*この作品は真型・プチ東方創想話ミニの作品集47にある『散る野 ~それから1~』の続きです。
魔法の森の中は普通の人間だけでなく、一般の妖怪もあまり足を踏み入れることはない。森の中は化け物茸が放つ瘴気が宙を漂っているからだ。
だが、それも人間の里寄りは比較的過ごしやすい。
「さて、じゃあ次は何して遊ぼうか」
森の中に小さくひらけた広場がある。そう広くもないが、集って雑談を交わしたりする程度には丁度いい場所だ。その真ん中で、ある意味では恒例となりつつある、チルノ、リグル、ルーミア、ミスティア、大妖精の五匹が輪を作っている。
「かくれんぼは駄目なんだっけ?」
「……前にやって、リグルの一人勝ちだったから駄目」
大妖精があごに指を当てて言うも、腕を組んだミスティアが苦い顔で否定する。ミスティアとしては、本当ならかくれんぼでもいい。魔法の森というだけあって木々は山ほどあるし、隠れるところにはこと困らない、のだが……
「あー……うん、ごめん」
「いや、仕方ないよ、あれは、ね」
何日か前に、集まった五人がかくれんぼをした。最初にリグルが鬼になったのだが、数を数え終わって探し始めて数分もしない内に全員が見つかることとなった。理由は簡単で、皆が隠れているところに、不自然な形で虫たちが集まっていたのだ。リグルが命令してやったわけではなく、虫たちがリグルのためにやったことだったのだが、この後いくらリグルが虫たちに「そんなことはしなくていい」と言っても聞き入れてはくれなかった。
もしかしたら、リグルのためであると同時に虫たちもリグルの真似をしたかったのかもしれない。厳しく言えばきっと止めてくれるだろうけれど、そこまでして除け者みたいに扱いたくないというリグルの意見で、かくれんぼは虫たちがいないところ以外では出来にくくなってしまった。虫たちがいないところなんて、ないのだけれども。
「えー、かくれんぼでもいいのにー」
「……まぁ、理由はそれだけじゃないしね。あたしも命をかけてまでかくれんぼしたいわけじゃないし」
ルーミアが残念そうに言うが、ミスティアは聞かない振りをする。隠れている時、背後から忍び寄ってきたルーミアに食べられそうになったのをミスティアは忘れていない。
「んー、じゃあどうしよ。人里から何か持ってきてもいいんだけど、後で慧音に怒られそうだし」
「怒るで済めばいいけど」
「だね」
「ねえ、チルノちゃんは何かしたいことある?」
「――え?」
ぼんやりと考えごとをしていたチルノが顔を上げる。
「いや、チルノも何か案はないかなーって」
「あー、うん。何でもいいけど」
「その何でもが見つからないから困ってるんだよ」
「んー、そうだなぁ」
言いながら、草原に座る。森の中のひらけた場所なので、草の上にはちらほらと花弁が落ちている。もう、異変の名残は段々と姿を消そうとしている。
「あ、そういえば前々から気になってたんだけど、ねぇリグル」
「なに?」
「やっぱり、花が一杯咲いたから虫たちって喜んでたの?」
特に理由はないが、チルノが座ったので他の四匹も倣って草の上に腰を下ろす。
「あー、そうだなぁ。蝶とか、蜜が大好きな子たちは大喜びだったかな。でもどっちかっていうと、花畑に棲んでる人の方が喜んでた気がするかな」
「ああ、あれ?」
「そう、あれ。一回受粉させたいからって呼び出し、もとい拉致された」
「え……それって大丈夫だったの?」
噂程度ではあったけれど、何やら危険な妖怪ということだけは聞いているミスティアが顔を引きつらせる。
「うん、まぁやっぱり最初は怖かったけど、花に害を与えなければ特に問題はなかったよ」
「へー、噂では笑顔で人が気絶したとか聞いたけど」
「あー……」と、リグルが空を仰ぐ。その視線は、どこか遠い。「蝶や蜂に混ざって花を食べたり枯らしちゃう虫まで一緒だったから、見つかった瞬間土下座はした、かな」
