「わ……凄く綺麗」
彼女は、軽いステップで緑の絨毯を舞う。
「ええ。来た甲斐がありました」
開いた距離を意識して、私も歩を早めた。
「……もう、違うでしょう?」
長く美しい髪を靡かせ、振り向いた彼女の表情は何処か悪戯気で――
「え……?」
――私の胸は、また、大きく鳴った。
「『貴女の方が綺麗です』って言う所ではなくて、星?」
「や、聖。ナズじゃあるまいし」
「ふふ、そうね」
冗談よと続けて微笑む聖に、だけど、想う――貴女の方が綺麗です、と。
命蓮寺の建立から暫く経ったある日。
私は聖を誘い、幻想郷でも有数の観光地である霧の湖へとやってきた。
至る経緯は果てしなく長く、辛く険しい道のりだった事を此処に記す。
尊き仲間たちの支援と犠牲があったからこそ、私は聖を誘えたのだ。
『態度はさりげなく、言葉は簡単に!』
『いい天気だねぇセンチョ。ちょめちょめしよう』
『ですねぇ、一輪。いいですよってえぇぇぇ!?』
『以上、正体不明でお送りしました。あ、なんか卑猥』
『巨大ロボが! 巨大ロボが此方に向かってきているよ!?』
『行くよ、雲山! この船は、皆は、私たちが守る!』
『一輪……! 聖、星、貴女たちはこの隙に!』
『こっちには私のジャマーがあるんだから!』
『くくく……ふふふ、はぁーはっはっ! 塵一つ残しませんっ!!』
『早く! 行ってください、姐さん!』
『速く! なぁに、ご主人、私らはそう簡単にやられはしないさ』
『疾く! あの時は邪魔しちゃったから……その借りを、今、返す!』
『聖、星。
キャプテンムラサが命じます。
早く、速く、疾く、行きなさい!
皆、散ってください、主砲を使います!
――聖輦船、モードチェンジ! トランスフォーメーション!』
そんな感じ。一部脚色。
「んー、やっぱり皆も連れて来るべきだったかしら」
「早苗さんが乗ってきた巨大ロボに夢中でしたし」
「それもそうね」
どさくさと言えばどさくさだが、勢いに任せて私は聖を誘いだせたのだ。
彼女の背を押し離れながら振り返ると、皆が皆、親指を立てていた。
誰もが皆、良い笑顔。
ちくしょう覚えていやがれありがとう。
「でも、星、貴女、こんな素敵なところをよく知っていたわね?」
聖の声に我に返る。
「あ、いえ。
ナズが教えてくれたんですよ。
あの子、探し物で色々飛び回っていましたから」
飛倉とか。
「貴女の宝塔とか?」
そうそう、私の宝塔とか。
「……ってなんで知ってるんですか!?」
「魔法僧正ひじりんに知らない事なんてないのよ!」
「その手の呼称は止めなさいと言うに」
「じゃあ、魔法少女ひじりんで手を打ちましょう!」
「いえ、そちらではなく。……しょうじょ?」
頬を膨らませる聖。容姿とあいまって、その、とても可愛い。
「……なんてね」
舌を出す聖。どうしよう、とても凄く可愛い。
「星?」
「あ、はい」
「酷いわね、そんなにショックだったの?」
そう言う訳では――紡ごうとした言葉は、発音できなかった。
「冗談。あぁ、風も気持ちいいわ」
呟き、駆け出す聖が、私には余りにも眩しすぎたからだ。
「あ……聖、急に走ると!」
翻る黒い法衣。
靡く白いスカート。
のぞくスカートと同色の下、え?
「き――」
っ!
