「神隠しについて」 書こうとしてる小説に使おうかと思ってる脳内解釈だけど。 今の幻想郷においては、妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治する(どちらも殺す意味ではない)のがルールとしてある。 その観点からすれば、非想天則のような非日常的日常ストーリーが展開されている現状は願ったり適ったりのはず。 負けても殺されないし、勝っても恨まれない。現状で既に妖怪と人間の関係は安定しているのだ。 それなのに何故、「襲われるしかない」人間を招きよせる神隠しは未だに行われているのだろうか? レミリアに供給する血のための人間や、その他妖怪に供給されると考えられる人間。 だが、それはあくまで死ぬ価値のない人間、たとえば自殺者などだ。 そのような人間を幻想郷に連れてきて食料にしているが、これは神隠しではないような気がする。 何故なら求聞史紀の外来人の項目には、きちんと「生きた状態で」発見されると書いてあるからだ。 自殺者のような人間を幻想郷に招き寄せるのが神隠しではないと仮定して、この後の論を進めることにする。 紫の気まぐれ、とかいたずら、とかそういうのが目的だと考えるのは簡単だが、それはおかしいと言える。 霊夢が結界を薄めただけで飛んでくるほど結界に関してはシビアな考え方の紫が、遊び半分に結界を揺らがせるとは考えにくい。 次に、低級の妖怪のための食料提供とも思えるが、それも奇妙な話である。 上から下まできっちり世話をしていると考えればいい話かもしれないが、阿求曰く「今の幻想郷で妖怪が人間を食うようなことはまずない」のだ。 また、最初に述べたように「ポーズとしての人攫い」「ポーズとしての妖怪退治」で関係が成り立っている以上、どの妖怪も人間を食わずとも生きていくことが可能であると考えられる。(自分的には妖怪の食事は、人間が食べるもの+人間だと考えている。つまり人間は食材の1つで、必須ではない) つまりこの線も薄い。 では、何故か。 ここから一気に脳内解釈となるが、結界維持の一環ではないだろうか。 外界の人間たちは幻想郷の存在を知らないし、まさか妖怪が実在しているなどとは考えもしない。 秘封倶楽部にメンバーが二人しかいないのもそれを如実にあらわしているといえる。(動かしやすいのが二人と言えばそれまでだが) つまり、外界の人間たちにとって、「幻想郷は存在しない」。認識できないものは存在しないと考えるのが普通だからだ。 一方の幻想郷側では、自分たちが隔離されたところにいるのを理解している。「外界を認識している」。 幻想郷の住人からすれば、「外界は存在する」。 この考え方が重要な気がする。 もし過程として、幻想郷の人間たちが、自分たちがいるこの場所が隔離された場所だと認識しなくなり、「外界を認識しない」状態になったらどうなるか? 結界、もしくは境界というものは、異なる二つのものを分け隔てる概念的なものである。 香霖堂で述べられていたとおり、異なる二つのものを分け隔てるのは、物につけられた名前だ。 幻想郷の人間たちが、「外界の人間」と「幻想郷の人間」の境界を認識できなくなったとき、その間に境界はなく、単なる「人間」という認識しかなされない。 そうなれば外界と幻想郷を分ける結界は、その力を大幅に弱められてしまうのではないか。 博麗大結界は、外界の常識=幻想郷の非常識、外界の非常識=幻想郷の常識として区別する論理結界である。 先ほどに人間に関する概念で言えば、「幻想郷の人間、などというものはいない」=「外界の人間、というものはいる」となる。 また「幻想郷など存在しない」=「外界は存在する」ともなる。 これが、「幻想郷など存在しない」=「外界など存在しない」という認識になってしまうと、博麗大結界のシステムそのものにダメージを与えかねない。 論理結界である以上、別のより強い論理によって打ち破られてしまうからだ。 では、これを防ぐにはどうしたらいいか? 外来人を、幻想郷の住人たちと接触させればいいのだ。 そうすれば、幻想郷の住人は異世界のことを認識する。外界の存在を、認識する。 また、外来人が無事に結界の外へ出られたとしても、幻想郷の話をしたとしても、精神が異常であると認識され、幻想郷は認識されない。 よって博麗大結界に矛盾は生じず、結界を安定させられるのだ。 こうして、八雲紫は、結界を維持しているのだろう。 長文でした。 分かりにくい文章で申し訳ない。 ――裏―― 香霖堂で扱ってるものはどうなるのか、って? それを言われちゃおしまいですがな。 ――裏――