「……」
ははは、と乾いた笑みを浮かべるリグルに、やっぱりあそこには近づくまいと心に誓う。
「でも、本当に普段は特に害はないよ。こっちが何もしなければ、だけど。あ、それよりミスティア、何かこないだ人間に怒られたって聞いたけど?」
「あー? どれ?」
「ほら、プリズムリバーと勝手に騒いでたとかなんとか」
「あれは勝手に人間たちが近寄ってきただけでー」
「――」
「――」
自分は悪くないけど人に被害が出てしまって、更には慧音まで出てきてしまったから云々。二人はそのままその時の会話に没頭し始めた。
ルーミアは既に草の上に寝転がっているし、大妖精は大妖精で先日面白いことを教えてもらったのだと嬉しそうにチルノに語っている。
どうやら、今日はもう歓談の時間を過ごすことに決まったようだった。
ルーミアがお腹空いたとうつぶせになり、リグルはミスティアと人里の周辺を歩くときの注意を話している。その論題は主に、如何にして慧音に見つからず、また怒られないようにするかというもの。
そして、大妖精はチルノに新しい手遊びを教えていた。
「せっせっせーのよいよいよい」
「あーるーぷーすー……ん?」
最初は形にならなかったのがようやく遊びになってきた頃、ふとチルノが頭上を見上げた。つられるように大妖精も顔を向ける。
「どうしたの?」
「ん。ごめん、あたしそろそろ行くね」
大妖精と合わせた手を離して、チルノは立ち上がる。
「また何かお山の妖怪から聞いたら教えてね」
「あー、チルノ行くの?」
「うん、またね」
「またー」
手を振ってチルノは青空の中へと消えていく。ゆっくりと遠くなっていくチルノの背中を見つめながら、そういえば、とリグルが口を開く。
「最近なんだかチルノ、いっつもどっかに行ってる気がするけど、知ってる?」
「さぁ。分かんない。」
「さー」
「あ、私知ってる」
と、大妖精の言葉に全員が振り向く。
「え、どこ」
「博麗神社に行ってるんだって」
大妖精の口から出た意外な場所の名前に、ミスティアが首をひねる。
「神社って巫女のところ? 何でまた」
「それは私も聞いてないけど……」
大妖精とリグルも首をひねる。ルーミアは寝ている。
「そういえばさ、何か最近チルノって雰囲気変わったよね」
「ああ、それは思う。何か大人しくなった感じ」
「丸くなったって言い方は変かなぁ」
「赤ちゃんが出来たのかー?」
『それは違う』
始めから会話に参加するつもりがないのか、ルーミアはテキトウなことを言う。他の皆もそれが分かっているからこそ放っているが、ルーミアは偶に可笑しなことを言うので無視が出来ない。
「まぁ、別に悪いことじゃないから、いいんだけどさ」
リグルがそう締めると、会話がなくなった。話題はないし、することもない。いや、リグルに関して言えば偶に虫たちの様子を見たり幽香のところに顔を出さないといけないのだが、別にそれは早急なものではない。
「どうしよっか」
「そうだねー」
妖怪の呟きは空気に消える。解散してもいいのだが、それもまた味気がない。
さて本格的にどうするか、となった時だった。何気なく、リグルが言った。
「私たちも神社に行ってみる?」
今日も今日とて博麗霊夢は掃除に忙しい。それだけではない、朝起きては水で体を清め、瞑想し神に祈りを捧げる。更には人里の周辺や魔法の森、または御山に至るまでを見回る。彼女の幻想郷の平和に対する姿勢に瑕疵はない。
なんてわけがあるわけもない。
「……霊夢、だらしない」
縁側から足を垂らしたまま仰向けになり、霊夢は寝ていた。服の裾が捲れ、おへそが見えるのが何とも言えない。お茶でも飲んでいたのだろう、脇にはいつものお茶飲み道具が置いてある。
チルノはお茶を挟んで霊夢の隣に座った。急須を持ってみると少しだけ入っていたので、まだ中身が半分は残っている霊夢の飲みかけに継ぎ足す。もう熱くはないので、そのまま飲めるのが嬉しいところだ。