両足に力を込め跳ね、
草に足をとられた聖の肩を掴み、
直立するのを諦めた私は衝撃を自身で受け止めるため、下になった。
「――ゃ……?」
遅れて短い悲鳴が耳に入る。
近すぎて、また胸が鳴った。
両足に、聖の体重。
失礼な話だが少し重く感じた。
……同時に、胸へと嬉しさがこみ上げる。
聖は確かに、此処にいる。
「だから……言わんこっちゃない」
振り向く聖に、私はどうにかそんな悪態をつく。
彼女は視線を合わせる癖がある。
それ故、今は微かに見上げられていた。
聖も寺の面子の中では背の高い方だが、私ほどではない。
「聞こえなかったわ」
開く口がどうにも艶かしく思えてしまい、目を逸らす。
「……星?」
「抹香の匂いが」
「貴女もでしょうが」
少し機嫌を損ねたような響きに、それもそうだと微苦笑しながら頷く。
「でしょう?」
返答に満足したのか、聖は顔を戻し、前を見つめた。
彼女はそのまま両の手を地面へとつけ、小さく伸びをする。
さらりとした感触が左頬を撫で、ふわりとした感触が右頬を擽った。
どうやら、足の上がお気に召したようだ。
私も、前を眺める。
草は力強く生え、木々も逞しく聳え、花が可憐に咲いている。
それら全ての先にある湖は、透き通るような色合いで、そう、綺麗だ。
「あぁ、天気はいいし、空気も美味しい」
尤も、そう感じるのは……。
「それに、本当に綺麗」
聖の細い両肩に手を置く。
「そう思います。だけど……」
「ん? 何か不満でも?」
「まさか」
振り向いた聖に、私は口を開いた。
「だけど、ねぇ、聖。
この風景をそう私が思えるのは、貴女がいるからです。
貴女が今、傍にいてくれるから、私は此処を綺麗だと感じられるんです」
春、桜の美しさも。
夏、太陽の輝きも。
秋、木枯らしの切なさも。
冬、雪の煌きも。
「全て、色あせていました。
けれど、貴女が傍にいてくれるなら、同じ風景を感じられます。
いえ、少なくとも今は、貴女よりも美しいものを、この双眸に映せています。
湖、花、木、草――そして、私の目には、聖、貴女が映っているんですから」
聖には癖がある。
視線を合わせる癖だ。
つまり、私は彼女の瞳を見つめながら、そう言った。
「星……」
紡がれる、私の名前。
続くかと思った言葉は途切れた。
のみならず、その瞳までもが閉じられる。
「……聖?」
彼女は、だから、唇を閉じ、私の前にいて。
えっと、つまり、その。
……口吸い?
【口吸い】:接吻という単語ができるまでの間、日本で使われていた、所謂口と口のコミュニケーション名。有体に言うと、キス。
おおおお落ち着いて寅丸星、貴女はできる子よ!?
初心なねんねじゃあるまいし、せっぷんの、の。
聖ときす……って、きゃー!?
「……もう。時間切れよ、星」
え?
「じかんぎれ?」
「ええ、時間切れ」
「マイッガァ!?」
頭を両手で抱えて叫ぶ私の耳に、聖の愉快気な笑い声が響いて消えた。
……けれど、あぁ。
私は、心の何処かで安堵の息をついている。
その単語を聴いただけで取り乱したのだ。
実行に移すなんて大それた事、できやしないだろう。
結果、行為を果たせず聖を傷つけるかもしれない。
だとすれば、早々に切り上げてもらえたのは幸運と思うべきか。
こつん――と、小さな音。
手を頭から離し、私は視線を戻した。
ほぼ零距離に、聖の瞳。
胸が鳴る。
「ひ、じり……?」
「口は、早いかしら」
「え、あ、その……あぅ」
思いもよらぬ追撃に、意味のある言葉を返せない。
うろたえる様子に、聖が小さく笑んだ。
冗談よ――そんな笑い方。
三度目の‘冗談‘……本当にそうなのだろうか。
「ねぇ、星」
小さく囁き、聖は、両手で自身の前髪をかきわけた。
「額なら、どう?」
「部位の問題では」
「違うの?」
響きは、何処かねだるように聞こえて。
だけど、本当は促していて。
あぁ、そう、そうですよ。
「……額、ならば」
飲み込んだ唾の音が、自身の声よりも大きく聞こえる。
「じゃあ」
それよりも耳を支配する、優しい響き。
「はい」
手に手を重ねて――
「知っていて、星?
