簡約『赤毛のアン』"Anne of green gables"

作品集: 最新 投稿日時: 2012/04/01 21:53:19 更新日時: 2012/04/01 21:53:19 評価: 0/1 POINT: 45861 Rate: 4588.60

 

分類
赤毛
1."Matthew Cuthbert is Surprised"
マシュウ・カスバート驚く




 マシュウ・カスバートは六十歳になって、以前のようには体が動かなくなっているのを感じていた。農場を切り盛りしていくにあたって新しい手伝い人が必要だと考えていた。彼の農場――グリーン・ゲイブルズ――にマシュウは妹のマリラとずっと二人きりで住んでいて、これまでの人生で一度としてこどもをもったことはなかったし、滞在させたこともなかった。だから、もちろん必要にせまられてのことだが、孤児院から少年を一人むかえて養子にすることにしたのは、彼らにとってなみなみならぬ決意だったのだ。
 年は十歳か、十一歳がいっとう具合がいい。家に住まわせて、学校にも行かせてやれる。ホワイト・サンドのスペンサー夫人が万事都合をつけてくれた。スペンサー夫人に連れられて、少年は今日の午後、ブライト・リバー駅へやってくる予定だった。そんなわけでマシュウ・カスバートは、きちんと礼服を着込んだ、常にない様子で馬車に乗って出かけて行ったのだ。
 マシュウが駅に着いたときには汽車の影もかたちも見えなかった。早く着きすぎたのだろう、と彼は考え、駅舎の横に馬と馬車をきちんとつなぎとめると、ホームへ上がっていった。ひろびろとした長いプラットフォームは閑散としており、彼が上がってきたのと逆側の端に一人の女の子が座っている以外には誰もいなかった。マシュウはたいへんな恥ずかしがり屋で、とくに女性に対しては格別にそうだった。どんなに小さな女の子が相手でも縮こまってしまう。けっして女の子に目をやらないようにしながら、マシュウは足早に女の子の前を通り過ぎた。
 もし、彼がちらっとでもその女の子を見ていたら、彼女の方ではきわめて多大なる熱意をもって彼を観察していたのに気づいたはずだ。女の子は彼女にできるすべての注意深さをかたむけて、何かを、もしくは誰かを、ずっと待ち続けていたのだ。

 駅長室で首尾よく駅長を見つけ、お目当ての人物についてたずねてみたが、駅長がいうことには「汽車はもうとっくに着いたし、行っちまったところだよ」とのことだった。「でも心配しなさんな。ちゃんとあんた宛の荷物は置いてったから――あの女の子だ」
 「わしが頼んだのは女の子じゃないぞ」と、マシュウはあわてて注意した。「男の子が着いてるはずなんだがね」
 「そうかい、じゃあ何か手違いがあったんだろうさ。あの子に聞いてみると良いよ」駅長はほとんど関心のない様子だった。「あの子だって舌を持ってるんだから、自分で話せない道理はないさ」と、独り合点にうなずくと、駅長は歩き去ってしまった。
 ひとり取り残されたマシュウは、彼にとってはライオンの寝床へ飛び込み、素手でで戦うのにひとしい勇気を振り絞るはめになってしまった――女の子に自分から近づいて――それもふつうの女の子じゃなくて、孤児の女の子だ――どうして君は男の子じゃないのか、なんて問いたださなければならないのだ。
 少女の名前はアン。十一歳で、とてもたけの短い、黄色がかった灰色の、ぶかっこうな服を着ていた。古ぼけたセーラーハットの下からは濃い色の赤毛が長く伸びている。顔全体が小さく、痩せており、肌は白く陶器のように薄い印象で、表面にはそばかすがたくさんついていた。そして大きな口に、緑のようにも、灰色のようにも見える瞳。マシュウが近づいてくるのをみとめると、その大きな目は心の中身をうつすようにきらきらと輝きはじめた。
 アンは片手で自分の絨毯地のかばんをひっつかむと、ぴょんと飛び上がり、空いているほうの手でずっと待ち続けていた相手――伸び放題の灰色の髪と髭の――をつかまえた。
 「あなた、グリーンゲイブルズのマシュウ・カスバートさんじゃないかしら」はっきりとしたきれいな発音だった。誰にでも良い印象を与える声にちがいない声。「お会いできてたいへんにうれしいわ。もし来られなかったらと、心配していたところでした。そうなったらどうするかってずいぶん前から想像をはじめていたのよ。ね、あそこに桜の木が立っているでしょう。今夜はあの木に登って、木の上で枝をまくらにして夜を明かすしかないって思っていたわ。ああ、あたし木登りは得意だから、その点については心配がないんです」
 マシュウは突然の出来事におののきながら、自分の手の中にある、初めて会った女の子の手をみつめた。そして、この子をどうするか自分が決めにゃならんのだ、と今さらのように気づいた。これは手違いで、ほんとうは男の子がほしかったんだ、なんてこの子に伝えることは、自分にはどうしてもできそうになかった。ひとまずは家に連れ帰ってその役目はマリラにやらせたらいい。
 「遅れてすまなかったね」もごもごと彼はつぶやくと、「おいで、かばんを持ってあげよう」と空いているほうの手を差し伸べた。
 「あら、自分で持てるわ」弾むような声でにアンはこたえた。「このかばんには、わたしのこの世での財産すべてが入ってるの。でもちっとも重くないのよ」
 「来ていただけたとき、ほんとうにうれしかったの」と、アンはつづけた。「あなたと一緒に住んで、家族になるなんて、きっとすばらしいと思うわ。あたしは今まで誰ともそうなったことがないんですもの。ほんとうの家族って意味ではね」
 マシュウはちらりと女の子をみると、すぐに目をそらした。そうしてかばんと女の子を馬車に乗せてやった。

「孤児院って最悪なところなんです。わたしは四ヶ月しかいなかったけど、もうじゅうぶんわかったわ。これは経験のあるものしかわからないと思う――もしカスバートさんがみなし子で、孤児院にいたことがあるなら別だけど、そうでないなら決して想像もできないわ。そりゃ誰でも、自分にとってどうにも居心地の悪い場所がひとつやふたつはあると思うけど、でも孤児院はその何倍も、何倍も嫌なところなの。
 スペンサーの小母さんは、そんなふうに言うのは不道徳よ、って注意するんだけど、あたしはそうは思わないわ。だってどう考えたって、なんにも知らないことのほうが良くないに決まってるじゃない。そうでしょ?」
 ここまで一気にしゃべると、アンはふと、真面目そうな顔つきになって黙り込んでしまった。マシュウのほうではこれまでずっと女の子と話す習慣がなかったものだから、自分から話しかけるようなことができるわけもなく、口をつぐんだままでいるしかなかった。そのまま彼らの馬車は進み、村の中心を通り過ぎた。
 しばらくすると馬車は小さな丘にさしかかった。丘のてっぺんから下る道は急な坂で、赤い色の土の道の両側に、満開の桜の木がきれいに並んで咲いていた。アンは思わず、馬車の上から手を差し伸べて桜の枝を一本折り取った。
「ああなんて美しいんでしょう。真っ白で、レース編みみたいに見えるわ。カスバートさん、あなたこの木々を見て、何かを想像しない?」と、アンはひさしぶりに口を開いた。うっとりしたような、熱に浮かされたような口調だった。
「うん、うん、そうさのう、わしは何も思い出さないが」
「花嫁衣裳よ、決まってるわ。なにもかも真っ白で、かすみのようなヴェールをつけた、きれいな花嫁さんの姿が思い浮かぶわ――ああけれどあたし、自分の花嫁姿は想像できないんです。あたしはとってもぶきりょうだし、それにこんな赤い髪の毛の子を、誰もお嫁になんかもらってくれないってわかってるんです。けど想像の上では、ああいう白いドレスを着る夢は捨てられないの――すてきな着物のことを考えると、心がぞくぞくっとするわ。ああカスバートさん、あんなに桜が咲いてる! この島はほんと、花でいっぱいの島なのね。ずっと憧れてたんです。プリンス・エドワード島で暮らせるなんて、ほんとうに夢みたい。あたしプリンス・エドワード島は世界で一番すてきなところだって聞いてたの。だからずっとここに住むことを想像していたのよ。でも、ほんとうになるなんて思わなかった。夢見ていたことが現実にかなうときって最高に幸せな瞬間でしょう。あたしにとって今がまさにそうなんです。ああカスバートさん、あたししゃべりすぎでしょうか?」
 自分でもびっくりしたことに、マシュウはだんだん楽しくなってきたのだった。無口な人々の常として、彼は自分の代わりにおしゃべりをしてくれる人間が大好きだったのだ。
「好きなだけしゃべるといいよ。わしは聞いていて楽しいんだから」
「ああよかった。あたしたちとっても仲良しになれそうですね。おしゃべりって気晴らしになるし、必要なことだと思うんです。今までにみんなから百万べんも、口を閉じて静かにしていなさい、って言われたわ。それにみんなはあたしが大げさな言葉を使いすぎると言って笑うの。でも、とってもとってもすごい、すばらしいことを思いついたら、それにひったりくるようなすばらしい言葉が必要よ。そう思うでしょう?」
「そうさな、それはまったく道理だな」と、マシュウはこたえた。うれしそうに笑うと、アンはつづけた。
「あたしプリンス・エドワード島に住むことをずっと夢見ていたの。いつもそうなれば文句なしだってつねづね考えてはいるけど、夢が現実にかなうことって、そうそうあるもんじゃないでしょう。なので今のあたしはほとんど完璧にしあわせな気持ちなんです。
 ほとんどっていうのはつまりこの赤毛のせいで、ここが違ったふうだったら完璧と言えるんだけど。よく念じるんです。"この真っ赤な髪の毛よ、なくなってしまえ、代わりに黒い、黒い、真っ黒な、カラスの羽根みたいに豪奢な黒髪に生え変わってしまえ"。自分自身にに向かって、ぎゅっと目をつむって心の底から念じるんだけど、でも目を開けて鏡を見るといつものとおりのへんな赤毛のままなんです。そのたびに心がナイフで刺されたみたいに傷つくの。これはあたしの一生を支配する、深い深い悲しみのひとつよ」
 と、洪水のように流れる言葉がやっと一息ついたところで、ちょうど馬車はグリーン・ゲイブルスへ入る小道に乗り入れていった。
 すでに日が落ちており、マシュウの農場は刻々と暗さを増していった。けれどアンの目には、木々に囲まれた大きな家がはっきりとうつっていた。感極まったようにこどもは話しだした。「ああこんなにも想像力を刺激する場所ははじめてよ。ひとめ見た瞬間、ここがあたしの家になるんだと感じたの。ああ夢を見てるみたい。夢に違いないと心のどこかで疑っているけど、でもカスバートさん、これは現実の出来事で、あたしたち少しずつあの家に近づいているのね」
「そうさな……」アンはマシュウのほうを向いて、きらきらした目でじっと彼を見つめていた。彼女にたいしてマシュウはうなずいてやることはできなかった。ぼそぼそと口の中で何かをつぶやくと、目をそらし、グリーン・ゲイブルズの母屋を見やって言った。「家にお入り。マリラが待っていて、あんたの疑問をぜんぶ晴らしてくれるよ」
 「はい、カスバートさん。でも、ちょっと待って、耳をすませてごらんなさい。まるで木々たちが眠りながらおしゃべりしてるみたいよ」マシュウが彼女を馬車から地面に降ろしてくれたとき、まわりの木々の木の葉が風で擦れあい、さらさらと鳴っているのを聞いて、アンはささやいた。「すてきな夢を見ているのにちがいないわ」そして彼女の"この世の財産のすべて"である絨毯地のかばんをしっかりとかかえると、マシュウにつづいて家に足を踏み入れた。





2.Marilla is Surprised
マリラ・カスバート驚く




 ドアを開けるとマリラはすぐ家の奥から出てきた。マシュウの後ろにアンがいるのをみとめると、不思議な顔をして立ち止まった。
「マシュウ・カスバート。この子誰?」と、驚いたようにたずねた。「男の子はどこ?」
「ええと、そのう、男の子はいないんだ」と、マシュウ。「この子だけだよ」
「だって、男の子がどうしても要るんじゃないか。あたしたち、男の子を連れてきてくれって、スペンサーの奥さんに伝えただろう」
 兄妹が話すのを、アンは黙ったまま突っ立って静かに聞いていた。が、何について話しているのか飲みこめると、
「わたし、いらないんだわ!」と叫びだした。
「男の子じゃなくて、女の子だから。やっぱりわたしなんて誰もほしがってくれないんだわ。ああ、もう、どうしたらいいの?」
 アンは火がついたように泣き出し、涙でぐしょ濡れになった顔を両手で覆った。
 マリラとマシュウは顔を見合わせた。二人とも、泣いているこどもを前にして、どうしていいかさっぱりわからなかったのだ。やっとのことでマリラがおずおずと切り出した。「あのね、あんた、そんなに泣かなくたっていいじゃないか」
「そうね、そのとおりかもね」と、涙を拭きもしないでアンは顔を上げ、マリラを見上げた。「でもあなただって泣きたい気持ちになると思うわ。この世で一番大好きな、ずっと憧れていた場所にやってきて、ここが自分の家になるんだって思ったの。夢みたいだったわ。でもほんとうはそこの家の人たちはあたしを受け入れてくれる気なんかひとつもなくって、男の子じゃないからいらないなんて言うのよ。あたしのこれまでの人生でもっとも最悪な、悲劇的な出来事よ!」
 この口上を聞くと、マリラはついつい口のはしに笑いのかけらを浮かべてしまった。「ふむ、よくわかった。でも泣くのはおよし。どちらにしろ、今夜のところはここにいてもらうよりしようがないんだからね。あんた名前はなんていうんだい?」
「アン・シャーリー」アンはこたえると、すぐ付け加えて「つづりは、最後に"e"がつくの」
「よしよしアンだね。"e"のついたアン」マリラは繰り返した。「さて、なんでこんな間違いが起きたのかわかるかい? あたしたちは男の子を迎えるつもりだったんだけど、孤児院には男の子はひとりもいないのかね?」
「いいえ。たくさん、うじゃうじゃいますわ。でもスペンサー夫人は、11歳くらいの女の子が募集されているとはっきり言っていました。それで孤児院の先生があたしを選んだんです。ゆうべは興奮して、うれしくって、眠れないくらいだったの。なのに」
 アンはマシュウに向き直ると、じっと見つめて問い詰めた。
「どうしてブライトリバー駅で教えてくれなかったの? どうしてあたしをここへ連れてきたの? こんなすてきなところを見せつけてから、ほんとうは間違いだからあきらめろだなんて、とても残酷なことよ」
 マシュウは気の毒そうな、悲しそうな目で女の子を見つめた。この上なく罪の意識を感じたようだった。
「わしは馬を小屋に入れてくるよ」早口でマリラに告げた。「戻ってくるまでには、お茶の用意をしていてくれるだろうね?」
「スペンサー夫人が連れてきたのはあんただけかい? 誰か一緒じゃなかったかね?」マシュウが出て行くと、マリラはそう言って話をつづけた。
「リリー・ジョーンズもいっしょでした。自分のところの養子にするのよ。リリーはまだたったの5歳だけどものすごくきれいな子なの。ほっぺたは薔薇色で、髪の毛は栗色よ。もしわたしがとてもきりょうよしで、栗色の髪の毛だったら、ここにおいてくれました?」
「いや、あたしたちは農場の手助けのために男の子を注文したんだからね。髪の色がどうであれ、女の子じゃ役に立たないさ。さてあんた、そろそろ帽子をとったらどうだい。話は夕食の後にしようじゃないか」
 用意された三人分の夕食に、彼らは手をつけはじめた。けれどアンは悲しみのあまり、出された食事をちょっとも飲み込むことができなかった。
 「この子はきっと疲れてるんだ」と、暗い雰囲気の夕食の末、マシュウが言った。「部屋に連れて行って寝かせてやるといい」
 アンはマリラの後ろについて、階段を上がり、家の東側にある小さな切妻の部屋に入った。

 部屋の隅の小さな台にろうそくを備え付けると、マリラは女の子に向かって言うべきことを伝えはじめた。「着物を脱いでさっさと眠っちまうんだね。ろうそくはあたしが消しにまた戻ってくるから、そのままにしとくこと。あんたに始末を頼んで家が燃えちまったら大変だ。このごたごたには明日けりをつけるとしよう。それじゃ、おやすみ、良い夜を」
「良い夜を? よく言えたものだわ。間違いなく、今まで経験した中で最悪の夜なのよ」と言って、アンは唇を突き出した。
 マリラが行ってしまってから、アンはベッドから顔を出し、小さな部屋をぐるりと見渡してみた。壁や床がむき出して寒々しく、興味をひくようなものはひとつもなかった。夜の暗さが部屋と、体の中に侵入してくるようだった。アンは頭の上まで夜具をひっかぶってぎごちなく横になり、じっとしていることにした。すると家のあちこちから何かの音が聞こえてくるように思った。ドアは閉まっていたけれど、マリラの怒ったような声が階下から聞こえてきたように思った。
「困ったことになったもんだね。どうしてこう、うまくいかないんだろう。他人に頼んだのが間違いだったんだ。やっぱり重大なことは、自分たちで事を運ばなければね」
 つづいて、男の人の声が何かを言ったように思ったけれど、すぐにマリラの声にさえぎられた。
「あの子をここに置いてやる、ですって? マシュウ・カスバート。まったく冗談じゃない。あの子が何の役に立つっていうんです? あたしたちに何をしてくれる?」
「わしらのほうであの子の役に立つかもしれんよ」
 マシュウはそう言ってから、自分の言葉に驚いた様子だった。
 けれどアンは東側の切妻の部屋で、泣きつかれて眠ってしまっていたから、その言葉を聞くことはなかった。





3.Marilla Makes Up Her Mind
マリラの決心




 次の朝目覚めると、窓の外で桜の花が満開に咲いているのがアンの目に飛び込んできた。アンははね起き、ベッドから飛び降りると、窓を全開にして6月の朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。よろこびに満ちあふれた瞳がきらきらと輝いた。
 ああ、なんてすてきなところなんだろう? ほんとうはここにはもういられないんだけど、とアンは考えた。まあかりにいられるとして想像してみよう。想像のしがいのあるところだし。アンはこれまでひどく殺風景な景色ばかりをみてきた子どもだった。けれどグリーン・ゲイブルズの窓から見える農場の木や野原はたいへんに美しく、心をふるわせるものだった。アンがいままで想像の中で夢見てきた景色と、そっくり同じだった。

