、非常にひっそりとした佇まいをしている。その永遠亭の奥の方に、2人の人がいた。 「姫。準備が整いました」  1人、八意永琳は規律正しく正座をして落ち着き払った態度で正面を見据えた。 「あら、早いわね。まだまだかかると言ってなかった」  1人、蓬莱山輝夜は緑茶の入った湯飲みを包んでいる手を膝の上に置きながらゆっくりと口を開いた。永琳とはまた違う落ち着き方で、リラックスしている様にも見える。 「準備を整える準備が整いました」 「遅いわね」  湯飲みに入った緑茶がなみなみと揺れる。 「外の世界の兎は短いですから、我々の手持ちはほぼないのです。しかし、足がかりができました」 「月のイナバと地球のイナバだけかしら、長いのは?」 「地球の兎は日雇いですから。それと、月のイナバはレイセン、地球のイナバはてゐです。これからは目立つ物を付けさせます」  どんな目立つ物を付けようかと考えながら、次の言葉を発する永琳。 「セイバーハーゲンの封印が解けるのも時間の問題です。これからどう動きましょうか?」  セイバーハーゲンの封印が解ける。外の世界でブリジット達が破壊を続けている封印の状態も、永琳は理解しているといった風に話す。なぜ知っているのか? なぜ気にしているのか? これらのことは永琳の口からは語られず、輝夜も理解しているそぶりで話を進める。 「とりあえずはあの館の攻略よ。取り戻さなければならないものもあるでしょう」 「は、そのように動きます」 輝夜の言うことは絶対という様にすぐに返事をする。輝夜は1つ息をついてから緑茶をすする。 「前線の指揮はあのイナバ達に任せておいて、永琳は好きに動きなさい」 「分かりました」 永琳は音もなく立ち上がると、輝夜の前から静かに去っていった。 時間は元に戻る。 (21) 「第3防衛網も突破されました」  担当のメイドから現状が報告される。第一波以来、特に動きも無かったので少し怪訝に思っていた美鈴だが、きりりと姿勢を整えて対抗策を頭に思い描く。 (敵は恐らく2人1組でやってくるはず。それだとこっちは不利になる)  このような状況ならば、館内部の守りの要である咲夜と組んで2対2の対決に持ち込みたいところだが、咲夜は別件で館にいないことは知っている。美鈴も丁度良く咲夜が帰ってくるとは頭の片隅にでも考えていない。自分1人でこの状況を打破しないといけない。美鈴は考える、どうしたものかと。考えるなか、ふと思い出した。  美鈴は咲夜と昼休みを共に過ごしたことが何度もある。その昼休みに咲夜から聞いた話があった。少し前に咲夜はレミリアのお供に館の外に出て、永遠亭に行ったことがあるという。その永遠亭でてゐとレイセンと戦ったことがあると、飲み物を片手に話してくれたことがあった。そのことを昼休みにしっかりと聞いたことがある。  レイセンは永遠亭の封印作業で忙しく、迎撃には遅れてやってきたようだが、てゐは1人でやってきた。咲夜は難なく倒せたと喋っていたが、難しい顔でこう評していた。 『あれが1人で良かったわ。2人で来られたら危なかったわよ』  咲夜が神妙な面持ちで言っていたのだ、危なかったのは間違いないだろう。その危険が今まさに迫っているのだ。それも美鈴1人で立ち向かわなければならない。他のメイドを相方にすれば良いとも考えたが、他のメイド達に美鈴の相方を務められるほどの力量を持つものはいない。相方というのは、それ相応の実力を持っていなければ相手も危険な目にあわせかねないのだ。よって、いやがおうにも美鈴1人で戦わなければならないのだ。 「第4防衛網も突破されました」 「ちっ」  美鈴は舌打ちをした。ここに来るのは確実だろう。それにしても早い。 (咲夜さんが話していた能力のせいか)  美鈴は2人の能力も聞いていた。予想通りだと、レイセンが後方で支援を行い、てゐが前線で戦うという形だ。2人の連携に立ちふさがったメイドはもちろん、その周りの者も被害をこうむっただろう。 「もうすぐ来るわね」  パチュリーの声が聞こえる。 「はい。パチュリー様は手伝ってくれないんですか?」 「こっちはこっちで忙しいの。自らの職務をまっとうしなさい」 「はぁい……」  最初から手助けしてくれるとは思っていなかったが、改めて言われるとがっかりする。警戒網に防衛網、それに守護結界などパチュリーは美鈴ができる限り有利に戦えるように尽力しているのであろう。 「ほら、もう目の前よ」 「分かりました」  美鈴でも肉眼で確認できた。2人の特徴的な姿が目に入る。紅魔館付近の精鋭メイド達をものともせずに進んできて、ついには美鈴の目の前に止まる。  美鈴は一応、確認する。 「そこの2人、止まりなさい。これ以上近づくと迎撃をします」 「最後には門番がいる。師匠の言うとおりだったね」 「それじゃあやろうか」  レイセンとてゐは問答無用に最終防衛網である美鈴が立ち向かってきた。今回は咲夜の盾がない。美鈴がそれこそ最後の盾である。 「パチュリー様、今からあの2人と交戦を開始します。館のことはお願いします」  美鈴は交信を一方的に終了させると、臨戦態勢に入った。 (22) 美鈴が戦闘態勢に入ってもパチュリーは動かない。ただ静かにカップを傾けているだけだ。 「あっちの目的が分からないうちは動かない方がいいわね」  手伝いには行きたいが、思考戦や情報戦には長けているが、肉弾戦ではまったくと言っていいほど役に立たない。それならばここにいて人知れずちまちまとしていたほうがよっぽどいい。  それに、敵の目的が分かるまでは美鈴が保ってくれるだろうと信じていた。 「パチュリー様。お茶のおかわりはいかがですか?」 「いただくわ」  小悪魔はティーポットを傾けると、カップに紅茶を注いだ。香りは少ないが、先程よりは飲みやすい温度になっている。 「ひっ」  小悪魔が短い悲鳴らしきものを上げティーポットを置くと、パチュリーの前から立ち去ってしまった。いったいどうしたというのだろうか? パチュリーは紅魔館周辺の警戒網を感じ取るのを止めて、周囲に注意を巡らせる。 「……!?」  パチュリーはぞっとする。首筋に鋭利なナイフを突きつけられている気分だ。何の気配もさせずに、パチュリーの後ろに永琳が立っていたのだ。 「……警戒網をかいくぐってよくここまで来れたわね」 「あなたの警戒網はたいしたものよ。私も骨が折れたわ」  2人はまるで旧友と挨拶をするかように声を掛け合う。パチュリーは一瞬、驚いた表情をすぐに押さえ、気丈に立ち振舞う。小悪魔は紫のときと同じく、永琳の気配に怖気づいてどこかに隠れてしまったのだろう。 「あなたも飲む?」  パチュリーがカップを掲げる。 「いただこうかしら」  永琳は手近なイスに腰をかけると、大きく足を組む。パチュリーはいつもは小悪魔に任せているカップを自分で出して、まだ温かいティーポットを持ってカップに注ぐ。 「さて、あなたはなぜここにいるのかしら?」 「用があるからよ」 「大将はもっと中に潜んでいるかと思ったわ」 「私の姫は亭の中にいるわよ」  どうやら自分はこの戦の大将だとは思ってないらしい。作戦まで考えておいて、しらじらしい。 「本当の目的はこれだったのね」  パチュリーは上を見上げる。見上げても天井しかないが、2人はその先のものを見ている。 「そう。私たちの利害はまだ一致しているわ」 「……ビッグ・モーラ」  パチュリーの口から出たのは、宇宙に浮かんでいるごく限られた者しか知らない宇宙人の移民船の名前だった。 「やはり見ていたのね」 「当然よ」  それさえなければこんなことを起こさなくてもいいといった口調で足を組み直す。 「あれがある限り私たちに未来は無いわ。結界のおかげでたとえここが無事だったとしても、姫の愛する地球が無事でないと意味が無い。あなたたちも人間がいなくなるのは不都合でしょう?」  たしかにそうだった。  ビッグ・モーラが地球を占領してしまえば人類に生きる術は無い。そうなると人間の収支バランスが崩れてしまい、最終的には人間が幻想郷からいなくなってしまうだろう。  永琳はカップを傾けた。 (23) 「この戦いは、手を組むために仕掛けたもの?」 「察しの通りよ」  2人はお互いに考えを見透かしたように話を進める。 「……この戦いが終わった後は、表面的にはかろうじて安定の冷戦状態に入る。それが一番安全ね」 「お互いに」 「それは表面的だけで本当は内々で手を組み、ビッグ・モーラ撃墜に協力する」 「それが適切ね」  今のパチュリーにはそれを飲むしかなかった。ここで拒否をすれば、紅魔館の内も外もどうなるか分からない。永琳の一声でレイセンとてゐは美鈴を倒して紅魔館の中に攻め込み、永琳はここで力を発揮すればパチュリーも無事ではすまないだろう。それを感じ取ったレミリアが起きだして事を収拾しようと思っても、時すでに遅し。紅魔館はぼろぼろになる。  パチュリーは唇を噛んだ。 「確かにそれが今はベスト……ね」  永琳は紅茶を飲むと、満足気に口を開いた。 「あなたは良い参謀役ね」 「その役で立ちまわる人がいなかったから、埋めただけ」 「お互いにまだまだ計画通りというわけね」 「計画? そんなものはないわ」  永琳はカップを置いて質すように声のトーンを上げた。 「いいえ、あるでしょう。完全な計画なんてありはしない。本当に完璧なら、子どもでも達成できるわ」 「それなら、上手い計画の立て方は、乱されることを前提に事をすすめることかしら」  パチュリーは紅茶を一口飲み、永琳をねめつけた。 「違うわ。分かっているでしょう。あなたみたいな有能な人物なら」 「……その場その場で最良の判断をし、いかに流れを持っていかせないか。いかに自分の机上で事を進めることができるか」 「事が起きる前に収拾できるにこしたことはないけど」   パチュリーはカップを置いた。事が起きる前に収拾しようと思っても、情報が足りない。情報が足りなくては作戦も練ることができない。外の世界のことに関しても同様だ。咲夜が帰ってくるまではあまり動けはしないのだ。 「今日は顔見せだけ。利害が一致しないだけでは敵とは思わない」 「味方だって利害が一致しないこともあるわ」 「違いない」 「ウドンゲ、戦いは終了よ。ただちに撤退を開始しなさい」 『了解しました』  永琳はカップの中のぬるくなった紅茶を飲み干すと、組んでいた足を解き立ち上がった。そしてテーブルの上に置いてあった魔道書でもなければ報告書でもない書物を手に取った。 「これは返してもらうわね」  これとは前にレミリアと咲夜が永遠亭にのりこんだ時についでに拝借した書物だ。 「それはもう読んだし、写本もあるわよ」  それを持っていったところで意味は無い、と言いたげにパチュリーは言う。 「それでもいいの。物が必要なのよ」  茶番だ。今回の戦いは全てが茶番だ。パチュリーは負けに近い引き分けのような感覚にとらわれていた。  永琳は1つ手を振ると、図書館から出て行った。  パチュリーは永琳が出て行ってから3分の間、身じろぎもしなかった。思考も遮断していた。いつ相手が戻ってくるかも判らず、安心と思うまで気を抜けないでいた。3分を過ぎると、イスから立ち上がり天井を仰ぎながら呟く。 「この借り、高くつくわよ」  パチュリーはティーポットのすっかり冷めてしまった紅茶をカップに注ぎ、一口飲む。珍しく怒ったような口調のパチュリーに小悪魔は近づくのもためらわれた。 (これで終わりかしら?)  そんなことは無いと思いながらも、とりあえずの休戦に少しだけほっとする。せめて、この紅茶を飲み干すまでは全てのことを忘れてゆっくりと休みたい。休んだ後は、また戦いが始まる。 ・第六話「家に帰る径」 (24) 紅魔館が襲撃を受けるのと同じ頃、咲夜は外の世界の街を歩いていた。 「ふぅ……」  咲夜は1人夜の街を歩いていた。国内の封印を全て壊し、海外へ遠征をしようというときに唐突に現場から外されたのだ。ブリジットに正体を知られたのか、何者かの意思が働いたのかは分からないが、とにかく突然に封印の破壊の任務から外されたのだ。ストラウスはヘリでとある島に連れていかれたし、レティシアも森島も近くにいない。咲夜はまた1人になってしまった。手元にあるのは別れ際にストラウスから預けられたアタッシュケースに入れられた一台のノートパソコンと仕様書のみ。咲夜はそれを片手にパチュリーに頼まれた本を探しに本屋にいた。 (これからどうしようかしら。国外の封印のありかは分からないし、ストラウス様はブラックスワンとどこかに行ってしまわれたし)  考えとは違く、咲夜は本を選んでいる。ロケット関連の本、宇宙関連の本、月の本……手持ちの現金で買うにいいだけを選んでいた。別に勝手に持ち出してもいいのだが、咲夜の倫理感がそれを許さない。外の世界の出来事とはいえ、盗みを働くわけにはいかないのだ。 (幻想郷に帰ろうか?)  カウンターで本を渡しながら来たばかりの外の世界に見切りをつけようとした。ここにいても何もできることはない。いつでも外の世界に来れるのならば、パチュリーに次の指示を仰ぎ、レミリアに結果の報告をする必要がある。  なけなしのお金を渡し、自動ドアをくぐって外に出た。今の咲夜に帰る場所はない。ブラックスワンの屋敷は知っている人がだれもいなくて居づらいし、実家もあるとは思うが、咲夜の帰る場所ではない。戻る場所は、幻想郷にしかないのだ。  咲夜は空を見上げた。雲が暗く厚く、今にも雨が降りそうな天気だ。ホテルなどをとって雨宿りしたいところだが、もう資金は底をついている。人がいる中で飛ぶわけにもいかず、両手に荷物を持ちながら歩いている。 (やっぱり帰ろう)  咲夜は決心した。まだ外の世界に戻ってから日も浅いが、幻想郷に帰ろう。もうここにいても得られる情報は少ない。そうなれば事は急げだ。咲夜は早足でなるべく人の目に付かない場所を選んで飛んで、ひっそりとした外の世界と幻想郷の境に行こうとしているのだ。  咲夜はテナント募集中と書かれた空きビルを見つけ堂々と中に入った。外の世界の人間はメイド服の他人がどこで何をしようかとあまり気には止めない。そのビルの屋上に立ち、意識を集中させた。空を飛ぶイメージ、そして飛翔。月が空と大地を照らすなか、咲夜は空を飛んだ。  目標は外の世界に来たときと同じく博麗神社に良く似たうらぶれた神社。そこならば確実に境が見つかる。速度を速め、目的地へと向かった。 (25)  咲夜は神社の近くの小道に降り立った。空の上からでは目標である神社が見つけられないからだ。 (確かここでいいはず)  来たときは紫に邪魔をされたが、今回はそんなことはないだろう。草をかき分け木々の間を進み、どんどんと林のなかを進んでいく。同じ木々の中でも見覚えのある景色が流れ始め、やがて目標物を見つけた。  うらぶれた神社の前に歩いて行くと、雨がぽつりぽつりと降りだしてくる。嫌な感じだ。服が濡れて張り付いて気持ちが悪い。今回は着替えを持ってきていないから特にだ。早めに幻想郷に帰ろうと三つ編みをしてあるリボンを解き、演算魔法陣に霊力を込めて魔法陣を回し始める。そしてほどなく、普通は視認できない外の世界と幻想郷の境が見えてきた。 「これ、通ってもいいのかしら?」  誰もいないことをいいことに、思ってることを口にしてしまう咲夜。結界を触ってみると、感触はなく触った部分が水面の波紋のように揺れている。さらに進んでいくと、すすすと結界の中に吸い込まれていく。  結界を通るときに目を閉じていた咲夜だが、通り抜けたと思って目を開けると、そこは見慣れた博麗神社だった。 「ここ……結界を通り抜けた場所?」  見回すと確かにそうだった。幾日か前に霊夢が怒声を上げて飛んできた場所と同じだ。境内の前に回りこむと、霊夢がお茶をすすっていた。 「あら、咲夜、久しぶりね」  まったりと霊夢が咲夜に声をかける。先日のことはもう怒ってないのか、咲夜を見てものんびりとしている。 「あなたも大変ね。レミリアのわがままに付き合わされて」  怒っているどころか、同情されている。別にレミリアのわがままに付き合わされるのもいつものことなので、咲夜はどうとも思っていない。演算魔法陣が書かれたリボンで三つ編みを戻しながら、縁側に霊夢と並んで座る。 「私にもお茶をくれないかしら?」 「いいわよ。ちょっと待っててね」  霊夢はお茶の葉を取り替えようか迷っているようだが、もったいないようで取り替えずに急須にお湯を注いだ。咲夜は縁側に腰を落ち着かせ、空を見上げた。結界のおかげだろう、ここではビッグ・モーラもリトル・モーラも見えないようだ。ここで座っていると外の出来事を忘れそうだが、そんなわけにもいかない。 「そう言えば館のほうでなにかあったみたいだけど?」  霊夢がお茶を淹れつつ話題をふる。 「館で?」 「私も小耳にはさんだくらいだからよく知らないけど、兎がどうとか……」 「兎ですって!?」  咲夜が不意に大声を出して立ち上がる。兎もからんでくるのだろうか、この出来事は。 「な、何よ、そんなに大きな声を出して」  こんな所でお茶をすすっている場合ではなかった。早く紅魔館に戻らないといけない。 「ちょっと用事を思い出したから、行くわね」 「ちょっと、お茶は?」 「悪いけど、飲まないでいくわ」  ここでは人目を気にしないで飛べる。咲夜は助走をつけて紅魔館へと急いで飛んでいく。 (26) 「何よ、これ……」  久しぶりに戻った紅魔館は、ぼろぼろになっていた。紅魔館の外壁はところどころが崩れており、戦いの激しさが見て取れる。咲夜は大地に足を降ろし、復旧作業の指揮を執っているのであろう美鈴に近づいた。美鈴はその気配に気付いて振り向いた。咲夜だと認識すると、笑顔を見せて口を開いた。 「あ、咲夜さん」  久しぶりに見た美鈴もぼろぼろだった。帽子や衣服のあちこちが千切れており、体にも擦り傷や切り傷が多数見受けられた。平気な顔で立っていることを考えれば、致命的な傷は負っていないのであろう。 「何があったのよ?」  美鈴に問いただす。よっぽどの事が無い限りこうはならないだろう。災害があってもこうはならない。 「さっきまで兎たちが攻めてきて、大変だったんですよ」 「兎って、月の?」  少し馬鹿なことを聞いたと言ってからそう思った。月の兎がここまで来れるはずがない。少なくとも、幻想郷までは。 「いえ、地上というかここら辺の兎です。前に咲夜さんが話してくれた兎たちです」  咲夜はこめかみを押さえた。自分がいない間にいったい幻想郷で何が起こったのだろうか。自分が外の世界にさえいかなければもっと上手く立ち回れたのではないだろうかと。かと言って主の命令に背くわけにもいかなかった。咲夜は複雑な思いで美鈴に尋ねた。 「お嬢様は無事なの?」  敵の目的はなにかは分からないが、主の無事を確認するのはメイドの長として当然のことだ。 「まだ確実な情報は入っていませんが、何事もなかったように眠っているみたいですよ」  見上げれば太陽はまだ高かった。聞くまでもなくレミリアは無事だろう。この程度で傷つくはずがない。人間や他の妖怪にとっては活動時間だが、ヴァンパイアのレミリアにとっては睡眠時間だ。ただ眠っていてもなんらおかしくはない。 「パチュリー様は?」  紅魔館でもう1人の大事な住人であるパチュリーも心配だ。むしろ、こちらの方が心配ではある。 「パチュリー様も無事ですよ、私が戦いに入る前まで交信を続けてましたから」  とりあえず最低限の者の無事を確認できただけだが、咲夜はほっと胸を撫で下ろした。 「あなたは……大丈夫そうね」 「あ、ひどいですね。これでも大変だったんですから」 「そうかしら」 「咲夜さんが言ってたあの2人も同時に攻めてきたんですよ」  レイセンとてゐが同時に攻めてきたのか。1人でその猛攻を防いだのだろう、言うとおり大変だったに違いない。 「まぁ、お疲れ様。復興するにはまだ時間がかかりそうだけど」 「そうですね。幸いに重傷者はいなかったですから、すぐに復興作業に取り掛かります」 「それじゃあ私は中の様子を見てくるから、外は頼んだわよ」 「はい」  美鈴の張りのある返事を聞いた後、咲夜は歩いて紅魔館の中に入っていった。 (27)  咲夜が紅魔館に戻ってから最初に行ったのは図書館だった。普通は主であるレミリアの所に行くのが筋ではあろうが、まだ昼でレミリアは寝てるだろうし、相応の力を持っているので心配する必要がなかった。心配なのはパチュリーの方だ。作戦の指揮を執っていたと思うし、防衛網に警戒網と張り巡らしたであろう。そのおかげで相当な魔力を消費したに違いない。疲弊していてもおかしくない。喘息持ちなので、特に心配だ。 「パチュリー様?」  図書館に入って最初に見た人影はパチュリーだった。やはりと言うべきか小悪魔の姿は近くにない。パチュリーはカップを持ったまま立ち尽くしていた。何があったのだろうかと問いただす前に、パチュリーが口を開いた。 「あら、大丈夫だった?」  別れてから随分と経っているのだが、つい最近別れたかのように声をかけられた。 「はい、おかげさまで」  咲夜もおつかいから帰ってきたときのように返事を返す。そして、パチュリーのつま先から頭の先まで見わたした。  大丈夫なのはパチュリーのほうではないだろうか? いまにもふらついて倒れそうなくらい弱々しく見える。それをただしても正直に何かあったとは話してくれないだろう。そうなるのは分かっているので、あえて普通に話しかけた。 「パチュリー様、外の世界の本を持ってきましたよ」  咲夜はアタッシュケースの中からノートパソコンと買ってきた本を取り出して、パチュリーの目の前に置いた。周りにずらりと囲まれている本とは随分と形が違うので訝しげな表情をしながら咲夜に説明を求める。 「これは本と……何?」  買ってきた本は本と認識しているらしいが、ノートパソコンについては何かはよく分かっていないようだ。 「まぁ、正確には本と違いますが、媒体としては似たようなものです」  今度はパソコンの仕様書をパチュリーの前に置く。これは魔道書と同じ形容をしているので、パチュリーにもすぐに本と分かった。 「これが仕様書です」  魔道書にも負けないくらいに分厚い説明書を嬉々として見つめるパチュリー。外の世界の人間ならば読むのさえ億劫になりがちだが、パチュリーならば喜んで読むだろうと咲夜は考えていた。事実、前に出された途端に仕様書を読み始めていた。 「……ぱそこん、と言うのね」 「はい」 「なるほど……分かったわ、ここはいいからレミィに報告にいってもいいわよ」  仕様書から顔も上げずに喋る。持っていた紅茶のカップはいつの間にやら脇に追いやられていた。 「お嬢様はお休み中ですよ」 「なら夜まで休みなさい、疲れたでしょう」 「そうですね。館の仕事や外の後処理は他のメイドに任せて夜まで休ませてもらいます」 「おやすみなさい」  目礼をして、図書館から咲夜は出て行く。パチュリーは黙々と仕様書を読んでいた。戻る途中に、どこかに隠れていたのだろう小悪魔に会った。 「あの、パチュリー様は?」 恐る恐る小悪魔が尋ねる。 「今は読書中よ。紅茶が冷めてたから、新しく淹れ直したほうがいいわ」 「は、はい」  小悪魔は少しほっとしたように息をつくと、紅茶を淹れ直しにキッチンに向かった。 (28)  咲夜は目が冴えていた。まだ昼間だからということもあるが、眠ろうと思ってもなかなか寝付けない。ホットミルクでも飲もうかと思い、キッチンへと向かった。  キッチンに行くと、図書館にいたと思われたパチュリーがそこにいた。何かをやっているようでごそごそと動いている。何をやっているかと思って横から覗き込んでみると、コーヒーを淹れているようなのだ。それも不器用そうに。咲夜が覗いているのを見つけると、ばつが悪そうな顔をした。 「あ……」 「いえ、別にいいんですよ」  まったくもって別によかった。咲夜がパチュリーの居場所である図書館に出入りするように、パチュリーがキッチンに入っていてもなんの問題もない。 「紅茶はもう飲んだから、今度はコーヒーを飲もうかと思って」 「コーヒーですか」 「でも上手くいかないものね。私が淹れてもあんまり美味しくないの」  それは何が悪いのだろうと咲夜は考えていた。豆か水か淹れ方か? 思い当たるふしはいくつもある。 「それで、あなたに最初の仕事を与えるわ」 「はい、なんでしょう。なんなりと」  寝付けないから、別に動いていても構いはしない。 「コーヒーを淹れて欲しいの。あなたのじゃないと美味しくないから」 「はい、分かりました」  パチュリーはそう言って図書館に戻っていった。  咲夜は苦笑して戻ってきてからの最初の命令を実行に移すべく行動を開始する。幻想郷のごく一部の者しか知らない場所にあるミネラル分の少ない湧き水をポットに入れて沸かす。その間にコーヒーを淹れるための準備を整える。咲夜は多少面倒だが、サイフォンを使って本格的にコーヒーを淹れる。ここがパチュリーが自分で淹れたコーヒーとの違いだ。 お湯が沸くと、サイフォンに入れて蒸らす。まんべんなく蒸らした後に、少しだけかき混ぜる。そして火を止める。カップに注がれたコーヒーは湯気といい香りを立ち上らせている。カップをソーサーに乗せ、それとクッキーをトレーに乗せて図書館で待っているパチュリーの元へと持っていく。 「パチュリー様、お待たせしました」 「ありがとう」  パチュリーは夢中になってパソコンの仕様書を読んでいる。咲夜はふとパソコンの画面を覗くと、デスクトップに見慣れないものを見つけた。 「パチュリー様、ここに動画ファイルがありますよ」 「動画、ふぁいる?」  パチュリーには聴き慣れない言葉だったらしい。咲夜はマウスを操作してそのファイルをクリックすると、すぐにそれは開かれる。映っていたのはストラウスだった。 『あーあー本日は晴天なり。これを見ている頃には私は島かどこかへ連れて行かれ、ロケットを扱うための訓練を受けさせられている頃だろう』 「これは、ストラウス様のメッセージ?」 「しっ」  パチュリーがひとさし指を唇に当てる。 『と同時に、オーバームーン作戦反対派が動き始める頃だろう。島への弾道ミサイル……いや、巡航ミサイルが打ち込まれる可能性がある。最悪、私が何とかするが、念頭には置いてほしい。後のことはパソコンの中に残してあるからそれを見てほしい。では、パチュリーとレミリアに月の恩寵があることを』  ここで動画は終わる。パチュリーはコーヒーを一口飲むと、ゆっくりとパソコンの仕様書に目を落とした。驚いているのか落ち着き払っているのか、ページをめくる手以外は微動だにしない。 咲夜はあっけにとられて目を点にした。このストラウスという人物はどこまで事を見ているのだろうか。島にミサイル、まったくもって話が壮大になってきた。ビッグ・モーラが現れて人類が一致しているかのように見えた咲夜だが、人類は一枚岩になれていないようだった。  やはり人間の敵は人間か。だったら妖怪の敵は妖怪で、宇宙人の敵は宇宙人か? どうでもいい論法だが、今は何となく現実感がある。 「このパソコンとやらに全てが入っているようね」 「ストラウス様の言いぶりからはそうなります」  ぽんぽんとパソコンを叩く。 「全ては、まだ始まってもいなかったのね」  本当の戦いはこれから始まる。妖怪と人間と宇宙人の戦争が。 ・第七話「交わる点」 (29) 「そう、分かったわ咲夜。外の世界でのお勤めご苦労様」  時間は夜になった。ヴァンパイアであるレミリアが活動しだす時間だ。咲夜はあまり寝てはいないがゆっくりと体を休めたので、夜になってもあまり支障なく動けた。むしろ、外の世界での話を早くしたくてレミリアよりも先に起きてしまったくらいだ。すぐに話しても良かったが、食事の準備と片付けもあったし、結局話せたのは食事の間のおやつの時間だった。お茶を淹れ、手作りのいちご大福をレミリアの前に出し、仕事が一段落ついてからようやく咲夜は口を開くことができた。  咲夜は見たこと、聞いたこと、感じたことの全てを余すことなく主であるレミリアに報告した。  いちご大福を頬ばりながらメイド長へとねぎらいの言葉をかけるレミリア。 「外の世界もいろいろと大変な様ね」  咲夜とは先に接触していたパチュリーだが、詳しい話を聞くのは始めてだろう。お茶の入った湯飲みを両手で包み込みながら、ゆっくりと咲夜の話を聞いていた。 「さて、パチェはここからどんな推論を導くのかしら?」 「……いくつかの推論はあるわ。ただ、それが本当なのかが確定しない」 「だから、まだ言いたくない」 「ええ」  ここからどんな推論を立てているのだろうか。そんなことはないとは思うが、幻想郷以外の人類が滅亡するというシナリオも予想されうることなのだろうか。 「自分では考えてないの?」 「考えるのはパチェの役目。私が動くときは、事が動くときよ」  つまりあまり動く気はないらしい。あんまりせこせこと動いている主はあまり見たことが無い。 「レミィは今回の騒動について知ってる?」 「咲夜が起きてくる前に、メイドと門番に聞いた程度ね。兎が攻めてきたのでしょう」 「表面的には兎が攻めてきた。でも、本当は宇宙人が攻めてきたのよ」 「宇宙人……蓬莱山輝夜ですか?」  緑茶の葉っぱを確かめながら咲夜は確認する。 「それも理由は知っていると思うけど、内部の図書館まで来たのは八意永琳だけよ」  やはりそうか。話を聞いたとき、この戦いはあまりにも攻略戦とはかけ離れていた。あの姫はあまり動く気はなさそうだったので、動いたのは実質的なリーダーの永琳だったのだろう。ということは、この戦い自体が陽動で、本当は永琳がここにくるのが目的だったのか。 「理由はビッグ・モーラ撃墜に協力しようとのことよ。お互いにまだ利害は一致しているって」 「まだ、ですか?」 「そう、まだ」  パチュリーが『まだ』を強調したのが少し気にかかった。 「しかし、星人フィオと戦いながら月人とも戦わなければいけないのですか?」  パチュリーはここで湯飲みに満たされたほうじ茶を飲む。 「何もしないなら良し、何か起こるようだったら、その時考えるわ」 「ビッグ・モーラ撃墜の時期はまだなのでしょう」 「えぇ。不可能ではないけれど、まだ情報も足りないわ」  現状でのビッグ・モーラ撃墜は不可能ではないらしい。それがどういう方法であるかは咲夜は知らなかった。あのストラウスでさえてこずっている感じにも思えたのに、パチュリーは軽々と言ってみせた。 「まずはこのパソコンを全て見てみないと何とも言えないわ」  そう言って仕様書片手にパソコンをいじくりだす。 「咲夜、いちご大福はおかわりはあるの?」 「甘さ控えめにしていますから、二つまで大丈夫です」 「ならもう一つちょうだい」 「はい」  咲夜はこんなやり取りが、居心地がいいと思っていた。 (30) 「そう言えば、そのパソコンは電源とか大丈夫なんですか?」  根本的だが核心を突いた質問だった。電化製品を動かすためにはもちろん電気が必要だ。幻想郷にも電気は存在するが、外の世界で一般的に普及しているコンセントはない。パチュリーはパソコンを渡したときから起動させているが、バッテリーの切れる気配がない。そもそも、咲夜はストラウスに電源コードさえ渡されていなかった。 「仕様書にストラウス手書きの書があったわ。電源は魔力で大丈夫だし、魔力でいんたーねっととやらもできるみたいなのよ」  まったく、あのヴァンパイアはどこまで思慮深いのだろうか。まったく底が見えない。どれほど先を読んでいるのだろうか。そしてパソコンの改造まで行ってるとは、その知識も相当なものだ。 「星人フィオに関する情報もあったわ。あなたの話してくれた内容と変わりなかった。いえ、それ以上の情報もあった」 「何かしら?」 「オーバームーン作戦。簡潔に言えば、月へロケットで行く作戦よ」 「へえ、いい作戦じゃない。咲夜、あなたも乗せてもらったら」 「お嬢様、月に行くにはそう簡単なことではないんですよ。私のようなただの人間が乗れるものではないのです」  ただの人間ねぇ、と言う声が聞こえてきたが丁重に受け流すことにした。 「だったら、私が乗ろうかしら。月には興味があるわ」 「宇宙空間は太陽光でいっぱいです。とてもお嬢様が耐えられるとは思えません」  耐えられないのは太陽光だけであって、その他の環境には耐えられるだろう。それに少し窮屈だろうが、宇宙服を着ていれば大丈夫なような気もする。 「ならますます咲夜が宇宙に行きなさい。そして私に月や宇宙がどうなっているかを伝えなさい」 「心得ておきます」  本当に行けるとは思っていないが、ここで否定しては顔を合わせるたびに言われることになるだろう。そうならば、とりあえずは肯定のような答えをしておいたほうがいい。  咲夜は話題を変えるように話をふった。 「しかし、演算魔法陣という便利なものがあるのなら、大掛かりに結界に干渉せずとも良かったのではありませんか?」 「演算魔法陣は使い捨てで、作るのには時間がかかるの。それに、レミィが派手にやろうと言い出したから」 「あぁ、やっぱりお嬢様が」 「えぇ、そういうこと。そのおかげで喘息をこじらせたわ」 「そんなこともあったわね」  咲夜は苦笑しながら天井を仰いだ。  今頃、森島たちは何をしているのだろうか。国内の封印を全て破壊し終え、国外へと出立しているときだろうか。それとも、もう女王は復活していることだろうか。ここ最近でかなり大変な目にもあった。少しおとなしくしてもらいたい咲夜であったが、それも状況が許してくれないだろう。 (31)  咲夜はパチュリーが休んでいるところを見たことがない。人間から見れば長寿を誇る魔女であるのだから、生活のサイクル自体が違うのかもしれない。三年起きては三年眠っているのかもしれない。少なくとも、咲夜が紅魔館に来てから睡眠をとっているところはお目にかかれていない。  そのおかげだろうか、パチュリーはパソコンに関してかなり詳しくなっていた。最初は仕様書を見ながらおぼつかないようにキーボードを叩いていたりマウスを動かしていたが、今となってはブラインドタッチで咲夜も見たことのないものを開いている。そんなパチュリーがいったん手を止め、天井を見つめた。 「少し、空気が変ったわね」  レミリアが紅茶を片手に返事を返す。 「ええ、そうね」 「何がですか?」  二人の会話に的を得ないような返事を咲夜が返す。いつもはのほほんとしている門番の美鈴が常に警戒を続けているのが変ったといえば変っているのだが、それ以外に変ったところは咲夜には感じ取れなかった。 「やはり咲夜は人間ね」 「それはそうですよ」  ヴァンパイアや魔女のように感覚が鋭いわけでも知識が豊富なわけではない。特別な力は持っているが、人間には違いない。また、ずっと人間でありたいと思っている。  ピコーン  そのとき、紅魔館に似つかわしくない電子音が鳴り響く。音源はパチュリーの手元にあるパソコンだった。  「ストラウスからのメールね、そのまま読むわ」 「私が読みましょうか?」 「大丈夫よ。えーと……『パチュリーへ。魔力での直接通信はブリジットに傍受されるおそれがあるのでメールという迂遠な手段を取った。情報はパソコンに入っているので手短に用件だけを書くことにする。島の警戒レベルが2段階ほど上がっている。オーバームーン作戦反対派が動き出す頃だ、注意をして欲しい。そして、じきに私の行動にも制限されるようになるので思うとおりにメールが送れないようになると思う。以上』……とのことよ」 「なるほど、だから空気も変ったんですね」  咲夜が合点がいったような感じで声を上げる。実際にそうとは限らないが、当たらずとも遠からずといった感じか。 「と同時に星人フィオが外から揺さぶりをかけたと思っていいわ」 「星人フィオが? どうしてです?」 「人間勢力を分裂させるため、切り崩すためによ」 圧倒的な戦力を持つ敵と戦う場合は戦うよりも降伏する方が簡単で生き延びる確率も高い。始めからヒビが入っていた人間世界に、圧力を加えてもっとヒビを入れようとする算段か。そうすれば分裂するなり弱るなりするだろう。 「ここには影響はなさそうだけど、リトル・モーラが地上に着陸したようね。あの空の邪魔なものの位置もかなり変った」 「ここからでは分かりませんね」  リトル・モーラが地上に着陸したらどうなるか。リトルとはいえ巨大な物質、大変なことになるのは火を見るより明らかだ。建造物の破壊やインフラの寸断、都市機能の麻痺などが起こるだろう。 「そろそろ、悠長にお茶を飲んでる場合じゃなくなるわ」 「ふん……そうかしら」  今もそんな状況には変わりが無いが、こう緊張感が無い状態ではそんなことさえ忘れてしまう。このまま何となく事が終わって、何事もない日々が続くかもしれない。そんなことがありえるのだろうか? (32)  咲夜が幻想郷に戻ってきてから一週間が経った。パチュリーの予想が外れたようで、幻想郷は静かなものだった。外の世界はどうかは分からないが。  パチュリー曰く、二十個以上の封印を壊したがアーデルハイトが復活する兆しはいまだ見えず、希望と疲労をつのらせたまままた次の封印に向かっているという。残る封印はあと七つとも言っていた。女王復活も間近だ。そんな中、咲夜はパチュリーに命じられコーヒーを図書館にまで持ってきていた。 