ふたりはプリキュアSplash☆Star6 Years Later...

作品集: 1 投稿日時: 2012/04/01 11:06:59 更新日時: 2012/04/01 19:35:46 評価: 1/1 POINT: 7777777 Rate: 777780.20

 

分類
ふたりはプリキュアSplash☆Star
日向みのり
後日談というか後年談




「――――え。お姉ちゃん、帰ってくるの遅いの!?」

 ここだけ聞けば、まるで何でもないことのようだけれど。
 けれどもそれは、思わず叫んでしまうくらいにはショッキングな事実だった。

 ひとりきりの部屋に木霊しそうなくらい大声を出してしまって、反対に、電話口の向こうから帰ってくるのはひどく申し訳なさそうなか細い声。『ごめんね、みのり……』その弱々しい調子にあわせて八の字になった太めの眉が、すぐ目の前にあるように想像できた。

「だって、もうすぐそっちは冬休みなんでしょ? 授業期間が終わったらすぐにでも戻りたいって、この間言ってたのお姉ちゃんじゃない」
『それはそうなんだけど……部活のほうでさ、色々とあるんだ。私ももう、二年生だし』
「そんなあ……」
 ずるり、と背もたれに体重をかけて、私の体は崩れ落ちる。さっきまで数学の問題と格闘していたシャーペンは手のひらからするりと抜け落ちて、虚しく机の上に転がる音だけがいやに響いた。もういい加減に慣れてしまっても良さそうな一人部屋の静けさが、ずしんと寂しさになっておそってくるよう。
 けれども携帯電話を握るもう片方の手の力だけは、消沈する私の意気に反比例するように強くなるのだけれど。
『ごめんねえ……』
「う、ん」
『でもそれが終ったらさ! すぐにでも帰って来るから! そりゃもう飛んでくる勢いで!』
「……具体的には、いつぐらい?」
『ええと、その、あー……予定より一週間、いや二週間くらい遅れて、かなあ……』
 一瞬だけ勢いづいた語気が、みるみるうちにしぼんでゆく。その陰気に誘われるように、くすぶっていた憂鬱がもくもく湧きあがってくる気がした。
 二三度、今にも世界が滅んで終うんじゃないかってくらいの溜息を交し合って、無言。携帯の着信を確認したときのうれしさは、とっくの昔にブラックホールの彼方に消え去っている。

 ――――久しぶりの、お姉ちゃんから電話だったのに。

 その一言をぐっと飲み込むのには、びっくりするほど気力が要った。

「分かった。お母さんに伝えとくね」
『お願いねえ……本当にごめん、みのり』
「謝らなくていいよ。サークルじゃなくて、部活なんだものね。だったら休んじゃだめだよ。他ならまだしも」
『うん、そりゃあ、そうだけど……』
「じゃあ、しょうがないよ」
 半分、自分に言い聞かせたようなものだった。けれど、そうでもしないと私もお姉ちゃんも、ずっと電話口を介して憂鬱をぶつけ合うばかりになってしまう。せっかくの電話を、これ以上台無しにするのは嫌だった。
 今は離れ離れに暮らすお姉ちゃんとの、大切な時間なのだから。
「ね、それより大学のお話聞かせてよ。この間メールで言ってた発表、ちゃんとできたの?」
『あー、それがね、もう最悪だったの! 一緒に発表するはずだった子が急に体調崩したとかで、結局私ひとりで……』

 それから他愛ない会話をずるずると続けて、結局通話を終えたのは一時間もたとうかという頃で。
 最後の最後にもう一度だけ『ごめんね』を聞いて、それでお終い。それさえなければ、いつも通りの、お姉ちゃんとのおしゃべり電話とちっとも変わりがない。

 お姉ちゃん――――姉の日向咲が、大学へ進学し夕凪を離れてもう二年。彼女は大学二年生で、私――――日向みのりは、中学二年生になっていた。






☆★6 Years Later...★☆






 秋の涼しさはとっくに去って、12月の空気は朝の夕凪を一段と厳しい寒さで包み込んでいる。部活の練習へと急ぐ休日の通学路は、人気がないのも手伝っていっそう冷たく感じられた。
 吐く息はほんのり白く染まって、手袋をし忘れた両手がかじかんでしょうがない。
「みのりー!」
 赤信号を待っていると、後ろから快活な声で呼び止められる。振り向くと見知った笑顔があって、同じく練習へと向かうチームメイトだ。ナオミと言って、お互い小さいころからの付き合いだ。
「おはよう」
「おはよ! 寒いね今日……」
「ホントホント。よりによって今日こんな寒くならなくてもね」
「お昼になれば暖かくなるかな」
「無理みたい、天気予報見たら午前中から曇りだって。ぜんぜん気温あがらないみたい」
「うへえ……」
 やがて信号が青になり、ふたりうなだれながら向かう先は、もちろん凪中こと夕凪中学校。グラウンドのほうへまわるとそこには早くも部員が数名、練習の準備やグラウンドの整備を始めている。
 凪中ソフト部――かつてお姉ちゃんが所属し、今は私が加わっている部活だ。
「期末テストが終わったからって、日曜返上の一日練はやっぱ辛いなあ」
 空を見上げてからぶるりと体を振るわせ、となりのナオミがぽつり。彼女がそう言うのも無理はなくて、凪中ソフト部と言えば今や校内でも有数の練習が厳しい部活として有名だった。
 そして、その原因を作ったとも言えなくもないのがずばり私のお姉ちゃんなのだから、その妹としては苦笑いするほかないのだけれど。

 5年前……キャプテン日向咲、監督・顧問篠原先生のもと、地区大会優勝を果たした凪中ソフト部。
 いらい部は大会連覇を掲げ、その通り強豪校にふさわしい成績を残し続けた。篠原先生が異動になったあともそれは同じ。どうやら当時のレベルを維持するのが顧問の先生たちの課題となってしまったようで、私が入学したときにはもう「凪中ソフト部は練習がハード」と定評だった。
 お姉ちゃんとそのチームメイト、それから篠原先生は、思いがけない遺産を残してしまったみたいだ。

 でも、そのせいで部活が成績優先とか結果重視になってしまったなんてことはもちろんなくて、私も含めチームメイトたちは楽しい部活生活を送ることができている。中学への進学と同時に迷わず決めた部活だったけれど、この部を選んだことに後悔なんてなかった。仲良しな部員はたくさんいるし、今の顧問の先生だって厳しく、そして優しい。
 でも何より、私はソフトボールが大好きだったのだ。それは誰でもない、お姉ちゃんの好きな――今でも大学で続けているくらい大切なスポーツだったから。
「ま、グチグチ言っても仕方ないし、今日もがんばりますか。……ってみのり、さっきからバッグあさくって、どうしたの」
 グラウンドに入ろうかというそのころ、ようやくナオミが私の挙動不審に気づいた。けれど、こっちはそんな余裕はなくて……
「や、やっぱりッ!」
「な、なに、急に大声出して」
「グローブ、家に忘れちゃってる……」
「あちゃー……」
「あああ、すぐ取ってくる! 先生に遅刻って言っといて!」
「はい、はい」
 呆れたその視線に痛々しさを感じつつ、来た道をまっすぐUターン。ソフトは好きだけど、どうしてもこの手の失敗がなくなってくれない。
「みのりったら、ときどき妙に抜けてるんだから……」
 寒空の澄んだ空気は、彼女の呟きをはっきり私の耳に届けていた。
 だから駆け足で振り向きながら、一言私も言い返してやる。
「しょうがないでしょっ。抜けてるのは、お姉ちゃん譲りなんだからぁっ!」

 それが私にとって嬉しいことなのは、内緒だけど。


   ☆


「あーもう疲れた! ジュース飲みたい! ネ、そこの自販機で買っちゃおうよ」
「ダメだよ、暗くなる前に帰らなきゃ」
「む、みのりは真面目だなあ」
 夕暮れ時。午前中からの曇り空は相変わらずだったけれど、少しだけ雲の切れ間から橙色の光が漏れていた。
 日中まるまる使っての練習から解放された部員たちは、それぞれへとへとになって家路を急ぐ。たいていは愛しの我が家へ一直線に帰るものだけど、時々、彼女のようによからぬ考えをおこして寄り道もどきをやってしまうのも珍しくはない。
 けれども、それが顧問の先生にばれるなんてことがあったら。それこそ当面のレギュラー除外に加えて、一週間の掃除というペナルティが待っていた。
 ナオミの提案はくたびれきった体には魅力的この上ないけれど、私だってレギュラーとして試合には出たいし、練習だってちゃんとしたいのだ。ぐっとこらえて、早足に自販機の前を通り過ぎる。ナオミの家はそのすぐさき、角を曲がったところで、本当はここでジュースなど買う必要なんかないのだ。彼女なりの冗談、ということなのだろう。
「じゃねみのり、明日また学校で」
「うん。また明日!」
 ぱたぱたと手を振る彼女と別れると、それから私はひとり歩きだす。
 宿題を終わらせていないことを考えると、少しだけその足取りが重くなってしまうのは仕方なかった。けっきょく昨日、電話のあとふてくされるように眠ってしまったのだ。
「もうすぐ、冬休みなんだけどなあ……」
 誰ともなくこぼれた文句は、そういうちっぽけな憂鬱の現れ。
 期末試験も終わって冬休みを待つだけのはずなのに、相変わらず宿題は出続けるし、私は数学が苦手なままだった。まさかこんなところまでお姉ちゃんに似なくてもと思うけれど、どうやら私たち姉妹の逃れられない宿命であるらしい。
 もっとも、お姉ちゃんに言わせれば私が勝手に苦手と思っているだけで、当時の彼女よりずっといい成績なのだそうだ。でもそんなのは気休めにしか思えなくて、一度つかまった苦手意識からは簡単に逃げられない。

 ――早く、帰ろう。

 ひとつ言えるのは、嫌々言っても始まらないってことだけだった。ゆっくり帰ればその間に頭が良くなるわけでもないし、宿題を誰かがやってくれるわけでもない。冬になって、日が落ちるのもすっかり早くなっている。うかうかしているとただでさえちょっぴりの夕日も消えてしまって、すぐに暗がりが降りてくるのだ。
 そう思えば思うほど、焦りと言うほどたいしたものではないけれど、ちろりとした不安の種みたいなものが心の中に転がりはじめた。普段と変わらない家路のはずなのに、今日に限ってこんなアンニュイを感じてしまうのは、やはり昨晩の電話のせいかもしれない。少なくとも、お姉ちゃんの帰省が遅れるなんてニュースは、一日たとうが二日たとうが、私にとっては悪い報せに変わりはないのだ。
 周囲が暗くなるのにあわせて、街灯が一斉に点灯する。促されるように携帯を開いて時計を確認すると、午後5時32分。
 ちょっと急がなきゃ。
 そう思って手元の視線を上げると――――唐突に、その光景は私の両目に飛び込んできた。
「あ、れ……」
 それは、二つの人影だった。数十メートルむこうの信号を渡ったさき、トネリコの森へと続く坂道の入り口のあたり。暗くてはっきりとはわからないけれど、確かにその二つの影に、私は見覚えがあった。
 同時にとくん、と鼓動が高まるのを感じる。冷え切った手でよく擦ってからもういちど、精一杯目をこらしてみる…………やっぱりそう、見間違いなんかじゃない。

 風が、ふわりと吹いた。
 落ち着いた赤のショートと、深い、青のロングが揺れる。

「満お姉さんと――――薫お姉さん!」

 その名を口にすると同時に、私は駆けだしていた。




 ☆ ★ ☆




 満お姉さんと薫お姉さん。
 最後に直接ふたりと会ったのは、もうずいぶん前のことだ。

 中学を出て、高校へ行き……その間はずっとふたりともこの町にいて、会わない日の方が多いんじゃないかってくらい、私にとっては身近な存在だった。
 特に薫お姉さんなんて私の方から頼んで一緒に遊んでもらうこともあったし、満お姉さんは満お姉さんで、PANPAKAパンにお店の手伝いで来てくれることがよくあった。
 ふたりが進んださきは清海高校。お姉ちゃんがよっぽど苦労して、何とか受かった市内でもトップクラスの学校だ。満お姉さんはよくお姉ちゃんに数学を教えていたくらいだし、薫お姉さんともども難なく受験を突破したんだろうけれど。
 ともあれ、お姉ちゃんたちは四人とも同じ高校で、この町に変わらずいてくれて、ずっと一緒に暮らせるんじゃないかって……そんなことを思っていた時期もあったのだ。

 でも、現実は当然その通りに行くはずもなく。
 ふたりと会えなくなったのは、そのあと、お姉ちゃんがこの家を離れたのと同じ高校を出てからのことだった。お姉ちゃんたちは遠くの町の大学に進んだけれど、薫お姉さんたちは進学を選ばなかった。
 学校だけじゃなく、もっといろんなところで、いろんな勉強をしたい――――そう言って夕凪を離れたらしい。

 私の周りは、二年前を境に急に静かになってしまっていた。


   ☆


 いつもなら難なく駆け上れる山道も、厳しい練習を終えた身にはずいぶんと苦行だ。空回りに駆け続けていた両足の動きも、いつしか少し急ぎの早歩きくらいには落ちついていた。
 あたりはすっかり暗くなり、足下はおぼつかない。葉っぱが落ちて木々のざわめきさえ起こらない森は、妙に静かで、昼間とうって変わって不気味に感じられる。こんなところにひとりで入ってるなんて――そう思うと、今までと違う寒気がひゅう、と背筋に抜けた。

 あのとき見止めたふたつの人影は、そのまま闇にとけ込んでしまったように追いつくことができない。
 あれは間違いなく満お姉さんと薫お姉さんだ――――その自信は揺らがなかったけれど、何かの手違いで行き違っているかも、という思いはふつふつ湧いてくる。
 小さなわき道はいくつかあるけれど、基本的にこの山道は一本道のはずだ。だから、途中で道を変えることもないだろうし、そのまま進んでいるならいつかは追いつくはず。引き返しているのなら、必ず行き会えるに決まっているのだ。
 そして私は、まだ誰ともこの山道で行き会っていない。

 いつかは追いつけると、そう信じるしかなかった。

「あ、痛ッ」
 ついていない日というのは本当にあるらしい。
 こんなに綺麗に転んだのはいつぶりだろう、なんて感心するくらい、我ながら見事なつまづきっぷりだった。冷えきった手足に堅い地面は効果てきめん。打ちつけたところはびっくりするくらいひりひりと痛む。涙のにじむ目で見れば、ひざ小僧とそれから両手の手のひらに、真っ赤なすり傷ができていた。
「うう、もう……」
 それでも立ち上がるのは、不屈の闘志があるから……ではなくて、ただ、彼女たちに会いたいから。
「薫、お姉さん……」
 懐かしいその後ろ姿を、私はどうしても逃したくなかった。
 坂道が緩やかになる。振り返ると夕凪の町が夜の明かりに輝いていて、それは山の頂上が間近にあるあかしだった。

 頂上付近にあるのは、ひょうたん岩とならぶ夕凪の名物、大空の樹。そこを過ぎればあとは下りの坂道があるばかりだ。
「もしかして」
 薫お姉さんたちは、大空の樹のところにいるんじゃないだろうか。

 ほとんどそれは直感みたいなものだったけど、不思議な説得力があった。
 お姉ちゃんと薫お姉さんたちが初めて出会ったのも大空の樹の下だって聞いているし――――気づけば足は、痛みも忘れて動いていた。もう、すぐのところなのだ。

 見れば、雲の切れ間にこぼれ出た月明かりが、枝だけになっても悠然とたたずむ大空の樹を照らし出している。

 はやる気持ちを押さえるように、ゆっくりと。
 大空の樹の正面、祠をまえに開けた空き地へと、私は顔を出した。
 果たして、そこにある人影は、ひとつ。

「……薫お姉さん?」

 後ろから、突然呼びかけられたせいだろう。すらりと延びたその人影は、思ったよりも大きく肩を跳ね上がらせた。
 それから長い髪を押さえながら、おそるおそる振り向いて――――