いいえ、貴女は知らないんでしょうね。
知っているなら、こんなにも躊躇しないでしょうから。
額への口付けはね、可愛らしいものなの。そう――」
「――‘でこちゅう‘と呼ぶんでしょう?」
――私は、口を閉じた』
ぺらり。
『でこちゅうしたい。
あぁぁでこちゅうしたいっ。
したいしたいしたい、したいったらしたいよぉ!
ふわさらの髪を持ち上げてちゅって、ちゅって、あぁんもぉ!
聖はきっとくすぐったそうに笑ってあぁそんな顔された私は……私はっ!
それでもって「しょ、う……」なんてちょっと舌足らずに名前呼ばれちゃったりして!?
あぁんもぉあぁぁぁんもぉぉぉぉぉ!
聖にでこちゅうしたいよぉぉぉぉぉ!!』
ぱたん。
私は、本を……いや、ノートを閉じた。
先に断っておくが、閉じたのは一連の文章が終わっているからだ。
自発的にそうしたのであって、決して、それ以外の要因からではない。
つまり、背に浴びせられる莫大な妖気は、私――ナズーリンの行動とは関係がない。
ノートを元あった場所、机の上に戻そうかと一瞬悩み、結局手に持ったまま、振り向く。
「やぁ、ご主人様」
呼びかけた我が主人――寅丸星様は、長年仕える私にして余り見覚えのない表情をしていた。
「こんにちは、ナズーリン」
感情を押し殺した声。
ぼやけた、焦点の合っていない瞳。
妖力で形作った独鈷杵も向けられている。
「そして、さようなら、ナズーリン」
けれど、寸分も臆せず視線を合わせ、私は言った。
「霧の湖の描写ですけどね、間違えてますよ、ご主人。あそこ、昼間は名前通りですから」
「だって私行った事ない……って他に言う事があるんじゃないでしょうか!?」
「これは流石に私でもどうかと思います」
指示のとおりに率直な感想を伝えると、主人は勢いよく仰け反った。
「しかも、ご自分の筆記にもかかわらずキスがダメって。
どれだけ乙女ですか。
ご自重ください」
誤解される事が多いのであらかじめ言っておくと、私は主人を尊敬している。
部下という立場においても、一個の妖怪としても。
彼女は強く賢く美しい。
いささか特定の感情に振り回されがちだと思わないでもないが、なに、ご愛嬌だろう。
「――じゃなくてっ! もっとこう、謝罪とかあるじゃないですか!」
両手を丸め拳を作った反動で戻ってくる主人。
顔は、頬も耳も赤く染まっている。
先ほどと変わらず、だ。
態度をそのままに、私は返す。
「そうは言いますがね。
此処がご主人様の自室ならば謝りましょう。
ですが、この部屋は居間です。団欒の場、皆が集う場所。
そんなところにぽつねんとノートが一冊ですよ。
……普通、見ませんか?」
呻き声をあげ、主人は怯んだ。
「わ、私はちゃんと自室で書いていました!
それが忽然となくなっていたんです!