「パチュリー様、コーヒーをお持ちしました」  図書館に来たのはいいが、コーヒーを頼んだパチュリーがいない。本は開きっぱなしでノートパソコンもスクリーンセーバーになっていない。席を立ったのは最近と思っていいだろう。  いったいどこに行ってしまったんだろう、このままではコーヒーが冷めてしまう。冷めたコーヒーなど美味しくもなんともない。もう一度温め直せと言われるかもしれない。言われなくとも、美味しいコーヒーを飲んでもらうために温め直そうと思っていた。  ピコーン  一週間前と同じようにメールが紅魔館に届く。読む役割のパチュリーはどこにいったのか、今ここにいないことは確かだ。 「……」  待っていればパチュリーは来よう。しかし、その前にどんなメールかも気になる。ちょっとだけパソコンを覗き見る。やはりストラウスからだった。むしろそれしかあり得ないだろう。内容が気になって、ついついコーヒーの乗ったトレイ片手にマウスを操作する。 『萩なずなです。ヴァンパイア王、赤バラさんは島の一箇所に軟禁されて外に出ることができない状態なので、代わりに私が情報をお伝えします。連合の原子力潜水艦二隻の位置が確認できません。SLBM搭載型ですが、赤バラさんは弾道ミサイルはまだ警戒しなくていいと言っていました。ただ、島を潰すために巡航ミサイルが発射されると思います。いざとなれば赤バラさんが何とかすると言ってましたが、警戒は怠らないでほしいとも言っていました。最後に、このアドレスから別部局のコンピューターにクラッキングすることができます、使ってください。』 「原子力潜水艦……巡航ミサイル……」  唇に手を当てて、思わず呟くように喋ってしまった。咲夜が外の世界から追い出されていってから、目まぐるしく世界情勢は変っているようだ。 「何してるの?」  足音もたてずにパチュリーが咲夜の後ろまで迫っていた。いつものように魔法を使って移動していたのだろう。咲夜の肩に手を置き、頭を前に出してディスプレイを見つめる。 「パ、パチュリー様!?」 「メールを勝手に読んでたのね」 「す、すみません」 「別にいいわよ、いずれ伝えられる情報だし」  パチュリーが席につき、咲夜が開いたメールを改めて見直す。それと同時に自然な動作でパチュリーの手元にコーヒーのカップを置く。 「そう、原潜が……やはりと言うべきね」  メールを読み終えたパチュリーが神妙な面持ちでコーヒーを一口すする。 「あの、パチュリー様は分かっているんですが?」 「何が?」 「巡航ミサイルとかです」 「もちろん、ネットで調べていたわ。ストラウスからの情報もあったし、分からないことはないわ」  当たり前のように言ってのける。この魔女の知識に外の世界の技術が加わればどんなことでも可能になりそうだ。送られてきたアドレスから、どこぞのコンピューターにもクラッキングを仕掛けるかもしれない。 「さて、島への攻撃も時間の問題かしら」 「攻撃されたらどうするんですか?」 「迎撃するわ。まぁ、あなたは変らず動いてもらえればいいわよ」 「変らずって……」  いったい何をすればいいのだろうか。こんな状況でただの人間は、お茶くみ程度しかやることはないのではないか。そうは言っても、巡航ミサイル発射が秒読み段階になって咲夜も緊張していた。 (33)  夜。レミリアとパチュリーは変らず紅茶を飲んでいた。別にここが巡航ミサイルに狙われているわけではないが、咲夜も緊迫した空気になってきたにも関わらず瀟洒に仕事をこなしている。内心は別として。 「パチェ、咲夜が外の世界に行っていたときに話していたわね。星人フィオはもう一段仕掛けを打っていると。今回はそれは分かるのかしら?」  紅茶を一口飲んでからレミリアはパチュリーに話を振る。パチュリーはその言葉にパソコンから目を離し、口を開く。 「どこかで弾道ミサイルを発射させる必要があるわ。おそらくヴァンパイア王も同じ事を――」 「パチェ、夜の女王は私よ。そして、ヴァンパイアの王も私よ」  パチュリーの言葉を遮り、レミリアは凛々しく羽ばたく。他の者が言うと高慢極まりない言葉だが、レミリアが口にするとそうと思わないと間違いのような雰囲気をかもしだしている。 「そうね。前言を撤回するわ」  咲夜は静かにレミリアを見つめている。レミリアがストラウスと同じような髪の色をしていると思っていた。 「星人フィオの発想は読みにくいけど、私ならそうするわ。少なくとも私が地球を侵攻する場合わね」 「そう考えればうまくいくの?」 「ええ。空気が変った意味も、それなら納得できるわ」 「ふぅん……」  理解したようなしていないような、そんな感じの返事をする。どこかで弾道ミサイルを発射させる必要がある。かなり物騒な話だ。 「……ん」 パチュリーが少し間の抜けた声を出し、カップを口から離した。島に巡航ミサイルでも打ち込まれたかと思って、咲夜はパソコンを覗き込んだ。 「どうしました?」 「いえ、島側の迎撃に出した潜水艦が沈められたみたい。まぁ、予想通りね」 「それは、どういう意味合いをもっているのかしら」  レミリアが疑問点をぶつける。咲夜も何も言わないが、回答を望んでいる。 「防衛ラインは決まっているから……」  パチュリーは少し含みを持たせたような感じの喋りになる。誰かが答えるようなことを予想しているような。 「敵潜水艦はすでにミサイルの射程に島を捉える位置にいる、ですね」 「そうよ。良く分かったわね」 「一応、気にかけてますから」  それはもう、本当は給仕している手が震えそうなくらいに。 「ミサイルねぇ、本物を見てみたいわね」 「お嬢様、あまり物騒なことは仰らないでください」 「でも本当よ。ロケットにミサイル、興味深いわ」  ふふんと笑って紅茶を一口。そんなものはあんまり見たくは無い。飛翔体なんて、魔理沙1人で十分だ。 「咲夜」 「はい」 珍しくパチュリーに名前で呼ばれ、少しどきっとした。そんな気持ちを隠しながら、しっかりと返事を返す。 「もう体を休めておきなさい。そして、夜が明けたら図書館に来なさい」 「え、しかし……」 「パチェの言うとおりにしなさい。私が許すわ」 「……はい。分かりました。失礼します」  咲夜は一礼を残すと、自室へと戻っていった。 「さて、私が目覚めたときにはどうなっているのかしらね」  不敵な笑みを浮かべながら、カップの紅茶を空にした。 (34)  焼きたてはサクッサクで中はふんわりマドレーヌ。体は十分に休めたし、昼食のデザートに図書館に持って行くお菓子を作っていた。  体は休めても、気分が安らぐことは無いのでこうやって少しでも体を動かして気分を紛らわすしかない。 「あら、おはよう」  パチュリーがキッチンにやって来た。もう昼なのだが、咲夜がまだ寝ていると思ったのだろうか、コーヒーを淹れにきたようだ。 「おはようございます、パチュリー様」  昼間だがパチュリーにあわせて朝の挨拶をして咲夜はふかぶかと頭を下げる。 「体は十分休めたかしら?」 「はい、万全です」  前と違って夜に体を休めた分、よく睡眠もとれた。 「ならいいわ」 「さ、パチュリー様、昼食が冷めてしまいます。早く図書館に行きましょう」 「そうね」  2人並んで図書館へと向かった。 「パソコンを見ておいて、そろそろ攻撃があると思うわ」  昼食を食べながらパチュリーはパソコンを指さした。 「そろそろって、昼間ですよ。この時間帯の攻撃はヴァンパイア王……いえ、ストラウス様にとっても不利じゃないですか?」 「だからよ。オーバームーン作戦反対派にちょっとでも注意深い人がいたら昼間に攻撃を仕掛けるわ」 「……そうですね」  レミリアもそうだが、ヴァンパイアは夜は強いが昼間にはその力は弱まる。ならば真昼に攻撃があってもおかしくはない。むしろ、真昼に攻撃があるほうが自然だ。宇宙人もいたことだし、ヴァンパイアがいてもおかしくないと思う人が必ずいるはずだ。  パチュリーは昼食を食べ終えてごちそうさまと言った後、マドレーヌに手をつけた。その時だった。 「パチュリー様、来ました! 4つです」  パソコンの画面にミサイルと思われる反応が4つ現れた。パチュリーは紅茶をすすりながらも、反応は冷ややかだった。 「分かってる、さっき原潜から新型の巡航ミサイルが発射されたわ。哨戒機は発見が遅れたようね、私の感覚が捕らえる方が早かったわ」 「管制室にアラートがかかりました。島からの距離は400kmです」  こんなのが一本でも直撃したら島は跡形も無くなくなるはずだ。 「これがミサイルの感覚ね。すごく速いわ、これはブラックスワンに迎撃は無理みたいね」  マドレーヌを口にして、目を閉じてミサイルを感覚に捕捉する。 「迎撃ミサイル出ました」 「敵ミサイルの性能はかなり高いし、島側のシステムも不十分よ。高度の低い相手に対応できていない」 「一基、命中しました。しかし、まだ三基生きています。距離50km」 「無理ね。巡航ミサイル到達まで3分36秒をきったわ。島の兵装では不可能よ」 「なら、島はどうなるんですか?」  ストラウスや島の人々はこのまま見殺しになってしまうのか。 「私が動くわ」 「パチュリー様が?」  パチュリーが結界干渉時と同じように、中空に魔法陣を描きながら魔力を集中させている。残り少ない時間のなかで、ミサイルを迎撃しようとしているのか。 「残り40km。依然、三基が健在!」  パチュリーは黙って魔法陣を踊るように描いている。本来ならばその姿に目を止めるところだが、今はそれどころではない。 咲夜は画面に釘付けで、パチュリーの動きは見ていない。 「これで、ミサイルは 迎撃できるはずよ」  魔法陣が光りだし、回りながら収縮を開始する。後は陣を動かす魔法の言葉を言うだけだ。 「待ってください! 巡航ミサイルの反応……全て消えました」   咲夜は顎から伝わり落ちる冷や汗を拭うことなくパソコンを見つめていた。 「同時に全ての反応が消失するなんて不自然すぎます……」  パチュリーは魔法陣を止め、思考を巡らすべくあごに手を当てる。 「ストラウスが破壊した? いえ、違うわ。これは、隙間に落とされたのね」 「隙間……あの妖怪が?」  ここで紫が動く理由はなんだろうか。前に言っていた最悪の事態をさけるためだろうか。 「その痕跡が僅かながらあったわ……間違いない」  ミサイルさえ捕捉できない咲夜には分かるはずがなかった。 「これは、利用されるわね」 「利用?」  咲夜はようやく冷や汗を拭って聞き返す。 「GM御前は自分の地位を確保するかわりに地球に星人フィオを受け入れる……という情報を反対派に流すはずね。そして、その関係で得られた技術を今回のミサイル迎撃に利用したと」 「……ミサイル消滅は確かに異常ですからね」 「それによって御前の勢力も削ろうというわけよ。まったく、ブリジットも侮れない」 「ブリジットが……」 「そのくらいは平気でやってくるわよ。ストラウスもそう読むはず」  ただ作戦反対派が巡航ミサイルを使用して島を破壊しようというだけなのに、裏ではブリジットが偽情報を流すというのか。確かにヴァンパイアよりも現状で確認できる宇宙人の技術のほうがよっぽど現実味はあるだろう。  こんな異常な事態に、咲夜はじっと立っていることしかできなかった。 ・第八話「強襲、幻想郷」 (35) 「あなたは私の警戒網にかからずに入ってきたわね」  パチュリーは中空に描かれた魔法陣を消し、図書館の出入り口のドアに背を向けながら誰かに話しかけている。もちろん、咲夜も気付いていない。その誰かの正体を見るために振り返る。 「八雲……紫」  咲夜はダムの底に沈んだ忘れかけられている村の道で会った以来だ。この妖怪が現れたということは何を意味することだろうか? 「久しぶりね」  悠々と歩いてきて、立ちつくしている咲夜の横を抜け、パチュリーの対面のイスに座る。 「ミサイルは外の世界から消してきたわ」 「分かってるわ。痕跡を残したのでしょう、わざと」 「そうね。ブリジットも気付くはずよ」  紅茶の入ったティーポットを傾けて、パチュリーの前に置かれたカップに紅茶を入れる。そして、自分で飲みだした。前に会ったときもそうだったが、この妖怪は人が飲んでいる物を飲みたがるのか。 「あなたの目的は、何?」  咲夜は問う。紫はカップから口を離し、ふぅと息をつく。 「最悪の事態を起こさせないことよ」  その主張は一貫している。だが、そもそもこの妖怪が表す最悪の事態とは何なのだろうか。それが分からない限り、警戒は解くべきではない。 「最悪とはいかなくても、厄介な展開になることは予想できるわよ」 「異常な事態と気付いたブリジットは世界中に巡らした網を調べ尽くすはずよ。そして、ここが空白の部分だと気付く。そうすれば侵攻してくるはずね」 「侵攻……兎に続いてダムピールも攻めてくる。いえ、どうして攻めてくる理由があるの?」 「あら、教えてなかったの?」 「えぇ……ここにはヴァンパイア女王がいるわ」 「ヴァンパイア女王……アーデルハイト」  なるほど。それならここに攻めて来る理由も分かる。ヴァンパイア女王の犠牲があればダムピールは人間になれるし、ビッグ・モーラを撃墜させる必要もある。しかし、それならば教えてくれても良かったのにと咲夜は思った。反面、教えられたら情報が漏れる恐れもあると思っていた。 「兎みたいに集団で攻めてくることはないわね。少数精鋭、それと人間かしら」  来るとしたら、咲夜が国内の封印の破壊に従事しているときに出会ったダムピール達と森島だろう。しかし、紫はどこまで事を知っているのか。 「あなたはそれを許すのかしら?」 「厄介な展開だけど、そうしないといけないこともある」 「忘れられていないものが入って来ようと?」 「まぁね」  実質のところ結界の全ては紫が掌握しているのだ。結界を外すもつけるも紫しだいだろう。それならば、近づいてきたブリジットらを受け入れることもするのだろうか。 「あぁ、私が隙間に落としたミサイルはここの庭に置かせてもらっているから」 「ミサイルを!?」 『パチュリー様……庭に見慣れないものが突然、現れました』  図書館に響いたのは門番である紅美鈴の声だった。見慣れないものとは、ミサイルしかない。レミリアが見たらさぞかし喜ぶことだろう。 「外に見に行ってくれないかしら?」 「はい、分かりました」  咲夜は小走りで図書館を出て行った。 (36) 一方その頃、外の世界では。 「復活、しない?」  地球上で最後の封印を壊してみても、何も起こらなかった。十字碑から女王が復活することも無く、どこからともなく女王が現れたりすることも無い。 「これはいったい……どういうことだ?」 「これが最後の封印ではなかったんじゃないですか?」  森島が苦々しく言う。 「いや、そんなことはない。この地球上に女王を封印できるほどの霊力を持った物はもう存在しないはずだ」 「ならば、いったいどういうことだ?」  エセルバート高橋と鉄扇寺風伯がブリジットの元に歩み寄る。 「いや、1つだけ心当たりがある」  ブリジットがはっと思い出したように口を開く。 「国内に戻るぞ、最後の封印は国内にある」 「どうしてです? 国内の封印は派手に壊したはずですが?」  エセルバート高橋が口を挟む。確かに国内の封印は全て壊したはずだ。 「私達ダムピールの網にも入らなかった場所が1つだけある。単なるミスか霊的なパワースポットと思ったらそうでもなかった。セイバーハーゲンは封印にさらなる封印を施したようだな」  ブリジットが唇を歪める。そして、森島に近寄る。 「森島、咲夜という娘はどこに行った?」 「え、あぁ、お嬢さんはともかくとして、ヴァンパイア王直属として配置されたのを怪しく思いまして、海外遠征には連れて行っていませんよ」 「その後の消息は?」 「情けないことですが、途中からは不明です」 「その娘、怪しいな」 「だから外したんです」 「いや、消息不明なことが怪しい」  森島は少し考えた後、正直に話しだした。 「怪しいついでにヴァンパイアがもう1人いるとかとも言ってました」 「ヴァンパイアが!?」  珍しくブリジットが大きな声を上げた。予想もできなかったことに心を取り乱したのだ。 「これは一応、口止めされてたんですがね。ま、眉唾ですが」 「森島、口止めはストラウスの命令でもあるんだぞ」  レティシアが森島に詰め寄る。 「小賢しい山猫、続きを言え」 「そのもう1人のヴァンパイアに補佐を頼まれたと言っていました」 「もう1人のヴァンパイア……隠していたのはセイバーハーゲンではなかったのかもしれんな」 「どういうことです?」 「その、もう1人のヴァンパイアがアーデルハイトを隠していたのかもしれん。理由は分からんがな」 「……それが隠したかった真実かも知れませんね」 「そういうことだ。すぐに出立だ。国内に戻るぞ」 「はい」  森島は敬礼した後、すぐに部下たちに命令を出した。 「それに、島でのミサイル迎撃にストラウスは動いていない。魔力の痕跡はあったが……これはいったいどういうことだ?」 いまだ謎の残るなか、ブリジット達は国内へと戻っていった。 (37) 場所は変って、幻想郷。 「ここでこの館の戦力はどれくらい回復しているのかしら?」  パチュリーは紅魔館の外に出てミサイルを確かめながら美鈴に尋ねる。やはり気になったのか、図書館に紫を待たせておいて庭に出てきた。 「私は大丈夫ですが、他の者はまだかかりますね。先の攻撃から一週間程度しか経ってはいませんから」 「そう……」  しげしげとミサイルを見つめながら頷く。 「パチュリー様、まさか館に入れる気ですか?」  先に着いていた咲夜が声を上げる。ダムピール達を館に入れて攻防を行おうというのだろうか。 「それしかないでしょう。ダムピール達の攻撃を防ぐには門番1人では困難だし、かと言って他の者は回復していない。ここで戦えるのは門番の他にあなたと私、そしてレミィくらいなものよ」 「確かにそうですが」  ダムピール達とパチュリーやレミリアが戦いあったらこの館は潰れかねない。それほどまでにお互いの戦闘力は強大で、人間にとっては遥かに及ばないものだ。それも分かっているだろうが、水際で抑えるほどの力も無い。 「まともにぶつかる愚はしないわ。奥の手もあるしね」 「ヴァンパイア女王……アーデルハイト様を復活させるつもりですか?」 「それも一つの手ね」  紫はティーカップ片手に咲夜の隣に立っていた。 「八雲紫、あまり気配をさせずに近寄らないでもらいたいわ」 「悪いわね。歩いて移動するのが面倒だったから」 「まぁ、いいわ」  咲夜はあきらめ口調で溜め息をつく。 「それで、あなたはここを襲撃しようというダムピール達の動向を教えるだけなのかしら」 「そうね。私の役割はここを守ることでも襲うことでもない。最悪の事態を起こさせないことよ」  館を襲撃されようとしていることは最悪の事態とは違うことだろうか。少なくとも咲夜には頭痛を起こしそうなくらいに悪い方向に事が動いてるように思えるのだが。ダムピールが攻めてくる……現状に対面しているだけに、兎の襲撃よりも厄介なことになりかねない。 「ブリジット達はすぐにやってくるでしょうか?」 「おそらく焦ってはいるはずよ」  それはそうだろう。最後の封印と思っていたのに壊してみても何も起こらないのだから。真実が欲しい森島やブリジット達にとって女王はストラウスに対しても最高の切り札になりうる。ただ、それだけに怖い。 「ねぇ、あなたはブリジット達を受け入れるのかしら?」  改めてパチュリーが紫に聞く。 「もちろんよ。結界も一時的に解除するわ」  そうなればここに女王がいることを気付くことができるのも同然だ。全面対決とはいかずとも、激しい戦闘になるか、それとも話し合いで済むのやら。咲夜は圧倒的に後者を望んでいた。 「決戦は夜よ、間違いなくね」  パチュリーは宣言するように言葉を発すると、紅魔館の中へと去っていった。 「これ、片付けておいて」  すっかり飲み終えたカップを咲夜に手渡す。咲夜は嫌な顔をしながらもそれを受け取って、帰っていく紫を眺めていた。 (38) 『敵襲はまだですか、パチュリー様』  夜になってヴァンパイアにも有利だが、ダムピールにも有利な時間帯になった。攻めてくるなら夜だろうとは容易に読める。美鈴は表立った警戒は敷いていないが、ひっそりと単独で警戒を続けていた。パチュリーはレミリアと一緒にショートケーキを食べながら紅茶を飲んでいた。 「まだよ。あなたは館内に入って待機してなさい」 『分かりました』  パチュリーは通信を終えると、ショートケーキの苺にフォークを刺した。 「さて、レミィも戦うかしら?」 「当然よ、私はこの館の主なんだから守るためには努力は惜しまないわ」  咲夜が見ている光景は何だか緊張感に欠け、館を守ろうとしているようには見えなかった。たとえレミリアが遊び半分でも、パチュリーは本気に見えた。ただ、苺を口に運んでるその姿は何だか頼りなさげだ。 「お嬢様は下がっていてください。ここは私が対応します」 「咲夜はダムピールに勝てるとでも思ってるの?」 「時間稼ぎにはなります。それに美鈴との連携やパチュリー様の補助があれば簡単には負けません」  勝てるとは思わなかった。少しの間でも一緒にいた咲夜には分かる。あの者たちの力は同じ人型ではあろうとも底知れないものがあった。生命力に回復力、それに魔力と霊力を使った戦闘能力。ヴァンパイアには及ばないものの、集中して攻められたらたまったものではない。 「あなたの能力はダムピール達にとっても不可解だろうから、撹乱作用は望めるわね」  時空の隙間に落とせなくとも、集団戦をさせないくらいはできるはずだ。なるべく乱戦を避け、紅魔館内部を壊させないように務めなければ。紅魔館外壁もそうだが、掃除が追いつかなくて大変だ。 「これを機に兎達が再び攻めてくるなんてことはないですよね?」  たいした警戒もせずにダムピール達をこの紅魔館に呼び寄せようというのだ。そこを兎達に集団で攻め込まれてきたらたまったものではない。実際に体験したわけではないが、損傷を見る限り結構な襲撃だったに違いない。 「大丈夫よ、今はそれを警戒する時ではないわ。ダムピールに気をつけなさい」 「分かりました」  パチュリーの言葉にひとまずは落ち着く。兎達は来ないか。パチュリーが言うからには信頼できるだろう。 「来たわよ」 「えぇ、魔力と霊力でジャミングをかけていたようね」  レミリアとパチュリーが感覚の範囲にダムピール達を捕らえる。ブリジットが気配を消していた分、発見も遅れたようだ。 「数は……ダムピール5、軍用ヘリ1」 「見たいものがどんどん増えるわね。軍用ヘリというのはどういうものかしら?」  最近、ミサイルを始めレミリアの言ったことがどんどん現実と化してるのが咲夜は怖いと感じた。軍用ヘリで館内に入ることは無いだろうから、近くに降りた軍用ヘリをレミリアが見れる可能性は高いだろう。 「では私は迎え撃ってきます」 「任せたわ」 「補助はするけど、無理はしないでね」 「分かりました」  咲夜はお辞儀をすると、ダムピール迎撃のために先に陣取っている美鈴の元へと向かった。 (39)  咲夜はずいぶん前にレミリアから渡された赤く鈍く輝くナイフを握り締めながらその時を待っていた。隣には美鈴がいる。今会ってから交わした言葉は少ないが、連携のタイミングはお互いに分かっている。 「咲夜さん、来ましたね」 「ええ、分かってる」  ブリジット達が咲夜と美鈴の前にやってきた。各々、臨戦態勢をとり、対峙している。ダムピールの中にはレティシアもいるが、彼女は戦力にはならないだろう。それでも、2対4。それに森島もいる。数の上では不利だ。 「ふん。まさが国内にこんな所が残されていたとはな。結界に守られて、一種の聖域といったところか。アーデルハイトが眠る場所として相応しいかもしれん」 「いい所でしょう」  まずは相手を刺激しないように当たり障りの無い会話から始める。まだ交渉の余地が残っていないわけではない。 「咲夜よ、お前の正体は分かっている。もう一人のヴァンパイアの使いめ」 「森島さん……やっぱり言ってしまったのね」 「私も真実がほしいものでね」  真実というものがどれほど重要なのだろう。そんなものが無くたって、生きてはいける。ストラウスの真意は知らないが、あのヴァンパイアは間違ったことはしないだろう。 「ヴァンパイアの屍があればダムピールは人化できる。何の罪も無かろうが、犠牲になってもらう」 「お嬢様に勝てるとでも?」  レミリアにはたとえダムピールが束になってかかってもかないはしないだろう。 「ストラウスに勝つより容易なこと」 「引くことはできないのですか?」 「無論だ。ここにはアーデルハイトも眠っていることだしな」  話し合いでは解決しないらしい。もともと期待はしていなかったが、改めて突きつけられると頭が痛い思いだ。 「女王を封印しておくほどの霊力を持つものはここにしかない。どんな手を使っても突破させてもらうぞ」  ブリジットが合図をすると、フォーメーションを展開させる。森島も銃を構えてこちらを狙っている。咲夜と美鈴は迎え撃つべく呼吸を合わせる。 「いくぞ!」  まずはブリジットが剣を掲げて攻撃を仕掛けてくる。同じ刃物を扱っている咲夜がそれを受け止める。一撃を受け止めても、二撃三撃と矢継ぎ早に攻撃してくる。  ナイフで剣を受け止めていると、風伯が動き出した。美鈴も呼応するように動き出す。咲夜は時間を圧縮させて美鈴を断続的に移動させる。 「む……」  風伯が困惑する。目標を見失っているようだ。 「はあっ!」  そんな風伯に美鈴が回し蹴りを放つ。防御も間に合わず、勢い良く飛ばされていった。 「その能力……普通の人間ではないな」 「それはそちらも同じこと」  剣呑とした空気が流れる。右手のナイフでブリジットの剣を受け止めながら、左手で蓮火に向かってナイフを投げて牽制する。カキンと金属のような物で弾かれる音がした。  しばらく対峙する。動いていない者の動向が気になる。ブリジットがちらりと風伯の方を見た。その時、一瞬ブリジットに隙が生まれた。咲夜はそれを見逃さず、ナイフを突き立てた。肉の裂ける音が響くと同時にブリジットがにやりと笑った。 「エセル、今だ、行け! 封印を壊してこい」 「はいっ」 「くっ……」  今の隙はわざとだったのか。自分に咲夜の攻撃を受けさせることで間を空けようとしていたのだ。美鈴も風伯の対応に手一杯になっているようだ。気を抜いていたわけではない。森島の援護射撃と攻撃には加わっていないが、蓮火のプレッシャー。人間である咲夜を直接狙ってはいないが、得体の知れない美鈴を狙っているようだ。一発二発当たったくらいではびくともしないが、美鈴の集中が途切れてしまっている。  ブリジットと風伯、蓮火は囮だ。本命はエセルバート高橋だったのだ。  エセルバート高橋と、ついでにレティシアに突破を許してしまった。 (40)  紅魔館廊下で激しい攻防が行われているとは対照的に、レミリアはテラスで穏やかに月を眺めながら紅茶を飲んでいた。パチュリーは警戒しながらも紅茶をすすっていた。 「コーヒーにすれば良かったかしら」  ショートケーキを食べ終え、後味を楽しみながら紅茶を飲んでいると、ふとそんなことを思った。甘い香りのする紅茶よりも、苦味の強いコーヒーがショートケーキには合ってる。食べ終えてから思ったのだからもう遅いのだが。給仕を行っていた咲夜も戦いのために出払っている。やれやれといった感じでコーヒーでも淹れようと立ち上がったその時、パチュリーが異変を感知した。 「レミィ、気をつけて」  カキィィィィン  鋭い金属音が紅魔館のテラスに響き渡る。  レミリアの背後から、エセルバード高橋が容赦なく振り下ろしたレディ・ビアンカの鎌は予想とは違う軌道を描いていた。  レミリアは涼しい顔をして紅茶を一口すすって、 「何に気をつけるの?」  先ほどまで苺の刺さっていたフォークで鎌を受け止めていた。鎌は苺を真っ二つにはできたが、レミリアの皮一枚も切ることができずに受け止められていた。 「……レディ・ビアンカの鎌を壊さないようにね」  パチュリーはうっすらと笑みを浮かべながらそう言った。レミリアの心配なんか微塵もしていない。する必要もない。レミリアとダムピールにはそれほどまでに力の差があるのだから。 「ダムピールごときが……私を裂くには何もかも足りないわ」  レミリアは右腕で鎌を止めながら、左手で魔力を一瞬、溜める。そして、エセルバート高橋の腹部に掌底を叩きつける。ただ軽く押されたように見えたのだが、実際はかなりの速度で飛んでいき壁に叩きつけられていた。それを見届けているレミリアは別れた苺を片方づつ口に入れた。 「まだ息があるようね。それに、そこで隠れてるダムピール、出てきなさい」  指摘されると、カーテンに隠れていたレティシアがおずおずと出てくる。マシンガンを両手に携えて好戦的に見えるが先ほどのエセルバート高橋の様を見ているせいで足元が震えている。 「アーデルハイト様を返せ!」  気丈に叫ぶ。レミリアを前に畏怖をしながらも声を上げる意気は見上げたものだ。 「返せとは異なことね。ストラウスも望んでいることなのよ」  一方、パチュリーはゆっくりと諭すようにレティシアに話しかける。 「ストラウスが?」  レティシアが警戒を弱める。魔力といい霊力といい、この娘はブリジット達とは違うようだ。咲夜の話でも聞いたとおり、ストラウス側のダムピールらしい。 「そうよ。ストラウスから口止めもされてるでしょう。彼女は出てこないのが一番なのよ」 「でも、ブリジット達は必ずここに来る。封印の十字碑は破壊される」 「そうでしょうね。でも、それでも構わないのよ」  レティシアは訳が分からなそうな顔をしている。 「その前に、片付けないといけないものがあるわ」  レミリアは魔力を溜めつつ、エセルバート高橋が倒れている壁に近寄る。とどめをさすつもりだろうか。レミリアの魔力なら欠片も残さず消滅させることなど容易だが、血の跡など掃除をするのが大変だと咲夜なら言いそうだ。 「お止めください」  その声に、パチュリーは眉を動かす。出てきてしまったのか。 「アーデル、ハイト様……」  切り札と思われていたヴァンパイア女王は既に復活していたのだ。いや、女王が復活していたことが切り札だったのだ。 (41) 「アーデルハイト、あなたが出てきて良い場面じゃないわよ」  パチュリーはたしなめるようにヴァンパイア女王、アーデルハイトに声をかける。彼女はもう少し先で切り札になるはずだった存在だ。ここで出てきてはダムピールに知られてしまう。 「そうはいきません。我が血族が失われようとしているのです。たとえ世界を救っても、仲間を見殺しにはできません」  レミリアがエセルバート高橋にとどめをさそうとしているのを察知して、出てきたのだろう。レミリアも同胞だろうが敵は敵。ここでしっかりと殺しておかなければ後々どんな厄介なことが起きるか分かったことではない。 「ふん……」   レミリアはエセルバード高橋にとどめをさそうとしている右手を止めて、魔力も解放する。アーデルハイトの登場により、その気がすっかり萎えてしまったようだ。 「アーデルハイト様は……もう目覚めていたんですか?」  レティシアが話しかける。 「ええ。既に目覚めて暴走時に消費していた魔力も回復しています。状況も、かなり知らせてもらっていますよ」 「なら今の状況をどうにかできませんか? このままだとブリジットが……」 「姉様が……分かりました」  その時、テラスに美鈴の声が響いた。 『すみませんパチュリー様。突破されました』 「そう……」  美鈴が申し訳なさそうに謝った。時間稼ぎにはなったが、止められはしなかった。これも予想通りなのだろうか、あのスキマ妖怪の。その手の平の上で踊らされてようで癪だが、ここはその通りに動いてみせよう。そして、最後には出し抜いてみせる。 「……まぁいいわ。切り札を使うときね」  ここで温存しておいた切り札を使わないと、ダムピール達が封印を壊すべく破壊活動をしてしまうだろう。それは見ていて気持ちのいいものじゃない。自分の住み家の紅魔館が破壊されるのは。温存はしておきたいが、出し惜しみしてしまって全てを失っては元も子もない。 「私が出る場面ですね」  こうなってしまったらそうするしかない。アーデルハイトが出れば全てが覆る。ダムピール達の予想も、状況も、力関係もだ。それだけに惜しい。 「そうなってしまったわ」 「いいじゃないのパチェ。そう遠からず知られることになっていたんでしょう」 「それはそうだけど……」  切り札は効果的に使いたい。予定が狂ってしまったら、どこから綻びが出てくるか分からない。こちらのペースで物事を進めないと。 「ならいつ知れても関係ないでしょ」 「レミィがそう言うならそうするわ」  所詮パチュリーはこのダムピールとの戦いには本来、無関係な人物だ。ならば当人であるレミリアの言うことを尊重しよう。 「じゃあそこのダムピール、そこの気絶しているダムピールを何とかしなさい」 「え、え……」  エセルバート高橋をレティシアに任せて、レミリアとパチュリーはアーデルハイトを連れて最後の封印が施されている場所へと歩みを向けた。 (42) ここまで無言で歩いてきた3人だが、不意にアーデルハイトが口を開いた。 「ここには何が封印されているのでしょうか? わたくしは知らせてもらっていないのですが」 ふむ、とパチュリーは顎に手を当てる。 「ここにはね、封印が施されているの。最大の霊力使いによる、最高の封印が。これが壊されれば地球は危機に瀕するかもしれない。でも、壊さなくてはいけない。そんなジレンマをかかえた封印なの」  パチュリーは魔法ではなく普通に歩きながらアーデルハイトの疑問に答える。ただ聞かれている本質についてはまだ語られていない。何枚かの魔力で封印を施された扉をくぐると、3メートル四方に十字碑の封印が1つぽつんと置かれている部屋に出た。まるで、それを置くためだけに作られたかのように。 「この封印が封じているものは……」  バンッ! 「最後の封印はここか!」  パチュリーが喋っていると扉が勢い良く開ける音がした。ついにやってきたのだ。アーデルハイトを求める者達が。魔力で扉に封はしたが、そんなものはお構いなしだったようだ。 「姉様、この戦いは無意味なものです。すぐにお止めください」 「アーデルハイト!……復活していたのか。その様子だと、ずいぶん前に復活していたようだな」  さすがは長年にわたってダムピールをまとめ上げてきたブリジット。アーデルハイト復活という不測な事態にもすぐに冷静になり、状況を飲み込まんとしている。 「50年前に封印は解かれていました」 「50年前……49代ブラックスワンが死んだときか」 「はい」 「封印を解いたのはストラウスか?」 「はい」  ブリジットのことだ。これだけで情報でほぼ全てのことを把握してしまっただろう。これでストラウスとは戦いにくくなる。ダムピールの維持する柱の1つが崩れかねない。 「ストラウスがお前を殺さず封印を解いたということは、真実はもはやストラウスしか知らない……」  歯を食いしばって目の前の真実に耐えている。そんなブリジットに対して、レミリアは一瞥をくれる。 「アーデルハイトはあなた達に預けるわ。部屋を用意させるから、話し合いでも何でもしなさい」 「私はお前を殺そうとしているのだぞ」 「無理よ。それにその行為に意味はない」 「まさか、いや、そんな……」  森島がめまいを起こしたように身近な壁に手をついて声を上げる。この人間も真実とやらを分かったのか。いや、まだ誰も彼も表層的な事実にしか目を向けていない。無論、そのように動いてはいたのだが。 「どうした、森島?」 「あの旦那がヴァンパイア女王を殺さず封印を解いた。これがどういう意味だか分かりますか?」 「……何が言いたい?」 「ダムピール人化の術がはったりだってことですよ。そうでなければ、辻褄が合わない」 「まさか……」  この人間は冷静に頭が回っているようだ。違うか、この人間だからこんな結論に達することができかのか。全ての利害を排し、事柄を外から見ている。 「分かったようね、私を殺すことは無意味であり、不可能であることを」 「なら、一体何が真実だと言うのだ?」  風伯が誰に言うでもなく言葉をはく。 「それはストラウスに聞きなさい」 「八雲紫、こんなことをして何を考えているの?」  パチュリーは誰にも聞こえないようなかすかな声で呟いた。 ・第九話「真実の行方」 (43)  アーデルハイトとダムピール達が出会ってから1時間が経った。ブリジット達はテラスとは別の部屋を与えられ、咲夜がお茶を持っていった時に何やら神妙は顔つきで話し合いをしていた。  咲夜はテラスでシナモンティーをカップに注ぎながらもそのなりゆきが気になっていた。 「今はアーデルハイト様が大事な話をしているときですが、聞かなくてもいいのですか?」  パチュリーはシナモンティーを一口飲み、パソコンに目をやりながら咲夜の疑問に答える。 「何を話してるかは大体分かるわ。それに、あんまり関係ない。私達は私達のするべきことをするだけよ」  レミリアも後に続く。 