もうちょっとだけ勇気がほしい、と思い始めて、かれこれ半年以上は経っている。
今日こそはと勇んで棲み処を出ても、実際にその場面に逢うと足がすくんで動けなくなって、良くない想像ばっかりが頭の中にぐるぐるして何もできずに水にもぐるしかなくて、情けない自分がたまらなく嫌になる。
それを毎日。昨日も一昨日もやった。今日こそは、今日こそはやってやる! なんて毎日繰り返してきた宣言を鏡に映った自分に投げつけて、今日も決意を胸に出発する。
本格的な夏がもうすぐ来る、雨の多い季節になってるから、もうじきに一年になるのかな。
その子を見かけたのは去年の暑い盛り、河童だからって言ってもありもしない皿がゆだるような陽気の日だった。いつも通り水に入って涼もうと、川で好き勝手泳いでいて、たまには気分を変えようと思って少し遠くまで足を伸ばしたときに、その子が川に近付いてくるのを見た。妖怪っぽくも人間じみてもいないから、たぶん神様かなにか。
赤い服に赤いリボン、緑色の長い髪がなんだか印象的で、私にしては珍しくこそこそ逃げずに覗こうと思った。でも話しかける勇気まではなくて、川の深いところを回りこんで岩陰からそうっと、その子がくるくる回りながら帰るまで眺めているだけだったけど。
怖そうだったら迷わず逃げようって思ってて、でも実際に見たその子の顔はすごくきれいで、一瞬だけ息ができなくなったのが今でもハッキリ思い出せる。そのあと尖った石を踏みつけて痛かったから、夢じゃあない。
それからは毎日そこに通っている。けど、持ち前の人見知りが邪魔をして、今日も覗くだけ。すごくきれいでかわいい顔をして、きっと声も可愛いに違いなくて……それなのにいつも寂しそうな表情でうつむいている、名前も知らない子に、今日も私は声を掛けられない。
そんな私をあざ笑うみたいにここ最近は不運続きだし、ほんとに私はダメなやつだ。
ぶくぶく息を吐きながら沈んで目を閉じる。昨日から降りつづく、今は少し休んでいる雨のせいで普段より多めの水が冷たくて、なのに目のあたりだけやけにあたたかい。
もうやだなー、でも諦めたくないなーって、もう一回浮き上がった目の前へ、真っ赤な何かが通りかかった。
赤と緑はあの子の色、びっくりしたけどよく見れば人型のそれの頭は金髪。赤い服に金色の髪だと知り合いに二人ほどいる。どっちか一瞬わからなかった、さらによく見たら帽子がなくて、ってことは。
「――静葉様ぁ!?」
驚きすぎて何より先に名前を呼ぶしかない私に、「あら、奇遇ねぇ」なんて呑気な返事をしたこれは間違いなく紅葉神様で、っていうかなにやってんの、このひと。ひとじゃないけど。
静葉様はぷかぷか浮いて流れながら、「さいきん縁結びに目覚めたのよ」いや知りませんってそんなこと。
「あ……あの、何してるんです?」
「河童も川流れするこの時勢、紅葉だって流れてもいいじゃない。落葉のごとく」
いや、それってあんまり良い意味じゃないんですけど。
なにより、落葉ってそれ死んじゃってますよね? あんまり変なことしてるとみのりんに怒られますよ?
「落ち葉は死んだ葉ではないわ。役目を終えて休んでいるだけなのよ。落ちて地に還り次の命を繋ぐの」
かっこいいっぽいこと言いながら、さらっと心を読まないでほしい。
「あら、わたしは河童さんの心なんて読んだ覚えはないわ。ぜんぶ声に出てるもの」
「え、まじですか?」
「間違えた。顔にでてるのよ」
いやいや、さっきから静葉様、私の顔いちども見てないでしょう。なんで分かるんですかって。
静葉様は何も言わず浮くのをやめた。それでも首から下は水の中で、私からだと生首が浮いてるようにしか見えない。
「あそこにいる厄神で雛人形な鍵山さんちの雛ちゃんは見た目のとおり寂しがりでちょっぴりおセンチで付け加えるなら人間でいう年頃の女の子よ」
「はぇ? あ、あの、なんの話を」
「今日のあなたはいつもと違うって話。まぁ、がんばりなさいな。河童で機械おたくの河城にとりちゃん」
言い終えると私にむけて親指を見せた。ただし中指と人差し指の間に握りこんで。そうしてまた、仰向けに浮く。
……って! どこまで知ってるんだ、この神様!?