「みのり、ちゃん?」

 きりりとした目元が、ほっと緩んだ。霧生薫、その人だった。


   ☆


「薫お姉さん!」

 何というか、このひとの前だと、私はちっとも変われないらしい。頭ではそんな風に自分で自分に呆れていながら、体の方は正直に、一目散に彼女の胸元に飛びこんでしまっているのだ。
 ぽむ、と音がするくらい勢いよく抱きついた私の体を、薫お姉さんは優しく受け止めてくれた。冷えきったコートの生地の向こうにはほのかな暖かさがあって、それがじんわりと私の体を包み込んでくれるみたいだ。しばらくその心地よさと懐かしい感触を堪能すると、体はそのまま、うずめていた顔だけ上を向く。
 薫お姉さんの、困ったような笑顔があった。心なしか、少し慌てているようにも見えて……まあ、いきなり飛びついたのだから当然だと思う。
「薫お姉さんだよね?」
 わかりきったことだけれど、聞かずにはいられなくって。
 見降ろす薫お姉さんは月明かりの陰になっていたけれど、記憶の中と少しも変りなく、白くて透いた肌をしていた。その表情が静かに、そして柔らかく緩んでいく。
「……ええ。久しぶりね、みのりちゃん」
 生の声を聞いたのはいつぶりだろう。離れてからも電話越しに話したことはあったけど、今こうして間近に向かい合って交わす言葉と比べたら、何倍も、いや何十倍もかすんでしまうようだ。
「どうして、ここに」
「満お姉さんと森に入っていくのが見えたから、ひょっとしてと思って。満お姉さんは? 一緒じゃなかったの? どうして大空の樹に?」
「え、ええ、満とはさっきまで一緒だったんだけど……」
 まくし立てるような質問に、薫お姉さんの目が、また少しだけ泳いだ。困ったように目をそらして、大空の樹の方ちらりちらり。もしかして、聞いちゃいけないことを聞いてしまったのだろうか。
「満は、ちょっと用事があってね。ちょうどここで別れたのよ」
「用事?」
「そう。なんて言ったらいいか……ええと、古い知り合いに、会いに行ってもらってて……」
「ふうん……」
 だったら、薫お姉さんも一緒に行かないの?
 そう聞きたかったけれど、なんだか薫お姉さんを困らせてしまうような気がしたので、止しておいた。
「いつから夕凪に戻ってたの?」
「ついさっき戻ってきたところよ。事前に伝えられればよかったわね」
「うん。びっくりしちゃった。お手紙でも、ちっともそんなこと書いてくてれなかったもの」
「ごめんね。なかなか予定がはっきりしていなかったから……」
 携帯電話を持たない薫お姉さんと私をこの二年間つないでいたのは、手紙――――薫お姉さんが定期的に送ってくれる絵はがきだった。

 今時古風だなあなんて思うかもしれないけど。満お姉さんの一言と、それから薫お姉さんの絵が添えてあるその便りは、きっとメールでやりとりするよりもしっかりと私たちをつないでくれていた。ふたりはあちこちを巡っているので、そのときいる町の景色とか、珍しいものとか、おもしろかったこととか、そういったものを絵にして送ってくれる。
 そろそろ来る頃かな、なんてわくわくしながら手紙を待つのが私の密かな楽しみだった。
「しばらくこっちにいるの?」
「ええ。咲たちも戻ってくるでしょうし……」
「やったあ! じゃあお姉ちゃんたち、みんな揃うんだね」
「そうね」
 興奮する私をなだめるように、薫お姉さんの手が私の頭に添えられる。そのままそっと、私は抱きついた腕を緩めた。
 自然と瞼が落ちる。ぽん、ぽん、と、手のひらが優しく跳ねるのが分かった。

 再び目を開くと、あの鋭い、満お姉さんと同じ引き締まった視線があった。
「ところでみのりちゃん。こんな時間に森の中に来るなんて、危ないじゃない」
「え……」
「部活の帰りでしょう? ただでさえ日が落ちるのが早いのだから、まっすぐ帰らなきゃ。追いかけてくれたのは嬉しいけど、こんなことをしては駄目」
「う……ご、ごめんなさい」
「お母さんに連絡したの?」
「あ……!」
 急いで携帯電話を取り出す――――着信や、メール受信が何件も入っている。
 うちからの電話だけじゃない、お姉ちゃんの携帯からも、メールと着信が入っていた。
「心配してる。送ってあげるから、一緒に帰ろう」
 薫お姉さんはクスリと笑って、私の手をとる。忘れていた痛みは、空気も読まないでやってきた。
 やっぱり、ついてない。
「あっ」
「どうしたの――――ってみのりちゃん、怪我してるじゃない!」
「う、うん。さっきね、ちょっと転んじゃって。でも大したことないから……」
「血が出ているわ。早く消毒しないと………歩ける? 本当に大丈夫?」
「もう、薫お姉さんったら心配しすぎ。ただのかすり傷だよ?」
「でも……」
「大丈夫だって!」
 さっきまであんなにかっこよかったのに、薫お姉さんはびっくりするくらい慌てていた。ハンカチを取り出して傷口を拭こうとしたり、鞄をひっくりかえして絆創膏を探したり……そんなところは、ちょっぴりかわいいかもしれない。満お姉さんと一緒で、凛々しいところばっかり見てきたから。

 けっきょく麓に向けて歩きだしたのは、薫お姉さんの世話やきにひと段落がついてからになった。
 ひとまず家に電話を入れて、薫お姉さんと一緒に帰ると伝えて。ふたり、手をつないで山道をくだってゆく。
 相変わらず背丈は薫お姉さんの方が高かったけれど、少しだけ、目線は近くなった気がした。
「満お姉さんは待たなくてよかったの?」
「たぶん……満なら、きっと分かると思う。だから大丈夫。行こう」
「以心伝心って言うの? かっこいいなあ」
「さ、さあ……」
 満お姉さんと薫お姉さんなら、不思議とそれくらいのことはありそうだった。
 満お姉さんの隣にはいつも薫お姉さんがいて、ふたりが一緒じゃないことなんて滅多になくて。
 姉妹だから当たり前なのかもしれないけれど、そんな薫お姉さんたちが……私には、羨ましくてしょうがなかったのだ。

 私にも大好きなお姉ちゃんはいるけれど、でも――――

「咲は、もうすぐ帰ってくるの?」
「それがね、お姉ちゃん、今年は帰ってくるのが遅れるみたい。部活が忙しいんだってさ」
「そう、残念ね。早く会いたいでしょう」
「うん。薫お姉さんは、お姉ちゃんたちとは会ってるの?」
「時々は……最後にあったのは、春だったかしら」
 ともかく、聞きたいことは山ほどあった。
 薫お姉さんは今なにをしてるの? 満お姉さんは? 働いているの? 勉強しているの? どんな町にいったの? これからどうするの? ……
 でも、家までの短い道のりでそれらをぜんぶ聞くことなんかできなくて。PANPAKAパンの看板が近づいてくるのが、このときだけは恨めしかった。
 さっきの電話で伝えてあったからだろう、玄関で待っていたお母さんは、薫お姉さんを見ても驚かなかった。しばらく会わないうちにすっかり大人びているのには、別の意味で驚いていたけれど。
「薫さん、わざわざありがとうねえ。お礼に夕食、食べていかない?」
「そうだよ薫お姉さん、一緒にご飯食べようよ」
 玄関口でお母さんと引きとめたけれど、満お姉さんもいることだし、と薫お姉さんは断った。

 しばらくはこの町にいるって言ってたけれど、本当にまた会えるんだろうか。このまま薫お姉さんを送ったら、それこそまた、闇の中に溶けて消えてしまう気がして。

 そんな私の不安を追い払うように、薫お姉さんはにっこりと微笑んだ。
 それからお母さんへ、丁寧に頭を下げて言った。

「たぶん、あした満がお伺いすると思います。そのときに、また」




 ☆ ★ ☆




 どうして、学校なんて行かなきゃならないんだろう。

 ぶつくさと心の中でそんな文句を繰り返しながら、足取り重く私は今日も通学路をゆく。私の暗い心持ちを写し取ったかのように黒々とした空からは、雪になり損ねた氷雨が鋭く降り注いでいた。
 天気予報によれば、今日は一日中こんな天気らしい。傘を握る右手の絆創膏は、もう湿りきってはがれそうになっていた。

 ――――あした、満がお伺いすると思います。

 昨日の別れ際、薫お姉さんはそう言った。そのときまた、とも。
 つまり今日、満お姉さんがうちにやってくるのは間違いない。薫お姉さんも、ひょっとしたら一緒に来てくれるかもしれないのだ。
 「満が」って言ってたから、満お姉さんがひとりで来るのかもしれない。でも「そのときまた」と言ってくれてる訳で、それはつまり、ご飯を一緒に食べるのはまたそのとき相談しましょう、って意味にもとれるわけで……

 そんな風にぐちゃぐちゃと短い言葉の意味を考えに考えて、あれこれ気をもんで、本当にバカみたいだと思う。そのせいで昨日はなかなか寝付けなくって、おかげで今日の私は寝不足なのだった。
 しかし、そうでなくても――――今朝の気分は最悪で、学校に行きたくない気持ちは変わらなかったんだと思う。それは冷たい雨が降らなくても同じ。気温がとびきり低くなくても、宿題の出来がひどいことになってなくっても。
 満お姉さんと、それから薫お姉さんがやって来るかもしれないのに、その場に居合わせられないのはどうしても嫌だった。
「みーのり、おはよ!」
「あ、おはよう」
 いつもの角でナオミと合流して、いよいよ学校が近づいてくる。
 彼女と他愛ない会話を交わすあいだも、信号を待つ無言のあいだも、始終私は後ろ髪引かれる思いと格闘を続けていた。じっさいほとんど白旗を揚げているようなものだったけれど、その苦悶はすぐに顔に出てしまうらしい。
 気づけばナオミが、不思議そうに私を見つめていた。
「なんかみのりさ、今日えらく元気ないね」
「そ、そうかな」
「ハハア。さては今日、雨のせいで練習できないからでしょ!」
「違うよ……」
「そうなの? だったらホラ、いつもの『絶好調なり!』ってやつやってよ。なんかこっちまで陰気になるじゃん」
「絶好調じゃないからしないもん」
「けち」
 傘を持つ手でかるく小突かれたので、お返しにこちらもこつり。それから小さく笑いあって、ようやく気分が上向いた。

 今日は、一直線に帰ろう。とりあえず今はそれだけ、堅く決意したのだった。


   ☆


 落ち着かない一日だった。

 憂鬱を手伝う神さまの嫌がらせのように思っていた雨だったけれど、本当は嫌がらせどころか天の助けだったらしい。
 授業を終え、いつもならみっちり下校時刻まで練習があるはずの部活も、今日は降りやまない雨のおかげで雨天時のトレーニングにメニュー替え。となれば話は早くて、決められたセットをこなしてしまえばさっさと帰ることができる。
 チームメイトが半分引いちゃうくらいの勢いでメニューを制覇して、私は飛ぶように学校を後にした。
 けれど、まだ遅いくらいだった。時計は五時近くを指しているし、そもそもお昼か午前中にやってきているならとっくにアウト。とんだ骨折り損だけれど、ともかく私は急がずにはいられなかった。
「ただいま!」
 うちにつくころには、靴も制服もびしょびしょになっていた。息も絶え絶えに、ひとまずお店の様子をうかがう。

 けれど、私の期待はあえなく見事に打ち砕かれた。
 そこにあるのはいつも通りのPANPAKAパン。お父さんもお母さんも、何事もなく働いている。
 薫お姉さんはおろか、満お姉さんさえ来ている気配はなかった。
「なあんだ……」
 無理をした疲労が、どっと襲ってきた。
 普段はお店の奥でパンを焼いているお父さんに「ただいま」くらいは言いに行くところだけれど、もちろんそんな気力があるはずもなく。
 自分で自分を引きずるように、惨めな気持ちでお店からうちのほうへとって返す。建物が一緒なだけで、ほんらいお店とうちは別れている。続きの廊下をずるずると歩いていけば、居間に通じているのだ。
 見れば、居間の電気はつけっぱなしになっている。どうせお父さんあたりが消し忘れたんだろう。

 ひやりとしたドアノブを回して、誰もいないがらんどうがお出迎え。

「あらみのりちゃん、お帰りなさい」

 誰もいないはずの居間には、満お姉さんが待っていた。


   ☆


「満お姉さん!」
「しばらくぶり、みのりちゃん」

 満お姉さんはかけていた椅子から立ち上がると、にっこりと微笑んだ。――――少し、混乱する。
「ずぶぬれじゃないの。タオル、持ってきてあげようか?」
「え、あ……自分で行くからいいです!」
「遠慮しないで。どこにあるのかしら」
「向こうの部屋の、かごのところに……」
「そう。ちょっと待っててね」
 頭の中がぐちゃぐちゃで、いろんなことが渦巻いている。冷たい雨に打たれてきたのに、頬がかあっと熱くなって……ともかく、わけがわからない。
「これでよかったかしら?」
 満お姉さんはすぐに戻ってきて、柔らかいタオルで私の頭とか、制服を拭いてくれた。まるで小さな子供にするみたいで、恥ずかしいったらない。
 でも、なぜだか断りきれず、私はされるがままになっていた。椅子に座らされて、満お姉さんのタオルがあちこちを丁寧に拭ってくれる。薫お姉さんに抱きついている時のような、心地よさみたいなものがあったのは確かだ。
 そうしているうちに、とりあえずまともに質問できるくらいには落ち着いてきた。
「どうして満お姉さんが?」
「薫から聞いてなかったかしら。あなたのご両親にお願いがあって、昼過ぎにお邪魔させてもらってたのよ」
「お母さんとお父さんに?」
「ええそう。お店のお手伝いさせてもらおうと思って……こっちに戻ってきたっていうのは、これは薫から聞いてるでしょう」
「うん。昨日あったから……」
 くしくしと、頭を撫でるように這っていたタオルが離れる。視界が開けて、目の前には薫お姉さんと同じ、きりりとした満お姉さんの顔があった。
「らしいわね。薫が言ってた。みのりちゃん、相変わらず元気そうで良かったわ」
「満お姉さんも。……それで、どうしてここに?」
「本当はすぐおいとまするつもりだったんだけど。あなたのお母さんからね、よければみのりちゃんが戻るまで待ってて欲しいって言われたのよ。それで、せっかくだしご厚意に甘えさせてもらったわ。迷惑だった?」
「ううん、そんなことないよ!」
 むしろ嬉しいくらいだった。
 いちど自分の部屋へ行き、急いで制服を着替えて戻る。それから紅茶を淹れて、改めて満お姉さんとふたりの席についた。
「お店に来てくれるの?」
「ええ。もうすぐクリスマスで忙しいでしょうから、お手伝いできないかと思って。私もまたパンの作り方とか、いろいろ教わりたいし」
「満お姉さん、いまでもパンを作ってるんだ」
「バイトだけどね。いろんなお店へ行って、働いて……でも、やっぱり一番おいしいのはここのパンだわ。ぜんぜん違う」
 お茶うけにとお店から持ってきたパンをしげしげと眺めながら、満お姉さんは目を細めた。
「すごいなあ。やっぱり、パン屋さんを目指して?」
「一応ね。でもお菓子づくりとかも面白いかな、なんて最近は思ってるわ。どっちもまだまだだけど」
「もしかしてパティシエさんとか!」
「なれたら素敵ね」
 頬をほころばせた満お姉さんのその表情は、薫お姉さんそっくりだった。当たり前だけど、やっぱり姉妹なんだなあ、なんて思う。優しいところも一緒だ。
「薫お姉さんは来なかったんだね」
「ごめんなさいね。あなたは薫とお話ししたかったんでしょうけど」
「あ、ううん、そういう意味じゃなくって……満お姉さんにもすっごく会いたかったよ。待っててくれて本当にありがとう」
「ふふ。お世辞でも嬉しいわ」
「もう、ホントなのに」
「ありがと。……薫だけど、知り合いのところに行ってて、今日は私だけになっちゃったわ」
 知り合い。昨日、満お姉さんが会いに行っていたひとだろうか。
 薫お姉さんの様子を思い出すと、それ以上聞くのははばかられる気がした。

「薫はね」

 思い出したように、満お姉さんが口を開いた。
「いま、先生やっているのよ」
「先生!?」
「そう。と言っても、家庭教師ってやつだけど。あれでなかなか上手に教えるみたい」
 ぜんぜん、知らなかった。そんな私の反応を楽しむように、満お姉さんの声が心なしか弾む。
「はじめは私がやっていたんだけどね。たまたま都合が悪かったときに薫にやらせてみたら、なんだか生徒のなつきがいいのよ。本人もまんざらでもないみたいで……薫は不愛想だからああ言うのは苦手だと思ってたんだけど、いろいろやらせてみるものね」
「そうなんだ……いいなあ」
「私は咲でこりごりしてるけど……みのりちゃんも教わってみたい?」
「うん!」
 満お姉さんはあんな風に言うけど、私には当然、といった気もした。確かに、ことあるごとにお姉ちゃんに数学を教えていた満お姉さんのほうが先生のイメージはあるけれど、薫お姉さんだって教えるのは上手だと思う。
 お店の手伝いとか、読書感想文とか……小学生だった私の他愛ない悩みでも、薫お姉さんは親身になって聞いて、そしてどうすべきかを教えてくれた。そんな薫お姉さんは、私にとってずっと前から先生なのだ。
 勉強だけじゃない。いろんなことを、満お姉さん、そして薫お姉さんは教えてくれていた。