「真実は私達の中にある。わざわざ聞く必要はない」 「その真実というものは私は知らないんですが……差し支えなければ教えていただけますか?」 「そうね、門番と一緒に教えてあげるわ。けど、知ったら後には戻れないわよ」  後には戻れない、あまりいい話ではないようだ。真実というものは大抵、面白くもないし優しくもない。しかし、聞かないでも全てのことに巻き込まれそうにも思える。最初から深みにはまってしまっている感じだ。 「分かりました、美鈴も連れてお話を聞きたいと思います」  おそらく一番関係のなさそうな美鈴も同じテーブルに引きずり出そうと考えていた。同じ境遇に立たされる者は多いほうがいい。 「しばらくは警戒を解いても大丈夫でしょう。休んでいいと伝えて。それと、ここに来るようにとも」 「はい、分かりました」  咲夜は起立良く姿勢を正してはっきりとした返事を返した。その時、不意にテラスに思わぬ人物が現れた。 「あー……すみません」  森島だ。森島が申し訳なさそうな声を出しながらテラスにやってきた。 「どうしたの?」  パチュリーがシナモンティーのカップを置いてそれに応える。 「ここって電話は繋がりますか? ヴァンパイア王と話すためにどうしても必要になってしまって」  やはり最後はストラウスとの会話を望んできたか。真実はストラウスしか知らないのだから。いや、真実を知っているのは少なくとも3人。ストラウスと、パチュリーと、レミリアだ。 「あのスキマ妖怪がこんな事態を予想できなかったはずが無い。繋がるわよ」   それと、紫か。あの妖怪はどこまでことを知っているのか分からない。まだ全てをひっくり返す誰も知らない真実をもっているのかもしれない。 「それは良かった……お嬢様達も話に加わりますか? 真実が出てくるかもしれませんよ」 「いえ、遠慮しておくわ。真実は知ってるもの」 「……そうでしょうね。50年も前にヴァンパイア王と接触し、ヴァンパイア女王の封印を解き、2人から真相を話されている。余計な気遣いでしたか」  やれやれといった風に頭を振る。森島という男はまだ何か別の意志で動いているように思える。ダムピール達とは別の真実を望んでいるのかもしれない。 「じゃあ咲夜は聴くかい? 真実を知らなそうだけど」 「おあいにくさま、私もこれから真実を聞くんです」 「そうか、余計なお世話だったか」  年下の人間相手だったからだろうか、いつになく砕けた話し方だった。 「では美鈴を連れてきます」 「私もヴァンパイア王と話をしてきます」 2人は並んでテラスから去っていった。 (44)  咲夜は美鈴をテラスに呼び出すべく紅魔館の長い廊下を歩いている。さっきもそうだが、咲夜はかなりどきどきしていた。真実といったものはいったいどんなものだろうか。聞いて後悔はしないだろうか。そんなことばかり考えていた。 「美鈴」  紅魔館の外に出て、いまだ僅か続いている紅魔館の復旧作業の指揮を執っている美鈴に声をかけた。 「あ、咲夜さん。おつかいですか?」 「違うわ、あなたを呼びにきたの」 「私を、ですか?」  なぜ呼ばれたか分からないといった風に自分を指さす美鈴。確かにそうだろう通常、門番は館の中には入らない。昼休みだって 館の中には入らずに中庭で過ごしている。門番の仕事でもらう幾ばくかの金銭もメイド長の咲夜からの手渡しで、主であるレミリアから渡されることもない。よって、館に入ることはめったにない。ダムピールが攻めてきたときには入ったが、それは特別なことだ。 「真実を教えてくれるらしいわ」 「真実ですか……そう言えば前にパチュリー様が言ってましたね。ここには世界を滅ぼしかけた女王がいると」  咲夜もよくは知らないが、女王はいるらしい。もはやパチュリーもレミリアも隠し事はしないだろう。そのために美鈴を呼びにきたのだ。 「私は教えてもらうつもりだけど、どうするかしら? 聞きたくないのならそう言っておくけども」 「いえ、私も一緒に真実を聞きにいきます。これ以上、蚊帳の外にいるのはちょっと……」 「ならいきましょう」  美鈴を連れて咲夜は紅魔館へと入っていく。 「美鈴を連れて来ました」 「ごくろう。テラスだとあれだから、場所を変えましょう」  あれと言うのは、テラスは人が多いときには狭く感じるからだろうか。咲夜と美鈴は立っていても問題はないと思うが、大事なことを話すときに立ち話というのも雰囲気にそぐわないからかもしれない。  戻ってみると、パチュリーの姿はすでになかった。一足早くいつもの窓の少ない部屋に行ってしまったようだ。もしくは真実を聞きに行ったか。いや、それはないだろう。真実はあまさず知っているという感じだったから。 「ここで話はしないんですか?」 「パチェがもう行ってしまったから、ここじゃ話はできないのよ」 「話をするその前に、コーヒーを淹れてもらえないかしら。喋るのはのどが渇くことだから」 「かしこまりました」  喋るのは多分パチュリーだろうが、レミリアがコーヒーを所望する。これはあらかじめパチュリーから言われていたことだと思われる。  レミリアは咲夜と美鈴を引き連れて軽やかにテラスを出て行った。 (45)  レミリアはミルクを、パチュリーはブラックで、美鈴は砂糖を2さじ入れてからそれぞれコーヒーを一口飲んだ。真実を語るにはあまりにもまったりとした空気が流れている。 「さて、何から語ろうかしら」  パチュリーはコーヒーのカップを両手で包み込み、何かを待っているように静かに佇んでいる。 「あの、世界を滅ぼしかけた女王って本当にいるんですか?」  美鈴が先生に質問するように小さく手を上げながら聞いてくる。パチュリーは頷いてコーヒーをすする。 「本当よ。魔力を暴走させて世界を破滅の瀬戸際まで追い詰めた。それをダムピールと人間の霊力使いが食い止めた」 「今は安全なんですか?」 「問題はないわ。安定してるし、真実も知っている」  それなら暴走する心配はない。暴走の原因が原因だから。 「だったらこの館にある封印は何なのですか? いったい、何を封印しているんですか?」 「地球よ」 「え?」 「地球?」  パチュリーはコーヒーに口をつけ、ぽかんとしている咲夜と美鈴の顔を楽しむように眺めている。レミリアは涼しげにミルク入りコーヒーを掲げている。 「ここの封印は地球を封印している。いいえ、セイバーハーゲンが施した封印は全てが地球を封印していた。本物の女王の封印は、一つしかなかったのよ」 「セイバーハーゲンというのは誰ですか?」  美鈴がまた問う。 「最高の霊力使いよ」  レミリアが挟む。 「そのセイバーハーゲンはなぜ地球を封印しなければならなかったのですか?」 「それは、あなたも知っていることよ」  咲夜は少し考える。自分も知っていること? 情報は自分も持っているということか。レミリアは少しヒントを与えることにした。 「私と一緒に行ったでしょう。まぁ、咲夜はついて来たんだけど」  そう言われると咲夜ははっとしたように口元を押さえた。どうやら気がついたらしい。 「まさか、宇宙人!?」  レミリアは咲夜に合格を示した。 「そう。宇宙人からの襲来を防ぐために地球を丸ごと封印してしまったのよ」  そこでまた疑問が生まれる。どうしてセイバーハーゲンが地球を封印する必要があったんだろうか。どうして地球外生命体の存在を知ることができたのか。 「しかし、当時に地球を宇宙人が襲ったということはあったんですか? あったなら、こうしていることはできないと思うんですけども」 「まぁ、そのとおりね。それに関してはセイバーハーゲンが慎重だったと言わざるおえないわね。だからこそアーデルハイトも封印できたし、地球も守られた」 「月人、ですか?」 「その当時はまだ人間は月に行っていないから違うわね」  咲夜は初歩的はミスに気がついた。地球人が月へ行かなければ月人が地球に攻めてこようと思わせることはなかったのだ。 「では……」  トン  不意に開けられた扉には、招かれざる人物に姿があった。そこに立っていたのは再び紅魔館に現れた月人、八意永琳だった。 「その話、私も混ぜてもらえないかしら?」 「歓迎すると思っているのかしら?」  パチュリーが半ば侮蔑めいた表情と声で永淋をけん制した。またも警戒網を易々と突破されたことに少しいらついているのだろうか。 「まぁいいじゃない。今は協力し合う仲間よ」  レミリアが言った言葉に咲夜は少し違和感を覚えた。確かに今は仲間だろう。だが、それ以降はどうなるのだろう。 「私にもコーヒーをもらえたら嬉しいわ。濃い目のブラックを」  咲夜はふぅ、とため息をついてから立ち上がった。 (46)  咲夜は注文どおりにいつもの何倍も濃いブラックのコーヒーを淹れ、優雅に足を組みながら座っている永淋の前へとカップを差し出した。永淋は湯気の立っているそれをさして熱そうもなく口に運ぶ。そして、ほぅと息を吐く。 「セイバーハーゲンの反転封陣は私たちの力、つまり古代の力のコピーね。セイバーハーゲンは人類で始めて地球外生命体の存在に確信を得たわ。女王を封印するために世界中に十字碑を乱立させたのは嘘。本当は地球を守るために地球ごと封印したの。これによって地球は安全になったわ。しかし、ダムピールやヴァンパイア王が封印を壊したせいで綻びが生じた。そうしてウドンゲが地球に入ってしまったの」  そこでコーヒーを一口飲み、辺りを見回す。何か質問はないかと言わんばかりの態度だった。皆、口を挟まないことから質問はないらしい。ただ、話を理解するのに時間がかかっているからかもしれない。 「当時の地球の技術では反転封陣を施すのは不可能だった。しかし、私達によってもたらされた古代の力を偶然にも発見したセイバーハーゲンがその力を応用して完成させた。見事なものね、異質な技術を我がものとしたのは」 「なるほど、そこでセイバーハーゲンは地球外技術によって地球外生命体の存在を知ったのね」  それが月か他の星系かはどうか分からないようだったが、利用できるものは利用したのか。 「そこでセイバーハーゲンは懸念した。この地球人を超越して技術を持った地球外生命体が攻めてきたらどうしようか。そこでセイバーハーゲンは考えた。この地球を永遠に封印して、地球外生命体から守ろうと」  淡々と永淋が言葉を紡ぐ。地球外生命体の存在など、よく信じられたものだ。実際にその技術を見つけてしまったのだから信じざるを得ないのだけれども。 「セイバーハーゲンは封印の機構を誰にも教えなかった。ブラックスワンを完成させると、偽の封印を施すと嘘をついてまで地球を封印しようと旅に出た。地球を封印するには膨大な数の十字碑を立てる必要があった」 「封印があったから月人の襲来を防げた……」 「そうよ。月人は僅かながらも地球を覆うバリアーを不可思議に思った。今の月人はそれが自分達の技術だとは分からなかった。 月人は地球の技術を確かめる必要があった。それで最初に人類が月に入ったときに月人は攻めてこなかった」 「なら、その月人の調査が終わり次第、月の人が地球に攻めてくるってことですか?」 「いえ。今はビッグ・モーラがあるからそんなことはしないわ。事の成り行きをじっくりと観察してるでしょうね」  ならばそれがなくなったらどうなるか分からないような言いぶりだ。 「さて、語ることも語ったし、帰ろうかしら」  残りのコーヒーを飲み干し、帰り支度を始める。 「待って、最後にもう一つだけいい?」  パチュリーが永淋を止める。 「内容にもよるわね」 「今話したことは切り札になり得たこと、それをここでしゃべったのはなぜ?」 「さぁ、どうしてかしら」  事実をはぐらかした口ぶりに思える。 「コーヒーごちそうさま、美味しかったわ」  そんなことで褒められて喜ぶ咲夜ではなかった。永淋はゆっくりを脚を解き、音もさせずに部屋から出て行った。案外、最後に残るのは彼女かもしれない。 (47)  パチュリーと永淋がそれぞれ真実を語り終え、紅魔館にひと時の静寂が訪れた。美鈴は門番の仕事に戻り、咲夜は皆が飲み終えたティーセットの片付け始め、パチュリーはパソコンに目を落とし、レミリアは面白そうに月を眺めていた。 「レミリアお嬢様」  そこにストラウスと話をし終えて真実に直面したであろう森島が、レミリアのいる部屋にやって来た。 「何かしら?」  名残惜しそうに月から目を離して、森島の方へと顔を向ける。 「私達はヴァンパイア王の真意、そして真実が何なのかをようやく手に入れることができました。そこで今後の方策について話し合いを行いたいのですが」  その言葉にパチュリーも反応を見せる。真実はとうの昔に知っていたが、今後の方策については興味があった。ストラウスはこの閉塞にも似た現状にどう打開するのか。逆にレミリアはあまり興味なさ気に指を組んで胸の前に置く。 「話し合いはパチェがするわ。それにビッグ・モーラは私が撃墜する」  要するに話し合いなど面倒なことはしたくないのだ。そういうことは全てパチュリーに任せている。いや、押し付けているのか。そこに新たなティーセットを持った咲夜がやってきた。 「あら、森島さん。いらしゃったのですか。お茶でもどうですか? 美味しいですよ」 「あ、いやいい、遠慮する」  森島はそれどころではないようだ。これからの方策を話すのにお茶を飲んではいられない様子だ。 「パチュリー様は紅茶でよろしかったでしょうか?」 「ええ、お願い」  咲夜は手際よく紅茶を淹れる準備をする。森島は何をするでもなく、その辺を円を描くように歩いている。 「ビッグ・モーラを撃墜するとおっしゃいますけど、ヴァンパイア王にはビッグ・モーラ撃墜の意志も力もあります。ヴァンパイア王に任すのが最善かと思います」 「人間。ヴァンパイアの王は私よ、覚えておきなさい」 「は、はぁ……」  あまり関係のないところを指摘されても返す言葉がなさそうだ。 「ビッグ・モーラは私が破壊するわ」 「しかし」 『いいではないか、レミリアにやってもらおう』  電話ごしにストラウスの声が部屋に響く。ストラウスとの電話はまだ繋がっているらしい。それは好都合とばかりにパチュリーが口を開く。 「久しぶりね、ストラウス」 『まったくだ。50年ぶりといったところか』 「積もる話もあるだろうけど、今は頭上の邪魔なものを何とかしないとね」 「それについてですが赤バラ王。レミリアお嬢様に任せて大丈夫でしょうか?」  少しの間、そしてストラウスの一言。 『そのほうが私も楽ができるというわけだ』 「ヴァンパイア……赤バラ王、あなたは地球がどうなってもいいんですか?」 『私はレミリアを信用している。それにパチュリーもいるのだろう』 「当然よ」 『なら問題ない。私は島で花雪に監視されているよ』 「窮屈な思いをさせて悪いわね」 『これも責務さ』 「じゃあまたね」  今度は本当に電話を切ってツーツーツーという音が聞こえてきた。この会話は紫にも、もちろん聞かれているだろう。だからと言って何が変わるものでもないが。パチュリーはゆっくりと、ゆっくりと紅茶を飲みだした。 (48)  パチュリーはブリジット達と会い、今後の方策を聞いた。初耳だったことも多かったが、大体は予想の範囲内だった。ただ1つのことにはさすがに驚いたが。  やがて夜が明け、レミリアは眠りにつき、ダムピールとアーデルハイトと森島が紅魔館から離れることになった。 「では、私達は赤バラ王と会うために島へと向かいます」  森島が軽く敬礼をする。 「ストラウスによろしくね」  見送りはパチュリーに隣に咲夜。そして門番である美鈴が必然的に立ち会った。 「しかしあなた方も人が悪い。真実を知っているのなら無用な争いは避けれたのもを」 「言っても信じたかしら。限りなく怪しい者から真実を言ってもそれを真実として受け止めれたかしら」  森島が頬をかきながら苦々しく口を開く。パチュリーはいつものしれっとした表情で軽くそれに受け答えをする。 「それもそうですが……」  苦笑する森島。 「ブリジットさんには痛い思いをさせました」  咲夜がブリジットに話しかける。ブリジットは意外そうに咲夜を見たが、すぐに不敵な笑みをみせた。 「ふん、あのくらいの痛みなど何てことはない。傷はもう癒えた、真実も知ってしまった以上お前を責める必要はない」  そして、パチュリーがエセルバート高橋に謝るように話しかける。 「それとあなた、レミィを悪く思わないでね。あのときは敵同士だったけれど、今は仲間よ」 「いえ、あのくらい大丈夫です」  エセルバート高橋は意識を失っていて分からないはずだが、レミリアに殺されそうになったのだ。あまり大丈夫ではないだろう。 「さぁ、そろそろ行こうか」  ブリジットが話をまとめるように話し出した。他の者もそれに呼応して準備を整え始める。 「ちょっといいかしら?」  軍用ヘリに乗り込もうとしている森島をパチュリーが呼び止める。森島はヘリのおこす風で乱れた髪を押さえながらパチュリーの前に歩いてきた。 「あなた、変ったわね」 「私がですか?」 「ええ。以前はダムピール達と一線をかくような動きを見せていたけど、今は一致しているわ。よほど真実というものが効いたみたいね」 「はは、あなた相手では隠し事はできませんか。私は御前側の人間でしたが、今回の真実とやらで赤バラ王側、つまりあなた達側に寝返ったんですよ」 「人間側にはベストの判断ね」 「そう思いますか?」 「もちろん」 「あなたに言ってもらえるなら心強い」  にかっと笑い、軍用ヘリに乗り込んでいった。  ここからが本番だ。ビッグ・モーラを撃墜し、ダムピールを守る方法を実行に移さなければならない。 ・第十話「予兆と足音」 (49) 「行ってしまわれましたね」 「そうね」  軍用ヘリと空飛ぶダムピール達を見送った後しばらくその後を追っていたが、やがてそれが見えなくなって静かになってしまった。ブリジット達が幻想郷の外に出られるように紫が結界を一時的に解いている頃だろう。やがて静かになったのを見計らったかのように紫が現れた。 「どうやら上手くいったようね」  上手くいったとはどういう意味だろうか。確かに小競り合いはあったがアーデルハイト復活というカードを切ったのでほとんど被害らしい被害は見当たらなかった。 「全てはあなたの手の平の上の出来事なのかしら」 「さぁ、どうかしらね」  はぐらかす紫。まだまだ予想の範囲内ということか。だがそんな思惑は関係ない。ここから全ての作戦を成功させなければ最終的にはこの幻想郷にも影響が出かねない。 「まぁいいわ。私はこれから忙しいの。分かるでしょ」 「もちろん分かってるわ。今度はあなた達でなんとかしなさい」 「そういうわけで私は図書館にいるわ。用があったら来なさい」  そう言って魔法を使ってふわふわと紅魔館の中に戻っていってしまった。残された咲夜と美鈴は少し気まずそうに紫と対峙していた。 「真実を知ったようね」 「おかげさまで」 「でもまだ事実を知っただけかもしれない」 「どういう意味?」 「そのままよ」  まだ、誰も知らない真実が存在するのだろうか。 「私の役目はここまでね、今のところは」 「……まだ役割はあると?」 「次の展開しだいによっては」  思わせぶりはことを言いながら静かに紅魔館から離れていく紫。まだまだ油断のならない相手だ。兎や月人と同様の警戒を続けるべき相手だ。スキマ妖怪の意思によっては何かが変わるかもしれない、何かが。 「さて、美鈴」 「はい、何でしょうか?」 「館の修理、および戦力状況はどうなっているのかしら?」  美鈴は顎に手を当てて考えるような似合わないポーズを取る。 「館は九割九分、復元されています。ほとんど元通りになりました。戦力は完全に元通りです。いえ、再び予想されうる侵攻に備えて増強してあります」 「確かに増強は必要ね」  今は一時的に協力はしているが、最終的には相容れない存在かもしれない。人間とダムピールと同じく。 「じゃあ私も仕事に戻るわ。門番の仕事、頑張ってね」 「はい」  以前と同じように、美鈴のしっかりとした声を背中に咲夜は紅魔館の中へと戻っていった。 (50)  掃除に洗濯に料理。メイド長である咲夜は昼も夜も仕事が山積みだ。メイド長なのだから指示しているだけでいいと思われているが、何でも自分でこなさないと気がすまない性格なので、指示を出しながらも本人も忙しい。  そんな咲夜ではあったが、時間を見つけては図書館に足を運んでいた。事が起きてすぐに分かるのはここだろうし、事が起きて対応できるのもここだろうと思っているからだ。今日のおやつを片手に、紅茶の変えのポットを持ってきた小悪魔と一緒に図書館に向かっていた。  図書館に入ると、いつもの場所にいつもの格好でパソコンに目をやっているパチュリーがいた。 「パチュリー様、今日はリンゴのコンポートです」 「ありがとう。そこに置いてね」 「はい」  パチュリーの座るテーブルは相変わらず多くの魔道書に占拠されていて、申し訳程度に空いているスペースにいつもお菓子やら紅茶やらを置いている。そのスペースもパソコンの存在によってさらに追い詰められているが。 「紅茶の変えです」 「ありがとう」  新しい熱い紅茶の入ったポットを傾けてカップに注ぐ。 「小悪魔、あなたの分もあるわよ」 「え、私のもですか?」 「ここの住人だからね、持ってきてあげたのよ」 「ありがとうございます」  ぺこりと頭を下げる小悪魔。とは言ってもテーブルには置くスペースなど残っていないので、近くにあるイスに座って、コンポートの乗った皿を持ちながら食べることになった。別に他の場所で食べればいいものだが、小悪魔がそうしたいのであれば咲夜に止める権利はない。 「咲夜さんのはないんですか?」 「私はあくまで給仕するだけ。食べるのは後でいいの」 「そうですか……ではいただきます」  小悪魔がリンゴのコンポートにフォークを入れた。 「ストラウスとブリジットからの情報によると、そろそろがこの事態が動くと予想されるわ」 「それは、いいことなんですか?」  咲夜が不安げに尋ねる。 「まぁ、あんまりよさ気ではないわね」  咲夜はこめかみに指を当て、天井を仰いだ。紅魔館の復旧、戦力の増強。幻想郷の中では事態は徐々に落ち着きを見せているようだったが、外の世界では急速に事態が動いているらしい。 「そう悲観したものではないわ。これは私達にとっては有利なことかもしれないのだから」 「有利に?」 「ええ。具体的に言うと、GM御前の失脚かしら」 「そんなことしていいんですか? 反抗作戦を掲げている御前がいなくなれば作戦反対派に全てを奪われかねませんか」  パチュリーはコンポートにサクッとフォークを入れる。 「レミィとストラウスとアーデルハイトがいればまったく問題ない。利用できるものは利用するまでよ。ブリジットの統制能力も信用しているから、さして気にするほどでもないわ」  咲夜にはパチュリーの意図がはっきりとは読めなかった。 (51)  食べ終えたリンゴのコンポートの皿を片付けて、注文されたコーヒーを図書館に持っていったとき、パチュリーが呟くように口を動かした。 「もうすぐ島へ弾道ミサイルが発射される時間ね」 「あの、弾道ミサイルというものはどんなものなんですか?」  外の世界では兵器に触れる機会がなかったのでミサイルということだけは分かっているが、巡航ミサイルと弾道ミサイルの区別がつかなかった。 「弾道ミサイルは1万kmより遠くから射出され、大気圏を越えて1000km以上の高さから核弾頭を落としてくるわ。情報によるとミサイルは三基、弾頭数は約10。速度はマッハ20前後。島に使うには過ぎた代物ね」  あまりぴんとこなかった咲夜だが、巡航ミサイルよりもすごいということだけは理解できた。 「こんどこそストラウス様が動くときなんですか?」 「ストラウスはブラックスワンに監視されて動けない。それに、そんな必要はない」 「え?」 「さて、弾道ミサイル発射までもう少しね。読みどおりだと、面白いことが起こるわ」  コーヒーを一口飲み、咲夜の疑問をさえぎるようにパチュリーは立ち上がった。 「それは本当に面白いことですか?」  咲夜はまたも不安げに尋ねる。 「オーバームーン作戦に支障はでるでしょう」 「それは、面白くないんじゃないですか?」  そうなればストラウスが月へ向かうのが不可能になる。レミリアが撃墜するとは言っていたが、保険はかける必要はある。ロケットが飛ばなければどうすることもできない。 「私は弾道ミサイルの補足に集中するから、モニターの確認をお願いね」 「分かりました」  パチュリーの座っていた場所に咲夜は座り、モニターを確認し始めた。やがてそこに3つの反応が示された。 「来ました。弾道ミサイルが3箇所から同時に発射されました!」 「SLBMね。そのまま続けてちょうだい」 「高度100km……200km……300km……4……え、地上リトル・モーラから高エネルギー反応!?……弾道ミサイル全基、消滅しました……」 「やはり、ね」 「どういうことですか?」 「地上から発射された一定の速度・大きさ以上の物体がある高度に達すると物体の位置に合わせ場所のリトル・モーラが反応し、打ち落とすようになっているのでしょうね。これも読み通りだけど」 「それは……ならツクヨミ号はどうなりますか? ミサイル以上に大きいツクヨミ号は地球から離れられなくなりますよね」 「さぁ、どうしましょうね」  パチュリーはコーヒーをすすって、口元だけで笑みを浮かべた。 (52) 「さて、あなたに話しておかなければならないことがあるわ」  弾道ミサイル撃墜の件だろうか。それとも、コーヒーのおかわりだろうか。 「はい、何でしょうか?」 「もう一度、外の世界に行ってもらう必要になったから」 「弾道ミサイル撃墜と関係あるんですか?」 「もちろん。予想通りだと、ツクヨミ号は飛ばすことはできるわ」 「どうやってですか? リトル・モーラがある限りそれは無理な話でしょう」  パチュリーはコーヒーを飲み干す。小悪魔はじっと事のなりゆきを見ていた。 「それは外の世界に行ってからのお楽しみよ」  ここで問い詰めてもパチュリーは口を割らないだろう。そんな性格を知っている咲夜ははぁとため息をついて背筋を伸ばした。 「根回しはこちらで行っておくから、今度は何をすべきか自分で考える必要はないわ」 「具体的にすることがあるのですか?」 「まぁ、教えてあげてもいいわね」  パチュリーは空になったコーヒーのカップの縁に指を添えながらさも楽しげに口を開いた。 「月を、曲げるのよ」 「月を曲げる!?」  咲夜は思わず大きな声を出してしまった。そして、自分の耳を疑った。 「そう。厳密に言えば、時間差を利用して曲げるんだけど。時間と空間は切っても切り離せないんだし、あなたの能力はそれを行えるだけの力があるわ」 「し、しかし……」  咲夜自身はその能力があることは自覚しているが、そんな大きなことができるとは考えてもみなかった。 「時間が曲がれば空間が曲がる。空間を曲げれば、時間も曲がるのよ」  論理的には確かにそうだろう。それにパチュリーは咲夜1人でそれをさせるわけではなかった。 「アーデルハイトの力を借りれば不可能ではないよ」 「ストラウス様とアーデルハイト様がいればそんなことをする必要はないのでは?」 「あの2人には別にやってもらうことがあるの。ビッグ・モーラ撃墜はこちらでやらないといけない」 「その撃墜はどうやって?」 「レミィが地球から撃墜するわ」 「確かにそうは聞きましたが、一体どうやってですか?」 「相手は月の裏側にいて直視はできない。そこで、観測と永琳たちの情報を元にビッグ・モーラの位置を特定、レミィが魔力の塊を投げるわ。それで相手のコアとなる場所をピンポイントに狙う」 「はい」 「そこで、月を曲げて魔力の塊が直接ビッグ・モーラにあたるようにして欲しいの」  咲夜は押し黙って動かない。 「大丈夫。ここで奥の手は使うわ。たとえ小惑星を落とされても地球は100%安全。月を守るほうが大切よ」 「もし、曲げるのに失敗したら?」 「月に穴が開くわ。もしくは欠けるか」  人間にはあまり関係なかったが、妖怪にはよっぽどな影響だろう。だから前に聞いたときは撃墜できるといったのか。撃墜はできても、月が無事でなくては問題が多すぎる。 「だからちょっと、月人の所にお使いに行ってもらいたいわ」 「そのくらいなら大丈夫ですが」  パチュリーは脇にあったメモ帳にさらさらとペンで何かを書いている。 「これを月人に渡して、分かると思うから」 「はい、分かりました」  咲夜はパチュリーのことを小悪魔に任せて、紅魔館を離れる準備を始めた。 (53)  竹やぶを抜けて、永遠亭へと歩みを向ける。まったく、厄介な所に住まいを設けている。迷ったり竹が邪魔で上手く前にも進めない。  この亭には前に無断ながらも入ったことがあったので、大体の構造は理解している。同じ扉ばかりであまり芸がない。まぁ、人のことを言えたものではないが。 「あ、メイドだ」   着いて早々、兎に見つかった。 「あら、月の兎。久しぶりね」 「あんまりいい思い出はないけども」 「お互いに攻めてきた、おあいこにしましょう」 「まぁ……それで何の用なの? 遊びに来たわけじゃないでしょ」 「八意永淋に会いに来たのよ」 「師匠に用事? なら案内してあげる」 「助かるわ」  案内でもつけないと、慣れていないこの亭は迷いそうだ。よく見ると同じ扉のように見えるのだけれども微妙にふすまの柄が違ってきている。その中で一つのふすまが開けられた。 「師匠。紅魔館からメイドが来ていますよ」 「そう。そろそろ来ると思っていたわ」  そう言われるとあまり面白くない。この分だと、何をしに来たかも察しているようだ。 「ビッグ・モーラに関する構造と観測情報。持っているでしょう」 「それはあの魔女の差し金かしら」 「パチュリー様の用件を単刀直入に伝えただけよ」  そこでパチュリーの書いたメモを渡す。永淋は読むとすぐにそれが分かったようで、月の兎に指示を出す。 「まぁ、持ってるわよ。もちろん協力を惜しむつもりわないわ。ウドンゲ、資料を持ってきなさい。番号は916ね」 「月の資料ですか、分かりました」 「座ったらどう。疲れがよく取れるお茶もあるわよ」 「そうね」  咲夜は永淋と対面の座布団に行儀良く座る。程なく永淋が急須から湯飲みにお茶を淹れる。咲夜は湯気の立つそれをさして熱そうもなく一口すすった。苦かった。しかしそれが体に良く効きそうな感じもする。こんなことをされるのはいつぶりだろう。いつもはお茶を淹れる側だが、今は淹れられる側になっている。懐かしい気分だが、感傷に浸っている場合ではない。 「師匠、資料を持ってきました」 「ご苦労」  永淋はそれを確認すると、咲夜に渡した。 「確かめてみて」  咲夜は中身を取り出してみた。確かにビッグ・モーラやリトル・モーラ、そして月の写真が写されていた。いや、これは写真ではないだろう。鮮明すぎる。魔力でどうにかしたに違いない。具体的にどうやったかは分からないが、幻想郷に存在する写真ではこの鮮明さはでない。これをパチュリーに渡せばより詳しく理解してくれるだろう。 「ここはいいところね」 「この亭のこと?」 「いえ、地球よ」  始めから地球にいた者にとってはよく分からない感情だ。魔力や霊力で環境を変えながら暮らしていただろうが、確かに月の環境は苛酷だろう。地球と違って。 「まぁ、悪くない所であることは確かね」  咲夜の中には地球というよりも幻想郷が含まれていた。 「じゃあ用事も済んだし、これでお暇させてもらうわ」  お茶を飲み終えた咲夜は立ち上がった。 「今度は遊びにきなさい」 「機会があったらね」  ビッグ・モーラに関する資料を持って、永遠亭から咲夜は出ることにした。またあの竹林を通らないといけないと思うとうんざりするが、戻る方法はそれしかない。一つため息をついてから立ち上がった。 (54) 咲夜は永遠亭から戻ってすぐに図書館へ向かった。いち早くこの資料をパチュリーに見せて、意見と考察を聞きたかったからだ。図書館へ行くと、小悪魔がパチュリーのカップに紅茶を注いでいた。 「パチュリー様、月に関する資料を借りてきました」 「ありがとう。ちょっと見せて」  咲夜は永淋が作った月の資料をパチュリーに手渡した。パチュリーは紅茶を飲みながら、二度三度とうなずきながら1枚2枚と資料をめくりだした。 「なるほど……たいしたものね」  感嘆の言葉を出して、一度資料を置く。 「もうすぐレミィが起きてくるわ。あなたはレミィの食事の準備をしてもいいわよ」 「パチュリー様、この資料はどう思われますか?」 「そうね。外の世界の技術でもビッグ・モーラが接近するのは観測できなかった。それなのにこの資料には10年前のビッグ・モーラが月の裏に来てからの情報が書かれている。このようなことを予期し、あらかじめ月軌道まで魔力や霊力を拡張しないと無理な芸当だわ」  つまり永淋らはこのような不測の事態に対処するべく用意をしていたというわけか。それこそヴァンパイアを恐れたセイバーハーゲンのように起こるかどうか分からないことに手を打っていたいたのだ。ならば月人達もこの状況からビッグ・モーラを撃墜できる術を持っているのだろうか。 「月人達はどう動くと見ますか?」 「本格的にはまだ動かないでしょう。間接的な援助はしてもらえるけど、あてにするだけ無駄だと思うわ」  力はあるのにそれを使わない。それは、こちらに対する抑止力だろうか。 「あなたがいないうちに演算魔方陣をもう2つ作っておいたわ。あのスキマ妖怪に借りを作るのも嫌だし、巫女に追いかけられることもされたくない。誰にも見つからない所から出て行きなさい」 「こんどは昼間に出かけてもいいですよね?」 「レミィには私から言っておくから好きにしなさい」 「お嬢様には私から話します。今度はちゃんと挨拶をしたいですから」 「分かったわ。あなたの好きなようにしなさい」 「はい」  パチュリーに向かってお辞儀をしてから図書館から出て行く咲夜。  長い廊下を歩きながら考えていた。 (また外の世界か)  もう行くことはないだろうと思っていたので、いささか驚いたりもしている。しかも今度は月を曲げるという大役を仰せつかったわけだから、多少なりとも緊張している。失敗したら二度と満月が拝めないのだから。それにしてもパチュリーはどうして地球は100%安全だなどと断言できるのだろうか。小惑星にリトル・モーラ、それ以外にも隠し球を持っているかもしれないのに。 (今日の食事はどうしようか)  先の大事より目の前の小事だ。自分のできることを一つ一つこなしていこう。咲夜は今夜の献立を考えながらキッチンに向かっていった。 ・第十一話「その先に見えるもの」 (55)  太陽が昇り、時刻は昼時。紅魔館の門の前に3つの影が並んでいる。 「それでは、行ってきます」 「えぇ、気をつけてね」 「咲夜さん、頑張って下さい」  パチュリーと美鈴と別れの挨拶を交わす。最初に外の世界に出たときは勢い任せだったが、今回は安全性を優先して、博麗神社とは反対側の結界から出ようとする。レミリアとは昨夜別れの挨拶を済ませたので、心残りはない。不安がないと言えば嘘になるが、皆に期待されるのは悪くない。大きな励みになる。  咲夜は少し助走をつけると、颯爽と飛び去っていき、紅魔館が目視できなくなった。 「今度、再会するときは、空の空の異物は綺麗に片付いていることでしょう」 「そうだといいですね」 「警戒、しておいてね。この先、何が起こるかわからないから」 「それって……」  まだ他に、敵はいる? パチュリーは意味ありげな言葉を残して紅魔館に入っていった。  咲夜は演算魔方陣を使い博麗大結界を抜け、再び外の世界にやってきた。空に見えるビッグ・モーラとリトル・モーラの映像がかなり変わっていたが、相変わらず不快さと絶望を覚えるのは変わりなかった。たった数十人の力でこれを何とかできるのだろうか。まぁ、外の世界の人間が何十億と集まろうともこのビッグ・モーラを破壊できるとはとうてい思えないが。  以前は歩いて通った森を飛んで抜け、パチュリーの指示でとあるビルの屋上に降り立った。ここで待っていればいいとパチュリーに言われたからだ。しばらく待っていると、バババという風を切り裂く音とヘリのローター音が聞こえてきた。最近は都心の渋滞を避けるためにヘリコプターを使う企業も増えてきているので、それだろうか。いや、ここは情報によると廃ビルらしいのでどこかの企業がヘリで来ると言うのは考えにくい。それによく見ればこのヘリは軍用ヘリだ。  やがてヘリが落ち着き、中から自衛隊の服を着た人間が数名出てきた。 「十六夜咲夜さんですね」  そのなかの一人が名前を呼んできた。咲夜の名前を知っているということは、ストラウスと関係がある組織なのだろう。 「お待たせしました」 「あなたは?」 「森島三佐の使いのものです。あなたを島までお連れするようにと言われましたので」 「森島さんが……」  これがパチュリーの言っていた根回しだろうか。島へ行き、ストラウスと会い、月へどうにかして向かい、その月を自分の力を使って曲げようというのか。 