ナズ、貴女が持ち出したのでは!?」
主人は眼光を鋭くし、私を睨む。
若干涙目ゆえ、全然怖くない。
むしろ可愛い。
……こほん。
動揺されているようだ。
私が彼女に対して不利益になる事をすると思っているのだろうか。
宴会での些事ならともかく、こんな子供染みた悪戯をする訳がない。
そんな私の思いを知らぬ主人ではないのだ――動揺という他、あり得ないだろう。
……そして、犯人の目星もついた。
さて、どうするか。
一つ唸って覚悟を決めた。
有耶無耶にしてしまうのが手っ取り早い。
「ご主人様。
犯人は私じゃない。
今それを、証明してみせましょう」
未だ腰をかがめて視線を合わせてくる主人に、私はノートを開き、読み上げた。
「『私にでこちゅうしたい、まで読んだ』」
「全文じゃないですかそれ!?」
「『私はセンチョにしたいなぁ、ちゅっちゅって』」
「一輪、直接言いましょうよ!」
「『ちゅっちゅっ、は駄目です。ちゅ、なら。だって、私も、その』
「なんて羨ましい! じゃない!?」
「『心情及び動作を主としているため、風景が分かりづらい。
その心情においても至る過程が書かれていなく、物足りないものがある。
ただ、最後の行為は破壊力がある。結局、これをどう思うか次第であろう』」
「妄想に冷静な指摘はいりませんよ、うんざぁぁぁんっ!!」
両手をあげて吠える主人。
含めたフェイクは一つ。
すかさず、撃ち込む。
もう一つのフェイクを。
「『えっと。その、ごめん』バイ」
「ぬえ、ですか」
かすれた呟きに、私は頷いた。
この命蓮寺でその手の悪戯をするのは、確実に彼女だ。
振り上げた拳のやり場がない――主人はそんな表情をしていた。
握る独鈷杵に込められた‘力‘も、急速に弱まってきている。
この程度の悪戯、謝罪があれば罰を与える訳にもいかないのだろう。
……こういうヒトなのだ。主人は。
「と言う訳で、私が犯人ではないんですよ、ご主人」
ノートを閉じる私に、主人は首を縦に振る。
誤解は晴れた。
犯人の罪も許された。
さぁ、後は、主人の拳のやり場と証拠隠滅だ。
一旦目を伏せ気を入れなおし、再度主人に向き合う。
「それにしても……でこちゅう」
「な、なんですかいいじゃないですか!?」
「どうとも言っていません」
言葉を繰りつつ、そろりと手を伸ばす。
「知っていますか、ご主人様」
「何をです……って、ナズ?」
「額へのキスは、友情表現らしいですよ」
華奢な両肩を掴むと、主人は不可思議そうに私の名を呼んだ。
そう、不可思議そうにだ。
この先の展開が読めないのだろうか。
あぁ……読めないのだろう。
自身へと向けられる絶対の信頼に、微かに表情が歪んだ。
「ねぇ、あの、ナズ……?」
本来ならば手にするべきだが――。
つま先を伸ばし、主人の額に狙いをつける。
少し癖のある金色の髪がくすぐったい。
思いつつ。
私は、口を開いた。
「っぢゅぅー!」
「いっだぁぁぁ!?」
わりかし強めに歯を突き立てるワタクシ。
「これぞ‘でこにチュウ‘ってやかましいわ!?」
「おや、一人ボケ突込みですか、ご主人様」
「ナァァァズゥゥゥ!」
独鈷杵を振り上げる主人。
「あぁ、そう言えば。
さっきの、皆からの感想。
聖様のは嘘ですよ。あの方は、読んじゃいません」
そう、それでいいんだよ、ご主人様。
「そう、ですか。で、今の行為について、何か言いたい事はありますか?」
「今夜の晩御飯はチーズ乗せチーズがいいな」
「あぃわかりました!」
穂先に眩しい光が集まり――
「ありがとう、ナズ――法力‘至宝の独鈷杵‘!!」
――絶対正義の弾幕が放たれた。
空が青い。今日は天気がいいようだ。