「もうこんな時間。さすがにそろそろおいとまするわ」
 そう言って満お姉さんが立ち上がったのは、私が紅茶のおかわりを空にしたころだった。
「満お姉さん、帰っちゃうの? 薫お姉さんも呼んで、一緒にご飯食べようよ」
「ありがとう。でもそれは、咲たちが帰ってきたときにしましょう? 私は明日からお邪魔させてもらうことになったし、そう押し掛けてばかりだとみのりちゃんのお母さんたちにも迷惑だわ」
「あ、そうか。満お姉さんは明日からお店の手伝いに……」
「そう。みのりちゃんは学校があるでしょうから、あんまり会えないかもしれないけどね。そういうわけだから、薫に会いたかったらいつでも言ってくれて構わないわよ」

 なんだか、ほっとしたのは――――今になってようやく、薫お姉さんたちが本当に戻ってきたんだって納得できたからなのだろう。
 会おうと思えば、いつでも会える。二年前になくした『当たり前のこと』が、ようやく帰ってきたような気がした。
「そうだ。何なら早い方がいいでしょ、今週末でもどう? みのりちゃん部活は?」
「ええと、土曜日だったら休みだよ」
 急な提案で、どきりとする。幸い、昨日一日練があった代わりに休みが入っていた。
「決まりね。私はお店の手伝いがあるから、ふたりでどこか出かけてらっしゃい」
「薫お姉さんは大丈夫なの?」
「薫はこの町にいるあいだ、絵を描いているだけだから。どうとでもなるわよ」
 家庭教師をする傍ら、絵は描き続けているらしい。絵はがきを通して分かってはいたけれど、満お姉さんの口から言ってもらえるのはなにより確かな証拠で、安心する。
 絵はがきはすべて大切にとってある。薫お姉さんの絵が、好きだった。
「詳しいことはまた私を通して決めてくれれば良いわ」
「……ありがとう、満お姉さん」
「たいしたことじゃないわよ。咲によろしくね」
「うん。薫お姉さんに、よろしく」

 落ち着かない一日は、少なくとも土曜日までは続きそうだ。




 ☆ ★ ☆




 ――――炎が、なにもかも飲み込んでいた。

 うちも、町も、木々も森も山も海もぜんぶ。なにもかもが燃えていて、その中を真っ赤な炎が、まるで生き物みたいにうごめいていた。

 見まわしても、私のほかには誰もいない。みんな燃え尽きてしまったのだろうか。あたりに木霊するのは炎の踊り狂う嵐のような音と、高く響きわたる不気味な笑い声だけだ。笑い声は嘲るような調子で、近づいたり遠ざかったりしている。
 その調子に合わせて、炎は揺らめいているのだ。

 私はひとりだった。ただ熱くてたまらなかった。

 ――――たすけて!

 叫んでも帰ってくるのは炎の笑い声しかなくて、泣きだそうにも、涙は流れたそばから干上がってゆく。

 いつしか炎は、私の周りを囲んで踊り狂っていた。私にはなにもできない、できるはずがない。
 笑い声の調子が最高潮に達し、それは、気味の悪いひとの形に集まってゆく。

 怪物だ。それは、炎をまとったばけものだった。

 ばけものは、みるみる炎を巻き込んで形をなしてゆく。爛々と輝くふたつの瞳が、私をじっとにらみつけていた。
 それは間違いなく、獲物をねらう目。ナイフのように鋭く、炎をまとっているのに、氷のように冷たい。

 ――――助けて、お姉ちゃん。

 怖くて、声はでなかった。でも心の中で叫び続けた。

 お姉ちゃん、早くきて。
 お姉ちゃん、こいつをやっつけて。
 お姉ちゃん、そばにいて。
 お姉ちゃん、どこかへ行っちゃわないで。


 炎のばけものが、燃え盛る両手をいっぱいに広げた。
 するとどうだ、放たれた炎が、何倍に、何十倍にも膨れ上がって。あっと言う間に、黒々とした巨大な影になる。怪獣だ。ばけものと同じ眼をした影の怪獣――――そいつは炎のばけものの命令に従って右に左に、巨体を揺らして地面を鳴らす。

 炎のばけものが、ひときわ大きく笑い声をたてた。
 巨大な影の怪獣は、私に向けて、飛びかかってきて。


 「大丈夫よ、みのりちゃん」


 ふわりと軽い、鳥の羽のような声が聞こえた。


  ☆


『みのりー! そろそろ起きてご飯食べないと、待ち合わせの時間に間に合わなくなるわよー』

 ドア越しに少しくぐもった声がする。その声が耳に入り、頭で理解され、布団をはねとばすまでこの間わずか一秒と少し。
 骨がおれるほどの勢いで首を振り、目覚まし時計を視界にとらえる。
 午前9時32分。7時30分にセットしたはずのアラームは、ご丁寧にオフにされている。
「うわあ!」
 とりあえず、変な叫び声は出た。火のついたような勢いで部屋から出ると、ついさっきドアの前で声をかけたお母さんがいる。
「どうしてもっとはやく起こしてくれなかったの!」
「何度も声をかけたわよ、なのにちっとも起きなかったじゃない」
「遅れちゃうよ!」
「自業自得じゃない。良いから、早く顔を洗ってきなさい」
「そういう話じゃ……もう!」
 押し問答をしている暇はなかった。とりあえず、言われたとおり顔を洗いには行くのだけれど。
「まるで咲みたいねえ」
「そういうとこまではさすがに似たくないよ!」
「はい、はい」
 少なくとも今日という日には、寝坊癖なんて大嫌いだった。

「そんなに急いで食べなくても、十分間に合うわよ」
 ダイニングで、半分ふてくされながらトーストを口へ押し込んでいると、満お姉さんにそんなことを言われた。お父さんに頼まれたのだろうか、お店の方から道具か何かを取りに来たらしい。
 満お姉さんはすっかりPANPAKAパンのエプロンも馴染んで、それ以上に真っ白なパン屋の制服が似合っている。
「ちゃんとアラームもかけたのに、ぜったいおかしい」
「まあまあ。お母さんが言ってたわよ、普段はこんなことないのに珍しいって」
「普段ないから、よけい最悪だよ……」
 よりによって、よりによって今日。この4日間どれほど楽しみに、そわそわ待ったかしれないのに。
 寝起きはあんなに慌てたけれど、落ち着いてみればまだ少しは余裕があった。本当に危ないのなら、朝食なんて食べている暇はない。でも、納得いかない気持ちはちっとも晴れてくれないのだ。私はけっこう引きずるタイプらしい。
 要するに寝起きの不機嫌に任せたみたいに、朝食にありついているのだ。
「11時、だったわよね」
「うん。それで、駅前に」
「なら、やっぱり大丈夫じゃない。それに薫のことだから、少しくらい遅れたってどうってことないわよ」
 少しどころか、半日でも、一日中でも待っていそうね。
 満お姉さんはそう言って、くすくすと笑った。薫お姉さんが、日がな一日待ちぼうけしている姿を想像する――あまり笑えない。
「ちゃんと時間までには行くよ」
「そう。楽しんでらっしゃいね。それじゃ私はお店に戻るから……」
「いってらっしゃい。ありがとう、満お姉さん」
 気づけば、さっきまでのせわしない気分は落ち着いていた。二三のやりとりしかしていないのに、満お姉さんと話すほんのわずかな間で、心持ちがよくなった気がするのは不思議だった。

 ドアがしまり、満お姉さんがいなくなって。
 さっきまでは気にもとめなかった静けさが、急に意識された。
 食べかけのトーストを拾い上げながら、ぼんやり、考える。
「また、あの夢……」
 思わず口をついて出たのは、たぶんそれが心のどこかに引っかかっていたからだと思う。

 今朝も、あの炎の夢を見てしまった。
 辺り一面をとりまく炎。不気味な笑い声。そして、ばけものと、影の怪獣と、最後に現れるのが――――
 同じ夢を、これまでも見たことがあった。いつごろかははっきりわからないけれど、初めて見てから、もうずいぶんとたつのは確かだ。曖昧な記憶を無理に掘り起こせば、小学校の二年生か、三年生ごろから……はじめのうちは、目を覚ましてからよく泣きじゃくったのを覚えている。それくらい、怖い夢だった。
 夢の中で、私は決まって炎のばけものと影の怪獣におそわれて、お姉ちゃんに助けを求める。お姉ちゃんは、来てくれるときもあれば来てくれないときもあった。そして来てくれないときには必ず、あの声がするのだ。

 あの、ふわり漂う羽毛のような、優しい声が。

「ああ、もう!」
 これから薫お姉さんと一緒に出かけるのに、もやもやした気持ちでいたくはない。
 トーストの残りを一口に頬ばり、もしゃもしゃと咀嚼。それから何度も何度も両手で自分の頬をはたいて、無理にでも気分を入れ替えるのだった。


   ☆


 さすがに、そう悪いことばかりが続くこともないらしい。
 道中無事に、私は駅前にたどりつくことができた。時間も十分前と余裕がある。薫お姉さんは、すでに待っていた。
「こんにちは、薫お姉さん!」
 手を振りながら駆け寄ると、薫お姉さんもすぐにこちらに気づき振り返してくれた。少し混みあった駅前だが、背の高い薫お姉さんはよく目に付く。
「こんにちは、みのりちゃん」
 寒さの為か、少し上気したように肌がほんのり赤らんでいる。薫お姉さんは透いた肌だから、いっそう際だって見えた。
「まだ約束の時間には早いわよ」
「薫お姉さんだって」
「確かにそうね。じゃあ、行こう」
「うん!」
 自然と手をつないで、歩き出し……すぐに私は、それに気づいた。
「ねえ薫お姉さん。どこ、行くの?」
「ああ……」
 一瞬だけ、薫お姉さんが眼を丸くした。それから小さく、溜息をついて一言。
「そう言えば、ちっとも決めてなかったわね」
「もう、薫お姉さんったら」
「みのりちゃんだって」
 近くのベンチに腰を下ろすと、こらえていた笑いの波が急におそってきた。はじめは肩がふるえる程度だったのが、次第に大きくなって、しまいには周りの人の目なんか気にしないくらい大きくなる。
 学校の友だちと笑いあうのとは違う、なにか別の種類の楽しさがあった。どちらのほうがうれしいとか、居心地が良いとかとか、そんなことはなくって。ただこの楽しさは、薫お姉さんや満お姉さん、そしてお姉ちゃんたちとしか味わえないんだと思う。

 私たちが作戦会議を始めたのは、そんな笑いがひとしきりおさまってからだった。

「どこへ行こうか」
「どこでも良いよ。薫お姉さんが行きたいとこなら」
「遠慮しなくていいのよ」
「遠慮じゃないよ。私はほら、ずっとこの町にいるから……薫お姉さんは、久しぶりに戻ってきたんでしょう?」
「ええ、まあ……」
 本当に行きたいところは、今日までの五日間で巡ってしまっているのかもしれないけれど。
「だったら、薫お姉さんの見たい……薫お姉さんの行きたい夕凪に、私もついていきたいな」
「……分かったわ。じゃあ、そうしましょうか」
「やった!」
 薫お姉さんは、やっぱり優しい。
 私たちはひとまず、近くの繁華街の方へ歩きだしたのだった。


   ☆


 たくさん歩いたけれど、疲れなんてちっとも感じない、それはもう最高の一日。

 薫お姉さんと一緒に、私はいろんなところに行った。町並みを堪能し、昼食を食べたら今度は海辺に行ってみて、電車に乗ってちょっぴり移動してみたり、あげく、もういっぺんトネリコの森まで行ってみたり。
 今日の私には、密かに目標にしていることがあった。それは一日のどこかで、薫お姉さんに絵を描いてもらうこと――――風景でも、人物でも、建物でも、なんでも。すぐにもらえなくても、約束だけしてもらえればそれでよかった。とにかく薫お姉さんの描く夕凪の絵を、記念に一枚もらっておきたかったのだ。
 何の記念なの? なんて笑われるかもしれない。自分でもその答えはよく分からなかった。ただどうしても、何かのかたちで薫お姉さんたちが今年戻ってきたことを残しておきたくって……それだけのお願いが、結局できずにいた。
 気持ちにばっかりが大きくて、その理由があやふやだったからかもしれない。

 さすがにたくさんの場所を回りすぎたのか、午後の日差しが夕暮れに近づき始めたころ、私たちはまた町に戻り喫茶店で一休みしていた。
 ひとりでは入ったことのないようなお店でも、薫お姉さんと一緒なら平気だ。と言ってもそれほど敷居の高いお店でもなくて、気がねなく薫お姉さんとのおしゃべりに夢中になれた。一時間くらいはあっと言う間に過ぎてゆく。
 ここが最後のチャンス――――ふと会話が途切れたころあいを見計らって、私は話題を絵の方へもってゆくことにした。
「薫お姉さんが絵を描き始めたのって、この町に来てからだって言ってたよね」
「ええ、そうよ」
 薫お姉さんの手元では、カップの中を穏やかな動きでスプーンが回っている。
 ゆっくり、ゆっくり、円を描いて。
「あなたたちの描く絵を見ていたら、私もやってみたくなっちゃってね。転校してきて、すぐのころは興味なかったんだけど」
「私たちの……」
「そう。とっても素敵な絵を見せてくれたから。あなたたちの絵がなければ、私が自分で絵を描くことなんてたぶんなかったわ」
「褒めすぎだよ薫お姉さん。他の人ならともかく、あのころの私が描いた絵なんてめちゃくちゃだったし……」
 猿の顔が、みんなお姉ちゃんたちになっていたりとか。
 それ以外の絵でも、正直にいって年相応のものばかり。ほほえましくはあっても、ひとを感動させるにはほど遠いものばかりだ。
「そんなことはないわ」

 スプーンの動きが、とまる。
 それは私が、初めて見る薫お姉さんだった。

「あなたたちの絵は、誰かを笑顔にできるものばかりだった。へたくそでも、めちゃくちゃでも……決して自分の気持ちに嘘をついて描いたものじゃなかった。楽しいっていう気持ちや、うれしいっていう気持ち、幸せっていう気持ち。いろんな気持ちがこもっていて……どれも、見るひとを同じ気持ちにさせてくれる素敵なものだったの」

 低く静かな、しかし間違いなく意志のこもった声。私はただそれを、息をのんで聞いていることしかできない。それくらいの迫力が、決意があった。とても口を差しはさめない、差し挟んではいけない意志のちからが。

「だから私も、あのとき誓った。もう二度と自分の気持ちには嘘をつかないって――――あなたたちみたいな絵を、私も描いてみたいって。なぜなら、それは私にしかできない、満の為にできる何か、咲たちの為にできる何か、そして私が、私自身の為にできる何か…………その答えなんだって、思ったから。だから、だから……」

 緊張は突然にやってきて、そして去ってゆく。
 ぷつん、と糸が切れたように、薫お姉さんが急に我に返った。細められていた目が見開かれ、私のほうを気まずそうに見つめる。
「……ごめんなさい。何でも、何でもないわ」
 そこにいるのは、いつもの薫お姉さん。さっきまでの、私が知っているはずの薫お姉さんだった。
「あ……私のほうこそごめんなさい。なんだか聞いちゃいけないこと、聞いちゃって」
「そんなことないわ。私が勝手に興奮してしまっただけ……みのりちゃんは悪くない」
 ぎこちない笑顔を浮かべながら、薫お姉さんの手は再びカップの上で回り始めた。さっきまでと同じ調子で、ゆっくり、穏やかに。
「よくないわね、こういうのは」
 なんとなく、気まずい沈黙が降りる。
 けれど私はその『なんとなく』が、文字通り何であるかが分かる気がした。

 なぜなら、これで二度目だからだ。薫お姉さんとふたりでいて、黙り込んでしまうほどの気まずさを経験したことが以前にもある。それは他ならぬ薫お姉さんと、PANPAKAパンのテラスで初めて出会ったとき……ふたりきりで向かい合った、あの日だった。
 今でもはっきり覚えている。なんとかお店の手伝いをしようとお姉ちゃんたちにせがんだ私は、結局テラスの席に連れていかれて。そこに人形のように整った顔立ちの、見知らぬ女のひととふたりだけ残された。それが薫お姉さんとの初めての出会いで、いま感じている気持ちの原点でもある。そのとき感じたのは、自分だけ役に立てない悔しさと、知らない年上のお姉さんとふたりっきりの気まずさだ。

 そうするとつまりいま私をさいなんでいるのは、相手のことが分からない、その不安ということで……

「ねえ、薫お姉さん」
「なに?」
 もやもやと、また心の中に雲がたちこめる。
 目の前の薫お姉さんが、急に薫お姉さんでないよいうな気がした。ばかばかしいけど、でも、どうしてもその考えは頭から離れてくれない。

 薫お姉さんに――――薫お姉さんひとりじゃない、お姉ちゃんたちみんなに、何か秘密があるんじゃないか。私の知ってるお姉ちゃんたちは、本当のお姉ちゃんたちではないんじゃないか。
 それを認めるのが、怖い。なのにさっきの薫お姉さんの言葉は、そんな私に確信を持たせてしまって。
 私の絵に、そんな魅力がある筈がない。それはきっと、きっかけに過ぎないのだ。薫お姉さんは私の絵を通じて、なにかもっと、大きなことを経験していて。だからあんなことを言い出したのであって。

