孤独な外套が夜に翻る。  暗闇を赤い人影が走っている。  名は、レイセン・ウドンゲイン。  時の森羅カンパニーで科学部門統括助手という地位に居た。居た、というのは間違いではない。たった今、逃げ出してきたからだ。  しかしその顔に喜びや焦燥と言った類の物は見られず、ただ無表情に、任務を遂行しているといわんばかりの冷徹な表情だった。  夜の街へ。  行く当ても何もありはしないのだが、夜の街へ。と、ただそれだけを念頭に苦手な暗闇を駆け抜けていく。  ただ、レイセンのミスは赤い外套であろう。  それは夜道に何かの象徴のごとく翻り、森羅カンパニービルの上層に居るレイセンの上司である科学者、永琳から丸見えであったのだ。  白衣に、特注したとしか思えない中分けの赤、青の二色Yシャツを着て、おおよそ真っ当な人の感情を持っているとは思い難い目で夜道の赤を追っている。 「………ふふっ」  永琳は試そうと思っていた座薬を掌の上で弄び、静かに小瓶に戻した。 「もう一杯」  そういって静かに空のグラスが差し出される。  少女は、カウンター席に在った。7番街中央通りにある上海紅茶天国。店は込む時間帯でもないのか、割合空いていて、少女の言葉にすぐグラスが返ってきた。 「はい、どうぞ」  そう言って、笑顔で氷のみが嫌がらせのように詰められたグラスを渡す店主の名はメイリン・ロックハート。この辺りでは店のことが「中国の…」とか言えば大体通じるため、自然店主も中国のマスターだとか中国さんだとか、そんな呼び方が多くなっている。 「お客さん、いつも氷ばかりですけれど、たまには紅茶も如何ですか? 美味しいですよ」  常連さんですし、一杯ならタダでいいですよ、というメイリンの申し出に少女は一瞥して、 「悪いね。あたい、熱いの駄目なんだ」  一も二もなく突っぱねた。  初対面でこれなら少しばかり気まずくなったかもしれないが、メイリンはその辺り慣れていたし、自分が話しかけた相手がこういう性格だとも知っていたから、軽く肩をすくめて他の客の方へと歩いてゆく。  この異常なまでの氷好きの少女の名は、チルノ・ストライフ。冬に見かけたら張り倒したくなるくらい青い服を着て、そしてそれを象徴するかのごとく、性格もクールである。傍らに、夏の食べ物のような外見の大剣が立てかけられている。  日中居る歌歌いも居らず、チルノは静寂を肴に氷を齧る。  その氷を嚥下するのとほぼ同時、バタン! と勢いよく扉が開かれた。  チルノは、いやチルノだけではなく他の客も、突然の無粋な雑音に露骨に嫌な視線を投げる。  そこには赤い外套を着て、妙にへにょへにょした兎耳を生やし、額に外套と同色のバンダナを巻いた無表情の少女が一人。レイセンである。 「あ、あの、いらっしゃいませ…?」  いつまでも動かなかったので、メイリンが恐る恐る客か確認の意も込めて声をかけると、レイセンは無言で頷き、ひょいと扉の外を確認してからチルノの場所に近いカウンター席に座った。 「えーと、ご注文は?」 「…じゃあ、紅茶を」  レイセンはそう答えるともう十分だろう、とばかりに正面で掌を重ね、じっとそれを見つめている。  困ったのは、メイリンだった。それもそのはず、いくら中国の店呼ばわりされていても正式名称は上海紅茶天国。紅茶を、と言われてじゃあこれ、と出せる程度の品数ではない。 「…ちょいとそこの人」  メイリンがどうしようか困っているのを見かねてか、チルノが口を挟む。  レイセンはそれに対し、無言でチルノを見ることで返事とした。 「紅茶屋で紅茶、なんてぇのは八百屋で野菜を、なんて言ってる様なもんだよ。目の前にメニューがあるんだから、ちゃんと注文しなおしな」 「…貴方は何故飲まないの?」  レイセンはチルノの手元にあるグラスを見て、少々不快さを露に言う。  チルノはそんなレイセンを見て小馬鹿にしたように鼻で笑い、返す。 「メニューの字が読めないからさ」  横で聞いていたメイリンは、ちょっとショックを受けた。  チルノの返しに対してレイセンも同様に鼻で笑い、言う。 「なら、読んであげようか? 私なら文字くらい読めるから」  チルノはどうしようもない、とばかりに肩をすくめて返す。 「どうでもいいわ。そもそも紅茶なんか興味ないわよ」  横で聞いていたメイリンはかなりショックを受けた。  チルノの答えに対してレイセンもどうしようもない、とばかりに小さく首を振って言う。 「…そう。生憎、私もそんなに紅茶好きじゃないの。