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『あの頃は星を食べる人たちがいた』
山の氷室(ひむろ)からくすねてきた氷のかたまりを舐め、椛は狼の耳をそばだてた。
材木の切り出し場に植わる杉木立ちに夏の風がぶつかると、鏑矢(かぶらや)が空を裂くよりは幾らかましな音になる。彼女は、そのざわざわとした気配に不安をあおられながら、飛ばず駆けずに山を歩くのが好きだ。汗でべたつく薄黒い喪服の袖に黄色い花粉が飛び来て、まだらに染まるのは甚だうっとうしいが。
朽ちた物見櫓の影に瞬くほども身を留めることさえないように、獣の健脚をすばやく駆使する。山の者らのために設けられた道々は幾度と歩き慣れていたが、新しくあつらえた草履を履いたのは今日が初めてだったから、足の裏が痛くなって仕方がなかった。いちど家に戻っていつもの高下駄に履き替えてきて良かったと思う。なに、それでも問題はない。草履の方なら、職人の手で火葬の炉に火が入れられるのを見届けてから、鼻緒を切って置いてきたさと鼻を鳴らす。ついでに誰かが気を利かせて、死人と一緒に火にくべてもらえたらもっと良い。しかし、おかげで少しの間は、足袋だけが足を守る頼りだったけれど。
手の中で溶け始めた氷は椛の手には甚だ余るくらいに削り出したものであるゆえか、未だどうにか冷たさを失っていない。それを額にぴたとくっつけてみると、頭の中身が少しずつ冴えわたっていくような気がした。風邪をひいたときの氷嚢(ひょうのう)のように。実際のところ、病みついてしまっているのは今日のこの空気の方であって欲しいと願った。死人を焼いた灰といえ。棺を負うた葬列を慰撫する、静けさに満ちた山の草々といえ。どこかしらを生き急ぐような、この空気が。
いつものように戦争のことばかりを考える気分では、今はなかった。天狗たちの弔いの場を抜け出してきたことと、貴重な氷をくすねてきたこととは、さて、どちらがよりやましい事実か。腰に提げた小袋の中で、砂を揺らすかのような音が“さりさり”と鳴った。今や耳の奥まで染みついた具足や刀のそれとも違う、優しく唄うような音だった。
「暑いね、今日は」
そう言って椛は袋越しに、幾度か中身を撫でる。
子供が菓子にでも手を伸ばすような――そんな、珍しくもない愛おしさで。
独りごとは誰に聞こえるはずもないほど小さな声だったが、木々を縫うようにして在る修繕中の城壁に、背を浅く預けて座る小男の影が見え、瞬間、椛は口をつぐんだ。できればあまり会いたくない相手ではあった。すっかり禿げ上がって広くなった額を、汗か、それとも脂かでてらてらと光らせながら、色の落ちた着物を着た男。獣よりもなおだらしなく唇を開いて、はあはあと息を荒げている。無理もなかっただろうが、この暑さでは。
「おまえは、葬式に行かなくても良いのか」
歩みを緩め、椛は男の座る方に近づいた。影の中で胡乱に椛を見上げていた彼は、少し驚いた風にして立ち上がり、尻の土汚れを慌てて払い落した。汗をかいた手のひらは土を濡らし、じとりと黒い色を残していた。男の背丈は、少女の姿に化身した白狼天狗である椛とそれほど差がなかった。むしろ、よくよく眼を凝らせば、椛の方が指の数本分も背が高かったかもしれない。人懐っこい、しかし、どこか卑屈げな笑みを男は浮かべる。えへ、えへ、えへ……阿呆のように、というよりも、阿呆そのものであるゆえの人の好さだ。彼は、山の天狗たちなら大抵の者には知られている白痴だったから。
「滅相もねェんですよ。お葬式に参加できンのは、天狗さま方だけですから……“おまえはその間、散歩でもしてろ”って皆さま仰るんです」
そう言って、男は後ろ頭に薄らと張りつく髪の毛を撫でた。手のひらに土汚れがあるのは気にしていないらしい。芝居がかって顎に手を当て、「ふうむ」と似合いもしない息を椛は吐く。薄目を開けて男を見ると、餌にかぶりつくのを制された犬のように、彼は椛の言葉を待っていた。なるほど、よくしつけられている。椛は、別段に彼を飼っている自覚のない『天狗さま』のひとりではあったけれど、この小男は天狗の言うことを聞かなければ、そしてその言い分に従わなければ、良くないことになる――と、子供の時分から言いつけられていたのだろう。勝手にどこへなりと消え失せたとしても、自分は何もしないのに。
「そうか。なら、仕方もあるまいが」
「へえ。もうしわけねえです」
「おまえが謝るようなことじゃないよ」
たっぷりと熱をはらんだ喪服の袂に幾らかでも銭があれば、憐れみのついでにでも駄賃として握らせてやるつもりだった。だが、途中で飯を食いに行くにも物を買うにも今日は朝から気分が進まなかったから、一銭とて持ってきてはいなかった。そんな施しを彼が望んでいるとも思えなかったが、白痴には白痴なりにその身に幸福を享ける権利もあるだろう。たとえそれが他人にとってどれだけ傲慢で、卑賤なものの結果だとしてもだ。
親の手で間引かれるはずだった命を気まぐれな天狗たちに金で買われてから、人間である彼はどれくらいの年月を山で過ごしてきたのだろう。普通はせいぜい、殺されて肉が干物にされた後、妖怪たちの市場で売られるのが相場のはずだっただろうに、今では飯と寝床、それからわずかな給金をもらって雑役人足の真似ごとをするのが彼の生活だと聞いている。天狗にとって、人間のひとりふたりを喰いもせずに飼っておくことは造作もないことだったが、それでも犬や猫を愛玩するのとは様相の違うことだ。彼にとって、生活とは死ぬまで不断にありもしない尻尾を『天狗さま』に向けて振り続けることであるのだろう。醜聞めいた話は下世話な興味の色合いを伴って、幾つか耳に挟んだことがある。犬猫を嬲り者にするほどのことがまっとうな道理として通るはずもないが、誰も詳しくは口にはしないだけで、年少のころに彼の身体は天狗たちから『欲望を吐き出すための、体(てい)の良い便所みたいにして』扱われていたのだと。その懊悩に押し潰されるようにして男の身体は大きく成長することをせず、またその心も壊れてしまっているのかもしれないと。だから、彼という男は女とのおよそ“まともと言える交わり”も知らず、子供を抱くあたたかさも知らず、ただ、眼の前に吊り下げられた安逸を盲目の状態で懸命にくわえようと唇を伸ばすあわれな生き物になってしまった。それをする以外のすべを何ひとつとして持ち得ないからだ。
その本当の心のうちは誰ひとりも知らないながら、しかし、椛の眼には彼がときどき、山の誰よりもしあわせに見えて仕方のないときがあった。汗まみれの骨ばった手に数銭の貨幣を握りしめ、市場の店先に吊り下がった干し柿を吟味するときも、古くなった城壁を取り壊して出た細かなごみを命じられるまま取り除きながら、暇を持て余し近くを通りかかった若い天狗に、これ見よがしにその舌足らずの口ぶりや魯鈍な仕草を真似されるときでも、男は嫌だという顔ひとつも見せることなく、口の両端を引き上げて微笑し続けているのだ。
彼は愚かであるのか? その疑問に肯いを与えることは容易だ。だが、それであるだけでふしあわせと同義では決してないのも確かである。彼と、彼が送る生活に棲む幸福の是非を、山の天狗たちは――椛だって、もちろん――知るはずもなかった。
否、本当は、彼自身も自分の心のうちなど理解しきっていないのかもしれない。
何が自分にとって好いものであるのかをはっきりとは解らなくても、今ある盲信のぶんだけ何にも苦しまずに居られるのだ。あるいは、それはまともな理性がもたらす自明の気づきにかかずらわって生きているよりはよほどに幸福な生き方ではなかっただろうか。それとてもまっさらの生活に空いた大きな陥穽(かんせい)にならないのなら、確かに幸福の理由にはなるだろう。椛は少し、彼のことがうらやましくなった。戦争から離れると、必要もないのに頭が冴えて仕方がなくなる。死んでしまうことの素直さには、到底、厄介としか言いようのない存在だったから。つまり、明晰すぎる思考という代物は。
「おい、喉が渇きはしないか。氷を少し、分けてやろうか」
眼を丸くして見つめてくる男に構わず、氷の溶けかけて脆くなった部分に指をかけ、一気にがきりと裂き砕いた。「あ、あ、」と彼は喉の奥でしきりに舌を震わせていたようだが、最後までまともな意味を持った言葉として発されることはなかった。お気遣いなく……とか、そういうことを言いたいのかもしれなかった。遠慮するという気持ちを澱みなく表すことに、彼の手持ちの言葉と機知とでは足りな過ぎるのだろう。
「秘密だぞ。誰にも、このことは言うんじゃないぞ」
滴を指先からこぼしながら、遠慮がちに差し伸ばされた手の中に氷を託してやった。ありふれた――と言い切れるほどに価値のないものでもなかったが、それでも男は椛の手から離れた氷を摘まみ、何度も何度も視線でその輝きを舐め続けていた。急に物をもらえたことに、よほどに驚いたと見えた。はッ、と、気づいて、彼はぺこぺこと頭を下げた。浅く、しかし、何度も。いわば、これは椛から彼への“口止め料”に過ぎなかったのだが。こちらの背が痒くなりそうなほど頭を下げ続ける彼を見るにつけ、分不相応な謝意が向けられているなと思った。葬式を抜け出したことの秘密と、氷をやったことの秘密。さて、そのどちらの意図を彼は汲んでくれたものか。椛には、解るはずもないのだが。
「暑さで命を落っことすなよ。死人が立て続けに出るようじゃ、寝覚めが悪いんだ」
別れのあいさつを交わすまでもなく、男の元から椛は去った。そんな物言いをわざわざせずとも、また山のどこかで彼の姿には出くわすだろうから。影の中を行き過ぎて熱い陽の中に照らされ始めると、さっそく、男が氷を噛み砕く音が聞こえてきた。ぶるぶると、その音を聞く獣の耳が震えていた。
――――――
『オレンジジュース・ユートピア』
猫の喧嘩みたいなうなり声で眼を覚ますと、どうやら隣の部屋から響いてくるバカ学生カップルの“それ”だったらしい。壁に掛けた時計の文字盤は、午前九時三分を指している。いつもより二時間の寝坊である。
枕代わりの低反発クッションに乗せた頭で、嫌でも聴覚に入り込んでくる彼らの喘ぎ声を聞くともなく聞いていると、ヒーローインタビューに答える野球選手みたいな、気持ちの良い疲労が感じ取れる。おれもうイキそうだよ、とか、ああだめだよヒロくん外に外に、とか朝から呑気なものだと目尻を引きつらせることおよそ二秒。イッた瞬間、ふたり揃って爆発すれば良いのに。それはもう、盛大に飛び散れ。ゴム、破けろ。いや聞いてる限りだとそんなもの使ってないか。こっちは床に寝てたせいで身体が痛いんだ。
京都に進学する数多の新大学生たちによって行われた熾烈な新居獲得合戦のさなか、学生にも手の届くお手頃な家賃を決め手にして私が入居を決めたこのアパートは、見た目にはきれいだけれどとにかく壁が薄いので、ちょっと油断すると互いの生活音が隣近所に簡単に伝わってしまうという業深い代物だった。せめて幽霊が出るような曰くつきの物件なら、オカルトサークルの主宰者(会員は今のところふたりしか居ないのだが)としての面目躍如だったというのに。
「引っ越してやる。バイト見つけて、お金貯めたら、絶対に引っ越してやる」
洗濯機(水漏れの危険あり)と、冷蔵庫(冷凍機能に難あり。うかつにアイスなど突っ込んだら中途半端に溶けて色つき砂糖水になる)、さらにはパソコン対応ネットワーク環境も完備、なんてコマーシャルに踊らされた自分が悪かったような気もするのだけれど。公衆衛生の高度化によって蠅やゴキブリというものの存在を知らない子供たちが大量に居るといわれる今の時代、こんな安アパートでさえ害虫どもと無縁な生活を送れていることは、しかし、ひとまず喜ぶべきところではあるのだが。いやはや、大衆が宣伝によって右往左往するのはファシズムの時代から変わってないということか。
かつてスマートフォンなどと呼び習わされていた個人用の多機能携帯情報デバイスの末裔が老若男女に普及しきった現代で、わざわざパーソナルコンピューターを家に置きたがるのは、よっぽどのマニアか本職の学者さんくらいのものだというのに。大学生ならレポート作成のために絶対パソコンが必要になる、なんてことが毎年の春に展開される新生活商戦で必ず耳にする定番の言葉だったけれど、今では『若者のパソコン離れ』なんて言葉が問題視され産業の衰退が懸念されるくらい、そういう機械は顧みられなくなってしまった。パソコン。東京の秋葉原って街にでも行けば、古代遺跡の遺物みたいに未だたくさん見られるはずだ。何せ、あそこはサブカルチャー全盛時代の名残を留める歴史と伝統の街として、今や世界遺産への登録申請が検討されているくらいなんだから。