チルノの最近の日課はお昼を過ぎる頃になったらこうして霊夢の元を訪れて何かしらの手伝いをすることだ。もちろんその目的は霊夢にご褒美をもらうの一点。しかし、二回目にお手伝いをして、一回目と同じご褒美をお願いしたら次からは飴玉を用意されてしまった。
本音を言えば、霊夢と一緒に居ることが目的なのだから別に手伝いに対する報酬はなくてもいい。結局のところ、自分は手伝い、謝礼という形を利用して霊夢に会いに来ているだけなのだから。それくらいの自覚は、チルノにはあった。
だから、別に手伝ったご褒美が飴玉になろうと何だろうと不満というものはない。ない。ないのだが……
左隣ですやすやと寝息を立てる霊夢の寝顔を見る。
「……」
恐る恐る、ほっぺたを指先で触れる。何度か軽く押しても起きる気配が一向にないので、そのまま手のひらで触れてみた。
「わ……」
何故か分からないけれど、触れているこっちが恥ずかしくなってくる。何だか居たたまれない気持ちになり、チルノは残りのお茶を一気に飲み干して縁側から飛び降りた。
「……掃除、してよ」
さっき境内を通ってきたときにはまだ掃除をした形跡はなかった。この調子だと今日はあまりやる気がないみたいなので、起きる前に終わらせてしまっておいても問題はないだろう。
「ん?」
一瞬、林の方で音がしたので振り向いて見るが、何もいない。
「ま、いっか」
特に気にとめることもなく、チルノは物置に箒を取りに行った。
そして、特に目的もなく後を追って神社へとやってきた四匹は草陰に隠れてチルノが立ち去るのを見ていた。
「……」
「……どう思う?」
「うーん……悪戯して逃げたんじゃない?」
「やっぱり?」
「うん」
「お腹空いたー」
リグルとミスティアから見たチルノの行動は、チルノが勝手にお茶を飲んで霊夢の頬をつねり、起きそうになったから逃げた、というものだ。
「何て言うか、チルノも勇気があるね」
「だねー。とてもじゃないけど真似できないなぁ」
「うーん……」と、しみじみとチルノの行動を観察していた二人に、大妖精がポツリと呟く。「ほんとに、悪戯だったのかなぁ」
「どういうこと?」
「だって、チルノちゃん……」
不思議そうにするリグルの疑問に、大妖精はチルノが立ち去った方向を見たまま続けようとする。
「ちょ、ルーミアっ」
その時、話しに参加していなかったルーミアが突然草陰から出て行った。慌ててミスティアが止めようとするも、既に宙に浮かんでいるルーミアの動きが早く袖を掴み損ねる。
「ちょっと、不味いって」
「ルーミアちゃんっ」
慌ててリグルと大妖精も後を追う。
ルーミアは縁側まで来ると、霊夢の顔を見つめだした。
「食べていいかなぁ?」
「駄目に決まってるじゃんっ!」
「う~」
そのままルーミアは土間の方へと飛んでいく。
「大妖精お願い」
「うん」
瞬間移動が出来る大妖精が一瞬の内にルーミアの後ろに現れて羽交い絞めにする。が、ルーミアの力の方が強いのか、空腹がそうさせるのか、大妖精を引きずりながら、ルーミアは土間へと消えていく。
「あ~あ……」
「大丈夫かなぁ」
「まぁ、大妖精に任せておけばいいんじゃない?」
二匹は追いかけるのを止めてルーミアと大妖精の背中を見送る。大妖精なら任せておけば大丈夫だろうし、もし無理だったとしても、ルーミアも飽きれば戻ってくるだろう。
だが、ここで戻ってくるだろう存在がもう一つあったことを、リグルたちはすっかり忘れていた。
「あれ、リグルとミスティア?」
二匹の肩が大きくはねる。
「え、あれ、なんで?」
近づいてくる足音に心臓を激しく鳴らしながら、恐る恐るとチルノに振り返る。
一瞬、リグルとミスティアの視線が絡み合う。
どうする?
いや、どうしよう。
素直に言う?
そうしようか?