百歩譲って野菜ジュースね」  メイリンがカウンターの奥に消えた。 「…そこの」  暫く待ってみても店主が一向に何も持ってこないので、暇をもてあましたのか、レイセンは先ほど自分に絡んできた少女に声をかける。 「あによ」  レイセンの目は、チルノの傍らの大剣に向けられていた。 「貴方、腕はたつの?」 「見ての通りさ」  言われて、レイセンはチルノと傍らの大剣を見比べる。正直、よく判らない。だがこの自信ありげな口調から腕は立つのだろうと判断した。 「こんな時間に居るってことは、真っ当な仕事してないわね?」  チルノは遠まわしな言い方に少し眉をひそめる。 「…こんな時間に店に駆け込んでくるなんて、そちらも真っ当な人生送ってないわね?」   レイセンはからかわれた事に気づいていたが、特に表情は変えず、 「…まぁ、そうね」  チルノは案外あっさり相手が引き下がったことに意外そうな表情をし、次いで愉しそうな表情になった。 「なるほど。…で、何でも屋のあたいに、仕事でも?」 「ええ…」  と、レイセンは言葉を続けかけたところで喉が酷く渇いていることに気づく。見回すが、店主は水一つ持ってきやしない。レイセンは仕方なしに近くにあったグラスを手に取り、呷った。 「それはあたいの氷だ」  チルノがさすがに怒りはしなかったものの、苦い顔で言う。対してレイセンは真顔で、 「間違えた」  そう言ってグラスを返した。氷が二つほど減ったグラスをチルノは名残惜しそうに手元に寄せる。 「それで」と言ってからレイセンは一旦息を落ち着け、「仕事はある」  グラスの氷のみに注がれていたチルノの視線が、レイセンに向けられる。 「…ちょっと待った。ここで話しちゃってもいいのかい?」  レイセンは言われて初めて他の客の存在に気づいたようであった。いや、気づいてはいたが今ようやくレイセンが認識するところにまで上がってきた、と言うべきか。  レイセンは無言で立ち上がる。チルノも、それに呼応するように立ち上がり、 「おーい、マスター! 中国さーん! ……? ちゅーぅごーく!」  何度か、何故か姿が見えなくなっている店主を呼ぶ。  少しして慌てて出てくるメイリンを尻目に、チルノは大剣を手に、レイセンを外に押し出しながら言う。 「中国さん、悪いけど、今日も料金はツケといてもらうよ」 「あの、」 「何、この仕事が終われば多分すぐ返せるからさ」 「え、いや、あの、」 「それじゃあ!」  メイリンからすれば、氷しか出していないのに料金も何もあったものではない。別にいいですよ、とメイリンは毎回言おうとしているのだが、いつもこんな感じで言いそびれていた。 「…で?」  出て少しばかり歩き、人影が完全に消え絶えた辺りにまで来ると、チルノは口を開く。  レイセンは途中の自販機で買ってきた水を呷り、重々しく頷いて言う。 「博士…私の上司である人が、ある薬を作り出したの」  チルノは面倒くさそうな話だな、と一瞬顔をしかめるがレイセンにその表情は見えていない。 「その薬は、一言で言えば巨大化の薬。最後に見たときはまだ試験管の中だったけど…」  レイセンは脳裏に座薬の影が浮かび、小さく首を振る。 「巨大化の薬、というと…例えばカエルに使うと?」 「カエルに…? そりゃ、大きくなるわ」 「…カエルが」  そう言うチルノの目の色が僅かに変わったことにレイセンは気づかない。 「そう、博士は薬の製造に拘っていて、今現在第一段階として巨大化の薬を作り出した。後々もっと複合的にしてゆくらしいけれど、とにかく目下の問題はそれよ。博士はおそらく近日中にでも実験をするはず。一体、どの程度の巨大化かも判らないのにそれをさせる訳には行かないわ。だから…」  博士を止めるのを手伝って欲しい、と言い掛けたレイセンをチルノが遮る。 「…何?」  レイセンがチルノに訊ねると、 「要約してちょうだい。仕事を引き受けるのはいいけど、そんな裏事情にまでは興味ないわ」  レイセンは怪訝な顔をしながらもふむ、と考え込み、言った。 「私についてきて」 「わかった」  チルノは何の疑問も持たずに頷き、よく判っていないがどうやら攻略先であるらしい、遠くてもなお天高くそびえる森羅ビルを睨み付ける。  横のレイセンも正直相方に不安があったが、一人で行くよりは怖くないし、いいか。と楽観的に考えて、森羅ビルを見る。  蛍光板に、社の宣伝文句である「暮らしのスキマお埋めします」という文が見る人もそういないというのに延々ループし続けていた。