 さて、昨日の夜話したように、今日はスペンサー夫人に会って、間違いを問いたださなければならない、とマリラはアンとマシュウに告げた。そしてアンを連れて馬車で出かけた。グリーン・ゲイブルズ門の下をくぐるとき、アンは心を決めた。
「あたしこのドライブをせいぜいいっしょうけんめい楽しむことにするわ」と宣言したのだった。
「なんでもそうだけど、楽しもうとかたく決心すればきっと楽しくなれるのよ。いままでずっとそうだったもの。つまり、この馬車に乗っているあいだは、孤児院に戻ることなんか考えないでおこうと思うの。
 ああ小母さん、野生の薔薇が咲いてるわ。見ました? 最高にきれいだったわ。薔薇がおしゃべりできたらきっとすてきでしょうね。それにピンクって世界で一番魅力的な色だとあたしは思うんです。でもあたしの髪はこんな赤毛だから、ピンク色の洋服を着れないの。赤い髪にピンクの服なんて、想像しただけでなんともまずい気持ちになるわ。ねえ小母さん、こどものころ赤毛だった女の子が、大人になったら色が変わって別の色になることってあるでしょうか?」
「そんな話聞いたことないね」と、マリラ。「それに、よしんばあるにしたってあんたの身には起こりそうにないね」
「ああまた希望がひとつ、消えてしまった」アンはため息をついた。「あたしの人生ってほーんと"うずもれた希望の墓場"よね。これ、いつか本で読んだ文句なんです。何かにがっかりするたびに、こう言って自分を慰めているの」
「そんなのが慰めになるとはとても思えないけど」
「だって響きがきれいだし、幻想的な印象のある言葉だわ。アヴォンリーって村の名前もそうだけど、アヴォンリー、アヴォンリー、アヴォンリー。まるで音楽みたいな名前だと思います。ええとスペンサー夫人のお宅まで、あとどれくらいですか?」
「5マイルくらいかね。しかしあんたよほどしゃべりたいみたいだから、身の上話でもはじめたらどうかね。自分のことを、はじめからなんでもかんでもあたしに教えてくれるといい。どこで生まれて、いまいくつなの?」
「この前の3月で11歳になったの」と、アンはこたえはじめた。
「生まれはノヴァ・スコシア州のボリングブロークです。両親はどっちも高校の教師だったの。二人とも若くて、あまりお金を持っていなかったそうです。あたしが三歳のとき母さんが熱病で死んじゃって、父さんもあとを追うようにして、その四日後に同じ熱病で死んでしまいました。
 孤児になったあたしをトーマス夫人がひきとってくれました。彼女はあたしのことを、いままで見たなかで一番醜い赤ん坊だ、って言ってたそうです。8歳のときまでわたしはそこにいて、4人のこどもの面倒をみていたわ。でも、トーマスの旦那さんが死んじゃって、夫人がこどもをつれて実家にもどることになると、わたしはついていかれなかった。
 その次にはハモンド夫人のところで、8人のこどものお世話をしました。おそろしいことに、ハモンド夫人は三回も双子を生んだのです。二年間そこにいました。つまり、一家がアメリカに引っ越しちゃうまでのあいだね。
 それから引き取り手のあらわれなかったあたしは、孤児院に行くしかしようがなかった。孤児院でだって、今は満員だからといってあたしを受け入れたくなかったみたいだけど、でも彼らには義務がありますからね。それでわたしはスペンサー夫人がやってくるまでの四ヶ月間、そこにいたってわけです。おしまい」
 アンは大きなため息とともに、身の上話を終わらせた。想像の世界とは違って、この現実世界では誰も彼女をほしがってなどくれない。だから身の上話なんてするのは、たまらなくいやなものだった。
「学校には行っていたの?」と、マリラは質問した。
「いいえ。いつも、学校に行くには遠すぎるところだったし。ああ孤児院のときはのぞいてね。あたし本を読むのがとても得意なんです。いままで読んだすてきな詩をいくつも胸にしまっていて、暗唱できるのよ」
「あんたを引き取ったそのご夫人がただけどね、トーマス夫人とハモンド夫人。彼女たちは、あんたによくしてくれたかい?」
「ああ」アンの顔色がさっと赤くなった。「そうね、二人ともそう思っていたのにちがいはないのよ。よくしてくれようって二人が思っていたのを、あたし知ってるわ。でもみんなそれぞれ心配事をかかえているものですからね。だから、よくしてくれようと思っていたことは実際にそうしたのと同じようなことなのよ」
 マリラはそれ以上聞こうとはしなかった。目を馬車の前に向けると、唇をひきしめ、真面目な表情になった。心のうちに、このかわいそうなこどもに対する、あわれみの気持ちが育ちつつあったのだ。この子をうちにおいてやることはできるだろうか? 思っても見なかったことに、マリラは検討を始めていた。
「この子はすこしおしゃべりがすぎる」と、マリラは考えた。「それについてはしつけが必要だろう。けれど下品で荒っぽい言葉はつかわないし、ものごしがしとやかだ。その点については周りの人々も立派だったんだろうね」
 その後はスペンサー夫人の黄色い大きな家に着くまで、二人は黙ったままだった。夫人の家はホワイト・サンドの海沿いにあった。ドアをあけてマリラがすがたを見せると、夫人の人のよさそうな顔に驚きと歓迎の表情がいっしょに浮かんだ。

「あら、ようこそマリラ。今日いらっしゃるなんて思ってもみなかったけど。こんにちはアン、うまくやってるかしら?」
「あまり長居はしませんよ。スペンサーさん、どうも間違いが起きているようだから、どこでどうかけちがったのかたしかめに来たんですよ。あたしたち、マシュウとあたしは、孤児院から男の子を連れてきてほしいってたのんだはずなんだけど」
「まあ、何を言うのよ!」スペンサー夫人は驚き、それから申し訳なさそうに付け加えた。「わたしはあなたたちが女の子をほしがってるって聞いたんですよ。ひどい間違いだったのね。ごめんなさい、けどわたしも、あなたたちのご希望に沿うようにとできるだけ運動したんですからね。さあお入りになって。この問題についてはよくよく話し合わなければ」
 お客を居間に招き入れると、スペンサー夫人は「さて、しゅびよくものごとを正したいところね。マリラ、ええと、ミス・カスバート。あなたはそこのひじかけ椅子に座ってちょうだい。アン、あなたはあそこの長椅子がいいわ」とそれぞれの席を割り振った。腰を下ろすやいなや、
「ねえこれはあたしたちの失敗だったね」と、マリラが口を開いた。「口伝えなんかにしないで、ちゃんと自分たちであんたのところに話を持ってくるべきだったんですよ。とくにこんな大切な用件のときはなおさらそうです。けどもう間違いは起きてしまったんだから、何かうまい方策を考えなければね。この子をもとの養護施設に帰すことはできますかね?」
「そうね、できると思うわ」と、スペンサー夫人は考え考え話しだした。「けど、そうする必要はないと思うの。昨日ブレウェット夫人が、家の手伝いをする女の子をよこしてくれないかってわたしにたのんできたんですよ。彼女の家はたいへんな大家族ですからね。アンはぴったりだと思うわ」
 マリラはアンを見やった。彼女の顔は悲しみに曇り、馬車の上で薔薇について話していた時のような輝きのいっさいが消えてしまったようだった。マリラは自分の心臓がやわらかくなったように感じた。それから自分の見ている女の子によって、どくんと動かされたように感じた――アンはまるで、一度逃れたと思った罠に再度かかってしまった、小さな動物のようだった。彼女が助けを求めていることをマリラは理解した。そしてマリラは、ブレウェット夫人をけして好いてはいなかった。
「納得いきませんね」マリラはゆっくりとそう言った。「あたしはこの子を手元におかないことにした、なんて、一言も言ってないですよ。じっさい、マシュウはこの子といっしょに暮らしたがってるんです。スペンサーさん、ここに来たのはね、間違いがどこで起きたのか、はっきりさせたかっただけなんですよ。さてそろそろおいとまして、兄さんと相談したほうがいいようだ。もちろんこの子は連れて帰りますよ。今日のところはね」
 この言葉を聞くとアンは立ち上がり、部屋のまんなかを横切ってマリラに飛びついた。「ああカスバートさん、ほんとうにそう言ったの? わたしをグリーンゲイブルズにおいてくれるかもしれないって、ほんとうにそう言ったの?」息もつけない様子で、ささやくような小さな声でアンはつづけた。「ほんとうに? あたしの想像のなかの出来事じゃないのよね?」
「その想像とやらをどうにか始末したほうがいいね」すこし怒ったような口調でマリラは言った。
「あんたはあたしの言ったことをちゃんと聞いたんだから、二度とは言いませんよ。それにまだ決めちまったわけじゃないんだ」
「あたし精一杯がんばります。あなたの言葉のとおりになれるよう、あなたの言うことはなんでも聞くし、してほしいことはなんでもするわ」
 二人がグリーン・ゲイブルズに戻ったのは、その日の夕方になってからだった。
 気が気でならなかったマシュウは、家の中では待っておれず、農場から母屋へ続く小道の途中で待っていた。マリラがアンを連れて帰ってきたのを見て、とてもほっとしたようだった。「わかりやすいこと」とマリラは思った。けれどアンがそばにいるうちは、マリラはなかなか口を開こうとせず、今日のことをすっかりマシュウに話したのは兄妹二人きりになってからだった。農場の納屋の影に隠れるようにして、マリラは少しずつアンの身の上や、ブレウェット夫人が女の子をほしがっていたことなどを話しだした。
「たとえ犬一匹だって、あんな女に、わしの可愛がっているものはくれてやるもんか」と、マシュウは常にない様子で怒ったように口にした。
「あたしもそう思います」と、マリラ。
「それに兄さんがあの子と暮らしたがってるのはわかっていたからね。ねえ、マシュウ・カスバート。あたしに限って言えばですけどね。アンをここにおいてやってもいいと思ってるんですよ」
 マシュウの顔がよろこびに輝いた。「お前がそう思ってくれればいいって思ってたよ。あの子といっしょにいるととても楽しいだろう。わしらにとってめったにない喜びだ」
「ええ楽しいのはけっこうですけどね。あたしはちゃんとしつけをするつもりですからね。こまごましたことを何でもこなせるよう、役に立つよう仕込んでやります。兄さんはあまり口を出してくれますまいね。もしあたしがしつけに失敗したらそのときになって出てくればいいんであって、それまでは出番はありませんよ」
「そうするといいよ。お前の思うとおりにするといいよ。だけどまあ甘やかさない程度にやさしくしてやっておくれ。わしがみるところ、あの子はお前になつきさえすれば、ちゃんと言うことを聞く性質の子だと思うね」

 次の日の朝、自分だけがよく知っている理由により、マリラはアンに何も伝えず、次々と用事を言いつけてこきつかった。アンが手伝いをどのようにこなすか観察していた。それでお昼になるころにはいちおうの評価がさだまった。アンは物事を手早く、上手にすませることができるし、仕事に喜びを見出し、自分からやることを探すこともできた。けれどときどき夢を見ているような顔つきになって、大事な仕事の途中でも手を休めてしまうことがあった。そんなときはたいてい想像の世界に落ち込んでしまっていて、やるべきことをすっかり忘れてしまうのだった。
 もちろんアンのほうは自分の身の上における最重要の問題を忘れてしまったわけではなかった。午後になると、もう矢も盾もたまらず、「ああ、カスバートさん、お願いよ」とマリラにすがりついた。すっかり恐怖におののいている様子だった。
「やっぱりわたし、孤児院に送り返されちゃうんでしょうか。もしくは、昨日のあの錐のようなご婦人のところに行かされちゃうの? あなたから言い出してくれるまで我慢しようとがんばったけど、もうだめです。これ以上、こんな気持ちに耐えられません」
「アン、あんたはまだ皿ふきを洗い終わってないだろう。お湯で洗うよう、あたしは言いつけたつもりだけどね」と、つとめて冷たい物言いで、マリラは言った。「ものをたずねる前に自分の仕事を終わらせなさい」
 アンはマリラにくるりと背を向けると、言われたとおりに皿ふきを洗い、また戻ってきた。
「できるだけ行儀よく、あなたの言いつけをきかなきゃって思ってたけど」マリラをじっと見つめる目にはうたがいの気持ちがこもっていた。さて、これ以上ひきのばすのもそろそろ無理みたいだね、とマリラは思った。
「あたしたちはあんたをここにおくことに決めたよ。もしあんたがいい子でいて、このことを感謝してくれるならね。
 ちょっと、どうしたんだい」
「わたし、泣いてるの」アンは泣いていた。
「でも、どうして涙が出るのかわからないの。こんなにうれしいのに、こんなにしあわせなのに」
「まあ、おすわり。おちつくといいよ」と、マリラは自分でも椅子に腰掛けながら、アンをなだめた。
「あんたは泣くのも笑うのもかんたんすぎて、あたしはちょっと心配だよ。あんたはここに住んで、秋になったら学校に行くんですよ」
「ねえマリラ伯母さんって呼んでいい?」と、アンはたずねた。
「だめ。みんなと同じく、ただの"マリラ"と呼びなさい」
「でも、ほんとうの叔母さんみたいに思うんだもの」
「あたしは思わない」と、マリラ。
「ほんとうにははそうじゃないことでも、そうだったらいいな、って想像することあるでしょう?」
「ないね」
「もう!」アンは長いため息をついた。「もう、ミス・カスバート、じゃなかった、マリラ。想像することがひとつもないなんて、そんなのひどくつまらないわ」
「あたしは想像上の出来事なんて信じませんからね」と、マリラ。「そしてアン、あたしが何か物事をいいつけたら、あんたは聞き分けよく、いちどでそのとおりにしなけりゃいけないんだ。おわかり?」





4.Anne's Bringing Up Is Begun
グリーン・ゲイブルズのアン




 それから二週間が経った。マリラはアンを自分の部屋に呼び出すと、
「さあ、どうだい」と言ってベッドの上を指し示した。真新しい三着のドレスがひろげられていた。ひとつは地味な茶色で、ひとつは黒白の格子模様、ひとつはへんてこな青色だった。
「ええっと、あたしはこれを気に入ったつもりになるわ」アンは無表情にこたえた。
「気に入ったつもりになってくれ、なんてなんてたのんじゃないね」マリラは不機嫌になった。「まあ何が気に入らないのかね。清潔で、丈夫で、新しくて。立派な着物じゃないか。」
「そうね、それはもちろんそうよ。でも――その――きれいじゃないわ」と、アンはゆっくり伝えた。
「きれいじゃない、ときたもんだ」と、マリラ。「着物はこれでいいんです。無駄なひらひら飾りなんかはついてないけどね、あたしが手ずから縫ったんだ。この夏のあんたの着物はこれだけだよ。この格子模様のやつは、教会用。茶色のと、青色のやつは学校に行くときに着ていきなさい。あたしは感謝されてしかるべきと思ってたんだけどね」
「ああ感謝してないなんて思わないでね。もちろんありがたいと思ってますのよ。でもたとえばこのうちの一着でも、白くて袖が膨らんでるのがあったらもっと最高だったのよ。今どきの女の子たちはみんなそういうのを着てるの」
「そんなものに使う無駄な布地はないよ。さあ着物をクローゼットにかけてしまいなさい。良い女の子は着物を出しっぱなしにはしないものですよ」
「マリラ」着物をしまってしまうと、アンはすこし声色を変えて、マリラに問いかけた。「あたしアヴォンリーで腹心の友をみつけることができるかしら? どう思います?」
「はあ。腹心の友ってどんなのだい?」
「あのね、まるで双子みたいに仲が良くて――お互いに区別がつかないくらい、とても近い魂を持った友達のことよ。何度かお話したから知ってるでしょう。あたしはずっとそんな女の子に会うのを夢見てきたの」
「向こうのオーチャード・スロープにあんたと同い年のダイアナ・バリーがいるよ。遊び相手としてはちょうどいいんじゃないかね」
「ダイアナってどんな子? きりょうよしかしら? まさか赤毛じゃないわよね?」
「ああ可愛い子だね。黒い瞳に髪の毛も黒、ほっぺたは薔薇色さ。それに良い子だし、機転も利いて、利口な子なんだ。見た目なんかより利口である方がよっぽど重要ですよ」
「ダイアナはあたしの腹心の友になってくれるかしら?」
「おとなしく、礼儀正しくするように心がけていれば、嫌われることはないだろうさ。うるさくって行儀の悪い子とはダイアナの母親が遊ばせてくれないだろうからね」
 その夜ベッドの中で、アンは自分自身の心の中に向けて話しつづけた。「もしダイアナが腹心の友になってくれたら、どんなにすばらしいだろう。あたしは彼女を深く深く忠実に愛するだろう」





5 "Best Friend Forever"
おごそかな誓い




 次の日、アンとマリラは川をわたって丘をのぼり、オーチャード・スロープに向かった。アンは恐怖にふるえていた。
「ああもし、ダイアナがあたしを好いてくれなかったらと思うと、こわくてたまらないわ! あたしの人生における最大級の絶望の悲劇になるわ!」
「ダイアナはきっとあんたを好きになるよ。でもそれにはまず、彼女の母親に気に入られないといけないね。お行儀よくするんですよ。それからあんたお得意の長演説はやめにすること」と、マリラが忠告した。
 バリー夫人がドアを開けた。黒い髪に黒い瞳、きりっとした口元の、意志の強そうな女性だった。「ごきげんよう、マリラ。こちらがアンね。ごきげんいかがかしら?」
「はい、心はかなりかきみだされておりますが、体の調子はまったく問題ありませんわ。お気遣いありがとうございます、奥様」すっかり真面目な口調でアンは挨拶した。さらになにか言い募ろうとしたが、マリラがこちらを見ているのに気づくとすばやく口を閉じた。
 二人を迎えたとき、ダイアナは居間で本を読んでいるところだった。ダイアナはたいへんに可愛い少女で、母親からは黒い髪と瞳を、父親からは見るものをしあわせにする、すてきな微笑を受け継いでいた。
「ダイアナ、アンといっしょに外で遊んできなさい。あなたの花壇をみせてあげるといいわ。ねえマリラ、あの子は本を読んでばかりなんですよ」バリー夫人はマリラに向かって補足した。「おもてで遊んでくれる友達ができて、わたしはほんと、よろこんでいるんです」
 ダイアナの花壇の真ん中で、二人の少女はお互いに意識しあい、はずかしがりながら、花に囲まれて立っていた。「あのう、ダイアナ」アンがおずおずと切り出した。「あたし、あんたの腹心の友になるのにふさわしいかしら?」
 ダイアナはくすくす笑った。彼女はいつも、話し出す前にくすくすわらう癖があるのだ。「腹心の友? そうね、そう思うわ。あんたがグリーン・ゲイブルズにやってきてくれてあたしとてもうれしいの。今までいっしょに遊んでくれるような女の子が近くにいなかったんだもの」
「これからずっと永遠に友達でいてくれるって、そう誓う(swear)かしら?」と、アンは念を押した。
 ダイアナは驚いた顔をした。「ののしる(swear)ですって? そんなのいけないわ」
「ち、違うわよ。そっちの意味じゃないの。あたしはそのう、約束するって意味で言ったの。あんたと約束したいのよ」
「そう、それならいいわ」ダイアナはほっとした様子で、アンの提案を受け入れた。「でもそれ、どうやるの?」
「ええとまず、手をつながなくちゃならないの。こうしてね。あたしから宣誓するわね。あたしはおごそかに誓いを立てます。太陽と月が輝いているかぎり、ダイアナ・バリー、あたしはあなたの誠実な友人となるでしょう。さ、あんたも言ってみて。もちろん自分の名前のところを、あたしの名前にかえるのよ」
 ダイアナはおかしそうに笑いながら、誓いの言葉を繰り返した。
「あんたっておかしな子ね。あたしはあんたをすっごく好きになれると思う。ほんとうよ」
「明日もいっしょに遊ぶ約束をしたの」グリーン・ゲイブルズへの帰り道で、アンはマリラに向かって勢い良くしゃべりつづけた。
「そうね、あんたがダイアナが死ぬまでしゃべりたおさなければいいって、あたしは心配だね」と、マリラ。「けど忘れないでほしいね。あんたは一日中遊んでられるご身分じゃないんだよ。やるべき仕事を真っ先に片付けてからにすることだね」
 アンは幸せだった。胸の内に幸せをためる大きなグラスがあって、いっぱいに満たされており、いまにもあふれてこぼれそうな気持ちだった。「いいわ。楽しみの半分は、それを待つ楽しみですもの。それにあたしは、ほかのどこかで誰でもないただの"アン"でいるよりも、"グリーン・ゲイブルズのアン"でいたいの」
 その夜、マリラはマシュウと話した。「たしかなことがひとつあります。あの子がうちにいるかぎり、退屈するってことはないでしょうね」そしてあの子を手放さなずにすんで良かったと、はじめて言葉にした。