自分たちの前まできたチルノに、リグルが口を開く。
「あー、いや、さ。最近チルノが何だかこの神社に足を運んでるっていうから、何かあるのかと思って来てみたらチルノはいないし、巫女は寝てるからどうしようかなーってさ」
「え、それって誰から聞いたの?」
「大妖精」
「あー、ああ。そういえば……」と、チルノの視線が霊夢の方に向く。「あ、霊夢起きたらいけないから、境内の方に行かない?」
「ん? うん、いいけど。あ、でも今ルーミアが……」
そこまで言って、ルーミアの姿が視界の端に映った。そして、リグルは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「ルーミアちゃん駄目だってっ、勝手に食べたら怒られちゃうよ」
「んー、でもおいしいよ。大妖精も食べない?」
「食べたいけど、駄目なものは駄目だよぉ」
「あ……」
チルノは見る。ルーミアが手に持って食べているもの、それはいつもお手伝いのご褒美にと霊夢がくれる飴玉だった。小さく透明な容器の中には、色とりどりの飴が入っていて、一回手伝いをするたびに一つ、チルノは舐めることができるのだ。
容器の中の飴玉は、三分の二がなくなっていた。
その中身がどこへといったのか、でこぼこに膨らんだルーミアの頬を見れば自然と理解できた。
「――」
霊夢の手伝いをする。
仕方ないといった顔で、霊夢は飴をくれる。
本当は違うご褒美が欲しかった。
でも、それは確かに“霊夢”が“自分”にとくれたものだった。
ここ数日のそれらが、何か嫌なものに塗りつぶされた。思い出すだけで不思議な嬉しさを感じることが出来たのに。なのに、泥団子をぶつけられたような、何か、嫌なものでつぶされた。
「んー?」と、チルノの存在に気がついたルーミアが残り僅かな飴玉の入った容器を掲げる。「チルノやっほーう。チルノも食べるー? おいしいよ」
ルーミアは大妖精を腰に引きずったまま、廊下から一寸上を浮かびながら移動している。その先には、霊夢の体がある。結果、チルノの方を向いたままのルーミアの足が寝ている霊夢の体に引っかかり、前に倒れていく。腰にしがみついていた大妖精の体もつられて倒れていく。
ルーミアが顔からお茶に突っ込み、大妖精は霊夢の上に倒れこんだ。
『あ――』と出たその声は一体誰のものだったか。
「……」
静かに、霊夢は体を起こした。その顔を仰ぐようになっている大妖精の顔は固まっている。ルーミアは目を回して廊下に倒れたまま。
容器から、飴玉が一つ、二つと廊下から地面へと落ちていく。
「ぁ」
その時、チルノは霊夢と目が合った。
それから、五匹は怒られた。起き上がった霊夢によって大妖精とルーミアは宙に投げられる。そして問答無用に霊夢は指を二本立てる。スペルカード二枚使用の弾幕ごっこ。
でも、それは手加減の一切ない、逃げ出したくなるような怒気の篭った弾幕だった。事実、四匹は逃げようとしたが、逃げられずに、一枚のカードを宣言することもなく殲滅された。
唯一、チルノだけは最初から動こうとしなかった。霊夢も、もしかしたらそれは逃げようとしなかったからかも知れないが、チルノに弾を向けることはなかった。
ただ一言だけ――もう来るな、と言った。
「いたたたたた……」
「今回はマジだったね。手加減あった? あれ」
「多分、なかったと思う……」
「だよね……あれ多分ぎりぎりで弾幕ごっこ、じゃないよ。もしくは紙一重での弾幕ごっこ。ついでに言うと、被弾の数を指定しなかったのはあれきっとわざとだね」
「うー」
四匹は朝に遊んでいた広場に戻って来ていた。巫女は怒っていたけれど、そこまで追いかけてくるつもりはないのか、それとも全員に二回ずつ当てたからか追いかけてくることはなかった。
「しばらくは霊夢のところには近づけないね」
「元々近づくこともないけど、そうだね。しばらくは目につかないようにした方がいいかも」
「あ、チルノちゃん」
ルーミアなどよりは比較的痛い弾を食らってない大妖精が空を指差す。見ると、確かにチルノがゆっくりとこちらに向かってきていた。何となく、元気がないように見える。
