- 分類
- 比那名居天子
- 永江衣玖
青き木々の隙間を、縫うように駆ける。
逆手に握った右手は熱く、その刀身に触れた草木は、次々と霧に変わる。通り過ぎる景色が、みるみる紅く染まっていく。進んでいるはずの私が、まるで吸い寄せられているかのような錯覚に陥り、今にもその渦に呑み込まれそう。
天界にだって森はある。知らなかったのは私。
桃李の樹海に、仏炎苞の絨毯。
森が映す心は、炎と化して炎天の相。
この赤が、私の心を拒絶する。
知らないもの、見えないもの、揺るがないもの──緋色の想いが取り憑いて、この天の青を掻き消そうとしている。
それなら、地は──
要の大地は、何色に見える──?
「総領娘様」
途端に森の空気が変わり、立ち止まる。それと同時に鈍い音がして、私は水芭蕉を踏み潰していたことに気付いた。
霧は散り、風が止む。音の無い森に舞い降りる、微かな調べ。
「この先には何もありません。お屋敷にお戻りください」
ざわついていた空間が、ぴたりと静止した。ひしゃげた花弁が、その首を上げるのも憚られるような静寂。
「その衣は……龍宮の使いね。何の用?」
「比那名居様のご意思です。どうか、お屋敷にお戻りください」
「今頃、血眼でしょうね。それはそれは赤い目をして、私を探しているんでしょう? それなのに、こうして私を見つけられたのは、遣わされた貴方だけ。それも、比那名居の者では無い、龍宮の使いに過ぎない貴方だけ。そんな貴方に、何が出来ると言うの?」
逆手に持っていた剣を正しく取り、使いに向ける。軌跡は揺らぎ、水芭蕉に命が宿る。
「何が出来る、ですか。もちろん、如何様にも出来ます。貴方を連れ戻すことも、貴方を逃がすことも、貴方を潰すことだって……貴方は、私に何をして欲しいのです?」
「ふん、生意気な。今すぐに、どきなさい。一介の龍宮使が、私の行く道を塞ごうなど、無礼も甚だしいというものよ」
「……そうですか」
使いはそう言うと、口元に手を当てて、くすりと笑うのだ。
何て愚かな!
龍の真言を笠に着ただけの、天地の別れも知らない、龍神の糞とも言うべき存在が、幻想郷の比那名居を前にして嘲笑うのである。
「何がおかしい!」
私の怒号は、しじまの森に響き渡り、そして消えた。
使いは右手で一つ、桃を千切り、私に差し向けた後、放り投げる。
「不思議に思ったのです。貴方に行く道があったものかと」
穏やかな放物線を描いたそれは、彼女の言葉が終わるか否か、天と地に、二つに別れた。
私に斬られた桃から、緋色の霧が噴き出して、その視界を曇らせる。不明瞭な先に揺れる、天女の羽衣。
「ご覧下さい、貴方が持ち出した緋想の剣は、物を斬るものに非ず。ご覧なさい、桃の気質が、泣いている」
見れば、立ち込めていた霧が色を変えていく。紅を超えて、紫へ、藍に染まって、青へ緑へ、橙に。
「もう一度問いましょう。貴方には、進む道があるのですか?」
「この七色が、私の威光。黒い海を泳ぐお前には、決して見ることの出来ない色よ」
「変わりも変わって七光り。総領娘様は、誰の意思で動いておられるのです?」
目に染むような橙が、再びに紅く色を変えていく。
これが私の、憤怒の色。
そして、濛々と渦巻く暗い海の中で光る、龍魚の血。
それは、鏡のような水面に、一つ落とされた小石であった。
大きく踏み込み、緋色の霧を袈裟に斬る。
「私を、愚弄するなァ!」
空を斬った剣は、羽衣を掠めて大地を叩く。
沃土に触れた刀身が、一際に強く燃え出した。
続く一閃、横に薙いで半回転。
姿が見えない。
「その剣は比那名居の宝剣、地を斬る物に非ず」
「どこにいる!」
背後。
重みに任せて振り下ろす。
手応えは無い。
「何故ここに来たのです? この場所をいつからご存知で?」
濛気の中を泳ぐ龍。
あらゆる気配が、緋想の剣気で消えていく。
気が付けば、私はただ深い霧の中で、でたらめに剣を振り回しているだけだった。
もう、声のする方向が判らない。ここが森だったのかさえも、揺らいでいく。
まるで、深海だ。
もがけばもがくほど、息も出来ず、沈んでいく。
想いだけが先走って、まともに動けないのだ。
「ッ……」
剣は習った。剣術書も読んだ。
兵法書も、史実も理解した。
それなのに、それなのに、何も見えない。
くすんだ霧が、黒みを帯びて視界を遮る。
霞んだ目が、幻を捉えて想いを閉ざす。
「古人の糟粕を嘗め、名居を抱く。総領娘様は、どこにいらっしゃるのですか?」
不意に、目の前を影が過ぎる。
「……ここよッ!」
その首目掛けて、剣を振る!
「見つけたわ」
瞬間だった。
霧を突き抜けて手が飛び出し、私の額の目前で止まった。
立てられた人差し指の先端は、微かに電流を帯びている。
黒霧の隙間から、彼女の目はたしかに、赤い光を湛えて、私を見据えていた。
「……」
少したじろいだ私は、彼女の首筋に剣をひたと添えたまま、動けなくなってしまった。
「総領娘様。貴方は、桃を剣で返すのですね」
「李を以って許すほど、私は透き通っていないの」
右手にぐっと力を入れる。
震えよ、止まれ。
「酢桃も桃も……同じものです。その剣で、何をなさるおつもりです?」
「何をするって……もう飽きちゃった。おわりおわり」
- 作品情報
- 作品集:
- 1
- 投稿日時:
- 2012/04/01 03:08:10
- 更新日時:
- 2012/04/01 03:16:07
- 評価:
- 2/5
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