情報産業が一般化し過ぎたせいか、二十世紀後半くらいからやたらと持ち上げられていたITなんて言葉も今や死後ってことだ。だって、小型化って言ったって何だかんだで据え置き型の機械は場所を取るし。どっかの研究機関で円周率の計算や気象パターンの把握やニュートリノの観測でも延々と続けている方が、コンピューターたちにとっては案外としあわせなのかも知れないと思う。前時代的感傷が生き残ったこんなちっぽけなアパートに囲われて、飼い殺しにされるよりは。青春なるものがどういう状態を指すのかは、二十年と少し生きてきて未だに結論を見いだせていない。ともかくも、現代の大学生が自分の巣にするにしては少しキツいものがある。
言葉になりそうでならない感慨を益体もなく巡らしつつ、コンビニで買い込んできたカクテルの空き缶やらおつまみの袋やらを片づけていると、昨晩、何やかやで学生御用達として有名な激安チェーンの居酒屋からの帰りにうちで一緒に飲み直したメリーが、私が譲ったベッドの上で半身を起こし、どこか眠気の煙る様子で、黒色と紫色が寄生植物の根のように絡み合った趣味の悪い色合いのタオルケットを抱き締めていた。かつて母が知り合いの結婚式でもらったまま何となく開けていなかった引き出物を、娘である私が京都の大学へ進学する際に押しつけられ、今までずっと部屋の押し入れで長き眠りについていたという逸品である。ちなみに五日ほど前に母と電話で話したところによると、その知り合いとやらはつい先ごろ離婚したらしい。
どうにも抜け切らない酔いで揺らぎっぱなしの頭では、昨晩、ふたりともシャワーを浴びたような気がしていたのだけれど、メリーのブロンドは鳥の巣をくっつけたみたいにごわごわになっていた。さてはろくに乾かしもしないで寝てしまったのだろうか。首筋に触れる頭髪の感触から、私も同じような感じだと当たりをつける。
それにしても、酔った状態でシャワーを浴びてよく事故を起こさなかったものだ。下手をすれば病院の白い壁に何の絵が描きたいかと延々と思案しながら、数日ほどベッドの上で暇を潰す羽目になっていたかもしれない。
「おはよ。すごく、蓮子のにおいだわ」
「当たり前でしょ。入居者は、この宇佐見蓮子さまなんだから」
「私、ちょくちょくこの部屋に来るじゃない。そろそろ私のにおいが移ってきて、蓮子が違和感というものを忘れてきても良いころだと思うのよ」
「マーキングか。野生動物か。もはや縄張り争いが始まってるレベルじゃない」
そんな風に、ふたりでふざけつつ彼女のこめかみの辺りを軽く小突いてみたが、改めて自分の頭の中身を手繰ってみると、どうにもこの部屋でふたりして三五〇ミリリットル缶のプルタブを軽快に起こした瞬間から先の記憶があやふやだった。……いや、ひょっとしたらそこまで含めて夢の中の出来事? 私もメリーも、昨日の夜に着ていた服装をちょっとばかりくたびれさせた格好のまま、まったく変わるところがない。プレーン・ノットで崩し気味に結んでおいた私の胸元のネクタイは、酒が入って身体が火照っていたのを冷ましたがっていたせいか、結び目がほどけてふたつの先端をぷらぷらと頼りなげに揺らしていた。ブラウスの首元や袖口から入り込み、肌へと触れる空気は何だか生ぬるい。飲み会明けの気だるい温度だ。
「……ところでさ。蓮子、このアパートから引っ越しちゃうの?」
「聞こえてたんだ。まあ、ゆくゆくは――と、思ってる」
「そっかあ。大学からあんまり離れてないし、授業が終わったら直ぐ遊びに来るなんてこともしてたけど、ちょっと会うのが面倒になるのかしらね」
「確かに、このアパートからだとメリーのマンションよりも学校の方がずっと近いからね。一駅しか離れてないし」
「それで、引っ越しに必要な“当て”はあるのかしら」
「ふふふ。ありませんよ。ええ、ありませんとも。貧乏学生ですから」
「じゃあどうするの? いっそ学校に住む? 遅刻魔の蓮子にとっては最高の選択じゃない?」
「何でメリーの中の宇佐見蓮子像はそんなにズボラなのよ……」
講義に遅れたことはないですよう。
結界暴きの倶楽部活動に熱を入れすぎて単位を落としかけたことはあるけどね。
そんな軽口を叩きながらごみを捨て、台所に行き、塗料の剥げて錆びの浮いた冷蔵庫を開けた。喉が渇いたのでミネラルウォーターでも、と、思ったからだ。日本の水道水は相も変わらず世界一安全な飲料水だと言われていたけれど、ここ最近は色んな安全対策とやらがやかましく、消毒薬だの殺菌処理だのが従来以上にガンガンぶち込まれて管理体制が強化されたせいで、安全性と引き換えに味の方はあんまり良いと言えるものではなくなってしまった。
かなり昔から予言されていた水資源の争奪戦は、めでたく百億を突破した世界人口とそれに伴う食糧の枯渇を目前にして、各地の水源地を多数の資本が喰い合うという戦国時代の政争みたいな状態になり、ついに二十一世紀中葉から水を巡っての戦火があちこちで相次いだ。
日本の場合――以前から一部の保守系論者によって危惧されていた外国資本による国内水源地の買収は、すっかり平和ボケしきった当時の日本国民にさえ右傾的な風潮を根づかせるには十分すぎた。元より、環境破壊の影響で食糧や水が汚染され、人が住める場所は限りなく縮小していくという悲観的な滅亡論が流行していたような時代だ。不安に満ちた世論の後押しを受けて、半ば強引な手法で外国資本を締め出した当時の政権は、日本の議会政治始まって以来とさえ言われる高支持率と引き換えに、対外的な軋轢を幾つも幾つも呼び込んだ。結局、何度かの小規模な武力紛争を経た結果として日本側が譲歩し、最先端の飲料水濾過・造水技術を一部提供するということで一応の決着を見た、らしい。大まかに考えれば、日本は第二次世界大戦以来、初めて行われた対外戦争において敗北を経験したことになる。しかし、件(くだん)の技術供与を基準に考えるのなら、世界を概ね平和な時代に導くことに貢献したとも言うことができた。
なぜなら、日本発の技術である光触媒による水素精製システムを応用した水資源製造プラントの実用化や、戦場への兵站供給の大幅な合理化という目的に後押しされて誕生した食品合成の技術を始めとするイノベーションによって、人類の生活史が新しいパラダイムに足を踏み入れ始めたからだ。
今では『造水』という言葉の意味さえ変化して、それは“合成技術によって水を化学的に生成すること”だと解釈されるようになった。蛇口をひねれば当たり前に流れ出てくる水道水は、そうやって製造されたものに最後の隠し味として、徹底的な殺菌消毒が施されたものだという。それ自体はもはや当たり前のことで、私だって自分の身体に毒なんて入れたくはない。それであるにしても、まるで湿った石でカクテルをつくったみたいなひどい味で、幾らなんでもこれを日常的に飲む生活は(聞くところによると、小さな子供を持つ母親たちには安全な水だとしてすこぶる好評らしいのだけど)、私にはちょっと耐えがたかった。
だから、アルプスだかどこだか産地にはそれほど興味はないけれど、宇佐見蓮子のエンゲル係数には『ミネラルウォーター費』が計上されることになる。言うまでもなく、高い。だから細かな出費が少しずつかさむ。端的に言えば、そのせいでこのアパートから出て行くための引越しのお金がたまらない――と、言い張ることもできるのだ。実際にはもちろん秘封倶楽部としての活動費用の方が高くつくのだが(そもそも違法スレスレの結界暴きを信条とする非公認サークルなので、大学側からの予算は期待できない)、まあ、夢を追い求めるのはいつの時代も多くの犠牲がつきものだ、その出費に関してはむしろ望むところである。
機械的に連続する冷気の中、メリーが持ち込んだフルーツミックスヨーグルトの三個パック二セットが鎮座……していたはずの空間を指で叩きつつ、唐突に「うわっ」と声を上げた私に「どうしたの」とメリーは訊いた。
「どうしよう。ミネラルウォーター飲もうと思ったのに、冷蔵庫に缶ビールしかない」
「人はアルコールのみにて生きるにあらず、よ。蓮子」
「解ってるよ。夕べ、“今日はメリーとご飯食べに行くから買い物は行かなくて良いや”と思ったんだった。冷蔵庫の中に、ほとんど何にも残ってないのも忘れて」
「ええと。もしかして食べるものもないの? ご飯とか、今からじゃ炊けないのかしら」
「パン派の私にはひどく酷な問いだわ……」
「そういえば、わたし、蓮子の家で炊飯器という機械を見たことはいちどもない気がする」
「しかも、パンだって切らしてる。運がないなあ」
「夕べのおつまみの柿ピーが未だ残ってるみたいだけど」
「うーん。それは何というか、もっと切羽詰まったときの非常食用だから」
「あらあら」
台所のごみ箱にシュートされた六枚切り食パンの袋がむなしく光る。
遺伝子操作と合成技術の合わせ技によって、病虫害や腐敗・カビに強い耐性を持ったリリース後十年あまりも売れ続けるロングセラー商品でさえも、食べて栄養になってしまえば永久に失われてしまうのは言うまでもない道理だった。
「しょうがないなあ。不味い水道水だけお腹に入れて、講義の時間までだらだらするよ」
「まったまた。それが遅刻の元なのよ」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとぐだぐだするだけだから」
「あんまり意味は変わってないと思うけど?」
ばたん。
力なく冷蔵庫の扉を閉める。表面に浮いた錆びのにおいがにわかに鼻先を突いていった。何度か大げさな溜め息を吐きだしながら、私は部屋の真ん中に置いてあるガラスのテーブルまで歩み寄る。その上に置かれた臙脂色をしたプラスチック製のケースを指先で開けて、ひと揃いのAR式コンタクトレンズ(視力矯正タイプ)を取り出した。酔っぱらった頭でも、律儀にも寝る前にコンタクトを外すという習慣を忘れなかったらしい。ほこりひとつ残っていないところを見ると、使用後の洗浄も完璧だった。
「メリー、うちでシャワーでも浴びて行ったら? 髪の毛ごわごわだよ」
「蓮子こそ。何だかレゲエの人みたい」
目覚めたばかりで気づいていなかったのか、肩に掛かる自分の髪の毛を指先でもてあそんで少しだけ表情を曇らせたメリーは、引きつった笑いで応じるのだった。
「私は良いんだって。課題のレポート、今回はちょっと早めに仕上げておきたいんだ。締め切りまでだらだらしつつ、ぐだぐだ書くの。シャワーはその後」
「余裕なのねえ。女子力が下がるわよ」
「なにそれ」
「昔、女性の魅力の指標としてそういう概念が流行ったんだって。あいにくと、あなたの専門である超統一物理学の範疇ではないみたいだけど」
「メリーって、ときどき変なこと知ってるよね……」
とは言いつつも、メリーは未だ少し遠慮の素振りを見せながら、バスルームに姿を消していった。タオルはいつもの場所ね、と、言わなくても知ってるかと思って声は尻すぼみになる。彼女にシャワーを貸すのは今に始まったことじゃないし、“わたしのにおいに蓮子が違和感を覚えなくなる”だなんてふざけるのも解るくらい、この部屋は彼女にとっての別宅みたいなものだったのだから。
音を立てないように気を使ってくれているのだろう、気づけばバスルームの扉は締まっていた。メリーの居ないベッドに腰かけて、私は指先のAR式コンタクトレンズを見つめ直す。
指で押されてわずかにたわむ“それ”をうっかり握り潰しでもしないように注意しながら、手早く自分の眼球に装着する。何度か瞬きをして感覚を馴染ませると、高校時代の後半から進んだ近視のせいでぼやけていた視界が急速に回復し、冷たささえ連想させるほど私の世界は澄み渡った。
テーブルの上に乱雑に放られていた自分の帽子を持ち上げ、すっかり見慣れた携帯情報デバイス――近代以前の生活スタイルであれば、人生を十回以上もくり返さなければ得られないと試算されるほど大量の情報が共有される電子図書館的ネットワークへのアクセスポイントそのものであり、またネットワークからのダウンロードやユーザーの判断で内容を更新して自由なデータベースを造形できることから、一般的に『ディクショナリィ・タブ』、あるいは単に『タブ』とも呼ばれている機械を引き寄せた。かつて携帯電話を指していた『ケータイ』という単語は、今では、電話を始めとしてカメラやパソコンやテレビやゲーム機や辞書や手帳やGPSや電子書籍や、その他もろもろの機能を欠損なく搭載した、この機械のことを意味するところになっている。パーソナルコンピューターが衰退した最大の原因だ。
私の使っているメタリックグリーンのモデルは、ボルヘスの短編に登場する全能の図書館になぞらえて『BABEL』と名づけられた学生向けのものだ。他のモデルよりも電子図書館機能が拡充され、操作性も従来型より大幅に向上しているとのこと。タッチパネル式の画面が私の指先の静電気を微細に感知し、ディスプレイ上のカーソルを滑らせる。デフォルト画面の表示時刻は部屋の時計よりも一分ばかり早かった。画面の隅にポップな字体で表示されている『AR』のアイコンをダブルクリックすると、鈴を鳴らすみたいな軽快な音がして、私の視界に電子的な揺らぎの感触が満ち満ちていく。清らかな水に小石でも投げ込んだような波紋のイメージが、デバイスと連動して網膜に投影される。