6."Anne Shows a Temper"
教室騒動




 アヴォンリーの学校の新学期が始まるころには、アンとダイアナはすっかり仲良しになっていた。何をするのもいっしょだった。アヴォンリーの学校へは森を抜けていく道を通る。アンはこの道を歩くのが大好きだったし、ダイアナといっしょに学校に行くのを、ほんとうにすばらしく思っていた。アンは学校では優等生で、入ってすぐにクラスで一番の成績になった。「あたし学校って大好きよ」と、ダイアナにもマリラにも、マシュウにも話した。日に日に強く思うようになっていた。
 ある日、いつものように二人がいっしょに学校へ向かっていると、「今日はギルバート・ブライスが学校にくると思う」と突然ダイアナが言い出した。
「夏の間ずっとニュー・ブランズウィックのいとこのところに行っていて、土曜の夜に帰ってきたの。とってもハンサムだけどいたずら好きで、女の子をひどくからかってはよろこぶのよ」付け加えるように言ったが、まるでダイアナ自身がからかわれるのをよろこんでいるようだった。「頭が良くて常にクラスのトップだったわ。彼が来たからには、あんたが一番でいるのも今までほどかんたんじゃないでしょうね」
「望むところよ」すぐさまアンは言葉をかえした。打てば響くような応答だった。「そもそも、小さな子たちにまじって一番でいたってさしてすごくもないじゃない。でもね、わたしは昨日もつづりのクラスで一番だったのよ。ジョーシー・パイがずるをしてたのに、それをおさえてね」
「パイ家の子たちはみんなずるするのよ。あ、それより、あれがギルバートよ。ねえハンサムでしょう?」
 ギルバートは背が高く、茶色の巻き毛に茶色の瞳の少年で、口元にはいたずらそうな、人を馬鹿にしたような微笑がうかんでいた。ギルバートはこちらを振り向くと、アンに向かってウインクし、そのまま通り過ぎて学校に入っていった。
「そうね、たしかにハンサムね」と、アンは認めた。「でもお行儀は良くないわね。はじめて会う女の子にウインクするなんて、良い作法とはいえないわ」
 その日の昼休みになるまで、ギルバートはあの手この手でアンの注目を集めようとしたが、アンは彼を避け続けた。けれど正午になってアンが窓の外に目をやり、想像の世界に心を羽ばたかせていたときだった。ギルバートがそばによってきて、手を伸ばし、アンの三つ編みのはしっこをつまみあげた。
「にんじん、にんじん!」彼はささやき声で、しかしはっきりと聞こえるように言った。
 アンははじめてギルバートに向き直り、正面から見つめた。怒りのあまり瞳は涙で濡れており、きらきら光っているのが火花のように見えた。それからぴょんと飛んで立ち上がった。「なんて言ったの。信じられない、あんたなんて大嫌い! なんて言ったの!」それからパリーン! と音がして――アンはまっすぐ、自分の石盤をギルバートの頭に振り下ろし、まっぷたつに割ってしまった。
 教室のみんなは「ひゃあ!」とさけび、怖いもの見たさに色めきたった。ダイアナは息が止まりそうなくらい驚いた。担任の教師である、フィリップス先生がつかつかやってきて、アンの肩に重々しく手を置いた。
「アン・シャーリー、いったいどうしたことかね? 説明しなさい」と、怒りをこらえるような調子で先生はたずねた。
 アンはなにも答えなかった。学校のみんなに"にんじん"呼ばわりされたことを知られるなんて、耐えがたいことだった。
 ギルバートが進み出て、「フィリップスス先生、僕が悪かったんです。僕が彼女をからかったんです」とはっきりと言った。しかしフィリップス先生は彼には注意を払わなかった。
「こんな短気な生徒がわたしのクラスにいるとはとても残念です。アン、昼休みが終わるまで、黒板の前に立っているんだ。さあ行きなさい」
 怒りのあまり真っ青になった顔で、アンはその言葉にしたがった。むちで打たれたほうがまだましなくらいだった。その上、フィリップス先生は黒板に、アンの頭の上を指すようにしてチョークで書き加えた。「アン・シャーリーは自分の短気をなおさなくてはならない」そして教室じゅうに響きわたるような大声でそれを読み上げた。
 アンは言われたとおり、昼休みじゅうそこに立っていた。泣かなかったし、うつむいて下を向くこともしなかった。怒りのこもった目で教室を見回し、ダイアナの気の毒そうな顔や、ジョーシー・パイの意地の悪そうなにやにや笑いを見つめた。ギルバート・ブライスは? アンは彼のほうをちらりとも見なかったから、どうしているかわからなかった。ギルバートなんか見るのも汚らわしい。二度と口をきかないだろう!
 授業が終わると、アンは赤毛をことさら高く持ち上げてずかずか教室を出て行った。ギルバートがドアのところで待ち構えていて、「ほんとうにごめんよ。ちょっとからかっただけのつもりだったんだ。ねえ許しておくれよ」と小さな声であやまった。
 が、アンは一瞥もくれず、さっさとその場を通り過ぎた。謝罪の言葉のひとかけらも聞いてはいないようだった。「あたしは生涯にわたってけっしてギルバート・ブライスを許さないわ」いつものようにいっしょに家に帰りながら、アンはダイアナに宣言した。「彼はこれ以上なくひどく、あたしの心を傷つけたのよ。それにフィリップスス先生はあたしの名前に"e"の文字を付け忘れたわ。それで決めたの。明日から学校に行かないわ。これからずっとね」
 ダイアナは息をのんで、まるで彼女が何を言ったのかわからないというふうに、アンを見つめた。
「あんた、ずっと家いるつもり? マリラがそんなこと許すと思う?」
「そうねそれは問題だわ。でもマリラも最終的には許すほかないのよ」と、アン。「あたしはあいつがいるかぎり、絶対に、けっして、なにがなんでも、学校には行かないんだから」
「いやよアン、学校には楽しいこともたくさんあるでしょう。それをぜんぶ失うことになるのよ。ねえ考えなおして、帰ってきてよ」ダイアナは今にも泣き出しそうだった。
 家に帰り着いてから、アンはマリラとマシュウに今日の事件のすべてを話てきかした。「馬鹿馬鹿しい。寝言をいってないで、明日からもいつもと同じようにちゃんと学校に行くんですよ」マリラがきつく言いわたした。
 けれどアンの心はかたく決まっていた。「あたしは学校に行かない。勉強なら家でだってできるわ。うまくやってみせます。でも、けっして、学校には行かない!」
「聞くかぎりだと、フィリップス先生はあまり良い先生だとは言えないようだ」と、マシュウが助け舟を出した。
 けっきょくのところ、二人はアンが学校に行かず、家にいることをみとめた。アンは家で自分の勉強をすすめながら、わりあての仕事をこなし、夕方からはダイアナと遊んだ。ときどき道や教会でギルバート・ブライスと行き会うと、冷たい怒りとともにきまって彼を無視した。ギルバートはあれこれ彼女に働きかけようとするが、アンはすでに一生かけてギルバートを憎みつづけると決めてしまっているのだった。





7."Diana Is Invited to Tea"
ダイアナをお茶に招く




 十月になった。十月はグリーン・ゲイブルズの四季の中でももっとも美しい季節のひとつ。カエデの葉が鮮やかな赤に変わり、農場は美しく着飾ってお化粧をした貴婦人のようになる。アンは彼女をとりまく色とりどりの世界に魅了された。紅葉した木の枝を折り取り、自分の部屋を飾り付けるほどだった。
 ある朝、マリラがやってきて、互助会の寄り合いで少し離れた町まで出かけるので、昼間は留守にするとアンに告げた。「暗くなるまで帰ってこれない。マシュウの夕食の用意はあんたにまかせたよ。そのかわり、午後のお茶にはダイアナを招待するといい」
「ああ、マリラ」アンは飛び上がってよろこんだ。「それってあたしがいま一番やりたかったことよ。まるで大人の女性になったみたい。すっごくいかしてるわ。ねえあの一番上等の、かわいらしいティーセットを使ってもいいかしら?」
「だめ。とんでもないこという子だね。いつも使ってる茶色のやつでじゅうぶんだよ。けれどそうだね、チェリーのジャムのふたを開けていいし、この前のケーキとクッキーの残りも食べてよしとしよう」
「すばらしいお茶会になるわ。ダイアナを招いたら、居間に通していいかしら? 居間のテーブルにお皿を並べたいの」
「それもだめ。あんたとあんたのお客様は、台所を使うことになってるんです。でも台所には以前用意したいちご水が残ってるから、あんたたちが好きなら飲んじまってかまわないよ」
 アンは大興奮してダイアナの家まで飛んでいき、お茶会の約束をとりつけた。その後マリラが馬車に乗って出かけてしまうと、すぐにダイアナが彼女の持っているうちで二番目に上物のドレスを着て、まるで貴婦人のような上品な所作でグリーン・ゲイブルズのドアをたたいたのだった。アンもまた二番目に良いドレスに身を包み、ドアをゆっくりと開けた。二人の少女はあたかも長い間会っていなかったかのように、感動的に手を握りあった。
 二人は午後のほとんどを屋外ですごした。果樹園のりんごを食べながら、ものすごい、できるかぎりの勢いでおたがいにしゃべりあった。とくにダイアナにはたくさん話すことがあった。アンが学校に来なくなってから、彼女の隣の席には今はガーティー・パイが座っていて、それがたまらなくいやなこと。みんなさみしがっていて、アンに戻ってきてもらいたいと思っていること。そしてギルバート・ブライスは――
 とダイアナが話しかけたが、アンはギルバート・ブライスのことなど名前を聞くことすら嫌だったので、さっと立ち上がろ、家に入っていちご水を飲もうとダイアナをうながした。
 台所に戻り、マリラに聞いたところをアンはよく探したが、いちご水は見つからなかった。捜索範囲を広げると、やっと棚の一番上にあるのが見つかった。お盆にコップを用意して、テーブルの上に並べた。
「さて準備ができました。ではダイアナ、召し上がってね」アンはおしとやかにすすめた。「りんごをたくさん食べたから、わたしはいまのところほしくないの」
 きれいで魅惑的な赤色をしたジュースをコップに注ぐと、ダイアナはなめるようにして少しだけ味をたしかめた。「あらこれすごくおいしいわ。ちょっとおそろしいくらい、ひどくおいしいわ。木いちごのジュースがこんなにおいしいなんて知らなかったわ」
「好きなだけ飲んでいいのよ。あたしはちょっと失礼して、暖炉に火をおこしてくるわね。家のきりもりをしている者はいろいろ気を配らないといけないのよ。そうでしょ?」
 アンが戻ってくると、ダイアナはすでに二杯目のグラスをからにしていた。
「あらあら、よっぽどおいしいのねえ! もう一杯いかが?」
 ダイアナはまたグラスいっぱいにジュースを注ぎ、「こんなおいしいものはじめてよ、ほんとうよ」と言った。
「マリラはアヴォンリーのなかでもそうとうな料理上手ですからね」アンはこっくりうなずいた。「マリラはあたしにも、その料理の腕前をしこもうとするんだけど、でもとてもむずかしいの。料理の手順には想像力をはたらかせる余地がないんだもの。なにもかも決まりにしたがわなければならないのよ。一番最近にケーキを作ったときなんか、小麦粉をいれるのを忘れちゃった。そのときね、ダイアナ、あたしとあんた二人のすてきな物語を考えていたのよ。おかげでケーキは完全に失敗。ケーキ作りに小麦粉を忘れるなんて、なんというかもう、問題外よね。マリラはかんかんに怒ったけど、もっともだと思うなあ。あれダイアナ、どうかしちゃった?」
 ダイアナは突然立ち上がり、そのまままた座りなおした。頭をかかえるようにして身をかがめていた。
「あたし――あたし、病気になっちゃったみたい」小さな、かすれてくぐもった声で、ダイアナは言った。「家に帰らなくちゃ」
「いやよ、またお茶会が終わってないじゃないの。家に帰るなんて、夢でもそんなこと言っちゃいやよ」アンは叫んだ。「ちょっと待ってて、すぐお茶をもってくるからね」
「家に帰らなくちゃ」ダイアナは繰り返した。「ひどいの。くらくらするの」
 アンは悲しみのあまり目に涙をためつつも、ダイアナの帽子をとってやり、いっしょに歩いてバリー家の柵のところまでダイアナを送った。グリーン・ゲイブルズへの帰り道ではしくしく泣いてしまった。木いちごのジュースの残りをもとのところに戻すと、すっかり力をおとして、マシュウのためにお茶のしたくをした。

 翌日は日曜日で、朝から晩まで雨がざあざあ降っていた。アンは家から一歩も出ずひきこもってすごした。月曜日の午後にマリラがアンをお隣りのリンド夫人のお宅までおつかいにやると、行ったが早いか、まもなくアンは飛ぶような勢いで小道を走って帰ってきた。頬を涙の粒がつたい落ちていた。
「いったいぜんたいどうしたってんだい?」マリラはたいへんにおどろき、いぶかしげにたずねた。
 アンは泣くばかりで返事もしなかった。
「アン・シャーリー、質問にこたえなさい。あたしは答えられないことは聞いてないつもりだよ。気を落ち着けてここにおすわり。ねえ、どうして泣いているんだか教えておくれ」
 おとなしく座りこむと、アンは話しだした。「リンドの小母さんから聞いたの。ダイアナのお母さんが、ひどく怒ってるんだって。あたしが、土曜日にダイアナにお酒を飲ませて、酔っ払わせてみっともないありさまにしたからだって。あたしのようなとんでもなく悪い子は二度とダイアナと遊ばせない、って言っているそうよ。ああ、あたしはいま、深い深い絶望にとらわれているのよ。ああ、マリラ」
 マリラは驚きのあまり目をまんまるにして、「ダイアナが酔っ払っただって?」とやっとこさ声を出した。「アン、あんたとバリー夫人と、気がおかしくなったのはどっちなんだい? あんたダイアナに何を飲ませたの?」
「いちご水のほかにはなんにもよ」かみつくような声でアンはこたえた。「いちご水で酔っ払うなんて思ってもみなかったもの。たとえダイアナみたいに大きなグラスで三杯も飲んだって。どうなるかなんて知りっこないわ」
「いちご水で酔っぱらう、だって? まったく聞いてあきれるね!」とマリラは言い放つと、足音を高くしてずかずか台所へ向かった。棚の上の以前にたしかめたのと同じところに、彼女の手作りのぶどう酒のびんがあった。マリラは葡萄酒作りでもアヴォンリー有数の名人として有名なのだ。そしていちご水はアンに話した戸棚ではなく、地下室にしまっていたことをマリラは思い出した。
 ぶどう酒のびんを片手に抱え、マリラは居間へとってかえした。口元にはおさえきれない微笑がうかんでいた。
「アン、あんたはたしかにやっかいごとをひきおこす天才だね。あんたはダイアナに葡萄酒を飲ませちまったのさ。それにしても、ちがいがわからないもんかね?」
「あたし、一口も飲まなかったんだもの」と、アン。「ジュースだとばかり思ってたし、一生懸命おもてなしするつもりだったのよ。ぶどう酒を飲んだせいで、ダイアナは酔っ払って病気のようになっちゃって、家に帰ったっていうの? あの日のダイアナはまるで死んだように酔っ払ってたって、バリーの小母さんは言ったらしいわ。あたしが最初からそのつもりだったんだろうって」
「馬鹿をお言いでないよ。あんた、夜にでもひとっぱしり出かけて、何があったかほんとのことを話してやるといい」
「あたしが、バリーの小母さんに? いやよ、顔を見る勇気もないわ。ああマリラあなたが行ってくれると、とてもうれしいんだけど」
「そうだね。あたしが行くのが良いだろうね」と、マリラはうけおった。それがもっとも賢いやり方だと思ったのだ。「だからね、アン、もう泣くのはおよし。すべてうまい具合にいくからね」
 が、バリー家から戻ったとき、マリラの心はまったく反対方向に変わっていた。アンはマリラが戻ってくるのを窓から見張っており、ドアに飛びつくようにして出迎えた。
「ああマリラ、何も言わなくても、あなたの顔を見ただけでわかるわ。悪いお話を聞かされるのね」悲しそうにアンは言った。「バリーの小母さんはあたしを許さなかったんでしょう」
「ふん! まったくもってね!」と、マリラは憤慨した様子だった。「まったくもって石頭の、気難し屋の奥さんだよ。あんな女は見たことないね。今まで会ったなかでいちばんの難物さ。ぜんぶ手違いで、あんたが悪いんじゃないって教えてやったのに、あたしの言うことをひとつも信じないんですからね」と言い放つと、ドアのところにアンを取り残したまま、マリラはさっさと台所に引っ込んでしまった。
 けっきょくアンは自分自身でオーチャード・スロープのドアにすがりつき、許しをこうことになった。けれどアンを出迎えたのは、バリー夫人の親愛さのかけらもない、冷え切った表情ばかり。「何かご用かしら?」とすましてたずねる声には怒りが込められていた。
「ああ小母さん、どうか許してください。こんなことになるなんて、土曜日のあたしにはわかっちゃいなかったんです。想像してほしいの。ねえどうしてあたしにそんなことができましょうか? もし小母さんがかわいそうなみなしごで、奇跡のような幸運で親切な人の家に引き取ってもらえたとします。そして世界でたったひとりの大切な大切な友達に出会うの。その友達を酔っ払わせちまおうなんて、どうして考えるでしょう? あたしはあれをいちご水だとばかり思ってたんです。信じてください! ダイアナとまたいっしょに遊ばせてほしいの!」
 このスピーチはバリー夫人の心をやわらげることになんの効果もあげず、かえって怒りをかきたてるだけに終わった。夫人はアンが自分をからかっているのだと考えたのだ。冷たく残酷に、夫人は言いわたした。「ダイアナの交際相手として、あなたはまったくふさわしくない女の子だと思うわ。お帰りはあちらですよ」
 深い絶望に身を切り刻まれながら、アンはグリーン・ゲイブルズへと引きあげた。
「最後の希望もついえてしまったわ」と、アンはマリラに心中を語った。「祈るよりほかにすることないように思う。けど、それも望み薄ね。だって神様だってあの小母さんみたいな石頭の女を、うまくあつかえるとは思えないもの」
「そういうことを言うものじゃありません」マリラがきつくたしなめた。
 けれどその夜、やすむ前にマリラは東側の切妻の部屋にやってきて、泣きながら眠ってしまったアンの顔を見つめていた。いつもは固く引き締められているマリラの表情が、ふとやわらかくなった。
「かわいそうな子」と彼女はつぶやいて、アンの頬にかかんでキスをした。