「静葉様はなんでも知ってる。今日の厄神さまの下着の色も」
「ぃい!?」
「なぜならさっき回ってる下にいた。黒の、」
結構な速さで流れていく静葉様はそこまで言って岩に追突したらしい。ごつ、鈍い音がした。「……地味に痛いわ」とか呟く声が聞こえて、とりあえず大丈夫そうなので安心かな?
……それにしても、静葉様はどこまで流れていくのかな。しばらく行けば滝があって危ないんだけど。
「上手いこと言うのね。そう、わたしは秋静葉。つまりフォールがフォールにフォ」
静葉様は落ちていったようだった。
「――静葉さまと仲が良いの?」
「ひゅいっ!?」
いきなり後ろから声が聞こえて飛び上がるかと思って、振り返ってみたらひっくり返った。だって私のすぐうしろ、さっきまで隠れてた岩に、さっきまでずっと見てたあの子が座って私をきれいな瞳で見下ろしているんだもの。
水の中でうっかり口から息を吸おうとして溺れかける。河童なのにっ。どうにかこうにか水面に上がった私の顔は相当に変だったと思う。しばらくむせて、顔を上げて岩の上を見上げる。酸素も足りなかったけど、なにより目の前の子がまぶしくて頭がくらくらした。
「ごめんなさい、びっくりさせて」
「い、いや! 私のほうがごめんなさい、大げさでしたっ」
ちょっと悲しそうに言うから、つい大声で否定してしまった。そうしたら驚いたような顔になって、それから少しだけ表情をやわらげてくれた。
……ここに天使がいるぞ! 私に話しかけてくれてるよ!! ほんとに可愛い声だよ!!!
「あ、あのっ!」
「はい」
「えーと、静葉様とは、たまーに会ったら世間話するくらいです」
「静葉さまとよく遇うの?」
「よく……っていうほどは。むしろみのりん……穣子様のが親しくして貰ってて」
「穣子ちゃんと?」
「はい。気さくなかたですよね」
そう言って、にへらって笑いかけてみると、ちょっとだけ頬を緩ませてくれる。静葉様、みのりん、ありがとう!
これ以上ないくらいに興奮した私の視線の先、緑色の髪に結われたリボンをしめっぽい風が揺らして、雨が降るのかなぁと現実に引き戻された。
「河童さん」
「はい?」
「あなた、どうしてここにいたの?」
「ふわいっ!? そ、それはその」
いきなり核心を突かれて、またひっくり返りそうになる。だって普通は驚くでしょう? まさかあなたに声をかけたくて今までずーっと見てました、なんて、言えるわけがないもの。
目をむいて見ると、緑色の髪の下、私から見ればだいぶ上に、今の空模様とおんなじ顔があった。
「わたしがいたから、よね」
「へぁ?」
「わたしがここにいたから、あなたは出て来れなかったのよね」
なんだか風向きがおかしいのは、さすがの私でも分かった。雨降り一歩手前のいろをした顔は、ほんの少しの刺激で夕立を起こしそう。
なんでだろう。考えて思い当たるのはひとつだけ。静葉様はさっき、この子をなんて呼んだ?
「わたしがここにいたせいで、あなたは」
「っち、違うます! です!」
「え……?」
きれいな顔がくしゃっと歪んで、でもそんな表情にも見惚れて、だけどやっぱり泣いてほしくはないからとにかく声を上げる。
言葉が崩れたって構うもんか、ようするにこの子が泣かずにすめばいいんだ。
「確かに私はいままで隠れてたけども、それはあなたのせいじゃなくて、むしろ私のせいで、」
「……」
「っていうのは、えっと、その、あの、何が言いたいかって、」
かあっと頭に血が上って、それがぎゅんぎゅん脳みそを掻きまわして、舌も回らなくなって、水の中に逃げ込みたくなるけどがんばって我慢する。
相変わらず私は情けなくてどうしようもないけど、見上げた先の顔を見たら雨なんか降らせたくなくて、そうだ今なら静葉様の言葉も信じられるかもしれない。
「わた、しは、君と、……君が、あの」
この子は寂しがりで、私は、今日の私は昨日までと違うんだって!