……やれやれ、ばれてしまっていたか。
彼女に対して、私が子供染みた悪戯などするわけがない。
だから、あれは、やり場のない怒りを向けさせる為の行為。
概ね、上手くいったようだ――煌めく弾幕にノートもろとも貫かれ、空へと放り出された私は、自身の仕事に満足の笑みを浮かべた。
ふむ。
雷に象られた私。
デコレートされた鼠。
――つまり、これもまさしく‘デコチュウ‘なり。あっはっは。ちゅう。
<幕>
彼女は、軽いステップで緑の絨毯を舞う。
「ええ。来た甲斐がありました」
開いた距離を意識して、私も歩を早めた。
「……もう、違うでしょう?」
長く美しい髪を靡かせ、振り向いた彼女の表情は何処か悪戯気で――
「え……?」
――私の胸は、また、大きく鳴った。
「『貴女の方が綺麗です』って言う所ではなくて、星?」
「や、聖。ナズじゃあるまいし」
「ふふ、そうね」
冗談よと続けて微笑む聖に、だけど、想う――貴女の方が綺麗です、と。
命蓮寺の建立から暫く経ったある日。
私は聖を誘い、幻想郷でも有数の観光地である霧の湖へとやってきた。
至る経緯は果てしなく長く、辛く険しい道のりだった事を此処に記す。
尊き仲間たちの支援と犠牲があったからこそ、私は聖を誘えたのだ。
『態度はさりげなく、言葉は簡単に!』
『いい天気だねぇセンチョ。ちょめちょめしよう』
『ですねぇ、一輪。いいですよってえぇぇぇ!?』
『以上、正体不明でお送りしました。あ、なんか卑猥』
『巨大ロボが! 巨大ロボが此方に向かってきているよ!?』
『行くよ、雲山! この船は、皆は、私たちが守る!』
『一輪……! 聖、星、貴女たちはこの隙に!』
『こっちには私のジャマーがあるんだから!』
『くくく……ふふふ、はぁーはっはっ! 塵一つ残しませんっ!!』
『早く! 行ってください、姐さん!』
『速く! なぁに、ご主人、私らはそう簡単にやられはしないさ』
『疾く! あの時は邪魔しちゃったから……その借りを、今、返す!』
『聖、星。
キャプテンムラサが命じます。
早く、速く、疾く、行きなさい!
皆、散ってください、主砲を使います!
――聖輦船、モードチェンジ! トランスフォーメーション!』
そんな感じ。一部脚色。
「んー、やっぱり皆も連れて来るべきだったかしら」
「早苗さんが乗ってきた巨大ロボに夢中でしたし」
「それもそうね」
どさくさと言えばどさくさだが、勢いに任せて私は聖を誘いだせたのだ。
彼女の背を押し離れながら振り返ると、皆が皆、親指を立てていた。
誰もが皆、良い笑顔。
ちくしょう覚えていやがれありがとう。
「でも、星、貴女、こんな素敵なところをよく知っていたわね?」
聖の声に我に返る。
「あ、いえ。
ナズが教えてくれたんですよ。
あの子、探し物で色々飛び回っていましたから」
飛倉とか。
「貴女の宝塔とか?」
そうそう、私の宝塔とか。
「……ってなんで知ってるんですか!?」
「魔法僧正ひじりんに知らない事なんてないのよ!」
「その手の呼称は止めなさいと言うに」
「じゃあ、魔法少女ひじりんで手を打ちましょう!」
「いえ、そちらではなく。……しょうじょ?」
頬を膨らませる聖。容姿とあいまって、その、とても可愛い。
「……なんてね」
舌を出す聖。どうしよう、とても凄く可愛い。
「星?」
「あ、はい」
「酷いわね、そんなにショックだったの?」
そう言う訳では――紡ごうとした言葉は、発音できなかった。
「冗談。あぁ、風も気持ちいいわ」
呟き、駆け出す聖が、私には余りにも眩しすぎたからだ。
「あ……聖、急に走ると!」
翻る黒い法衣。
靡く白いスカート。
のぞくスカートと同色の下、え?
「き――」
っ!