「分かりました、お願いします」  場所さえ分かれば自分で飛んでいくことも可能だったが、人に見つかると厄介だし、何より疲れる。それにヘリにも乗ってみたかった。申し出を断る理由はない。 「これが資料です。島に着くまでの間にお読みください」  分厚いファイルが渡された。何の資料かは読んでいけば分かるだろう。  咲夜はメイド服と軍用ヘリという似つかわしくない組み合わせをみせて島へと向かうヘリに乗った。 (56)  島に着くと、すぐにある部屋に通された。その部屋には見知ったダムピール達とストラウスとアーデルハイト、そして人間と思われる知らない顔の二人がいた。 「やあ、咲夜。しばらくだったな」  ストラウスは前にあったときの格好とは違い、かなりラフな格好をしていた。 「お前に見せた資料は残らずパチュリーに送ってる。また、私やアーデルハイトを経由すれば魔力での通信も可能となる。今までと違ってブリジットに気づかれても構わないから、幻想郷と島とのあいだのやりとりは格段にやりやすくなった。咲夜は自分のできることをやってくれ、期待しているぞ」  この言い振りから作戦内容はすでにストラウスに伝わってるに違いない。 「分かりました。月は確実に曲げてみせます。しかし、ストラウス様とアーデルハイト様はどうやって太陽光を防ぐ気ですか?」」  まさか宇宙服だけで太陽光がしのげるわけがない。 「言ってなかったのか? ストラウスは太陽を克服したヴァンパイアだ、あのヴァンパイアと違ってな」 「太陽を!?」  ビッグ・モーラを見たとき以来の衝撃を受けた。ヴァンパイアが太陽を克服しているだって。咲夜が外の世界にいたころだってそんなことは常識だった。太陽光を浴びれば灰になって散ってしまう。そんなことが、通用していいのだろうか。いいはずがない、太陽を克服したヴァンパイアなんていたとすれば、どんなことだって可能になる。世界を支配することも、滅ぼすことも。 「その気になれば巡航ミサイルを何十基打ち込もうが島は確実に安全な地になる」  ここでストラウスが立ち上がる。 「レミリアは一万年前のヴァンパイアの生き残りの子孫だ。血を吸う必要もあって翼も自由に出し入れできないが、私達を遥かに凌ぐ魔力を持っている。それだから地球にいながらビッグ・モーラを撃墜する芸当ができるわけだが」  これも新たな真実だった。レミリアとストラウス。同じヴァンパイアなのにこれほどの違いがあるかと思ったのだが、発生の起源こそ同じなようだが、進化の方法が違うようだ。 「よって、私とアーデルハイトが月面近くまで飛行し、レミリアの魔力がビッグ・モーラに当たるように手助けをする」  森島がパンと手を叩いた。 「面白い話の途中で恐縮ですが、赤バラ王。状況も理想的に煮詰まったことですし、ここらであなたのあの計画を咲夜にも話しませんか?」 「そうだな。ブリジット」 「分かった。我々はビッグ・モーラ撃墜後、最後の羽計画。すなわち、月面に夜の国を再建する」 「月面に!?」  咲夜はこの日2度目の衝撃を受けた。月面に国を再建するなんて、夢物語だ。いや、しかし月人が実際にいてそれに触れた以上、必ずしも無理とは言えないか。 「咲夜が来た以上、ことは早急に始めようか?」 「いや、スケジュールを少し遅らせよう。本当は御前の予想よりも早く事態を動かして手を打つ前に追い詰めたいところだが、パチュリーとレミリアの準備もあるだろう」 「私は賛成しかねますが」  森島が否定的なことを口にする。しかしストラウスはこう返した。 「ヴァンパイアの王は私ではなくレミリアだ。従おうか」 「ご配慮、感謝します」  咲夜は軽く一礼した。 「まだまだ先は長そうだ、準備はしっかりとしなければならない」 (57) ズンッ!! 咲夜がストラウスの知っている真実を聞いていると、突如、島全体に揺れるような衝撃が走った。いったい何事だろうか。 そして、悪寒にも似た霊力の波動が感じ取れる。紹介された李紅飛と紅魔館にいたときにメールをくれた萩なずな以外はこの異常さに気がついているようだ。 「今の音は!? それにこの霊力はいったい?」  ストラウスが珍しく取り乱したように組んでいる足を解いて立ち上がった。目を閉じて、霊力の出所を感じ取ろうとしている。咲夜も同じように霊力を感じ取る。 「まさか」  ブリジットが何か知っているように口を開いた。そして、続けた。 「ブラックスワンが暴発した……」  黒鳥の暴走。セイバーハーゲンがどれだけの霊力をブラックスワンに注ぎ込んだのかが分からない。暴走したらどうなるかは咲夜には見当もつかない。ただ気味の悪い霊力がこの島一体を包み込んでいる。  人間で霊力もない二人を置いて、ブラックスワンが暴走している現場に向かった。  その場所には、蓮火が先にたどり着いていた。花雪がいるであろう部屋からは無分別な霊力が放たれており、もはや手のつけられない状況になっていた。 「これじゃ手がつけられませんよ!」  森島が中を伺いつつ、叫ぶように言葉を放った。 「うかつに近づくな、ただでは済まんぞ」 「どうしようもないんですか?」  咲夜も様子を伺いつつ、ブリジットに尋ねる。 「無理だ。ああなれば黒鳥は宿主を喰い殺すまで止まらん!」  森島は冷静に成り行きを見ていた。 「そう慌てなくてもいいでしょう。かわいそうですがいっそこのまま――」  その時、ストラウスがブラックスワンに喰われつつある花雪の元へと走り出した。 「花雪! すでに魂に喰いつかれたか……仕方あるまい」 「頼む、まだこの娘を死なせるな。聞こえてるか、黒鳥を抑えてくれ」  ストラウスは花雪にではなく、いったい誰に呼びかけているのだろうか。 「目を覚ませ、ステラ!」  ス、ステラ……ステラと言ったら、ストラウスの最愛の……  その名を呼んでしばらくすると、ブラックスワンの暴走がおさまってきた。 「……ステラが出てくれたか、ひとまずは安心だな・しかしこれで、花雪が真実をしてしまうな」 「ストラウス……なぜあなたはブラックスワンにステラの名を呼んだのだ?」 「ブラックスワンはステラの魂から出来ている。正確にはステラと私の子の魂からだ。これだけは隠しておくつもりだったのだが」  この真実にどれほどの意味がこめられてるのか、咲夜はあまりのことに言葉を失っていた。 (58)  その後、ストラウスの真実、ステラの真実、セイバーハーゲンの真実、アーデルハイトの真実を聞いた咲夜は何も言えなかった。無関係な自分にはそんな権利はなかったのだ。 「それで、ストラウス様はどうされるつもりですか?」  咲夜は憮然と尋ねる。ストラウスは淡々と返した。 「咲夜はこの一連の出来事には無関係な人間だ。自分の出来ることをこなしてくれればいい。気にやむ必要はない」  そして皆に言い含めるように全て者に話し始めた。 「何も気にする必要はない。だがこれで花雪は真実を知っただろう。ブリジット、花雪が目を覚ました残らず話してくれ」 「ストラウスがそう言うなら従うまでだ。しかし、全てを話した後はどうするつもりだ?」 「大きな違いはない。私は変わりなくブラックスワンと戦うだけ、皆も変わらず計画通り動いてくれればいい。あとは花雪自身が決めることだ」  花雪の両腕に触れることなく支えていた体をブリジットに任す。ストラウスは立ち上がって屈託なく微笑んで見せた。 「すまない、私はいつも大事なところで失敗してしまう」  その笑顔に、皆が息を飲んだ。 「何だよ……ストラウスが何をしたんだ! 何も悪いことしてないじゃないか!」  レティシアが壁に勢いよく拳を叩きつけた。 「ストラウスは立派は将軍だったんだろ!? 王様だったんだろ!? ずっとみんなのために苦しんだんだろ!? もっと悪い奴がいっぱいいるだろ!? なのにこんなことってないよ! あんまりだよおっ」  そんなレティシアにストラウスはそっと近づく。 「レティ、泣かないでくれ。全ては私が悪かったのだ。私がお前を受け入れたから、つらい思いをさせた」 「違うよ。ストラウスは悪くない……ストラウスは悪くない」  自分に言い聞かせるように小さな声を上げながら、ストラウスの胸に顔をうずくめる。 「風伯、エセル、ブリジットを頼む。これから先私がどうなっても、あの子のそばにはいてやれないだろうから」 「ストラウス様は変わらず敵、ということですか」 「そういうことだ。全てを知るお前達なら他の者とは違う支え方ができよう」 「そんなの言われるまでもありません」 「まさしく」  こんなことってあるか。いったい誰が悪かったのか。そもそも悪かった人なんていたのだろうか。そんなことだれもが思っているだろう。パチュリーはここまでの真実を知っていて話さなかった。それは咲夜に何の心配もなく働きをしてもらいたという配慮したのかもしれない。だが知ったところで何もできない。ストラウスに言ったとおり、自分の出来ることをするしかない。それが誰のためにもなることだ。誰も、誰も救えないのか。 (59)  翌日。全てを知った花雪とストラウス達は同じ部屋にいた。  最後の羽計画を含むビッグ・モーラ破壊までの作戦内容を話し終え、花雪は呆然としていた。無理もない、途方もない作戦ということは咲夜も思っているからだ。 「そんなことをせずともヴァンパイア王と女王がビッグ・モーラを破壊することができるのではないですか?」 「それではいけないのです。ヴァンパイアの王はレミリアお嬢様なので、従わなければいかないのです」  咲夜が思うのも何だが、この森島という人は意外と律儀な人物だ。 「ビッグ・モーラは撃墜できるよ。レミリアを信用したほうが懸命だ」  昨日とはうって変わって自信に満ち溢れている様子のストラウスが花雪を説得にかかる。この風貌、この佇まい、ヴァンパイアの王にふさわしいかもしれない。かと言って主であるレミリアに対する接し方を変えるつもりはないが。 「とにかくツクヨミ号を飛ばすことができなければどうにもなりません。現在リトル・モーラによる包囲網を星人フィオに解いてもらうよう交渉を進めています」 「交渉といってもそんな――」 「そう望み薄じゃありませんよ。地球の正式な部分譲渡に際し、両者が同じテーブルに着いて協議するのを求めているんです。その会談は地球上でもあちらの宇宙船内でも公平ではないので、どちらの領域でもない月面でするように提案します。これで星人フィオも包囲を一時的に解こうという気になるかもしれません」 「けれど……星人フィオは地球側の呼びかけにほとんど応えず、一方的にメッセージを送ってくるばかりです。今さら聞く耳をもつとは」 「実際に土地を差し出そうって言うんです。まるっきり無視はしないでしょう。手に入る場所がどこかも知りたいはず、対話が成立しないとは考えられません」  パチュリーはまさにそう考えて咲夜を外の世界に送ったのだろうか。それとも咲夜達が宇宙服を着て飛んで月へ向かわせようとしたのか。 「実現できるでしょうか?」 「そう不景気なことを言わないでください。月を曲げるにはあなたの力も必要なんです。最後に物を言うのはその黒鳥の力かもしれません」  花雪は黙ってしまった。いきなりこんなことを突きつけられたのだから当然か。咲夜はそんな中で声を上げる。 「しかし、最後の羽計画には大きな問題点があります」  咲夜には分かっていた。これが夢物語であるということが。忘れてはいけない、月に何があるのかを。 「月の民、なのだろう」  ストラウスが挟む。 「知ってらしたんですか?」 「ストラウスはその身ひとつで月まで飛べる。その気になればどこまでも飛べる」 「さすがですね」 「驚かないのか?」 「もうどんなことがあっても驚きませんよ」  咲夜は苦笑を浮かべてブリジットに向きなおした。 「月にはビッグ・モーラとは違う宇宙人、月人がすでにいます。しかも人類が月へ行ってから臨戦態勢をとっていて、地球の封印が解かれたようとしている今では月へ移住するには大変危険です」 「待て、我々はそんなことは聞いていないぞ」 「ブリジット、事実だよ。月には確かに月人がいた。私が月に行ったときに確かめてきた」 「そんな……そんなことが」  よろよろと手近かな壁に手をついてうなだれるブリジット。 「パチュリー様もその件に関しては作戦を進めているはずでしょう。皆様の意見を聞きつつ修正は加えると思いますが、そう悲観することではありません」  このまま最後の羽計画を進めてしまうと、そう遠くないうちにダムピールと月の民との間で争い事が起こるのは必死だ。避ける手段は難しいだろう。修正をしなければならない。  最後の羽計画にビッグ・モーラに月の民に幻想郷にいる月人、そして紫。問題は山積みだった。 (60)  場所は変わって、幻想郷。 「ふぅん……あなたたちはそういう作戦でいくの」  しばらくは会わないであろうと思っていた紫とパチュリーが緑茶を飲みながら話をしていた。場所は幻想郷と外の世界の境、界面と呼ぶに相応しい場所だ。いろいろなものが入り混じっていて、何となく落ち着かない。それでも会わなければいけない理由があった。 「作戦という程のものではないわ。魔力の塊をビッグ・モーラにぶつけて破壊する。それだけよ」  そこで紫にパチュリーは今回行われる作戦内容を伝えた。 「でも、敵は月の真後ろよ。どうやって当てるのかしら」 「咲夜が空間を曲げるわ」 「あの人間にそれだけの力があると?」 「アーデルハイトとブラックスワンも力を貸してくれる。十分でしょう」 「で、私に何の用かしら」  紫は事の重大さに気づいてはいるが、それにあまり干渉しないように行動しているようにとパチュリーには思えた。それならなぜミサイルを取り除いて、ブリジット達を幻想郷に呼び寄せるような真似をしたのかという疑問が生まれる。 「結界を槍が通るときだけ空けてほしいの。全部じゃなくてもいいわ、部分的にでも」 「魔力をぶつけるのはあのヴァンパイアでしょう。やぶるには事足りるわよ」  確かにレミリアの魔力は博麗大結界を破るに十分に事足りるものだった。そこはパチュリーも分かってはいる。 「それはそうだけど、なるべく外の世界と干渉をさせたくはないわ」  あまり干渉すると、何が起こるか分からないから。 「演算魔法陣を使ったら。私に関係なくできるでしょう」 「そんな余裕はないの。だれも演算魔法陣なんて使えない」 「まあいいわ。やってあげる」 「そう言ってくれるとありがたいわ」 「私も最悪の事態を回避するためには力は惜しまない」 (この妖怪の最悪の事態とはなにかしらね? そして協力の理由は?)  パチュリーはひとまず事態を棚上げにし、ビッグ・モーラ撃墜に全力を注ぐことにした。あれがなくならない限り、事は動かないだろうから。  パチュリーは帰りの夜道に珍しく一人でいるレミリアと出会った。ここしばらく館の外に出ていなかったが、今夜は散歩だろうか。ゆったりと湖面を見ながら歩いている。 「どこに行っていたの?」  レミリアはパチュリーの方を向いてその唇を動かした。 「ビッグ・モーラを破壊するためにスキマ妖怪を説得しに行ったのよ」 「それならすぐにでもあれを落とせるのかしら」  パチュリーは考え込むように空を見上げる。 「三日、時間をくれないかしら?」 「どうして? 私の準備はできてるわよ」 「槍を操るには霊力と魔力を月軌道まで拡張しなければいけないの。今の私はせいぜい地球が限度。槍は操れないわ」 「ふぅん……待てばいいのね」 「お願い」 「そろそろあれも見飽きたけど、あと三日なら待てるわ」  作戦の決行まであと少し。ビッグ・モーラもそろそろ見納めになる。 ・第十二話「限りなき夜のセプテット」 (61)  パチュリーは地球上に残っている最後の封印の十字碑のある部屋にいた。 「これがなくなれば地球は盾を失うわ。喉元に矛を押し付けられているのと同じ。しかしそれはこちらの望みでもある」 パチュリーは魔力をこめてぶつけると、十字碑はそれこそ跡形もなく消え去ってしまった。封印の十字碑を壊した。これで地球の封印は完全に解ける。相手が攻め込むのにも、自分達が攻め込むのにも何の障害もなくなった。月の民達も地球の封印が解けたことにすぐに気づくはずだ。地球に攻め込む算段を立て始めるだろう。もっとも、ビッグ・モーラが地球に小惑星を落としにかかったらタイミングを合わせてくるので、利用するはずだ。だがそれには時間がかかるし、ビッグ・モーラが陥落したら利用することもできなくなる。様子見に多少の時間をかけることになる。それがこちらには有利に働く。地球上の混乱を収め、戦力を集中させることができる。 「全ての希望はどこにあるのかしらね? 手元にあるのか、遠い先にあるのか? この戦争を勝ち抜けるのか」  この部屋には窓がないのでいつも薄暗くてじめじめしていて、メイド達にも入るなと最重要命令をしてあるのでほこりも溜まり放題だ。気が滅入る。十字碑を壊したのでこんなところにはもう用はない。この部屋は十字碑を封印するためだけに作った部屋のなので、すでに意味を失っている。 「パチュリー様」  聞き慣れた声がパチュリーの背中に届いた。振り向かずとも分かる紅魔館の門番、美鈴だ。 「何かしら?」 「戦闘員の準備が整いました。規模は前回の襲撃よりもかなり増やしております」 「質のほうは?」 「遠距離攻撃部隊、近接戦闘部隊、白兵部隊、作戦の指揮を執る者まで訓練を繰り返しております」  ここで始めてパチュリーは振り向いて美鈴の顔を見た。 「悪くないわね、このまま続けて頂戴。休憩も忘れないように」 「はい。しかし、こんなことに意味はあるんですか?」  美鈴が腕を組みながら難しい顔をして首を傾げる。それもそうだろう。再び兎が攻めてきたときのための戦力の増強だが、過剰すぎると言いた気だ。 「敵は空の空にいるビッグ・モーラ。この館に戦力を注ぎ込む意味はないと言いたいのね」 「はい。巫女や黒白が攻めてきてもさほど影響はないようですし」  図書館や紅魔館内部で弾幕戦を繰り広げれるのは、美鈴にとってはあまり重要ではさそうだ。 「真実はいつも残酷なものよ。誰も犠牲なしに前には進めない」  その犠牲になるつもりはまったくないが。 「とにかく現状維持。その気になれば私が何とはする」 「パチュリー様がそう言うのであれば文句はありません」  パチュリーは美鈴の横を通り抜け、部屋から出て行く。 「私はこれから霊力と魔力を練るから、用件は小悪魔に言ってね」 「はい」  魔法の力を使ってふわふわと浮いて廊下をすべるように移動する。しかし、その面白そうな状態とは裏腹にパチュリーの表情は固かった。 (ビッグ・モーラを撃墜し終えたら、協力関係はなくなる。直ちにここを攻めてくる? いえ、そんなことしないはずね。あちらの真の目的はおそらく……時間稼ぎ、そして月にある。まだ協力関係は残るはずね) (62)  その夜。しばらくはとることのできない食事をとるためにパチュリーはレミリアといつものテーブルのいつもの席についていた。 「今夜から私は霊力と魔力を月軌道まで拡張するために図書館にこもるわ」  デザートのフルーツタルトを食べ終え、レミリアに告げる。レミリアならばそんなことをしなくてもとっくに月軌道まで把握していることだろう。 「苦労をかけて済まなく思うわ」  思ってもみない言葉にパチュリーは一瞬目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべる。 「ストラウスの真似?」 「似ているかしら?」  すぐにレミリアも笑い返す。こんなやりとりがいつまでできるのか。パチュリーはナプキンで口を拭く。 「あの人は全てを背負っていたわ。今はそれを少しでも皆が代わりに背負おうとしている。私もストラウスを楽にしてあげないとね」 「ストラウスは死ぬと思う?」 「自らはしないでしょうね。そんな責任から逃げる人ではないわ。ただ、ブラックスワンが……」 「誰?」  レミリアが振り返りもせずに唇を動かした。気配を感じたのだ。小悪魔ではない、美鈴でもない、紅魔館の住人以外の気配だ。パチュリーも扉のほうに視線を向けると、そこには八意永琳の姿があった。 「予想より遅れて動いているようね」  こちらの行動などお見通しのような口ぶりだった。あまりいい気分ではない。 「私はビッグ・モーラが襲来してくるなんて思ってもみなかったから」  ここにいればそれほど慎重になる必要はない。長くいれば分かるはずだ。 「何の用? 直接協力してくれる気になったのかしら?」  紅魔館が襲撃されてから強固に張り巡らした警戒網をこの永琳はすんなりとかいくぐってくた。パチュリーは表情は変えてやりはしないもの、心の中で唇を強くかみしめる。 「お互いにまだ失いたくないものがあるでしょう」 「交渉に来たの?」 「協力よ。ブラックスワンがヴァンパイア王を殺すことは予想できること。それを阻止できるのは私達しかいないわ」 「つまりはブラックスワンを犠牲にしてストラウスを助ける、と」  レミリアは紅茶を一口飲む。 「私はどちらでもいいんだけど」 「まだパワーバランスを崩すときではない。今はまだ」 「あるのね。何の犠牲もなしに前に進める方法が」 「苦労は私がするわ。代償もある。だけど、皆が悲しまない方法はある」 「聞こうかしら、その方法を」  永琳は自らイスを引いて腰をかけた。そして祈るように両手を合わせて口元に持ってきた。その口から何が語られるのか。 (63)  場所は変わって島のとある一室。 「星人フィオが月での交渉を受諾したんです。非常線は解いてくれるでしょう。これで咲夜と花雪お嬢さんを月に送ることができます。そうなればレミリアお嬢様が地球からビッグ・モーラを狙撃することが可能となります」  森島が歩き回りながら計画書を読んでいる。パチュリーとストラウスが作った計画書だ。人類史上これほど大胆かつ精密な計画書はないだろう。パチュリーもストラウスも人類ではないので、それは当てはまらないかもしれないが。 「作戦の決行は四日後になりました。なお、パチュリー様からの伝言によりますと、最後の羽計画は遅らせるようにとありました」  ツクヨミ号で月に到達するまで三日。そのための準備に一日。作戦はもう目の前だ、宇宙空間における基礎練習をしている時間はない。しかし、宇宙空間といえども霊力を使えば地上と同じような感覚で動けるらしい。実際に宇宙に出てみないと分からないことだが。 「それが妥当だろう。月の民がいる今、最後の羽計画はあまりにもリスクが大きすぎる」  ブリジットがそれに賛同する。咲夜もパチュリーが言うなら文句はない。そもそも最後の羽計画には無関係だ。 「しかしそれでは血族に示しがつきません」  アーデルハイトは責任感を強くもって自分が犠牲になる計画を進めようとしている。 「ビッグ・モーラを片付ければいくらでも時間はある。まだお前を失うわけにはいかない」 「それでは花雪が……」 「それも模索中だ。時間はあまりないが、解決策がないとも限らない」  それは都合のいい夢かもしれないけれど。誰も犠牲をなしに進めやしない。ストラウスとアーデルハイトが犠牲にならなければ、花雪が犠牲になるだけだ。同じ霊力を使える数少ない人間なので仲良くできたかもしれないが、全てが上手くいくように事を回すには犠牲が必要だ。それが摂理。そして真理だ。 「明日、ツクヨミ号で三日をかけて月へ向かい、そこで作戦に必要な作業をします。もちろん、星人フィオに気づかれないように細心の注意を払ってです」  さしも簡単な出来事のように言い放つ。実際にやろうとしていることは途方もなく壮大なことなのだ。失敗してもビッグ・モーラは撃墜できると思うが、月に跡が残ったり最悪、命を落としかねない。 「船員はプロの宇宙飛行士四名と花雪お嬢さん、そして作戦の肝心要の咲夜になります」  ツクヨミ号の定員一杯の六人。ストラウスとアーデルハイトは単独で月まで飛んでいけるので数に入っていない。 「咲夜と花雪お嬢さんはゆっくりと体を休めて万全な状態にしておいてください。もちろん、赤バラ王と女王もです」 「分かりました」  花雪が強くうなずいた。だがブラックスワンの問題は片付いていない。逃げるように死ぬつもりなのだろうか。それともストラウスとアーデルハイトを殺すつもりなのだろうか。今はそんなことを考えてる場合じゃない、空の上のあの目障りな物体を何とかするのが先決か。 「花雪、あなたとは色々と話したかったわ」 「戦いが終わったらお話をしましょう」  気丈に笑ってみせた。自分の運命は自分で決めるしかないのに。咲夜と花雪はお互いに手をとって健闘を誓い合った。 (64)  ツクヨミ号発射当日。天気は晴れ、さえぎるものは何もない。プロの宇宙飛行士は先に乗り込んでいて、残すは咲夜と花雪のみとなった。 「いよいよか……」  昨晩は緊張して眠れないと思ったが、ベッドに入って気づいたら朝になっていた。よほど疲れていたのか、妖怪達に囲まれながら過ごしていたので肝が据わっていたのか。 「咲夜さん、参りましょう」 「ええ」  花雪が咲夜に近づく。そこにストラウスとアーデルハイトがやってきた。 「咲夜達が飛んでから私達も飛んで月面付近に向かう。さほど時間もかからないだろうから、ここから二人を見送ることにするよ」 「咲夜、レミリアとパチュリーから連絡がありました。必ず帰って来るようにとのことです」  アーデルハイトがレミリアとパチュリーからのメッセージを伝える。必ず帰ってくるようにか、その言葉が聞けて安心した。レミリアは自分のことを思ってくれている。それだけで十分だった。 「分かりました。約束は守りますとお伝えください」  これで心残りはない。全力を持って月を曲げることに集中できる。咲夜と花雪はツクヨミ号に乗り込んだ。 (まさか、本当に宇宙に行くことになるとわね)  ツクヨミ号の中で座りながら、咲夜は思っていた。前にレミリアと話していたがそれが現実のものとなるとは思ってもみなかった。しかも自分が作戦の要だということはまだ信じられない。昨日の夜に部屋にあった地球儀を曲げて練習はしたが、それとは規模が違う。 「どうかしましたか、咲夜さん?」  花雪が顔をのぞいてくる。物思いにはふけっていたが、自分が思っているほど間の抜けた顔をしていたのだろうか。 「いえ、何でもないわ。それよりブラックスワンの調子はどう? 途中で暴走したりしたら誰も抑えられないわよ」  ブラックスワンが花雪を食い殺さない限り。それは分かっているはずだ。 「今はステラさんが抑えてくれているので、作戦中は問題ありません」  本人が言うからにはそれを信じざるを得ない。 『ツクヨミ号発射二分前です』  マイクから森島の声が聞こえた。  その言葉にさすがに緊張してきた。宇宙か。月から見る地球は綺麗だろうか。守りたいと思うほどの価値は持っているか。 いや、守らなければならない。そこにはレミリアがいる。咲夜にはそれだけで十分だった。また物思いにふけって、不安で押しつぶされそうな気持ちをずっとそらしている。 『それでは発射します。ご武運を祈ります』  森島やブリジットらは何kmも離れた場所で指示を出しているが、ストラウスとアーデルハイトは発射台近くで見守ってくれている。発射の際の衝撃などは、この二人にとってはたいしたものではないのだろう。 『発射十秒前です』  咲夜はレミリアの魔力がこもった赤い銀のナイフをぎゅっと握り締めた。発射時に危険物をツクヨミ号に持ち込むのはあまりほめられたことではないが、これがあればどんなに離れていてもレミリアとつながっているように思える。それにパチュリーからもらった演算魔方陣の描かれたリボンで髪を結んである。パチュリーの思いも一緒に宇宙へいくのだ。  そして、カウントダウンが開始された。 『三、二、一、イグニション』  いざ、月へ。ツクヨミ号が発射される。 (65) 「……ツクヨミ号、捕捉」  パチュリーが図書館を出てから最初に発した言葉だった。この三日で問題なく霊力と魔力を練り上げて、感覚の範囲を月軌道まで広げることができた。これでレミリアの魔力を操れる。ツクヨミ号は無事に発射され、宇宙空間を月に向かって快調に飛行している。月に着くのも時間の問題だ。あとは咲夜が上手く月を曲げてくれれば作戦は成功する。レミリアの心配はいらない。五分の力であってもビッグ・モーラを破壊できる。  この三日、飲まず食わずだったので、さすがに何か口に入れたい気分だ。図書館に小悪魔の姿もなかったし、近くにメイドもいない。自分の足で厨房まで行き、何か食料を確保しよう。パチュリーは久しぶりに足音を鳴らして移動することにした。  その行為に深い意味はない。ただ、考えことをしているときに魔法を使って移動するとバランスが悪いため、まっすぐ飛べないからである。  厨房に入ると、美鈴が何やらがさごそやっていた。時間の感覚がおかしくなってるために、今が何時かも分からない。美鈴がいるということは、夜だろうか。 「何をしているの?」  声をかけるとびくんと体を震わせて反応し、ゆっくりとこちらに向かって振り向いた。 「決してつまみ食いをしていたわけではありませんよ」  口の周りにクリームをつけている姿では説得力がない。 「そんなことをとがめるつもりはないわ。私にも何か食べ物を頂戴」 「パチュリー様も小腹が減ったんですか?」 「そんなところね。今は休憩時間?」 「はい。ですからこうやって館の中に入っているわけです」  どうやら今は昼過ぎらしい。小腹が空いたのならこそこそ隠れなくても堂々とおやつにすればいいじゃないかと思っている。 「何か異常はあった?」 「ありませんでした。兎達は攻めようとしてきません。たまに妖精や人間がこの館に訪れていましたが、しっかり予約をとった者であったり、暇つぶしの遊びだったり様々です」 「つまりはいつもの通りね」 「そういうことになりますね」  協定どおりだ。先に永琳が紅魔館に来たときにビッグ・モーラを破壊するまでは不可侵協定を結んでいる。偵察やスパイを送るのも禁じている。それは信用できたものではないが。ビッグ・モーラを破壊するまでというのも不可解だ。ここには後何が残っているのか。残っているものといえば……それを思考している場合ではないか。 「まぁいいわ。警戒するに越したことはないわ」 「あの、不躾で申し訳ないのですが、作戦の決行前に夕食をご一緒してもよろしいですか?」 「えぇ、構わないわよ。真実を知りたいあなたにとっては話し合いたいものかしら」 「そうですね。咲夜さんがどんな活躍をするか知りたいですし」 「分かったわ。私から話はつけておくから、時間になったら来なさい」 「はい」  パチュリーは適当に食べ物を口に入れて、飲み物で流し込む。とりあえず食べられる物だったら何でもいい。いくらか食べて落ち着いた様子で美鈴を見る。 「仕事に戻るときは、クリームを拭いたほうがいいわよ」 「えっ!?」  言い終えて、図書館に戻っていくパチュリーだった。 (66)  次の夜は作戦の決行日。できるだけのことはした。あとはイレギュラーなことが起こらないことを願うばかり。永琳の言葉を信じないわけではないが、作戦をしたあとも一仕事あるのだ。 「咲夜は無事に月に向かってるみたいね」 「そのようね」  パチュリーはパソコンの画面を見ながら撮影された発射の瞬間を確認している。天候も良好だったし、ツクヨミ号にも異常もなかった。前に異常を起こした部分も修正されてるし、反対派に制空権を握られてもいなかった。リトル・モーラも動きを見せなかったし、静かなものだった。予想通りだ。ビッグ・モーラ側は包囲網を解除していた。 「咲夜が月へ行けば、宇宙の面白い話が聞けるわ」  レミリアが紅い紅茶をすすりながらぽつりと話した。パチュリーはレミリアと違って太陽光に弱いわけではないし、ダムピールより魔力の扱いには長けていると思う。魔法を使えばふわふわと気球のように浮いて、宇宙に飛んでいけるかもしれない。 「そうね。平和になったらゆっくり聞きましょう」  その平和はすぐ目の前にあって、しかし手の届かない場所にあるのかもしれない。どんなにあがいても触れることすらかなわないかもしれない。それならば届くまであがいて戦うまでだ。最後には勝ってみせる。 「宇宙ですか、壮大ですね」  美鈴が口を開いた。このような立派な食事をするのは珍しいことなのだろうか、今まで食事に没頭していたようだ。 「そうたいしたものではないわよ。外の世界の技術を吸収して、ツクヨミ号のようなロケットを作れるようになったら宇宙なんてすぐよ」  美鈴なら庭にあるミサイルに縛り付けて宇宙に飛ばしてやっても問題なく戻ってくるだろうけども。 「パチェがいれば簡単ね」 「そのようです」  組み立てやらは人員を割くことになるかもしれないが、設計などはパチュリーがやるつもりだ。 「作戦の決行は明日。館の全ての戦闘態勢のレベルを上げなければならない。何事も起こらないと思うけど、警戒するに越したことはないわ」 「はい」 「信頼してるわよ」 「おまかせください」  レミリアから直々に言葉をかけられて背筋を伸ばして勢いのある返事をする。パチュリーといるときとは違い緊張しているのか。  何も起こらないと確信はしているが、誰がどこでタイミングを合わせていくるか分からない。攻め込まれなくとも、この気に乗じて戦力を増強し包囲網を狭めてくるかもしてない。こちらも戦力をためているように、相手も戦力をためている。 「さて明日まで、休もうかしら」  紅茶を飲み終えると、パチュリーはめったに行かない自室に向かおうとしていた。 「パチェ」 「どうしたの?」  足を止め、振り向いた。 「何でもないわ、おやすみなさい」 「えぇ、おやすみなさい」  レミリアが何を言おうとしていたのかは分からない。ただ、レミリアにも十分に休んでもらいたいものだ。前を向きなおして、ゆっくりと部屋から出て行く。 (67)  時刻は深夜。場所は紅魔館の時計台。一人の魔女と、一人のヴァンパイアが空の空を見上げながら時を待っていた。外の世界ではちょうどストラウスとアーデルハイトがビッグ・モーラに接近していることだろう。連絡はまだない。星人フィオとの架空の交渉をしようとしている咲夜と花雪ももう少し時間がかかりそうだ。 「満月じゃないのが残念ね」  レミリアがつまらなそうに唇を動かした。 「地球からは三日月だから、月を曲げたことに気がつけないからいいのよ」  もしも見える月が満月だったら世界の天体観測をしている人々が驚くことだろう。また、月を観測している様々な施設に関しては、ブリジットらが必要な工作をして偽の情報を流すようにしているので、月が曲がっても気付く人間はいない。 「さて、作戦内容を説明するわ」 「その必要はないわ。私はただあの空の空にある目障りなものに対して魔力をぶつけるだけでいいんでしょ?」  パチュリーは苦笑して答えた。 「そうね。レミィはただ槍を投げてくれればいいわ。誘導はこっちでやるから」 「信頼しているわ、パチェ」 「ビッグ・モーラを破壊しうるだけの最小魔力は長さで換算すると七メートル。実際は様々なロスや場合を考慮して全長は十メートルはほしいわ。それではリトル・モーラに反応される。でも、レミィの魔力なら高エネルギーのレーザーを受けても問題なく大気圏を抜けて宇宙空間まで届く。そして月の裏側にいるビッグ・モーラに突き刺さる計算よ」  パチュリーはそこでいったんパソコンに視線を降ろす。 「そして、それに気付いたビッグ・モーラは何らかのアクションを見せる。それをどうにかするのが……」 「フランね」 「そう。たとえ小惑星を落としにかかっても、まったく問題にならない」 「光さえ壊せることになれば、太陽光も関係なくなる。腐食の月光と同じ原理ね」  ビッグ・モーラが何千何万という数の小惑星を用意していようが、こちらには最強のカードが存在する。ストラウスとアーデルハイトと同様に太陽光をものともせずに宇宙空間に到達できる存在がある。それがフランドール・スカーレット。たった一人のヴァンパイアが、地球を小惑星の雨から守るのだ。使えるものは暴走の危険性のあるものでも使わなければならない。手段を選んでいられないのが現状だ。また、こちらにフランドールというカードがあるからこうして余裕を持って構えていられるのだ。もしフランドールがいなかったら、また別の方法を考えていた。 「宇宙へ行ったらフランは変わってくれるかしら」 「そうね。青い地球を見たら心境は変わると思うわ」  ずいぶんと回りくどいことをする。レミリアはレミリアなりに妹のフランドールを心配しているのだが、その心配の仕方が下手なだけだ。そんなレミリアの不器用さがパチュリーには面白かった。状況が状況なので表面的には笑いはしないが、少しだけ表情を緩める。 「まだかしらね」  レミリアが立ち上がって魔力を溜めながら呟く。 「スケジュール的にはもうじきよ」  ツクヨミ号は月に着陸した。星人フィオと偽の交渉をしているはずだ、四名で。咲夜と花雪は月を曲げるために別行動中。 もうすぐ、もうすぐだ。 (68) 「きた」 「ええ。作戦開始ね」  二人はストラウスとアーデルハイトからの魔力での通信を感じ取った。準備は万端、いつでもビッグ・モーラに対する攻撃が行われても良いという内容だ。  パチュリーがパソコンの画面から顔を上げて、拡張した魔力で月軌道にいるビッグ・モーラの位置を確認する。