瞬きよりも速いような感覚で、部屋の真ん中、ガラステーブルの真上には、数十基の人工衛星から送信される毎秒六千パターンの映像を繋ぎ合わせてリアルタイムに構成・更新される、子供の頭ほどもある地球のイメージモデルが浮かび上がった。ARの起動時に自動的に閲覧できるように設定してある、ニュースサイトのトップページだ。内部に壮麗なカフェテラスを孕む実在の大型人工衛星のモデルが、手を伸ばせば届く場所に位置している。スポンサーになっている製菓会社が設置した、その軌跡をたどって自動的に宣伝映像が流れるコマーシャル用流星モデルが過ぎ去った後、カフェテラス衛星に指先を触れてくるくると回転させると、その操作方向と同期する形で地球のモデルも回転した。一日の自転速度を私が操っているみたいだ。私、いま神さまになってる。すごいすごい。
この、ちょっとしたアナログな感じが愉しいから、AR――Augmented Reality。極薄のプレートに極小の電子部品をナノ単位で組み込んだ専用のコンタクトレンズと、ディクショナリィ・タブに登録された情報を連動させ、装着者の視覚を通して映像と各種身体感覚を認識させる拡張現実2.0――に、わざわざ人工衛星を模した映像回転用のカーソルを登録しておく、なんて面倒なことをやっている。本当は、地球のモデルに手を触れるだけで回転させられるのに。それは、あたかも卓上の地球儀をグルグルと回転させるごとく、だ。
かつて一世を風靡した仮想現実の後継としてビデオゲーム以外の分野にも普及した拡張現実と、それに添い遂げるかのように高度化して『見えないところはトイレとバスルームと墓の中だけ』と言われるほど世界の大半を覆うに至った情報ネットワークは、家に居ながらにして完全リアルタイムかつ多次元的に世界のできごとを教えてくれる。地球モデルのあちこちをデフォルメされた姿の人々がまったく同時に歩きまわり、マンガっぽい吹き出しつきで現在起きつつある出来事を示していた。
経済の安定化について政治家が演説したり。カブトムシの早食いとかいうゲテモノイベントで私と同い年の二十歳の女の子が優勝したり。未だに紛争地帯の花形兵器であり続けるカラシニコフ小銃の後継機種を用いた捕虜の射殺シーンが生中継されたり。合成技術を排除して自然文明に回帰すべきだと主張する思想団体が街頭でデモを行ったり。『サイボーグモンキーは聖女カタリナの夢を見るか?』なんて、奇妙な見出しの記事がアップロードされていたのは4月29日の日付。イタリアのある大学が行った研究に関するニュース。サルの前頭葉に小型のインプラントを挿入し、その状態で外部からの信号を与えることによってインプラントを介して脳に人工的な命令伝達の電気信号を発生させ、サルの精神状態を“無線操縦”するという代物だ。性的な恍惚感、あるいは人間でいうところの宗教者の神秘体験に近いと考えられる状態で横たわるサルのチェーザレくん(オス・五歳)の画像は、私から見ると神さまを感じているというよりも鼻の下を伸ばしてだらしなく横たわるだけにしか思えなかったけれど。
世はなべてこともなし、とは、さすがにいかなくても。
宇佐見蓮子の観測範囲が捉えた世界は、だいたいそんな感じ。
世の中の動きを知るメディアを選択するうえで、紙でできた新聞なんて、今や文化人気取りのインテリが愛好する伝統工芸みたいなものだ。意識の高い学生を演じるためのたしなみとしてそんな風に神さまごっこをして遊ぶのはとても面白いものだけれど、報じられるニュースはどれもこれも現実感がひどく薄かった。未だ酔いが醒めていないのだろうか。地球のどこかで確かに存在する色んな悲劇も喜劇も、自分自身の肉体に接続された生活ってやつと見比べてみると、比重はおそろしく軽々しい。人が死んでもご飯は相変わらず美味しいし、レポートの締め切りは伸びないし、友人はバスルームを借りている。あるいは、拡張現実の伝えるさなかでいま確かに起きつつある現実だというにしては、あんまりにも無味乾燥で面白みがなさすぎる――と、私は考えているのかもしれなかった。下手をすれば、日本の半分が核兵器で吹き飛んだとしても何の感慨も湧かないのかもしれない。
同時多発的に発生し報じられる無数のイベントと、現在ログイン中のユーザーがニュースに対して感想を投稿する無数のコメントの列が連なって、渦を巻くという比喩さえ億劫だというようにして情報の速度は流れ過ぎていく。テクノロジーによって意識を仮想的に断片化し、自己を仮託した言葉を切り売りし合う快楽を、たぶん人類は言語や文字や印刷技術を発明したときにだって、確かに感じていたはずだ。それは、私たちのご先祖さまが到達した『知』のもっとも原始的にして普遍的な結論だったのではないだろうか。言うなれば、人類の歴史はある総体を支配する層による知の独占から、その成員に対して開かれ分割された知の開放という一面でもある。知は人と人とを結びつけ、融和させ、ときに殺し合いさえ誘発させる。
現状において――拡張現実とネットワークの連動によって、可能な限り極点まで互いの持ち得る情報と感覚を共有し、宿痾(しゅくあ)のように巣食うコミュニケーションへの欲求を満たす方法を発展させた私たちの時代は、たぶん、文明の爛熟とか幸福の絶頂ってやつに位置している。そうすることで何となく自他の境界が取り払われた気になって、世界中の人たちが緩やかな連帯という普遍で不変の日常を手に入れ、人間の精神にデフォルトで搭載された孤独への恐怖を退けるべく、承認欲求が曖昧に満たされていく。
嗅覚の奥底にツンとしたいら立ちを感じた気がしたのは、少年兵に撃たれて死んだ戦場カメラマンが装着していた、AR式コンタクトレンズに残った映像情報のフルバージョンを、何とかして入手できないかとコメントを残していた連中が居たからかもしれなかった。
≪こういうのって機密情報だからロックとかプロテクトかかってるんじゃね?≫
≪ハッカーさんとか居ないの? 間に合わなくなっても知らんぞ!(削除的な意味で)≫
≪FPSに本物の戦場モデル使いたいとか、中二病にもほどがあるだろwwwwww≫
≪↑いま昼間だろうが。煽ってないで仕事探せおっさん≫
システムを書き換えられたゲームがメーカーによる保証の対象にならないのを知らないのだろうか。あるいは、思春期にはよくある熱病めいた好奇心ゆえか。いずれにせよ、管理者権限でそんな不埒なコメントは直ぐに削除されたのが幸いだった。
まったく、神さまごっこは大変な仕事だ。
いや、まあ。そんなに面倒ならやらなきゃ良いんだけど。
相対性精神学を専攻する主客統一論者であるメリーとこの辺の意見はどうにも噛み合った試しがないが、主観と客観の別はしっかりかっきり分けるべきだと私は思う。メディアの向こうの出来事を、私たち受け手は常に『物語る』ことでしか受け容れることができない以上、それは幻想と呼んでしかるべきものであるはずなのに、実際には自分自身の日常に比べてさえ多分に“くそったれ”的な現実的代物なのだ。
宇佐見蓮子が宇佐見蓮子の主観に取り込み、咀嚼し、肯定することのできる存在は、もっともっと突拍子もなくて、カラフルで、バイオレンスなものでなければならない。私を突き離し、拒絶し、永遠の憧れであり続ける幻想とは。そんな欲求。
現実に対して、仮想と区別のつかないほどのまったく別の現実を継ぎ合わせた超現実が網膜に張りつくような時代だから、リテラシーは個人が各々の力で鍛え上げるべきなのだ。『私』と『あなた』の意識が混じり合うことはできないし、混じり合って良いはずがない。その間に位置する境界と結界だけは、きっと越えてはならないものだ。私は私。他者は他者。それを確認するために、私たちの祖先は言葉、なんて面倒な手段を使うことで、常態としてのコミュニケーションに最後の一線――それは根本的な形で心に絡みつく、相互不信に似た何かだろうか――を設けてきたのかもしれない。そんな結論にだって達することができないような私なら、今ごろメリーと一緒に秘封倶楽部なんて結成してない。
ニュースサイトの画面から手早く離脱し――やはり空中に浮かびあがるサイドバーのアイコン群から、わが大学が開設した学生専用ポータルサイトのものを引き寄せる。電子的に拡張された感覚は、ひとつの瑕疵もなくスムーズに作業をやってのける。何の色気も感じられないシンプルな入力ページで、『卒業生の方はこちら』のボタンの直ぐ隣にある『在学生の方はこちら』のボタンをクリックする。パソコン型キーボードの入力用モデルが空中に表示され、大学側から割り当てられたパスワードと学籍IDを入力した。
拡張現実2.0は、網膜から伝えられる情報を基にして人間の脳に対する撹乱を行い、身体感覚を伝達するための神経回路の後天的ネットワークが脳内に構築されていると瞬間的に誤認させ、一種の錯覚を意図的に引き起こさせるシステムを特徴としている。つまり、身体障害者が感じる幻肢の感覚を擬似的に再現したとも言えるこの仕組みは、空中に浮かびあがったキーボードが“本当は存在しないもの”なのに、ユーザーの指先の感覚そのものに対しては“本当に存在するもの”として伝達するのだ。今は音声伝達機能をオフにしているから、カタカタというタイピングの音さえしないけれど、使用者はあたかも本物のキーボードを打っているのと同じ感覚を得ながら入力作業を行うことができる。幻のEnterキーを押し込む小気味よい感触から一秒もかけず、ポータルサイトに登録された『宇佐見蓮子』のアカウントのホーム画面に到達した。メールボックスに届けられた各種のお知らせメールを適当に読み飛ばし、来月に奨学金受給者を対象とした説明会が行われることを心に留め、『講義スケジュール』画面で今後一週間ほどの日程を確認し、ふんふんと鼻を鳴らす。
「今日の授業は十三時からか。やっぱりぐだぐだしてても問題ない。時間的には」
ほんの少しだけ滅入った気分をむりやり引きずり上げるために、誰に聞かせるともない正真正銘のひとりごとを放り投げた。この後はキリの良いところまでレポートを進めるも、読みかけの小説を読み進めるも、近所のコンビニまで求人雑誌を確保しに行くも良い。すべては神さまの御心のままに。結局、自分に対していちばんの神さまで居られるのは自分自身の良心と意思ってことだ。メリーにレポートを進めると言っておきながら、実際のところ学生の努めに対するサボタージュを敢行するか否かに良心と意思の両方が割り振られているのは、自分でも悲劇以外の何ものでもないとは思うのだけれど。
大学のポータルサイトからログアウトし、ケータイを操作してARへの接続を終えた。こいつは、今じゃ経験したことのない人はほぼ居ないと言われるほど便利な存在だったのだが、長時間に渡って作動しっぱなしにしていると、何だか妙に疲れて仕方がない。ただし、あいにくと脳の神経が焼き切れてふにゃふにゃになるみたいな都市伝説は未だ耳にしたことがない。
「ダメ学生だなー…………。われながら」
ん、んー……っ、と身体を伸ばして固まりきった関節を気持ちの良さに委ねていると、入るときとはまるで裏腹に、がちゃりと音を立ててバスルームの扉が開いた。背を少し屈ませ、藍色をした膝丈のスカートの裾にできた“しわ”を指先で気にしながら、わが相棒が入浴を終えて出て来たところだ。空気に石鹸のにおいが混じっていたのは、すっかり癖の取れたメリー自身の髪の毛から発されるものだったのか。それともバスルームに残ったにおいだったのか。
「じゃあさ、いっそのこと朝から焼肉でも行っちゃう? ダメ学生らしく」
「焼肉? まじで言ってる?」
「私の提案は大抵の場合においてまじなのよ、蓮子」
「焼肉かあ。そりゃ、まあ、確かにお腹は空いてるけど」
「じゃあ、決まりね。昨日、天然もののお肉が食べたいって言ってたじゃない。良いところに連れてってあげるわ」
「ん……。そういえば、私、今日の講義は午後からなんだけど、メリーの方は大丈夫?」
「わたし? 大丈夫、蓮子と一緒にサボるから。蓮子もレポートと講義をすっぽかしなさい」
「私がサボること前提なんですね、メリーさん?」
「どっちにしろ、焼肉屋さんでご飯食べたらまたシャワー浴びて着替える手間がかかるんだし、サボった方がむしろ合理的じゃないですか、蓮子さん?」
「合理的な屁理屈というものが何なのかは解らないけど、日に二回目以降のバスルーム使用は一回につき百円を徴収することにしようかな」
「良いんじゃない。引っ越しに向けて、マエリベリー・ハーンのシャワー貯金」
何というか。
こういうときのメリーの押しの強さというか、あるいは屁理屈の強引さは、自分の気の強さを長所と短所の両方で捉えている私でさえも断り切れない部分が、実は結構ある気がする。
未だ私たちが出会ったばかりのころ――常人には見えないはずの結界を見ることのできるマエリベリー・ハーンの能力を欲して、半ば強引に彼女を秘封倶楽部に引きずり込んだ宇佐見蓮子の立場としては、どこか彼女に対しての負い目のような何かがないではない。