『本当に、薫お姉さんなんだよね?』

 それを聞いてしまえば、すべてわかるに違いなかった。でもきっと、代わりにいろんなことが壊れてしまうだろう。聞けば必ず私の中で、私の知っているひとたちがいなくなってしまう。みんな嘘だったんだって分かってしまう。薫お姉さんが、満お姉さんが、お母さんがお父さんがお姉ちゃんたちが。
 でも聞かずにいられない、聞いてしまいたい自分がいるのだ。
 なくしたくないのに。やっと、前みたいに会えるようになったのに。

 炎のばけものが、遠くで笑っている声が聞こえた。
 視界が、ぼやける。涙でにじむ。そして、そして――――


「大丈夫よ、みのりちゃん」


 手のひらが、暖かいものに包まれた。
 薫お姉さんだった。細くて長い綺麗な指が、私の手をぎゅっと握りしめてくれている。
「大丈夫、大丈夫だから」
 繰り返し繰り返し、スプーンを回すような穏やかさで。
 薫お姉さんは私の手を、握りしめ続けてくれた。ゆっくり、ゆっくりと……そうしているうちに、自然と心は落ち着いてくる。
 だって、落ち着かない方がおかしいのだ。満お姉さんと同じで、薫お姉さんにもそういう不思議な空気があるのだから。
「ありがと、薫お姉さん」
 五分か、十分か、ともかく心地よい時間がしばらくたち。
 名残惜しい気持ちはあったけれど、すっかり気分の落ちついた私はそっと薫お姉さんの手から抜けだした。薫お姉さんが、不安そうに見つめている。
「ごめんなさい。ちょっと、頭の中ぐしゃぐしゃになっちゃって」
「私が悪いのよ。急にびっくりさせること言っちゃったわ。本当に、ごめんなさい」
「ううん、薫お姉さんのせいじゃないよ。私が、勝手にわけわかんなくなっちゃって」
「そう……」
 心配そうなまなざしを振り払うように、無理して笑顔をつくる。うまく笑えているかは分からなかったけれど、薫お姉さんも微笑み返してくれた。
 それは、『何も聞かないよ』っていう、無言の合図。
「すっかり飲み物も冷えちゃったわね。新しいのを頼んで……ついでに、甘いものでも食べようか」
「……うん!」
「それじゃあ、注文を……」

 そう言って、薫お姉さんがメニューを手にしたときだった。


「薫さん、みのりちゃん?」


 背後から、軽やかな、よく通る高めの声がした。それはまるで、風に漂う鳥の羽のようで……

「舞――――さん」

 そのひとの姿をみとめても。
 のどに紙が張り付いたように、言葉が出てこなかった。




 ☆ ★ ☆




「舞、どうして……?」

 突然の来訪者に、きょとん、としているのは薫お姉さんも同じだった。ただ、その理由は私とは少し違っていて……そのことに薫お姉さんが、気付くはずはない。
 しかし舞さん≠ヘ、小さく微笑んで薫お姉さんの問いに答えた。
「たまたま前を通ったら、お店のなかが見えて……ひょっとしたらあなたたちふたりじゃないかって思ったの」
「舞も帰ってたのね。知らなかった」
「ううん、本当はいまさっきついたところ。それで、せっかくだから歩いて帰ろうと思って……」
 舞さんの手には、少し大きめのバッグが握られている。駅の方から歩いてきたようだった。
「みのりちゃん、隣……いいかしら?」
 舞さんの視線が、薫お姉さんから私の方へ向けられる。自分でも理由は分からないけれど、ただただ、どきりとした。その表情はあくまで柔らかで、少しも緊張するようなものじゃないのに、勝手に心臓の鼓動が鋭くなっていく。
 どくん、どくん、と。
「う、うん。良いよ」
「ありがとう」
 そんな私の心中を知ってか知らずか、少なくとも舞さんは何かに気づいた様子は見せず。隣へかけたそのときに、ほんのりと懐かしい香りがしただけだった。
「改めてお久しぶり、薫さん、みのりちゃん。と言っても薫さんとはと春いらいだし、みのりちゃんとも去年の今ごろに会ってたわね」
 舞さんは私と薫お姉さんを交互に見比べると、とろりと目尻を下げた。
 私が彼女と最後に会ったのは、その言葉通り一年前の今ごろ。お姉ちゃんも帰省していて、代わりに薫お姉さんたちはいなかった。
「あまり懐かしいって感じじゃないわね。咲は一緒じゃないの?」
「ええ。咲は、部活が忙しいみたい。一緒に戻ってもよかったんだけど、残ろうかって言っただけで大反対されちゃった。『私のせいで夕凪にいられる時間が短くなるのはダメだよ!』って……」
「咲らしいわ。でもふたり一緒にいないと、やっぱりあなたたちらしくない」
「薫さんったら……咲とは学校も違うし、いつも一緒なわけじゃないわよ」
「でも、一緒に暮らしてはいるんでしょう」
「それは、そうなるけれど……」
 舞さんは、恥ずかしそうにうつむいた。

 お姉ちゃんと舞さんは、一緒に暮らしていた。……と言ってもそれはルームシェアってやつで、ふたりが遠くの大学へいくって決まったときに、急に出てきた案だった。
 お姉ちゃんが行ったのはソフト部の強い大学、舞さんは美術系の大学。どちらも夕凪に遠く、それぞれの場所もそんなに近いわけではないけれど、女の子ひとりで別々に部屋を借りるくらいだったら……ということで決まったらしい。提案したのはお姉ちゃんたち本人。どちらも家族ぐるみでよく知った仲だし、かえってお母さんたちには大歓迎の案だった。
 だから、大学へ行ってもお姉ちゃんたちはずっと一緒。夕凪へ戻ってくるのも、それから夕凪を離れるのも、いつもふたり一緒だったのだ。
「それより薫さんとみのりちゃん、あなたたちはどうしてふたりで?」
 舞さんが、慌てたように話題を変えた。薫お姉さんは一度、私の方をちらりと見る。ほんのりと頬を染めて――今度は、寒さのせいなんかじゃなくて――言葉がうまく出て来ないようだった。私はというと、相変わらず不思議な緊張にさいなまれたまま。
 そんな私たちに舞さんは、にこにこと微笑みながら首をかしげて見せた。 
「その、私が、薫お姉さんに遊ぼうって言ったの」
「ええ、そう。満はみのりちゃんのお店で手伝いがあるから、それで、私たちふたりで」
 なんだか息をあわせた言い訳のようにも聞こえるけれど、本当のことには違いない。
 でも、舞さんにくすりと笑われたのは、そんな私たちふたりの様子はやっぱりおかしかったのだろう。つられるように、薫お姉さんも頬をほころばせた。
「変わってないわね、この街も」
 あなたも、とは言わなかった。薫お姉さんが漏らしたその感慨は、舞さんに対してではなく、この夕凪に対してのもの。
「そうね。いつ戻って来ても、私たちがいた時とおんなじで……薫さんは、ええと、二年ぶりになるのかしら?」
「そうなるわね。年に一度は戻ってこられるあなたたちが羨ましいわ」
 西日がいちだんと斜めになった窓の外を、薫お姉さんはぼんやり見遣る。
 切なそうな、さびしそうな、でも、満足そうな……言葉にできない表情がそこにはあった。薄く落とされた瞼の下に映る光景は、きっと私がみるそれよりも美しいのだろう。だから、あんなに素敵な♀Gが薫お姉さんには描ける。
 それは、住み慣れた私にはもちえない瞳なのだ。

「……戻ってくれば、良いじゃない」

 舞さんの言葉だった。
「舞?」
「満さんも、薫さんも。あなたたちが好きな時、帰りたいと思った時に、いつでも戻ってくれば良いのよ。だってこの街は逃げたりしないもの」
「それは、そうだけれど」
 舞さんの口ぶりはあくまで穏やかで、水の伝うようななめらかさがあった。けれども、それは――――薫お姉さんのときと同じ、意志のちからを秘めた強い言葉。
 伏し目がちに一言一言を紡ぐその姿は、薫お姉さんそっくりだった。

 しばしの静寂が、私たちのまわりだけを包み込む。
 ふっ、と小さな息遣いが、音になって現れた。薫お姉さんだった。

「そうね。舞の言う通り」

 ゆっくりと、眉が下がる。その下にある瞳の色に夕焼けがきらきら輝いて見えたのは、たぶん、錯覚じゃないと思う。
「私は……いえ、私と満は、本当はどこかで怖がっていたのかもしれない。私たちには、この街しかなかったから」
「そんなこと」
「あるのよ、みのりちゃん」
 教え諭すような調子で私の言葉をさえぎると、薫お姉さんはそっと私の手を取った。その温かさに触れて初めて、私は自分がかすかに震えているのに気づいた。
 さっきの薫お姉さんを、無意識に思い出していたのかもしれない。これから彼女の口をついて出て来るのが、また、何か大きなことなんじゃないかって。けれど、そんなものは薫お姉さんの温かさがゆるりと溶かし去ってゆく。
 私の震えが収まるのを待ってから、薫お姉さんは口を開いた。
「私たちにはね、確かに帰れる場所がある。この夕凪がそう……故郷と言っても良いくらい。でも、それだけ……咲やみのりちゃん、そして舞みたいに、帰れるひと≠ヘいないの」
「帰れる、ひと?」
「そう。万が一夕凪がなくなっても、あなたたちには帰れる家族がいる。待ってくれているひとたちがいる。でも、私たちには……」
「そんな」
 今度は、握りしめられた指で言葉をさえぎられた。大丈夫だよ、って言うみたいに、強く強くてのひらが握られる。
「だから。私と満は怖かったのよ。帰りたいときに帰って、それで万が一、すっかり変わってしまった夕凪に出会ったとしたら。私たちの知る夕凪が、そこになかったとしたら。はっきり意識したことはなかったけど、考えただけでぞっとする……」
 薫お姉さんの恐怖は、痛いほどにてのひらを通して伝わってきた。ずきずきと脈打つように腕を這い、体中をめぐり、胸をぎゅうっと締め付けて来る。
「心の中にある夕凪を壊したくなかった。ずっと故郷のままであって欲しかった。変わってしまった夕凪なんて、見たくなかった。……だったら、見なければいいのよ。本当のことなんて確かめなければいい。そう、考えたのね」
「……知らなければ、ずっとそのままでいてくれるから?」
「けっきょく、私と満はまた殻にこもろうとしていたのね」
 力が和らぐ。少し自嘲気味な笑みを浮かべ、薫お姉さんはもう一度窓の外へとまなざしを向けた。何かを確かめるようなその視線は、ほどなくして戻ってくる。
「馬鹿なことだったって、思ってるわよ。今日、みのりちゃんと一緒にめぐってみて分かった」
「私と?」
「ええそうよ。舞の言う通りだった。この街は何も変わっていないし、逃げもしない。そして――――私たちが帰れるひとも、本当はいたんだってね」

 ありがとう、みのりちゃん。
 その一言とともにほどかれた薫お姉さんの手が、そっと私の頬に添えられる。私はただ、その感触と温かさに身を任せることしかできなかった。


   ☆


 ひとりで帰れるって言ったけれど、薫お姉さんと舞さんはふたりとも私を家まで送ってくれた。

 楽しい一日だった、と思う。けれども帰り道の口数はなぜだか少なくて、別れの挨拶も「それじゃあ」と控えめに終わった。
 舞さんはお母さんたちに挨拶をして、それから帰って行った。満お姉さんもちょうどお店が終わったところで、薫お姉さんと一緒に帰る。そうして、いつも通りの夜がやってきた。
 夕食を食べる間も、お風呂に入る間も、私の心持ちは低く、静かに渦巻いていた。お母さんたちは疲れたんだろう、はしゃぎすぎたのね、なんて言っていたけれど、そうじゃないとはわかっている。私自身に思い悩んだりふさぎこんだりしているつもりはなくても、いつもより元気なく見えたのは確かだろう。

 ベットにごろりと横になったのが、9時くらい。今朝飛び起きてから、まだ12時間もたっていないなんて……一日の出来事を頭の中で反芻する。
 満お姉さんと話して、薫お姉さんと会って、いっぱいおしゃべりして、いろんなところに行って、そして、舞さんが現れて……
「舞、さん」
 どうしてあの時、そう呼んでしまったのだろう。自分でも、はっきりとした理由は分からなかった。ただとっさに出たのは舞お姉ちゃん≠ナはなくて、あの、ひどくよそよそしい呼び方だったのだ。でも、それがどうしても改められなかった。
 舞さんは、気付いていただろうか……きっと、気付いていたのだろう。それでいて何も言わなかった。気付いていたけれど、あのひとは知らんぷりしてくれていた。

 けれどそれがもし、満お姉さんや薫お姉さんもだったら。私が彼女らを、満さん=A薫さん≠チて呼んでいたら。

 考えても答えの出ないどうどうめぐりの問いは、そのくせなかなか消え去ってくれなくて。体は確かに疲れているけれど、妙に冴えた頭は勢いの衰えないコマのように、ぐるりぐるりと回り続けるのだ。
 そうして悶々と過ごす時間が、どれくらいたっただろう。コマを止めたのは、携帯電話の鳴り響く音だった。

 着信――――お姉ちゃんからだ。

「もしもし」
『もしもーし、みのり? お姉ちゃんでーす!』

 相変わらず、元気いっぱいの声がした。それだけで、ああお姉ちゃんなんだって実感できる。
「お姉ちゃん」
『やっほーみのり、元気?』
「うん、元気だよ。どうしたの」
 この時間にお姉ちゃんと電話するのは、別に珍しいことじゃなかった。ときどき間が空くけれど、基本的にお姉ちゃんはよく電話してくれる。大事な連絡を伝える時もあれば、他愛ないおしゃべりをするときもあって……このまえの電話もそうだった。
『どうしたってほどのことでも……いや、そうかも。あのね、そっちに戻れる日がやっと決まったの』
「ホントに!?」
 それは、何よりも待ちに待った知らせだった。はやる気持ちを抑えて、出来るだけ叫んでしまわないように尋ねる。沈鬱や、かすかな疲れさえも吹き飛ばしてしまう報せなのだ。
「いつなの?」
『うん、それがね、思ったよりは早く帰れそうなの。24日の夜だから……ちょうどイブだね!』
 すぐにカレンダーを見る。12月24日は、ちょうど来週の金曜日だった。つまりあと一週間もすれば、お姉ちゃんが帰ってくる……
「24日の夜だね。分かった」
『お母さんにも言っといて。あと、一番忙しいときにお店手伝えなくってごめんなさいって』
「うん。でも、今は満お姉さんがお手伝いしてくれてるから、大丈夫だと思うよ」
『それだ!』
 びしり、とひときわ大きな声がした。きっと電話口の向こうで指を立てていることだろう。
『舞からメールで聞いたよ! 満たち、戻ってたんだね!』
「うん。日曜に帰ってきたみたいで、それで」
『そっかあ、うう、楽しみだなあ! 満も薫も元気だった? きょう薫と会ったんでしょう?』
「う、うん」
 舞さんは、どんなメールを送ったんだろう。一番に気になったのは、そんなことだった。
 あの時私に言わなかったことを、お姉ちゃんには教えているんじゃないか。一瞬、不安が胸をよぎる。
「薫お姉さん、ちっとも変わってなかったよ。満お姉さんも、それで」
『いいなあ、はやく会いたいなあ。みのりが羨ましい……』
「もう、はやく帰ってこないからだよ。満お姉さんなんて帰ってきてすぐお手伝いに来てくれてるよ」
『そっかあ。満の作ったパン、みのり食べた? ほんっとうにおいしいんだから!』
「うん、とってもおいしかった」
『でしょでしょ? もう満ったらとっくにプロ並みになってるし、PANPAKAパン二号店があったら店長とかまかせちゃいたいくらい! ああ、いいなあ、はやく帰りたいよ……』
「……ねえ、お姉ちゃん」

 そんなつもりはなかったのに、ぽろり転がり出たのはひどく温度差のある声だった。電話だから離れているのは当たり前なのに、いまの一言だけでお姉ちゃんとの隔たりが生まれた気がする。
 お姉ちゃんにも、その空気は伝わってしまったのか。急に、沈黙が訪れた。