やはり月の裏からぴったりとくっついて離れないでいる。念を入れて月を盾にしているのか、そこの居心地が良かったのか。どちらにせよあちらはそこにいながら人類を全滅させることができる。 パチュリーは膝の上に乗せていたパソコンをそっと床に置き、レミリアと一緒に空の空を眺めている。そして、唇を動かした。 「投擲準備」 レミリアは込めていた魔力で槍を作り出す。正確には、槍を作り出すのではなく魔力を圧縮させて槍型にするのである。投げやすく、突き刺さりやすい。レミリアが得意とする力技をしやすい形状になっている。槍の長さは十五m。レミリアの身の丈の何倍もある。その魔力は触れただけで全てのものを拒絶しそうなほど力強かった。 「いつでもいいわ」  レミリアは槍を投げる準備に入る。パチュリーはカウントをスタートさせる。 「カウント開始。三、二、一……〇」  高密度の魔力が収縮を開始する。槍の魔力はよりいっそう強くなり、触れたものを一瞬で消し去ってしまいそうなほど激しい。計算どおりの十mになった槍はビッグ・モーラの方に向けられた。 そしてレミリアが一歩前に踏み出して、槍を投げる。瞬間に空気を切り裂く音が耳に届いた。衝撃波も感じとれる。パチュリーはかぶっている帽子が飛ばされないように押さえた。槍は投げた直後に音速を越し、ぐんぐんと速度を上げていく。パチュリーは集中して槍の行方を調べ始める。 「博麗大結界通過確認。D層通過。E層通過。F層通過……大気圏通過。リトル・モーラから高エネルギー反応……反応終了、影響は皆無。第一宇宙速度突破。第二宇宙速度突破。第三宇宙速度突破……以後、速度は加速中。地球自転などの誤差修正良し。予定の速度では、ビッグ・モーラ到達まで後約一時間」  これはミサイルとは比べ物にならないほど早い。あらためてレミリアに織り込まれた魔力の強さを実感する。 「私はフランを呼んでくるわ、ここから槍を飛ばした方向に向かわせるのがいいでしょう」 「そうしてもらえると助かるわ。私は咲夜と話をするから」  槍は速度を上げ、宇宙空間を時速約四十二万kmで飛んでいく。レミリアが時計台から去っていった。パチュリーは再び座り込んで話し出す。 「今、槍を投げたわ。あと一時間で届くから、それまでに月を曲げておいてね」  アーデルハイト経由で咲夜と話をする。その話しぶりは、まるでお使いでも頼むような口ぶりだった。 『はい。それとビッグ・モーラが動き出しました』 「予想通りよ。リトル・モーラはそちらに任せたわ」 『小惑星はお願いします』  星人フィオも地球から狙撃されるとは思ってもいまい。月という強固な盾があるから、地球にはそんな技術はないと知っているからだ。しかし、星人フィオも月を曲げることのできる人間がいるということは誤算だったろう。  こつこつを二人分の足音が聞こえてくる。レミリアがフランドールを連れてやってきた。 「フラン、分かってるわね。来たものは全て破壊するのよ」 「弾幕と同じように?」 「そう小惑星が青い地球に落ちれば終わり。全て破壊することができたら合格」 「分かったわ、お姉様」  フランドールにとってこれは遊びなのだ。地球の存亡がかかってはいるが、遊び同然。こんな様子のフランドールに任せるのは少々不安が残るが、他にできる者がいない。ストラウスはリトル・モーラ迎撃ために動いているし、咲夜では力不足だ。さすがのレミリアとストラウスも全ての小惑星を迎撃するのは不可能だ。 「それでは行ってらっしゃい、限りなき宇宙を飛んできなさい」 「うん」  フランドールが空を翔る。地上にいるときは月の光を受けて淡くその姿は確認できるが、結界を抜けて太陽光を浴びる宇宙空間ではフランドールは黒い物体にすぎない。光を反射しないので、姿を認識できないからだ。  宇宙空間では太陽光にさらされているが、光をも破壊するその能力の前ではまったくの無意味だ。ストラウスらは耐性をつけることによって太陽光を防いできたが、フランドールは破壊することによってそれを無効化することができる。ストラウスとフランドールはまた違う進化の過程をたどったのかもしれない。 (69)  リトル・モーラが増殖を始めている。レミリアの魔力に恐れをなして増え始めたか。周囲の小惑星と合わせて咲夜の感覚で分かっているだけで百万を超えていた。槍は投げられた、もうどんなことをしようと遅いのに。しかしパチュリーとの通信を終えてから四十五分も経つのにまだ月を完全には曲げられないでいる。 『月湾曲率六十五%』  パチュリーから淡々とした声で進捗率の計算結果が聞こえてくる。これだけ月を曲げたのだから、月の民も気づいているはずだ。しかし不気味に動きを見せない。どちらが勝つか慎重に見極めているのだろうか。この戦いの後、どちらの勢力と戦えばいいかを考えているのかもしれない。この状況で月の民が漁夫の利を得るというのは面白くなことだ。最後には勝たなくてはならない。 「く……私の力だけじゃ予定の七割しか曲げられない」  それが咲夜の限界だった。パチュリーの思いとレミリアの力を背負っても、月はこれ以上曲がらない。このままでは月に穴が開く。それだけは避けなければいけない。世界のため、幻想郷のために。 「わたくしの力を貸しましょう。魔力ですが、足しにはなるでしょう」 「ブラックスワンの霊力も使ってください」  レミリアの力が込められた赤い銀のナイフを握っている手をアーデルハイトと花雪が包み込むように重なる。そうだ、まだ力は残っていた。この二人の力を合わせれば、月を曲げることができる。希望的観測ではない、確信だ。 『レミィの槍が接近しているわ。まだ月は曲げられないの?』 「やっています」 『カウント開始。十、九、八、七、六』  ついに運命のカウントダウンが始まった。 「もう少しもう少し」  三人の力が合わさって、月がさらに曲がり始めた。 『五、四、三、二』 「曲がれえぇぇぇぇ!!」 ありったけの霊力を込めて月を曲げようとすると、自分でも信じられないくらいの霊力が発揮され、完全に月が曲がりだした。その直後、寒気がするほどの魔力の塊が曲げた所を通過する。後を追ってみてみると、真っ直ぐとビッグ・モーラのほうに進行していっている。大小様々なリトル・モーラが槍の軌道に現れて直進を阻止しようとしているが、まったく関係ない。何もない空間を進んでいるように、全てものをひれ伏させるような魔力が突き進んでいる。 『一……月、通過確認』  レミリアの魔力がビッグ・モーラに吸い込まれるように突き刺さっていく。その瞬間、魔力が膨張し、ビッグ・モーラを包み込んでいく。次々に宇宙の塵になっていくビッグ・モーラ。これで終わりだ。ビッグ・モーラはなくなっていくが、最後の抵抗とばかりか地球めがけて小惑星を落としにかかる。 「パチュリー様! 小惑星が地球に落ちていきます」 『分かっている。安心していいわ』  そう言われれば安心するしかない。切り札を切ると言っていたが、何なのだろうか。あれだけの小惑星に対応でき、なおかつ地球に一切影響されないようにできるのは……まさか。 『フランドールを月と地球の間に出すのよ』  咲夜の考えていることなど分かっているかのように、レミリアの声が宇宙空間に響く。なるほど、フランドールなら全ての小惑星を破壊できるだろう。それにストラウスとアーデルハイトが加勢してくれれば小惑星などないも同じだ。  ビッグ・モーラとの戦闘は、終わった。 (70) 「ビッグ・モーラ、撃墜確認」  月が曲がりビッグ・モーラにレミリアの魔力が突き刺さった後の数刻の間になす術もなくその魔力に飲み込まれたビッグ・モーラは消滅していった。パチュリーはそれを感じ取り、言葉に出した。レミリアにも分かっているだろう。 「ふぅ……」  珍しくレミリアは肩の荷を降ろすように大きな溜め息をつく。パチュリーはまだまだ気は抜けない。ビッグ・モーラは撃墜してリトル・モーラは消滅するだろうが、小惑星は消滅しない。これはフランドールに任せているが、一つでも漏れがあったらアウトなのだ。十や二十ならここからでもどうにかできるが、百を超えるとなると対処しきれずに地球に当たってしまう。魔力を集中させて、小惑星の軌道を確かめる。万単位で消えていくのが分かる。どうやらフランドールは順調に破壊に成功しているようだ。当然だろう。日ごろ押さえに押さえていたその圧倒的な力を宇宙空間という新たな環境で申し分もなく発揮しているのだから。 「フランの力はすごいわね。私ではあんなことはできない」 「たぶん、進化していたのよ。次の世代で宇宙へ、他の星へ到達できるように」  フランドールは突然変異ではない。憶測でしかないが、次へのステップを踏むための能力を身につけたのだろう。 「もはやビッグ・モーラは片付いた。空の空の異物は消えたわね」  パチュリーの感覚の範囲にもビッグ・モーラやリトル・モーラは感じ取れなかった。小惑星は残っているが、フランドールに任せていれば問題はない。 「考えてみれば、あれがなかったら咲夜を外の世界に出すことも宇宙に向かわせることもできなかった。不快ではあったけれど、面白い話をさせてくれたのは幸いだったわ」 「そうね。私もパソコンに触れる機会も外の世界の技術を得る機会もなかった。これから月の民と戦うにはビッグ・モーラはいい材料だったわ。存分に利用させてもらった」 「次は月の民?」  レミリアはまだ全力を出し切っていないはずだ。余裕があることは次の戦いに向けて良いことだ。次の戦いは月の民だが、こちらのほうがよほどビッグ・モーラよりも性質が悪い。星人フィオのように時間を与えてくれることはしないはずだ。 「ええ、ビッグ・モーラ陥落に多少の動揺を見せるだろうけど、その原因をすぐさま分析、観測の結果から地球からの魔力が直接の原因だと判断するでしょう。そうなれば月の民との全面戦争は避けられないわ」 「誰も恐怖を隣人にはできない。それならばその恐怖を飲み込むまで」  それはとても悲しいことだけど。分かり合えないことは、切ないことだけど。難しいが月の民と分かり合えないだろうか。どちらにも戦う力はあるが、こちらには積極的に戦う意思はあまりない。攻めてくるから戦うまでだった。ビッグ・モーラもそうだ、難民だろうが攻めてこなければ戦う必要はなかった。 「最後に勝つのは私達よ」  何を持って勝利かは定かではないが、脅威がなくなれば勝ちだ。 「その前に、まだやることがあるのよね」 「えぇ、行きましょう。外の世界に」 二人は時計台から飛び立って、幻想郷の夜を駆けた。 (71)  パチュリーとレミリアは月の光が照らす夜道を飛んでいる。もう一人、外の世界に一緒に行く人物と合流するためだ。それは八意永琳。三人で外の世界に行こうと提案した張本人だ。 「来たわね。外ではもうブラックスワンとストラウスが接触を開始しているわ」 「時間はもうない。行きましょう」  レミリアの槍が通った結界の穴から外の世界に出て行く。 「これで、終わりです。あなたの体はもはや再生できず滅びるだけです」  花雪の腕がストラウスの体を貫く。それとほぼ同時にレミリア、パチュリー、永琳の三人がストラウスと花雪のいる戦艦の甲板に降り立った。 「遅かったかしら?」  レミリアは無関係なように口を開いた。そのレミリアがストラウスに歩み寄る。 「あなた達は……幻想郷の住人ですね」 「そうね。外の世界から見たらそうなるわね」 「勝手に死なれては困るわ。あなたの運命は私のもの」 「この薬を塗れば、たとえブラックスワンに貫かれた体でさえも治るわ」  レミリアと永琳はその能力を使ってストラウスの治療を始めていた。 「何ですか! 私とヴァンパイア王の戦いに介入しないでください」  花雪が叫ぶ。レミリアが返す。ブラックスワンの両手には自分を傷つけかねない力があるというのに。 「人間、ストラウスにはまだやってもらうことがある。だから助ける。ブラックスワンは役目を終えたのよ」 「邪魔するなら戦うしかありませんね」  戦艦の甲板に突き刺さった霊刀を抜いて、レミリア達に剣先を向ける。 「私達に戦う意思はないわ、それにブラックスワンは私達の技術。解けないものじゃない」 「ブラックスワンを?」  永琳が軽く腕を振るうと、半径十kmの円柱状の魔方陣が花雪を中心に展開される。 「こ、これは……」 「ブラックスワンを解除する反黒鳥魔方陣。ブラックスワンを強制的に開放する魔方陣」 「どうしてそれをあなたが?」 「私は月人。月の民の技術であるブラックスワンを解除するくらいは何でもないわ」  今までは黒鳥を利用していただけ、利用価値がなくなった黒鳥に用はない。それにブラックスワンとストラウスを天秤にかけるとしたら、ストラウスをとるはずだ。 「月人……敵ではないのですか?」 「私はとうに月人に見切りをつけて月を捨ててきた。立場としては人間に近いものよ」 「それならどうしてもっと早くに言わないのですか?」 「早くに知られても困ったのよ。ブラックスワンがいなければビッグ・モーラに槍を当てることができなかったから」  その間にも魔方陣が回りだしている。しかしこの魔方陣はどうやって作り上げたのだろうか。ついさっき幻想郷からでてきたばかりなのに膨大な量の魔方陣が展開されている。それはまるでこのことを見据えていたかのように。 「これでステラとその子どもは呪縛を解かれるわ。ストラウスの幸せを願ってね」 「ヴァンパイア王を殺さずステラさんが解放されている」  実感があるのだろう、自分の中からブラックスワンが消えているのが。 「ありがとう、ステラさん」  ブラックスワンの解除が終了し、静かに昇天していく。それと同時に花雪の両手から黒鳥の紋様が消えていた。 「さようならステラ」  ストラウスは傷つきながらも別れの言葉をかける。  これで黒鳥の問題は回避された。後は、月の民だけだ。そうだと願いたい。 ・第十三話「史上最大の共同作戦」 (72) 「パチュリー様、今日のお菓子はアップルパイです」  咲夜が音もさせずに図書館に入ってきて、パチュリーの前にアップルパイを置いた。その近くに座っている小悪魔の前にも同じものを置いた。いつもならここで一礼を残して去っていく咲夜だったが、今日はそのまま立っていた。 「何か聞きたそうね」 「少し、お時間よろしいでしょうか?」 「いいわ。その前にコーヒーをお願い」 「はい」  一緒に持ってきたティーポットから淹れたてのコーヒーをカップに注ぐ。パチュリーはすぐにそれに口をつけて、満足そうに頷く。小悪魔は熱いのか苦いのか分からないが、少し口をつけただけですぐに離してしまっていた。話を聞く体制は整った。そう判断したのか、咲夜が口を開く。 「私達が月から戻って三日。そうしてこの館に戻ってきてから一週間。何事もなかったように過ごしていますが、それでいいのでしょうか?」  ビッグ・モーラ撃墜から一週間。しばらく時間が経ってしまったが、地球の混乱を抑えるためにダムピール達に動いてもらった。それに時間がかかっているだけだ。  月の民達も事態の把握をしている頃だろう。地球攻撃にはまだ時間がある。それにこちらには兎の波動を感知できるレイセンがいる。動き出したら内部の事情をさぐるためにも必ずもう一度、兎の波動でこちら側に呼びかけてくるはずだ。そう、前と同じように。 「まだ時間はあるわ。でも悠長に構えてる時間はない」 「月の民ですね」 「今のところそれ以外の敵はいないわね。あっちもすぐに攻めてくるほど愚かではない。状況を確認してどうやって地球を攻略しようか作戦を練っているところよ」  ビッグ・モーラとのタイミングを合わせる予定だったのだろうから、まだ考えているはずだ。 「こちらは動かなくてもいいのですか?」 「まだ月の兎から連絡はない。手を打っていないわけじゃないけども、さほど気にすることはないわ」  異星人というイレギュラーな敵はいなくなった。だが敵はまだいる。月の民。それがいなくならない限り地球は危機から脱しきれない。 「しかし……」 「心配性ね。いいわ、もうじきだと思うから召集をかける」  ここでアップルパイにフォークを入れる。外側はパリッとしていて中はしっとり。作り手の上手さが良く分かる。 「作戦会議を行うわ。関係者や力のあるものを集めて地球の危機にもう一度、戦ってもらわないといけない」 「では、行動するときですね」  アップルパイを口に入れる。ほんのりとした甘みとしっかりとした酸味のバランスが良い。それを見た小悪魔もアップルパイを食べ始める。 「あなたにも動いてもらうわ。外の世界への連絡はこっちでやっておくから、それ以外をお願い」 「分かりました」  ビッグ・モーラという災厄の芽は摘んだ。しかし月の民という根は残っている。放置しておけば遠からず敵になるのは明らかだ。ならば戦うまでか。 (73)  二日後、ビッグ・モーラを撃墜した主要メンバーが紅魔館にぞくぞくと集結していた。  今ここに世界の危機を救おうとしている勇士が集まっている。人間に妖怪にヴァンパイアにダムピール。宇宙人、月の民までいる。なんと過剰なのか、しかしそうでもなければ月の民に対抗できないかもしれない。外の世界で忙しく最後の羽計画の修正案を考えているストラウスやアーデルハイトの二人も来ている。  だが花雪はいない。御前体制は崩れ去ってしまったからGM御前の孫として扱われるのはまずい。ブリジットが情報操作をして今は安全な地で暮らしている。そもそもブラックスワンの力がなくなりただの少女になった花雪はいても何の意味もない。 「今夜はお客さんがたくさんいますね」  門番の美鈴が楽しげに言う。誤って必要な人物に攻撃を加えないように咲夜が側についている。そうやって次々と来客に挨拶をしながら紅魔館の中に通している。中での案内は他のメイドに任せている。外の世界の主要メンバーは揃った。後いないのはは幻想郷の中にいる月人くらいだ。 「まさに幻想郷そのものね」  どこかのスキマから来たのか、歩いてきたのかは分からないが、捜しても見つからなかった人物が現れた。 「八雲紫。あなたは呼ぼうとしても気配すら見せずにいたのに、どうしてちょうど良くこの場所に居合わせてるのかしら?」 「私の力も必要になるからよ」  その気になれば幻想郷と外の世界の境を壊せるメンバーがいるのだ、紫の力が必要だとは思わない。いたほうが物事がスムーズに運ぶだろうが、この妖怪の力はあまり借りたくない。どこか異様で、どこか神秘的で、どこか胡散臭い力を持っているから。 「月の民攻略戦に協力すると?」 「それが意思ね。そして月の民の攻める理由の一端でもある。幻想郷だから集まったのではなく、集まったから幻想郷になった。私はその境を作っただけ。作らないと、いずれ混ざって坩堝になることは目に見えていた。月の民には面白くなかったでしょうね。穢れを祓うことも、月を見させて狂気を作ることも出来ずにね。月の民は、穢れを封じるのではなく、閉じこもったのよ。怖くて閉じこもった、だから地球を攻めるのよ。敵がいなければ、同胞を憎むしかないから」  そんな理由で地球に攻めてこられてたまることか。もし紫の言うことが正しいのならば、月の民は悲しい部類に入る。 「まぁ、いいわ。中に入ってメイドの案内に従って」 「分かったわ」  こつこつと足音を立てて紅魔館の中に入っていく紫。そして次の気配を感じ取った。 「次は月人かしら?」  名簿を見れば分かる。後来ていないのは月人である永琳と姫の輝夜だけだ。 「今日は正面から来てあげたわ」 「一人ですか?」  美鈴が尋ねる。 「姫は今日は来ないわ。私が全ての話を聞く」 「そうでしょうね」  あの姫のことだから、あまり外には出たがらないだろう。 「これで全てのメンバーが集まった。美鈴、何事もないだろうから休んでいて構わないわよ」 「はい」  美鈴の言葉を聞きながら、咲夜は永琳と一緒に紅魔館の中に入っていった。 (74)  広間に集まった客人達に咲夜は一人一人に挨拶をしながら紅茶とお菓子を配っている。 「今度こそ月の民が攻めてくるようだな」  ストラウスの前に紅茶を置いたときに話しかけられた。 「はいそうです。攻めてきます、確実に」 「月の民は星人フィオよりある意味、性質が悪い。ビッグ・モーラ陥落に恐怖した月の民は地球を危険分子として判断、本格的に攻めてくる。それも組織的に集団で。意思が分かっている戦いづらい。しかし、守るためには戦うしかない」  守りたいものがあるから戦える。そうでなければ戦うにはつらすぎる。戦わないのであればそれに越したことはないが、降りかかる火の粉は払うしかない。 「ふん、まさか星人フィオ以外にも宇宙人がいたとはな。いや、ここには我々の予想の範疇を超えた連中もぞろぞろといる」  ストラウスの隣に座っているブリジットが出された紅茶に口をつけてからしゃべる。心底驚いているというか、呆れているかのような表情をしている。 「私も始めはそう思いましたよ」  ブリジットの前にシフォンケーキを置いた咲夜が答える。咲夜はからっぽだったから全てを受け入れることができたが、それ以外の存在ならば受け入れるのは難しい。 「私もうかつだった。お前を見たときに疑問に思うべきだった。今考えれば、イレギュラーな存在だ。森島が連れてきた相手だったから、疑うことがなかった」 「今はそう言っても始まるまい」  ストラウスが口を挟む。ブリジットもそれに頷く。 「そうだな。月の民がいる限り、最後の羽計画は実行できない。たとえ行っても、そこはダムピールの安住の地になりえない。常に危険と隣り合わせの地球と変らない。いや、御前の影響力が少なくなった地球の方がまだ安全か」  ならば最後の羽計画は実行しなくて地球に住めばいいのか。そうでもない、人間はダムピールの存在を認識してしまったのだ。歴史を変えてまでひた隠し続けたのに。だから地球に住めばいずればれる。レティシアのようなはぐれダムピールも出てくる。そうなれば再び弾圧をされかねない。そうされないためには何人にも侵されない聖域に住むしかない。 「幻想郷に住めば良いのではないですか?」 「そういうわけにもいかん。もはや最後の羽計画は動き出した。それに赤バラ討伐チームも残さなければならない。そんな中でこのような平和な世界に居住するわけにはいかない。迷惑にもなるしな」  そういうものなのか、咲夜には分からなかったので、お辞儀をしてその場を去った。  全員に紅茶とお菓子が行き渡たり、後はパチュリーとレミリアを待つだけだ。ストラウスやレティシアはシフォンケーキを食べながら話をしている。そこに、扉の開く音が響いた。皆が注目する。 「みんな揃っているようね」  レミリアと並んでパチュリーがやってきた。これで役者は揃った。咲夜は最後にレミリアの前に赤い紅茶を置いて、すっとその横に立つ。  レミリアが宣言する。 「時期は来た、これから月の民攻略戦の会議を始めるわ」  そうは言っても話すのはパチュリーの役目だということは咲夜は知っていた。 (75) まずはパチュリーが場を仕切るように丁寧に口を開く。 「お集まりのみなさま、ようこそ」  長いテーブルの上座に座っているレミリアの横に立ちながら、挨拶をする。もう一人、レミリアの横に立っている咲夜も恭しく礼をする。 「ご存知の通りビッグ・モーラは無事に破壊されました。しかし新たな敵が地球を危機に陥れようとしています。それは月人。その名のとおり月で暮らしている月の民および兎です。この月人とは人間とダムピール達と同じように、地球人とは相容れるものではありません。相手が戦う気ならば、それを迎え撃たなければなりません。そのことについて異議のある人はいますか?」  誰も口は開かなかった。紅茶をすする音だけが広間に響いた。パチュリーは咳き払いをして、続けた。 「月の民はビッグ・モーラ陥落に動揺を見せるでしょう。自分たちは何もしていないのに突如にして月の空から見えていた異形の物体が消えたことに驚くはずです。しかし、もっと驚くものがあります。それが地球。観測してきた地球から高エネルギーの魔力が月の裏まで飛んできて、それがビッグ・モーラに当たり破壊してしまった。これを奇妙に思うかもしれませんが、恐怖も感じていることでしょう。地球には自分達を直接攻撃できる手段があるということに。ここで月の兎であるレイセンに話を伺いましょう」  パチュリーは席に座った。そこに咲夜がタイミングよく皆とは違う香りが漂うコーヒーの入ったカップを差し出した。一口すすると熱くて苦い。ちょうど良かった。  指名されたレイセンは立ち上がり、やや緊張した面持ちで口を開いた。 「はい。私達月の兎が通信にしよういている兎の波動を傍受して、通話していた内容をお話します」  そう言って一枚の紙を出した。 「傍受した内容をそのまま読み上げます。『地球の人間達が再び月に攻め込んできた。地球に施されていた封印もなくなり、我々が地球に攻め込むにも障害はなくなった。異星人の船がなくなったのは我々にとって不利に働くかもしれないが、それでも問題なく攻め込める。全力をもって戦わなければならない。反対派にも圧力をかけて決行当日に妨害されないようにしろ』とのことです」  レイセンは着席する。森島がパンと一つ手を叩いた。 「歴史を見ても国内がうまくいっていない時、わざと外部に敵を作って問題を逸らそうとした例は山とあります。月の民もそうなんでしょう。敵が地球にいるとなれば、うまくいったんでしょう」 「そうね。そしてこれによって新たな事実が発覚した」  パチュリーはコーヒーを一口すすった。 「月の民にも地球侵攻反対派がいる、ということだろう」  言いたいことは分かっているようにストラウスが呟いた。永琳が続けて口を開いた。 「確かに私が月にいたときにも慎重派はいた。地球にいかなくとも、暮らすことはできる。地球はいい所よ。それがほしくて攻め込む月人もいるわ。まぁ、地球に来ないと分からない感情だけどね」 「つまり、月人のルーツは地球にあると?」 「そうね。そう考えるのが妥当よ」 『今はそんな話をしている場合でもないけどね』と永琳は付け加えた。 「それは別として、新たな対応策を模索する必要があるわ」  パチュリーが会話を元に戻そうと口を開いた。 「この作戦は失敗が許されない背水の陣だな、失敗すれば地球は征服される。全人類が殺されるとは限らないが、犠牲者は計り知れないだろう」 「負けは許されない、か」  朝を向かえて、レミリアを含む一部の者が休むなか議論は続いた。 (76)  咲夜は昨日の夜から休んでいない。ここには昼に活動する者と夜に活動する者と、どちらでも活動できる者がいるのだから休む暇がなかったようだ。美鈴も作戦に参加することなので、朝から会議に参加している。  咲夜は忙しくキッチンと応接間を往復しながら各人のお茶が切れないように気を配り、パチュリーにはコーヒーをもってきてくれた。他のメイドに任せればいいと感じたが、それは咲夜の責任感の表れだろう。 「パチュリー様、朝食のサンドイッチです」 「ありがとう、そこに置いてね」  パチュリーがいつもの癖で左側を指さす。そこは図書館のパチュリーの居場所のテーブルのお茶を置いている場所だった。サンドイッチは良い。何せ夕食のように食べるときに場所を取らないし、片手で魔道書を読みながら食べることもできる。咲夜はまた別の物を乗せて、今度はストラウスの近くに行った。 「ストラウス様、おにぎりですがいかがですか?」 「ありがとう。もらおうか」  おにぎりには紅茶は合わなさそうなので、トレイには湯気の立つ緑茶を用意していた。 「月の勢力はどれくらいなのだ?」  ストラウスが永琳に話しかける。 「そうね、追っ手が月から来なくなって相当時間が経っているからずいぶんと戦力は溜めこんでいるのでしょう。姫ほどの力の持ち主は現れていないようだと思うけど、侮れないわよ」 「そこはレイセンの兎の波動で調べるのが最適ね」 「戦いの基本、内部分裂を起こしていると思わせておいて相手の戦力を把握する。上等な作戦とは言えないけど、それがベストかもしれないわ」 「敵の本拠地は分かっても、直接叩く訳にもいくまい。中には地球侵攻反対派もいるだろうから、全てを叩くわけにはいかない」 「攻めてきた敵を撃退し、戦力を十分に削いでから和平を出すのが最も良い方法だと思うわ」 「うむ、そうだろう」  パチュリー、紫、永琳、ストラウスが話し合いを進めるなか、ぽつんと取り残されている一角があった。 「私たちは話についていけませんね」  美鈴が隣に座っているレイセンに話しかける。同じく話についていってないであろうレイセンは紅茶を一口飲むと、頷いた。 「はい。考えるのは師匠たちに任せてます」 「あなたたちもちゃんとした戦力なんだから、きちんと話を聞いていなさい」  咲夜は美鈴とレイセンの紅茶がなくなりそうなので淹れに来ていた。 「私達は宇宙には行けませんよ」  その会話にストラウスが入り込む。 「宇宙で戦える者は少ない。迎撃は地上で行うしかないだろう」 「どうやってここに攻め込ませることができるんですか? ビッグ・モーラの小惑星と同じく、地球のどこに月の民が攻めてくるか分かりませんよ」 「それは、ウドンゲが陽動するわ」 「しかし、結界がありますよ。今の月の民ではここが分かりますか?」 「簡単よ、結界を全て排除してしまえばいいのよ」  巫女が怒りそうなことだ。結界を全てなくせば、一時的でさえ外の世界との境界線がなくなってしまう。そうなれば全てがまざる危険性がある。何が起こるか分かったものじゃない。しかしそうせざるを得ないのも現状か。 「でも打つ手はそれしかない」 「まぁ、そうね」  ずいぶんあっさり聞き分けたものだ。他に何か考えがあるのだろうか。  考えても事態は待ってくれない。月の民攻略戦までもうすぐだ。余計なことを考えている暇はない。 (77)  兎の波動が再びレイセンの元に届いた。会議が一区切りついてから、ちょうど十二時間後の夜のだった。  話し合いは一部の者だけで行われているが、夜ということで多くの妖怪とダムピールが会議に参加している。 「やってきました、兎の波動です」 「いよいよか」 「やはり協力してくれとのことです。そうすれば今までのことは水に流す、と」  今までというのはレイセンが逃亡して地球に行ってしまったことなどだろうか。 「返答は話した通りよ。ここを攻めてきて地球侵攻の足がかりにするべく兵を集結させること。他のところは現代兵器での防衛が激しいので必ずここにすること」 「分かりました」  レイセンが兎の波動の返信をする。これで幻想郷がターゲットになるのは動かないことになった。そして再び月からの兎の波動を待つ。返信はほどなくやってきた。レイセンは頷いて受信している。 「地球侵攻の予定時刻は今から二十四時間後、明日には地球到達の予定です。規模は約一万五千」 「やはりそれだけの数を揃えてくるかしら。どうやら今回は本気のようね」  永琳がお茶を飲みながら口を開く。それだけの規模の兵が総当りをすればどちらが勝者か分からない戦いになる。そうなれば戦いが危うくなる。それにこちらに戦力はそれほどない。ならばいかに突出した能力を持った者が敵を倒せるかが問題になる。 「一万五千ね。反対派がいようとそれだけの兵を集められるとは、推進派も大した権力ね」 「地球侵攻は根強いですから。それに前に月に人間が来たときは月の民が分裂しかけたそうですよ」  作戦反対派と作戦推進派、今まではこのどちらかに力が集中しないようにパワーバランスをどうにか保っていたようだが、ビッグ・モーラという不測の事態にそのバランスが崩れたのだろう。星人フィオと交渉していたのかもしれない。地球を明け渡す代わりに、自分達の地位を保証してもらおうということをしていてもおかしくはない。どちらの民も地球に住むには広すぎるようなので、分け合う算段だったかもしれない。今にしてみればあまり意味のない推察だが。  レイセンがもう一度、兎の波動を使用する。 「私は今、敵の中枢に潜入しています。ここさえ潰せば地球侵攻は成功したと同義です。攻めてくるときはもう一度連絡をください。内部崩壊を誘うことにします」 「あなた、今はそう言ってるけど背徳感はないの?」  今更、聞くことでもないだろうけども。 「私は月の体制を不信に思って地球に逃げてきました。今の月の民の心が変わるのであれば、それはいいことです。そして師匠に従うまでです」  まずはその一言に納得をしておこう。 「パチュリー様、コーヒーのおかわりです」  パチュリーはコーヒーを注いでいる咲夜に話しかける。 「少しは休みなさい、働きっぱなしでしょう。戦いのときに使い物にならなかったらどうしようもないわよ」  咲夜は働きすぎだ。疲れてもいるはず。それを隠すように忙しく動いているのが良く分かる。隠しているようで、まったく隠していない。 「しかし私の仕事は……」 「目先のことで目標を見誤らないように。常に先を考えなさい」  咲夜はしばし考えるそぶりを見せた後、頭を下げた。 「分かりました。では休息を取らせていただきます」  他にいるメイド達に後のことは任せて咲夜は広間から出て行く。出て行くときには礼をするのも忘れていない。それを見届けてから、パチュリーは何十杯目かのコーヒーに口をつけた。 (78)  地球侵攻開始予定時刻およそ十二時間前。咲夜は睡眠をとってから、キッチンでコーヒーを淹れていた。時間も時間なので作戦会議は終了し、皆が思い思いの時間を過ごしている。外の世界から持ってきた魔法瓶にコーヒーを入れて、美鈴を探していた。広間にいないからどこにいるのやらと思ったのだが、やっぱりと言うべきか門の側で門番をしていた。 「美鈴、しっかり休んでいるかしら?」  こんなときくらい門番などせずにゆっくりとしていればいいもののと思ったが、咲夜も仕事をしているほうが落ち着くので美鈴もそうなのかと思う。 「あまり眠れていません。地球侵攻が目前に迫っているので気持ちが昂ぶっています」 「コーヒーを持ってきたわ。疲れは取れないけども、まぎらわすことはできるわ」  魔法瓶を傾けて、ふたの部分のコーヒーを注いで美鈴に手渡す。美鈴は軽く頭を下げてそれを受け取る。砂糖やミルクは用意していないが、ブラックで十分だろう。飲むのをじっと見つめていると、さすがに飲みにくそうにしている。 「こうやって咲夜さんと一緒に館のために戦うのもこれが最後になるかもしれませんね」  湯気の立つコーヒーを両手に持ってしゃべりだす。まるで自分が戦死するような言い振りだった。 「そんなこと、戦う前から言うもんじゃないわよ」 「でも、言っておかないと後悔しそうで」  咲夜は美鈴を冷たい目で見つめた。もう悲しい思いをするのは十分だった。戦闘では少なからずとも犠牲は出るが、それは最小限に抑えたい。最悪でも自分の知っている者の犠牲は見たくない。それは自分の尺度の小ささを思い知らされることになるが、人間はそれくらいのことしかできない。 「これだけの戦力が揃っているのよ、負けるはずがないわ」 「そうですよね。たとえ私がいなくなっても、地球は安泰です」  たとえ月の民が全員で侵攻してきたとしても負ける気はしない。それだけのメンバーが揃っているのだから。 「咲夜さんは怖くないんですか? この戦いで失ってしまうものがあるかもしれないのに」 「それでよく門番が務まるわね。私も怖いわよ。戦うのは恐ろしいことだから」  戦いはいつも悲しみしか残さないから。 「私はとりえがないんです。門番だって、本当はこの館にはいなくてもいいんです」   自嘲するように笑みを浮かべる。 「お嬢様が私を雇ってくれたのは、哀れに思ってくれたからだと思うんです」  ここでコーヒーに口をつけた。 「そう思うのは勝手だけど、一つだけ覚えておいてもらいたいことがあるの」 「何ですか?」 「私とあなたはパートナーよ。私が館の内を守って、あなたが館の外を守る。この関係をずっと続けていかなくてはならないの。分かる?」  美鈴は湯気の立つコーヒーをすすって、わけが分からないように頷いて見せた。 「そんなことを言われたのは始めてです。私が人から認められるのは」 「まだ認めたわけじゃないわ、この戦いが終わってから認めるのよ」 「生き延びなければいけませんね」  美鈴は苦笑してコーヒーを飲み干す。 「ごちそうさまでした。美味しかったです」  魔法瓶のふたの部分を咲夜に渡す。 「じゃあ十二時間後に会いましょう。直接話せるのは攻略戦後になると思うけど、健闘を祈っているわ」 「咲夜さんも生き延びてくださいね」 「私は寿命が来るまで死ぬつもりはないから」  咲夜は片手を振りながら紅魔館の門から離れていく。これでますます死ににくくなったなと咲夜はぼんやりと考えていた。 (79)  地球侵攻予定時刻六時間前。各リーダーを広間に集めて、作戦の最終確認をするべく庭に戦力を結集させていた。パチュリーはその主導的な立場にいる。 「作戦内容はいたってシンプル。月の民を幻想郷に誘い込んで、一網打尽にすること。結界は八雲紫が取り払うので問題ない。犠牲はやむを得ないかもしれないけど、戦わなければいけない」  その意見には皆が一致していたが、もう一度確認することにした。 「この戦いを避けたい者は避けてもいい。たとえ地球が侵攻されようが結界があれば今の月の民が気付くことはない。