今でこそ、彼女とは対等な関係で結びついた友人同士だと思うことができているけれど、それは、単なる私だけの勘違いなんじゃないかという怖ろしい疑念がときどき頭の中を駆け巡る。端的に言ってしまえば、出会ってから一年以上が経っているのに、私は未だ心のどこかで、私の友達で居てくれるメリーという女の子のことを信用しきれていない部分があるのかもしれなかった。そんな不実で意志薄弱な自分を殺したくて仕方がないから、私は、メリーがときどきする突拍子もない提案を何だかんだで受け容れがちになっていた。そんなものが本当の友情か、なんて、小学校の道徳の教科書にでも出てきそうなテーマを混ぜっ返すつもりは少しもない。少しもないけれど、自分に対していちばんの神さまで居られるのは自分自身の良心と意思だと、そんな風に考えているはずの私は、メリーに嫌われたくないと願うときだけは、どんなに立派な思想でさえ子供っぽい打算の感情の前に破れ去ってしまうのだった。まったくの、お手上げ状態だ。
「わかったわかった。もうこうなったら、今日はメリーにつき合うよ」
「じゃあ、わたしも着替えて来るとして……十時半には迎えに来るから、家で待ってて」
「了解しましたっ」
ケータイの表示時刻は、九時半を数秒まわったところ。
超高速で、しかし女子としての基本的たしなみを失わずに入浴と着替えを終えれば、どうにか一時間で間に合うかもしれない。間に合わなかったら……そのときは、やむを得ずメリーに部屋で待ってもらうことになるけれど。
改めてふたりで予定の時間を確認した後、自分の鞄と帽子を手に取って、相棒は玄関まで歩みを進めようとした。
うーん。
メリー、せっかくうちでシャワー浴びてったのになー。
風呂上がりに飲み会明けの部屋の空気を吸い込んだせいで、また酒臭くなってないと良いけどなー。なんてことをぼんやりと考えつつ見送ろうとすると、少し迷ったような素振りを見せながら、ベッドに腰かけていた私のところまで、当のメリー本人が踵を返して近づいてきた。
「どうした? 忘れもの?」
「うん。ちょっとね」
言うと、アパートの壁の薄さを気にしているのか、別に私以外の人は誰も見ていないだろうに、ひどく神妙な面持ちで彼女は私に目線の高さを合わせて来た。何だろう。忘れものって、何か言い忘れたことでもあったのかな。そのくらいまでは至極当然と言える疑問だったけれど、どうもメリーと私の顔を隔てる距離は近すぎるような気がして仕方がなかった。鼻先が触れそうになる、ってほどじゃないけれど、互いの息の痕跡はどうにか感じ取れる。そのくらいの距離。彼女は手を伸ばし、私の襟元を指で撫でた。中指の先が何かのきっかけで首筋に触れ、その意外な温度に少しだけ驚かされる。アルコールの火照りがもうすっかり抜け切ったように冷たい指だったのだ、メリーは。
……ネクタイ。
と、言った彼女の口ぶりは、ごく当たり前のつまらないことを指摘するためのもの。そんな感じだった。そのまま、私の襟元に両方の手指を巻きつかせ、気だるげに溜め息を吐く、彼女。
「ネクタイほどけてる、蓮子」
「ああ、それはそうだね。うん。お酒入ってたんだし。酔っ払ってたときに暑くなって、自分でほどいたんじゃないかな」
「だめだよ。しっかりしないと」
やっぱり笑うこともかなしむ顔もすることなく、彼女はさも「それが自分の務めだから」とでも言いたげに私のネクタイを持ち上げて、結び直し始めた。思ったよりも手つきは器用だった。私よりも上手くて、手際も良いかもしれない。その辺に関しては、少しだけ彼女に嫉妬したいような気持ちになる。
「良いよ、そんなことしなくて。どうせシャワー浴びるんだし。着替えるし」
「わたしがだめなの。気が済まないの。今の蓮子には、蓮子っぽさが足りないもの」
宇佐見蓮子のアイデンティティーは、マエリベリー・ハーンの中でネクタイに集約されているとでもいうのかい。いや、こんな軽口さえ無粋だという気がして、私は彼女がネクタイを結んでいる間、もう何も言わなかった。メリーのされるがままになっていたし、されるがままになっていなければならないような気もした。
「これで良し」と呟いて、メリーはようやく私の襟元から手を離す。
鏡を覗いて確認したわけではないので正確には解らないけれど、触ってみた感じでは、たぶん、私がよくやるプレーン・ノットの緩い結び方じゃなくて、ハーフウィンザー・ノットの方だった。スーツを着ているわけでもないのに、乱れない、きれいな。でも、少しきつい。
「じゃあ、また直ぐにね」
満足げに――そして、ようやく微笑をつくったメリーは、静々と靴を履いて、振り返ることもなく帰って行った。直ぐ近くの道路を走る自動車の音を聞きながら、しばらくの間ぼんやりする。が、直ぐに思い立ってバスルームと併設の洗面所に飛び込み、鏡で首元を確認した。やっぱり、ハーフウィンザー・ノットだ。メリーらしい、ごていねいな仕事である。乱れた服装の中で、ただ一点だけ不釣り合いにぴっしりとしたネクタイ。メリー製。何だか首輪を掛けられて、彼女に飼われる犬にでもなったみたい。
「髪のー毛だーってっ。ぼーっさぼさーじゃーん」
適当に思い浮かんだ節回しで変な歌を歌いながら、またリビングに戻ってベッドに「どすん」と倒れ伏す。身体をひねって、床に放置されていた低反発クッションを足先でつまみ上げ、上手く放って胸元に受け止める。しばらく、それをメリーだと思って話しかけてみようかな。いや、やっぱりやめようか。みっともないもんね。恥ずかしいし。
メリーに貸していた悪趣味な黒と紫のタオルケットは、気づけばきれいに折り畳まれていた。本当に、几帳面な性格をしていると思う。適当にぐちゃぐちゃにしてくれても、私はぜんぜん構わないのに。彼女が居なくなった後の私の部屋はすっかりがらんどうで、薄れつつあるアルコールのにおいと石鹸のにおいが混じり合い、何だかよく解らない混沌とした心地よさの残骸だけが漂っていた。だが、そこには自分のにおいもメリーのにおいも残ってはいないのだ。
「何が、“すごく、蓮子のにおい”なんだろう。お酒のにおいだって、もうほとんどしないのに。メリーのやつ」
あーあ、と、大げさに声を出してクッションを枕の横に置き、コンタクトレンズを取り外してケースに戻した。近視のままでも着替えとタオルを用意するくらいは簡単にできる。
だが、その作業は理由もなく億劫で、気の進まないものになりそうだった。少なくとも、私はニュースサイトで閲覧した出来事ほどにはメリーの心のうちを理解して結びつくことはできそうにない気がしたし、今のいら立ちめいた意識だって、誰の手にも『物語る』ことは不可能だろう。そう思うと、何だかひどく安心する。でも、何だ。
こういうみっともない思いこそ、ARのニュースサイトで晒しものにされるべきなんだ。
そして色んな人にコメントで気持ち悪いってばかにされたら、せめて私ひとりで恥ずかしさを抱え込まなくて済むようになるはずなのに。
――――――
『さよなら、リリーマルレーン』
「これ、あんたにやる」
「何、これ」
「解んないかな。リボンだろ、リボン」
「チョコレートの包み紙に見えるけど。銀色の」
「包み紙でもぐるぐるねじれば立派なリボンに見えるだろ。女装にでも使いなよ」
要らないなら、返してもらうよ。
そう言うと、彼女はぼくの手のひらで縮こまっていたチョコレートの包み紙――訂正、リボン――を指先で取り上げた。あいにくと、ぼくに女装の趣味はないのでおとなしくその意思に従った。眼だけで彼女の手の先を追うと、とっくに薄れてなくなっていると思ったはずのチョコレートのにおいが、銀色のリボンからほんのわずかにぼくの鼻を突いていた。爪の先でリボンの端を撫で、弾くことを何度かくり返して、彼女は細めた目蓋と共に、短く刺すような息を吐く。
銀紙リボンのこと自体は、彼女が珍しく冗談を口にした瞬間だったらしかったが、再び開けられたその背嚢からは別世界にでも繋がっているのかと訊きたくなるほど多彩な物が転げ出て来た。封を破ったモルヒネ注射の紙袋。子供向けの絵入り聖人伝。新聞紙の切れ端。一回分だけ中身の残った頭痛薬のシート。鎖のちぎれた兎の足のペンダント。木を削り出してつくった目鼻立ちの曖昧な豚の人形。「上手くつくってあるね、この豚」「それは猫だと」「猫……」「猫」。ディテールの問題ではなく、もう少しだけ腹回りに上手く刃を入れてやればスマートなシルエットになるだろう。この、……豚のような形の猫は。
彼女が手を突っ込むたびにそこにとらわれて、背嚢の中身は太陽の真下に晒されるはずだった。だが、風に巻き上げられた砂塵がかすかに陽を遮るせいで、未だ少しだけまともな光を浴びられないでいた。最初の銀紙リボンをそうしたように、彼女は背嚢から取り出した品物たちを次々と地面に積み上げていった。山をつくるほど――というほどに嵩は増えていない。それでも見た目には、かなりの数のものがその背嚢には納められていたのだろうことがうかがえた。子供が小石や鳥の羽を、あれこれと節操なくおもちゃ箱にしまい込んでしまうみたいにだ。つまり、まさにがらくた的。山の中腹から幾本かの細い針金を人の形に束ねたものが突き出ていた。小さな人形。お辞儀をするようにしてこちらを向く“彼”の左脚は、錆びてぼろぼろになったままちぎれてしまっていた。
「こいつで最後」
ぼくに向けて、ふたたび彼女は細長い何かを投げつけてくる。
見もできないままとっさに片手で受け取ると、彼女の背嚢はもう、くたりと潰れてしまっている。戦線の膠着ぶりにすっかり油断しているのか、彼女が鉄砲も鉄兜も持ってはいないことにようやく気づいた。軍規違反を犯してまで、兵隊に必要な荷物は自分の命以外に何ひとつ持たないようにしている、というぼくの解釈。空虚で実体のない理想とひと繋がりになっているように。ぼくは、手の中の重みをようやく思い出し、爪の先で“そいつ”を引っ掻いた。鞘にはねっとりとした安っぽい革のへこみを感じる。色の剥げた柄に手を掛けて、鞘から思いきり引き抜いた。両刃のナイフは今までずっと狭苦しい場所に押し込められていたとは思えないほど澄み切り、透明に輝いていた。クリスタルで造形した紛い物かと思うほどうつくしい刃先に、短く刈り込んだぼくの鳶色の髪の毛が見える。だが、顔全体を映そうと思うならナイフをもう少し傾けなければならなかった。ナイフの刃は半分以上が欠けていて、かすかにひびさえ残っている。その跡に指先を触れると、ぼくの指から染み出るほんのわずかな生理的の脂だけがべたつきを感じさせ、薄らとした指紋を残していく。
「欠けたナイフでつくったにしては、上出来だったんだよ」
彼女は、もういちどさっきの肥ったような木の猫を持ち上げる。
本物相手にそうするように、小指で喉を撫でてやっていた。顔のない猫に対しては、心地よさも気持ち悪さもこじつけるに足る感触を得ることはできそうにもない。
「よく出来てるだろ、この猫はさ」
「きみが、つくったの」
「違う」
猫の小さな尻尾は萎れるように折れ曲がり、肥った身体にぴたりとくっつくようにして浮き彫りのかたちにつくられていた。手のひらに乗せた猫を興味の薄そうな眼つきで眺める彼女。いつもの、これが無感情だった。垂れ下がる白髪で表情は読み取れなかった。もはや笑いもかなしみも詐術めいた方法で再現する必要がないと感じているのか。
「誰がつくったのかは、もう憶えてない」
面白いものを見せてやろうか。
ぼつり、ぼつり――毒づくような口ぶりで、ぼくを話の渦中に引きこもうと画策する。共犯者、なんて言葉が瞬間的に駆け巡って行った。白髪の不良兵士。ひとりだと格好のつかない仕事。あるいは秘密の、さらには犯罪的な? 「ちょっとした“手品”だよ」「手品」「そう。ただし、私の他には誰もその種を知らない。あるにはあるが、見つけたところで何の意味もない。ひとりきりの芸当」。
何かを忌むようにして細められた彼女の目蓋。その目尻に光った気配が涙だと思ったとき、すでにぼくの思い違いが始まっていた。暗闇を殺すランプが誘蛾の光を発するように、ぼくの眼は躊躇いを孕みつつ彼女の手に向けられた。彼女の眼の光は涙ではなかった。そんな哀惜めいた存在と錯覚させるほどの力を彼女が行使することはない。その光は、火だ。人間の手の上で、熱もなく、苦痛もなく、ただ物事の存在だけを焼きつくして滅ぼしてしまうかのような、魔術めいた火の輝きだった。彼女の手のひらの上の猫。その表情のない顔にあと少しで触れそうになるほどまで唇を近づけて、彼女は何かの音を口にした。意味ある言葉なのかは解らない。もしかしたら単なる溜め息だったのかもしれない。けれど、その唇から漏れ出た吐息が猫の身を撫でたとき、潰れ気味の形をした猫の耳が火に覆われ、瞬く間に全身へと波及していった。マッチの先端に盛られた燐が燃え尽きる様を見遣るように、彼女は何でもないという顔をしている。そして、数分とかけることなくほんのわずかの黒っぽい灰に変化してしまったかつての猫を、ぐしゃりと、思いきり、握り潰した。
「解ったかな」
それでもなお、手の中に残った灰の跡を拭うような真似はしなかった。
ぼくに示すためだけに火を灯された猫に、尊い犠牲としての意味合いを認めるみたいに。
「弔いには、送り出してくれるやつが必要なんだよ」
弔い――――?