8."A New Interest in Life"
アン、学校にもどる




 次の月曜日、部屋から降りてきたアンを見てマリラは驚いた。というのは、しばらくお目にかからなかった、学校用の本がつめられたバスケットを腕にたずさえていたからだった。
「学校に戻るわ」と、アンは宣言した。「大切な友達との仲をひきさかれたからには、それだけがあたしの人生に残されたものですもの。学校に行けばダイアナの姿をみられるから、すぎさってしまった楽しい思い出をしのぶこともできるでしょう」
「いいけどね、自分の勉強にも頭を使うんだよ」と、マリラはこの思いもよらない展開に、ともすれば顔に浮かぶうれしさを隠そうとしながら注意した。「誰かさんの頭で石盤を割った、なんてこと、もう聞かないですむようにしてほしいね。良い子でいなさい。それと先生には敬意を払い、きちんと言うことに従うべし」
「完璧な優等生になってみせるわ」アンはうなずいた。「そんなことに何の楽しみもないでしょうけどね。でもあたしはすでに不幸せなのだから、楽しみのない生活だって簡単に受け入れられるの」
 しばらくぶりに学校に戻ると、アンは熱烈に歓迎された。遊びのときには彼女の想像力が、歌うときにはその声がみんなを感心させた。とりわけお昼休みに行う詩の朗読にアンは特別の能力をみせた。誰も彼もがアンを好きで、親切にしてくれた。ただしダイアナをのぞいて。
「以前のようにおしゃべりしてほしいとは言わないわ。でも、一度くらい微笑みかけてくれてもいいと思う」その夜、アンはマリラに向かって不平をこぼした。しかし次の日授業を受けていると、生徒たちの手に手を渡って、折りたたまれた手紙と小さな贈り物がアンのもとにとどけられたのだった。



 親愛なるアン 

 お母さんがあんたと遊んじゃいけないっていうし、学校でもしゃべっちゃいけないって言うの。あたしがそうしたいって思ってるわけじゃないから、怒らないでね。あたしは以前と変わらず、あんたのことが大好きなのです。秘密にしてたけど、あんたのために赤い紙で新しいしおりを作ったのよ。とても今風ですてきだし、作り方を知っているのは学校の女の子のなかでもたった三人だけなのよ。これをみるとき、あたしを思い出してね。                

                    あなたのほんとうの友達である ダイアナ・バリー



 何度も手紙を読み、贈り物にキスをすると、アンはすぐさま返事を書いて教室の向こう端へ送った。



 あたしの可愛いダイアナ

 もちろんあたしは怒ってなんかいません。誰だってお母さんのいうことは聞かなきゃいけないもんね。でも、こんなふうにしてお話しできるじゃない? あんたの可愛い小さな贈り物、ずっとずっと永遠に大事にします。

                        死が二人を分かつまで アン・シャーリー

 追伸 あんたがくれたお手紙、今夜まくらの下に入れて眠ることにするわ。



 この出来事が起きてから、アンは一心不乱に勉強へうちこみはじめた。完璧な優等生になることを心の底から決心したのだ。すぐに成果はあらわれた。先生も生徒も学校に通っているものすべてが、彼女がギルバート・ブライスの好敵手になったと認めた。ギルバートのほうではこの事実をごく自然に受け止めたが、アンのほうではそうはいかなかった。彼女はずっとギルバートを憎んでおり、その憎しみは、ダイアナへ向ける愛と同じくらい強く燃えさかっているのだった。
 つまり、アンは学校での成績において、自分がギルバートとはりあっているという事実を決して認めなかったのだが、なぜならそれは、忌み嫌っているギルバートの存在を心の中で認めてしまうことになるからだった。それほどはっきりとアンはギルバートを拒絶していた。けれど実際問題として、一位の名誉は常にアンとギルバートの間をいったりきたりしていた。ある日ギルバートがつづりの授業で一位になると、次の日にはアンが赤い編み髪をふりたてて、トップにおさまる。ある朝の授業で計算問題を一問も間違わなかったギルバートが、一番の栄光とともに黒板に名前を書かれると、次の朝には、前の晩にうんうんうなって小数の問題に取り組んだアンが一番になるのだった。とある記念すべき、おそろしい日には、二人は同点となり、名前が隣りあって書き出された。アンはたいへんに嫌がったが、ギルバートはアンの憎しみの分量と同じくらいの素朴さで、素直に喜んでいた。
 フィリップス先生はけっして良い先生であるとはいえなかったが、アンのように決意を固めた生徒は、どんな教師のもとにいてもどんどん力をつけていくものだ。その年の終りには、アンとギルバートは第五学年に上がり、ラテン語、幾何学、フランス語、そして代数学の学習にはいった。このうち幾何学がアンの頭痛のたねとなった。
「幾何学って最低よ。こんなつまらない科目ったら、ないわ」と、アンはマリラにこぼした。「うけあってもいいけど、あたしは一生幾何学を理解できません。フィリップス先生も、アン・シャーリー、あなたは私の教え子の中でいちばん出来が悪いですね、だって。そのくせギ、ギル――ええっと、ほか人の中にはね、それをとても得意にしているものもいるのよ。ダイアナだってあたしよりよくできるんだから。
 でもそんなこと気にしないの。まるで知らない人同士みたいにしてすごしてるけど、あたしは不滅の愛で彼女を愛しているんだもの。ダイアナのことを考えると胸がしめつけられるように痛むわ。――でもねマリラ、ほんとうはね、このすてきな、楽しいことがたくさんある世界で、ずうっと悲しい気持ちのままでいるだなんて、誰にもできないと思うの。そうでしょ?」





9."Anne to the Rescue"
アン、ミニー・メイを救う




 年が明けて一月のある日、遊説コースのひとつとして、カナダの首相がプリンス・エドワード島にやってきた。もとより政治に興味を持っていたマリラは、30マイル離れたシャーロットタウンまで首相を見物に行った。マリラのいない間はアンとマシュウがなるたけ立派に家を守らなければならない。その夜、グリーン・ゲイブルズの居心地のいい台所は二人だけのものだった。ストーブではあかあかと火が燃え、マシュウはソファで雑誌を広げたままいねむりし、テーブルではアンが勉強をしていた。
 突然、凍った板張り道を飛ぶような勢いで踏み鳴らす音が二人のひそやかな静寂を破り、とどろいた。次の瞬間ドアが開け放たれ、ダイアナ・バリーが飛び込んできた。真っ白な顔をして、息もできない様子だった。、
「いったいぜんたいどうしたっていうの?」おどろいて、アンは叫んだ。「とうとう、あんたのお母さん、あたしのこと許してくれたの?」
「ああ、アン、お願いだからすぐ来てほしいの」すがりつくようにダイアナが言った。「ミニー・メイがひどい病気にかかっちゃって――メアリー・ジョーが言うには、喉頭炎だっていうんだけど――お父さんとお母さんは、遠くの町まで出かけちゃってるし、お医者様を呼んできてくれる人もいないの。メアリー・ジョーは看病のしかたなんてしらないし――アン、アン、こわくてたまらないの!」
 一言もものを言わずマシュウは立ち上がると、帽子と外套を身につけ、ダイアナのそばをすりぬけて外の暗闇の中へ出て行った。
「馬をとりに行ったの。お医者様を呼びに行くのよ」と、アン。「何も言わなくても、言ったのとと同じくらいよくわかるわ。マシュウとわたしは心が通じあってるから、いつだって言葉なしですべてが伝わるのよ」
「お医者様が来てくれなかったら? メアリー・ジョーは喉頭炎のこどもなんて今まで見たこともないのよ。ああ、アン!」
「泣いちゃだめよ」アンはなるべく元気な声を出した。「どうすべきかはわたしがよく知ってるわ。ハモンドの小母さんは双子を三組も生んだって、話したことあるわよね。その子たちみんな順々に喉頭炎にかかったのよ。だからわたし、ほとんど定期的に看病したんだもの。待って、薬のびんをとってくるわ。ダイアナの家にはないでしょ? さあついてきて!」
 雪の降りしきる中、二人の少女は手に手を取りあい、小道を急いで抜け、農場を横切って駆けていった。ミニー・メイのことは心配でたまらなかったが、それでもアンは、大切な友達と以前のように共にいられることについて、偽りのないよろこびを感じていた。
 三歳になったばかりのミニー・メイはほんとうにひどい状態だった。台所のソファに横たえられ、荒い呼吸を繰り返していた。子守のメアリー・ジョーはおろおろするばかりで、どうしていいかまったくわからない風だった。アンは手早く、能率的に仕事にとりかかった。「お湯をたくさんわかさなきゃいけないわ。メアリー・ジョー、ストーブに薪をくべてちょうだい。わたしはミニー・メイの着物を脱がして、ベッドに連れていくわ。ダイアナはやわらかい布をたくさん用意するの。何より先に、ミニー・メイに薬を飲み込ませなきゃいけないのよ」
 ミニー・メイは薬嫌いだったので、なかなかうまく薬を飲み込ませられなかったが、アンもだてに三組の双子を育てたわけではなかった。長い不安な夜の間、薬は何べんもミニー・メイの小さな喉をくだった。二人の少女は働きづめに働いた。メアリー・ジョーは薪をくべ、お湯を沸かすことで手いっぱいだった。
 マシュウが医者を連れて戻ってきたのは夜中の三時くらいだった。そのころにはすでに助けはいらなかった――ミニー・メイはすっかりよくなって、快方に向かっており、幸せそうな寝息を立てて眠っていた。
「もう少しで絶望してあきらめてしまうところだったの」と、アンは大仰に説明しだした。「ハモンド夫人の三組の双子のどれよりも具合がよくなかったし、どんどん悪くなっていくようだったわ。息が詰まって死んでしまうかと思った。びんに残っていた薬をぜんぶ飲ませたんだけど、最後の一粒を飲ませるときには"これが最後の望みよ"って自分に言い聞かせていたわ。けどそれから三分くらいして、ミニー・メイが痰をはきだして、ぐんぐん良くなっていったのよ。ああ、どんなにほっとしたか、想像していただけるとありがたいです。先生、わたし、これ以上言葉ではお伝えできないわ」
「うん、わかるよ」医者はうなずいた。彼もまた、この女の子について、言葉ではうまく伝えられないことを考えているようだった。

 グリーン・ゲイブルズに戻ったのはもう朝方だった。すばらしい冬の日の朝だった。野原を横切り、枝に雪の積もったカエデの木の下を通っていった。まぶたが重くて、いまにも眠ってしまいそうだったが、興奮したアンはずっとマシュウに話しかけていた。
「ああマシュウ、なんてすばらしい朝でしょう! きっとこの世界をつくるとき、神様は祝福だけをこめてつくりあげたんだわ。この木ったらあたしの吐息ひとつで吹き飛んでしまいそう。あたし季節のある世界に生まれてほんとうにうれしいわ。マシュウもそうでしょ? それにハモンドの小母さんの三組の双子にも感謝するわ。ミニー・メイを助けられたのは、あの経験のおかげなんだもんね。けどああ、マシュウ、とても眠いの。学校には行けそうもないわ。まるでいま気づいたみたいなんだけど、あたし眠すぎてこれ以上ちょっとも目を開けていられそうにないの。でも休んで家にいるのはまっぴらごめんなの。だってギ、ギル――ほかの誰かが、クラスの一番になっちゃうじゃない。あたし何でもおくれをとるのは好みじゃないのよ」
「そうさのう、お前は何でもうまくやると思ってるよ」と、マシュウはアンの疲れで真っ白になった顔と、目の下にできた濃い隈を見ながら言った。「すぐベッドに入ってよくお眠り。お前の仕事はみんなわしがやっておくよ」
 そのとおり、アンはグリーン・ゲイブルズに着くとすぐにベッドに倒れこみ、午後になるまでぐっすりと眠った。ようやく起きだして台所に降りていくと、帰ってきたマリラが彼女を待っていた。
「ゆうべのことマシュウがぜんぶ話してくれましたよ。ああ、あんたが看病の仕方を知っていてほんとうによかった。あたしがいてもどうにもならなかっただろう。さ、おいで、夕食ができてます。ああわかるよ、あんた、あたしに教えたいことで胸がいっぱいなんだろう?」
 アンが食事を食べ終わるのを見計らって、マリラが告げた。「あんたが寝てる間にバリー夫人がみえたんだよ。あんたに会いたがってたけど起こしたくなかったからね。ミニー・メイの命を救ったのはあんたなんだって、お医者様が話したそうだ。今まで大変に申し訳なかった、って謝ってたよ。ぶどう酒の件についてもあんたがダイアナを酔っ払わせるつもりじゃないんだってわかったうだ。あんたに許しを請うて、もう一度ダイアナと仲の良い友達になってほしいんだとさ。まああんたのこころもちしだいだけど、夜にでもひとっ走り、あの奥さんのところへ行ってきてもいいんじゃないかね」
 アンは飛び上がった。すごい早さで、顔がよろこびに輝きはじめた。「マリラ、今すぐ行ってくるわ――ああ、そのう、お皿を洗うのは後でいいかしら? 戻ってきたらちゃんときれいにします。この幸せな、最高の瞬間に、お皿を洗うなんて現実的なことに自分を縛り付けてはおけないのよ」
「はいはい、行っといで」と、マリラは笑って許可を出した。
 しばらくして、雪の積もった家や地面を夕陽が紫色に染めるころ、アンは踊るようにステップを踏んで帰ってきた。「ああマリラ、今あなたの目の前にいるのはね、心の底から完璧に幸せである人間なのよ!」と、マリラに向かって宣言した。
「最高に、完璧に幸せ――そうね、この赤い髪の毛だけは、いつものとおりだけど。
 でも今だけは赤毛でもかまわないくらいだわ。バリーの小母さんがあたしにキスして、自分が悪かった、って謝ったの。どれだけ感謝してもしたりない、ですって。ダイアナとあたしは久しぶりにいっしょにいれて、最高に幸せだったわ。小母さんはあの家の一番すばらしい中国の茶器でお茶をいれてくれたのよ。どれだけ誇らしい、すてきな気分になったか、とてもお伝えできないわ。ケーキとジャムも二種類もでてきたの。
 小母さんはこれからもしょっちゅう遊びに来てね、とあたしに言ってくれたし、ダイアナはわたしが帰るのを窓からずっとみていて、小道を下っていくあいだじゅう、投げキッスをしてくれた」と、ここで息継ぎをすると、アンは続けた。「さて今夜こそあたしお祈りをしたい気になったわ。今日みたいな特別の名誉に値するような、特別な、新型のお祈りを創作しなくっちゃね」





10."Anne Takes a Fall"
アン、落っこちる




 春になった。次に夏が来た。それでも、アンの完璧に幸せな気分はずっとつづいていた。もちろんちょっとした間違いはあった。豚の餌用のバケツのかわりに編み糸かごにミルクを注いでしまったりだとか、本を読みながら丸太橋を渡ろうとして、足を滑らして川に落っこちてしまったりだとか。けれどそんなことくらい、ほんとうに悪いことのうちにはいらなかった。ケーキを作るとき食用油の代わりに水薬を入れてしまったことでさえ、アンに言わせれば深刻な問題とは言えなかった。そして八月の半ばのある日、ダイアナがあるパーティーを催した。
「よりぬきの人を集めた小さなパーティーよ」と、アンはマリラの問いにこたえた。「なんと、わたしたちのクラスの女の子だけ」
 そのとおり、粒選りの人間が集まった、誰もが楽しめるすてきなパーティーだった。その日バーリー家の庭にいた人間にとっては、あんまりにも楽しすぎて、この世に悪や不運というものがあることさえ、信じられなくなるほどだった。もっとも、それもお茶がすむまでのあいだに限って言えばだったが。それまでやっていた遊びにそろそろ飽きて、新しい、別の、もっとわくわくするようなゲームをはじめようとしていたとき、それは起きた。
 そのときマリラは果樹園でりんごの木から実をもいでいた。するとダイアナの父親のバリー氏が、アンを背中に乗せて丸木橋を渡ってくるのをみつけた。アンの頭はバリー氏の肩にもたれかかり、ぐったりとしていた。少女たちが列をなして彼の後をついてきていた。
「バリーさん、いったいこの子がどうしたんです?」真っ青になり、恐怖でふるえた声で、マリラは問いかけた。
 その声を聞くと、アンは頭をちょっともちあげて、自分自身でこたえた。
「ねえマリラ、あきれるね、なんて言わないでね。ジョーシー・パイが、屋根の梁の上を歩けるか、ってあたしに挑戦してきたの。はしょっていえば、それであたし落っこちたのよ。くるぶしが痛くって歩けないの。でもねマリラ、まずい落ち方だったら首の骨を折るかもしれなかったのよ。物事は常に明るい面をみるようにしなくちゃいけないわ」
「ああ、あんたをパーティーに出してやるとなったときから、こんなことぐらいの予感はあった気がするよ」大いにほっとしながら、マリラはため息をついた。「こっちへ運んでくれますかね。バリーさん、この子をソファに寝かせてやってくださいね」
 マシュウが医者を呼んできた。アンのくるぶしの骨は折れていた。
 その夜マリラは東の切妻の部屋にやってきた。部屋の持ち主の少女は真っ白な顔色をして、ベッドのなかから弱々しい小さな声で養母を出迎えた。
「ねえ、あたしのこと、すごくかわいそうに思ってるでしょ」
「自分ががぜんぶ悪いんじゃないか」と、窓を閉め、ランプに火を灯しながら、マリラはこたえた。
「それだからかわいそうに思ってほしいのよ」と、アン。「ほんとにぜんぶ自分の落ち度だと思うと、たまらない気になるの。誰かのせいにできたらずいぶん楽でしょうけどね。でもあたしどうすべきだったのかしら。マリラ、もしあなたが――それもジョーシー・パイからよ――屋根の上を歩けるか、って挑発されたらどうするの?」
「あたしはずっと地面の上にいて、おっちょこちょいが屋根の上を歩くのをながめてるだろうね」
 アンはため息をついた。
「マリラは侮辱に耐える勇気のある人ですもんね。でもあたしはそうじゃないの。ジョーシー・パイにずっとからかわれつづけるなんて、とても我慢ならないと思ったのよ。もし何も行動しなかったら、一生涯このことで馬鹿にされるに決まってるんだもの。ああマリラ、あたしはもうずいぶん痛めつけられて、罰を受けてるわけだし、これ以上叱らないでほしいの。六週間か七週間はどこへも学校へも行けないのよ。その間ギ、ギル――クラスのみんなは勉強を先に進めちゃうでしょうね。ああ、あたしはかわいそうな子だ! でもマリラ、あなたがこれ以上叱らないっていうなら、あたし今度こそ勇敢に侮辱に耐えてみせるわ。ね、だからね」
「誰も叱りやしないよ」と、マリラは言った。アンの口上を聞いているうちに、苦笑するほかない気分になってしまったのだ。「はいはい、あんたは運が悪かっただけさ。落ち度があったわけじゃない。さて夕食を持ってきてやったんだけど、食欲はあるかね」
「あたしこんなに想像力があって幸せだったな」と、アンはつぶやいた。「もし、骨を折ってどこにもいけなくて、そんな子どもが想像力のひとかけさえ持ち合わせなかったらいったいどうすればいいのかしら。マリラはどう思う?」