両足に力を込め跳ね、
草に足をとられた聖の肩を掴み、
直立するのを諦めた私は衝撃を自身で受け止めるため、下になった。
「――ゃ……?」
遅れて短い悲鳴が耳に入る。
近すぎて、また胸が鳴った。
両足に、聖の体重。
失礼な話だが少し重く感じた。
……同時に、胸へと嬉しさがこみ上げる。
聖は確かに、此処にいる。
「だから……言わんこっちゃない」
振り向く聖に、私はどうにかそんな悪態をつく。
彼女は視線を合わせる癖がある。
それ故、今は微かに見上げられていた。
聖も寺の面子の中では背の高い方だが、私ほどではない。
「聞こえなかったわ」
開く口がどうにも艶かしく思えてしまい、目を逸らす。
「……星?」
「抹香の匂いが」
「貴女もでしょうが」
少し機嫌を損ねたような響きに、それもそうだと微苦笑しながら頷く。
「でしょう?」
返答に満足したのか、聖は顔を戻し、前を見つめた。
彼女はそのまま両の手を地面へとつけ、小さく伸びをする。
さらりとした感触が左頬を撫で、ふわりとした感触が右頬を擽った。
どうやら、足の上がお気に召したようだ。
私も、前を眺める。
草は力強く生え、木々も逞しく聳え、花が可憐に咲いている。
それら全ての先にある湖は、透き通るような色合いで、そう、綺麗だ。
「あぁ、天気はいいし、空気も美味しい」
尤も、そう感じるのは……。
「それに、本当に綺麗」
聖の細い両肩に手を置く。
「そう思います。だけど……」
「ん? 何か不満でも?」
「まさか」
振り向いた聖に、私は口を開いた。
「だけど、ねぇ、聖。
この風景をそう私が思えるのは、貴女がいるからです。
貴女が今、傍にいてくれるから、私は此処を綺麗だと感じられるんです」
春、桜の美しさも。
夏、太陽の輝きも。
秋、木枯らしの切なさも。
冬、雪の煌きも。
「全て、色あせていました。
けれど、貴女が傍にいてくれるなら、同じ風景を感じられます。
いえ、少なくとも今は、貴女よりも美しいものを、この双眸に映せています。
湖、花、木、草――そして、私の目には、聖、貴女が映っているんですから」
聖には癖がある。
視線を合わせる癖だ。
つまり、私は彼女の瞳を見つめながら、そう言った。
「星……」
紡がれる、私の名前。
続くかと思った言葉は途切れた。
のみならず、その瞳までもが閉じられる。
「……聖?」
彼女は、だから、唇を閉じ、私の前にいて。
えっと、つまり、その。
……口吸い?
【口吸い】:接吻という単語ができるまでの間、日本で使われていた、所謂口と口のコミュニケーション名。有体に言うと、キス。
おおおお落ち着いて寅丸星、貴女はできる子よ!?
初心なねんねじゃあるまいし、せっぷんの、の。
聖ときす……って、きゃー!?
「……もう。時間切れよ、星」
え?
「じかんぎれ?」
「ええ、時間切れ」
「マイッガァ!?」
頭を両手で抱えて叫ぶ私の耳に、聖の愉快気な笑い声が響いて消えた。
……けれど、あぁ。
私は、心の何処かで安堵の息をついている。
その単語を聴いただけで取り乱したのだ。
実行に移すなんて大それた事、できやしないだろう。
結果、行為を果たせず聖を傷つけるかもしれない。
だとすれば、早々に切り上げてもらえたのは幸運と思うべきか。
こつん――と、小さな音。
手を頭から離し、私は視線を戻した。
ほぼ零距離に、聖の瞳。
胸が鳴る。
「ひ、じり……?」
「口は、早いかしら」
「え、あ、その……あぅ」
思いもよらぬ追撃に、意味のある言葉を返せない。
うろたえる様子に、聖が小さく笑んだ。
冗談よ――そんな笑い方。
三度目の‘冗談‘……本当にそうなのだろうか。
「ねぇ、星」
小さく囁き、聖は、両手で自身の前髪をかきわけた。
「額なら、どう?」
「部位の問題では」
「違うの?」
響きは、何処かねだるように聞こえて。
だけど、本当は促していて。
あぁ、そう、そうですよ。
「……額、ならば」
飲み込んだ唾の音が、自身の声よりも大きく聞こえる。
「じゃあ」
それよりも耳を支配する、優しい響き。
「はい」
手に手を重ねて――
「知っていて、星?