ここにいれば、全ては外の出来事としてとらえられる」  この問いかけに賛同する者はいなかった。つまり皆戦う覚悟ができているということだ。そのなかで永琳が手を上げた。 「地球の兎も使ってもいいわよ。そっちのメイドと協力して戦わせて」 「分かったわ」  レイセン経由でてゐに話をつけてもらえれば協力は簡単に得られるだろう。あまり時間がないが、集められるだけ集めてもらったほうがいい。ここでようやく直接的な協力をするようになった。やはり永琳も月の民に地球が侵攻されるのは良しと思っていはいないのか。それだったら姫も出せばよいと思うが、あの性格を考えるとあまり戦いには向いていなさそうだ。 「私の式と式の式も手伝わせるわ。足手まといにはならないはずよ」  紫も戦力の増強を提案する。 「戦力は多いほうが助かるわ」 「結界がなくなっても月の民との戦闘はいかなる国家、いかなる組織の介入も許さないようにダムピールが総力を挙げて迷彩をかける。心置きなく戦ってもらいたい」  紫に続いてブリジットも発言する。  ここでレミリアとフランドールは動くだろうか。前の戦いで疲れたとかで動くのを面倒がるかもしれない。また、動かれても困るものがある。レミリアの圧倒的な力はどう扱おうと周りに甚大な被害をもたらしかねない。力の方向性を間違うと、味方にも影響が出る。フランドールの力はそれを上回るので、今回の作戦の頭数にはいれていない。使うとなれば最終手段だ。敵にフランドール級の能力の保持者が現れない限り使うべきではない。 「ではみんな各隊を率いてそれぞれの配置に付いて。最新の状況は常に隊長に送るから」  その必要のない者達ばかりが揃っているのであまり意味のないことかもしれないけど、念には念を入れる必要がある。広間に集まった者達が各々を部隊を引き連れるべく行動を開始する。 「さぁ来なさい月の民。地球にいる者の力を見せてあげるわ」  レミリアはそうは言うものの、ちゃんと迎撃する意思があるのだろうか。レミリアはどうしても部隊運営には性格的に向いていない。スタンドアローンでの戦闘のほうが向いている。動くとなれば一人で戦ってもらったほうがいい。  パチュリーはやれやれと首を振りながら自分も動き出した。 (80)  地球侵攻予定時刻十五分前。もはや咲夜でさえ感覚の範囲に五千の大群が捉え切れるほどだ。こちらには星人フィオも予想できなかった超絶の魔人、ローズレット・ストラウスとその魔力を凌駕するレミリアを含む突出した能力者が何人もいるのだ。負けるはずがない。  そして知力に長けたパチュリーや月の頭脳と呼ばれている永琳もいるのだ。ソフト、ハード共に万全な備えになっている。  パチュリーは外には出ていない。大方、レミリアと一緒に広間かテラスでお茶を楽しんでいることだろう。二人とも紅魔館から出なくとも戦えるだけの力を持っている。それに前線の指揮にはストラウスやブリジットのほうが向いていると感じる。咲夜も自分の部下のメイドを率いて敵の降下を待っている。  こちらの戦力は地上の兎と紅魔館のメイドを合わせて敵の十分の一ほどの約千五百。まともにぶつかっては勝ち目は薄いが、戦闘能力の飛躍的に高い人物がいるので数で圧倒する月の民を退けるくらい簡単にできるだろう。 (この戦いは生き残れるだろうか? 美鈴にああ言った手前、そう簡単には殺されてはやらないけどね)  人のことを言えたものではない。戦う前から死ぬようなことを思っている。しかし、死ぬのなら少しでも多くの敵を道連れにするまでだ。そして、前線の最高責任者のストラウスの声が聞こえてきた。 『では皆の者、戦が始まる。これだけの規模の戦闘を経験するのは始めてかもしれないが、来た敵を迎撃すればいい。無理に追う必要はない。我々の目的は敵の殲滅ではなく防御だ』  それは分かっているが、地球侵攻推進派が少しでも残っていればいつまた地球侵攻が起こるか分からない。叩くなら、徹底的にだと思う。咲夜はナイフを両手に持ち、身構えていた。そして聞こえてきたレイセンの声に息を飲んだ。 『もうじき第一波の月の民が降下してきます。みなさん、準備をしてください』  どうやら兎の波動を受信したらしい。レイセンの言ったことを本気で信用しているようだ。逆に言えばそれなしでは地球侵攻もままならないのかもしれない。敵は既に大気圏を抜け、幻想郷に向かって進軍している。どうやら陽動の効果は出ているようだ。各部隊が臨戦態勢になる。まずは敵の出鼻をくじくことが勝利への第一歩だ。情報戦略が功をそうしていないことに気付かさせることができれば、混乱するはずだ。そこを一気に狙う。  遠距離攻撃部隊が攻撃を開始した。これを抜けてきた敵を咲夜達の白兵部隊が相手をする算段になっている。 「さぁ、月の民、勝負よ」  戦いの火蓋は切って落とされた。 (81)  前線の指揮はストラウスやブリジットに任せて、パチュリーはレミリアと一緒に広間でコーヒーを飲んでいた。  性格的にも能力的にもこの二人は前線の指揮には向いていない。パチュリーは喘息気味で動くのもあまり好きではない策略家、レミリアは魔力の制御があまり得意ではない。紅魔館にいたほうがよっぽど皆のためになる。パチュリーはコーヒーを一口飲んでから口を開いた。 「交戦が始まったようね」  レミリアは紅い紅茶を手にしながらいつもの余裕たっぷりのすまし顔でいる。この戦いは負ける気はしないのだろう。何を犠牲にしても構わないのなら、レミリア一人でも大丈夫な気がする。でも守りたいものは思った以上にある。それを失わないためにも戦略を考える必要がある。  コーヒーはティーポットたっぷりと残っているが、これを飲み終えたらどうしようとパチュリーは考えている。紅魔館の全てのメイドを戦闘に出すんじゃなかった、自分の淹れたコーヒーはもう飲みたくない。まずはゆっくりとコーヒーを楽しもう。 「パチェ、敵の大群がいるのはどの方角かしら?」  分かっているくせに、パチュリーに尋ねてくる。パチュリーの感覚は月軌道まで拡張しているので敵の動きなど手に取るように分かる。敵は先行部隊を盾に後詰めの部隊を送ってくる。捨て石とまでは言わないが、先行部隊は敵の戦力を測るためのおとりだ。本格的な攻勢はこれから。 「敵は北東方向から進軍をしているわ。場所は……あの窓の方角かしら」 「なら援護といきましょう」  レミリアは紅茶のカップを置いて右手に魔力を溜める。これは攻撃する気だ。止めてもやるに違いない。 「味方に被害を出さないようにね」  一応、忠告だけはしておく。それを聞くレミリアではないが。 「パチェ、誘導を頼むわ」  やれやれとコーヒーの入ったカップを置いて、集中をする。ビッグ・モーラ撃墜時のときのようにレミリアが魔力を投げてパチュリーがそれを敵の方向に誘導する形だ。レミリアらしいめんどうじゃないやりかただ。 「あと十秒」  霊力網を利用して敵の配置と味方の配置を読み、これからどうなるかを想像して、適切な攻撃方向を模索する。そして攻撃があることを霊力と魔力を使って各隊長に連絡する。 「三、二、一、始め」  レミリアが魔力の塊をパチュリーの示した方角に向かって投げ出した。魔力は窓を突き破り、外へと向かった。窓を壊したことを咲夜にしかられるだろうか、それとも援護を感謝されるだろうか。どちらにせよ窓が一枚なくなってしまった。  各隊の状況を見ると、味方には被害はなく、敵にだけ打撃を与えたようだった。 「敵はこれに驚くわね。恐怖して逃げ出すものもいるかもしれない」 「皆、私に恐怖する。悪くないわね。フランを出したらもっと面白いことが起こるかもね」  それは勘弁して欲しかった。夜のフランドールは危険すぎる。間違いなく面白くないことが起きる。フランドールは切り札中の切り札だ。  パチュリーはコーヒーに口をつけて、そんなことが起こらないように少しだけ願ってみた。 (82) 「回避行動!」  美鈴の声が届く。パチュリーからも連絡があったが、美鈴が叫ぶのとほぼ同時に紅魔館の窓から魔力の塊が飛んできた。パチュリーの援護射撃かと思ったが、その魔力の性質からレミリアのものと推察できる。どうやらレミリアも参戦してくれるようだ。それならば心強い。  いや、パチュリーがあえて夜という戦局でレミリアというカードを切らなかったのだ、さすがにその能力が危険すぎて外に出さなかったはずだ。と同時に、レミリアは面倒がって外に出たくないと思っているはずだ。前のときとは違って今回は率先して でようとはしない。それもわがままの一種なのだろうか。  しかし敵は今の魔力の投擲で混乱をしている。すでに情報操作が上手くいき、敵は浮き足立っている。 (攻めるなら今のうちね)  咲夜は近寄ってきた敵にナイフを投げる。相手はそれを防御しようとしたが、来ると思った時間になっても来ないので思わず防御を解いた。その瞬間を狙って咲夜はナイフを再び同じ時間軸に移動させる。左胸にナイフが突き刺さる。月の民の身体構造はどうなっているかは知らないが、戦闘を続行するには不可能な傷を負わせた。咲夜は刺さったナイフをひねり上げて更に傷を深く与えてからそれを抜いてまた同じ格好をしている月の民に向かっていった。  しかし月の民は皆、同じような格好をしているが、こちらは統一感がない。一応メイドと地上の兎と兵は二分してあるが、指揮官はバラバラな格好をしている。咲夜と美鈴はいつもの服装であるが、ストラウスとブリジットは鎧で身を固めている。そんなことを考えている場合ではないが。  敵は数で圧倒している。こちらは質で圧倒できなければ負けてしまう。敵の中には見たことのない能力を使うものがいたが、こちらが内部分裂をしていると思っていたのか、情報の食い違いによる混乱のせいで本来の力を発揮できていないようだ。勝機はこちらにある。 『本隊が来ます。数は一万』  兎の波動を傍受したレイセンが各隊長に伝令を送る。今までのは先遣隊。本命はまだまだこれからだ。そのとき、月の民が一斉に引き上げていく。侵攻を諦めた? そんな連中ではないはずだ。 『月の民は一旦引き上げてから、反転攻勢にでるつもりよ。まだ安心はできない』  パチュリーの声が届いた。まずは状況を把握してから本隊を送る気か。しかし相手の出鼻をくじくことはできた。これは月の民にとっても大きな誤算のはずだ。それでも地球侵攻をするとは本気なのだ。起源だと思われる地球に対しての執着は根深い。 (この地球にどんな魅力があるって言うの? 確かにここはいい所だけど、相手から奪っても欲しい所なの?)  やはり月と地球で暮らした者の考え方は違う。それは分かり合えないことなのか。そう思っても敵は攻めてくる。戦いはまだ続くのか。 (83)  ひとまず地上での戦いには落ち着きをみせていた。現状の把握と被害状況の確認を急がねばならない。そのとき、パチュリーの声が届いてきた。 『月の民が反転攻勢にでてくるわ。迎撃、よろしくね』  反転攻勢。一万以上の兵が月からこちらに来ているのか。咲夜は額に浮かんだ汗をぬぐい、空を見つめた。この空の向こうから敵は大群を引き連れてやってくるはずだ。情報操作が上手くいっていないということは、敵は幻想郷以外にも降下する可能性がある。そうだ、どうしてそのことに気付かなかったのだろうか。 (まずいわね)  そんなことが起こったら今の人類に防ぐ術はあるだろうか。戦力はあろうとも、不意に攻められたらどんな兵器だって役には立たない。地球での宇宙人との戦いを想定したGM御前が失脚している今となってはなおさらだ。 「ここは私に任せてもらおう」 「ストラウス様?」  心配している咲夜を勇気づけるようにストラウスが声をかけてきた。 「戦いは長引かせてはいけない。そうなれば両軍に余計な犠牲を生むことになる」 「地球のどこに降下するか分からないからですか?」 「そうだ」  やはりストラウスも同じことを考えていたようだ。このヴァンパイアの思慮深さは人間は遠く及ばないだろう。このことを情報操作をしようと提案した当初からこのことを考えていたはずだ。 「体も温まってきた頃だ。私が宇宙へと飛んでいく」  ストラウスが空を飛び、すぐに咲夜の感覚の範囲から飛び去ってしまった。 「勝敗は決したわね」  紫が咲夜の前に現れる。状況が状況なので気配もさせずに近づいてきたのは気にしないことにした。 「まだ一万の月の民がいるわよ」 「あのヴァンパイアの力は絶大よ。一騎当千に値する。本来なら彼一人でもこの戦いは勝てたかもしれないわ」 「ならどうして言わないの? あなたも、ストラウス様も」 「それだけの力を発揮するといくらダムピールとはいえ影響を隠しきれるものではない。また地球のことを考えると全力は出せるものではないわ。月の民側に余計な影響を及ぼす可能性もある」  ストラウスの力は地球上ではかなり限定される。星をも砕くその力を発揮すれば本当に地球が欠けてしまうかもしれない。宇宙空間ならば、先のフランドールのように力を発揮できる。  続いて永琳とレイセンがやってきた。 「予想通りだとこれで戦いは終わりよ。ストラウス一人で増援の七割を壊滅に追い込んでしまうことができる」  七割が被害にあうということは戦闘としては大惨敗だ。指揮官は生き延びても多大な責任を負わされることになるだろう。 「続いて月でも面白いことが起こるわ。ウドンゲ、兎の波動を傍受しなさい」 「はい」  レイセンが兎の波動を受信する。 「え、まさか!?」 「どうしたの?」 「クーデターです! 穏健派が月の都市でクーデターを起こしました!」   (84)  月の民の反乱。地球侵攻反対派が動き出した。これは狙っていたのだろう。地球を侵攻するにあたってどうしての月の民内部の防衛が手薄になる。そこにつけこんだ。穏健派もしたたかだ。  勝敗はあっという間だった。こちらには光をものともしないヴァンパイアがいる。そして月の頭脳と呼ばれる永琳もいた。相手の作戦を読むには十分すぎるほどだった。こちらの実働部隊はメイドと地球の兎を合わせても千五百にも満たない。それでも一万五千からなる月の民の部隊をものの三時間で壊滅状態まで陥れた。月の民は増援を要求したが、ストラウスが宇宙空間まで飛んでいき、一人で月の民の増援部隊を相手にし、地球に足を踏み入れる間もなく撤退にまで追い込んだ。この戦いにパチュリーはレミリアの魔力を誘導して以上、介入らしい介入はしていない。ただ広間でコーヒーを飲みながら戦況を見守っていただけだ。  そこにタイミングを合わせたように月の民の地球侵攻反対派がクーデターを起こし、月の民内部は滅茶苦茶になっていた。そうなればもはや地球侵攻だのを言っている場合じゃない。自分の居場所を確保するだけで手一杯なはずだ。月の民の裁判がどうなっているかは分からないが、地球侵攻反対派が実権を握れば地球侵攻推進派は政治犯として捕まるだろう。地球と違って逃げる場所のない月だ、おとなしくつかまってしまうはずだ。  地球侵攻派の月の民は月からも地球からも攻められて板ばさみになっていた。これは降伏するしかない。ほとんどの兵は戦意を喪失して、月に引き返していた。 これがストラウスからもたらされて情報。そして永琳の推測。それは恐ろしいほど正確に的中していた。  もはやパチュリーの動く必要はなかった。戦いに慣れた元夜の国の王や将軍が終戦の宣言をすれば、月の民達はそれを受け入れるしかない。こちらには戦う力はあるが意思はないということを示してやれば、受け入れない理由がない。そのためにはこちらが最大限譲歩しなければいけないが、それも問題はない。  月の民との戦いは決着した。地球に対して今のところ敵対している組織は存在しない。月の民も穏健派が主導権を握っているので、地球とは敵対していない。ダムピールの受け入れもスムーズにいくはずだ。こうなれば最後の羽計画は意味をなくし、アーデルハイトの犠牲はなくて済む。誰の犠牲もなく、いや、犠牲はあった。月の民の地球侵攻推進派の大部分の月の民と月の兎と僅かながらも地上の兎、そしてメイド達。戦いは犠牲なくしては絶対に越えられない。だが最低限にさせることはできる。それが残された者としての義務だ。  よって、全てが綺麗に収まり幻想郷にも外の世界にも、月面にも平和が訪れた。はたしてそうだろうか? 問題が残されていないかと問われると、まだ残っている。おとなしくしてはいるが、歯に物が詰まったいるような感じだ。  パチュリーは思考していた。まだあるのではないか、この円環なる終わり方にほころびはないのかと。 (85)  一方、月と地球の間で地球侵攻推進派の戦力を駆逐し月面に降り立ったストラウスは、地球侵攻反対派の幹部と出会っていた 。その様子は余さずパチュリーに転送されており、現状を把握している。もちろん部隊を率いている隊長にもだ。 「私達に戦う意思はない。月の民の地球侵攻推進派が攻めてきたから迎撃しただけだ」  剣を収め、聞く者を安心させる穏やかな声でストラウスが話し出す。 「それは私達にも有利に働きました。おかげで最小限の犠牲でクーデターを成功させることができました」  やはり犠牲は出たか。これはやむを得ないことなのだろう。 「地球のごく一部の者だが、月の民と和平を結ぼうと考えている。お互いに攻めない不可侵条約だ」 「検討させていただきます」 「私達の要求は月の民の都市にダムピールを受け入れてもらい、月の表側に地球の人類が到達しても敵視しないでもらいたいということだけだ」 「私の一存では何とも申し上げられませんが、交渉は上手くいくでしょう」 「それはありがたい」 「早速、皆で検討を始めたいと思います」 「それを願いたい」  他にも多々話は進んでいたが、とりあえずの話し合いは終わっていた。  咲夜は撤退する月の民を追うこともなく、地に足をつけた。月の民攻略戦は見事成功となり、月の民側もクーデターという形で政局が入れ替わった。これで地球と争うものはいなくなった。地球に降り立った月の民も次々と撤退を始めている。戻る場所など、もうないのに。罪があるのは一部の上層部の者達で現場にいるものは命令に従っただけなはずだ。思えばそれもかわいそうだ。  大変なのはこれからだ。最後の羽計画は行わずに済むが、月へのダムピールの輸送は月―地球間を往復できるロケットを仕立て上げる必要がある。それに永遠の敵の赤バラはこの間に月に住むことも幻想郷で暮らすことも許されない。地球の島でひっそりと暮らすしかないだろう。だが、一万年は生きるヴァンパイアなのだからダムピールが全て月に移住するのを待てないはずがない。そんなことは咲夜にはあまり関係ないが、少しは気になる。  地球で戦って生き残った者が歓声を上げていた。これでビッグ・モーラ襲来から続いた地球の危機は全て払拭された。もうもはや地球圏は安泰になっただろう。もしかしたら地球侵攻推進派によって小競り合いが起こるかもしれないが、それも小規模なはずだ。ようやく戦いが終わった。もう何も、心配いらない。 ・第十四話「幸せの終わり方」 (86)  動乱が終わり、幻想郷はうっすらと夜が明けようとしていた。レミリアは眠ろうとしている頃のはずだ。 「咲夜さん、終わりましたよ。戦いが終結に向かいました」  美鈴が泣きそうな表情でこちらに駆け寄ってきた。美鈴にああ言った手前、そう簡単に死ねたものではないが。 「分かってるわよ、パチュリー様からの伝令があったわ。月の民とは和平の条約が結ばれそうね」  それは喜ばしい限りだ。規模が大きすぎて実感はないが、地球圏の平和がかかっている条約だ。 「私、私、嬉しいです。咲夜さんが生き残ってくれて」  目じりにちょっと涙を浮かべている美鈴が両手を握り締めて叫ぶように言葉を放つ。そんな美鈴を見て咲夜は冷静になれた。 「言わなかった。私は寿命がくるまで死ぬつもりはないって。たとえ戦局が危うくなったら真っ先に逃げ出す臆病者よ」  そんな咲夜の一言に美鈴の目が一瞬点になったように見えたが、すぐに破顔した。 「そんなこと心にも思っていないですよね。咲夜さんはたとえ一人になってもお嬢様の前に立っているはずです」  咲夜は自分のことを単純と思ってはいなかったが、美鈴にまで心を読まれてしまうとは、よほどのことだろう。やれやれと頭をかき、ナイフをしまう。そして美鈴の体に腕を伸ばして、その体をゆっくりと抱きしめた。 「えっ?」  訳も分からないような美鈴の頭をゆっくりとさする。嬉しくて泣きたいのならば、見えないように泣くことだ。それが瀟洒に振舞うことの条件だ。嬉しさを分かち合った二人はゆっくりとその身を離しあった。 「勝利の余韻は一時よ。難しいのはこれからよ」 「月の民との付き合い方ですよね?」 「そう。クーデターを起こしたとはいえ月の民は一枚岩ではない。いつまた襲撃があるかどうか分からない。その戦いを防ぐためには最大限の努力をしなくてはならないわよ」  それには外の世界との連携は欠かせない。 「私のこと、認めてくれましたか?」  決戦前に言ったことだ。この戦いに勝ったら認めるという話をしていたような気がする。 「ま、七十点くらいかしら。これから無粋な侵入者を蹴散らしてくれれば評価はあがるわ」 「厳しいですね。でもいいです、認めてもらえたのなら」  美鈴が満天の笑顔を見せる。朝日がそれを脚色している。  終わった。戦いの全てが。これでまた、少なくとも末端である咲夜や美鈴の日常は戻ってくるのだ。平凡ながら慌しい日々が戻ってくるのは嬉しい限りだ。 「勝利の記念パーティを提案するわ。美鈴、あなたにも手伝ってもらうから」 「はい」  紅魔館の全てを使ったパーティを提案しようと思う。きっとレミリアもパチュリーも受け入れてくれるだろう。夜に起きだすレミリアに合わせてパーティの日程は夜にしなければいけない。それも今夜やろうと思うので、戦いの勝利の余韻に浸ることも、体を休めることもできない。それでも別にいいと感じている。  まずは買い物だ。最高級の品を集めてこなければならない。頭の中で料理のレシピを考えながら、咲夜は人間の住む村に飛んでいくことになった。 (87)  皆が忙しい。メイドの皆がせわしなく紅魔館の廊下を走り回っていた。戦闘が終わって十二時間も経っていないというのに、生活が戻ろうとしていた。  レミリアが寝床に着き、さし当たっての話相手がいなくなったパチュリーは一人で紅魔館を歩いていた。どこからもがやがやと喧騒が聞こえており、落ち着ける場所はなかった。図書館にでも行こうと思ったが、どこか忘れ去られそうなので皆が見える場所にいたかった。 「あら、パチュリー様」  あてもなくぶらぶらしていると、両手にいっぱいの荷物を持った咲夜に出会った。見るからに忙しそうだ。これでは淹れたてのコーヒーを頼むことはためらわれた。やはり自分で淹れるしかないのか。 「パーティの準備かしら、大変そうね」  生命力の強いダムピールでさえ疲弊して休んでいるというのに、この咲夜は休息をした素振りも見せずに忙しそうに動いている。体力があるのか気力で保っているのか、それともただやせ我慢をしているのか。どれにしてもパーティは準備をしている時間が一番楽しいと言うのだから、今はまさに楽しいのかもしれない。 「はい。パチュリー様もご出席なさいますよね?」  パーティ。そんなことをしている場合かと思ったけれど、今まで張り詰めていた空気を和らげさせるためにもこういう催し物は必要なのかもしれない。 「そうね。たまにはこの館に人をたくさん集めるのも一興かもしれないわ」 「そう思いますよね。パチュリー様はそれまでの間は図書館におられますか?」  パチュリーはしばし視線を上に向けて考えるような格好を見せる。図書館も悪くはないところだけど、さっきに人が見える場所にいようと決めたばかりなので首を横に振った。 「私はパーティ会場の部屋で皆が来るのを待っているわ。特にやることもないしね」 「ではお茶でもお持ちしましょうか?」  コーヒーは飲みたいけれど、咲夜もメイドも忙しそう。しかし自分で淹れるコーヒーはあまり美味しくない。これは渡りに船の提案だった。咲夜の淹れるコーヒーだったら間違いはないので、断る理由が見当たらない。 「お願いできるかしら?」 「はい。大広間でお待ちください、すぐにお持ちします」 「忙しいところで悪いわね」 「いえ、これも仕事ですから」  それはかなり他人行儀な言い方だ。咲夜の主はレミリアで、パチュリーへの給仕は仕事ではないはずだ。好意とまでいかなくとも、それなりに気を使ってくれてるはずだ。 「じゃあ大広間で待ってるわ」  パチュリーは足音を鳴らしながら、いつも使っている広間よりも大きく、紅魔館で一番大きな部屋に足を向けた。部屋の作りこそ広間と変わりないが、大きさが違う。そこにもメイドたちがせわしなく動き回っている。パチュリーはいつものようにレミリアが座るであろう席の隣に座ってコーヒーを待った。 「幸せの終わり方……」  パチュリーはほつりと呟く。本当にそうなのだろうか? 確かに全てが上手く回ろうとしている。そんな終わり方に本当になるのだろうか? 「お待たせしました」  考え事をしていたので気配を気取れなかったが、咲夜がすぐ近くまでやってきてコーヒーをパチュリーの前に置いた。 「ありがとう。これからどうするつもりなの?」 「パーティの支度いたします」  そんなことを聞いているつもりはなかった。今後、起こりうる何かの出来事についてだ。しかしパチュリーは言及しなかった。 「申し訳ありませんがティーポットをお持ちしましたので、飲み終えたらご自身で注いでください」 「それくらいの手間は取らせないわ。これだけあればしばらくもつからあなたはパーティの準備をしてもいいわ」 「では失礼します」  一礼を残して咲夜が去っていった。パチュリーはコーヒーの香りを楽しみながら幾つか思考を巡らせていた。  やがてパーティ会場に人が集まり始めた。パーティの始まりだ。 (88) 大広間のテーブルにごちそうが並べられ、準備はもう万端だった。ティーポットに入っていたコーヒーも全て飲み終え、待つだけだ。 「パチュリーか、早いな」  ストラウスが大広間にやってきてパチュリーに話しかけてきた。パチュリーはパーティが始まる前からここにいるので早いもなにもないが。 「ストラウスもご苦労様。最前線の指揮で大変だったでしょう」 「地球の平和を考えれば労苦ではないよ。それよりもブラックスワンを解放してもらって礼を言わなければならない」 「……それは月人に言ってもらいたいわ。私は何もしていない」  意図は分かっているが、それは気分のいいものではない。 「そういうことにしておこう。ではパーティを楽しもう」 「そうね」  ストラウスはメイドの案内を受けて席に向かっていった。そうしてからアーデルハイト、ブリジットを始めとするダムピールら、美鈴や永琳などのメンバーが次々と大広間にやってきた。そして、一番最後にフランドールを連れたレミリアが咲夜に案内されて入ってきた。これで全員が揃ったはずだ。  レミリアは座ると、すっと出された紅茶を何の迷いもなく口に運ぶ。 「パチェ、話すのは任せるわ」  やはりそうきたか。予想通りの展開に少しだけ頬が緩む。皆が席に着き、飲み物が行き渡ったらしんと静かになる。それからパチュリーは立ち上がった。月の民攻略戦の作戦会議のときのようだ。 「みなさん、月の民攻略戦は見事に成功しました。これは地球圏の平和をもたらすものです。犠牲者はでましたが、最低限の犠牲で済みました。これは喜ばしいことです」  パチュリーは話が長くなると飽きるような人もいることが分かっているので、早々に切り上げることにした。 「敵味方の全ての犠牲者に黙祷を」  皆が静かに目を伏せる。パチュリーは目を開けて眺めていたが、レミリアはいつものように紅い紅茶の入ったティーカップを掲げていて黙祷をする素振りも見せずに、フランドールはすでに料理を食べ始めていた。この姉妹は黙祷の意味が分からなかったのか、それとも犠牲など別にどうでも良かったのか。どうも両方に思えてならない。 「では勝利を喜びましょう。乾杯」 『乾杯!!』  グラスを高く上げて乾杯をする。 「パチュリー様、ワインですがいかがですか?」  咲夜がすっと近づいてくる。 「いただこうかしら」  久しぶりのアルコールだ。パチュリーはアルコールに強いわけではないが、こういう祝いの席なので飲まないわけにもいかない。グラスに注がれる赤ワインを眺めていた。メインは肉料理なので、合うだろう。注ぎ終わったグラスを持って、ワインを少しだけ口に入れて味わう。甘めの口当たりの良い飲みやすいものだ。 「あなたも楽しんだら。月の民攻略戦の功労者よ」 「楽しんでますよ。給仕も結構面白いものです」 「そういうものかしら」  本人が言うなら他人が口を挟む問題じゃない。パチュリーは料理を食べながらストラウスとレミリアが話しているのを眺めていた。フランドールは料理のおかわりをしている。今くらい思考を巡らすのを止めて少し楽しもう。  パーティは大いに盛り上がり、皆が喜びを分かち合っていた。 (89)  パーティが始まって三時間が経った。夜はまだまだ長いが、一通りの人物と話をして、一通りの料理を食べ、アルコールもたしなんだパチュリーは満足そうに目を細めていた。  勝利の余韻に浸るのはこのくらいでいい。今からは前に進むための思考をしよう。そうなればどこが一番いいか、答えは明らかだ。 (図書館に行こう)   そう結論づけた。パチュリーは誰にも気づかれないようにそっと席を立ったが、周囲に気を使っている咲夜に見つかってしまった。 「パチュリー様、どちらへ?」  ここで嘘をつく理由はないので正直に答えた。 「パーティも一段落ついたことだし、少し一人になりたくて図書館に行くことにするわ」  いつもは図書館にいる小悪魔もパーティに参加しているので、本当に一人になる。 「ではコーヒーをティーポットに入れてきます。少しお待ちください」  咲夜はそう言って大広間から出て行った。それからきっかり五分間。咲夜が戻ってきた。 「少し重いので気をつけてください」 「ありがとう」  咲夜が淹れてくれたコーヒーをティーポットに入れてもらい、図書館のいつもの場所に向かうことにした。そこは大広間の騒がしさなど嘘のようにしんと静まり返っていて、思考を巡らすにはちょうど良い。カップは図書館に置いてあるものにコーヒーを注ぐ。コーヒーの香りを楽しんでから一口飲む。美味しい。やはり咲夜は自分の嗜好を知っている。微妙に淹れ具合を変えている。  パチュリーは図書館の奥で考えていた。平和になったが、まだ借りを返していない。そもそもこの平和はかりそめのものかもしれない。大きな問題がまだ残っている。それを見極めるには、一つの行動を取れば良い。 「失礼します」  図書館の扉が開いた。こうして図書館に入ってくる人物は一人しかいない。分かっているので振り返りはしない。足音が近づいてきて、やがて側に来て止まった。 「パチュリー様、パーティの残り物で申し訳ありませんが、ケーキをお持ちしました」  咲夜はすっと音もなくパチュリーの前に大粒の苺が乗ったショートケーキを差し出した。 「あなたには先に言っておきたいことがあるの」 「はい、何でしょうか?」 「私も外の世界に行くことに決めたわ」 「パチュリー様がですか?」  ここはここで気に入っているが、やはり本格的なものを造るには現場の状況を見る必要がある。 「ロケットの技術を本格的に学ぼうと思って。いつか銀河の果てまで飛んでみせるわ。私がいなくても困ることはないでしょう」  ここは嘘をついた。パチュリーがいなくなれば館の防御力が落ちてしまうのだ。しかしあえて自ら外の世界に行くことに決めた。予想どおりならば、そう遠からず事が起こるはず。 「少し寂しくなりますが、パチュリー様が決めたことでしたら口出しすることはありません」 「あなたはパーティの雑用があるでしょう。私のことはいいから自分のことをしなさい」 「分かりました」  咲夜が戻ろうとする。 「最後に覚えておきなさい敵は、月人よ」 「は?」  咲夜があっけにとられたような声を上げた。 「最後の敵は、やはり月人になるわ」 「……承知しました」  渋々ながらも咲夜は一礼を残して図書館から去っていった。パチュリーはショートケーキの苺にフォークをさして、遠くを見つめていた。 (90)  幻想郷で何日か過ごしたストラウス達だが、最後の羽計画も進行中で月面との和平交渉も大詰めになっているので、いつまでもここにいられるわけもなく出発の夜が来てしまった。咲夜達はストラウス達の見送りをしようとして紅魔館の前に集まっている。 「では、次に会うときは平和な世界で会おう」  ストラウスが代表して挨拶をする。今でも十分平和なつもりなのだが、次に会うときは月も含めた地球圏が平和になっているという意味なのだろう。あとは時間と粘り強い交渉で解決できる。問題はもう少しだ。咲夜が生きているうちに平和がもたらされるはずだ。全てのダムピールを月へ移住させるまでは生きてはいないだろうが、咲夜一人いなくとも事は進んでいく。 「そうなることを願っているわ」  パチュリーもそれに返す。願っていると言うことは、まだ平和だとは思っていないのか? 前に敵は月人と言っていたが、まだ残存勢力や新興勢力が現れるという意味なのか。しかしそんなものはこれだけの勢力を有している地球にはさほどでもないと思う。 「さて。もう会う機会はほとんどないと思うから一つだけ、いいかしら?」  続いてレミリアが前に出る。いつもは問答無用でことをするレミリアがお願いをするだなんて珍しい。いったいなんなのだろうか。 「ストラウス、あなたの血を吸わせてもらうわよ」  その言葉に少し驚いた。別に直接、人から吸血しなくてももっと畏れさせない摂取の仕方があるだろうに。ストラウスはしっかりとそれに真摯に応える。 「分かった。私の意志と共に受け継いでくれ」  ストラウスがレミリアの背に合わせるようにかがむ。レミリアはストラウスの首に近づいて、噛み付いた。ストラウスの血をレミリアが吸っている。この行為はヴァンパイア同士ということは……ましてやレミリアは一万年前のヴァンパイアの生き残りの子孫だ。その能力が残っていても不思議ではない。噛み付いてから数秒経ったのか数分経ったのか時間の感覚があやふやで分からない。やがて満足したのか、レミリアがゆっくりと首から口を離した。 「さすが進化したヴァンパイアの血だわ、そこらの人間の血より美味しかった」  やはりレミリアは血をこぼして服を紅く染めてしまっている。落とすのが大変だ。 「では私達は、レミリア達の言うところの外の世界に帰るよ」  ストラウスとアーデルハイト、そしてダムピール達は空の彼方まで飛んでいった。結界に関しては紫が配慮しているので問題ない。  姿が見えなくなるまで見ていたレミリア達だったが、それももう飽きたのかレミリアは紅魔館に入っていってしまった。パチュリーはストラウスが消えていった空の彼方を見つめていた。 「次に会うときは平和な世界、ね」  パチュリーが誰に聞かせるでもなく呟く。 「パチュリー様、もう平和になったんじゃないですかね。月の民とも和平の条約が結ばれたことですし」  美鈴が気楽そうに返答する。 「灯台下暗し、注意深くあることは怠惰より勝る。何が起きてもいいように常に警戒しておきなさい」 「……パチュリー様」  その表情は見えなかったが、言葉尻は深く暗いものだった。 「私達はまだ警戒をしていなければならない」  警戒の意味、それは敵がまだいるからにほかならない。何がいるという特定はできていない。 「さ、私も明日の出立の準備をしようかしら。コーヒーとかは図書館に持ってこなくてもいいから気にしないで」 「かしこまりました」  パチュリーがふわふわと浮かびながら紅魔館に戻ってった。さしあたりやることのなくなった咲夜と美鈴は並んで空を見つめていた。あの浮かんでいる月から侵略者が来ただなんて嘘のようだ。 「パチュリー様もいなくなるのに、これからここはどうなっちゃうんでしょうか?」 「それは自分の目で確かめることしかできないわね」 「それまでは自分達で粘るまでしかないですね……」  何かが起こる。起こらないに越したことはないが、起こって欲しくない予感ほど的中してきた咲夜にとっては切実な願いだった。 (91) 「じゃ、行ってくるわね」  昨晩のストラウスに続いてパチュリーが外の世界に出かける日中になってしまった。今は昼なのでレミリアは眠っているが、咲夜と美鈴と小悪魔が見送りに立っていた。 「パチュリー様、気をつけてくださいね」  小悪魔が控えめな心配を見せる。 「私の心配は要らないわ。ストラウスも一緒だしね。気をつけるのはそっちのほうよ」 「私達、ですか?」  美鈴が要領を得ないような返答をする。 「そう。できる限り注意して。私はそのためにも外の世界に行くのだから」  まるで自分の行動が何かのきっかけのようにパチュリーは言う。注意は何に向けてすればいいのだろうか。やはり月人か。それともまだ知らない敵が存在する可能性があるのか。いや、そうだったらパチュリーは言うはずだ。黙って出て行くということはしないと思う。 「じゃ、このまま警戒をしておいて」 「このまま警戒? 全ては終わったはずではなかったんですか?」 