 それからの七週間、案の定アンは自らの想像力に感謝することしきりだった。とはいえ彼女は頻繁にお見舞い客をむかえていて、学校の女の子たちがあらわれては花や、本を持ってきてくれた。そしてアヴォンリーのこどもたちの間でうわさの出来事を毎日のように運んでくるのだ。
 「誰もがよくしてくれるし、とても親切なの」と、アンは幸せそうに息をついて、ベッドから降りた。足を引きずってはいたけれど、しばらくぶりに一人で歩けるようになった最初の日だった。「もちろん寝たきりになるのはゆかいなことじゃないわ。けど、良い面だってあるのよね。自分にどれたけたくさんの友達がいるか、知りたいときには良いかもってこと。ダイアナは毎日来てくれてずっとはげましてくれたのよ。
 でもやっぱり、学校に通えなかったのは非常な残念ごとだわ。というのも、あたしが休んでる間に新しい先生がいらしたそうなの。ミュリエル・ステイシー先生よ。ねえなんてロマンチックなお名前かしら? 女の子はみんな、最高にすてきな先生だって思ってる。ダイアナの定期報告によると、驚くほど豪奢な金髪の巻き毛をお持ちで、同じ色の、とてもすてきな瞳なんですって。着物もとってもおしゃれで、その袖はアヴォンリーではだれもみたことがないほど大きくふくらんだパフスリーブだそうよ」
「確かなことがひとつあるようだね」と、マリラはぼやいた。「屋根から落っこちたところで、アン、あんたの舌は傷ひとつ負わなかったんだね」





11."A Great Teacher"
すばらしい先生




 また十月がやってきた。アンが島に来て二回目の、光り輝く十月――木々のほとんどが赤や、金色に染まる。空気にも風味がついていて、学校へと急ぐ少女たちの胸をいやがうえにもはずませるみたいだった。アンはやっと学校に通えるようになった。またダイアナの隣の小さな茶色の机にすわれることになって、すくなからず喜んだ。
 幸福の長い吐息をつくと、アンは鉛筆を削り、机の中の絵はがきをならべなおした。人生とはたしかにおもしろいものだ、と考えた。
 つまり、アンは新しい先生をすっかり気に入ってしまって、ダイアナのほかにもう一人、自分にとってのほんとうの、とても頼りになる親友を見つけた気分でいるのだった。ミス・ステイシーは輝くような美貌の若い女性で、つきせぬ愛で生徒を包み、勝利という名の幸せの贈り物を与え続けた。そしてこどもたちのそれぞれ一番良い部分を引き出すことに長けていた。アンは彼女の指導と感化のもと、花が開くように成長していった。家に帰るとマシュウとマリラを相手に、学校での学習の進み具合や目標について熱狂的に話し続けるのだった。
「あたし心の底からステイシー先生を愛してるの。とてもおしとやかで上品で、貴婦人みたいな風格があるし、甘やかなお声であたしの名をよぶと、ちゃあんと最後の"e"を発音しているように感じられるのよ。あたしたち今日のお昼に大きな声で朗読をしたの。ああ、二人がその場にいて、あたしの朗読を聞いていてくれたら、どんなに良かったか。全身全霊をかけて、あたしのすべてをかけて読みあげたものだったのよ」
「そうさな、近いうちにわしにも読んでくれるかな。会場は納屋がちょうどいいな」と、マシュウが提案した。
「ええもちろん読んであげるわ」と、アン。「でも、今日のようには感動的にならないと思うわ。今日は学校のものすべてがあたしの言葉のひとつひとつにじっと聞きいっていたのよ。全神経を集中して一心に聞いていたの。ぞくぞくっとしたわ」
「ぞくぞくすることと言えばだね、あんたの学校の男の子が、学校のそばの大きな三本の木の一番上までのぼって鳥の巣をとっているのをこの前見つけたよ。ひとつ前の金曜日だった」と、マリラが苦い顔をして、話題を変えた。
「なんでもステイシー先生が指示をしてやらせたそうじゃないか。あたしは驚きましたよ!」
「だってそれは自然学習のためにカラスの巣が要るんだったの」アンが説明した。「その日は野外教室だったの。ああ野外教室って最高ね。マリラ、ステイシー先生は自然の中にある美しいものみんな教えてくれるのよ。あとでその一日についての作文を書かされたんだけど、あたしの作文が一番よく書けてたわ」
「自分で言うなんて、それはうぬぼれというものだよ。先生にそう言ってもらえるようにしなきゃいけない」
「あら、先生がそう言ったのよ。でもマリラ、そんなことであたしうぬぼれやしませんわ。あれだけ幾何ができないのに、どうやってうぬぼれやいいのかしら。ああでも、最近はちょっとだけ、幾何もわかりはじめてきたの。ステイシー先生がずっとわかりよくしてくださるんだもの。けど優秀生になるなんてことは一生ないわね。
 ねえ、作文なら大好きなのにね、ちかごろは毎日体操をするのよ。なんでも、健康を促進するんだって」
「健康促進ね、聞いてあきれるね」と、マリラ。体操なんて時間を無駄にする以外のなにものでもない、とマリラは固く信じているのだった。

 ステイシー先生が、それまで以上にぞくぞくする計画をはじめたのは、その年の十一月だった。アヴォンリーの学校の生徒の全員でクリスマスの夜にコンサートを開く。そこで集まったお金で校舎に立てる旗をつくるというものだった。準備はすぐに始められ、そしてこの計画にアン・シャーリーほど興奮し、献身的に協力したものはいなかった。
 マリラはしかし、この思いつきに苦い顔をしてかくさなかった。
「まったくくだらないおしゃべりで頭がいっぱいになってるようだね。勉強に費やすべき時間を、コンサートなんてろくでもないことに使っちまうとはね」と、文句を言う。「子どものうちからそんなものに出るなんて感心できないことだね。そんな習慣を身につけていると、大人になって傲慢ないやな人間になっちまうんだよ」
「ねえお金を稼ぐのがあたしたちの目標じゃないのよ」と、アンはお願いするように言った。「あたしたち学校の旗を買うのよ」
「へえ、それはそれは! しかしあんたたちの誰がその目標を気にかけてるっていうんだい。旗にかこつけて、馬鹿騒ぎがしたいだけじゃないか」
「お金を稼ぐのと楽しむのと、両立しちゃいけないわけでもあるの? もちろんコンサートに出演するのはこのうえない喜びよ。あたしたち六曲も歌うの。ダイアナなんてソロパートを歌うのよ。あたしは歌のほかに、ふたつの劇に出て、朗読もふたつやるの。
 ねえマリラ、想像するとふるえちゃいそう。でもすてきなスリル式のふるえなのよ。コンサートの終わりには、あたしたち一枚のタブロー画みたいになってるわ――『信仰、希望、そして慈愛』という題名のね。ダイアナとルビーとあたしがその絵の登場人物で、髪をたらして白い着物を着るの。
 ああマリラ、あなたがあたしと同じようには楽しみにしてくれないの知ってるわ。でも、あなたの小さなアンを元気づけて、はげますことはしてくれるでしょう?」
「あたしの望みはあんたが頭を冷やしてまともな考えを持つことだよ。この馬鹿騒ぎが全部済んで、落ち着いてくれたら、たいへんほっとするでしょうよ」と、マリラ。「今のあんたは歌と詩行で頭がいっぱいで、ほかに何も思いつかないんだろう。ところであんたの舌はいつでもたいへんにお忙しい様子だが、いっこうにすりへってなくなっちまわないんだね。驚くべきことだ」
 アンはため息をつき、裏庭へ出て行った。新しく若い月が裸の木の枝をとおして見えていた。マシュウが薪を割っていた。アンはそばの材木に腰を下ろすと、マリラに話したのと同じ、コンサートの件をこんどはマシュウに話しはじめた。
「そうさな、きっとすてきで感極まったコンサートになると、わしは思っとるよ。それにお前は自分の役回りを、みごとにやってのけるにちがいあるまいよ」と彼は言うと、座り込んだこどもの小さな顔に向けて微笑みかけた。
 アンもにっこりと微笑み返した。二人はまるで養父と養女というよりは、親友で、最高の友達のようだった。マシュウはマリラがアンに対するしつけのすべてをうけおってくれていて、彼はこどもにやさしくし、ともに楽しむだけで良いことを、ほんとうにありがたく思っていた。





12. "Matthew Insists on Puffed Sleeves"
マシュウ、パフスリーブにこだわる




 十二月の夜は冷え込み、空も地上も灰色になる。マシュウは外から帰ってくると台所に座り込み、重たいブーツを脱ぎにかかった。彼は気づいていなかったが、アンとクラスメイトの女の子たちが居間でコンサートのための練習をしていた。ちょうど練習が終わり、少女たちは台所を遠って玄関へ向かった。楽しそうに笑いあい、小鳥のようにひまなくおしゃべりをしていた。コートを着込み、帽子をかぶって、コンサートのことを話している間、マシュウのほうをちっとも見なかった。アンは女の子たちの中でも一番いきいきとしており、よく口を動かし、誰よりも瞳を輝かしていたが――マシュウは突然気がついた。アンと友達との間にははっきりした違いがある。アンの着物は、他の子たちの着物とぜんぜん似通っていない!
 マリラは常にアンに飾り気の無い、暗い色合いの、同じような簡単な柄の着物ばかりを作って着せていた。マシュウのような人間には当然のことながら、彼は着物の流行に詳しいとは言い難かったが、それでもアンの着物の袖が他の女の子たちの袖とまったく違うのは一目見てわかった。アンの周りの子たちは赤や青、ピンクや白の可愛らしい着物を着ていて――それで、マシュウはどうしてマリラがアンに地味な着物ばかりを着せるのか、不思議に思った。
 もちろん、マリラはそのことについて、他の誰よりもよく知っていた。そこにはマリラなりの考えがあるのだろう。マリラだけがよくご存知の、とマシュウは思った。しかし彼らのこどもに、ダイアナがいつも着ているような、すてきで可愛らしい服を一着あつらえてやることに、ひとつの害もありそうにないのもまたもっともだった。マシュウはアンにクリスマスプレゼントを贈ることを決意した。
 思い立ったがすぐ、次の日の夜にはマシュウは町までドレスを買いにでかけた。しかし女の子のドレスを買うことはマシュウにとって想像を超えた大難関だった。何件も店を回り、幾度かの成功とは言えない挑戦を経て、最後には彼は隣のリンド夫人にドレスを作ってもらうことにした。リンド夫人はわけ知り顔でたのもしく引き受けてくれた。さあ、あとはアンを驚かせるばかり。
 クリスマスの朝、窓の外は美しく真っ白な世界となった。その年の十二月は例年より寒さが和らぎ、雪の無いクリスマスになるのではないかと思われていたが、明けてみれば前の晩にじゅうぶんな量の雪がやさしくしずかに降り積もっていたのだった。喜びに満ちた瞳でアンは窓から顔を突き出した。木々の枝に雪が乗っかってまるで白い羽根に覆われているように見えたし、空気はとても新鮮で、神々しい感じさえした。申し分のないすばらしい朝だった。アンは歌いながら階段を駆け下りていった。
「メリー・クリスマス、マリラ! メリー・クリスマス、マシュウ! とんでもなくすてきなクリスマスね。雪が降ってくれてよかったわ。雪のないクリスマスなんて、なんだかほんとうじゃないみたいだもんね。ねえそう思うでしょ? マシュウ――これ、あたしに? ああ、マシュウ!」
 包んであった紙をあけて、マシュウはドレスを広げてみせた。そしてアンに渡して、よく確かめさせた。
 物音ひとつたてず、アンは手の中のドレスをじっとみつめた。部屋中がしーんとしていた。なんて可愛らしい服だろう――愛らしくてやわらかそうな茶色のシルクでできており、首のところにレースの飾りがついている。スカートも流行最先端だ。そして袖――それは最上の栄光につつまれていた! 長い肘のカフスの上に二つの美しいパフスリーブがついており、弓のようにふくらんで、茶色の絹のリボンで仕切られていた。
「クリスマスの贈り物だよ。そのう、そうさな、ああ――アン、気に入ってくれるかね?」
 はにかみながらマシュウは言ったとき、アンの目にはすでに涙があふれだし、いっぱいになってしまっていた。
 「気に入るに決まってるわ。ああ、マシュウ!」アンはドレスを皺にしないよう、一旦椅子の背にかけると、気持ちを押えきれないように両手を胸の前でがっちりと組み合わせた。「最高に、文句のつけようがないくらいほんとうにきれい。これ以上すてきなものなんかあたしには考えられない。このそでを見て! ああ幸せすぎて夢を見ているみたい」
「じゃあそろそろ朝食を片付けましょうかね」マリラがわりこんだ。
「言っておく義務があるだろうね。あたしはあんたにそんなドレスは必要ないと思っています――だけど、マシュウがあんたにあげたんだからね。大事にしなければならないよ。その袖には特別な布地がたくさん使ってあるようだよ」
「ええもちろんよ。でもあたしどうやって朝食を食べたものかわからないの」夢見るような声でアンはこたえた。「この特別の瞬間にくらべたら、朝食なんて平凡すぎるわ。食事よりドレスを眺めてるほうがいいの。ああパフスリーブがまだ流行っていて良かった。一度も着ないうちに流行りがすたれてしまったら、一生涯あきらめきれないところだったわ。ねえあたしこんなに満たされたこと今までなかった。わかるでしょ? あたしがこのドレスにふさわしいような、模範的な女の子じゃないのを残念に思うわ。あたし今まで以上に、特別の努力をはじめわ」
 朝食が終わったころにダイアナがやってきた。華やかで小さなくて、真っ赤なドレスに身を包んでいた。アンはとんでいって腹心の友を出迎えた。
「メリー・クリスマス、ダイアナ! すばらしいクリスマスね。ねえあんたに見せたいものがあるの。とってもすてきなのよ。マシュウがドレスをプレゼントしてくれたの。たまらなく美しい、大きくふくらんだ袖がついてるのよ。あんなにすばらしいもの、このあたしにして想像したこともないほどよ」
「実はあたしも、あんたにあげたいものあるのよ!」と、ダイアナは言うと、「どうぞ」と贈り物の箱を差しだした。箱を開けると最高に可愛らしい皮ごしらえの靴がはいっていた。つま先はビーズ玉でかざられ、サテンのリボンときらきら輝く留め金がついている。
「ああ……」と、アンは感極まった声を出した。「すごすぎて声も出ないわ。あたし夢を見てるにちがいないわ。ドレスも靴も、あつらえたようにコンサートにぴったり」

 その夜、アヴォンリーの学校に通う生徒たちは誰もが興奮し、熱を上げていた。町の広場はきらびやかに飾り付けられ、最後の準備も終わっていた。
 コンサートは夕方から開演し、そして、結論から言うと、大成功をおさめた。町中の人間が広場につめよせた――すべての演者たちが個々人の持てる力を出し切り、出来る限りのすばらしい出し物を見せた。なかでももっとも輝いたものといえば、アン・シャーリーをおいて他にいなかった。アンはその夜、ひときわ輝いたスターだった。。
「ああほんとうにすばらしい夜だったわね。驚異的な夜だったわね」すべてが終わったあと、ダイアナと家路につきながらアンは感想を述べた。空には星がきらきら輝いていた。空気が澄んでいて、いつもよりも星の数が多く見えるように思った。。
「なにもかもが一番いい想像以上にうまくいったわ」と、ダイアナ。「あたしたちきっと十ドルも稼いだにちがいないわよ。新聞に載るわよ」
「明日の朝新聞を読んだら、自分の名前が目に飛び込んでくるのね。考えただけでぞくぞくっとしちゃう。ねえダイアナ、あんたのソロパート、ひとつの狂いもなかったわ。言葉通りに完璧な出来だった。あたしあんたのような友達がいて、心の底から誇りに思うわ。大好きな腹心の友よ、そは名誉なり」
「あんたの朗読こそ満場の大喝采だったじゃない。なかでも悲劇詩のほうはそりゃあすばらしかったわ」
「あたしあの詩を読む前は、小鼠のようにおどおどしてたのよ。名前を呼ばれてもわからなかったくらいで、どうやってステージに上がったかも憶えてないのよ。やっとこさ人前に出たら、百万もの視線に射ぬかれたような気持ちだったわ。もし何も起きなければ一言だって口にできなかったでしょうね。
 あたしその時、この袖のことを考えたの。この格好良いパフスリーブのことよ。そしたら泉の水のように勇気がわいてきたの。読み終わって椅子に座る頃には、あのお年を召したスローン夫人が涙を拭いているのがステージの上から見えたわ。あたしの朗読が彼女の胸に届いたんだって思った。誰かの心に触れる朗読が出来たんだって思ったの。それであたし、すごく感動して、泣きそうになっちゃった。
 ねえコンサートに参加するのって、なによりロマンチックなことね。そうじゃない? ああ実際いつまでも、生涯にわたって心に残る経験だわ」
「男の子たちもすてきだったわね」と、ダイアナがさらりと、アンの注意をうながした。「ギルバート・ブライスが、やっぱり一番ハンサムだったわ。ねえアンあたしね、あんたのギルバートにたいするやりかたって、決して良くないと思うの。ほんとうにひどいと思うわ。待って、話を聞いて。あたしたちの劇の妖精のシーンの後、あんたがステージから引き上げた後よ。あんたの頭から飾り付けの薔薇が一本落ちてたのよ。ギルバートがそれを見つけたの。彼はそれを拾って、自分のポケットに挿したわ。ほんとうよ! ねえあんたロマンチックなこと好きだから、この話よろこぶって思ったのよ」
「そいつが何しようがあたしはなんにも感じないの」と、アンはすまして言った。「あいつのことを考えるなんて無駄なことはけっしてしないのよ」

 その夜、マリラとマシュウもコンサートに出掛け、アンの晴れ舞台を見物していた。老兄妹がコンサートなどというものに行くのは、実に二十年ぶりのことだった。アンが寝てしまったあと、二人は台所の火のそばに腰掛けて、しばらく話をした。
「アンは他の誰よりもうまくやっていた」とマシュウが言った。声には誇らしい得意げな調子があった。
「ああ、あの子はよくやったよ」と、マリラも認めた。「言いたかないがあの子にはなんというか、華があると思うんです。それに今夜はとてもきれいにみえた。あたしでさえあの子を自慢に思ったくらいだよ。もちろん本人にそんなこと言う気はありませんけどね」
「わしはアンが自慢だし、あの子が寝る前にきちんとそう伝えたよ」と、マシュウ。「わしらがあの子にしてやれることが何なのか考えにゃならんだろうな。今だけじゃなくて、将来についてもだ。わしはあの子がやがてアヴォンリーの学校では満足できないくらい、多くのものを必要とするようになると思う」
「そんなことを考える時期に来たのかね。次の三月で、やっと十三歳になるばかりだってのに。ああ、あたしだって、今夜あの子の姿を見て、すごく成長したのに気づいたんだ。あたしは何かに打ちのめされた気持ちになりましたよ。あの子は驚くべき早さでいろんなことを覚えていくし、ねえ兄さん、あたしたちがあの子にしてやれるもっともいいことと言えば、クイーン学院に入れてやることじゃないかと思ってるんですよ。でも、まだ早いね。あと二年経たなけりゃ、わざわざ言う必要もないことだ」
「そうさな。が、真面目に考えていくこととしよう。決して無駄にゃならんからな」マシュウが言った。「何事についても真剣に検討せにゃならん。いつだってそれが一番大事だし、良い方法なんだ」