いいえ、貴女は知らないんでしょうね。
知っているなら、こんなにも躊躇しないでしょうから。
額への口付けはね、可愛らしいものなの。そう――」
「――‘でこちゅう‘と呼ぶんでしょう?」
――私は、口を閉じた』
ぺらり。
『でこちゅうしたい。
あぁぁでこちゅうしたいっ。
したいしたいしたい、したいったらしたいよぉ!
ふわさらの髪を持ち上げてちゅって、ちゅって、あぁんもぉ!
聖はきっとくすぐったそうに笑ってあぁそんな顔された私は……私はっ!
それでもって「しょ、う……」なんてちょっと舌足らずに名前呼ばれちゃったりして!?
あぁんもぉあぁぁぁんもぉぉぉぉぉ!
聖にでこちゅうしたいよぉぉぉぉぉ!!』
ぱたん。
私は、本を……いや、ノートを閉じた。
先に断っておくが、閉じたのは一連の文章が終わっているからだ。
自発的にそうしたのであって、決して、それ以外の要因からではない。
つまり、背に浴びせられる莫大な妖気は、私――ナズーリンの行動とは関係がない。
ノートを元あった場所、机の上に戻そうかと一瞬悩み、結局手に持ったまま、振り向く。
「やぁ、ご主人様」
呼びかけた我が主人――寅丸星様は、長年仕える私にして余り見覚えのない表情をしていた。
「こんにちは、ナズーリン」
感情を押し殺した声。
ぼやけた、焦点の合っていない瞳。
妖力で形作った独鈷杵も向けられている。
「そして、さようなら、ナズーリン」
けれど、寸分も臆せず視線を合わせ、私は言った。
「霧の湖の描写ですけどね、間違えてますよ、ご主人。あそこ、昼間は名前通りですから」
「だって私行った事ない……って他に言う事があるんじゃないでしょうか!?」
「これは流石に私でもどうかと思います」
指示のとおりに率直な感想を伝えると、主人は勢いよく仰け反った。
「しかも、ご自分の筆記にもかかわらずキスがダメって。
どれだけ乙女ですか。
ご自重ください」
誤解される事が多いのであらかじめ言っておくと、私は主人を尊敬している。
部下という立場においても、一個の妖怪としても。
彼女は強く賢く美しい。
いささか特定の感情に振り回されがちだと思わないでもないが、なに、ご愛嬌だろう。
「――じゃなくてっ! もっとこう、謝罪とかあるじゃないですか!」
両手を丸め拳を作った反動で戻ってくる主人。
顔は、頬も耳も赤く染まっている。
先ほどと変わらず、だ。
態度をそのままに、私は返す。
「そうは言いますがね。
此処がご主人様の自室ならば謝りましょう。
ですが、この部屋は居間です。団欒の場、皆が集う場所。
そんなところにぽつねんとノートが一冊ですよ。
……普通、見ませんか?」
呻き声をあげ、主人は怯んだ。
「わ、私はちゃんと自室で書いていました!
それが忽然となくなっていたんです!