「チルノは大丈夫だったんだね」
服装は朝と何の変わりもない。自分たちは逃げることで必死だったけれど、もしかしたらチルノだけは謝って許してもらえたのかもしれない。
着地したチルノは、力ない足取りでリグルたちに近づいてくる。でも、顔は俯いていて、四匹の方を見ようとはしない。
すぐ傍まで来て、立ち止まる。
「チルノ?」
「……」
「え?」
小さく口を動かして、チルノは突然踵を返して走り出した。
「あ、チルノ!」
チルノの背中が森の中へと消えていく。それからすぐに、森の上空をチルノが飛んでいくのが見えた。
「どうしたんだろ、リグル」
「ちょっと様子が違ったよね」
「うん……」
一体何が起きたのか分かっていない中、大妖精だけは、チルノが何を言ったのかを確かに聞いていた。
――ばか。
夜というものは、基本的に静かなものとして認識されるものだろう。それは人里であろうと魔法の森であろうと妖怪の御山であろうと変わりはない。
それでも、ミスティアが開いている夜の屋台は夜の帳がおりても比較的賑やかな場所だった。訪れるものも千差万別で、そこに酒とつまみがあれば小さな宴会に早変わりする。
だというのに、今日に至ってそこは、通夜のような静けさを漂わせている。ミスティアは焼き場の前で黙々と串を焼いているし、席に座るリグルも同様に、出されたつまみを淡々と口の中に入れている。
不思議なもので、こんな晩には他の客足も一向に訪れることはない。
普段はあまり飲まない酒で口の中のものを流し込んだリグルが口を開く。
「チルノに、悪いことしちゃったかな……」
「かもね」
チルノが去ってから訪れたものは、何とも言いがたい、気まずい空気だった。自分たちの友達を傷つけてしまったのだろうことは、何とはなしに分かっている。でも、根本的なその理由が誰も分からないでいた。
その切欠を知っていたのは、四匹の中で最もチルノと付き合いの長い大妖精だった。大妖精は、最近のチルノが頻繁に神社に行っていることと、それを自分に語るときの様子を話してくれた。
チルノが神社に行った話をしてくれる時は、とても楽しそうにしていた、と。
チルノと霊夢の間に何があるのか、それは誰も分からない。けれど、もしかしたらチルノにとって、神社での出来事は何か大切なものを含んでいたのかもしれない。
所詮は憶測でしかなく、真相は分からない。でも、もしもそれが正しかった場合、自分たちはチルノにとっての大切な場所で勝手なことをしてしまった。
「どうしよっか」
ミスティアが焼いてくれた新しい串盛りを頬張りながら、リグルが呟く。謝るべきなのだろうけど、どう謝罪すればいいのか分からない。
それはミスティアも同じことなのか、リグルの言葉をただ聞いているだけだ。
「うー、みすちー何か食べるものなぁい?」
そんな時、暗闇の中からルーミアが姿を現した。そのまま席に座ると、彼女はどこか気だるそうに体を突っ伏した。しばらくその姿勢のままで居たが、ふと何かに気がついたかのように体を起こすと、その視線をリグルの手元に向けた。
「あ、リグルー、それもらってもいい?」
「え、ああうん。いいよ。いいよね、ミスティア」
「いいんじゃない」
「いただきまーす」
そう言って、ルーミアは盛ってある串を一口で食べる。
「よく食べるなぁルーミア……」豪快な食べっぷりを見ながら、呆れたような感想を漏らす。そんなに食べても大丈夫なのだからすごいなぁ、と思い、ふと疑問を抱く。「あれ、でもルーミア今日はずっとお腹空いたって言ってたね」
「みすちーお替りぃ」
「ルーミア、リグルの話し聞いてないでしょ……」
ため息を吐きながらも、ミスティアは新しい串を焼き始める。
「んー。最近ご飯あんまり食べれなくてさ」
「なんで?」
「あんまり森とかに迷い込んだり、道から外れた人間もいないからー。木の実とかでもいいんだけど、最近咲いた花に栄養が全部取られちゃったのか実がちょっとしかついてないし、お腹ぺこぺこ」
「魚とか獣は?」
「前にいっぱい食べ過ぎて慧音に怒られた」
「あー……」
きっと人里に実害が出るほどに乱獲してしまったのだろう。魚や獣は、妖怪だけじゃなく、どちらかと言えば人間が主に食するものだから。