「それは、」と、言いかけると、風に吹かれて転がった注射の紙袋を拾い上げ、彼女はそれを光に透かし始める。製造と供給を請け負った製薬会社の社名の印刷が、ぼくにも遠くほの見えた。背嚢に押し込まれていたことで刻まれてしまった皺を、挟んだ指を滑らすことでていねいに伸ばした。それから、さっきの猫と同じようにしてふうと息を吹きかけると、再び紙袋は燃え上がる。涙の跡のように揺れる炎の柱を、彼女は地面に積み上げた品物たちの真上にそっと置いた。
「きれいな火」
「人を燃やす火だよ。火葬の火」
「ここにある色んなものは、きみのものじゃないのか」
「誰のものかなんて、もうほとんど興味はないんだ。みんな死んでしまったから。なのに、こうしてそんな連中から押しつけられた何かだけが生き残ってるなんて、私にはどうしたって耐えられない」
司祭の真似ごとをするにしては、彼女の態度は沈鬱であり過ぎた。ぼくは、彼女が火をつけたものが、いったい誰がどこで手に入れ、使ったものだったのかを訊かなかった。訊いてはならない気がしたからだ。複雑な典礼のやり方も、荘厳な祈祷の響きも、何もかもが無縁だった。行為をただの作業に変えかねない儀式を、彼女は嫌っているらしかった。ひとことの言葉を掛けることもなく、無言だけが彼女の中に降り積もった死を語ることをする。物語ることによってはじめて、現在に復讐し続ける過去をただの記憶に定めることができるのなら――それでも、彼女の見てきたものを再現するには不十分だった。現に、彼女は品物たちの元の持ち主に興味がないという。あるいは、もう再現する気を喪っているかのように。始めから、そうすることをとっくに諦めきったせいで。
彼女は両脚を抱いて座り、壁に背を預けた。
ぼくは突っ立ったままで、地面に閃く火を見下ろし続ける。そして、その火に照らされ続ける彼女の顔を。その真白い髪の毛を。たわみ切った時間の反動に叩きつけられて、居るべきではない世界に放り込まれてしまったような、生きながらに老いたその姿。燃え続ける品物たちから、煙はほとんど出なかった。彼女の白髪に一歩ほど譲る白さが、細く細く空にたなびいては当てどもなく霧散していくばかりだった。
「何ていうかさあ。珍しくもないんだ、こういうことをするの。今さら感傷的になったって仕方のないことなんだけど。人が死ぬのは、当たり前だから。“どこに行っても”ね」
「百年近く前から、ずうっとなんだよ。世界のあちこちで」
「知ってる。それが解らないほど、ばかじゃないよ」
「どっちがしあわせなんだろうね、実際のところ。“ピースメーカー”を世界中の人間に投与することで、人間性を代償にした抑圧的な平和を実現した。そのおかげで戦争だって退化したって、歴史の教科書には書いてあったけど。……でも、反対派が人間の尊厳と自由を求めて革命を起こしたら、今度はあちこちで戦争が始まった。いちどは退化したはずの、抑制されるべき感情的行為ってやつがさ」
「大昔に、人間は月に旅行だってできたんだぜ。ちょうど、“ピースメーカー”――精神均衡薬剤が幅を利かしてたっていう時代は。そうやって地球を見下ろすことで、神さまの存在だって合理的に生産しようとしてた。人間は古くさいものを病気みたいに切り捨てようとする。でも、その行為には、大昔に自分が信じてたものが常に絡みついているってことはそう簡単には解らない」
「どっかの島国では、ふたつの都市を五十三分で結ぶ高速鉄道だってあったっていうよ」
「現実と仮想の区別はつかないもの、なんて言われてさ。ものごとの境界めいたものが、段々と無意味になっていった」
「マエリベリーって人が書いた『幻想郷』って本、読んだことある? 昔、流行った……」
「“苔むす鳥居を私は見上げる。地獄の門に刻まれた言葉を見るように。この結界をくぐる者、いっさいの条理を棄てよ。幻想のさきわう地で人が持つべきものは、明瞭な言葉ではなく無言の畏怖であるのだから”……か。あれは、よくできてる本だったよ。まるで他人ごとと思えないほど」
まあ、“リアルに書けてる”って言いたいんだ。
最後にそうつぶやいて、彼女は急に黙り込んだ。
呻吟することをどうにかして抑え込もうとしている苦しさが、そこにあるかのように見えた。悔しさを演じるために彼女は唇を弱々しく噛み締めているのだ。自分の感情というものが、きっと未だ磨滅し切っていないと信じたいがために。だからこそ、何の感傷もなしには死んだ人たちのものを燃やすことができなかった。弔いには送り出してくれる人が必要で、それがたまたまぼくだったというだけの話で――他には何の意味もない。彼女が兵隊たちに何度も抱かれているということと同じくらい。しかし、ここで必要なのは言葉なのだ。たぶん、彼女の心だけが語ることを許される言葉。いずれ死んでしまうだろう兵隊たちとセックスをすることも、背負っていた死者たちの荷物を燃やしてしまうことも、彼女が彼女で居続けるためには語り続けなければならない言葉なのだと。
ぼくは、ぼくを傲慢だと思った。彼女が彼女の言葉で語るべき言葉を、ぼくはぼくの言葉でだけ語っている。だが、「許してくれ」と“語り部”たるぼくは誰にともなく頭を垂れる。彼女が出来事を物語らなければならないのと同じくらい、ぼくは彼女について物語ることでしか、彼女に成ることができるはずもない自分自身のストーリーを構築できそうにないのだ。結局のところ、最後まで自分自身の生活と結びつくことのない『何か』を存在させるには、語る――それは同時に“騙る”ことでもあった――ことでしかこの世界は言葉を受容してくれない。
「薄情だろう。勝手にこんなことして」
「そうかも……しれないけど」
「今のうちに、あんたからも何かもらっておこうか。……燃やされても構わないものを」
抜き身になったままでいた、折れたナイフに自分自身の眼を映した。
灰色をした瞳が強く瞬きをくり返し、そのせいで目尻には常に涙が滲み出て、それにひりひりとした痛みがあった。角度を変えると、いっそう身体を縮こまらせた彼女の姿が見えた。冬を迎えた小動物をこっそり観察するようにして、ぼくはナイフに写った景色越しに彼女と言葉を交わす。ううん、と、彼女は何かを考えて声を発する。ぼくの持ち物について、考えているらしかった。
「たとえば、童貞とかね」
「遠慮しておく」
「だろうね。ちょっと冗談が過ぎたかな」
「幾つか、教えてほしいことがあるんだよ。その代わりに」
ぼくは、かつて人類が謳歌した繁栄が、ぼくたちの時代に焼きつけていったその影しか見たことがない。戦争だってそうだ。古い古い価値観の残骸をどうにか組み上げていく中で、ぼくたちは鉄砲を撃っている。永遠の平和を手に入れたと思い込んだ人々の意志によって、戦争はどんどん退化していった。しかし、本当に退化させるべきは自由だったのだ。革命が起きて、人間は再び戦争を初めて――それならばいっそのこと、すべての人間の脳を、自由なんてものを思い起こさせないようにつくり変えてしまえば良かったのに。だが、そんなことは不可能だし、誰とても残酷だとして望まなかった。過ぎ去った科学世紀は、物語に登場する怪物たちの住まう世界とほとんど同じ意味を持っていた。それを知らない者たちにとって、遠くの世界はどこまでも想像力に抱かれた空間に変質する。彼女とぼくが、たぶんそうであるように。乖離と懸隔と齟齬が埋まるとは思えない。そこに何らか、同じものを信じることで訪れる快楽がないかぎりは。人間同士が、言葉ではあり得ない共通の言語に頼らない限りは。ぼくは死ぬのが怖い。そんな手段にすがることで、ぼくと、それからぼくの中で感情のつくりものを弄んでいる彼女が死んでしまうのが怖いのだ。ぼくは、彼女の身体に触れたことはなかった。手渡されたナイフ越しに言葉をかけながら、ふたつのものがわずかに触れることのできる地点を探し続けていた。
「きみは、鉄砲を撃ったことがある」
「あるよ。たくさん」
「きみは、人を殺したことがある」
「ああ。何度も、何度も」
「人が死ぬのを見たことも」
「見飽きるくらいに」
「国や時代が滅びるのを目にしたことも」
「そういう体験も、あったかもしれない」
問い続けるぼくの声は弱々しく、答える彼女の声はたどたどしい。
いったい、そんな意味のない問いをくり返して、ぼくは何を得たかったのだろう。彼女の口からどんな答えが欲しいと思っていたのだろう。本当に望んでいたものは、彼女と自分との間の境界を取り払うことでも埋めてしまうことでもなく、その手をつかんで、強引に自分の側まで引きずりだしてしまうことだったのじゃないだろうか。
「罵りたければ、ご自由にどうぞ」
最後に、彼女はそんなひとことをつけ加えた。ぼくに対して、それがごく断片的なものであるとはいえ、自分を語ることに罪悪感を覚えているみたいに。大半が燃え尽きて白い灰になり、燻ぶった熱と光だけになった品物たちの山を、彼女は軍靴の靴先でくしゃりと崩した。防水加工の施された革製品にわずか反射する太陽の光が、舞い上がる灰の色に遮られてその気配を喪っていく。彼女の意図を汲むつもりにはなれなかったが、何も口にせずに、このふたりだけの『葬儀』を終えるのも、どうしようもなく寂しいのだ。
「きれいな火だったよ。きれいすぎて、ぼくは嫌いになってしまいそうだけど」
ぼくは言った。
この世のものとは思えなかった色の火に、それが燃え盛っている瞬間に言うべきはずの勇気さえ怖れながら。
――――――
『それ自体が手折られた花であるごとく眠る』
彼女の幸福は喪服を着てやって来るのか。それとも正装をした怪物なのか。
妹さまに曰く『わたしの地下室を除いたら、お屋敷の中でもいちばんのみすぼらしさ』を持つ自分の部屋へと彼女は戻る。かけらほどの色気もない剥がれかけの壁紙から眼を逸らし、端のほつれた薄っぺらのカーペットが足音だけは巧みに吸い込むのを疎んじる。壁にぴたりとその身を寄せる痩せた骨組みのベッド。空気以外にはさして何も入っていない小さな棚と、半身がすっぽり映り込む鏡台。そこに在る化粧道具と香水瓶。途中まで読んでほったらかしにしたせいで、内容なんてすっかり忘れてしまった数冊の本。気がつけば日焼けしてチョコレートめいたにおいを発するようになっていたそれらの本は、むしろ大図書館の魔女どのにでもよく似合う沈黙をまとっている。
甘ったるい気配に蕩けかけた目蓋と、その奥でシンと痛む自分の眼の珠がうっとうしい。舞い上がったほこりが息を刺し、申しわけ程度に咲夜は咳き込んだ。そうやって初めて認識できる、排出すべき異物とよく似た小さな安堵のとげとげしさ。いずれは伸びきったばねのように、その用を為さなくなるのだろう彼女の身体。シンプルな材料、ストレートな要素、ストイックな方法で形づくられた十六夜咲夜。
棚の上の、地味な色柄の小物入れに手を伸ばした。色もほとんど剥げ落ちて、木材の感触がそのまま剥き出しになったその小箱を、いつから使い始めたのかも彼女はもう忘れている。「煙草でも吸おうか?」。そう考えてから、直ぐに「しまった」と舌を打った。この物入れに隠した最後の一本を、ちょうど今日の朝に吸ってしまっていたことを思い出したから。煙草の箱を包んでいたセロファンのかけらだけが、ほこりのひとつもない棚に転がっていて、咲夜の溜め息を浴びて、どこへともなく吹き飛ばされる。
歯ぎしりさえしたいような心持でふたを開けると、中には白みがかった銀色のシートが折れ曲がりながら納められている。シート一枚につき、透明な殻が六つ備わった“それ”。殻の中には小さな――小指の爪の上に収まるくらい――錠剤が入っている。鳥の卵をでたらめに小さくしてしまった姿であるようにも、咲夜には見えた。それをゆっくり、手のひらに取る。指先で透明の殻を破り、目当ての薬を押し出すと、ぱきり、小気味よい音がした。同じ動作を、四回ほど繰り返す。わずかに伸びた爪が、錠剤の表面に傷をつけていた。すべすべと、滑らかだったはずの感触はこのせいで失われ、そのことをひどく残念に思った。
(すなわち睡眠薬とは、よくできた天国の模造である)
(モルヒネという名が、夢の神をかたどったごとく)
既定の用量より一個だけ多く錠剤を飲み込むことで得られる小さな背徳は、脂(やに)のにおいなんかよりは、未だだいぶましだろうと思う。煙草を切らしているんだから仕方がないという、その手の自己弁護に終始する愚かしさまで含めて。誰にも隠れて薬を飲むことと、わけもなく人を殺してしまうことと、泣いて嫌がる女の股ぐらに勃起した逸物をむりやり突き込むことはみな相似である――という、諸々の詭弁を背負って眠ること。ワインと錠剤が、いまここに有るとする。きみは、果たしてどちらの酩酊が好みなのかと問うてみる。そして、どちらが危ういのか? いずれにせよそれは、生活の矮小さを愛でることに他ならない。
儀式めいた荘厳を心に留めながら、彼女はベッドに腰かけた。人ひとりの身の重みで古びたベッドが軋む、咲夜の背骨もシンと軋む。コップをつかむ右手の指は、その根元まで力にあふれる。部屋の暗がりの中ではガラスと水との境が融け、その境が巧妙に失われる。
閉め切られたカーテンの小さな切れ間から差す12月22日の星が、手の中の透明なかたまりを照らし、きらきらと輝かせた。コップの中、小刻みに動く水面に咲夜自身の眼が映った。しあわせな眼だ。より正確には、しあわせがもう直ぐ到来すると知っている人の眼。喪服を着た幸福。または正装をした怪物を待つ少女。自分は、何を考えているのやら。笑おうとして、ふッ、と、ためらいに瞬く。ばかばかしさへの微笑は、もっと後へととっておこう。そういう気分になった。憂鬱とはひどく移り気な感情だった。眠りを食むには、幾らかは憂鬱な心を憂鬱なままで取っておくのがちょうど良い。大抵、その後にはもっと大きな憂鬱がやってきて、小さな悩みを踏み潰してくれる。