 2秒、3秒……そのまま、時間が過ぎる。


「はやく、帰って来てね」


 それだけ。
 伝えたいのは、ただその一言だけだった。飾ることのない私の本心で、そのままの気持ちで、いま一番言っておきたい言葉。
 そしてまた、2秒、3秒、時間が過ぎる。じれったい時間が過ぎる。永遠と思うくらいの不安な時を経て、やっとかえってくるのは――――短いけれども力強い、まぎれもないお姉ちゃんそのひとの返事。
『……うん。わかった』
「絶対だよ」
『絶対だって』
「約束だからね?」
『約束するから』
「待ってるから」
『ちゃんとおいしいケーキ、作っててよね?』
「約束?」
『うん、約束』
 ふふ、と自然に笑みがこぼれる。今この時だけは、どんな不安も忘れていられる。
 それはいつも通りの、私とお姉ちゃんの電話に違いなかった。




 ☆ ★ ☆




 どんなに心をゆるがす非日常でも、時が流れれば次第に慣れてゆく。
 ついこのあいだ、私のもとに降って湧いたような驚きの日々も、わずかに一週間で過ぎゆく日常のひとコマになっていた。当然と言えば当然なのだろう。なぜならそれら――満お姉さん、薫お姉さん、それから舞さんのいる日々――は、かつての私にとっての日常≠セったのだから。
 一度なくしたものが帰ってきただけなのだから、すぐに慣れないほうがおかしいのだ。
「満お姉さん、行ってきます!」
「いってらっしゃい、みのりちゃん」
 お店の手伝いに毎朝やってくる満お姉さん。彼女へ挨拶して学校へ出てゆく私。どちらもつい最近始まったばかりの非日常≠ネのに、私の中ではもうすっかりいつも通りの光景となっていた。
 ひょっとすると、満お姉さんと過ごす時間は2年前よりずっと多くなっているかもしれない。かつての満お姉さんもお店の手伝いには来ていたけれど、今のように、毎日顔を合わせるということはなかった。そう言う意味では非日常だけれど、以前あった日々にプラスアルファが加わったようなものだから、何の違和感もないのだった。

 しかし、今日の日だけはそんな日常も少し違う。過ぎゆくひとコマに、待ったをかけてUターンする。
「そうだ、満お姉さん」
「なに?」
 橙色のスカーフが映える、満お姉さんの制服姿がまぶしい。いまやすっかり満お姉さんも、ここPANPAKAパンのひとである。
「満お姉さん、今日お店の手伝い何時まで?」
「今日は木曜だから、いつも通りって聞いてるけど。どうして?」
 いつも通り……つまり、私が普段と同じに部活を終えて、家に戻るころにはもういないということ。逆に言えば、部活がなければ満お姉さんが帰るのには間に合うということでもある。
「あのね、今日の部活はミーティングだけだから、早く帰れると思うの。それで……」
「それで?」
 ちょん、と添えるような返事。それは満お姉さん独特の、軽やかな感じだ。
「ちょっと、話したいことがあるんだ。だから待ってて欲しいなって……」
「分かったわ。お仕事が終わったら、ここで待っていればいいのね」
「うん! ありがと」
「どういたしまして」
 とんとん、と小気味よく互いの予定が決まっていく。それは歯車がぴったり噛み合うような、気持ちよさがある。 かくて始まる私の一日。

 お姉ちゃんが帰ってくるまであと一日――――――12月23日、木曜日の朝。


   ☆


 私にとって、満お姉さんは何なんだろう。

 ぼんやり授業中、そんなことを考えた。
 x、y、a、b……黒板の上に踊る文字たち、それから彼らの並んだ数学の公式……まるでふたつは結びつかないはずなのに、不思議な連想が私の頭の中で働いて、満お姉さんとそれらを結びつける。満お姉さんは数学が得意だったから、たぶん、そんなくだらないところから発想しているのだろう。
 無機質な数字や記号と違って、満お姉さんは穏やかで、明るくて、優しいひとだ。それでいて理知的。
 薫お姉さんと似ていて、でも違った。容姿はもちろんだけど、ふたりがまとう空気みたいなものは、それぞれの色をしているのだ。そしてそれはどちらも、私にとっては居心地のいい空気だった。
 ひとことで言えば、好きって気持ち。
 お姉ちゃんたちに向いている、子供っぽい感情だった。満お姉さんたちが帰って来て、嫌と言うほどはっきり分かった。
 良くも悪くも、私はいわゆるお姉ちゃんっ子なのだ。お姉ちゃんが好きなものは私の好きなもので、ソフトボールだってそう。
 お姉ちゃんみたいにエースピッチャーにはなれなかったけれど、お姉ちゃんの大切なスポーツ、大好きなスポーツだって、ただそれだけで私には十分だった。
 そして同じ気持ちは、お姉ちゃんの周りにいるひとたちにだって、自然と向いていく。そうでなくても、ただでさえ素敵なひとたちなのだから……お姉ちゃんは、きっかけに過ぎないのかもしれなかった。
 でもそれは、大切な第一印象だ。

 中でもとりわけ薫お姉さんは、私の憧れで、頼れる先生だった。いつだって私を子供扱いしないで、同じ目線で教えさとしてくれる彼女に、私は自分でもはっきり分かるくらいには懐いてしまっていた。
 薫お姉さんはそう言う意味で、好き。けれども、だったら……満お姉さんを、私はどうして好きなんだろう。
 薫お姉さんと一緒にいるから、お姉ちゃんの傍にいるから、だから好き――――というわけでは絶対になかった。薫お姉さんと似ていて、やっぱりどこか違う「好き」の感情が向くのが彼女。薫お姉さんと一緒にいるのとは違う居心地の良さ、落ち着きがあの人にはあった。
 何よりそれが、私にぴったり合うのだ。

(ねえ、みのりってば!)

 友人のささやき声と、背中をシャーペンでつつかれる感触で、やっと私の意識は帰ってきた。そして気がつけばクラスみんなの視線。すぐそばに先生……
「日向ー、テストが終わったからって気を抜くなよ」
「え、あ」
「さっさと黒板の問題を答えろ。さっきからあててるぞ」
「は、はい!」
 ぷかぷかと漂っていた満お姉さんの姿は、シャボン玉のように弾ける。 最後の一瞬だけ、それがもうひとり――――見慣れた誰かになった気がした。


   ☆


 急いで家に帰ると、満お姉さんはいつぞやと同じように、ダイニングの椅子にかけて待っていた。
 私の姿を見ると、満お姉さんはゆっくり立ち上がって「おかえりなさい」と言った。自然とただいまが口に出る。彼女は本当に家族のひとりみたいで、そうであっても納得しちゃうくらいの自分がいる。
 いったん部屋に鞄をおいて、それから戻って紅茶を淹れて。満お姉さんはいらないって言ったけれど、私が用意しなければ気が済まないのだ。自分の都合で満お姉さんを待たせてしまったわけだし、せめてこれくらいのことはしておきたい。
「薫も呼んでおいた方が良かった? 私だけじゃつまらないんじゃないの?」
「ううん、今日は満お姉さんとお話したいの」
「へえ、珍しいわね。薫に嫉妬されちゃう」
「もう、ふざけないでよ」
 そんな軽口を二、三やりあって、やがて準備は整う。
 湯気の立つティーカップを前に、私たちは向かい合った。先に話を切り出したのは、満お姉さん。
「それで、話っていうのは?」
 その口ぶりに少しも改まったふうがないのは、かえって緊張した。けれども自分で言い出したことだし、そういつまでも怯えてはいられない。 
「あのね、聞きたいことがあるの。満お姉さんなら教えてくれるかなって」
「答えられるかしらね。私に」
「満お姉さんじゃなきゃだめなの。教えてほしいんだ――――6年前のこと」
 瞬間、薫お姉さんの表情に注意を向ける。
 けれどそこには、私の期待したような――ひょっとしたら、恐れていたような――反応はなかった。満お姉さんは目を見張ることもなければ、眉を動かすこともなくて。ただ瞼を落とし、じっとティーカップに口を付けている。
 ソーサーにカップを置いて、一拍。満お姉さんが口を開く。
「6年前、というと?」
「ちょうどお姉ちゃんたちが、いまの私の歳だったころだよ」
「私と薫がこの街へ来たころね。ああ……舞も、だっけ」
「うん。あのとき、一体なにがあったの?」
「何って言われても……」
 満お姉さんの口元が、ふわりと微笑みをつくった。
「色々あったわよ。だって、私たちがこの街へ来たときのことでしょう? とても一言じゃ、ね」
「私が聞きたいのは、その、お姉ちゃんたちとのこと」
「咲たちとの?」
「うん」
 瞳の色は、揺らがない。満お姉さんはあくまで、何から話そうか――そんな風に思いあぐねている感じだ。
 やっぱり、思いすごしなんじゃないか。私が思うような大きなこと≠ネんて、本当はなかったんじゃないのか。すぐに、ぐらぐら心が揺れはじめる。
 でも、今聞かないといけないんだ。満お姉さんじゃないと駄目なんだ。でないと、もうすぐお姉ちゃんが――――お姉ちゃんが、帰って来てしまう。
「ひょっとしたら、満お姉さんたちは話したくないことなのかもしれないけど。でも、聞きたいの。お姉ちゃんたちと満お姉さんたち、きっと何かあったんじゃないかって……」
 藪をつついて、出て来るのはなんだろう。そもそも藪なんてあるのだろうか。
 いろんなことが頭に渦巻いて、気が気でもなくて……満お姉さんの一言が、とっても恐ろしい。
「みのりちゃんの言いたいことは分かったわ。でもその前にひとつ、いいかしら」
「う、うん。いいよ」

「みのりちゃんは、どうしてあのとき、何かあった≠ネんて思うの?」

 今の私には、矢のように鋭い質問だった。
 とたん、言葉に詰まる。けれど満お姉さんは返事せかすこともなくて、ただ、待っていた。私の考えがまとまるのを。私が、ちゃんとそれ≠言葉にできるのを。
 あのとき――――6年前。どうして私は何かあった≠ネんて思うのだろう。
「……お姉ちゃんのまわりが、すごく、変わったの」
 たどたどしく這い出てきたのは、そんなまとまりのない言葉。
「それまでだって、ソフトボール部の友達とか、お姉ちゃんの周りにはいたけど。でもそこに舞さんや満お姉さん、薫お姉さんがやって来て、びっくりするくらいお姉ちゃんや私と一緒にいるようになったよね」
「そうね。でもそれは、たまたまそうなっただけなのかも知れないじゃない。たまたま転校生が三人、同じ年に同じクラスにやって来て……ってね」
 咲は、大空の樹に結ばれた運命だ、なんて言ってたかしら。
 満お姉さんは懐かしそうに目を細めた。
「うん、それは、たぶん偶然なんだと思う。でも、みんなお姉ちゃんと仲良くなって……お姉ちゃんたちは、親友なんでしょ?」
 そうとしか言えないほど、お姉ちゃんたち4人はずっと仲良しだった。中学校を出て、高校へ行ってもみんな一緒。ばらばらになった今だって、ずっとお互いに気にかけている。
 そんな4人が、同じ年同じ町同じ学校同じクラスにそろうなんて。本当にできすぎみたいな、それはもう運命のめぐりあわせだ。

 けれど……満お姉さんの瞳が、その言葉に初めて揺らいだ。

「親友、か……」
「違うの?」
「よく、わからないの。私たちの関係を、本当にその言葉で言い表せるのか……でもみのりちゃんがそう思うなら、私たちは親友なのでしょうね」
 満お姉さんは遠くを見ていた。たぶんそれは、6年前の日々に違いない。
「やっぱり」
 私の疑問は、もうほとんど確信になっていた。
「え?」
「お姉ちゃんたちは、みんなそう。舞さんも、薫お姉さんも、今の満お姉さんも……みんな、特別な気持ちを持ってるみたい」
「特別な、気持ち」
 薫お姉さんと舞さんの、それぞれの意志がこもった眼差しや言葉。そして満お姉さんの表情。
 この街にいた日々を思い出す時の彼女らは、親友≠語る時のお姉ちゃんたちは、ただむかしを懐かしんで、仲のいい友達を思い浮かべているだけには見えなかった。
 それは4人一緒にいた時からずっとそう。6年前いらい、ずっとお姉ちゃんたちはお互い特別≠セったのだ。私はそれをずっと感じていながら、ずっと確かめられずにいた。
 それを、今、私は聞きたいのだ。
「満お姉さんの言う通りだよ。お姉ちゃんたち、ただの親友じゃないんだもん」
「みのりちゃん……」
「ねえどうして? どうしてお姉ちゃんたちはそうなったの? 6年前、お姉ちゃんと出会って……舞さんも、満お姉さんも薫お姉さんも、いったい何をしたの? どうすれば、そんな特別≠ノなれたの?」
 それが嫌なんじゃない。お姉ちゃんたちには仲良しでいてほしい。
 だって、大好きだから。私はお姉ちゃんが好きだから。だから――――大好きなひとたちが、本当の姿じゃないかもしれないのが、怖いんだ。


「あのとき――――何が、あったの?」


 わだかまっていたものを全部吐き出して、急に熱が引いてゆくように冷静になる自分がいた。たいへんなことを聞いてしまったかもしれない……まず浮かぶのが、そんな後悔だ。満お姉さんはじっと下を向いて、黙り込んでいた。居心地の悪い沈黙。
 何と言葉をかけていいか分からぬまま、数秒か、数分か、ともかく時間だけが過ぎる。
 けれども、先に口を開いたのは……やはり、満お姉さんだった。
「咲と舞はね、私たちにとって大切なともだち≠ネの」
 いつもと変わらない声の調子。満お姉さんが顔をあげた。
「ともだち」
「そう。それをあなたは親友って呼ぶかも知れない。でも私にとって、ふたりはやっぱりともだち≠ネのよ。とっても、とっても大切な……」
 ひとつひとつ、言葉に噛みしめるような重みがあった。どんな意味がそこに込められているのか、私は知らない。
「みのりちゃんは覚えてないかもしれないけど。私と薫はね、一時期学校に行かなかったことがあるの」
「ええ!?」
「ふふ、驚いたかしら?」
「う、うん。だってそんなの聞いたことなかったし……不登校ってこと?」
「まあ、そうなるのかしらね」
 とたん、魔法のように緊張した空気が砕けてゆく。それは満お姉さんがごまかしを言って場を和ませようとしているからではなくて、むしろその反対――――本当の事を語ってくれているからこそ、吹き抜けた風だ。
「夏のころ……7月くらいだったかなあ。色々あってね、私と薫は学校に行かなくなったの。半年かそこら」
「そんなに!?」
「立派な不登校児ね。でも、自分たちでもどうすることも出来なかったのよ。薫とふたり、暗い所にずうっとこもってた」
「でも確かあの年のクリスマス……ふたりとも、お店でお手伝いしてくれたよね?」
「だから、半年くらいよ。ずっと暗い中にいて、もう何も私たちには届かないと思っていた。二度と日のあたる所に出られやしない、私たちはこのままずっとこのままなんじゃないかって……でも、違った。そんな私たちのもとへ、声を届けてくれたひとたちがいたの。それが、咲と舞」
 その声というのを思い出すように、満お姉さん瞼を落とした。
「ふたりはいつもそうだった。この街へ来たばかりのころ、殻にこもっていた私たちにいろんな世界を見せてくれた。うまく他人と関われない私たちと、みのりちゃんや、クラスメイトのみんなを触れ合わせてくれた。どうしようもないって思うことでも、諦めなければきっと変えられるって教えてくれた。そんなふたりの声が聞こえて、導かれて、私と薫は戻ってくることができたの」
 私の知らない満お姉さんが、そこにはいた。目の前の満お姉さんは変わらないのに、その口で語られる彼女の姿は、まるで私の想像してなかったもので。
「もちろん、それから大変なことは山ほどあったわ。でもそんなときね、いっつも咲と舞は助けてくれるのよ。頼まれもしないのにね……それであんまり良くしてくれるものだから、とうとう『どうして』って聞いたのよ。そしたら、ふたりはなんて答えたと思う?」
「……わかんない」
「今でもはっきり覚えてる――――――『ともだちだから』、だって。それいらいずっとよ。私たちにとって、咲と舞がともだち≠ネのはね」
 それが、6年前の真実で、私の求めていた答えのひとつ。
 私の知らないお姉ちゃんたちは、私が思う以上にともだち≠セった。

「……さて。みのりちゃんの期待通りのお話を、私はできたかしら?」
「うん。なんて言うか、その……ごめんなさい」
「謝らなくたっていいのよ。あなたが知りたいと思うのは自由。私はその気持ちに、私なりのかたちで応えたいと思っただけ」
 ぽん、と満お姉さんの手が頭の上に乗せられる。そのままゆっくりと降りていって、手のひらはひったりと頬に添えられた。
 触れあう肌が、じわり温もってゆく。