「外の出来事は全て終わったわ、今度は中の出来事かもしれないわ」  パチュリーは意味深な発言をしたあとに全ての答えをさえぎるように空に浮かんだ。 「さよなら」  そう言い残して虚空の彼方に消えていった。咲夜と美鈴は昨晩と同じように飛んでいった先を見つめていた。 「また何かが攻めてくるんですかね?」 「ここにきて戦力の増強……パチュリー様がそう考えている以上、何かあるわ」  やはり新たな敵かもしれない。それも途方のない存在。あれほど動かないパチュリーが動かざるをえない事態になるということは大変なことだ。 「何って、何ですか?」 「分からない。それともセイバーハーゲンのように万が一の事態に対応しているのかも」  今はいくら考えても分からない。パチュリーの言うとおりにするしかない。 「終わったはずじゃなかったんですか?」 「パチュリー様が戻ってくるまで私達でなんとか対応するしかないわね」  戦いは終わった。終わったが、この後はどうするつもりなのだろうか。始まりがあれば終わりもある、パチュリーはまだこのビッグ・モーラ襲来から始まったいびつな物語に終止符が打たれていないと思っているのかもしれない。少なくとも咲夜にはこの一連の出来事は終わったように思えてならなかった。敵は月人と言うが、パチュリーは気にしすぎではないだろうか。月面にいる月人の地球侵攻推進派は逃げるしか手立てがなく、地球侵攻反対派はその体制の維持に手一杯なはずだ。だからと言って蓬莱山輝夜を主とする幻想郷にいる月人はここに攻め込む必要はあるのか。あれだけの力を持った月人ならば何かしでかしても止めるのは難しいが、ここが平和だと分かっているのに自ら危ない真似をするだろうか。咲夜にはパチュリーの意図するところが分からなかった。  むしろ何かしでかしそうなのは紫のほうだと思うのだけども。あのスキマ妖怪は不可解に物事に介入しながら目的のよく分からない動きをしている。 「とりあえず、門番は任せたわ」 「はい」 「じゃ行きましょう」 「分かりました」  咲夜は小悪魔を連れて紅魔館の中に入っていく。これから起こること、パチュリーはいったい何を考えているのか。 (92) 「平和ですね〜」 「まったくね」  紅魔館の昼休み。咲夜と美鈴は一緒に昼食をとっていた。ホワイトブリムを外し、少しの間だけ紅魔館のメイド長という立場を忘れて昼休みを堪能している。外の世界ではビッグ・モーラ来襲事件もようやく落ち着きを取り戻し、幻想郷も何事もなかったようにいつものごとく時を刻んでいる。いつの間にやら警戒していた美鈴もそれを解き、本来ののほほんとした空気に戻っていた。しかし増強された戦力のメイドはそのままで、紅魔館内外は何か不穏な空気が漂っている。まだ何かあるのだろうか。それとも警戒しているだけか? 「よう、遊びに来たぜ」 「休憩中みたいね」  魔理沙と霊夢が紅魔館にやってきた。前に来たみたいに強引ではなく柔らかに空を飛んできていた。この二人も学習しているらしい、強引に来れば迎撃されることを分かっている。押してだめなら引いてみろ、まさにそれの典型だ。 「空けられた結界の修復もようやく終わったわ。簡単に外の世界に干渉しないで頂戴」 「それはお嬢様に言ってもらいたいわ。私は命令に従ったまで」 「まぁ、そうよね」  霊夢は咲夜の言動に理解を示しながら頭をかいた。それに関せずと魔理沙が口を動かした。 「面白いものを作ってるみたいだな」  それが何なのかはすぐに分かった。 「ロケットのこと?」 「そうみたいだな。パチュリーが設計図らしきものを描いているのを机の上に見つけたぜ。本人はどこにいるかは知らないが、宇宙へ行けるそうじゃないか」  パチュリーはロケット技術の見学のために外の世界にいる。それよりも魔理沙が紅魔館の図書館に入ったことは問題だ。美鈴は何をやっていたのだろうか。突破したのかすんなり通したのか、どちらでも文句のつけようがあった。 「あなたならそのままでも飛んで行けるわよ」  少し皮肉を込めて言った。幻想郷でも屈指の火力を持つ魔理沙なら結界も突き破って大気圏も通り抜けて宇宙へ行ってしまうはずだ。燃え尽きたり、呼吸をするということも考慮に入れなければいけないが。 「だけど、館の警戒の具合が尋常じゃないな。戦争でも始める気か?」 「パチュリー様の命令ですよ。私はただの門番ですから」 「パチュリーのやつも何を考えてるのやら、ロケット作ろうとしたり館を強化したり。そんな必要はないのにな」  この二人は何も分かっていない。ビッグ・モーラのことはもちろん、月人の脅威も。まだ残党がいるかもしれないのに気を抜いていられない。月の民攻略戦は終わっても、ここは対異星人戦の拠点となり得る。やはり戦力は揃えておく必要がある。パチュリーは外の世界に行って今はいないが、そう考えているに違いない。 「この前の夜にレミリアが来てね、あなたの淹れるコーヒーが美味しいって言ってたから飲みに来たの。お茶菓子はこっちで用意してあるわ」 「村でも人気の羊羹だ。美味いぜ」  コーヒーと羊羹。果たしてそれは合うのだろうか。普通はお茶で食べるものなのではないかと思う。でも本人達がそれでいいと思っているのなら拒む理由はない。 「分かったわ。コーヒーを準備するわ。美鈴あなたも来なさい、少し早いけどおやつにしましょう」 「分かりました」  咲夜が三人を引き連れて紅魔館に入っていく。  とりあえずは平和が戻った。この平和がいつまでも続きますように。 東方十字界Fin ・幕間 「みなさん御揃いのようでなにより。私は八雲紫。役割は……言わずとも」 場所不明。時刻不明。反応物あり。照合開始……目標は幻想郷の住人と確認。接触開始。 「物語がこのまま終わりだと伏線が回収されてないって? それはそうよね、私もそう思うもの。でも作者がこのまま終わらすと思う? パチュリーもこのまま終わると思っていないけれど」 「もう一波乱あるわよ、間違いなく」 「この物語の終着はコペンハーゲン解釈的な終わり方ではなく、他世界解釈的な終わり方よ。一方を観測すれば一方がなくなるのではなく、一方を観測したら、どこからも観測できないもう幾つかの世界が枝分かれをする。まぁ、私には分かるんだけどね。私は物語が乖離させすぎないように動いてきた。ヴァンパイア十字界という物語の根幹をなすファクターをずらさないように。それももう終わり。ヴァンパイア十字界は終わってしまったもの。あとは東方の人間や妖怪達が活躍する世界よ。私がどこにいるかって? 私は作者と作品の境にいる。だから動いている登場人物の動きを一つ上から見ることができたのよ。話がそれたわね、ここからは普段見ることができないもう一つの結末よ。では、楽しんでもらいたいわ。楽しいかは別として。それと……このもう一つの結末はあなたが望んだから発生したのよ。これが望んだ世界そのものよ。それはとても悲しいことかもしれないけれど。それはとてもありきたりなことかもしれないけれど。さて、侵入がばれそうね。そろそろ退去するわ」 本日、介入あり。 介入を感知しました。介入者は、八雲紫。すでに退去しています。介入中に行った行為はすでに上書きされており、復元は不可能です。 エキストラエピソードが選択可能になりました。エキストラエピソードへ進むか否か、選択して下さい。 進む>エキストラエピソード「沈黙、あるいは結末を」を開始致します。ここからはエキストラエピソードとなっています。グッドエンドを望んでいる方は読まないほうがいいかもしれません。読んで後味が悪くなっても責任は負いかねますので、ご注意ください。 否>物語は終了です。ここまで読んでいただきありがとうございました。幻想郷と外の世界に平和が訪れました。 進むの方へ。続きはこの先、1天文単位                  ↓ ・Ex話「沈黙、あるいは結末を」 (93)  パチュリーが外の世界に行ってから一週間が経った。紅魔館の警戒は相変わらず強固なものがあり、周りの妖精や妖怪の侵入を防ぐのには十分だった。 「美鈴、お昼にしましょう」  最近の咲夜はたびたび美鈴と昼食をともにする。これは中にいては分からない外の空気を知るためとともに、美鈴との時間を増やすこともある。この館の警戒具合から見て、いつ騒乱が起きてもおかしくはない。それまでに少しでも思い出を残しておこうと思っている。考えすぎかもしれないが、パチュリーが警戒を維持する以上、何かがある。そう、何かが。 「はい、今日のお昼は何ですか?」  美鈴もそれを楽しみにしているように声を上げる。咲夜はバスケットの中を開けてみせる。 「手製のフランスパンよ。それに外の世界から持ってきたツナ缶を使って作ったツナマヨをパンに挟んだもの」  マヨネーズは知識さえあれば幻想郷でまかなえるもので作ることができる。卵に酢に油、揃えるのは簡単だ。作るには経験と体力が必要になるが、数をこなしていれば慣れてくる。 「また外の世界の食べ物ですか、豪勢ですね」 「私にとっては珍しくもない食べ物よ。ここではマグロは捕れないから、ツナ缶は貴重品だけれども」  しかしそれも結界を通り抜けられる演算魔方陣か結界を作っている紫の協力があればツナ缶を持ってこれるかもしれない。そこまでしてツナ缶がほしいわけではないけども。 「ところで、何か変わったことはない?」 「今のところは特にないですね。さっきは天狗がやってきてこの前の館の襲撃に関して取材したいってやってきたくらいです」 「あのブン屋はやることが遅いわね。そんなのすっかり昔のことなのに」  外の世界で起きたことが新聞にできたらよっぽどの部数を稼ぐことができるだろう。しかしそれを信じるものはいないのかもしれない。咲夜自身、ビッグ・モーラのことなんて簡単には信じれなかったのだから。実際に見て、戦った者達でなければ分からないことだ。 「でもまたこうして咲夜さんと平和にお昼ご飯を食べることができて幸せです」  何度も思う。パチュリーがまだ敵がいると言った以上、まだ敵はいるのだ。この平和はかりそめのものかもしれない。パチュリーは何十年、何百年後のことを言っているのかは分からないが、必ずまだ何かがあるはずだ。しかし咲夜はその思いを心の中にしまう。余計な心配をさせてはいけない。不安で心をいっぱいにするのは自分だけで十分だ。咲夜もツナマヨの入ったパンをかじる。懐かしい味が口の中に広がる。今度は海苔のぱりっとしたおにぎりの中にこれを入れよう。 「私も同じ気持ちよ。のんびりといきましょう」  まだ変わったことはない。今度は中の出来事かもしれないということなので、異変は幻想郷の中で起こる可能性が高い。そして月人。そうなるとやはりあの人物が何かを起こすのだろうか。全ては推測に過ぎないのだけども。 (94)  咲夜は難しい顔でパンを食べていた。最悪の事態は考えないといけない。月人が再び攻めて来る。またストラウス達の力を借りないといけないのか。 「咲夜さん、どうかしたんですか?」  美鈴に話しかけられてはっとなる。その様子を美鈴は不思議そうに眺めていた。別に食事が美味しくなかったわけではない。少し考え事をしていたのだ。 「ちょっと考え事をしていただけよ。今晩の夕食についてね」 「気が早い話ですね。お昼ご飯も食べ終えていないのに」 「そうね」  不安は尽きない。さっきはのんびりいこうと美鈴に言った手前あわてて戦闘の準備などできないが、どうも誰かに見られているような気がする。しかしそこらの兎ならば咲夜はもちろんのこと美鈴だって気配を察知できる。ならば月の兎が来ているのか。それならば多少の違和感を持つだけで見過ごしてしまうかもしれない。 「……不安そうですね」  美鈴が咲夜の心を読んでいるように発言してくる。咲夜はやれやれといった風に頭をかいた。 「やっぱり、美鈴には隠し事はできないわね」  前にも思ったけども、咲夜が分かりやすい性格なのか美鈴が咲夜に対するときだけ鋭くなるのか分からない。 「パチュリー様もああ言っていたことですし、門番としても気になることです」 「ここで私達が話し合っても事が進むとは考えられないけどね」 「この館の考える人はパチュリー様しかいないですからね」  そのパチュリーは外の世界に外出中。相談することもできない。いや、レミリアを通しておけば連絡は取れる。しかし自分の意思で外の世界に行ったパチュリーのことだから正直に話してくれはしないだろう。最後のパンの一切れを口の中に入れ、魔法瓶に入れて持ってきた紅茶を飲んで胃へと流し込んだ。 「ごちそうさま。さて、仕事に戻りましょう」 「はい」  庭の木陰で休んでいた二人だが立ち上がってそれぞれの仕事に戻ることになる。とは言うものの、咲夜の行動は決まっている。 「じゃあ私は仮眠を取ることにするわ。異常があったらすぐに報せて。私達で何とかするしかないんだから」  レミリアに従事する以上、夜に眠気で行動に支障をきたすわけにはいかない。昼間に仮眠をとって、夜のヴァンパイアの起きる時間帯に調整する必要がある。 「分かりました」  この警戒の具合なら誰もが館に入ってこれないと思うが、それでも門番の仕事をさせる必要がある。この紅魔館にはしっかりとした用のある者もいるのだ。それまで排除してはならない。 「霊夢は適当にあしらっておいて。悪いことはしないだろうから。魔理沙は……できるなら追い払って。パチュリー様がいない今、図書館に入れるのは非常に危険だから」 「はい」 「連絡事項はこれくらいね。頼むわね」 「任せてください」  咲夜はパンの入っていたバスケットと魔法瓶を持って紅魔館の中に戻っていった。 (95)  仮眠をとって、レミリアが目覚めてくる少し前に起きる。ブリジットは夜の世界はすぐに慣れると言っていたが、そう簡単には慣れない。気の長いヴァンパイアを相手にしているのだからいくらでも時間はある。 「ふわ……」  人間としてはかなり長いこと夜の世界に身を投じているが、やはり完全には慣れきってはいない。たまにだが、あくびをすることがある。レミリアが起ききる前に掃除を済ませておかないといけない。  掃除をしていたが、不意に気になることが頭をよぎった。パチュリーに掃除はしなくてもいいと言われていて、他のメイド達にも近づかないように命令をしていた部屋がある。たまにパチュリーが入っては何をするでもなく出て行く姿を見かけたことがある。そこは掃除も行き届いていないのでほこりだらけで、喘息持ちのパチュリーにとってはとてもじゃないが良い環境ではない。  誰も近づいたことのないとある部屋の前にやってきた。いつもは中に入らずに外側だけを掃除をして普通に終わるだけなのだが、今日に限ってはいやに気になって中に入ってみることにした。いったいなにがあるのか。 魔力で封をしてあったり鍵がかかっていたりと中に入れないように細工が施しているかと思いきや、すんなりとその扉は開いた。そして、そこには十字型の建造物が建っていた。 (まさか、十字碑の封印は全て壊したはず。女王の封印も、地球の封印も全てなくなったはずなのに) それならば、これはいったいなんなのだ。 「ここは……いったい」  咲夜は呆然としていた。紅魔館の全てを知っていると思っていたのだが、その知らない場所が出てきたのだ。 「ここはこの館のセントラルよ」 「お嬢様!?」  レミリアが気配もさせずに咲夜の背後に立っていた。パチュリーと違って魔法で浮くのではないのだから、おそらく飛んできたんだろう。それにしてもレミリアが目覚めるのはまだ先だと思っていた。 「これがこの館の存在する意味。そしてこの館の守るもの」  咲夜は目をパチパチさせてその十字碑を眺めていた。 「これはセイバーハーゲンが施した地球の封印とは違う。セイバーハーゲンは三つの術式を完成させていた。地球の封印、ブラックスワン、そしてヴァンパイアの封印」 「反転封陣とは違うのですか?」 「最高の霊力の使い手でも制御できなかったこの封印。ヴァンパイアを地球そのものに永久封印してしまう禁断の術式」 「それが、そんなものがこの館の中にあったのだなんて……」 「普段は関係ないからパチェ以外に知っているのはいないけどね、咲夜に話しておかなかったのは謝るわ」 「知っている人は少ないんですよね?」 「知っている人は少ないわ。私とパチェと咲夜くらい。門番は知らないわね」 「ヴァンパイアを封印できるならそれを壊そうとはしないんですか? 間違ってお嬢様が封印されたら一大事ですよ」 「それは壊せないのよ。もっと正確に言うと、それを壊そうとするとこの幻想郷が簡単に壊れてしまうほどの魔力が必要になるの。ここがなくなるのは嫌でしょう。だから普段は見捨てられたような部屋に置いてあるの」  セイバーハーゲンの用心深さは度を越えている。ヴァンパイアを永久に地球に封印する。それもおそらく多大なる犠牲を払ってまでその術式は完成させなければならない。 「それに最悪の場合、フランドールを封印しなくてはいけないかもしれないから」 「お嬢様はそこまで考えてらっしゃるのですか?」 「最悪よ。フランドールは青い地球を見てからずいぶんと安定してきたわ。これを使うことはないでしょう。こんなもの利用しようとする人なんていないだろうから、気にしていないのよ。それよりも早くご飯にしてちょうだい。お腹が空いたわ」 「かしこまりました……」  これを見た以上、他には何もなく、いつものように夜が過ぎていった。 (96)  朝が来てレミリアが寝床に着き、咲夜は自室に戻っていた。  やはり人間の生活パターンは夜に寝て昼に行動だが、徹夜をすると朝方に眠くなる。これでは何事にも支障が出ると思ったので、少しでもいいから仮眠を取ろうとしている。いつものメイド服を脱いで、就寝用のラフな服装に着替える。そうしてベッドに入ろうとしたとき、ノックが聞こえてきた。 「咲夜さん、起きていますか?」  ノックの主がすぐに美鈴だと分かった。 「起きてるわ」  踵を返して美鈴が待っているであろう扉の前まで足を向ける。すぐに扉が開いた。 「あ、お休みでしたか?」  美鈴が咲夜の格好を見て、少し気を使うような言動を見せる。この姿を美鈴に見られたのはまずかったか。あとで話のタネにされかねない。 「気にしなくていいわ。それより、何かあったの?」  美鈴は周囲に視線を向けて誰もいないことを確認すると、手を口に添えてささやくように口を開いた。 「哨戒部隊が異常を察知しました。特に何でもないと思うんですが、一応伝えておこうと思って」  哨戒部隊というのは紅魔館の外、幻想郷の結界ぎりぎりまで偵察を行う精鋭部隊だ。少数精鋭。そのために非常に多忙なのだが、重要な役割になっている。 「何かしら?」 「竹林で兎の数が急激に減っています。誰かに駆逐されたのか、祭りのために集まっているのか、理由が分からないんです」  不可侵協定は事実上、ビッグ・モーラが破壊されたときにその効力を失っている。竹林に偵察に行くのも問題ないし、逆に兎がこの紅魔館を調べるのも同じことだ。 「兎、ね。何のために集まっているのやら」  咲夜も美鈴も、半ば分かっているのかもしれない。それでも言葉に出さずにいるのはいまだ信じられないからだ。 「やっぱり、同胞の敵は同胞なんでしょうか?」  美鈴が寂しげに呟く。咲夜もまったくそう思う。 「まさか……」  しかし咲夜は否定したい。だが背筋に虫の死骸をそっと入れられている気分になる。ぞっとするとともに、気分が悪くなった。そしてじれたように反論した。 「気にしすぎよ。満月の夜が近いから餅でもついているのよ」 「でも、咲夜さんもパチュリー様も常に最悪のことを考えなさいって言ってますね? 私の考えは最悪ではないんですか?」  最悪だ。美鈴の考えていることはまさに的確で最悪の出来事だ。兎が急激に減っているのはおそらく、永遠亭に集結しているからだ。何のために集結してるかも想像できる。それも最悪の想像。 「分かったわ。気を抜かないで、最悪の出来事はそう遠くないときに起こるから」 「やっぱり、ですか」  沈痛な面持ちになって二人とも黙ってしまう。 「では、私は門番に戻ります。咲夜さん、お休みのところお邪魔しちゃってすみませんでした」 「知らせてくれてありがとう」  美鈴が咲夜の部屋から離れていく。咲夜は視界から美鈴がいなくなるのを確認してから扉を閉めた。 (97)  そして再び夜が来る。咲夜は変わらずレミリアに給仕をしていたが、内心はあまり穏やかではない。 「お嬢様、今夜の紅茶はダージリンです」  レミリアが休む前の最後の紅茶。甘い香りが特徴の外の世界で有名な紅茶だ。香りは良いが、特別に紅すぎて人間はあまり飲みたいとは思えない色だ。そんな咲夜の思いとは裏腹に、気にする素振りもなくレミリアはカップに口をつける。 「パチェがいないと案外つまらないものねぇ」  案外と言うのは、レミリアはパチュリーがいなくてもそれなりに過ごせたということか。聞くところによるとパチュリーは百年くらい前からこの紅魔館に居ついているらしいから、それまでレミリアは話し相手なしで過ごしてきたのだろう。フランドールは最近は良いが、昔は情緒不安定だったようだから話し相手にはならなかったはずだ。 「やはり話し相手がいないと楽しくないですか?」 「いや、楽しみなのよ。パチェが外の世界に行ってロケットの技術を学んでくれば、宇宙まで行くことができる」 「確かに楽しみです。このまま何事もなくパチュリー様が帰ってくればいいのですが」  ロケットができれば平和になった月に遊びに行くこともできる。霊夢も魔理沙も誘って月旅行に行くなんてことも楽しみだ。しかしレミリアは楽しげに話したりはしない。楽しみと言っているのに。 「お嬢様、この月の民との戦い方、いまひとつ納得がいかないことがあります」 「それは何かしら?」  そんなことは分かっているようにレミリアが問う。 「本当に終わったのでしょうか?」 「直接的ね。でも賢明でもある。答えは単純、結末を求めているからよ」 「結末、ですか」 「この平穏がいつまでも続くと思う?」 「それはどういう意味ですか?」 「始まりがあれば終わりもある。その終わりの始まりがついにやってくるみたいね」  レミリアは希い待ちわびたような顔になる。終わりの始まり、それはどんなことだろうか。レミリアが思っていることなのだろうかパチュリーが思っていることなのだろうか分からない。 「私には良く分かりませんが」 「それは自分の目で確かめなさい。私はもう寝るわ。何があっても起こさないように。何かがあった場合は自主的に起きていくから」 「かしこまりました」  レミリアは紅茶を飲み干すと、席を立って広間から出ていった。レミリアの気配が完全に消えてから、咲夜は唇を動かした。 「そうは言ってもただの人間にできることがどれだけあるって言うの? お嬢様もパチュリー様も分かっているくせに教えてもくれない。それは何故かしら?」 (それは結末を求めているから、か)  はたしてどんな結末が待っているのか、咲夜はただただそのときを待つしかなかった。 (98)  夜が過ぎ、昼の光が紅魔館を包むなか、咲夜はティーセットの片付けをしながら感覚を研ぎ澄ましていた。  レミリアの言葉の意味、それが徐々に分かってきた。幻想郷の様子がおかしい。それも、この紅魔館を中心に魔力と霊力が集まっているような感じがする。ここには何があるのだろうか? 紅魔館、レミリア、図書館、それとも他の何か……導ける結論は一点だった。 「ヴァンパイアの封印かしら」  だが疑問も残る。その封印は何のために使うのだろうか? レミリアとフランドール、ひいてはストラウスとアーデルハイトをも封印できる人類史上最強の封印の使用用途が分からない。これを狙うとなると強大なヴァンパイアと敵対することになる。それができる組織と能力を供え持つ人物なんて一人しかいない。だが、咲夜はそれを口に出さなかった。予想はできても、やはり信じたくない気持ちのほうが強かった。  しかし降りかかる火の粉は払わなくてはならない。それがたとえどのような劫火であろうとも。それがこの紅魔館に勤めているものの、レミリアに付き従っているものの使命だ。ティーセットをいつものトレイに乗せて、広間を出てキッチンに向かう。 (片付けもこれで最後になるかもしれないわね)  戦闘規模は月の民攻略戦よりは小さいが、こちらの戦力が少なすぎる。ストラウス、アーデルハイト、ブリジットらを始めとする超絶な戦力を持つヴァンパイアの血族がいない。ヴァンパイアはレミリアとフランドールもいるが、昼の奇襲ではまったく役には立たない。そして肝心要のパチュリーもいない。何もかもが足りないのだ。いるのは咲夜自身と美鈴、それとメイド達。地上の兎さえ味方としてカウントされないのだ。あのスキマ妖怪は……おそらく介入してこないだろう。あの妖怪はどこかこの騒乱から一歩離れたところから眺めている感がある。  キッチンに着いてティーセットを洗って棚に戻したら、咲夜はコップ一杯の水を飲んだ。少しの食料も食べた。何もかもがこれで最後になるかもしれない。  後片付けを終えたあと、咲夜は自室に戻っていた。仮眠をとるためではなく、準備をするためだ。そう、戦いの準備をしなくてはならない。月の民攻略戦ほどの規模にはならないものの、それなりに大規模な戦いになるだろう。  奇襲は夜と相場が決まっているが、ここには太陽光を浴びたら灰になってしまうヴァンパイアが存在しているので、それが介入できない太陽光が降り注ぐ昼に攻めるのが最適だ。 「来るわね、確実に」  目を閉じて感覚の範囲内に集団で動いてくる物体を感知する。咲夜は慌てずに目を開けた。気配を隠そうともしていない。始まるようだ、間違いなく。  今着ているメイド服を脱ぎ、クローゼットの中から動きやすそうなメイド服を選び出す。どれも見た目は変わらないが、ちょっとずつ違う作りになっている。咲夜は新しいメイド服に袖を通して気持ちを引き締めなおした。ナイフをところどころに隠し持ってから、部屋を出る。 「人間の意地を見せてあげるわ」  自己暗示をかけるように一言だけ口にして、紅魔館の長い廊下をゆっくりと歩き出した。 (99) 「敵襲! 全館警戒態勢をとれ!」  紅魔館の門の前に行くと、美鈴が忙しそうにメイド達に指示を出していた。パチュリーがいないため、陣頭指揮は美鈴が行っている。 「状況は?」  咲夜はそんな美鈴に話しかける。 「おはようございます、咲夜さん。兎達が全方向から一斉に攻めてきています。このままでは戦闘は避けられません」 「非戦闘員や戦いに慣れていないものは紅魔館のなかにいれてちょうだい。殺されるわよ、間違いなく」 「まさか……前回の戦闘でも死者は出なかったのに」 「パチュリー様がいない時に敵襲。相手は手薄になっているのを分かって攻めてきてるわね。これが本格的な戦闘ではなく何かしら」   パチュリーがいないとなれば防衛網に警戒網、諸々の結界が数枚ないのと同じだ。咲夜がいるので時空を操って相手をそこに落とし込む戦略は立てられるが、それも限定的に過ぎない。パチュリーほどの効果はない。やはりこちらは先の侵攻よりも不利な条件で戦わなければならない。 「相手は本気よ。前みたいに生ぬるい攻撃はしてこないはず。この紅魔館を壊すくらいの勢いで攻めてくると思うわ」 「そ、そんなにですか」 「ここにあるものは封印の十字碑。必要なのはそれ」 「この館は必要ないと?」 「お嬢様から聞いた話から推測すると、その封印を守るためにこの館を建てた。それは邪魔以外の何ものでもないから」 「咲夜さん! 南西と北西の部隊が交戦したとの情報が入りました。ここに来るのも時間の問題です」 「やっぱり、分かりあえないようね」  月人とは多少のわがたまりを残しながらも和解できた。しかし、地球環境に慣れた月人とはもはや思考も感覚も違ってきている。この戦いは、お互いの主義主張がかみ合わない現実を打開するための戦い。 「美鈴、あなたは戦わなくてもいいわ」 「え、どうしてですか?」 「あまり関係のないあなたが戦うことはない」  必要ない血は流すべきではない。美鈴一人ならどこかに隠れて、事が済むまで隠れきれる。 「咲夜さんはどうなんですか?」 「私はお嬢様に従うまでよ」  今さら態度を変えるのは格好悪い。意地でも自分の意思を貫き通してみせる。 「どちらが正義かも分からない。美鈴、あなたは人里に隠れていなさい」 「でも……」 「いいから」  きつく美鈴をねめつける。睨まれたほうはおびえてしまっている。 「はい、分かりました……」  美鈴は渋々ながら紅魔館から離れていった。いい、これでいい。これで最低でも美鈴の犠牲は避けられる。紅魔館の守りの指揮を美鈴から引き継いで、守りに徹することにする。  聞いていただけだが、前回のときとは規模が違う。館の戦力を強化していなかったらあっという間に制圧されていたかもしれない。パチュリーはこのことを見据えて戦力の増強を図ったのだろう。永琳との協力関係を保ちながら、永琳と戦うべく思考を巡らせていた。仲間だった者と戦うのはとてもやるせないことだ。パチュリーはどうだったのだろうか? この状況を考られるのは精神的にもつらかったのではないか。そもそも考えられるのが普通ではない、仲間が裏切ることを前提に物事を考えるのは。それが人間と長年生きた魔女の違いか。 「今は地上の兎を使っているけど、いずれ来るわね。月の兎と月人が」  パチュリーの言ったとおりになった。そして咲夜は嫌な出来事が起きてしまったと唇をかみしめながら思っていた。 (100) 「……」  咲夜は沈黙を保っている。状況は芳しくない、白旗を上げても相手は侵攻を止めはしないだろう。 『第三次防衛線突破されました』 『第十六監視基地破壊されました』  あまり聞きたくはなかったが、そんな連絡が入ってきた。正面以外の外壁はパチュリーが防御結界を施してあるのでメイド達が撤退してもしばらくは保つだろうが、ここは人が通るためにその結界がない。そのためにはこの紅魔館の門を目指すのが一番良い方法だ。それなのに全方向から侵攻をしてきている。あの月の頭脳が分からないはずがない。なのにどうして、何のために、全方向から攻めてきているかだ。 『南西の外壁に亀裂発生。これ以上の攻撃には耐えられません』 「紅魔館南西を破棄。戦闘員は他の部隊の援護に回って」  全てを破壊する意味。考えられることはただ一つ。紅魔館の占領ではなく全壊。それにはどのような意味が含まれるのか。 「しまった」  兎達の目的はここ。紅魔館正面。最初から全ての戦力をここの正面に回してしまっては、各地に散らばったメイド達を集結させて守りを固めることができる。そのための陽動。メイドを足止めするとともに紅魔館の破壊をするのが本当の目的。その証拠に、ほら。やってきた。 「久しぶりね、メイド長」  月の兎、レイセンがやってきた。そしてその横にはもう一人、地上の兎の因幡てゐが控えている。  全てが陽動だったようだ。本命はこの二人。鈴仙・優曇華院・イナバと因幡てゐ。他の兎は保険だ。紅魔館の全てを破壊することができれば、残るのは必然としてヴァンパイアの封印のみ。レミリアだってフランドールだって、太陽光にさらされれば灰になってしまうので封殺できる。この紅魔館の全てを破壊することができればヴァンパイアは消えてなくなる。 「月の民攻略戦以来かしら。あんまり時間は経っていないけど、考え方は変わってしまったようね」 「私達は師匠の命令で動いていただけ。考えは変わっていないわ」  それならばいままでの全てが永琳の手の上の事象だったのだろうか。ビッグ・モーラ来襲は予定外としても、それ以降の出来事は永琳の予想通りの展開だったのかもしれない。あまりいい気分ではない。 「さぁメイド長、そこを通してくれない? 私達の目的はこの紅魔館の中にあるの」 「簡単に通すと思う? 私は自分の仕事をするわ」  簡単に通してはならない。通してしまったらそれこそメイド長の威厳にかかわるし、中にいる非戦闘員の安全も確保できない。やはり通してはならないのだ。 「やっぱり、こうなるって思ってたよ」  てゐが予想通りと言わんばかりに唇を動かした。そして、レイセンとてゐは戦闘態勢にはいる。咲夜もナイフを一本ずつ両手に持って戦う準備をする。  彼我兵力差は二対一、分が悪い。だけど、ここを通すわけにはいかない。それはもはや意地でしかない、単なる強がりだ。ここで逃げたら間違いなく後味の悪い結果になってしまうのだから。本気で戦わないとやられる。命と命の懸けた戦いが始まってしまった。 (101) 咲夜は両手にナイフを持って地上の兎と月の兎と対峙していた。 (相手の出方をうかがわないといけない)  どうやら相手も忠誠心が強いのか、ここへの襲撃にはためらいはないらしい。咲夜としては前に一緒に戦った仲間と戦うのは非常につらいが、戦わなければ何が起きるか分からない。紅魔館が制圧されたらどうなるのだろうか。あの月の頭脳が後ろに控えているのは間違いない。この戦いも先の戦いも、操っていてのは永琳だろう。  まずは牽制にとナイフを二本、レイセンとてゐに投げつける。二人はそれぞれ霊力で作ったバリアのようなものでそれを防いだ。こうなることは分かっている。遠距離戦はどちらにも有利に働かないか。じりじりと距離を詰めながらもお互いに攻めあぐねている。 「ほらメイド長。あなたは太陽の隅で輝く月を見て狂ってしまう」  レイセンがその能力を発揮し始めた。 「レイセン、先に行くよ」  そしててゐが霊力で作った棒状の武器を持って突進をかけてくる。咲夜は左手のナイフで受け止める。てゐは動きを止めない。もう片方の腕に隠し持っていた棒状の武器の半分ほどの長さの武器で咲夜めがけて叩きつけてくる。連携速度ではてゐのほうが上だが、後手に回ろうとも武器の短い咲夜のほうが攻撃速度で勝る。右手のナイフでそれを受け止めて、膠着状態に入る。 「くっ……」  しかし、前後が不覚になる。狂気を操る能力、やっかいなものだ。気を抜けばもう狂ってしまいそうになる。それに、因幡てゐとの波状攻撃もやっかいだ。かろうじて防御はしているが、それも限界に近づいている。 「無駄に抵抗しなければ命まではとらないよ。べつにあんたを殺したって何のためにもならないんだから」 「そうですよ。無理な抵抗は止めなさい」  レイセンが降伏勧告をしてくる。命までとらないということは中にいる非戦闘員達の命も保障してくれるということか? そうなれば降伏勧告を飲んでも…… 「だれがそんなこと聞くものですか。ここを八意永琳に渡したらどんな結果になるかは分かっているの?」 「そんなのは知らないですよ。私達は師匠の命令どおりに動いているだけ」 「たまには自分で考えなさい。あの八意永琳にこの紅魔館を占拠されれば幻想郷はその境ごとなくなって、外の世界と一つになるのよ。それだけじゃない。レミリアお嬢様とフランドール様、ストラウス様とアーデルハイト様を封印してしまう。それがどんなことを意味するか分かる?」 「外の脅威と戦う力が失われるのよね。私は分かっているわ、お師匠様が何を狙っているか」  このてゐという地上の兎は長年生きているだけあって意外と鋭いところがある。そして、永琳が何を狙っているかも知っているらしい。盗み聞きでもしたのだろうか。しかしそれならば説得のしようもある。 「ならこの戦いの無意味さが分かるでしょう」  一人でも戦意を喪失させればまだ勝ち目はある。 「私も長く生きて外の世界に興味があるの。一つになったほうが面白い。まぁ、この紅魔館は壊れることになると思うけど」  てゐが咲夜から離れる。一旦、間を置いたのか? 「うっ!?」  そうではない。レイセンの指向性の攻撃が咲夜に直撃した。てゐの対応だけで、手一杯だったので失念していた。そして地上に倒れこんでいる咲夜めがけててゐが猛スピードでこちらに向かってくる。どうやらとどめをさしにきたようだ。これまでの戦いで疲弊している咲夜は霊力を使って防御の準備をするが、てゐのスピードのほうが速い。 「ばいばい」  てゐが魔力の塊を咲夜にぶつけてくる。咲夜は反射的に防御した。来る、と思ったらこない。そして背後に寒気を伴う気配を感じた。 「遅いよメイド長。これでお別れね」 「ちいっ」  どうやらてゐはフェイントだったようだ。レイセンは狂気を操り、位相をずらし咲夜の死角に入り込んで移動していたらしい。全てが分かったときにはもう遅い。咲夜は覚悟を決めていた。 (お嬢様、申し訳ありません) パチュリー様、あとはお任せします。 (102)  咲夜にとどめをさそうとしているレイセンが急に身をひるがえして後ろに下がった。いったい何が起きたのか咲夜には分からなかった。咲夜は命拾いをしたと思い、とっさに構えて臨戦態勢をとる。 「紅美鈴……いないと思ったらここで現れてくるとわね」 「め、美鈴!?」  人里に隠れていたはずの美鈴がここにやって来ている。確かに咲夜の感覚の範囲内から消えたのに、また現れている。レイセンとてゐに集中していただけに気が付かなかったのか。 「おかしいと思ったよ、門番がいない門なんてね。奇襲のつもりかな?」  そう言っててゐとレイセンも体勢を整えて戦闘態勢にすぐに戻った。美鈴は咲夜を守るように毅然とした態度で仁王立ちすると、からからと笑いながら口を開いた。 