13."An Unfortunate Lily Maid"
不運な白百合姫




 あまりの興奮状態が二ヶ月も続いたため、コンサートの後、アンたちは普段どおりの生活に戻るのにずいぶん苦労したものだった。アンはなかでも特別にそうで、なかなか熱気が冷めやらず、数週間も経った後にようやく目をぱちくりさせ、しらふで物事が見えてきたような調子だった。そしてこう感想を述べた。コンサートの前の喜びに満ちた日々をなつかしく思うが、ただちにもう一度戻りたいかっていうと、そうは思ってないのよ。最初に聞かされたのはダイアナだった。
「あたしは前向きな人間なの。人生に同じ時は二度と来ない、というじゃない。残念ながら、コンサートがあると、いつもの当たり前の生活が犠牲になっちゃうのね。いまならわかる。それがマリラがぶつくさ言って、賛成しなかった理由だったんだわ」
 ともあれアヴォンリーの学校は少しずつ熱気からさめて、いつもどおりの日常に戻っていった。コンサートの後も学校はステイシー先生の小さな王国で、すべてが彼女の意思にしたがって運営されていた。数ヶ月がいつのまにか過ぎていき、ふと気づくと、やるべきことはスラスラとはこんでいた。アンたちはテニスンのアーサー王についての物語詩を学んだ。そこではまるで実際の人物みたいに、登場人物がいきいきと動き回っているのだった。

 夏になった。ある日の放課後、アンと何人かの女の子がバーリーの池の周りで"ごっこ遊び"をしていた。エレーンは白百合のお姫様で、亡骸となって小舟に乗せられ、川をくだっていくのだ、とアンはみんなに向かって物語上の事実を思い起こさせた。
「もちろんエレーンはあんたがやるのよね、アン」と、ダイアナ。「ボートの底に横たわって流れていくなんて、おそろしくてあたしできないもの」
「エレーンが赤毛だなんて書いてなかったでしょ」と、アン。エレーンを演じたくないわけではなかったが、彼女の芸術的良心が抵抗するのだった。「おっかながってるわけじゃないわ。でもルビーのほうがエレーンにふさわしいと思う。だって、ルビーの髪の毛ったらすごく綺麗な金髪のロングヘアーじゃない――エレーンは"彼女の輝かんばかりの髪が滴り落ちる"なのよ。知ってるでしょ?」
 オーチャード・スロープから下ったところにある池のまわりで、ルビーとジェーンはこの午後をずっとアンとダイアナといっしょにすごしていた。この日だけではなく、この年の夏のほとんどの遊び時間を、彼女たちはここで費やしていたのだった。橋を渡ればすばらしいマスがいたし、バリー氏所有の底の平らなボートをうかべて遊ぶこともできた。
 ボートはいまのところきちんと繋ぎ止められていて、ロープをほどいて池面に押し出したとしても、流れていく場所はだいたいわかっていた。たぶん橋の下をくぐって、向こう側の土手に着くだろう。エレーンの場面を演じるにあたって、他に問題になりそうなところはなかった。
 アンはなかなか承知しなかったが、最終的にはアンがエレーンをやることに決まった。「ルビー、あんたがアーサー王で、ジェーンがグィネヴィアね。ダイアナはランスロットよ。ダイアナ、ボートの底にショールをしいてもらえる? あんたのお母さんの古いやつ、もってきたでしょ」
 ショールを広げ終わると、アンはいそいそとボートに乗り込んだ。底に横たわって、目を閉じ、手をたたんで胸の前に置く。
「やだ、ほんとに死んでるみたい」と、ルビー・ギリスがおそるおそる小さな声で言った。「ちょっと怖くなっちゃった」
「落ち着いてよ」と、アン。「じゃあ、ジェーン、スタートよ」
 ジェーン・アンドリュースが金色の布をアンにかけてやり、大きな青いアイリスの花をアンの組み合わせた手の上にたむけた。「準備完了よ」と、ジェーン。「あとは、動かない眉の上にキスして、"わたしたちの近しい妹よ、永遠にさようなら"と言って、ボートを押してやればいいわ」
 少女たちがボートを押し出すと、ボートは一度、池面に突き出ていた岩に衝突したものの、すぐにするすると水の上をすべり、橋のところまで行きついた。
 ゆっくり浮かんで流れていた少しの間、アンはロマンチックなシチュエーションを心ゆくまで楽しんでいた。だがその後に起きたことはちっともロマンチックじゃないことだった――ボートの底から水がもれはじめ、たちまち内部に水が溢れ出した。向こう岸に着くはるか前にボートは沈んでしまうだろう。オールで漕いだら? もちろん、オールは出発前においてきてしまっていた!
 アンは小さな叫び声をあげた。だが誰も聞くものはいなかった。恐ろしさに唇が白くなった。が、ひとつだけ助かる方法があることに気づいた――ひとつだけ。アンは神様に祈った。「ああ神様、どうかこの舟が橋の脚のところに流れ着きますように」。何度も何度も繰り返し祈った。祈りの答えは正しくあらわれた。すぐにボートは橋脚にどんと突き当たり、アンは乾いた木でできたそれによじ登った。
 ボートはそのまま流れていき、ずぶずぶと沈んでしまうと、すでに下手の土手で待ち構えていた少女たちからはアンもいっしょに沈んでしまったように見えた。あわてて彼女たちは助けを求めに走り去った。橋のほうを見ていればアンがそこにしがみついているのが見えたはずだったが。
 取り残されたのはほんの少しの時間だったが、不幸な白百合姫としては、それが一時間にも思えた。どうして誰も助けに来てくれないの? みんなどこに行っちゃったの? もしかするとこの場所って、いままで誰も来たことないところなんじゃないかしら!
 そのとき、アンがほんとうにこれ以上ちょっともしがみついていられないと思った瞬間だった、ギルバート・ブライスがボートを漕いで橋の下にやってきた。
「アン・シャーリー! いったいぜんたい何だってそんなところにいるの?」
 アンが答えるのを待たず、ギルバートはボートを橋の脚に寄せ、アンに手を伸ばした。――アンはギルバートの手をとり、しがみついていた木から離れて彼のボートに乗り込んだ。体は濡れていたし、まったく気に食わなかった。何なのよ、これ! 助かってよかったって思わなきゃいけないの?
「何があったんだい?」ギルバートがたずねた。
「エレーンの演劇をしてたの」アンは説明した。あまり彼のほうを見ないようにしていた。「ボートの底から水が漏れ出して、みんなは助けを求めにどこかへ行っちゃったってわけ。向こう岸まで、あたしを運んでくれる気はある?」
 ギルバートが舟を漕ぎ、向こう岸に着けると、アンはぴょんと跳んで地面に降り立った。
「すごく感謝してるわ。どうもありがとう」アンは無表情に言うと、背を向けてすぐに去ろうとした。けれどギルバートもそのときボートから降り立っていて、後ろを向いたアンの腕を手でつかまえた。
「アン」と、ギルバートが声をかけた。とても早口だった。「聞いてほしいんだ。僕たち、良い友達になれるわけないって、今でも思ってる? あのとき君の髪の毛をからかったこと、とても後悔してる。君を怒らせるつもりじゃなかったんだよ。冗談のつもりだったんだ。それに、もうずっと昔のことじゃないか。いまじゃあ僕は君の髪の毛、とても可愛いと思ってるんだ――正直な気持ちだよ。ねえ、僕たち友達になろうよ」
 アンは立ち止まり、振り返った。ギルバートの茶色の目には恥ずかしい気持ちと、懸命な気持ちが半分ずつ浮かんでいるように見えた。それは彼女にとってとても好ましく思えた。心臓が小さく早く鼓動を打ちはじめた。が、そのとき、二年前の情景がアンの心にとつぜんよみがえり、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出された。あたしはまだ怒っている、とアンは感じた。あたしの受けた侮辱は決して時間では癒される性質のものではないのだ。アンはギルバート・ブライスが大嫌いだ! 絶対に許さないだろう! 「いやよ」と、アンは冷たく言い放った。「ギルバート・ブライス、あなたとは決して友達にならないわ。さあ、あたしはもうここにいたくないの!」
「よくわかったよ」頬を怒りの色に染めて、ギルバートはボートに飛び乗った。「友達になりたいなんて、二度と言ってやらないからな。アン・シャーリー、君のことなんかもう考えない!」
 ものすごい速さで舟を漕ぎ、ギルバートはあっという間に向こうへ行ってしまった。アンはカエデの木の下の急な小道を駆け上がった。きっと顔を上げていたが、心の中は後悔の気持ちでいっぱいだった。ギルバートに違った答えを返せば良かった、という疑念が心の中に生まれてきて、あわてて打ち消した。もちろん、彼はアンの心をひどく傷つけたのだ。でも、――それでも。
 その場に座り込み、思い切り泣いてしまえばきっとせいせいするだろう、とアンは考えた。その日グリーン・ゲイブルズに戻り、マシュウとマリラといっしょになると、やっと彼女の心は安らいだ。





14."The Queen's Class Is Organized"
クイーン組の呼びかけ




 マリラは編み物の手を休め、椅子の背もたれによりかかって背を伸ばした。目が疲れていて、次に町に行ったときに新しい眼鏡を買わなければいけないと思った。が、彼女は徐々に失明に近づいているようで、眼鏡もそれほど手助けにはならないとも感じていた。周りはほとんど暗闇で、十一月の夕暮れがグリーン・ゲイブルズに落ちかかっていた。明かりといえば台所のストーブのなかで、踊るように燃えている赤い炎ばかり。
 アンは床の敷物の上で丸くなり、じっと火に目を据えてその輝きを見つめていた。火には歓喜にちかい喜びがあるわ、と彼女は詩的に考えた。アンは本を読んでいたのだけれど、いつのまにか本は床にほうりだされていた。夢を見ているような瞳で、唇には笑みがうかんでいた。柔らかい火の明かりに照らされるアンを、マリラは愛情のこもった目で見つめた。マリラがどれだけアンを愛しているか、アンはちっとも知らないのだった。
「アン」と、マリラは急に声をかけた。「今日の午後、ステイシー先生がここをたずねてきたんだ。あんたとダイアナが外で遊んでる間にね」
 アンは唐突に、夢の世界から引き戻されたようだった。
 「ステイシー先生が? ああ、じゃあ、ここにいればよかった。すごく残念だわ。マリラ、なんでそのとき呼んでくれなかったの? あたしたち、向こうの森にいただけだったのに。ええとそれで、先生はなにしにいらっしゃったの?」 
「それをあんたに話したいんだよ。ねえアン、ステイシー先生は優秀な子を集めて、ひとつのクラスを作って特別の勉強をさせたいんだそうだ。クイーン学院の入学試験に向けた勉強だよ。学校が終わった後、そのまま校舎に居残ってさらに一時間の特別授業をやる。で、あたしとマシュウに、あんたをそのクラスに入れてもいいか、って聞きに来たのさ。アン、あんた自身はどう思うね? あの先生に教わって、クイーン学院に行きたいかい?」
「ああマリラ、それこそあたしがずっと夢見ていたことなのよ――六ヶ月前にルビーとジェーンが受験勉強について話していたっけ。あたしね、学校の先生になりたいって思っているの。心から思っているのよ。でもクイーン学院に入るのって、とてもお金がかかるんでしょ?」
「あんたが心配する必要はないね。マシュウとあたしは、あんたがずいぶん成長したって、この前も二人で話したよ。アン、あたしたちはできるかぎりの良い教育をあんたに施してやろうって、そう決めたのさ。女の子が自分の人生を生きるためには、必要かどうかに関わりなく、自分でお金を稼がなくちゃならない。あんたがもし、もしだよ、このグリーンゲイブルズの家でずっと暮らしたいと考えていたとしよう。あたしやマシュウと同じにね。でも、このあてにならない世界で、何が起きるかなんて誰にもわからないんだからね。何が起きてもいいように、準備は万端にしとくもんだ。やれることはやっておくべきなんだよ。だからあんたはただ、特別クラスに入りたい、って言えばいい。もちろんあんたが望めばだけどね」
「ああマリラ、ほんとうにありがとう」アンは両腕をマリラにまわして抱きしめた。そして養母の顔をじっと見つめた。「あなたとマシュウにはいくら感謝してもし足りないわ。あたし、死ぬ気で勉強する。どんなことがあっても全力を尽くすから」
「あんたはうまくやると思うよ。いままでそうだったもの。ステイシー先生はあんたのことを"特別な輝きをもっている"と言ってたよ。でもね、あんまり急いじゃいけない。極端に勉強して本ばかり読みすぎると、おかしな人間になっちまうからね。まだ一年半も先の話だ。よくよく基礎を固めておくがいいんだよ」
「でも、いままで以上に勉強が大好きになったって、かまわないわけでしょ?」と、アンは幸せそうに言った。「人生の目標ができたんだもの。あたし、ステイシー先生みたいな教師になりたい。あたし先生って、すごく大事で高尚な仕事だと思うのよ」
 そして特別クラス――クイーン組が編成された。学校に通うすべての生徒から選び出された七名によるエリートクラスだ。ギルバート・ブライスとジョーシー・パイがそこに入るだろうことは、アンもわかっていたけれど、ダイアナ・バーリーがいなかったことには少なからずショックを受けた。ダイアナの両親は、彼女を大学へ送る気はなかったのだ。
 クイーン組ができて最初の放課後、学校に残って特別授業を受けていたアンは、教室の窓から、ダイアナがゆっくりとひとりで歩いて家に帰っているところを見つけた。その日は席に座っていてもそのことばかりが気にかかって、他のことが何もできなかった。本を目の前にかかえて、泣いているのを隠した。ギルバート・ブライスやジョーシー・パイに泣き顔を見られるなんてまっぴらごめんだった。
「ダイアナがひとりで帰っているのをみたとき、ほんとうに胸が張り裂けそうになったのよ」家に帰ると、アンは悲しそうに話し始めた。「ダイアナといっしょに勉強できたらどんなにすばらしいだろう。でも、何事にも完全はありえないこの世の中で、完全は望めないのでしょうね。
 それにクイーン組がこれからすごく面白くなるだろうってことは、あたしも認めるのよ。ジェーンとルビーはあたしと同じく、先生になるために勉強してるの。ルビーは教師になったとしてもきっと二年間しかやらないわ、って言ってるけど。すぐ結婚するつもりなんだって。ジェーンは反対に、人生のすべてを教育にささげて、結婚なんて絶対にしない、って。先生になったらお給料をもらえるけど、結婚したって旦那さんからはお給料をもらえないのよ、だって」
「そうかい。ギルバート・ブライスは何になりたいんだい?」と、マリラがたずねた。
「さあ? あたしはギルバートの将来の夢なんか興味がないし、知らないの――そりゃ何かひとつ、あるんでしょうけど」と、アンは冷たく言った。
 もちろんまた、ギルバートとアンの競争ははじまっていたのだった。いまのところ一進一退で、どちらが優勢ともわからなかったが、ひとつだけ間違いなく言えることは、ギルバートはアンがそう思っているのと同じくらい、完璧な優等生であろうと決心したということだった。
 ギルバートはアンを除く他の女の子とたちと良くおしゃべりし、冗談を言い、本の貸し合いっこをしていた。勉強のことや将来のことについて悩みを話し合ったり、ときどきはその女の子たちのひとりといっしょに帰ったりもした。アン・シャーリーははっきりと無視されていた。そしてアンは無視されると、どうにも気分がよくないのに気づいた。ギルバートに何されようとぜんぜん気にしないのに、と彼女は自分自身に言い聞かせていたけれど、心の奥底で、自分の女の子の気持ちはずいぶん傷つき、彼の行動を気にかけないではいられないのだと、ちゃんとわかっていた。
 アンは自分の心に深く問いかけてみた――これまでのことを思い出して、整理して、感情の出所をくまなく探った。バーリーの池での機会がもう一度あったら、自分はなんと答えるだろう、と考えた――それで何もかもがいっぺんにすっきりしたようになった。つまり、アンはもうギルバートを許してしまっていたのだ。でも、もう遅いということもわかっていた。

 かくのごとき問題をかかえながら、この年の勉強漬けの冬は過ぎていった。アンにとっても日々は瞬く間に過ぎていった。まるで金色のビーズをネックレスにつけてるみたいな一年だった。彼女は幸福だった。熱心で、とても興味をもっていた――授業を受け、学び、知識を自分のものにすることについて。それから夢をかなえる栄誉と、本を読む喜びについて。
 そして新しい春が来たということは、クイーン組はその期間を終えたということだった。先生も、生徒も、安心して息をついた。目の前にあるのはうれしい、薔薇色の休暇だった。
 その夜アンは家に戻ると、いままで使っていたすべての科目の教科書をすべて、古い箱につめこんで、片付けてしまった。
「この休み中は学校の本なんて開くどころか、表紙だって目にしたくないわ」と、マリラに話すのだった。「クイーン組の間、自分でできるぎりぎりまでずっとぶっ通しで勉強してたんだもの。代わりにお休みの間はめいっぱい楽しむことに本気を出すわ。もしかするとあたしの少女時代の最後の夏になるかもしれないんですものね。
 もし今年と同じくらい来年もあたしの身長が伸びるなら、そのときは長いスカートをはかないといけなくなるでしょう。長いスカートをはかないといけないってことは、それにふさわしい威厳をもって中身をみたさなきゃならないのよ。そのときには、あたしは妖精を信じるような子どもではいられないわ。だからそのためにも――今年の夏いっぱいは、心の底から妖精さんを信じる子どもでいるわ!」
 宣言どおり、アンはその夏をめいっぱい楽しんだ。いわく「あたしの人生における黄金の夏」で、朝から晩までまったくの自由にしており、ずっと屋外で遊んでいた。アンの関心のすべては、太陽の下を歩き、ボートをこぎ、友達と遊ぶことに向けられた。すべては完全に輝いていた。ただひとつ、マシュウの健康状態をのぞいては。
「以前から心臓は良くなかったけどね、このごろはひとしお発作が多くなった」と、マリラはアンにうちあけた。「お医者様はあんまりつらい仕事をさせちゃいけないって言ってる。あたしからも、仕事をするより生きて息をするほうが大事なんだって教えてやれ、なんて物言いさ。でもあんたが気にすることはないんだよ。アン、あんたはあたしたちにとって、とても助けになってるんだ。あたしはいつでもあんたを信用してる。ほんとうさ。何も心配しちゃいないね」