 私はその心地よさの正体が、やっとわかった。

「満お姉さんって」
「うん」
「満お姉さんって、優しいね。とっても柔らかくって、落ちついて……まるで、お姉ちゃんみたい」
「咲みたい? 私が?」
 とたん、満お姉さんの目が、満月のように丸くなった。それから泳ぐように揺らいで、瞳がうろうろと行き場を探し始める。それは今までさんざん神経質に見てきたなかで、一番大きな変化かもしれない。
 まさか、こんなところで満お姉さんの意表を突いてしまうなんて。いまさら私は、本当に藪をつついてしまったみたいだった。
 けれどそこは満お姉さんで、いつもの調子に戻るのは早い。すぐ、噛み殺すような笑いが真っ白な歯の間からこぼれ始めた。
「そ、そんなに変なこと言ったかな」
「いいえ、そうじゃないの。そうじゃなくって――――その、本当にびっくりしたから」
 そう言う満お姉さんの表情は、とてもうれしそうで。

 ありがとう、って言われた。だから私も、ありがとうって、返す。

 頬に残った手のひらの温かさが、全身に広がって、そのまま部屋中にまで広がってゆくみたいだった。それはとても、幸せな時間だ。
「咲、はやく戻って来てほしいわね。明日だっけ?」
「うん、そうだよ。遅くになるみたいだけど……明日は終業式だから、はやく帰ってお店の手伝いするよ」
「そう。じゃあとびっきり大きなケーキ、作っておかないとね」
「うん! 満お姉さんも手伝ってくれる?」
「もちろん。約束するわ」
 満お姉さんの差し出した小指に、自分の小指を絡める。
 お姉ちゃんと交わした約束は電話ごしだったけど、きっと、この約束と同じくらい信じられた。なんたって、お姉ちゃんとの約束なのだ。

 満お姉さんの話は――――きっと、ちゃんと考えなきゃいけないんだと思う。確かに私の知らない、とても大きなこと≠満お姉さんは話してくれた。でもそれで私の聞きたいことが全部わかったわけでもないし、満お姉さんの知らないなにかが、まだあるような気がするのだ。
 時間はあまりない。でも、今はまだ、考えたくなかった。お姉ちゃんにそっくりな、満お姉さんと過ごす今だけは。

 明日の今頃、きっと家族みんなが揃うだろう。お姉ちゃんの笑顔を見るのが、なによりも待ち遠しかった。




 ☆ ★ ☆




 そして運命の――――なんて言うと、大げさすぎて自分でも笑ってしまうけど――――12月24日はやってきた。

 いつも通りの朝。それだけだと何か特別な日という感じはしないけれど、冷え切った空気の中でもわくわく踊る心地があったのは確かだった。
 運命≠ネんていうのは、やっぱり言い過ぎだったかもしれない。別に何年も会っていなかったお姉ちゃんが帰って来るわけでもないし、年に数回の、ありふれた帰省の日を迎えるだけで。そう言う意味じゃ特別なことなんて何もないんだけれど、それでもやっぱり何かが違うのだ。

 きっとその理由は、ほかでもない満お姉さんと薫お姉さんがいるからだと思う。2年前にお姉ちゃんたちがこの街を離れて以来、4人が夕凪に揃うのはこれが初めてになるから。私の前に、2年前の日々が戻ってくるのはこれが初めてだから。
 だから、今日はきっと特別≠ネ日なのだろう。
「おはよう、満お姉さん」
 ダイニングへ行って、昨日と同じように仕事の合間の満お姉さんに挨拶。
 お母さんたちはお店のほうで忙しく、中学生になってからはというもの私はひとりで朝食をとることがよくあった。けれど、この1週間は満お姉さんがいるおかげでそんな日もひとりじゃない。
 ほっとする朝の時間。満お姉さんがお店に手伝いに来てくれるようになってから、彼女との短いおしゃべりの時間は日課みたいになっている。はじめはたまたま行き合ったついでみたいなものだと思っていたけれど、どうにも違うらしかった。道具を取りに来たり、小休憩の時間だったりといろいろ理由はつくけれど、結局のところお母さんたちの計らいか何からしい。お店にかかりっきりで私がひとり学校へ出て行くのを、満お姉さんにお願いして少しの時間でも一緒にいてくれるようにしているのだ。
 もちろん、いやがる理由なんてない。
「今日は早いんだったかしら?」
「うん。お店、手伝うもんね」
「そう。午後からは薫も来るって言ってたわよ」
「本当? やった!」
 クリスマスイブだから、ケーキの購入でお店は混み合う。あわせてセールもやるから、この時期のお店は大忙しなのだ。お母さんたちは、お姉ちゃんの帰省が遅れて人手が足りるか心配していたけれど、満お姉さんという思わぬ強力な助っ人を迎えられて一安心だった。満お姉さんは店頭の販売だけじゃなくてパンの製造のほうでも大活躍だから、このところのお母さんたちは満お姉さんに感謝することしきりだ。
 やがて満お姉さんは仕事に戻っていって、私はひとりで朝食を済ませる。それから歯を磨いて、着替えて、鏡の前であれこれ身だしなみを整えて……
 今日は終業式だから、学校に持っていくものも少ない。鞄も足取りも軽く、私は玄関を飛び出した。

「行ってきます!」

 12月24日、朝。私の特別な一日≠ェ、始まった。


   ☆


 学校は、私とは少し違う意味でみんな浮足立っていた。
 それもそのはず、明日から冬休みなのだから、友達同士いっしょに遊ぶ計画をたてたり、家でだらりと過ごすつもりだったりと、早めの解放感に包まれているのだ。通知表返却みたいなイベントもあって、今日という日は私だけじゃなくみんなにとっても特別な日≠ネのだろう。
 体育館での眠くなりそうな式を終えて、クラスそれぞれに戻り……めまぐるしく午前中は過ぎてゆく。けれども私の頭を埋め尽くしているのは、それらももちろんだけれど、やはり今日の夕方――――お姉ちゃんが帰って来るころのことばかりだった。
「みのり! 通知表どうだった!?」
「んー、まあまあ、かな」
「そんなこと言ってえ、どうせ良いんでしょこの優等生め!」
「そ、そんなことないってば。じゃあさ、ナオミのも見せてよ」
「えー私のみじめな数学を見たいか! ってみのりスゴッ! なんという5の乱舞……」
 賑やかなやりとりにクラスじゅうが湧きたつ間も、早く帰りたいっていう気持ちが心のどこかにしっかり根づいている。別に私が早く帰ればそれだけお姉ちゃんに早く会えるわけでもないのだけれど、理屈では説明できない焦りみたいな気持ちが収まってくれないのだ。
「あ、そうそうみのりさ」
 そんな私の心中なんて知るはずもなく、友達は話しかけて来る。
「なに?」
「みのりのお店さ、新しくバイトのひと雇ってない? このあいだ行ったんだけど、見かけない女のひとがレジ打ってたから」
「あ、うん。お姉ちゃんの知り合いひと。いまお店手伝ってもらってるんだ」
「へえ……だったらハタチくらい? みのりのお姉ちゃんって確かそれくらいだよね」
「うん、そうだよ。同い年だから……」
「そっか。って言うかさ、あのひとめっちゃ美人じゃなかった? ……」
 満お姉さんのことだった。
 確かに満お姉さんは、薫お姉さんともどもびっくりするくらい美人だ。女の私から見てもほれぼれてしまうほどで、ナオミがわざわざ覚えていたのも無理はないと思う。
 なんだか、自分のことみたいにそれがうれしい。
 同時に、早くそんなお姉さんたちのもとへ、帰りたいと思う気持ちもつのってゆく。
 窓の外、ホワイトクリスマスには程遠い晴れ空を見ると、その気持ちはいっそう強くなっていくみたいだった。


   ☆


「ただいま!」

 満お姉さんと会った日と同じように息を切らして帰宅すると、今日は薫お姉さんも待っていた。
 しかも一緒に昼食を食べることになって、うれしいサプライズ。夕凪に戻って来て以来それぞれとは何度も会っているけれど、ふたりそろった満お姉さんたちと落ちついて顔をあわせてはいなかった。
 テラス席に3人かけていると、2年ぶりの日々が戻ってきたような気分になる。
「コロネも相変わらずねえ」
 薫お姉さんの視線の先にいるのは、席の傍で寝転んでいるコロネだった。
「コロネったら、元々なまけものだったくせに最近ほとんど寝てばっかりなんだよ。本当、ぐうたら猫」
「しかたないわよ、だってもう11歳でしょう? 人間の歳だったら7、80歳くらいになるのよ」
「そっかあ。もうすっかりおじいさんなんだね……」
 私たちの会話を聞いていたのか、コロネは眠たそうに目を開いた。満お姉さんと薫お姉さんが小さく手を振る。するとコロネはのそり起き上がったかと思うと、そのままふたりの足元をうろうろと動き回った。
 薫お姉さんはそんなコロネをゆっくり持ち上げ、膝のうえにのせる。コロネは特に嫌がる様子もなくて、ひと声あくびみたいな声をあげると昼寝に戻ってしまった。
 背中をなでる薫お姉さんの手に合わせるように、尻尾がゆらゆらゆれる。
「いつもはこんなに甘えないのに……」
 最近はめっきりこんな姿は見せなかったから、びっくりだ。でも同時にうれしくもあった。
 コロネも、ふたりのことを覚えててくれたんだ。だったら、お姉ちゃんが帰ってくるのも楽しみにしてくれるよね?
「咲はいつごろに?」
 そんなコロネに目を細めながら、満お姉さんが言った。
「昨日メールがあったよ。6時くらいに駅につくって」
「そう。迎えには行くの?」
「もちろん! 満お姉さんたちも行こう?」
「そうね。私はお店があるから、薫、行ってらっしゃい」
「ええー、満お姉さんも一緒に行こうよ。お母さんに頼んでみるから」
「行きたいのは山々だけど、私もいちおう仕事だし……」
 せっかくみんなそろったんだ。お姉ちゃん自身とっても会いたがっていたことだし、みんなで出迎えてあげたかった。顔いっぱいに喜びを浮かべるお姉ちゃんの顔が目に浮かぶ。
 あと数時間先のことだけど、満お姉さんたちといる今は、不思議と午前中感じた心のざわつきは起こらなくなっていた。


 昼食を終えると、お店の手伝いに私と薫お姉さんも加わった。満お姉さんは製造のほうに回っているので、私と薫お姉さん、そしてお母さんの3人で販売のほうは担当する。セールと一緒ということもあって、さすがにお客は多かった。予約していたケーキの受け取りも多い。手伝いに入って2時間ほどは、目の回る忙しさでとても休んでなんかいられないほどだった。
 けれども、夕方近くにはふたりとも抜けていいことになっていた。お姉ちゃんと約束したケーキを、みんなで作るからだ。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ!」
 忙しいなか薫お姉さんとときおり目が合って、そのたびに小さく笑みがこぼれた。
 みんなで、お姉ちゃんのためにケーキを作る。それだけのことが……それほどのことだから、楽しみでしょうがない。
 そうして仕事をこなしているうちに昼過ぎの混み合った客足もひとまず落ち着いて、ちょうど私たちが抜けても大丈夫そうなころあいになった。満お姉さんのほうも休憩も兼ねて解放されたらしい。
 私たちは3人でお姉ちゃんのケーキ作りを始めることになった。
「何ケーキにするの? ショート? チョコ?」
「んー、お姉ちゃんだったらなんでも好きって言うからなあ……ショートでいいと思うよ」
「賛成ね。大きいのさえつくれば、咲は喜ぶでしょう」
「あ、薫お姉さんひどいよ。まあ、その通りなんだけど……」
「ふふ、ごめんなさいね」
 私と満お姉さんは手慣れているから、薫お姉さんをあれこれ手伝いつつケーキを生地から作っていく。
 けれども薫お姉さんだって心得が全然ないわけでもないし、手先は器用、それにもの覚えも私なんかと比べればはるかに良い。ちょっと教えるだけですぐにコツをつかむから、作業は滞りなくすらすらと進んでゆく。
 しかし本当に難しいのは生地が焼けてから、クリームを塗ってデコレーションをしていくところ。だから今は、すらすら進んで当たり前みたいなものだった。

 生地が焼けるのを待つあいだ、3人でまたおしゃべり。満お姉さんと薫お姉さんがふたり揃うと、どちらかひとりといるときより2倍も3倍も話が進むし、盛り上がる。
 薫お姉さんたちのこと、街を出てからの話、高校時代のこと、それから私のこと……それらを話しているだけで、あっという間に時間は過ぎてゆく。とても楽しい時間。

 そうして、スポンジ生地が焼きあがった。いよいよデコレーションにかかろう……そう、思った時だった。

「みのり、舞ちゃん来たわよー」

 ドアが開いて、お母さんが入ってきた。そして一緒に現れたのは、彼女――――美翔舞、さん。
「お邪魔します」
「舞」
「いらっしゃい舞、遅かったじゃない」
「ごめんなさい。本当はもっとはやくお手伝いにきたかったんだけど……」
 なんで。どうして―――― 一瞬でも、そんなことを考えてしまった自分がいた。そんなの分かり切ったことなのに。舞さんが来るのは当たり前、いないほうがおかしいのに。
 だって舞さんは、お姉ちゃんの親友≠ネんだから……
「ちょっと、みのり」
 固まっていた私に、お母さんが小声で囁いた。いたずらをとがめられた時のように、びくり、と体が跳ねてしまう。見ると、お母さんの眉間には少しだけしわがよっている。
「な、なに、お母さん」
「なに、じゃないわよ。どうして舞ちゃんに声かけてなかったの。ケーキ一緒につくる約束、あなた言い忘れてたでしょ」
「え、あ……うん、そうだった……その、ごめんなさい」
「お母さんに謝ってどうするの。舞ちゃん、そのこと知らなくてびっくりしてたわよ。わざわざお店のお手伝いに来てくれたから良かったけど……」
 ちゃんと謝っておきなさいね。
 それだけ言い残して、お母さんはお店へ戻って行った。満お姉さんと薫お姉さんは、舞さんと楽しそうにおしゃべりしている。
「みのりちゃん?」
 私の様子に気がついたのか、舞さんが怪訝な声を挙げた。3人分の視線が、いっぺんに私に向けられる。とたん、どく、どくと心臓の鼓動が早くなった。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよ舞さん。あ、そんなこと言ってたら生地が焼けたよ! 舞さんちょうど良かったね」
「え、ええ……」
 どうしてだろう。
 「声をかけ忘れてごめんなさい」そのひとことが、どうしても言えなかった。
 舞さんが怒っているわけじゃないのに。それどころか、私の様子がおかしいのを心配してくれているのに。
 それなのに私には、できなかった。ひとこと謝ることもせず無理に元気を出して、さっきのままの自分を続けて。
「じゃあ、クリームづくりからいってみよう!」
「そ、そうね」
「ええ……始めましょうか」
 満お姉さんたちはふたりとも納得いかない感じだった。でも私自身、ほかにどうすればいいのか全然わからない。どうしようもないんだ。
 舞さんが手を洗ってくるのを待ってから、みんなで作業を再開。いよいよ本番、仕上げのデコレーションに入る。ケーキの良しあしを決める大事なポイントで、やりがいのあるところ。

 それは、一番楽しみな行程で、

「舞は、いつまで夕凪に?」
「お正月まではいるつもりよ。満さんたちは?」
「同じくらいかしらね」

 お姉ちゃんの喜ぶ顔を想像しながら、みんなで楽しくやっていく作業のはずで、

「そう言えば薫さん、来年の成人式は出るの?」
「成人式? ええと……満、どうする?」
「さあ。私はどっちでも良いけど、舞たちが出るんだったら一緒に行ってみようかしら」
「ええ、行きましょう? きっと楽しいわよ」

 居心地の悪さなんか、絶対に感じないはずで、

「咲も楽しみにしてたわ。ふたりには絶対晴れ着が似合うって」
「そ、そうかしら」
「そんなことないと思うけど……ねえ、みのりちゃん?」

 なによりも、うれしい時間。


 なのに、どうして私――――――こんなにつまらないんだろう?