「今は大丈夫なの?」
「今はだいぶー。もうお腹が空いて仕方がないから少し食べてきたし、今も食べてるから」
「ちなみに食べてきたってどこで何を?」
「内緒」
深く考えると怖くなるので、この話題をこれ以上追求するのは止めることにした。
厳密に言ってしまえば、妖怪はものを食べなくてもそうそう死んだり弱ったりはしない。でも、その代わりに少しだけ凶暴性が増す傾向にある。
ルーミアは偶にこうして屋台に来ては好きなだけ食べていく。一応は商いをしてるわけだから、ミスティアとしても困るといえば困るが、半分は仕方ないとも思っている。空腹になっても暴れるわけでもなく、ただ餓鬼のように食べ物に貪欲になるだけだし、同じ妖怪としてその欲求はよく分かるから。
「あー、だから今日も神社であんな無謀なことを」
いくら欲求が強くても、あの神社で盗人行為をすることは万死に値するだけに、無謀としか言いようがない。
「うん。まぁあの時はあんまり頭が働いてなかったからなー」
わはー、と笑う。口の中にある肉を飲み込んで、串だけを皿に戻すと、
「ところで、さぁ」一転して、少し調子を落とした声で、ルーミアが言う。「チルノ、やっぱり怒ってた?」
その言葉に、また、場の空気が重くなる。
「どうかな。怒ってはいないと思う。ただ、多分」
そう、誰もはっきりとは見ていないけど、恐らくチルノは、
「……泣いてた、かな」
「そっか……じゃあ、やっぱり悪いことしちゃったんだね」
「うん」
辺りに、ミスティアの串を焼く音だけが響き渡る。静かな夜だけに、その音はいやに大きく聞こえる。
リグルはミスティアに頼んで、ルーミアの分のコップを出してもらう。黙ってそれに酒を注ぎ足すと、自分の分にも入れて、ルーミアのコップと合わせた。小さく、甲高い音が鳴る。
「取り合えず、明日、チルノに謝りに行こうか」
うん、とルーミアが頷く。
「何か、手土産でも持っていければいいんだけど。チルノ、何が好きだっけ」
「……あ、それなら一つ心当たりがあるかも。チルノが好きかどうかは分かんないけど……」
「え、なに、それ」
「飴」
「飴?」
「うん。今日、勝手にあたしが食べちゃったあれ」
「ああ、神社のか。でも、あれって人里に行ってもあるかどうか……」
「それもね、一つ心当たりがあるんだ」
そうして、ルーミアはその心当たりを話す。
「……それ、本気で言ってる?」
「あんまり行きたくはない、かなぁ」
「あたしは嫌だなぁ……」と、焼きあがった串を出しながらミスティアが会話に参加する。「この串みたいに、こんがり焼かれちゃいそうだし」
「焼きあがればいいけど、下手したら跡形もないかも」
全員が唸る。飴があるであろう場所には、出来ればあまり近寄りたくないのだ。それに、飴を持っているであろう人物が素直にくれるとは到底思えない。
「でも、まぁ……」と、少なくなったコップに酒を注ぎ足しながら、リグルが笑う。「それくらいしか、今のところ良い案はなさそうだし、いっちょ行きますか」
わはーとルーミア。やれやれ、とミスティア。
明日のことを話し合いながら、三匹の夜は更けていく。
リグルたちが乾杯の音頭をあげている頃。静かな夜はチルノの元にも訪れていた。
訪れていたのは夜だけではない。霧の湖のほとりに座るチルノの隣には、沈痛した大妖精の姿があった。
「……」
今日の出来事の元を辿ってみれば、自分がリグルたちにチルノの行き先を話してしまったことが始まりなのだ。
もちろん、あんなことになると分かっていれば話しはしなかった。ただ、会話の流れから話しただけであって、決してチルノの楽しい時間を奪いたかったわけではない。
「ごめんね、チルノちゃん……」
そう言っても、膝に顔を埋めたチルノからの返事はない。その姿を見ていると、あまりの痛々しさに胸が苦しくなるのを大妖精は感じた。
チルノが神社に行っていることをリグルたちに話していなかったのは知らなかったし、神社に行って何をしているのかという詳細までは聞いていなかった。大妖精自身も、チルノと二人きりの時に、たまたま会話の流れで聞いただけだった。