「人里隠れているとでも思いましたか? 私は器の小さい人間ですが、パートナーの犠牲は見たくありません」 「ここで現れても状況は変わらないよ」  てゐが強気に出る。確かに咲夜は今までの戦いで疲弊して、五体満足とは言えない。咲夜の力の具合は六割程度だろうか。しばらくすれば霊力と体力は回復するが、そんな時間は与えてくれないはずだ。 「咲夜さん、私を使ってください、頼ってください。脚が折れても腕が折れても戦ってみせます」  その言葉には力強いものを感じた。途方もなく雄大な景色に我を忘れたようになってしまった。だがそれも一瞬、咲夜もにやりと笑った。 「美鈴、あなたがいれば負ける気はしないわ。楽な戦いにはならないだろうけど、やるしかない」  咲夜も美鈴の横に立ち、ナイフを構える。 「美鈴、行くわよ」 「はい」  レイセンとてゐの二人の連携に咲夜達も再び共に戦うことにした。狂気を操る能力は厄介だが、その瞳にのまれないように戦うしかない。こちらも時空を湾曲させてトリッキーに戦うのがベストか。咲夜はサポートに回って、美鈴をメインに戦わせよう。 「今回は二対二ね。前みたいに手加減はしない」  あのときは時間稼ぎが目的で、手加減はしていたようだ。今度は本気で死んでもいいくらいに思っているはずだ。 「師匠のやることに間違いはない。この館をもう一度襲撃する理由があるはず」  推測はできるが、その理由がはっきりとしていない。ヴァンパイアの封印の十字碑を使って何をするのか。この地に脅威と安寧をもたらすヴァンパイアを封印する過程で何が起こるのだろうか。幻想郷は壊滅し、外の世界と一つとなって全てが混じりあう。その世界を望んでいるのか。それともまだ別の思惑があるのか。やはりいくら考えても分からない。ただ、思考をしている余裕などなかった。 「救援要請です。南西と北東の部隊が押されています」  美鈴があせり気味に言う。 「回せる部隊があったら回して。できなかったら投降させたほうがいいわ。これ以上、犠牲を出さないためにね」 「時間はない、ですか」  あまり良くない返答を美鈴がしていた。まずはレイセンとてゐをどうにかするのが先決だ。  こちらは防戦一方だ。守るほうが有利とも言われているが、戦力差があったら問題にならない。思えば地上の兎は月の民攻略戦のときはいるにはいたが数は少なかった。このときを見越して戦力を温存していたのか。しかしここで咲夜達が援護に回ることはできない。咲夜達がいなくなることは、紅魔館の占拠と同じことだから。勝つには攻めるしかない。 (103)  この戦いのリーダーはレイセンだ。地上の兎を操っているのはてゐだが、その上には月の兎であるレイセンがいる。それならレイセンをどうにかすればこの戦いにひとまずの決着がつく。 「てやあぁ!!」 「ほっと!」  てゐと美鈴が至近距離での格闘を続けている。咲夜とレイセンはそれぞれの能力を駆使してサポートをしつつお互いをどう倒そうか考えているころだろう。一人が欠ければもう一人は二人の波状攻撃を受けざるを得ない。すなわち、片方が欠けるともう片方は圧倒的なに不利の状況になってしまう。こうなったら勝つことはほとんど無理になる。  美鈴とてゐの戦いは互角だ。本当のところは美鈴が押しているようにも思えるが、狂気を操る能力というのは非常に厄介なもので、美鈴はどうにか正気を保ちながら戦っている。攻撃の精度と動きのキレが悪い。こちらも時間を湾曲させたり圧縮したりとして技術を尽くして戦っているが、補助が限界で相手に打撃を与えるだけの能力は持ち合わせていない。 (早く波長を見つけないと)  それだけが唯一のよりどころだった。逆に言えばそれが見つからないとこちらは戦力差で負ける。  レイセンの波長に干渉するようにどうにかして周波数を探ろうとする。あの波動には時間を操る能力で干渉できるはずだ。論理的には可能だろう。パチュリーがいればその論理を構築してくれるだろうが、いないうえに時間がない。高望みしてないけないのだ。  咲夜は全波長を全方位でしらみつぶしに探っている。相手は月の兎なので咲夜の考え付かない周波数を使っているのかもしれない。 「そこだぁ!」 「うぐぅ!?」  その間にも美鈴がてゐに攻撃を受けている。早くしないとこの猛攻には耐えられない。咲夜は自分の必要のない意識を全て断ち切り、能力に全精力を注いだ。 「無駄なことです。そろそろ倒れてください」  狂気が一層強くなる。このままでは美鈴だけではなく咲夜も狂気に飲まれてしまう。しかしこれはチャンスだ。狂気が強ければ強いほど波長を探ることは容易になる。 「美鈴、あと少し我慢して。もうすぐだから」 「な、何とか頑張ってみます……」  だがそれも限度がある。早く、早く…… (見つけた!)  「2.3.5.6の位置。8.7.14の隣」  つまりそこは、 「美鈴、今のは狂気よ! 実際は右前方三十度の方向にいるわ!」  今は咲夜でさえてゐが三重に見えるほど波長が強くなっている。ここに割り込むことができる。咲夜は干渉波を出して少しでも波長を弱めようとする。 「はい!」  美鈴が目に見えているてゐの姿を無視して、咲夜の言ったとおりの地点に溜めた霊力を解放しながら蹴りを放った。すると正確にてゐの側頭部に鋭い蹴りが届いていた。これは勝負を決める蹴りとなるのか。どちらにも決定打が出なかった戦いで、始めて決する一打が出たのだ。 (104) 「てゐ!?」  美鈴に蹴り飛ばされて派手に飛んでいったてゐに視線を移したレイセンは一瞬だけ隙を見せる。ここが狙い目だ。咲夜は時間を操って瞬時にレイセンの胸元まで近寄る。左手のナイフでレイセンの腹部を刺しあげる。レイセンはまさか、という表情になっていた。 「とどめよ」  咲夜は右手のナイフをレイセンの心臓に突き立てた。鮮血が噴出し、髪をメイド服を赤く染める。レイセンは膝から崩れ落ちるようにその場に伏せた。その光景にてゐは恐れをなしたようで、たちすくんでしまう。こうなればもうおしまいだ。リーダーを失った集団ほど脆いものはない。これで兎達の統率はとれずに崩壊していくだろう。 「レイセン、レイセン」  自分の痛みも忘れたように、もはや虫の息のレイセンに近寄って名前を呼びすがる。近しい者が殺されると立ちすくんでしまうか、近寄ってしまうものだ。 「嫌なものですね」  美鈴が呟く。 「それが戦いなのよ。犠牲が自分達の目の前で起こっただけ、どこにでもある光景だわ」  やはり戦いは悲しみしか残さない。この無意味さに八意永琳は気づいているのだろうか。弟子でもあるレイセンを失ってほどかなえたい願いごとなど何があろうか。そんなの、ありはしない。 「そうかもしれませんが、共に戦った仲間を失うのは心苦しいです」  ここでの戦いは決した。しかしまだ勝敗を決するのは早計だ。まだどちらにも破滅をもたらすだけの戦力を持っているのだから。しかしこちらにはそのカードは出せない。今はまだ昼間なのだから。 「美鈴、指示を出しなさい。ここでの作戦の指揮官はあなたに代わったのよ。相手の指揮官が失われたのを伝えて、攻めるのではなく館の防衛をすることに徹すると伝えなさい」  今までもそうだったが、さらに守りを固めなければいけない。これからさらに強敵と戦わなければいけないのだから。 「は、はい」  美鈴が相互交信チャンネルを開く。 「両軍に伝える。指揮官であるレイセンを倒した。もはや戦う意味もない、撤退するなら追撃しないことを約束する。こちらも攻め込まない限り攻撃は行わないものとする」  これで地上の兎は弔い合戦といって攻め始めてくるだろうか。それとも素直に聞き入れてくれるだろうか。メイド達からは歓喜の声が、兎達からはざわざわと騒然とした声が聞こえてくる。 「撤退……」  てゐが泣きそうな気持ちを抑えるような仕草を見せてから呟く。 「全軍撤退! 速やかに戦域から離脱せよ!」  レイセンはすでに命令を出せるほどの力はない。てゐが自分で判断して自分で命令をだしたのだ。 「やはり地球の兎に頼るのは間違いだったようね」 「来たわね、八意永琳」  永琳は気配もさせずに咲夜達の近くに下りたってきた。レイセン達とは桁が違うプレッシャー。それに飲み込まれたらおしまいだ。永琳はゆっくりとレイセンの近くへと歩み寄って話しかけた。 「ありがとう、レイセン。あなたの犠牲は無駄にはしないわ」 「し、師匠……」  無駄にしない? このレイセンの犠牲が無駄にならないことは紅魔館を中破させたことなのだろうか。それともまだもっとほかに意味があるのか。永琳とレイセンを中心に霊力が集まりだしてきた。始まる、終わりの始まりがついに始まってしまうのだ。 (105) 「霊力による内縛型滅式陣!」 咲夜は叫んだ。永琳はレイセンを中心として内縛型滅式陣を展開させる。その半径は視認できる限りでは紅魔館の全てを覆うものだった。いつの間にこんなものを用意させてあったのだろうか。この紅魔館に攻め込んでいるときに仕掛けたものか。それとも、前に紅魔館を襲撃したときに準備してあったのか。どちらにせよ全てが覆われている。 「これは、まずいわね……」  咲夜は本音を漏らす。破滅をもたらす力のうちの片方が出てきたのだ、ここで咲夜と美鈴が抵抗をしても一矢も報いれないだろう。それだけの力の差はある。 「あなた達も一緒になくなりなさい」  レイセンの生け贄によって出来上がった内縛型滅式陣は恐ろしく厚く強力だ。永琳が魔法の言葉を唱え終えると、滅式陣の端から崩壊が始まっていく。 「美鈴! 防御の準備よ!」 「分かりました!」 「そこの兎も来なさい、死にたくなかったらね!」 「う、うん」  てゐは咲夜の近くに寄ってきた。  美鈴が霊力で守りに入る。咲夜も時間を分散させて直撃を受けないように能力を使うのに専念する。あちらこちらで聞こえる悲鳴。敵と味方が関係なく滅式陣によって崩壊を迎えている。永琳は味方を犠牲にしてまでこの館にある封印が欲しいらしい。いや、最初から仲間などあてにしていたのかすら怪しい。できれば良し、できなくても自分が動けばいい。それで十分だった。  これは物理的な衝撃波だ。防御と時間を操る能力で防ぎきれないことはない。しかし、せいぜい直径数メートルを守るのがやっとだ。それ以外は……  滅式陣が収束に向かい、乱気流のごとく吹きつけていた空気の流れも収まってきた。どうやら無事に過ごせたようだ。ほっとする間もなく振り返ると、そこには衝撃の光景が広がっていた。 「八意永琳、限度ってものを知らないの」 「紅魔館が、なくなった……」  あれだけ大きかった紅魔館のほとんどが壊れていた。もはや館としての機能は完全に失われている。 「予想とは違うわ。あの魔女の魔力が館を守っていたようね」  紅魔館は九割方が失われていた。無事なのは図書館の一部と、レミリアの寝室。そして地下にあるフランドールの部屋。守れなかった。敵は目の前にいるのに、無力感でいっぱいだ。敵味方問わず大半の戦力が失われ、もはやどちらが勝者か分からなかった。 「運がいいわね、あなた達にかまっている暇はないわ。せいぜい絶望にうちひしがれていなさい」  永琳はゆっくりと、ヴァンパイアの封印に向かっていく。この状況で何ができるのだろうか? 抵抗しても無駄なのは誰しもが分かっている。あるいはできるとしたら…… 「ここね。さすがセイバーハーゲン、この衝撃にもびくともしない封印を作っているわ」  永琳がヴァンパイアの封印の十字碑に手を置いて、何やら呟いていた。また魔法を唱えているのか。 「では始めましょうか。全てを円環なる宇宙にする魔法を」  最後の希望は、どこにあるのか。 (106) 「好きにはさせないわ」  その声が聞こえると同時に紅魔館の庭にあったミサイルが永琳めがけて飛んでいった。内縛型滅式陣で失われていたと思っていたミサイルがまだ残っていた。核弾頭は取り除いたが、魔力で爆発させることのできる爆弾のようなものを搭載している。それは永琳に直撃したが、もうもうと立ち込める煙の中で平然としていた。ダメージはほぼないに等しいと思われる。しかし驚くべきは永琳の防御能力ではない。 「ふふふ、物足りないと思っていたところよ」  永琳が少し唇を緩める。このミサイルを操れる存在。それは一人しかいない。 「私が館にいない間によくもこんなことをしてくれたわね」  外の世界に行っていたパチュリーが幻想郷に戻ってきたのだ。しかしこれで形勢が変わるというのはなかなか難しい。永琳の力は幻想郷でも屈指の能力なのだ、パチュリー一人戻ってきても戦局が変るとは思えない。しかし、時間稼ぎにはなる。太陽が沈み、月が輝きを取り戻すまで時間が稼げればこちらのカードが切れる。しかもレミリアとフランドールの二枚のカードがある。そうなれば勝負は決まる。いくら永琳といえども二人のヴァンパイアを相手にして勝てるとは思えない。 「おびき出したつもりでしょう。分かっていたはずよ、あなたがいないこの館を制圧することくらい簡単なことを。私はそれにのってあげたのよ。レイセンがここまで善戦するとは思っていなかったけど、まだどちらの予想通りでしょう」  レイセンの犠牲が予想通りとは、気分が悪くなる。 「えぇ。そうでなければ私がタイミングよくここに現れるはずはないから。もっとも、ここまで紅魔館が破壊されるとは思っても見なかったけどね」 「必要ないものはなくすまでよ」  やはりこの紅魔館は永琳にとって邪魔だったのだろう。おそらくヴァンパイアの封印をアーデルハイトの封印で迷彩していたのだろう。アーデルハイトが復活したときにここにあると気づいたのだ。そして長い時間をかけて着々と戦力を増やしていった。永琳が続ける。 「あなたもこのときを待っていたのでしょう」 「全ての敵を排除できるチャンスなのだからね」  パチュリーも永琳が攻め込むのを待っていた。ビッグ・モーラを撃墜するのには必要なかったのかもしれないが、月の民攻略戦には永琳の力が必要不可欠だった。そのためにどちらもお互いに協力するしかなかった。 「あなたは地球に来てから今までの間、月の民から逃れるふりをしていたのね」 「あら、追われていたのは確かよ」 「どちらが本命なのかはいいわ……それよりも」 「移動経路が気になるわけね」 「ええ、普通に見ればまったく無駄な動きね」 「分かっているか……後は確証が欲しいだけ」 「確証はあるわ。それを理解できる人に聴いて欲しいだけ」 「張本人に聞くのは得策ではないのよ」 「……あなたは地球に来てから数百万以上の術式を完成させていた」 「今の月の民が気付くはずもない、地球を一つの球として捉えた魔法球。三次元魔法陣。そして、その中に平面、つまり二次元魔法陣を完成させていた。最後に、時間も媒体とした四次元魔法陣。これら三つの複次元高位魔法陣。銀河系の隅の太陽系の一%にも満たないここに宇宙の形を変えかねない力を集めだしたのね」 「……まだ何か言いたげね」 「複次元高位魔法陣のほかに、地球の自転と公転。太陽系が螺旋状に移動している、銀河系が回っている。膨らみ続ける宇宙にさえ魔法陣を描いたわ」  この八意永琳という月人は、どこまでことを考えていたのだろうか。 (107)  それは、最初は壮大な夢物語に過ぎなかったのかもしれない。何万年も前にビッグ・モーラのように地球に侵攻してきた宇宙人がいて、それを永琳ら月の民が阻止したのかもしれない。そのときから永琳は考えていたはずだ。この地球と太陽と月を残したまま全ての宇宙の可能性を排除する魔法を。膨張も収縮もしない、単一で完全な宇宙の箱庭を想定していた。  そしてやっと、ついに完成したのだ。永琳の言葉を借りるのであれば、全てを円環なる宇宙にする術式を。 「そんなことしたら、人類が宇宙へ出るのが不可能になってしまう」 「それでも、安全な地球で人類は繁栄できるわ。宇宙へ行こうだなんて、思わないほうがいい」 「人の可能性を奪う気。自由を縛り付ける鎖になるって言うの?」 「これはあなた達にとっても悪い話じゃないわ。地球と太陽と月は半永久的に残り、宇宙からの脅威も完全になくなる。太陽のエネルギーを有効に活用すれば人類は繁栄を極める。どう?」 「それは人間の話ね、私達は宇宙への進出を望んでいる。幻想郷は悪い所ではないけれど、平和すぎて飽きてきたわ。レミィ達と一緒に宇宙へ進出する考えよ」 「どうやら、分かり合えないようね」 「残念ね、月人のあなたなら宇宙への進出を歓迎してくれるかと思ったのに」  この話は人間と最後の羽計画を考えているダムピールには良い話だ。無駄に流れる血も少なくなるだろうし、無益な争いもなくなる。宇宙進出を考えなければ。それが発動されれば地球から見上げた景色が月しかなくなる。 「私の手はもう血で濡れているわ。今更、何を犠牲にしようといとわない」  このような覚悟を決めた人物に何を言っても無駄だ。もはや腹は決まっている。 「この術式には人柱が必要不可欠なのよ。人間や妖怪では役者不足。魔女でも何千人も必要になる。でもヴァンパイアなら、強大な魔力を持った一万年前のヴァンパイアの子孫であればたったの二人で済む。この時代を待っていたのよ」  そうでなければどれだけの人間や妖怪が犠牲になったか分からない。ストラウスやアーデルハイトも犠牲のうちにふくまれていただろう。 「それでは役者は揃ったわ。始めましょう」 それは、儀式だった。ヴァンパイアを生け贄に、地球と太陽と月を永久に維持したまま閉じることも開くことも無い円環なる宇宙を創造する魔術。魔法陣は内包している全ての物質を太陽の元へと還元し、その寿命を飛躍的に向上させる。 「全ての魔法陣よ、我が意志に従って回れ」 地球が、太陽が、月が、空間が、時間が、全ての要素が魔方陣と化して回り始める。 (108)  永琳が防護結界を張りながら、ヴァンパイアの封印を中心に魔法陣を展開している。何としてでも止めないといけない。  しかし、止める手立てなんてあるのだろうか? そもそも、止める必要などあるのだろうか? 永琳の言葉を信じるのであればこの地球は地球外生命体からの脅威は完全に排除できる。地球圏からの脱出は不可能であろうが、宇宙を目指さなければこの地球は確実に安全だという。咲夜には分からなくなってきた。どちらが正しいのか。つい数時間前までは態度は変えるまいと思っていたのに、永琳のしようとしていることを知った以上、止めるのは危険なような気がする。 「そんなことはさせやしない」  咲夜の思いとは違い、パチュリーは確固たる信念があるようで、どうにかして永琳を止めようと魔力を溜めている。ミサイルでもせいぜい着ている服が破れた程度のダメージしか与えられなかったのに、どうやってあの永琳を止めようというのか。永琳はそんなパチュリーを気にかける様子で一瞥する。 「どうやら、邪魔をするつもりね。術式は現状を維持。まずは邪魔者を排除するわ」  永琳は展開している術式を停止させて本格的にパチュリーに対峙する。早い、早すぎる。太陽が沈むまでまだ三時間はある。止めるにしたって、パチュリーだけでは時間稼ぎしかできない。それはパチュリーが一番分かっているはずだ。これから三時間も圧倒的に力の違う者と戦うだけの力があるのか。外の世界の技術でそれが可能になったのか。そんなことはない、今の永琳の力は外の世界の技術だって凌駕している。ストラウスであっても敵うかどうか分からない。永琳は利用できるものを全て利用し、最小限の力だけで全てのことを成し遂げようとしている。最後の詰めは自分で行っているが、これは予想通りなはずだ。 「あなた達は避難していなさい。あとのことは全部、私達がやるから」  パチュリーが呆然としている咲夜に向かって声をかけてきた。死ぬつもりだろうか。魔力を暴走させればこの一帯は消滅することだろう。そうなれば先の滅式陣とは比べものにならないくらいの衝撃が打ち付ける。一番近い永琳はもとより、咲夜達もただではすまない。それでも咲夜と美鈴とてゐが全力を持って防御に徹すれば防げるという算段か。いずれにしろもう事は咲夜の手を離れて永琳とパチュリーの戦いに変わっていた。 「残念ね。あなたと組めば、何でもできるのに」 「私はそこまで万能じゃない。それに私は目の前にあるものを守りたいだけの未練がましく諦めが悪いだけ。世の中の全てを背負うなんてできやしない」  パチュリーは動かない。永琳は徐々に間を詰めている。接近戦の苦手はパチュリーは圧倒的に不利ではないか。魔力を使えば一時的に間を離すのは無理ではないが、それでもいたちごっこだ。この局面をパチュリーはどうやって乗り切るのだろうか? 咲夜は防御の準備をしながら事の成り行きを見守っていた。 (109) 「まだ考える時間はあるわ。考え直しはしない?」  永琳は止まって少しだけ呟いた。まだ考えれば全てが上手くいくかもしれない。これ以上の犠牲は十分だった。 「私達の考えに変更はない。全てはあなたと同じように決まっているのよ」  パチュリーも一歩も引くことなく自分の考えを貫き通している。咲夜はそれに一抹の違和感を感じていた。どうしてそこまで自信が持てるのだろうか。接近戦は確実に不利なのに。これではまるで誘い込んでいるようではないか。咲夜は少しでも時間を稼ごうと口を開いた。 「私達と一緒に月人と戦ったのにどうして敵対するの?」 「それは地球を思っているからよ。火星や金星に調査衛星を打ち上げる技術や資金があったらもっと別のことに使ったほうがいいわ」  やはり永琳は外の世界の出来事を知っている。咲夜でさえ知らない、パチュリーはつい最近知ったであろう事柄を話している。 「人間は、地球と太陽と月があれば生きていける。求めすぎてはいけないのよ」  永琳は咲夜を一瞥した。 「宇宙には人知を超えた敵がいる。私達月の民や星人フィオのような敵がまだいるわ。それを守れると言うの?」 「お嬢様とストラウス様がいる限り地球は安泰よ」  この高潔なるヴァンパイアが二人もいれば遠い星から来た異星人であろうと侵略はできはしない。 「それもあと一万年が限界ね。それ以上攻め込まれたら終わりなのよ」  永琳の言い分は分かる。地球が滅びたらどうしようもない。月に住めば良いとも思うが、異星人がそれを認めるとは限らない。 「そのために地球を封印するというの?」 「そうよ。半永久的に地球を守るためには封印するしかないの」 「それは地球を甘やかす揺りかごよ!」 「たとえ私がいなくなっても安全なことには変わりない」 「違う。人は革新をしければいけない。それには宇宙へ進出する必要がある」 「必要ないわね。月人は多少は宇宙に進出したけれど、この何十万年も革新はできなかった。むしろ地球のことばかり見て、自分達の革新なんて考えもしなかった。月人は憎しみだけで生きていたのよ」 「それでも、全ての月人がそうとも限らない」  永琳はふっと微笑んでみせた。少なくとも咲夜にはそう見えた。 「かもしれない。でも、今はもういないかもしれない。これ以上の話は無駄なようね。あなた達に用はない。邪魔さえしなければ生かしておいてあげるわよ。私の守るべき大切な地球の一員なのだから……でも」  永琳は微笑んだ口元を少しだけ上げ、その瞬間、地面が鳴ってその姿が消える。いや、咲夜には消えたかのように見えた。永琳は一息で全ての間合いを詰め、パチュリーに近づいた。 「くっ!?」  永琳はパチュリーの喉元に手を当てて、天への捧げもののようにパチュリーを吊るし上げた。 「あなたは封印された地球を元に戻そうという力がある。その力は厄介だから消えてもらうわ」  このままではパチュリーが殺されてしまう。そう思っても咲夜の体は動かなかった。動けなかった。声すらも出なかった。もうもはや、永琳の成すがままになるしかないのだろうか。   (110)  永琳は左腕でパチュリーを吊るし上げ、右腕に魔力を込めている。パチュリーの展開している魔法障壁を破るために、パチュリーの体を跡形もなく消し去るために最大限の魔力を溜めている。 「別れを言いなさい。あなたを取り巻く全てのモノにね」  永琳の魔力が今まで感じたことがないくらいに膨張する。これで全てが終わりそうなくらいに激しかった。 「パチュリー様!」  咲夜は銀色に鈍く輝くナイフを両手に持って、パチュリーと永琳に突進していった。自分の体などどうでもいい。そのような感じだった。とにかくパチュリーを助けなければいけない。そのときの二人は笑っていた。おかしい、永琳が笑っているのは少なくとも理解できる。自分の理想だった世界がもう一押しで完成させることができるのだから。だが何故、パチュリーまで笑っているのだろうか。 「今よ!!」  その言葉にここにいる全ての人物の動きが一瞬、止まった。咲夜も驚いているが、一番驚いていたのはパチュリーを殺そうとしている永琳だった。パチュリーが言葉を言い終えた瞬間に何かが飛び出してきた。パチュリーの体の後ろから腕が伸びてきて、そのままパチュリーの腹部を貫いて永琳の心臓をとらえていた。 「あ、あなた……どうして太陽光の元にさらされているのに塵と化さないの……」  そこにいたのは誰もが予想できなかったであろう、太陽光にさらされれば塵と化してしまう人物。レミリア・スカーレットだった。レミリアは手についた血をペロリと舐めて勝ち誇ったように口を開いた。 「私はストラウスの血を吸った。その遺伝情報を吸収して太陽光に耐性を持ったのよ」  それではもはや太陽光でレミリアは死なない。そうなれば強大な魔力を誇るレミリアが最強のヴァンパイアになる。フランドールはその能力によって太陽光を防いでいるが、その代償としてその能力を他には使いにくくなっている。それでも小惑星の全てを破壊したのだが。  レミリアはこのことを見越してストラウスの血を吸ったのか。案外、パチュリーの進言で血を吸ったのかもしれない。パチュリーは切り札を増やそうとレミリアに太陽光への耐性とつけた。パチュリーはそのときから永琳が攻めてくると考えていたのか。永琳に対抗するためのカードをさらに昇華させて誰もが予想できない結末を用意したのだ。  永琳は口から血を吐いてパチュリーを解放した。そのパチュリーも怪我が深いようで、立ってはいられない様子で崩れるように倒れこんだ。レミリアは手についた血を気にしていた。 「太陽光に耐性を持つことができたのを見過ごしていたのが私の敗因ね」 「ストラウスがいたのなら、一万年前のヴァンパイアの子孫である私がその遺伝情報を吸収できると想像できなかったのが悪かったわね」  もはや致命傷を負った永琳は生命維持に魔力を回すのがやっとのようで、苦しそうに胸を押さえていた。しかし、口元は笑っている。 「ふ、ふふ……しかし、私達の勝ちよ。私を犠牲にして魔法陣を展開すれば地球と月と太陽は残るの」  もはや捨て身か。永琳は最後の力を振り絞って魔法陣を展開する。そのとき、戦闘区域に一人の人物が現れた。 「永琳、もうやめにしましょう」 (111)  尽きかけつつある命の永琳に言葉をかけたのは、永琳が仕える月の姫の蓬莱山輝夜だった。永琳の近くに寄り、手を握って目をみている。その光景に誰もが視線を向けた。 「ひ、姫……申し訳ございません。計画は失敗しました」 「もういいの。全部、私のためにしてくれたことでしょう」 「私は姫の喜ぶ顔を一日でも長く見ていたかったのです」 「終わりにしましょう。もう、争いは見たくない」 「御心のままに……」 (作者註:様々な資料に目を通して永琳が輝夜に対して砕けた言葉を使っているのは分かっていますが、ここではあえて丁寧な口調にしてみました。この場面でタメ口をきくというのは相応しくないと感じているからです) 「最後のわがままを聞いていただけますか?」 「何かしら?」 「姫の笑顔を見せてください」  自分の一番大切だった人の最後のお願いなので聞かないわけにはいかなそうだが、この状況で笑うことができるのだろうか。一番大切な人を失おうとしているのに。しかし輝夜はそんな思いとは裏腹に、にっこりと笑って見せた。 「あ、ありがとうございます……」  その言葉を最後に、永琳は動かなくなった。ぽつりぽつりと雨が降り出してきた。輝夜は動こうとはしない。 「お嬢様、日傘ですがこれでお許しを」  咲夜はガレキの中から何とか使えそうな傘を探し出してレミリアにその下に入れた。太陽光にも耐性を持ったのだから水に濡れようが傷ついたりはしないと思うが、やはり濡れるのは嫌だろうと思った。 「パチュリー様、酷い怪我じゃないですか」  美鈴がパチュリーの元に駆け寄る。服はパチュリーの血で真っ赤に濡れていて、降った雨が傷に染みていそうだ。 「別に覚悟していたことだから大丈夫よ。でも、さすがに痛むわね」  いつもの通り平然と言ってみせるが、かなり無理をしているようだった。声は心なしか震えており、我慢の兆しがとって見れる。 「すぐに止血を致します」  きょろきょろと応急道具を探すが、そのようなものはなかった。あったとしても、このガレキの中でそんなものが役に立つだろうか。 「しかたないがですね」 美鈴は自分の服の裾を破ってパチュリーの止血を始めた。腹部を貫いている怪我だけあってその出血の量はかなりのものだ。咲夜はパチュリーを美鈴に任せて、輝夜と永琳のほうに視線を移した。 「ありがとう、永琳」  その言葉に永琳はもう反応はしなかった。笑みから一転、大粒の涙を流している輝夜。やはり悲しいのだろう。最後の笑顔は最大級の強がりだったはずだ。しばらくそのままでいたが、やがて泣くのを止めて輝夜は永琳の亡骸を持って戦場を去っていく。その後ろ姿を誰も止めることはせずに、ただただ見つめているだけだった。  聞くところ、パチュリーの予想ではこれ以上の敵はいない。いたとしてもレミリア一人がいればどんな敵が来ようが対応することができる。咲夜は主であるレミリアに雨粒が当たらないように配慮しながらパチュリーのほうを見た。 「さぁ、これで一応の止血ができました。あとは本格的に治療をしなければいけませんね」  美鈴の服は戦い以上にボロボロになっていた。 「ふぅ……さすがに疲れたわ。少し、眠るから……」 「パチュリー様? パチュリー様!?」  パチュリーはゆっくりと目を閉じた。 「眠っています」  パチュリーの寝顔はそれは安らかなものだった。だが死んでいるわけではない。腹はレミリアに貫かれていて服は血塗れだったが、すぅすぅと寝息が聞こえている。人間なら死んでいるかもしれないが、魔女なので生命力は人間よりも強い。この傷でも生き延びられるはずだ。だが放っておくわけにもいかず、治療が必要だ。 「咲夜、パチェを人間の里に運ぶわよ」 「はい」  レミリアがパチュリーに向かって歩き出す。咲夜も傘を動かしながら向かう。 「ありがとう、パチェ。一番の功労者にしばしの休息を」  そう言ってレミリアはパチュリーの頬を撫でた。美鈴は大きく息をはいて鉛色の雲が広がっている大空を見上げた。 「後味、悪いですね」 ・エピローグ (112) エピローグ 永琳が紅魔館を襲撃してから一ヶ月が経った。紅魔館の復旧具合は二割程度で、最低限の生活が出来るくらいに回復していた。一ヶ月で二割というのは遅いような気もするが、あの事件でメイド達の半数はいなくなってしまったので、復旧に人員を割けないのが本音だ。美鈴と咲夜が陣頭指揮を執りながら、日雇いの妖怪やら人間やらで紅魔館の新築を行っているところである。 パチュリーは自分のコレクションでもある魔道書の大半を失ったと言ってぼやいているが、守護結界の張っていた所に小悪魔が避難していて無事だったのが不幸中の幸いだ。腹部の大怪我も永琳の残した薬を塗っていたら、二週間もかからずに完治していた。さすが天才、どんな薬でも作ってみせていた。  そして紅魔館の復旧と同時進行していた、パチュリーが提案していた宇宙へ進出する計画の機体『希望号』の出発日も当日に迫っていた。 「永琳が負けたということは、あなた達が正しかったということね」  この姫は今回の作戦には関与していない。永琳が独断で判断し、独自に動いていた。 「それは分からない。それを決めるのは私達よ」  確かに永琳も地球の未来を憂いていた。その方法が違っただけだ。 「私はあれから考えた。どれだけ永琳に頼り切っていたのかを。それももう終わり、今からは自分の足で歩かなければならない」  月の姫も宇宙へ行く。もっとも、月へ再び戻り穏健派のシンボルとして月を統治する役目に就くのだが。これで月はとりあえずはおとなしくなるだろう。将来には共存共栄もできるかもしれない。 「輝夜さん。荷物の確認をしてください」  美鈴が輝夜を呼ぶ。それに応じて輝夜が歩き出した。咲夜も自分の仕事をしようと持ち場に戻ろうとしている。 「咲夜」  多少なりとも太陽光に慣れたレミリアが外で仕事をしている咲夜に近づいてきた。 「お嬢様。まだ出発には時間があります。今しばらくお待ちを」 「ふふ、まだやることがあるでしょう」 「はぁ」  そう言ってレミリアはまばゆく輝く銀のナイフを取り出した。そこで咲夜ははっと思い出した。あのときの約束を果たさなければならない。 「これをお返ししておきます」  咲夜は紅く光る銀のナイフをレミリアに渡す。これは以前にレミリアの力を込められた咲夜のナイフだ。 「じゃあ私も返すわ」  レミリアは銀のナイフを咲夜に渡す。これも以前にレミリアの力が込められたナイフと交換で咲夜が渡したナイフだ。 「騒動が続いてすっかりこのことを忘れてしまいました」 「私もよ。もうこんなことをしなくても私達はつながっているから、必要ない」 「想いがあれば、時空を越えてつながっていれます」 「あなたが言うと重みが違うわね」  パチュリーがふわふわと浮きながら移動してきて、いつの間にか咲夜とレミリアの側に接近していた。ナイフを交換し終えた二人は少しだけ笑みを見せる。 「咲夜、あなたはこれから自由よ。私はこれからパチェとフランを連れて宇宙へ向かう。果ての見えない宇宙の旅よ、太陽光さえ届かない深い宇宙。人間の咲夜は連れては行けないわ」 「しかし私はメイド長です。この館を仕切り、お嬢様に仕えるのが仕事です」 「それはもうできない。宇宙は咲夜には過酷すぎるもの」 「では、お嬢様が戻ってくるのを待つまでです」 「何百年、何千年先か分からないわよ?」 「なら私の想いを伝える人間をつくるまでです。私の気持ちはお嬢様が帰ってくるまでここにいます」 「ファンタジーね。でも、帰ってくる場所があるのはいいことよ」 「それはホーム。紅魔館は私達の家」 「レミィも不器用だけど、その従者のあなたもまた不器用なのよね。外の世界では存在そのものがファンタジーと言えない自分がいくらそんなことを言っても面白くもなんともないけどね」 「確かにそうですね」 「じゃあ私達は月を経由して系外惑星で居住できそうな場所を探してくるわ。人間には過酷かもしれない環境でも、ヴァンパイアやダムピールには問題ないかもしれない」  ちょっとそこまで買い物に行ってくると同じような口調だった。  しばらくして準備が整うと、四人がロケットに乗り込む。その姿は普段の服装と何ら変わりなく、宇宙に出ようとしているとは思えない。メイド達が必要な物資も一緒に持ち込む。月でも一応補給はしていくが、ここから持っていったほうがいい。レミリア、フランドール、パチュリー、輝夜がロケットに乗り込む。この姿を見るのを見納めかもしれない。 「寂しくなりますね」  美鈴が咲夜の隣に歩み寄って唇を動かす。 「お嬢様の気まぐれよ、いつものこと」  咲夜は動じないように美鈴には視線を向けずに呟くように言った。 「そうですね」 パチュリーとレミリアとフランドールと輝夜を乗せた三人乗りのロケットが紅魔館の庭に用意される。もはや光では縛れないヴァンパイアと光を苦にしない魔女が乗員だ。燃料は魔力と霊力だから、尽きることはまずない。見た目こそ外の世界の技術らしきものを使っているが、中身は最低限の操縦機器しかなく、残りは居住スペースになっている。大変心細いが、入るのが人間ではないので心配はしていない。座席は三人しかないので、誰かが発射時に固定されないことになる。  朝にも関わらずたくさんの人間や妖怪が発射のときを今か今かと待っている。 『スタンバイ完了。いつでも発射できるわ』  パチュリーの声がロケットの中からパチュリーの声が聞こえてくる。 「分かりました。美鈴、カウントダウンよ」 「はい」  美鈴は観衆にロケットが間もなく発射されるのを伝えると、急ごしらえをした管制スペースに向かう。 「では。希望号の発射をしたいと思います。三、二、一、発射!」  美鈴がカウントダウンをして、音もなくロケットが動き出す。少しずつゆっくりと浮いていたが加速度的の速度を上げ、しばらく見つめているとその姿はあっという間に夜の空に消えていった。観衆の中からは拍手やざわめきが聞こえていた。  宇宙には戦わなければいけない敵がいるかもしれない月人や星人フィオがいたのだから、宇宙には他の生命がいたところでおかしくはない。ヴァンパイアは宇宙に駆けていく。果てなく広がる宇宙を飛ぶ。これは一つの物語の終着地点だが、また新たな物語の一ページに過ぎない。 「さぁ、館の修復を急がないとね。いつお嬢様が帰ってきてもいいように」 東方十字界・了 作者HP:http://www7a.biglobe.ne.jp/~sisupuro/