「みのりちゃん?」
 薫お姉さんの声がした。はっとして我に返るとまた、3人分の視線が集まっていた。
「さっきから元気がないみたい……どこか調子でも悪いの?」
「そ、そんなことないよ! 絶好調なりー! って、ほらね!」
「なんだか無理してるみたいだけど……」
「もう、満お姉さんまでそんなこと言って。本当に大丈夫だよ私。ねえそうでしょ、舞、さ、ん……」
 言葉が最後まで続かなかったのは、私が、きっとその冷静さで自分の気持ちに気づいてしまったからなのだろう。
 そのひとを見て、そのひとの名を呼んで……ただでさえこわばった笑顔に、みるみる血の気が引くような冷静さが降りて来た。

 先週出会った時から――――いや、ひょっとすると6年前、初めて彼女とあったときから。ずっとこの気持ちを私は抱えてきたんだ。
 そしてその正体が、いまはっきりわかった。わかって、しまったんだ。

「みのり、ちゃん?」
「えへへ……ホントはちょっと気分悪いみたい。ごめんなさい、休憩してくるね」
 呼びとめられた気がしたけれど、構わずその場を後にする。冷静さが保てていたのはドアを閉めるまでだった。3人の姿が見えなくなると、気持ちが一気に爆発する。
 廊下を走りぬけて、玄関で乱暴に靴を履いて。逃げるように家を飛び出していた。自分でも何をどうしたいのか分からないけれど、もう、何もかもが限界だった。ぐしゃぐしゃになった視界に広がっているのは、ただただ真っ赤な夕焼けの世界。

 それは、夢の中でみた炎と、同じ色をした世界だった。




 ☆ ★ ☆




 生まれたときから、ずっと一緒だった。

 私は妹だから、それは当たり前のことなのだけど。物心つく前から、記憶なんてかけらもないむかしから、私の傍にいるのがお姉ちゃんだった。かけがえのないひととして、たったひとりの姉として、ずっと。
 少し歳の離れた彼女は、いつだって私の目標だった。私にできないことをやってのけ、私のわからないことを教えてくれて、私の助けてほしいときいつも力になってくれた。成長して、少しづつ欠点や短所が分かるようになっても、その思いは変わらない。
 お姉ちゃんは、私のヒーローだったのだ。それでいて、家族。一緒にいて当たり前、傍にいてくれて当然、喧嘩してもすぐ仲直りして、何があっても彼女は私の『お姉ちゃん』でいてくれる……それが彼女、日向咲というひとだった。

 そう、思っていた。

 変化が起こったのは、6年前――――お姉ちゃんが14歳で、私が8歳の時だった。
 お姉ちゃんのまわりに、3人のひとが現れたのだ。

 ひとりめは、美翔舞。容姿端麗、落ちついた雰囲気の、絵が得意なお姉さん。お姉ちゃんとは正反対の性格がかえって新鮮で、お姉ちゃん自身ともうま≠ェ合った。私にだってもちろんそう。もうひとりのお姉ちゃんができたみたいで、うれしく、また誇らしかった。

 ふたりめ、霧生満。不思議な雰囲気をまとった転校生。普段にこやかだけれど、ときおり垣間見せる鋭い表情が印象的な大人のお姉さん。本当はお姉ちゃんにそっくりなんだって、ついこのまえ気付いた。

 そしてさんにんめ、霧生薫。満お姉さん以上に不思議なひと。いつも遠くを見つめたように、捉えどころのない雰囲気をまとっている。でも私と向き合うそのときだけは、だれよりもしっかり私の目を見据えてくれた。だから私は、子供みたいにいまでも彼女に懐いている。

 初めは、なんて素敵な人たちなんだろうって思った。
 舞さんは私に、絵を描くことの楽しさを教えてくれた。満お姉さんと薫お姉さんは、優しさと厳しさの両方で私を成長させてくれた。おかげで私は彼女たちから、かけがえのないたくさんのことを学ぶことができた。みんな優しくて、かっこよくて――――本当の家族みたいに、大好きだったのだ。
 ただ、ひとつのことをを除いては。

 それは、いつのころからだっただろう。
 ふと気づいたときにはもう、変化は始まっていた。お姉ちゃんは、私の傍にいることが少なくなっていたのだ。
 もちろん、中学生と小学生の違いがあるから、一緒にいられる時間は少なくなって当たり前。でも私の感じたお姉ちゃんとの距離は、そういったものじゃなかった。

 お姉ちゃんの隣にいたい、いて当たり前……そんな私の気持ちに変わりはない。けれど変わったのは――――お姉ちゃん自身が持っている、お姉ちゃんの気持ちに対する、私の確信だった。

 私が思うのと同じように、それまではお姉ちゃんもずっと、私と一緒にいたい、いて当然と思ってくれていた。少なくとも私はそう確信していた。 本当はそうじゃなかったかもしれないけれど、お姉ちゃんが私と同じ気持ちでいてくれていることに、少なくとも疑いなんて絶対おこらなかったのだ。

 舞さんたちが現れて、すきま風が吹くようにその気持ちは揺らいでいった。
 私はお姉ちゃんと一緒にいたい。でもお姉ちゃんは、私と一緒にいたいのだろうか? 彼女の隣に私がいることは、本当は当然じゃなくなってるんじゃないだろうか?


 お姉ちゃんにとっての一番は、もう、私なんかじゃないんじゃないだろうか?


 確かな証拠があるわけでもなかった。お姉ちゃんがはっきりそう言ったわけでもない。目に見えてお姉ちゃんが変わったわけでもない。
 でも、一度芽をふいた疑問の蔓はとめどなく伸びてゆき、私の心をからめとって逃げられなくしていた。
 そうして見えてきたのは、私を打ちのめすのに十分な事実。
 私はこの6年間、ずっとそれに目をつむり、気づかないふりをして、逃げ続けていたのだ。


 お姉ちゃんにとっての一番。
 傍にいて当たり前のひとは、一緒にいて当然のひとは――――――美翔舞、そのひとだってことを。


「やっぱり、ここにいた」


   ☆


 やわらかな声に導かれるように目を開くと、紫がかった光に景色が埋まっていた。
 どこをどう走ったのか、あまり覚えていない。けれどいつの間にか私は、この公園に来て、ひとりブランコに腰かけていた。辺りには誰もいない。世界の誰もかれもが消えうせてしまったみたいな静けさの中で、そのひとの声はしたのだ。
「舞、さん」
 声の主は目の前にいた。流れるような黒髪、整った顔立ちは、暗く沈んだ夕暮れの中でもはっきり分かる。なによりもその、凛々しいながらもひどく優しげな眼差しは、他の誰と間違うはずもなかった。

 美翔舞。私が逃げ続けて、結局逃げられなかったひと。

「となり、いい?」
「……うん」
 どこかで交わした気がする短いやりとり。私の返事に安心したような溜息をもらして、舞さんは隣のブランコにかけた。
 がちゃ、がちゃと鉄のこすれあう音がして、それから無言――――言うべきことは決まっているはずなのに、やっぱり私は、それを口にすることはできない。
「どうして、ここにいるってわかったの?」
 つまらない質問をする勇気はあるくせに。そう思えば思うだけ、みじめな気持ちばかりがつのってゆく。舞さんは、穏やかに答えた。
「むかし、連れてきてもらったことがあったから。みのりちゃんが小さいときのお気に入りの場所だって」
「……そんなこと、あったっけ」
 覚えていなかった。私自身、ここがお気に入りの場所だってことを忘れかけていたのに。
「お気に入りだっていうのは、咲から聞いたんだけどね」
「お姉ちゃんから……」
「ええ。あのときも、いなくなったみのりちゃんを探していて……咲は、すぐあなたがここにいるって分かったのよ」
 ずきり。傷を突きさすような痛みが、胸にはしる。
 私の知らないお姉ちゃんと舞さんの関係、私の記憶にないお姉ちゃんと私の思い出……そしてそれを、舞さんだけが覚えている事実。私は大切なものをなくしてゆくのに、舞さんはずっと、それを持っていられる。
「ははっ」
 泣きたいくらいの気分なのに、出てきたのは無様な、情けない笑いだった。
 私、何やってんだろ。お姉ちゃんが帰ってくる日に、ひとりでぐちゃぐちゃになって、迷惑をかけて。
 舞さんはそんな私を、悲しそうに見つめるだけだ。
「……聞かないの?」
 私が、こんなことした理由。
 舞さん≠ネんて呼んで、無意識に遠ざけて、挙句に仲間はずれになんかしようとした。それがうまくいかなかったら今度は飛び出して、大切な日を、ひとりの都合でめちゃくちゃにした。
 その、理由を――――舞さんは、聞きたいんじゃないだろうか。
「みのりちゃんは、聞いてほしいの?」
 舞さんの声は、落ちついていた。
「え……?」
「みのりちゃんが言いたくないことだったら、私は聞かなくてもいい。それはみのりちゃんの気持ちだから、私はその気持ちを、大切にしたいから」
「……そうだね。じゃあ、聞いてよ。言いたいんだ、私きっと。舞さんに聞いてほしいんだ」
「無理しなくていいのよ。本当に……みのりちゃんの気持ちを踏みにじってまで、私は」
「ううん、言わせて。お願い。言いたいの」
「そう、わかったわ。じゃあ……聞かせて?」
「ありがと」
 やっぱり、かなわない。私の幼稚な気持ちなんて、舞さんには全部お見通しなんだ。結局私は、自分の気持ちを吐きだしたいだけ。誰かに愚痴を聞いてもらいたいだけなんだ。
 そのくせ、意気地無しだから自分から話そうとはせず、誰かに聞かれたがる。聞かれたから、しょうがなく教えてあげるんだって……そういう逃げ道を作っておこうとする。
 だってこれから話すのは、私のあさましい部分なのだから。

 けれどもう今は……舞さんからは、逃げられない。諦めにもにた投げやりな気分で、私は口を開いた。

「ずっと、気になっていたことがあったんだ」
「気になっていたこと?」
「うん。舞さんは、どうしてお姉ちゃんとあんなに仲良くなったのかなって」
「私が、咲と……」
 満お姉さんにしたのと、同じ質問。しかも、満お姉さんたちよりももっと根深い疑問。
 舞さんは、ピンと来ていないみたいだった。今日のことと、お姉ちゃんと舞さんのことと……ふたつはすぐに繋がるわけじゃない。私の中ではどうしようもないほどずぶずぶとくっついてしまっているけれど、舞さんにとってみれば、何の話か分からないかもしれないのは仕方がなかった。
 私は、続ける。
「私ね、ずっと、お姉ちゃんたち4人は特別≠ネ友だちに見えてたの。普通に仲良くなっただけじゃない、きっと何か大きな出来事があって、それを通じて友だちになったような……そんな気がしてたの」
 満お姉さんはそれを、不登校だった自分たちを助けてくれたことだと言った。でもそれは満お姉さんたちだけに関わること……舞さんと、お姉ちゃんが特別仲良しになった理由にはならない。
「その理由が、ずっと知りたかった。とくにお姉ちゃんと舞さんについては。……舞さんと出会ってからね、お姉ちゃん、舞さんの話ばっかりするようになったんだよ?」
 二言目には、「舞が」って。何かをするときにはいつも、「舞と」って。
 満お姉さんと薫お姉さんがふたり一緒でいるように、お姉ちゃんと舞さんはいつしかコンビになって、「咲と舞」って呼ばれるのが当たり前になっていった。そこに私が入りこむ余地なんて、かけらほどにも見出せなかった。
「私には羨ましかった。お姉ちゃんの隣にいられる舞さんが、お姉ちゃんの一番大切な人になった舞さんが。高校を出て、大学へ行ってもふたり一緒にいるのが当たり前で。妹の私でもかなわないくらいの信頼を寄せられてる舞さん、そんなあなたが、どうしようもなく羨ましくて……その秘密を、理由を知りたかったの」
 性格が表裏で、だからうま≠ェ合う。そんな通り一辺倒の理由だけで説明できないなにかがあるはずだった。満お姉さんたちがそうだったように、私の知らないなにか≠ェ、確かに。
「そうやって羨ましがってるうちは良かった。けど――――そのうち私はね、こんなことまで考えるようになっちゃったんだよ。『舞さんにお姉ちゃんを取られた』、なんて……」
「みのりちゃん……」
「おかしいよね? お姉ちゃんはお姉ちゃん、もともと誰のものでもないのにさ。お姉ちゃんにとっての一番≠ネんて、お姉ちゃん自身が決めることなのにさ」
 結局、私はお姉ちゃんを独り占めしたかっただけ。私が大好きだから、私の一番だから。それだけの理由で、相手にも同じものを求めていた。
 身勝手で、あさましい占有願望。とどのつまり、それは、

「――――嫉妬、してたんだね。私」

 お姉ちゃんだけじゃない、満お姉さん、薫お姉さんに対してもそれは同じだ。薫お姉さんと出かけたあの日も、3人でケーキを作っていたついさっきも。舞さんが現れると、いつだってふたりは私のほうを見てくれなくなる。舞さんの方を向いてしまう。
 少なくとも、私にはそうとしか見えなくなっていた。本当はそんなはずなくても、大切なひとを舞さんに取られたって気持ちになってしまうところまできていた。
「だからかな。気づいたら舞さんのこと、お姉ちゃん≠チて呼べなくなってた。きっと6年分の嫉妬がぐちゃぐちゃに積って、舞さんのこと、そう言いたくなくなってたんだと思う。今日だって、自分でも知らないうちに仲間はずれにしようとしてた。舞さんのこと嫌いじゃないのに、好きなのに。大切な、お姉ちゃんだって思いたいのに」
 言い訳しても同じこと。それが私の本当の姿、ほんとうの気持ちだったってことで。
「最低だね、私って」
 お姉ちゃんの一番になる資格なんて、隣にいる資格なんて。そんなもの、私には初めからなかったんだ。


   ☆


 ぐんぐんと日は落ちて、ひんやりとした夜の寒気が降りてきた。空はまだ光を残して、綺麗に深く青みがかっている。
 静けさが痛いほどに耳を突いて、私たちの周りを包み込んでいた。

 舞さんは、何も言わない。こんな私を軽蔑したんだろうか。どうしようもない子だって、呆れたんだろうか。中学2年生にもなって、子供っぽい感情をむき出しにして、ひとの迷惑も顧みない子だって。
 当然だろう。同じ14歳、中学2年生でも、6年前のお姉ちゃんたちは私ほど子供っぽくなかった。3人とも私とは比べものにならないほど大人びていて、しっかりしているのだから……
「どうして」
「……え?」
「どうして、みのりちゃんはそう思うの? 自分のこと、最低だなんて……」
 舞さんが、じっと見つめていた。あの、優しい瞳で。
「……だって、お姉ちゃんの一番になれないからって、それだけのことで勝手に、舞さんのこと悪く思っちゃうんだから」
「私が咲の一番かどうかは知らない。でも、ひとつだけ確かなことがあるわ。みのりちゃんは今までも、そしてこれからもずっと、咲の一番大切なひとなのよ」
「そんなこと、あるはず……ないよ」
「どうして?」
「だって、それは」
 ほかでもない、一番≠セから。舞さんほど仲良しのひとがいたら、私はいくらよくても二番目。それは絶対に、動かせない事実だから。
「その一番≠ェたくさんいたら駄目なの? そんなこと、誰が決めたの?」
「でも!」
「満さんと薫さんは、あなたの一番じゃないの?」
「それ、は……」
 一緒にいると、お姉ちゃんと同じくらい落ちつく満お姉さん。いつだって同じ目線で、私を導いてくれる薫お姉さん。
 ふたりへの気持ちと、お姉ちゃんへの気持ちを天秤にかける――――そんなこと考えもしなかったし、できるはずもなかった。それぞれに向いた「好き」って気持ちは全部違うのだから。みんなみんな、大切で、比べられない「好き」の気持ち。
「ね? そう簡単に、一番とか二番とか、ひとの気持が決まってしまうことなんてないわ。それにみのりちゃんと咲は姉妹じゃない。一番大切に思って当然なのよ」
「でも、やっぱり私、最低だよ。そうやって自分ばっかり欲張って、一番好きなひとを、たくさん欲しがって」
「ねえ、みのりちゃん」
 舞さんが、少しだけ顔を寄せた。懐かしい香りがかすかにする。
「ひとつ、むかし話しよっか。さっき言ってたみのりちゃんの知りたかったこと……あの答えになるかは、分からないけれど」
「それって、6年前のこと?」
「ええ」
 にっこり微笑み、舞さんの顔は再び遠ざかった。そして小さくブランコをこぎながら語り始める。

「一度ね、咲と私、満さんと薫さんの4人で、とっても大変なことにぶつかったことがあったの」

 空を仰ぎながら、一語一語かみしめるように舞さんは語り始めた。
 舞さんの言葉はいつだって、自然と聞き入ってしまう不思議な力がある。大変なこと、なんてひどく曖昧な言い方でも、そのまま受け入れてしまうような言葉のなめらかさが。
「頼れる人は誰もいない。家族にも、友達にも助けてもらえない。4人でどうにかするしかないのに、力がなくてどうしようもない……そんな、ないないづくしの本当にピンチがあったの。あんまりどうしようもなかったから、私も咲も心細くって……それでとうとう泣いちゃった。子供みたいに」
 舞さんは空を見つめながら、軽やかに笑った。
「でもその時、泣きながら咲や私が叫んだのは、願ったのは、たったひとつのことだけだった。何だと思う?」
「もう嫌、とか……無理、とか……」
 言いながら、絶対違うって分かっていた。お姉ちゃんがそんなこと言うはずない、それは私が同じ状況にいたら、の話だ。お姉ちゃんたちはそんなに弱くないのだから。
 自分でも呆れてしまうような情けない答えだけど、舞さんは表情はそのまま、小さく息をこぼしただけ。
「正解はね……『みんなにあいたい』って、それだけよ。みのりちゃんはもちろん、家族やクラスの友達まで、私たちが一番¢蜷リに思ってる人たちに、心の底からあいたくて泣いたの」
 だからね、みのりちゃん。
 そう言って、ブランコの動きがとまる。ゆっくりと近づいてきた右手が、ぽん、と頭にのせられた。
 嫌な気はしない。満お姉さんや薫お姉さんにしてもらうような、優しい感じがしただけだった。
「欲張ったって、良いじゃない。一番≠ェたくさんいたっていいじゃない。だって私や咲があのとき泣いて願ったのは、一番¢蜷リなみんなに会いたかったからなのよ。もし、みのりちゃんが言うみたいに咲の一番≠ェ私だけだったら――――きっと咲があんなこと願うはずないわ。みのりちゃんの答え通り、『もう逃げ出したい』なんて願ってるに決まってる」