だから、そのことを話してくれた時、柔らかくなったチルノの表情の意味を知りたくて神社に行ったという事実は否定できない。だけど、チルノを傷つけたいわけなんてなかった。
悪気はない。でも、結果傷つけてしまった。
「ごめんね……」言い訳なんてできない。自分にできることはひたすらに謝罪の言葉を繰り返すだけ。「ほんとに、ごめんね……」
空に雲はない。僅かに欠けた月が煌々とした明かりで湖を照らし出している。こんなにも綺麗な月の夜だというのに、どうしてこんなにも空気が重いのだろうか。
大妖精はチルノと同じように、膝を立てて、そこに頬を乗せた。チルノの姿を見つめたまま、片手を地面に着く。
ぱり、と草が鳴った。
驚いて手を見てみると、凍って砕けた草の一部が付着していた。見渡すと、チルノを中心にして草や地面が氷を張っている。
それはまるで、チルノの悲しみがあふれ出しているようだった。
堪らず、チルノを背から抱きしめる。冷たい。でも、きっとチルノの心の中はもっと冷たいのだろうと考えると、やりきれない気持ちで一杯になる。
「……ねぇ」
今まで一言も口を開かなかったチルノの呟きが聞こえた。大妖精は言葉を返さず、ただチルノの声がもっとよく聞こえるように顔を近づける。耳元に顔を埋めるようにすると、冷たく澄んだ、チルノの匂いがした。
「霊夢も、さ……」
ひぅ、とチルノの肩が震えた。
「霊夢も、い、今はしてもらったこと、ないけど」
大妖精は抱きしめる腕に力を篭める。肩だけでなく、声が震えているのも、チルノの顔と腕の間から熱を感じるのも、気のせいじゃないから。
「抱きしめ、っ――抱きしめ、てさ、くれたんだ。直接、熱は、感じないんだけど、温かくってさ。おて、つだいしたら、偉い偉いて、ほめ、くれたんだ。ぁ、あの、ね。ほめて、くれたんだよ?」
風が吹く音が聞こえる。ものが凍る音が聞こえる。風は冷気で、凍っていくのは大妖精であり、辺りの自然だ。
「今、は、あんまり撫でたり、褒めたり、ないけど。でも、ね。でも、いい子にしてれば、いつか、また、ね。い、い――」
ひぅ、と、チルノが喉を鳴らす。言葉は時に言葉にならない。それはきっと、言葉に沢山の思いが含まれすぎて、喉から出てこないから。
だから、漏れてきたそれはきっと、彼女の苦しみそのものなのだろう。
「――ぃ、一緒に、寝てくれるかなぁってさぁっ!」
ついにチルノは声をあげて泣き出した。チルノが泣けば泣くほどに、声をあげればあげるほどに、冷気の風は一段と強くなって辺り一体を凍らせていく。
地獄の閻魔をして力を持ちすぎると言わせるチルノの力は、全ての生命を奪いつくす。それは、ただの精霊にはあってはならない力だ。でも、チルノはそれを持ってしまった。
チルノは昔、一人だった。昔、博麗霊夢と出会って一人でなくなって、そしてまた一人になった。
自分で凍らせていたその記憶が解けて、チルノは再び温もりを求めた。でも、それはやっぱり無理なことだったのかもしれない。結局のところ、何をどうしようと、最後は一人になるのが自分の宿命なのかもしれない。力を持ってしまった自分をどうすることもできないように、生まれ持った定めもまた、同じなのかも……
ただ、そんなチルノの脳裏に、あの言葉が浮かび上がる。そう、彼女が言ってくれた、あの言葉が。
「――チルノちゃん?」
その声は、不思議なくらいにはっきりと聞こえた。
「あの、あの、ね。私、ね。うまく言えないんだけ、ど。一緒に、あや、謝りにい、行っても、いいかなぁ? ちチルノちゃんが、嫌なのは、嫌だか、ね……?」
「大……妖精?」
自分を抱きしめる腕をそっと解いて、振り返る。
「――っ! 大妖精!?」
大妖精の体は顔の半分を残して全てが氷に包まれていた。慌てて周囲に視線を巡らすと、地面からも木々の枝葉からも、全てにツララが伸びていて、当たり前の自然などどこにもなかった。
「ね……ね。わた、し一緒に、ぃい?」
「ぁあ、あ、あ……」
――どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう!