 九月になった。一時期は心配したものだったが、このころにはマシュウはずいぶんよくなったように見えた。アンは目を輝かせて新学年の準備をはじめた。
「あたし勉強するの好きよ」と、本と新しい洋服を並べて、アンはマリラに言った。「頭を使って考えて、答えを出すことこそ、人の成長に必要だと思うのよ。だからあたしはいつでもそうしてる。ほんとうは何が正しいのかってたくさん考えるの。とても忙しいわ。
 成長することってだからたいへんなことだと思う。マリラ、あなたや、マシュウや、ステイシー先生みたいなすばらしい人たちが周りにいて、あたしほんとうに良かった。
 ねえこの夏であたし二インチも背が伸びたのよ。新しい洋服、すそを長めにつくってくれてありがとう。この暗いグリーンの色がすてきよ。それにこのひだ飾り、すごく可愛いわ。こんなのつけてくれたのはじめてね。もちろん、こんな可愛いドレスがほんとうは必要じゃないんだって、知ってるわよ。そう言いたいんでしょう? でも、このひだ飾りはすごくおしゃれで、この秋の流行よ。ジョーシー・パイの服にはひとつ残らずついてるわ。
 あたし自分が今までもらったもののために、たくさん勉強をするだろうって、自分でちゃんと知ってるの。このすてきなひだ飾りはあたしの心をたいへんに安らかな気持ちにしてくれた。心のずっと奥の方からそうなったように感じたのよ。大事にするわ」
「それだけの値打ちはあるものだよ」と、マリラは簡単に、しかし厳粛に認めた。

 休暇が終わった。ステイシー先生はアヴォンリーに帰ってくると、以前以上の仕事への情熱をたちまちとりもどした。とくにクイーン組については、この学年の終わりまでに入学試験の準備を終わらせておかなくてはならないのだ。
 もしも不合格になってしまったら? その冬、アンの頭からその心配事が離れた瞬間はなかった。起きてる時間のほとんどはそのことで頭がいっぱいだった。夜の眠りの中でも、みじめな気持ちで合格発表をみている夢を見た。トップ合格の場所にはギルバート・ブライスの名前が大きく書かれている。アン・シャーリーの名前はというと、目を凝らしてくまなく探してみても、どこにもない。
 けれどそれも、冬の楽しさに比べれば笑い話のひとつだった。季節はとてもすばやく、忙しく過ぎ去っていった。また新しい世界が、アンの好奇心たっぷりの、貪欲で熱心な瞳に映りはじめたのだった。ステイシー先生はクラスを統一し、見事に導いた。生徒ひとりひとりに考え、探索し、自分自身を発見することを教えた。勉強を別にしても、此の冬、アンの住む世界はずいぶんと広がった。パーティー、コンサート、スケート、それにその他のすてきな遊び。
 アンがどんどん成長していくのをマリラは驚きの目で見つめていた。ある日、彼女とアンが並んで立つと、いつの間にかアンはマリラの身長を追いこしていた。あの小さな子どもはもういなくなってしまったのだ、とマリラは考えた。彼女に愛することを教えてくれた子ども。目の前にいるのは背の高い、凛々しい目をした十五歳の少女だった。考え深げな眉に、こころもち頭を持ち上げて、前を向いているのが、彼女の内心の誇りをうかがわせた。もちろんマリラは、以前の子どものアンを愛していたのと同じくらい、少女のアンも好きになった。
 その他にもアンは以前と比べて変わってしまったところがあった。背が伸びたなどの体にまつわることよりもそれは深刻な変化だった。ひとつには、彼女は以前よりずうっと静かになってしまったのだ。
「あんたは以前の半分くらいしかおしゃべりしなくなったね。それに大げさな言葉づかいも、半分くらいになったみたいだ。さて、あんたに何があったんだろうね?」ある日、マリラは少女にたずねてみた。
 アンは少し表情を変え、それからちょっと笑って、読んでいた本を置き、うっとりするように窓の外を見た。そして、
「知らないわ――あたし、そんなにしゃべりたくなくなったのかも」と、答えた。「楽しいことや、可愛いもののことなんか考えるのは今でもとても好き。だけどそれを口にしないで、心の中でずっところがしてるのも好きになったの。あたしにとって宝物みたいな時間よ。それにいろいろ勉強したり、やってみたり、考えたりするので忙しくて、おしゃべり使う時間がなくなっちゃったのもあるわ。
 それからええと、大げさな言葉をあまり使わなくなったのは、ステイシー先生を見習ったの。先生はとても短い言葉でずっと強い効果を出すし、ぴったりと性質を言い表すの。"できるだけ簡潔に書くように"って指導して、先生はあたしたちに自分自身についてのエッセイを書かせたわ。はじめのうちはものすごく難しかった。あたしは大げさで、格好の良い言葉ばかりに慣れていたし――頭の中でも、そんな言葉ばかり使って考えていたんだし。でもいまじゃあ簡潔な言葉で表現するのにも慣れたし、そのほうがうまいこといくのもわかったのよ」
「そうかい。あと二ヶ月で入学試験だけど」と、マリラ。「どうだい、合格できそうかね?」
「わかんない。ときどき何もかもうまくいったらって楽天的に想像するんだけど――次には同じくらい不安な想像が襲ってきて、怖くなっちゃうの」と、アンは認めた。「たくさん勉強してきたけど、やっぱり、人それぞれどうしても弱点はあるのよ。あたしにとっては幾何学がそう。ステイシー先生は六月に入学試験と同じくらいの難しさの模擬試験を行うそうよ。それで、まあ、一応の判断はできるでしょうね。でも、そのう――あたしときどき、夜中に飛び起きるのよ。不合格になった夢があんまりにも怖くて」
「そんなに怖がることないじゃないか。なんならもう一年アヴォンリーの学校に行って、また次に受けなおしたらいい」
「ああ、ありがとう。でもきっとあたしそんなの耐えられないわ。もし不合格になったら、絶望で心臓が破けちゃうと思う。とくにギ、ギル――他のみんなが合格してたりしたら」と言うと、アンは窓の外の、緑色の春の世界から目を離し、また本を読み始めた。
 そう、また春がやってきたのだ。六月の模擬試験の結果はかんばしくなかった。本試験で合格するためには、この春に彼女がやろうとしていた様々な楽しみを、すべてあきらめないといけなかった。





15 "The Pass List Is out"
合格発表




 六月が終わり、アンのアヴォンリーでの最後の学年も終わった。ステイシー先生の授業を受けられるのも今日が最後だった。学校がひけた後、アンとダイアナはいつものように歩いて帰る途中で、悲しい気持ちにおそわれた。ほんとうにとても悲しい気持ちだった。ダイアナは丘の上で足を止め、振り返って校舎をみつめた。
「なんだかすべてが終わってしまったみたいな気分だわ。あんたもそうじゃない?」と、アンに言う。
「ダイアナはあたしの半分くらいしかそう感じてないと思う」と、アン。泣いていたせいで目は真っ赤になっていた。「だってあんたは冬になったらまたここに戻ってくるんじゃない。でもあたしは永遠にこの親愛なる、古ぼけた学校から離れてしまうのよ――運よく試験に受かったらだけど」
「あたしたちすごく楽しい時間を過ごしたものね。ほんとうにね。ねえあたしはおびえているのよ、その時間がもう終わっちゃったんだって、もう戻ってこないのだと思って」
 大きな涙のつぶがふたつダイアナの瞳からこぼれおちて、鼻の頭までつたった。
「あんたが泣くの、あたしに止められたらいいんだけど」と、アンは言った。
「ステイシー先生が言ってたわ。"楽しくないときでも、まるで楽しいみたいな顔をしてなさい"って。でもダイアナ、あたしなんだかんだ言って来年もここに戻ってくるような気がするのよ。だってきっと合格しないもの」
「ほんと、あたしもいっしょに行けたらいいのに。ずいぶんがんばって、運動したんだけど」と、ダイアナ。「ねえ向こうに着いたら手紙を書いてね。きっとよ」
「もちろん。木曜の夜には、最初の日にあったことなにもかも書いて送るわ」と、アンは約束した。
 次の月曜日アンは町を出た。水曜日にはダイアナは最初の手紙を受け取っていた。



  限りない親愛をこめて ダイアナへ

  今は火曜日の夜で、あたしはクイーン学院の図書館でこの手紙を書いています。昨日の夜はひとりぼっちでさみしくて、とても怖かった。あんたがそばにいてくれたらいいのにって、何度思ったか知れないわ。昨日は最初の試験があったの。心臓がどきどきしちゃって、音が隣の部屋にまで響いてるんじゃないかって思った。男の人が入ってきて、英語の試験用紙を全員に配ったの。緊張して手が冷たくなって、紙をめくるとき、頭の中がぐらぐらする感じだったわ。あたしの人生の中でも一、二を争うくらい緊張した瞬間だったわ――ダイアナ、あたしそのとき、ちょうど四年前に戻ったみたいだった。あたしはマリラにこう聞いたのよ、あたしをグリーン・ゲイブルズおいていただけますか、って。――で、そのことを思い出したら、全部の心配事が頭から抜け出て、すっかり落ち着いちゃった。試験といっても、たかだか紙に書いてあることだけの話です。このくらいのことあたし簡単にこなせるんだって思ったの。以前の経験と比べたらね。
  その日のテストが終わると、あたしたちは街にくりだして、アイスクリームを食べました。ほんとあんたが恋しかったわ。
  ああダイアナ、幾何学のテストさえ終わってくれたらね! でもステイシー先生ならこう言うでしょう。あなたが幾何学で落ちるかどうかに関わりなく、太陽はまた昇るのよ。曇か晴れかはそのときになってみないとわからないことです、なんて。もちろんそれはそうだけど、でもちっとも元気づけられないわね。ええい、もし落っこちても、つまるところ先へ進まないよりはましだ、って思うことにしよう!

                   あなたの献身的な友達
                   アン



 アンが帰って来たのは金曜の夜だった。疲れてはいたけれど、むしろ帰ってきたよろこびのほうが強かった。ダイアナはアンの帰宅をグリーン・ゲイブルズで待ち構えていて、まるで一年も引き裂かれていたかのように腹心の友を出迎えた。

「おかえりなさい、いとしい人。あなたにもう一度会えるのは望外の喜びです。ねえアン、あんたが去ってしまってから、まるでひとつの時代が過ぎたように感じていたわよ。あんたはこの年月をどのように過ごし、何を手に入れたのかしら?」

「ダイアナ、この台詞をご存知かしら? ああ、まだあたしには帰れる所があるんだ……こんなに嬉しいことはない。あのね、グリーン・ゲイブルズは世界で一番優しくて、すてきで、環境が良くて、愛にあふれた幸せなところよ」と、アンは言った。「試験に受かったかどうかはわからないけど、でもへたに最下位なんかで通るようだったら、落ちちゃったほうがましだと思ってるわ」。つまりアンがなにを言いたいかというと――それはダイアナも、じゅうぶん気づいていたことだが――もし、彼女がギルバート・ブライスより劣る成績で合格するようなら、それは完璧な成功とはいえないし、きっと苦い気持ちになるに違いないということだった。
 アンはこれまでギルバートと道で十二回も行きあったが、二人ともお互いを見ようとしなかったので、十二回も無視して通りすぎていた。そして毎回、すれちがいざま、アンは頭をちょっと高くもちあげてみたりするのだったが、心の中ではいつもギルバートと仲直りすることを考えていた。つまり彼がまた彼女に友達になりたいと言ってくれればいい、と考えているのだった。でもそうならなければ、お互いの関係はこれまでどおり。アンはアヴォンリーの全住民が、誰が一番試験で良い点数をとったのか、興味津々であることを知っていた。アンはどうしても勝ちたいと思っていた。
 けれどそんな意地のほかにも、アンにはもうひとつの勝ちたい理由が――より崇高な理由もあった。良い成績で合格するのはマシュウとマリラのために望んだことだった――とりわけ、マシュウのために。彼はいつも、アンが「この島のすべてものに元気をあたえてくれる」と信じていた。マシュウの目はやさしい茶色の目で、アンは彼に彼女の達成したことを、そして誇りに満ちているであろう自分自身の将来の喜びを、見せてやりたいと強く望んでいた。それは彼女自身にとっても、この上なく甘いごほうびになるはずだった。

 三週間経った。まだ合格発表は出ておらず、アンはそろそろ待つことに耐えられなくなりそうだった。そしてある夕方ニュースがやってきた。アンはグリーン・ゲイブルズの出窓に腰かけて、美しい夏の夕暮れを見ながら陶然としていた。ダイアナが飛ぶように丘の上を駆けてくるのがみえた。手には新聞紙を持っていた。
「アン、あなた受かったわ」と、彼女は叫んだ。「合格したの。それも、一番の成績でよ――あなたとギルバートが、同点一位だったわ――あなたたち二人が! でもつづりの都合であなたの名前のほうが上にあるわよ。おめでとう! あたし、なによりも誇らしいわ!」
 アンはじっと新聞をみつめた。そう、たしかに、彼女は受かっていた――二百人の合格者のなかでも、彼女の名前が一番上に書かれているのだ! これまでの人生のすべてが報われたのだ、とアンは思った。
「ああびっくりよ」と、アン。「ああダイアナあたし百個も言いたいことあるわ。でも、何を言っていいか言葉がみつからない。ちょっとだけ落ち着かせてほしいの。あのねダイアナ、あたしすぐマシュウを探しに行かなきゃいけないと思う」
 少女たちは息もつかずに走りまわり、納屋で仕事をしていたマシュウを見つけた。運のいいことにマリラもいっしょにそこにいた。
「マシュウ!」と、すばらしい興奮を隠さず、アンは告げた。「受かったわ。あたしクイーン学院に合格したの。それであたし一番だったのよ。一番のうちのひとりだったのよ」
「わしはいつも言ってただろう」マシュウは喜びに満ちた目で、じっくり新聞を読んだ。「お前はなんでもうまくやれる子なんだって」
「あたしからも言わせてもらうよ。アン、ほんとうによくやったね」マリラは誇りではちきれそうにみえた。





16."A Queen's Girl"
クイーン学院のアン




 それからの三週間、グリーン・ゲイブルズの日々は忙しく過ぎていった。アンの入学の準備でてんてこまいだった。マリラとマシュウはアンに必要なすべてのものを用意してやろうとしていた。アンはそんな二人にとても感謝していた。ある夜、マリラが腕いっぱいに優しげな色合いのペールグリーンの布地をかかえて、アンの部屋へあがってきた。
「この布地であんたのドレスを作るよ。きれいで、軽い印象のやつをね。――あんたはもうたくさんいいドレスを持ってるから、いらないかとも思ったけどね。でもまあ、たとえば夜になって町に出かけるとするだろう。するとパーティーかなんかに誘われるだろうね。あんたはどこでもひっぱりだこさ。そのときに、こういう改まったものが欲しいんじゃないかと思ってね。ジェーンもルビーもジェシー・パイも、"イブニングドレス"なんての持ってるってあんた言っただろう。あたしはね、あんたが彼女たちにおくれをとるべきだなんて、ちっとも思わないんだからね」
「マリラ、これすごく可愛いわ」と、アン。「ほんとうにありがとう。こんなによくしてくれて、なんだか悪いみたい――ねえ毎日どんどん、ここを離れるのが辛くなるのよ」
 ドレスが縫いあがった日の夜、アンは嬉々としてそれを着て、台所にマシュウとマリラを座らせて自作の詩の朗読を聞かせた。マリラは朗読を聴きながら、目の前の若くて愛らしい女性を見つめた。アンは輝いているようだ、生命かなにか、そんなものでまぶしいくらいだ、と思った。マリラは思い出した。グリーン・ゲイブルズにやってきた日、この子はひどくおびえていて、瞳は涙ぐんでいた。傷つけられた小さなかよわい心がみえるようだった。思い出が、彼女の目から涙をあふれださせた。
「なんてこと。あたしの詩がマリラを泣かせちゃうなんて」と、アンは言うと、椅子の上からマリラにかがみこみ、頬にキスをした。「ふむ、でもこれって大勝利よね」
「詩で泣いたんじゃないよ」と、マリラは弁解した。「昔のことを思い出したんだ。あんたが昔、とても小さな女の子だったんだって、考えずにはいられなかったんだよ。あたしはあんたがずっと子供のままでいてくれたらいいって思ったんだ。心底願ったんだよ。でもあんたは大きくなって、遠くへ行っちまう――こんなドレスが似合うくらいに、背が伸びたんだね――まるで最初から、あんたがいなかったみたいになるんじゃないかと思うと、怖くなって、さみしさで胸がいっぱいになったんだ」
「マリラ」アンはマリラのしわのできた顔を両手でかかえて、目の奥をのぞきこむようにじっと見つめた。「あたしは何も変わってないわ。ほんとうのあたし自身はちっとも変わらず、ずっと同じままなのよ。背が高くなっても、心の中は、いつでもあなたの小さなアンのままなの。あなたとマシュウと、すてきなグリーンゲイブルズをずっと、毎日、以前にもまして愛しつづける、あなたのアンなのよ」
 マリラは少女に腕を回し、抱きしめた。小さなアンは腕の中にあり、心をやさしく癒してくれた。それでマリラは、この子を絶対に手放したくない、なんて思ってしまった。マシュウは目に涙をたたえて二人を見ていた。椅子から腰を上げると、外に出て、雲ひとつない夏の星明りの下、農場をつっきって門のところまで歩いていった。
「あの子はほんとうにまっすぐに育ってくれた。わしはそう思うんだ」と、空に向かって話しかけた。「あの子は頭が良く、機転がきいて、とても可愛いし、愛嬌があって、そしてもっとも大事なことに、みんなから愛されてる。あの子は神様からの贈り物だった。ああ、こんなに幸運な間違いは聞いたことがない、スペンサー夫人が――これが幸運だって? わしには信じられない。間違いでも、幸運でもない。これは運命だったんだ。神様が、わしらがあの子を必要としてると知って、それであの子をよこしてくださったんだって、わしは確かに信じてるんだ」





17."The Glory and the Dream"
栄光と夢




 そんな調子で、その年の冬はあっという間にやってきた。クイーン学院で過ごす初めての冬。そしてまたあっという間に過ぎ去っていった。ほとんど春が来てから、冬なんて季節があったんだと気づいたくらいだった。部屋で勉強をしたり学校で授業を受けたりで、あまりにもいっしょうけんめいに忙しくしすぎてしまった、とアンは後に述懐した。アン自身の感想は別として、彼女がクイーン学院ですごした年月は、はたから見れば誰もがそう考えるくらいの完璧な勝利の年月だった。卒業年には英語の試験で最高得点をたたき出し、レドモンド大学にすすむための四年間の奨学金を勝ち取っていた。
「マシュウとマリラもよろこぶにちがいないわ! すぐ、手紙を書かなくちゃ」と、アンはひとりごちると、引き出しから便箋を取り出した。
「ええと、人生の望みを高く持つことは喜びであると思います」と、彼女は書きはじめた。「もちろんあたしの人生の望みがこれですべて達成されたとは、あたしは思わないのです――すごくいいことでしょう? ひとつの夢を終わらせても、またすぐ次の、さらに高みで輝いている夢が見つかります。それは人生を有意義で、おもしろいものにしてくれるのだと思います」
 卒業式で、マシュウとマリラはずっとひとりの生徒だけをみつめていた――背が高く、ペールグリーンのドレスに身を包んで、バラ色のほっぺたをした、星明りのように輝く大きな瞳をもった女の子を。彼女は壇上で最高の答辞を読んだ。そして奨学金を得た優秀な生徒であると発表されたのだった。
「あの子を手元に置くことにしてほんとうに良かった。お前がそう言ってくれたんだ。そうだろう、マリラ」アンが答辞を読み終えるのを見届けると、マシュウはマリラにそうささやいた。
「ええそうです。けど兄さん、あたしはそう思うのは今が初めてってわけじゃないんですよ」と、マリラはこたえた。
 その夜、アンはマシュウとマリラといっしょにアヴォンリーに戻った。四月以来一度も帰っていなかったのだ。アンはもう一日も待てないくらい、早く帰りたがっていた。