ナズ、貴女が持ち出したのでは!?」
主人は眼光を鋭くし、私を睨む。
若干涙目ゆえ、全然怖くない。
むしろ可愛い。
……こほん。
動揺されているようだ。
私が彼女に対して不利益になる事をすると思っているのだろうか。
宴会での些事ならともかく、こんな子供染みた悪戯をする訳がない。
そんな私の思いを知らぬ主人ではないのだ――動揺という他、あり得ないだろう。
……そして、犯人の目星もついた。
さて、どうするか。
一つ唸って覚悟を決めた。
有耶無耶にしてしまうのが手っ取り早い。
「ご主人様。
犯人は私じゃない。
今それを、証明してみせましょう」
未だ腰をかがめて視線を合わせてくる主人に、私はノートを開き、読み上げた。
「『私にでこちゅうしたい、まで読んだ』」
「全文じゃないですかそれ!?」
「『私はセンチョにしたいなぁ、ちゅっちゅって』」
「一輪、直接言いましょうよ!」
「『ちゅっちゅっ、は駄目です。ちゅ、なら。だって、私も、その』
「なんて羨ましい! じゃない!?」
「『心情及び動作を主としているため、風景が分かりづらい。
その心情においても至る過程が書かれていなく、物足りないものがある。
ただ、最後の行為は破壊力がある。結局、これをどう思うか次第であろう』」
「妄想に冷静な指摘はいりませんよ、うんざぁぁぁんっ!!」
両手をあげて吠える主人。
含めたフェイクは一つ。
すかさず、撃ち込む。
もう一つのフェイクを。
「『えっと。その、ごめん』バイ」
「ぬえ、ですか」
かすれた呟きに、私は頷いた。
この命蓮寺でその手の悪戯をするのは、確実に彼女だ。
振り上げた拳のやり場がない――主人はそんな表情をしていた。
握る独鈷杵に込められた‘力‘も、急速に弱まってきている。
この程度の悪戯、謝罪があれば罰を与える訳にもいかないのだろう。
……こういうヒトなのだ。主人は。
「と言う訳で、私が犯人ではないんですよ、ご主人」
ノートを閉じる私に、主人は首を縦に振る。
誤解は晴れた。
犯人の罪も許された。
さぁ、後は、主人の拳のやり場と証拠隠滅だ。
一旦目を伏せ気を入れなおし、再度主人に向き合う。
「それにしても……でこちゅう」
「な、なんですかいいじゃないですか!?」
「どうとも言っていません」
言葉を繰りつつ、そろりと手を伸ばす。
「知っていますか、ご主人様」
「何をです……って、ナズ?」
「額へのキスは、友情表現らしいですよ」
華奢な両肩を掴むと、主人は不可思議そうに私の名を呼んだ。
そう、不可思議そうにだ。
この先の展開が読めないのだろうか。
あぁ……読めないのだろう。
自身へと向けられる絶対の信頼に、微かに表情が歪んだ。
「ねぇ、あの、ナズ……?」
本来ならば手にするべきだが――。
つま先を伸ばし、主人の額に狙いをつける。
少し癖のある金色の髪がくすぐったい。
思いつつ。
私は、口を開いた。
「っぢゅぅー!」
「いっだぁぁぁ!?」
わりかし強めに歯を突き立てるワタクシ。
「これぞ‘でこにチュウ‘ってやかましいわ!?」
「おや、一人ボケ突込みですか、ご主人様」
「ナァァァズゥゥゥ!」
独鈷杵を振り上げる主人。
「あぁ、そう言えば。
さっきの、皆からの感想。
聖様のは嘘ですよ。あの方は、読んじゃいません」
そう、それでいいんだよ、ご主人様。
「そう、ですか。で、今の行為について、何か言いたい事はありますか?」
「今夜の晩御飯はチーズ乗せチーズがいいな」
「あぃわかりました!」
穂先に眩しい光が集まり――
「ありがとう、ナズ――法力‘至宝の独鈷杵‘!!」
――絶対正義の弾幕が放たれた。
空が青い。今日は天気がいいようだ。
……やれやれ、ばれてしまっていたか。
彼女に対して、私が子供染みた悪戯などするわけがない。
だから、あれは、やり場のない怒りを向けさせる為の行為。
概ね、上手くいったようだ――煌めく弾幕にノートもろとも貫かれ、空へと放り出された私は、自身の仕事に満足の笑みを浮かべた。
ふむ。
雷に象られた私。
デコレートされた鼠。
――つまり、これもまさしく‘デコチュウ‘なり。あっはっは。ちゅう。
<幕>
わたしも嬉しい
落ち着け俺…ちゅっちゅの数をかぞえるんだ…
でこちゅっちゅ
で解り合える星となずね