お嬢さまが「フランの遊び相手に」と言って連れてきた仔犬を、力加減を誤った妹さまが握り潰してしまったときは最悪だった。あのとき咲夜が仲裁に入らなければ、双方が大泣きしながら繰り広げられた本気の姉妹ゲンカはやがて紅魔館を半壊させてしまっていたことだろう。コップを握りしめながら、思い出すだに頭を抱えたい気持ちになっていく。パチュリーさまが机に広げていた本に運んできた紅茶を思いきりぶちまけてしまったときは、相手の眼を真っ直ぐに見て話をするのがためらわれて仕方がなかったものだった。
「お得意の種なし手品にしては品がないものね」
と、そのときパチュリーは言った。
「かの羊飼いの愚かしさを真似て、悪事と共に記憶に名を刻むつもり?」
「申しわけございません……けれど、エロストラートの功名など、とても」
「解ってるわよ。神に火を放つほどの試みなんて、もっとも無粋なもののひとつだわ」
テーブルの上に転がるティーカップを尻目に、魔女どのは濡れた本のページをいら立たしげに指先で撫でていた。
「せいぜい気をつけなさい。“私たち”の癇癪(かんしゃく)は、史実よろしく、ひとりの人間を史書から抹殺することでさえも厭わない。大抵の魔女において、偏屈さはむしろ美徳の切れ端みたいなものだから」
あまりにとっさのことで時間を止めるのすらも忘れてしまった。そのうえ口から出てきたものは言いわけですらなかった。そもそも咲夜には咲夜のプライドというものがあったはずなのに。彼女は従者、瀟洒で完璧な。ただし薄氷の上の。ただし砂でできたもの。そうであるべき、ただひとりの人物。ひどく肥って腫れあがった自意識の真ん中を針でなぞる、そういうレトリックを駆使するのは本当に自分だったのだろうか。実は自分以外の誰かが十六夜咲夜に“そうあれかし”とお命じになって、言葉もない命令に従い続けているだけなのかもしれない。ばかばかしい仮定だなと思う。でも、くだらない空想でもある。彼女は従者、瀟洒で完璧な。ただし薄氷の上の。ただし砂でできたもの。求められたもの。彼女自身の意思ではないもの。
瀟洒である理由の“どうして”が解らないのと同じくらい、謎があふれた世界で生きている。星々の軌道のわけを、太陽の中心部分に満ちたいずれ燃え尽きると定められていることの切なさを、大地の自転速度に振り回されずに済んでいる運の良さを。だが多くの人たちはそんなことなど気にもしないし、咲夜だってベッドに横たわったときくらいにしか考えたことがない。寝入りばなに抗うという行為は、ほんの数分間だけたくさんの哲学者をつくり出す。この手に握った毒や薬が人を眠らせ、殺す仕組みですらも咲夜は知らないのだ。帰結が同じであるというのに、人が死ぬ由(よし)でさえ決まりきってはいないのである。空想の中でつくり出される世界の滅亡が、各々の想像力によって違った姿を見せるように。
四つの錠剤をいちどに口に放り込み、続いてコップの水をぐいとあおった。
行為には、情動も意志も理想も存在しなかった。無意味であるということはそれだけで救われていると言えた。彼女の口の中で水の生ぬるさと混じり合った錠剤は、もうすでに少しずつ溶け始めている。このまま窒息したら? 胸の真ん中に形のないものが詰まって、腹がごろごろとうなって、股の間が熱くなってくる。腿をスカート越しにこすり合わせた。皮膚を一枚はがした後に、じんと染むほどの心地良さが宿っている。毒の心地良さについて予見する。苦痛の神聖さは、常にそれを犯す快楽の逆説によって支えられていると。眠りをもたらすための睡眠薬でさえ、やがては人を殺す毒になる。
死と眠りのどちらが先に来るにせよ、しかし、彼女は生きていた。緩慢に人間を縊死させる煙草のにおいと、人々が自らの手で天国をかたどった錠剤とは、後者の方がよりまともで皮肉に満ちた、楽園の失敗作だった。それならば世界のどこにも天国なんかないというのに、そんな場所を夢見て死のうとしている自分は、聖人にも悪漢にも憧れない卑俗なやつ。
眼の前がやけにちかちかする。星明かりが落ち、火花がきらめいている。燭台に揺れるろうそくの火を、まるで目蓋の裏に据えつけでもしたみたいにすてきな飾りだと思えてしまう。遠くに声が聞こえる気がする。さあ、仕事の時間だと。自分はメイド。完全で瀟洒な従者。紅魔館の十六夜咲夜なのだから。
唇を覆う手指の間を粘ついた水がすり抜けた。コップから半分ほども飲み込むはずだった水が唾液と混じり、舌の奥に陣取った拒絶に押されながら、間隔の短い咳と共に吐き出されたのである。
肺に響く鈍い痛みが、自分が束の間に選び取ったものが何なのかということをどんな言葉よりも雄弁に証明している。水と唾液とともに吐き出された錠剤はひとつも欠けることはなく、確かに四個、カーペットの上に転がっていた。溶けて少し小さくなった、とてもあわれな眠りの屍骸。背骨の真ん中に、ぞくりと冷たい愉悦が生えた。アイロニー。死そのもの屍骸を、生きている自分が生み出したという。右手であごや唇を何度も何度もぬぐってから、咲夜はコップの中に残った水を、息を止めて一気に飲み込んだ。くそ不味い、土じみた味がした。
汚れをふき取った指先や手のひらに、べとべとを感じて気持ちが悪い。こんな風にぶざまに粘ついた自分の手のひらを、お嬢さまも妹さまも見たことはないだろう。美鈴やパチュリーさまなら、もっと上手く騙されてくれる。
「生きるってこと自体が、絶望にはもっとも必要なことだものね」
ベッドから降りて身を屈め、小さくべちゃべちゃになった錠剤を注意深く指先でつまんだ。それから、この部屋の中で唯一の洒落っ気めいた雰囲気を持っている籐の屑かごへ、錠剤を棄ててしまうためにすばやく立ち上がった。しあわせな眠りと、そのあとにやって来るはずだったろくでもないふしあわせについては、しばらく、考えるのを止めることにした。こんなにも落ち着かない気持ちでいるのはきっと煙草を切らしてしまったせいなのだから、意味ある言葉で理屈をつけても何にもならないに違いないと。
――――――
『たとえば聖なる地獄があって』
雑音混じりの麗句を滔々と並び立てるのはほこりを被った古くさいラジオの役目で、寝起きに空きっ腹を抱えた椛には、つけっ放しになっていたその機械のスイッチに指先を叩きつけてようやく電源を切るだけの活力しかない。寝間着なんてものを贅沢と疎むのは無精の言いわけ、自分が男なら頬一面にひげを生やした田夫野人の風情だろう。
そうして鳶色の毛布を跳ね飛ばし、床に転がしていた太刀の重みをようやく身に帯びながら、愛おしくも狭ッ苦しい自らの城をつらつら見据えることの、これ以上もない億劫さといったら。
寝る前の慰みに聴いていた好きでもない音楽番組は、異国の古い流行歌を放送していた。いくさのさなかにある防人(さきもり)が、故郷の恋人を思うラブソング。愛するきみよ、いとしのリリー・マルレーン。それを歌う夜雀の声が聴く者の魂を惹くというのなら、確かにローレライという名の面目躍如だ。彼女の歌声は、天狗たちにもファンが多いらしい。しかしどうにも椛には、慰み以上の価値を持ち得ないものだったけれど。
部屋の隅、ひび割れた甕(かめ)の中からひと摘まみの塩を手にとって舐め、そのためのわずかなひりつきから逃れるようにして、別の甕から柄杓で汲んだ水を飲みくだす。
ふと壁に目を転じると、誰が書いたか刻んだか、かつてこの家を使っていたのであろう連中の存在、その痕跡が、今や判読もできないほどに薄れかすれた落書きとして残されている。誰の許しを得るでもなくこの庵に住み始めてから、もう直ぐ半年が経つはずだったけれど、そうまじまじと、昔の住人が壁に刻みつけてきた傷跡を見つめることは、ひょっとしたら初めてだ。
柄杓を甕の脇に戻しながら――壊れやすい赤子の頬を愛でるように、指先でゆるり、ひびと傷跡と落書きとを、椛は幾度かなでてみた。これらの傷は、言うなれば留め置かれた時間の残骸かもしれなかった。その感触は熱くも冷たくもない。残されているのは実体のない、ごくちっぽけな魂たちのかけらだけだからだ。
自分の身体がなくなったら、いずれこの中の仲間入りをするのかな。椛はいっとき、久しく忘れていた感傷にとらわれた。もっとも、そうなる前に何もかもが消えてなくなるかもしれないのだけど。じゃあ、寝に帰る家がそのまま墓場になるのか。防人にしては、贅沢な死だろうか。退屈な生活に殺される道があるのなら、野垂れ死ぬよりはよほどにうってつけの最期。死と眠りは兄弟という、じゃないか、と。
でも、ここに居る死者たちは英雄でなく、ただのごみくずだ。
こうやって無為な目覚めを知るだけの犬走椛から、同情以下の感傷を寄せられている。
儀式もなく祭祀もない死者たちは、自らを荘厳に見せかけることもできやしない。
「愛の似姿を捧げるためのリリー・マルレーンが、あなたがたにも居られたのか」
誰にともなく椛は語りかける。古くさい、愛とやらをやかましく歌うラジオはといえば、彼女自身が止めてしまったから。何の代わりにもならない、誰を癒し得るはずもない、自分の声だけが、ただ、壁に吸い込まれた。死ぬことの先駆がさり気に見つめてきたのであろう、ぼろぼろの落書きで満ちた壁に。顔も知らず、名前も知らず、死に様なんてものはもっと解らない防人たちが、唯一残した“叫び声”の代わりの落書きに。
無音のやかましさで飾られた“ここ”は昔、彼らの『家』だった。
寝床を元の自分の家から、そんな場所に変えてみたのは、そのままの生活で退屈を噛み殺すにもとうに飽き始めていたから。人の姿に化身しているとは申せ、椛の牙も爪も慣れてしまっているのは天狗の領分を侵す不埒者を裂くことであり、退屈までもその鋭利さにかけるほどの道理はない。
間に合わせの玄関らしきところに掛かっている日よけの布を手で払い、別宅と自嘲気味に呼ぶ第二の寝床から外に出てみると、太陽はもう空のてっぺんに差しかかっていた。寝坊、完全な……。
しかし、それでも最近の椛の生活に差し障りはない。白狼天狗は退屈な仕事。このごろは誰もみな非番の日ばかりとみに増え、何もかもが安閑としたものである。木々を縫って妖怪の山のあちこちに巡らされた送電線、電信柱、電柱くらいにどっしりと、何もかもが安定している。
ラジオから流れる夜雀の惚けたような歌声を、自分自身も惚けた顔を下げて聞いていられるのは、そこに流れる、大きな変化のおかげだろう。山の神の手が外界からもたらした産業革命、核融合。たび重なる技術革新。中でも通信技術の発達は、ラジオ放送という新たな娯楽を普及させた。音楽番組で頻繁に取り上げられるミスティア・ローレライの存在は、今や山の妖怪たちの“アイドル”だ。たとえば、それこそ天狗と名のつく妖怪たちの上から下まで、彼女の名前と歌声を知らぬ者はないほどに。この安穏をこね回して偶像をつくるのだとしたら、ミスティアこそがふさわしい。
しかし何もかもが性急すぎると言えば、それまでである。
この家に元より少ない家財道具を持ちこんで、自分だけの秘密の庵に変えてしまったことも、もしかしたら早計だったかもしれない。おかげで好きでもないラジオを聴いて暇つぶしをする羽目になったのだから。
守矢の神が発案し、天狗が指揮を取り、河童たちが嬉々として協力した送電線敷設の普請の際、山中に複数あった哨戒部隊の詰め所や陣地の配置も見直され、統廃合された。今はもういくさもないのだ。ある物は廃棄、ある物は物置に転用、ある物は守矢神社の事務所代わりに。
そのうちのひとつ、山の中でも特に小さかった元詰め所は、椛ひとりだけが住むにはだいぶあつらえ向きと言えた。昔から、同僚たちから変に超俗的なやつだと言われることもあった質素な生活ぶり。布団と枕、武具と細々した種々の道具、後は仕上げに小さなラジオひとつ持ち込んで、寝床としての体裁を整えてしまえばもう、立派な『犬走邸』のできあがり。
山の天狗連中さえ見向きもしない、それどころかたぶん忘れ去られているだろうそんな場所で、ひとり、将棋を打つ真似ごとでもしようかと思った。しかし肝心の駒が二、三個、どこを探しても見つからなかったときは自分のばかさ加減を呪ったものだ。かと言って、新しいのを新調して誰かを呼びつけて対局する気にもならない。それによく考えたら、将棋と名のつくものは九天の大滝の裏で河童のやつらとやり飽きた。
さて、そういう具合にして二度寝と洒落込むには頭が冴えすぎていたし、昼間から酒を嗜むほどの気にもなれず。ならば、ひとまずはあたたかな太陽の恩恵を得るに若(し)くはない。
今にも崩れ落ちそうな庵の壁にかけた梯子をぎしり、軋ませ、これもまたちょっと踏んだだけで大穴の空きそうにぼろい屋根へ上がって身を横たえる。そうやってぽかぽかとした陽気を朝飯代わり、身体いっぱいに食むことにする。小脇に抱えた“お供”の太刀は、枕にするには心許ないが。
ふわーあ、と大あくびをしても、空気には電気の味は混ざらない。
こんなにも電線が目につくのなら、少しくらい舌にびりびりを感じても良いのにな。
そういう、ばかばかしくて益体もない考えばかりが、浮かんでは消えた。