 りんごの花が咲いていた。世界が新しく、若々しく生まれ変わる季節だった。ダイアナがグリーン・ゲイブルズへの道を歩いてくるのを見つけると、アンは幸せの長い吐息をこれまで以上に長く長く吐き出した。
「ああダイアナ、あたし帰ってきてよかったわ」
「あんたなんだかすごく立派になったみたいよ。大学に行くために奨学金をとったんですって? 教師にはならないの?」
「そうよ。九月になったらレドモンド大学に行くの。で、これからはじまる生涯最高の三ヶ月の夏休みに向けて、準備の真っ最中ってわけなのよ」
「ジェーンとルビーは先生になるんだってね」と、ダイアナ。「それと、ギルバート・ブライスもそうするみたい。そうしなくちゃいけないって言うべきかしらね。大学に行きたかったんだけど、お父さんがどうしても許さなかったんだそうよ。今じゃギルは、アヴォンリーの学校の先生になることに自分自身の道を見つけようとしているみたい」
 思いもよらないことで、アンは衝撃を受けた。ちっとも知らなかった。アンは当然、ギルバートもいっしょに大学に行くものだと思っていた。どうしたらいいんだろう? 大学で友達もおらず、周りが敵ばっかりになってしまったら?
 次の日の朝、朝食を食べていると、マシュウが具合が悪そうにしているのに気づいた。アンはしばらく黙っていて、
「マリラ」と、彼が仕事に出かけてしまうのをみてから、マリラに尋ねた。「マシュウ、あんまり良くないの?」
「ああそうだね」と、少し困ったようにマリラは話した。「この春からちょっとよくないね。だけどマシュウはちっとも不平を言わないし、自分の体のことを気にかけもしない。あたしはほんとうに心配なんだ。ちょっとは休んで、少しでも体にいいことをしたらいいのに。きっとあんたが家にいてくれるから、心臓のことを忘れたつもりになってるんだよ。あんたはいつでもマシュウを元気づけるからね」
「マリラ、あなたもよさそうにはみえないわ。なんだか疲れてるみたい。仕事がきついんじゃない? ずっと我慢してるんじゃないかって心配なの。あなたも休むべきなのよ。せめてあたしが家にいるうちはね、仕事はぜんぶわたしにまかせてちょうだい」
 マリラは彼女のかわいい少女に向かって、にっこりと笑いかけた。
「仕事がきついわけじゃないよ。近頃頭痛がひどくなってね――目が原因なんだ。眼鏡をかけてもちっともよく見えやしない。六月の終わりに、有名な目医者さんがこの島に来るそうだから、あたしはきっとかかりに行くよ。でないと落ち着いて本が読めないし、縫い物もできないんだ。ずいぶん悪くなっちまったもんだ」
 夕方になると、アンはマシュウを手伝いに行った。いっしょに牛を追い、小屋に入れた。夕陽に照らされて森は黄金色に輝き、暖かい光が西の丘の上をつたって夜へ滴り落ちようとしていた。マシュウはゆっくりと、こころもちうなだれた姿勢で、前かがみになって歩いていた。
「仕事のしすぎよ」と、アンは声をかけた。「どうしてそんなに働くの? そんなにしなくてもやっていけるじゃない。休んで、楽をしようとは思わないの?」
「単にわしが年をとっちまってるってことさ。アン、気にすることはないよ」
「もしあたしが男の子だったら」と、アンはつぶやいた。「あなたがもともと欲しがってた、男の子だったら、いま、あなたを助けられるのに」
「わしは一ダースの男の子の手助けよりお前ひとりのほうがいいよ」と、マシュウはこたえて、アンの手を軽く叩いた。「よく聞いておくれ。一ダースの少年より――わしはお前のほうがいい。大学への奨学金を勝ち取ったのは、男の子だったかね。そうじゃないだろう? それはわしの――わしの可愛い娘だ。わしはそれをとても誇りにしているんだよ」
 そういって照れくさそうに笑いかけると、マシュウは家に帰っていった。アンはその夜、自分の部屋に戻ると、このことを頭の中でじゅうぶんためつすがめつしてみた。窓を開け放ったまま、長いこと座っていた。昔のことを思い出して、考えて、それから未来の夢を思い描いていた。
 アンはいつも、このすてきで穏やかな夜のことを思い出す。悲しみが彼女の人生に触れる前の、最後の夜だった。誰の人生でも二度とはない運命の冷たい手が伸びてこようとしていた。





18."The reaper Whose Name Is Death"
死と呼ばれる刈入れ人




「マシュウ――どうしたんだい? 具合が悪いのかい?」
 マリラが震える声で呼びかけた。アンは外から戻ってきたところで、手には摘んできた花をいっぱいに持っていた。マシュウは扉の横に立って、折りたたまれた新聞を読んでいた。とたんに彼の顔が奇妙な形に歪み、すぐに白く、次いで黒くなっていくのを二人は見た。手に持った花を落っことすと、アンは台所を飛び越えてマシュウに飛びついた。マリラもほとんど同時に手を伸ばした。でも、二人ともほんの少し遅かった――マシュウは床に崩れ落ちた。
「大変だ! 気が遠くなってるよ!」マリラが叫んだ。「アン、マーチンを呼んできておくれ――早く、早く!」
 雇われ人のマーチンがすぐに医者を呼びに行った。途中でオーチャード・スロープに寄り、バリー夫妻と、たまたま来あわせていたをリンド夫人を送ってよこした。
 彼らがグリーンゲイブルズに着くと、アンとマリラが床の上のマシュウに覆いかぶさっておろおろしていた。リンド夫人はやさしく彼女らを押しのけ、マシュウの心臓に耳を当てた。顔を上げると、誰もが心配そうな表情で注目していた。リンド夫人の目から涙がこぼれおちた。
「おお、もう、わたしたちには、もう――彼のためにできることはないんです」
「小母さん、できることはないって――マシュウは」アンはそれ以上言うことはできなかった。口に出すことが躊躇われる言葉だと思った。病人のように青ざめていた。
「わたしにはわかるんです。わたしのようにこうした経験をたくさんしてきたものには――アン、彼の顔をご覧なさい」
 言われた通り、アンはマシュウの顔を見た。とても静かな表情になっていて、ぴくりとも動かなかった。そこには神の手の跡があらわれていた。。

 知らせはすぐにアヴォンリーじゅうに広まった。一日かけて友人や隣人がグリーン・ゲイブルズに集まり、また去っていった。内気で恥ずかしがり屋で、物静かだったマシュウ・カスバートが、はじめて町の注目の的となった一日だった。
 夜がやさしく、グリーン・ゲイブルズを包み込んだ。年月を経た古い家は静かな安息に包まれていた。マシュウ・カスバートは棺に入れられ、居間に横たえられていた。まるで眠っているかのようなおだやかな微笑をうかべていた。気持ちの良い夢を見ているようだった。遺体の周りには花がいっぱいに飾られていた。アンがそれを摘んで、彼のところまでもってきたのだ。それがアンにとって、マシュウにしてあげられる最後のことだった。表情をなくし、乾いたように燃えるふたつの瞳が、アンの真っ白い顔の真ん中で動いていた。
 部屋でひとりきりになると、はやく涙があふれてくればいいのに、とアンは思った。マシュウのために泣けないなんて、恐ろしいことだと思った。一番大好きで、愛していた人だった。彼ほどアンにやさしくしてくれた人はいなかった。マシュウと一緒に夕陽の中を歩いてから、一日しか経っていなかった。けれどマシュウは今、暗い部屋の中で、おそろしいおだやかな表情をみせながら横たわっているのだ。
 だが、涙は出てこなかった。窓を開けて、外の真っ暗闇に向かってひざまづいて祈っている時でさえも。顔を上げると星々が丘に寄り添っているようだった――涙が邪魔をしないので、それがくっきり見えた。その日眠りにつくまで、その光景は彼女を責めつづけた。おそろしく、鈍く、確実にやってくる痛みのようだった。
 夜が明ける前にアンは一度目を覚ました。まだ夜のうちだと思った。とたんに今日の記憶が津波のように彼女を襲い、痛めつけた。遺体のマシュウの浮かべている微笑が、前の日に彼が彼女に向けてくれた、あの照れたような、はにかんだような笑いと重なった。声が聞こえるようだった――「わしの可愛い娘だよ、わしはとても誇りに思ってるんだよ」。
 そのとき、アンの目からはじめて涙があふれだして――胸が張り裂けんばかりに彼女は泣き出した。マリラはそれを聞きつけてやってくると、ベッドのなかの彼女へやさしく語りかけた。
「可愛い子――泣くのはおよし。あんたが泣いても、マシュウは戻ってこないさ。悲しむべきことじゃないんだ。神様がみんな良いようにしてくれたんですからね」
「これからどうすればいいの? 彼なしであたしたちどうすればいいの?」
「ああアン、お互い助け合って、頑張って生きていくんだよ。ねえあたしはあんたがここに来る前、どうやって生きていたのかわからない――アン、マシュウがあんたを愛していたのと同じくらい、あたしもあんたを好きなんだ。わかってほしい。ああこんなときでもないと、素直な気持ちを言うなんて、あたしには難しいんだ――あんたを愛してる。血を分けた肉親と同じように、あんたはずっと、あたしに安らぎを与えてくれたし、あんた自身があたしの生きる喜びだったんだ。あんたがグリーンゲイブルズに来てからずっとそうなんだよ」

 それから二日経った。マシュウ・カスバートは彼が愛し、育てた森の中へ運ばれて行った。アヴォンリーの町は落ち着きをとりもどし、普通の生活へ戻っていった。グリーンゲイブルズでもそれは同じで、いつもの毎日がはじまったようだった。もっとも、一番大事な、一番身近にいた家族をなくした痛みは、ずっと消えることはなかった。





19."The Bend in the Road"
"神は天にいまし すべて世は事もなし"




 それから数日経ったある日の午後、マリラは農場で訪問者をむかえた。アンが観察しているのも知らず、長い時間ずっと話をしていた。ゆっくりと彼女が帰ってくると、アンは質問をあびせた。
「あのお客さんどなた? どんな用事だったの?」
 窓の近くの椅子に腰を下ろすと、マリラはアンを見据えた。急に両目から涙が流れはじめた。震える声でつっかえながら話しはじめた。
「この農場を買う相談だよ。いくらで売るのかあたしに聞いたんだよ」
「グリーンゲイブルズを買う? いくらで、ですって!」アンは飛び上がって驚いた。自分の耳が信じられなかった。「もちろんあなたはそんなことしないわよね。ここを売っちゃったりしないわよね?」
「もちろんそうしたくはないよ。でもわからない。それ以外に方法がないんだ――いろいろ考えてみたんだよ。それこそここを売る以外の全部のやり方について検討したんだ。ああもし、あたしの目がちゃんとしていてくれたら、なんだってできたろう。ずっとここにいて、自分のことはなんでもやりくりできたさ。新しく作男を雇ったりしてね。
 でもそうはできない。お医者様は、あたしの目が、ゆくゆくは失明するだろうと言った。そうなったら何もできなくなっちまう。今までのようにはなにひとつね。あたしはここを出たくない。ここを売って、他の場所で、他の景色を見ながら暮らすなんて、一度だって考えたことなかった。ここはあたしの家なんだ。ほかのどこでもなくね。でも、仕方ないんだ――時間が経つにつれ、あらゆる物事が、どんどんひどくなっていく。
 あんたが奨学金をとってくれて良かったって思うよ。アン、これからはお休みの間も、ここには帰ってこれなくなっちまう。ほんとうにすまない。でもあんたはもう大人で、自分の面倒は自分で見れるからね」
 マリラは疲れたように言い終わると、両手で顔を覆い、さめざめと泣きはじめた。
「グリーン・ゲイブルズを売る必要なんてないのよ」とアンは言った。
「売らずにすめばどんなにいいだろうってあたしも思うよ。でもアン、考えてもみておくれ。目の見えないあたしが、ここでひとりきりで住めると思うのかい?」
「ひとりきりで住むことなんてないの。あたしが一緒なんだもの。あたしレドモンド大学に行かないって決めたの」
「大学に行かないだって!」マリラは驚いて、顔から手を離し、アンを見つめた。
「あら聞こえなかった?」と、アン。「そうよ、大学には行かないの。奨学金を受け取るのもやめるわ。あなたが眼医者さんから帰ってきた日の夜、そう決めたの――あなたが困っているのに、あたしがあなたをおいてどこかへ行っちゃうなんて、ほんとに思ってたの? マリラ、全部あたしにまかせてほしいの。
 驚いた顔してるわね。これでもいろいろ考えたのよ。まあ、聞いてちょうだい。
 まず、来年になったら、バーリーさんが畑を借りたいって言ってるわ。貸してしまえば世話なしだし、それだけじゃなくて、あたしは教師になるの。アヴォンリーの学校のね――カーモディの学校に願書を出しに行ったとき、ギルバート・ブライスがしてくれたことを聞いたわ。彼はあたしのために、アヴォンリーでの教師の口をあきらめて、ゆずってくれたのよ。あなたとあたしが一緒に暮らせるようにってね。
 あれ、これでぜんぶ話しちゃったわ。ねえあたしはここで、あなたに本を読んであげるのよ。これからもずっと元気づけてあげるの。一緒にいたら、ほんとうに、すごく幸せになれると思わない? あなたと、あたしで」
 アンがそう言うのを、マリラは夢を見ているような気持ちで聞いていた。
「そりゃあ、あんたがここにいてくれたらどんなにいいだろう。だけどあんたに自分の目標をあきらめさせることはできない。そんなおそろしいこと、神様だって許しはしないよ」
「グリーン・ゲイブルズを失うことより悪いことなんてないわ――それ以上にあたしを傷つけることなんて、この世にひとつもないのよ。この懐かしい、おだやかな土地を、ずっとこのままにしておきたいの。あたしたちそうしなきゃならないのよ。もう決心してるの。マリラ、あたしは大学には行かない。ここで教師になるの。
 心配は御無用よ。あたしにとってここで暮らすのが一番いいことだと思うし、それにこの美しい土地は、あたしが注ぐ愛情よりはるかに大きなものを返してくれると思う。クイーン学院を卒業したとき、あたしの未来には一本のまっすぐな道だけがあるように感じた。でも、今それは曲がりくねっているように思うの。曲がり角の先には、きっと今まで見たことのない何かが待っているんだと思う。あたしはそれをまだ知らない。でもこうすることが一番いいって信じてるから」
 オーチャード・スロープに向いた窓から光がピカピカ入ってきた。「ダイアナが光でサインを送ってるのよ。こっちに来いですって」アンは笑った。「ちょっと失礼して、行ってくるわね。まったく何の用事なんだか」
 アンは丘を駆け下りていった。マリラからは、すぐに影に隠れて見えなくなった。すごく空気が新鮮で、森に入ると、枝の隙間から家の光がチカチカまたたくように見えた。向こうには海があるのもわかる。それらすべての美しいことが、アンの心をぞくぞくっとさせるのだった。
「懐かしくて美しい世界」心の中で、アンはそう言った。「愛してる。あたしあなたとともに生きていけるのを、ほんとうにうれしく思う」
 丘を半分ほど下ったところに、背の高い若者が立っており、口笛を吹いているのを彼女は見つけた。ギルバート・ブライスの家の門の前だった。ギルバートはアンに気づくと、口笛をやめ、礼儀正しく帽子をとった。たぶん、そのまま何も言わず行ってしまおうとしたんだと思う。アンが足を止めて、彼に手を伸ばしてさえいなければ。
「ギルバート」彼女は話しかけた。頬が真っ赤になっていた。「お礼を言いたいの。アヴォンリーの仕事をゆずってくれて、ありがとう。ほんとうに助かったわ」
 ギルバートはアンの手をとり、しっかりと握りしめた。
「たいしたことじゃないよ。少しでも君の力になりたいって、ずっと考えてたんだ。僕のほうはホワイト・サンドでも教えられるしね。――ねえ、アン、もう一度聞くよ。僕を友達にしてくれるかい? 僕が昔にしでかしたこと、許してくれるかな?」
 アンはおかしくて、笑い出してしまった。
「あたしもうとっくあなたを許してたの。あの、バーリーの池の日にね。でも、そのときは自分でわからなかったの。あたしはとっても自分勝手で、自分のことしか見えていない女の子だったんだもの。ずっとあなたに謝りたいと思ってた。ごめんなさい、ギルバート」
「僕たち親友になれんだね」ギルバートは言った。ほんとうに幸せそうだったに。「僕たちまるで生まれたときから仲良しだったんだって、そんな気がするよ。ねえアン、これからはお互いに助け合って、力を合わせていこう。できるだけどんな場面でもね。
 ねえ、君はこれからも、自分の勉強をつづけるつもりだろう? もちろん僕もそうだ。おいで、君を送っていくよ」
 アンが台所の勝手口から帰ってくるのを、マリラはいぶかしげに見つめた。
「あんたはダイアナのところに出かけたと思ってたけどね。そこの小道のところまで、誰かと一緒だったようじゃないか。どちらさんだい?」
「ギルバート・ブライスよ」アンは答えると、さっと顔が赤くなった。「丘の途中で会ったの」
「ふうん。あんたとギルバートがそんなに仲良しだったなんて、今まで知らなかったよ。門のところで突っ立ったまま三十分も話し込んでたみたいじゃないか」とマリラはひやかすように微笑んだ。
「ずっと友達だったんじゃないわ。あたしたち――あたしたち、ずっと敵同士だったのよ。でもこれからは良い友達になったほうがいいって、ふたりでそう決めたの。
 でも、さ、三十分も? ほんとうに? ちょっとしか話してないつもりだったけど――けど、あたしたち五年間も無駄にしてきたんだもの。それくらいは大目に見てほしいもんだわ、マリラ」

 その夜、アンは彼女の部屋の窓に腰かけて、長いこと深い感謝の気持ちを感じていた。風がやさしく吹いて桜の木の枝を揺らした。雲ひとつないきれいな夜で、島のどこからでも星がキラキラまたたくのが見えた。
 クイーン学院から帰ってきたときにアンの前に見えていた、地平線の向こうまで続くようなまっすぐな道は、ずいぶん短くなったように思った――けれど、たとえ道がせまく短くとも、静かな幸福の花がその道に沿って咲いているのだと、彼女は知っていた。
 「"神は天にいまし、すべて世は事もなし"」アンはそっと、口の中でつぶやいた。




 
 
底本はラダーシリーズの『赤毛のアン』。英語勉強はじめて最初にやったやつで、とてもぎごちない。
レイチェル・リンド夫人が出てこないとか、かなり大幅にものすごく大変にはしょってありますが、
雰囲気はつかめればいいなと……
アン・シャーリー
作品情報
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最新
投稿日時:
2012/04/01 21:53:19
更新日時:
2012/04/01 21:53:19
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