「きみがすっ――仲良くなりたいですので、見てましたぁ!!」
叫んで、自棄みたいに水に潜った。川の水はもう夏も近いのに冷たくて、でも私の首から耳まで冷ましてはくれない。自分に出せる限界の根性をひねり出したのに結局私は情けない。
最後の最後になぜひよったし!
それでも耳は弱々しい声を拾うんだから、私も現金だと思う。
「……ほんと?」
ばしゃっと顔を上げて、声が出ない代わりにぶんぶん首を振る。もちろんタテに。ほんとうですとも! それだけ伝えたくて、私は半年も悩んでいたのですよ。
見上げた顔は口元をわずかにほころばせて、でもどこか雨降りの気配はそのままに。
「わたし、厄神よ」
「はい、聞きました」
「わたしと一緒にいると、よくないことが起こることもあるわ」
「それでもきっと、しあわせですのです!」
あれ、落ち着いたと思ったのに、まだぐるぐるしてた。なんか大胆なこと言った気がするぞ。
でもいいや、嘘なんて吐いてないはずだし……考え始めると何も言えなくなる私だから、これくらいでも丁度いいのかもしれないし。
暗雲立ち込める顔に、少しだけど風が吹き込んだ気がする。すこしずつ、すこしずつ、雨雲が押されて、――最後にはすきまが開いて、ぱぁっと光が差した。
「……ありがとう!」
「ひゅいぃ!?」
泣き笑いが両手を広げて飛びこんできて、受け止めきれずに飛沫を上げて倒れ込んだ。
触れた腕とか体とか、どこからどこまでも柔らかくて、幸せすぎて意識が飛びかけて、そのまま流れに乗ってフォールにフォール! する前に河童の川昇り!! 私にだって河童としての矜持はあるのですよ。
ひとり女の子を抱えていたから苦労はしたけど、なんとか元いた岩まで帰りついた。その拍子にぎゅってしたけど不可抗力だよね? 私悪くないよね? ……スミマセン。やわっこかったです、はい。
「だいじょぶですか、厄神さま」
「……雛」
「へ?」
「静葉さまに聞いたでしょう? 私、鍵山雛よ」
「え、ああ、えと」
「穣子ちゃんは、ひーちゃんって呼ぶわ。あなたは、なんて呼んでくれる?」
雨雲が切れたら、出てきたのはご機嫌な太陽だった。
いたずらっぽい顔が私を覗き込んで、実はものすごく至近距離にいたんだなぁなんて、今さらに思う。だいいち、今まさに彼女を抱き込む体勢でいるのですよ、私。
濡れてしまっても長いのがわかる睫毛とか、すべすべしてそうな血色のいい頬とか、ふっくらした柔らかそうなくちびるとか、そういうものまではっきりくっきり見える距離まで近づいてて、思考とかそういうものがぶっ飛びそうだ。
「~~っ」
「ねぇ、呼んでよ」
私の首に腕を回して、いたずらっ子のように翠玉の瞳を輝かせながら小首を傾げてみせる。
そんなに可愛らしくお願いされたら、逆らえるはずがないのでありまして、そもそも私はきみにもとから骨抜きだったわけで、だから私に残された道なんてひとつしかないわけで!
「……ひ」
「ひ?」
「ひ、ひひ、ひな、ちゃんっ!」
「はい、にとりちゃん」
厄神さま――もとい、雛ちゃんは心底楽しそうな顔で、もう一度私に飛びついてきた。あとはもう引力に逆らえず、また派手に音をたてて川へと落ちた。
ぐるんと視界がひっくり返って水面越しに見えた空はうっすら明るくなったみたいだった。もしかすると私は、今まさに梅雨明けに立ち会ったのかもしれない。
水を掻いて浮き上がると、ほんの少し覗いている太陽の光が水飛沫に反射してきらきらする。雛ちゃんはその真ん中にいるから、ただただ綺麗で眩しくて。
なにより、寂しがりの厄神さまに日の当たる、その光景がひたすらに嬉しかった。
にとり可愛いよ!厄神様も可愛いよ!
二人ともかわいいなぁw
そして静葉様が地味にツボったw
静葉様が全部もってったwwなんだこのお方……なんだこの静葉様…。
最後の方の雛様が妙に艶っぽく見えたのが印象に残りました。
静葉様は厄神だけじゃない。にと雛も育てた。