屋根の上でむかつくほど青く抜けた空を見つめながら、眠たくもないのに必死に眠ってみようとするのが、ここ最近、椛の最も有用な暇つぶしだった。その、屋根に寝転がって見つめる空というやつは、彼女の眼には、白痴が阿呆面を下げて突っ立っているほどの間抜けさしか感じさせなかった。しかし、それは鏡みたいなもので、眠りこけていたいと願う自分自身の姿が、きっとそこには巨大に投影されているような印象を残す。
「ここに居る限りは一国一城の主かなあ」と、自嘲しつつかたわらに転がすのは、やはり馴染みのひと振りの太刀。もちろん口も舌も生えてなんかいないのだから、話相手になってもらえるような仕儀もない。錆びついた刀身を鞘に収めたままでツと柄頭をひと撫でしたのは、怠惰に完全に飲まれないようにするための、小さな抵抗だったのだろうか。
お守り――とすれば、やけに聞こえは良い。
ならば“本物の”つるぎである必要はない。
今や哨戒天狗は閑職みたいなものだ。
だから、こんなつまらないものでも、生活を支えるくだらなさのひとつなのだろう。
「退屈は妖怪をも殺すってこと」
自由の刑という言い回しを考えたやつが、世の中には居るらしい。
ほんとうの意味こそ知らないけれど、蓋し名言だなあ、と、椛は笑う。
自分の腕を枕代わりにしながら、屋根の上で器用に寝返りを打った。真白い髪の毛から突き出た犬の形(なり)をした耳をそばだてると、樹木から葉がちぎれ落ちる音が小さく聞こえる。その身の真下に在る庵の中から、ねずみが肉の切れ端をかじる音を感じもした。
ところどころに接ぎを当てた真っ白な童水干を着た男装の自分の姿は、やけに小さく、惨めだった。数里の山野をたやすく駆ける狼の健脚も、電線にほとばしるだろう電気の俊足には敵わない。未来に進み続ける時間の流れは、天狗ひとりを容赦なく踏み潰していく。そのことに、次第に慣れつつある自分が憎い。
久しく、人を斬ることをしていなかった。つるぎを持ち歩けば、鋼の重みが腕を軋ます。それを穢れの感覚と同じに見るよう、変化したのは世の中なのか、それとも自分だったのか。だから、というわけではなかったとしても、答えを出すことをためらいながら刀を錆びつかせるより他には何もできなかった。平和は毒を食むことだ。自分のような、いくさを旨とする連中にとっては。
しかし、それでもなお、彼女は忘失を怖れるように錆びた太刀を持ち歩く癖があった。それから、着物の直ぐ下に隠すように着込んだ鎧も、きっと同じようなものだった。
別段、人殺しを欲したがるような性分でもなかった。
けれど、“もしも”自分が人殺しを忘れてしまったとして、そんな『犬走椛』について考えることは、ぽっかりと空いた真っ暗闇の穴の中をぼうッと覗き込んでいるみたいなものである。意味のあるものは何ひとつ見つけ出せないのだ。それは怖ろしいことなのだ。戦うための天狗が、戦うことをしなくなってしまうのは。性(しょう)を忘れた妖怪の末路は。年老いた牝狼が化身した、獣の性分がそうさせるのだろうか。
人妖の約定やスペルカード・ルールが締結されてから、しばらく経つ。
幻想郷での直接の武力衝突を回避する決闘の作法。元よりの強力(ごうりき)と非力を問わず、作法にのっとってうつくしい弾幕をつくり出すやり方に沿えば、ありきたりの殺し合いに頼る余地もなくなる。平和な世は血のにおいを厭うから、きっと、それがちょうど良いやり方なのだというのは椛にも解る。
しかしそういうものがどこでも受け容れられたということは、いくさのために存在する防人は、いずれその役目を少しずつ奪われることなのだと思う。戦いだけに己が身を研ぎ澄ましてきた、愚直でもあり粗忽とも呼べるほどに防人らしい防人たちは。山の哨戒天狗は。たとえば、犬走椛は。
正面きってのいくさを、あるいは命の遣り取りを『ばかのやること』だとする気風が、天狗たちにも少しずつ満ち始めているのを、焦っていたわけでもない。
しかし産業革命の後にいつしか流れ始めた、哨戒天狗の大半を召し放ちにする用意があるだとか、そういう噂を根も葉もないと否定するだけの勇気もなかった。そんな面倒な約定や変化さえなければ、今ごろは哨戒の天狗として、人間とのいくさのことだけを考えていれば良かったのだろうかと、そう考えてみたことは一度や二度ではなかったけれど。
それは木っ端のような、足軽のひとりなりにか。
いつだったか、妖怪の山で催された電灯敷設の成功を祝う酒席で「おまえは、あまりにものを考えすぎるね」と、伊吹の鬼に言われたこともあった。椛よりもずっと身体の小さい彼女はその体格からは到底、想像もできないような“うわばみ”で、椛が遠慮しがちに、漸う、一杯の酒を飲み干す間、鬼のための朱塗りの大杯になみなみと注がれた酒――それとても、鬼以外が口にすれば瞬く間に気絶するような強い酒だ――を五、六杯も喉に容れていた。
その宴は夜のことだったが、新たな文化である電気文明の幻想郷での黎明を誇示するように、山のあちこちが色とりどりの電灯できらびやかに飾られていた。初めて間近に見る人工の光の明るさは、空の向こうから昼をむりやりさらってきたようだった。妖怪たちの歓喜をそのまま食んで、この光はどんどん勢威を増しているそら騒ぎ。そんな風の空想にとらわれた。
その下でひとり、ちびちびと酒とご馳走を突っつく自分。
幾つもの大皿小皿に整然と並べられた料理は、肉も魚も野菜も山菜も、いずれ隔てなく山海の珍味という言葉がそのまま当てはまる豪勢さ。どうやって海のものを用意したのかは知らないが、たかが足軽にまで振る舞われるなんて、宴を張った高位の天狗たちは相当の浮かれぶりだと見える。これで人間どもに対して優位に立てるのだと周りで密やかに交わされる言葉に気づかないでもなかったが、まつりごとの話は、どうせ自分には噛み合わない。
いま忙しいのは、鯛の尾頭付きとかいうやつを食べることの方なのだった。さて、そういう名前の海の魚を見るのも始めてなら、一匹まるまる頂戴できるなんてことは夢にも思わない。次は、あのウニとかいうのを食べてみよう――と箸を伸ばしたところに伊吹のねじれた角の影が近づいてきたのは「天魔が寄越した接待役の天狗は、あれぁ、どうにもダメだ。おべっかばっかりで逆に酒が不味くなるね」という言葉とともに。それから彼女は「用足しにかこつけて、抜け出した」と、こともなげに言った。
「これは、伊吹さま――!」
驚いて遠くを見ると、どの天狗も河童も神も、みな入り乱れて好き勝手に飲み、喰い、歌い、騒いでいる。ちょうど、大天狗が大杯で一気飲みを始めているのが見えた。伊吹が言う接待役の天狗とは誰を指しているのか、下賤の身である椛にはあずかり知らないことだったが、宴会好きで有名な伊吹に渋い顔をさせるというのだから、その天狗のやり方はよほどに下手くそだったと見える。しかし、それがまるで問題にならない程度には、誰も彼もが大騒ぎしているのだった。
椛の隣にどっかと腰を下ろし、大儀そうにあぐらをかく伊吹。
やれやれと、子供の姿に似合いもしない言葉を吐くところがやけに可笑しかった。
「酌」
「は、」
「お酌してってことだよ。飲み直そうかと思ってさ。誰だか知らんが見たところ、おまえさんは未だ若そうだ。くだらないおべっかにも、無縁そうな気がするからさ」
「申しわけございませぬ。気づきませんで」
「ん、解ったら。はいよ」
と、伊吹が椛に渡したのは、大天狗のよりもさらにひとまわりほど大きな杯だった。
「名前は」
「椛、と申します。それから大天狗さまより賜った姓を、犬走と」
「なるほど。犬走椛。きれいな名だね」
伊吹は椛に酌をさせながら、色々のことを訊いた。
酒のこと、境遇のこと、仕事のこと。
電気の使い方、守矢の神の評判、河童たちの怪しげな発明品。
それから、今はもう絶えて姿もなくなりかけた、いくさの思い出を。
椛のことを、白狼天狗と知ったゆえの問いだったのだろう。
われらのような防人は、華々しい語りとは無縁ですと、椛は答えた。
できるのはこの妖怪の山のいずこかに、小さな獣の惨めな骸をひとつ晒すことだけ。
ただ、いくさは私にとって、神を信ずるごとくに尊いものでした。
いずれいくさで死ぬことを、襲いかかる敵を討つことを考えればこそ、この身を切り売りして、自らの生きる時間を買い漁る余地もありましょうものを。
「いやかい? 今の世にいくさがなくなるのは」
「し遂げるべき仕事がなくなるのは、甚だ、寂しうございます。しかし、この椛ひとりが“いや”だと申しても、いちど動いたものは容易に覆りませぬ。ましてそれが多くの者たちの望むものであるのなら、なおさらのこと従うのが道理と心得ます。われわれ防人は、いわば抜き身のつるぎも同然。“それ”を使う者の心ひとつで、鞘に収まることや、いずれ錆び朽ち果ててしまうときをも覚悟しなければなりませぬから」
片手の杯を器用にもてあそび、もう一方の手指ではこりこりと頬を掻いて、
「いくさがなければないなりに、」
と、伊吹は言った。
「気楽に構えてみるが、良いだろうにね。いや、“構えて”なんてのも堅苦しいや。スペルカードかあ。当代の巫女と紫はよく考えたもんだ。とにかく、血なまぐさい遣り取りをせずに済むようになったってェのは良いことじゃないかね」
「誰もみな、そのようなことを申しましょう。人間を憎む道理は今やない。しかし、私には解らないのです。代わりに人を好く道理があったとして――そんなもののお膳立ては世の様相がいつの間にか整えてもくれるはず。では、私ひとりはいったい、今もなおいくさを好くべきか否か」
「おまえさん、人間は嫌いか? 憎んでいるか?」
「憎いと思えばこそ、私は生きて参りました。白狼天狗として」
「ふふん。どうだか。犬走よう。おまえが憎いのは人間じゃなくて、いくさがなくなることそのものだろう。おまえは、いくさより以外の何かを知らないからさ、私ぁ人間が嫌いなんだあッてツラをして、むりやりに自分を納得させようとしてるんだろう。だから、本当はいくさなんて好いてもいなけりゃ嫌ってもいない。自分が自分でなくなるのが怖いんだ。だから、いつまで経っても考えすぎる」
「私は頭が良くはございませぬ。伊吹さまのごとく、自らの力を頼みに世を渡っていくほどの才覚もございませぬ。なれば他人(ひと)より多く、ものを考えなければなりませぬ」
「私ァ、いくさの後に首実検しながら飲む酒も、こうしてばか話をしながら飲む酒も、どっちも大好きだけどなあ」
「あえて世辞も申しますまい。そのお言葉を素直に賜ることにも、一抹のためらいがございます」
「うゥふふ。はっきりと言いやがるねえ。怖いもの知らずの、ばかなやつ」
「大ばかです。私は」
「大ばかな犬ころだ。犬走め」
椛は、天狗という種族の多くがそうであるように、彼女自身もまた鬼という種族を苦手にしていたけれど、伊吹のこうした明朗なところは好きになれそうだと思った。だからこそ、嫌だと思った。あまりにもはっきりと、自分自身に向けた嘘を見抜かれた気がしたからだった。
それならば、自分は決してしあわせにはなれないだろうな、というのが彼女の確信だった。鬼は嘘を嫌うから、直截な伊吹の言葉は自分で自分を騙ることを気づかせた。今になってそう思う。しかし、何となく自分の生活をごまかすことに長けるようになってしまったのは、むしろ今の方なのである。なぜなら自分はこうして日向ぼっこをし、それを何とも思わない犬ころに成り下がってしまったのだから。好きでもない歌を聴いて、過ぎたいくさを懐かしむ犬ころに。
飼い主に使われるのが犬の役目なら、自分は何のために戦ってきたのだろうな。
――と考えて、ごまかしにもまるで足りないほど、何の理由も思い浮かばないことに溜め息を吐いた。忠義に篤くはあろうと心得て生きてきた。山に積もる塵の一片に、われとわが屍骸を変える覚悟もしていたはずだ。手の中に握るつるぎがそうであるように、いくさのために営々と研いできたそれらの心が、一片にふいになった。太平に人心は呆けると申せ、時の流れとともにそこにしっかりと組み込まれている自分が居る。起伏のない平穏さに理由は要らない。なれど、否も応もない刺激に富んだいくさの世の中にも、椛にその中を歩かせる理由といって、特に見当たるものではない。
(どんなにうつくしい大儀や志を掲げても、いくさは最後に人を殺すけれど)
何よりも単純な真理だった。
だが、その単純な現実の中でなければ、椛は息もできなかった。
椛はいくさから弾き出され、いくさは幻想郷から弾き出され、では幻想郷から弾き出されたものは、いったいどこに向かえば良いというのだろう。その身も魂も留めたまま、代えがたい何かを、さらに大きな大義のために弾き出された椛は?
とどのつまり、そのうちに犬走椛は殺されてしまうのかもしれない。
何に? と問われれば、「退屈に」と答えるだけの用意は、すでにある。
し遂げるべきことのない妖怪は――きっと、錯乱しているのと同じのはずだ。
とろとろと閉じられようとしていく彼女の眼には、南天に差しかかろうとする真昼の太陽も単なるがらくたにしか見えなかった。千里も先を見通す眼を持っているとは言え、いったいこのくだらない空の向こうに何があるのかも知らないのだ。そこに何か、もっとましな生き方を与えてくれるものがあったとして、今や自分にはたどりつこうとする気力もない。
ちっ! と、舌を打ちながら目蓋を閉じかけると――――不意に、鴉の鳴き声が椛の耳を打った。がばと跳ね起きて眼を凝らす。遠く遠くの空、一羽の若い鴉が人里の方角から、ちょうど天狗の領地まで帰って来たところだった。
かあ……かァかァ……かあかあ!