 ――――それこそ、隣にいる一番大切なひとと、ね。

 少し悪戯げな表情で、舞さんは小さく舌を出した。
「でも咲は、そうは願わなかった。だって咲や私の一番≠ノは、目の前にいないたくさんのひとたちも入ってるんだもの。だからその、いまは傍にいない大切なひとたちにまた会いたいって気持ちをばねに、私たちは最後のひと踏ん張りができた。なんとかしてピンチを乗り切ることができたの」
 一番大切な人がたくさんいても、それは悪いことじゃない。勝手なんかでもない。
 舞さんの言葉はあくまで穏やかだったけれど、あの、つよい意思の力がこもっていた。絶対に間違っていないと確信した、心からの言葉だ。
「私が咲のともだちになったせいで、みのりちゃんがずっと寂しさを感じてしまっていたなら……私にはごめんなさいとしか言えないし、みのりちゃんが私のことを嫌うのも、無理はないと思う」
「舞さんは悪くないよ。私が自分勝手だから、嫌な子だから……」
「そう? 私はみのりちゃんのこと、ちっとも嫌な子なんて思わないわよ」
「え……?」
 舞さんが立ちあがる。つられるように私も思わず立ちあがった。
 そのまま瞳同士でじっとみつめあって……数秒、かたまったように動かない。背丈は違うけれど、今の舞さんは私と同じ高さの目線に立ってくれていた。まっすぐ私に向き合っているのがわかる。
「だってみのりちゃん、嫌ってる相手に、こんなに素直になってくれたじゃない。自分の気持ちをまっすぐ伝えてくれたじゃない。そんなみのりちゃんが嫌な子だなんて、自分勝手な子だなんて……他の誰が言っても、ぜったいに私は信じないわ」
 舞さんはそう言って、私の両手をとった。お姉ちゃんとも、満お姉さんとも薫お姉さんとも違う感じ。舞さんの、舞さんだけの感じが肌を通じて伝わってくる。

 その温かさが、辛い。

 舞さんは、こんなに私のことを理解しようとしてくれてるのに、心のどこかでまだ、彼女を妬む自分がいたのだ。頭で分かっていても、感情の部分、気持ちの部分で、どうしてもかたくななな自分がいる。
 私は本当に――――舞さんが信じてくれるほど、素直なんだろうか?
「ごめんなさい、舞さん」
 こわばった手をするすると引き抜きながら、泣きそうな声がでた。
「舞さんの気持ちは、すっごく嬉しい。お姉ちゃんのことも、きっと舞さんの言う通りなんだと思う。でも……」
「……でも?」
「私はそんな舞さんを、お姉ちゃんを、やっぱり裏切っちゃうかもしれない。失望させちゃうかもしれない。だって舞さんのことは大好きなのに、大切に思ってくれる気持ちにこたえたいのに――――お姉ちゃんや、薫お姉さんたちと仲良くしてる舞さんを見るのは、辛いって気持ちが消えないんだもの」
 舞さんはそれを素直と言った。でも私にとってそれは、ただのわがままだ。嫌な自分だ。都合のいいことばかり考える、最低な自分だ。
「こんなんじゃ私、お姉ちゃんにも嫌われちゃうよ……」
 あの笑顔が二度と私に向いてくれなくなる。そんなぞっとする未来は、もう、すぐそこまで来ていた。それなのに私はいつまでもわがままで、嫌な子のまま。
 ぼやけた視界の端から、小さく滴が垂れるのがわかった。滴は次々とこぼれ落ち、そのくせ一向にやむ気配がない。
 舞さんの姿ももう、はっきりと見えなかった。歪んで、色が混ざり合って、黒っぽいぐしゃぐしゃの景色に変わってゆく。このまま私は夕暮れと一緒に、真っ暗ななかへ沈んで行って、一生そこから抜け出せなくて……


 小さく、風が吹いた。


 気がつくと、体を包み込む感触。やわらかな温かさ。
「舞、さん?」
 細い腕が、私をしっかりと捕まえている。舞さんが、私を抱きしめていた。
 恐る恐る、上を向く。見上げた舞さんの顔は、やっぱり変わらず、微笑みをたたえていた。そこから降りて来るのは、ちっともきつさのない、暖かい眼差しだ。
「嫌われないわよ」
 短く、強く、舞さんは言った。
「絶対、絶対に、咲はみのりちゃんのこと嫌いになんてならない」
「ほんと?」
「ええ、本当」
「そうかな」
「そうよ」
「でも」
「約束するから」
「約束?」
「そう、約束」
 小さな言葉を交わし合う。ただそれだけで、ぴたりと涙がやんでしまう。舞さんの不思議な力。
 満お姉さんや、薫お姉さんもその力を持っていた。傍にいるだけで落ちついてしまう空気、一緒にいると心がやすらぐ雰囲気を。
 そんな舞さんだから、私は、
「舞さんの言うこと、信じたいよ……でも、やっぱり怖いの。お姉ちゃんと一緒にいたら、また舞さんに嫌な気持ちを持っちゃうかもしれない。そしたら今度こそ、舞さんにも嫌われて……」
 その言葉を遮るように、きゅっ、と抱きしめる舞さんの腕が締まった。そのまま身を委ねてしまいたいのと、ぞっとするほど恐ろしいのとが、心の中でないまぜになる。
 舞さんの言葉を待って、わずかな時が流れた。やがて、舞さんの唇がゆっくりと動き出す。
「もうひとつだけ、むかしばなしをさせて。6年前にね、咲と、大げんかしたことがあったの」
「お姉ちゃんと?」
「ええ。覚えてないかな、あの年の、のど自慢大会の日」
 今度はぼんやりと記憶があった。お姉ちゃんと舞さんがふたりで、歌に合わせて踊るステージ。その応援に行ったことは、なんとなく覚えている。
 でも、記憶の中のふたりはどこまでも楽しげで、仲良さげで、喧嘩している風には見えなかったけれど。
「きっかけは些細なことだったの。咲が待ち合わせに遅刻したのを私が責めて、そこから嫌な気持ちになるようなことを言っちゃって。ステージ直前なのに、そのままお互いの顔も見れないくらいに喧嘩しちゃった」
「そんな、お姉ちゃんたちが……」
「信じられないでしょう? すぐに後悔して、自分を責めたわ。何もあんな風に言わなくてもって」
「でも、だったら……仲直りも簡単だったんでしょう?」
 だって舞さんとお姉ちゃんは、親友なんだから。些細な喧嘩をしても、すぐ乗り越えられるくらいの仲だから。
 そんな私の疑問に、舞さんはゆっくりと首を振った。
「できなかったわ。私、怖かったの」
「怖い?」
「そう。咲はもう、私をともだちと思ってくれないかもしれない――――そう思うと、動けないくらい怖かったの。咲に嫌われて、拒絶される自分を想像しただけで……足がすくんで……」
 舞さんの表情が、かすかに揺らぐ。きっとそれは、思い出すだけでも辛い記憶なのだろう。けれどその辛さを乗り越えた先に、いまのふたりがある。喧嘩した時の辛さは、裏返せばふたりの絆が深い証でもあるのだ。
「私ひとりじゃ何もできなかった。咲と仲直りしたい気持ちと、嫌われていたらどうしようって気持ちとが半々で、一歩も前に進めなかった。でもそんな時、あるひとが私に言ってくれたのよ。『大事なのは、どう思われているかじゃなくて、きみがどうしたいかじゃないの?』って……」
 大事なのは、きみがどうしたいか。その言葉は舞さんの口を借りて、私自身に問いかけてもいた。
 私はどうしたいか。お姉ちゃんに、舞さんに、私自身は、どう思われているかじゃなくて、どう思いたいのか。
 すぐに答えは出るはずもない。舞さんの言葉は続く。
「それを聞いて、私はやっと立ち上がることができた。咲にどう思われてるかは関係ない、私はただ、咲とずっとともだちでいたい。それが私の本当の気持ちなんだって気づいて、正直になれたの。……その先は、あっという間だったわ」
 声の調子が、少しだけ弾む。
「咲を探して、いっぱい謝って、いっぱい泣いて。最後に、これからはもっともっと笑っていこうねって約束して、それでおしまい。簡単なことだったのよ。でも簡単なことほど、かえって難しいのよね」
 細い眉を八の字にして、困ったような笑顔。お姉ちゃんにそっくりなしぐさだった。
「だからね、みのりちゃん。あなたは、今の気持ちを大切にすればいいの。私がどう思うかなんて関係ないわ。あなたは自分の気持ちにもう気づいているんだから、それを大事にしていけばいい。咲だって、きっとわかってくれる」
「でも……でも! それで舞さんのこと、嫌いになってもいいの? 私の自分勝手で嫌われるのに、舞さんはそれでいいの?」
「もちろん。それがみのりちゃんの気持ち≠ネんだから。私がどうこうできるものじゃないわ。それにね……」
 緩んでいた腕が、もう一度やさしく締まる。
 舞さんの胸に顔をうずめるような格好になるけど、やっぱり、嫌な気はしなかった。それも、私の正直な気持ち。舞さんはくすりと笑って、私の頭を撫でる。
「それに私も、こうやって自分勝手な気持ちを押しつけてるんだもの。みのりちゃんに嫌われたって構わない、私はただ、みのりちゃんを大好きでいたい……って気持ちをね。それは、あなたが咲の妹だからってわけじゃないわ。日向みのり≠ニしてのあなたを大切にしたいの。心から、そう思ってる」
「私も、いつかまた舞さんのこと――――そんな風に思えるかな?」
 もうひとりの、大切なお姉ちゃんだって。6年前、初めて彼女を「舞お姉ちゃん」と呼んだときの気持ちに、私は戻れるのだろうか。
 不安とも、恐れともつかない気持ちが渦巻いて、舞さんの顔を見ることはできなかった。その胸に顔をうずめながら、彼女の返事を待つ。

 かえってきたのは、6年間ずっと、ずっとずっと聞き続けていた言葉だった。あの炎の夢の中で、いくどとなく私を助けてくれたひとこと。


「大丈夫よ、みのりちゃん」


 それは、ふわり漂う羽毛のような、優しい声だった。




 ☆ ★ ☆ ★




「無理、しなくていいのよ」

 駅へと向かう道の途中、舞さんがそんなことを言った。
 すっかり日は落ちて辺りは暗く、街灯の明かりだけが点々とともっている。その中を私と舞さんは、手をつないで歩いていた。
「無理って?」
「その、気持ちの整理がまだついていないんだったら……私のこと舞さん≠チて呼んでくれて構わないのよ? 私に遠慮してるんだったら、無理に今すぐ変えなくたって……」
「遠慮なんかじゃないよ。私がそう呼びたいの。ね、舞お姉ちゃん=H」
「だったら、良いんだけれど……」
 舞さんは納得いかなさそうだったけれど、気にせず私は足をはやめた。手をつないだままだから舞さんは私に引っ張られるかたちになって、悲鳴みたいな小さな声が上がる。

 時計を見ると、針はぴったり18時。お姉ちゃんを乗せた電車が到着するまで、もうあと数分しかなかった。あのあと公園を出た私たちは、そのままお姉ちゃんの迎えに行くことにしたのだ。
 その道すがら、私は舞さんを舞お姉ちゃん≠ニ呼んだ。もちろん、本当はちょっぴり無理してそう言っている。舞さんの言う通りまだ気持ちの整理はついていなかったけど、今はかたちだけでも、あのころの気持ちを取り戻したかった。
 あのころ――――6年前、お姉ちゃんたち4人と一緒にいた日々を。

『6年前のこと、知りたければ何もかも、私の話せる限り話してあげる』

 公園を出るとき、舞さんはそう言った。けれど私はけっきょく何も聞かなかった。
 舞さんの口ぶりからして、お姉ちゃんたちふたりには秘密があるんだろう。6年前初めて出会ってから、こうも仲良くなる本当のきっかけが。
 でも今は、やっぱりそれを聞くのは怖いのだ。私の知らない、お姉ちゃんの本当の姿があったら――――そう思うと、今の私には耐えられそうもない。
「あっ!」
 はやる気持ちに足がもつれて、転んでしまいそうになる。一週間前の再現。
 けれども今は、私ひとりじゃなかった。つないだ手を引いて、すんでのところで舞さんが抱き起してくれる。
「危なかったわね」
「あ、ありがとう、舞お姉ちゃん」
「どういたしまして」
 今度は、自然に言えたかもしれない。にっこり笑う舞さんを見ていると、少しだけ自信が持てた。
 気づけば駅はもう、すぐのところ。いまさっき転びそうになったのも忘れて、知らずのうちに再び足が速まる。今度は舞さんも一緒に、ふたりならんで駆けてゆく。
「あれ……満お姉さんと、薫お姉さん?」
 駅前を行き交うひとごみの中、こちらへ向かって手を振るふたつの影があった。暗くてよく見えないけれど、おおげさに振っているほうはきっと薫お姉さんだろう。普段クールでかっこいいのに、変なところですっごく慌てるんだから。
 でも、勝手に飛び出した私も私、たくさん心配をかけちゃったに違いない。ちゃんとふたりには謝っておかなきゃ――――――そんなことを考えながら、いよいよ足をはやめようとしたときだった。


 駅から出て来る、ひとつの人影があった。
 両手に荷物を抱えたそのひとは、ちっとも旅の疲れを感じさせないで、この街に降り立った喜びにあふれていた。やがてそのひとは満お姉さん、薫お姉さんを見つけると、ものすごい勢いで駆けだし、そのままふたりに抱きついてゆく。
 太陽みたいな笑顔だった。遠目にも、はっきり分かるくらいの元気があった。記憶の中とちっとも変らないその姿に、どうしようもなく安心する自分がいる。

『思い出を壊したくなければ、今を見なければいい。本当のことを知るのが怖ければ、確かめなければいい』

 薫お姉さんはそれを、「馬鹿なことだった」と言った。夕凪が変わってしまうのを恐れていた彼女は、けれども勇気を出してこの街に帰って来た。そして夕凪は、在りし日のままだったのだ。

 お姉ちゃんだって同じかもしれない。私の知ってるお姉ちゃんは、本当のお姉ちゃんの姿そのままなのかもしれない。
 どちらにしても、舞さんの話を聞けば分かること。薫お姉さんと同じ勇気があれば確かめられること。でも私には、その勇気がないのだ。怖いって言う自分の気持ちに嘘はつけない。

 今は、まだ準備期間なのだ。いっぱい悩んで、苦しんで、辛い思いをして……きっとそれは、無駄じゃないと思うから。
 そして私がいつか、薫お姉さんと同じ勇気を持てたら。舞さんへの気持ちに答えを出せたら。その時こそ、本当のお姉ちゃんを受けとめよう。私の大好きなひとに、正面から向き合おう。


 だから、今は――――4人のお姉ちゃんたちに、心からの気持ちを伝えるだけ。




「おかえりなさい、お姉ちゃん!」




   おしまい
             , <  ̄ >、― - 、
          /         \   \
         /            l    ヽ
      /                  ハ
      /  /      , イ / ∧      ハ
     〃  l     / / / / j\ l   |    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    /|   l |  _/´/ /|/  {l _|!   l  <  メロンパンが喋った!?
    l l   l l   //>、/  , <- 、ハ.  l     \__________
    ! l l | l  K´ r =、     r=、 /l/   l
     l | l l   |   L'ノ     L'ノ l/|   l
      l N| l  l u   _ '__  u /| l  /
      l 人 l  !、   /   V  /V/ /
      >'´ \l | \ {_ rー¬ー-、 l/\
    /\     ヽ! x< ̄} ̄7 ̄7ー>、 ∧
   / \  ヽ   , イ_{ >−',二二二ゝハ |
   /\ ヽ  l  /イ 」// ̄          l_|
   |  ヽ l |  {/}//― 、       / _〕
   {\  l | ! { ∨/ , =、__}      〈_/, -〕
蛸擬
作品情報
作品集:
1
投稿日時:
2012/04/01 11:06:59
更新日時:
2012/04/01 19:35:46
評価:
1/1
POINT:
7777777
Rate:
777780.20
簡易匿名評価
POINT
1. 7777777 名前が無い程度の能力 ■2012/04/01 15:58:48
すばらしいS☆S後日談でした。咲も舞も、満薫も、みのりちゃんも最高です!
名前 メール
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