低く、高く高く、低く。
この鳴き方は符牒だ。天狗たちの。
山の外に間者として放たれた鴉たちは、帰って来るとその鳴き方によって状況を報告する。その内容如何によっては、直ぐさま天狗の軍勢が動きだすこともできる……というのだが、実際にそうなったことは椛が憶えている限り、ここ数十年ほど絶えて無かった。現に、さっきの鳴き方も“異状なし”を伝えるためのものだ。
椛はがくり、頭を垂れた。
それからすっかり寝癖のついてしまった白い髪の毛に指を差し入れ、ぐしゃぐしゃと掻き回すのだった。その姿は、何だか少女というよりは少年に似通っていた。
小さないたずら心が起こったのは、その直ぐ後のことだった。
「射落としたら、どうかな」
われ知らず口を吐いて出たのが単なる冗談でないことに、彼女自身がいちばんに驚いた。“それ”を実行に移すとすれば、もはやいたずらで済まないばかりか天狗勢力への叛意ありと見なされて首と胴が離れるかもしれない。あまつさえ居もしない敵が天狗に戦いをしかけたと誤解が生まれ、妖怪の山に無用の騒乱を引き起こすことになるかもしれない。さっきの鴉は、何か面白いことでもないだろうかという風に大きく旋回し、自分のねぐらがあるのだろう鴉天狗たちの領地に向かって方角を変えた。やるなら、未だ相手の姿が見える今のうちだ。あの鴉を射落とすには。たちの悪い暇つぶしをするには。
そうと決めると、後に必要なのは獣の直情さしかない。
着物が破けないように気を払いつつ屋根から滑り降りると、大急ぎで庵の中に転がり込み、日の当らない奥の奥で蜘蛛の巣を被っていた弓と矢を見つけ出した。河童の手になる逸品である弓は、しばらくの間まるで触っていなかったとは思えないくらい、椛の手にはよく馴染んだ。ぴんと張った弦が切れそうな気配もない。壁に立てかけてあった箙(えびら)から取り出した弓には、人の骨から削り出した鏃(やじり)が突き出している。このふたつを手にとって彼女は外に出た。あともう直ぐで鴉は視界から外れてしまいそうだったが、椛の千里眼にその真っ黒い鳥の姿は、映えていると言っても良いくらいにはっきりと見えた。今だけは、胸糞の悪い青空でさえ、うつくしいものだと考えることができた。
椛は、心底から愉しかった。
ゆっくり、弓に矢をつがえ、ぎりと弦を引き絞る。
鏃の先が細かに震え、それが鴉の羽の、ある一枚の付け根と一致した瞬間、椛はついに矢を放った。光芒もなく音もなく、大気を突き刺す矮小な殺意がゆるやかな稜線を描きながら、空に向けて進んでいく。しかし、
「くそ、ッ」
と、吐き捨てた。あっけなく狙いが外れてしまったのだ。
空中で微かに風を受けた彼女の矢は、鴉の尾羽をもう直ぐかするかというところでふらふらと揺れ動き、急速に方向を狂わせ始めた。相手の鴉は気づきもしていないらしく、なおも退屈げに視線をさまよわせながら目的地へ向けて降下していく。次第にその影を小さくしていく矢は、ついにははるか遠くの樹々の向こう側に没してしまった。確か、あの辺りは川のはずだった。
椛は、ごくちっぽけな自分の抵抗でさえ、つまらない失敗のせいで成し遂げられないことを忌々しく思った。しかし、もういちど矢を射ってみようとは考えない。
自分が弓を大の苦手にしていることを、彼女はようやく思い出したからだ。
――――――
『アウトサイダー・ルール』第二部
「偏屈さ、悪魔は」
「悪魔?」
「そう。悪魔」
なるほど、悪魔なら合点が行く。
それなら、祭壇の上に平気で腰かけて歌い、何かよく解らない言葉で事態を収拾……というよりはむりやり丸めこもうとしているのも納得だ。けれど、どうしてこんなにもあっさりと、『悪魔』という物言いだけを呑みこもうとしているのか、アンジュは一瞬、自分自身のことをばかなんじゃないかと思った。だが、根拠あるばかでもある。村の老人やら昔の司祭さま方はよく言っていた。悪魔はあらゆる言葉と口説をもって人間を誘惑し、堕落させようとするんだと。
年老いてから急速に痴呆を患ったジャンヌ婆さんは、特にそういうことを熱心に説くタイプの人だった。日曜ごとのお祈りの際、聖堂に集まったアンジュたち村の子供らに、悪魔がいかに怖ろしい存在であるかというのをくり返し、くり返し、語っていた。耄碌しながらも信仰の熱心さゆえに飛躍と誇張と堂々巡りで彩られた幾つかの逸話は、小さな村の中にあって、子供たちのための数少ない娯楽とも言えた。悪魔に憑かれた豚の群れが池に飛び込む話。今は十字架上のシンボルとなっている聖人が未だ地上に居たころ、人に害なす悪魔を追い払ったという話。悪魔を閉じ込めて「バスク語を学ばせるぞ!」と脅したら泣いて謝った話。挙句の果てにはものが腐るのや疫病が流行るのや、戦争やファシストの独裁まで悪魔の仕業にされていた。その日曜の帰り道、母に手を引かれて家路を行くアンジュに、母はこう声をかけたのを今でも未だ憶えている。「アンジュ。あのお婆さんを嫌わないであげてね。ジャンヌ婆さんは、前の戦争で息子さんを亡くしてるの。クリスマス前には戦争が終わって帰って来れると言って列車に乗ったけれど、イープルの戦場で毒ガスを吸って……」。ジャンヌ婆さんが耄碌したのは、それからのことだったという。アンジュの眼には、もう彼女は八十歳を超えたように見えていた。だというのに、実際には未だ五十五、六歳でしかないのだと、そう母は言った。
悪魔の仕事とは――人間を誘惑しながら鉄砲を撃って、ジャンヌ婆さんの孫を死なせることである。ついでに、食べ残しのまま放置していたパンにカビを生やすことでもある。色々な話がごっちゃになって、アンジュの記憶は直ぐにはまともな像を結んでくれなかった。けれど、『悪魔』という存在が人間の生活全般にとっては、交通事故やら落馬事故くらいには気をつけるべきものだというのは、何となしに解っていたつもりだった。だが、やっぱり有効な会話というか、反論を口にすることはできない。実際に悪魔に出くわしたときの対処法は、戦時に備えて国民に配布された生活マニュアルにだって載っていなかった。甘言をもって戦争に反対しようと誘惑するような者は、敵と共謀した裏切り者、あるいはスパイや工作員の疑いがあるから警戒しろ。そういうことなら幾つか書いてあったのだけど。
「おっと、何を考えているのか知らないが。たぶん私はおまえが思ってるほど悪辣じゃないさ」
誓って、そんなことはしない。
とでも言うように、少女は胸に手を当ててはっきりと言った。
黒外套の表面が小さく波打ち、埃が震える。
「自分から悪魔だという言う人が?」
「むしろ、はっきりと名乗らない方が怪しいだろう。これでも悪魔は信用やら信義ってものを重んじる生き物だからね。氏素性を明かさないことが役に立つのは、むしろ人間たちがよくやる詐欺師稼業だろうに」
「信用? って、保険会社みたいに?」
「まあ、そういうことにしておいても構わないが、」
アンジュの喩えに、今度は少女の方が面食らった仕草を見せた。
「勘違いしなさんな。私たちはな――それは悪魔に限った話じゃないが――、人間たちのために居る。おまえたちが居るところ、すなわち私たちの巣だ。元をたどって考えるなら、すべての幻想は歩き、呼吸し、語ることをするひとつの『疫病』さ。空気も水も動物も介することはない。だが、人間の持つ眼や耳や肌や、明確に存在すると証されたわけではないあらゆる感覚を介して、“私たち”は人々の精神を冒すもの。ペストの災いのように。だが、ペスト以上に深刻な根源の恐怖として」
「……悪い人、もしかして」
「証拠が必要かね。なら、いま直ぐおまえの心臓を抉り出そうか。ちょうど祭壇を後ろにしてるんだ、古代の神がそれを欲したように、在りもしない淫祀邪教をこの場ででっちあげて見せようか。聖性はときに残酷さをご所望だ。牛も豚も居ないようだが、捧げ奉るべき生贄は女の子ひとりと雌鶏の卵、おお、十分すぎるな。こっちまで腹が減ってきた」
本当に「ぐう」と腹の音を響かせる少女。
思わず、後ずさりをした。
露悪的で滑稽な物言いだが、完全な嘘偽りを並べているようにも思えない。
籠を掴む手のひらに、汗が滲んだ。
「何を怖れる。努めを果たしているだけなのさ。人間があれこれと理由をつけて、同じ人間を殺さなければならないよりは、はるかに理に適ってる。戦争が倫理を転倒させるなら、幻想は転倒した倫理そのものさ。私たちは人間の持つ恐怖の側面から生まれ、そして恐怖の側面を担う。倒すべき敵、征服すべき自然。畏敬すべき神さま。結構なことで。大いに怖れるが良い。その心こそわれわれの産まれ出た胎、夢を見た褥、そして還るべき棺桶なんだから」
誘惑……ではないのだろう。
彼女の言葉は、怖ろしげだがあからさまな弁解の色をも伴っていた。
いったい何に対して罪悪感を抱いている様子とてないのだけれど、ただ自分が何であるかということを理解しようとしない愚か者を、どうにかして説得しようと試みている。そんな風の気色を感じる。いや、むしろそんなものしか見えやしない。動揺のさなかで、後ずさった足を再び少女の方へと向けた。何かを訊きたいとアンジュは思ったが、訊くべき何ものをも自分は持っていないことに気がつかざるを得なかった。直ぐに思いついたのは――たとえば、出身地とか、好きな食べ物とか。学校には行ってるのかしら。ラテン語とか話せたりする? 算数なんて得意? 私は七の倍数を計算するのが苦手で……いや、そういうのは友達に訊くものであって、ジャンヌ婆さん曰く「地獄の釜からやって来る怖ろしい生き物」である悪魔に対して訊くような話じゃない。理性だとか常識だとか、そういうはっきりとした形ではないが、彼女の存在はあまりにも突拍子がなく、ひどく唐突で、並はずれて友好的すぎた。
「あなた、人殺しに来たの」
「いいや」
「じゃあ、私を“堕落”させに来たの。悪魔は、いつだって人間の肉体や魂をつけ狙っているってよく聞くわ」
「おまえは、道端に転がっている石ころや砂粒のすべてに、次から次へと哲学的な来歴をこじつけずにはいられないタイプの人間か? そういう仕事は、何の実にもならない思想をうんうん唸ってひねくり回してる学者どもにでも任せとけば良い。いけないかね。悪魔が聖堂で歌をうたってちゃ。意味のない遊びに興じてたら?」
やれやれといった調子で、少女は肩をすくめて見せた。
手酷くばかにされたように思って、アンジュは少しむっとする。
「それは……」と反論しかけた瞬間、遮るようにして少女が再び言葉を継いだ。
さっきまでと同じく雄弁だが、声のトーンは沈み込んでいた。
「ただ、ちょっとな。間借りさせてもらうには、時代のパラダイムってやつは窮屈なんだよ。今はどこに行ってもいくさばかり。悪魔が害悪を撒き散らす必要もないくらい、勝手に人死にが増えていく。人間も偉くなったものだよ。今や鉄の翼持つ機械で空を飛びながら戦うんだ。神さまなんか怖れないが、誰かが井戸に毒を入れたせいでペストが流行ったと思い込んで、群衆がユダヤ人をいじめ抜くことの方がよっぽど怖ろしい。連中、何でもかんでも自分たちの手で解決できると思い込んでいやがる」
今度は卵の代わりに散乱していた小石大の瓦礫のひとつを拾い上げ、少女は再び手の中でもてあそび始めた。指先で表面をなぞったりして、また宙に放り投げて受け取めるのかと思うと、今度はくるりと祭壇の方に向き直り、思いきり勢いをつけて投げ捨ててしまった。急な早業にアンジュが眼を向くと、思わず籠から再び卵を取り落してしまった。殻が潰れて中身が漏れ出る音がする。少女が投げ捨てた瓦礫は、祭壇の上に残っていた銀色の燭台に命中し、燭台はガラガラという軽々しい音を立てて地面に落下していった。
「好きに歌をうたうこともできやしないぜ。せいぜい――こういう廃れた聖堂でないと」
「聖堂には、」
「うん?」
「神さまが住んでいるはずだけど」
「話、聞いてなかった? 私は神さまなんか怖くない」
そう言うと、少女はアンジュのかたわらに倒れ込んだままになっている聖人像のところにしゃがみ込んだ。木製の像に着色したもので、近くでよく見るとけっこう粗い感じの色彩をしていた。全体の大きさは、子供の背丈より少し大きいほどもあるだろうか。少なくとも、アンジュが背伸びをしても届かない程度には大きいように思えた。肋骨の浮き出た痩せ細った身体、華奢な両脚の付け根を隠す粗末な腰布。脇腹には槍で突かれた跡だという傷が彫り刻まれ、磔のために釘が打ち込まれた手のひらには流血の滲みを再現したつもりらしい仄赤いグラデーションが広がっている。ふさふさとした髭をたくわえているので頬までは見えないが、きっとこけているのだと思う。苦悩を見尽くしたのだろう両眼は落ちくぼみ、目蓋の端に刻まれた深い皺と相まって、いかにも憐れみを誘っているという感じ。そして額に喰い込む、茨の冠。『痛々しい』をそっくり模造した――アンジュにとっては、見慣れた姿。それが仰向けになって、崩れかかった廃聖堂の天井を見つめ続けている。砂利と埃を被りっぱなしで、それでもなお憐れみを乞うている。
「神さまなんぞ、こうして横たわってるだけじゃないか。なぜ、地上でうごめく人間たちを助けてやらない? ……そのために信仰が必要だと言うのなら、意外と神さまってのは酷薄だ。常に見返りを求め続ける」
「それは――、彼は磔になったことで罪を引き受けているからで、つまり、私たち人間のご先祖さまが、アダムとイヴが神さまの言いつけを破って、木の実を食べてしまったことの……」
「涙ぐましい話だな。どんな苦しみも試練だと思えるのなら、たとえば誰かが死んだときにはかなしむべきじゃなく、大喜びすべきじゃないかね? 死者は神さまのお膝元に旅立ったのかも知れず、離別の苦しみに耐えることでさらなる救済が得られるのかも知れず」
アンジュは、未だ詭弁という言葉を知らなかった。
だから、眼の前の少女があれこれと理屈をつけて否定を行って見せるのを、ただ黙って聞いていることしかできなかった。「それは違う」と言ってしまうことは簡単だ。簡単だけれど、敗北そのものでもある。必要な言葉を用いずに否定だけくり返すのは、無理やりに相手を征そうとしていたずらに刃物を振り回すこととまるで変わらない。そのことに、詭弁の二文字を知らないながらもどうにか気づいてはいた。屁理屈、とか、こじつけ、というさらに最適な言葉は、とっさには思いつけなかった。
「ただ、」
と、急に少女は像に手を伸ばした。
アンジュでさえもそうしなかったような、愛おしげな手つきをしていた。
形而上の――という表現は、アンジュの思考を言い表すにはあまり最適でなかったかもしれないが、神さまがもたらす救いという何ものかは地上に実現されるべきものでなく、どこか遠く、宇宙のかなたか雲の向こうか、ともかくも肉体が生きている間にはたどり着くことのできない、魂の領域だという認識。それを人間は求めるものらしいというのをアンジュは教わっていた。けれど、少女はそうではない。彼女は聖者の偶像を仲介のための装置としてどこか遠くの神さまを思うのでなく、偶像そのもの、世界をつくり出す構造物そのものを愛でる風に見えた。しゃがみ込み、わずかに笑んで、聖者像に供えられた茨の冠のさらに上――少し前、アンジュが編んで被せてやった花冠に指先で触れた。花は、まだかろうじて、といったところで萎れ切らずに、元の色を留めたままでいる。
「たぶん、」
「どうしたの?」
「この花冠は、きれいだったはずだ。もう私には見ることができないのだけど。死人の運命をたぐり寄せることほど虚しい試みもない」
「ひとりごとが多い子……だって茨の冠は、とげとげしていてかわいそうだもの。だから私がつくったの」
「おまえは優しい子。もしかして、神さまはお嫌い?」
「あなたほどじゃない」
「そうだな。“あいつ”は偉そうに構えてるわりには実体がない。何にもしない」
はっきりとした返答は避けたが、アンジュの言葉の意味を解した少女は腹を抱えて大笑いを始める。眼に涙を浮かべ、身体を『L』の字に近く曲がりそうなほど。ひびが入り、所々が崩れ落ちて風穴の空いた廃聖堂の真ん中で、軽はずみに大声を上げるのは、未だぎりぎりで建物としての形を保っている部分まで一気に“ぶっ壊して”しまうんじゃないかとアンジュは不安になった。寺男のアルベールが、毎日、朝夕に尖塔の鐘を鳴らしても崩れ落ちなかったくらいだから、見た目よりは頑丈なのかもしれないが。しかし、建材のひとつひとつに沈黙ということを織り込んでつくってあるかのように静謐としていた聖堂の中で、こんな風に好き勝手に大声を上げて笑う人を見るのは初めてだった。アンジュも少女に釣られてぎこちなく笑う。が、直ぐにその微笑も萎んで怪訝な顔つきになっていった。
「あなたが本当に悪魔だと言うのなら、」
詰問のような、きつい口調でそう問うた。
(死んだ人を、生き返らせることができる?)
- 作品情報
- 作品集:
- 1
- 投稿日時:
- 2012/04/01 00:51:49
- 更新日時:
- 2012/04/01 00:51:49
- 評価:
- 2/3
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