大妖精の姿が、重なる。世界に絶望したあの瞬間が、今、また目の前に現れようとしている。自分は、また同じ過ちを犯そうとしている。
「ごめ、ごめん大妖精! あたし、あたし――」
「――ね」
どうしてそんな状態で笑えるのだろうか。大妖精は生きる力を奪われながらも、安心させるように頬を緩ませて、チルノに言う。
「チルノちゃんが嫌、なのは、嫌。だから、謝りに、ね? もし、駄目でも、許して、もらえなくても」
――ね?
言葉は既に紡がれず、だけど、大妖精の瞳は伝えたい思い全てを語っていた。
――許してもらえなくても、私は、友達だからね。
それは、いつか聞いた言葉と、同じもの。
――たとえ一人になっても、孤独になっても、それは決して孤独ってわけじゃないの。だって、この世界に存在する全ての存在が孤独なんだから、本当の意味で孤独なんてありえないの。
『ね、チルノちゃん』
『分かった? ちるの』
二つの顔が、二つの言葉が、重なって、自分に向けられる。
「ぅ――わぁぁぁぁぁあああああああああ!」
チルノは大妖精の足元の氷を全力の力で踏みつけた。地面と大妖精を繋げているそれは、恐ろしいほどの固さで欠片を散らすこともできない。蹴っても蹴っても、それは大妖精を離そうとはしない。
「ああああああああああああああああああ!」
掲げた手のひらに巨大なツララの塊を作り出す。無我夢中で作ったそれを、大妖精の足元に突き刺すと、ようやく崩れ、氷の塊となった大妖精が傾く。
地面に倒れる前に大妖精をしかと受け止め、チルノは月を見上げた。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ。
この時間帯にある月の位置で、方角を確認する。同時に大妖精を抱きしめたまま飛び上がり、もう一度だけ方向を確認して、全力で翔る。
また、自分は同じ過ちを繰り返そうとしている。また、自分は大切な人を失おうとしている。それも、今回は己の手によって。
――嫌だ嫌だ嫌だ。
一瞬、胸元の大妖精を流し見る。妖精にも血の気というものが当てはまるのなら、既に大妖精の顔は死人のそれだった。目を閉じて、唇を紫の斑に変えて、息をしていなくて。
――やだやだやだやだやだやだ。
助けられない。自分では、どうすることもできない。こんな時、自分は何の力もない。
助けて、と思う。助けて、と。自分の向かう先に居る彼女に。
「霊夢ーーーーーー!!!!!!」
「それにしても、あれかしらね。妖精って頭の中身が鳥と一緒なのかしら」
博麗神社の縁側。月の明かりがあたる廊下に大妖精を寝かせながら、霊夢は嘆息交じりに呟いた。
ようやく花の異変の名残も消えようとしている。追随するかのような異変は今のところ姿を見せていないので、ここ最近は心地よい睡眠時間を確保できているというのに、今日に限ってはあまりよろしくない予感があって眠りに就くことができなかった。
本格的に乗り出さないといけないのかどうかがまだ分からない以上、それらしき現場に足を運んで無駄骨になるのは避けたい。できることならこの感覚が今晩中に消えてくれることを祈りながら茶を飲んで月を見ていたら、そこに一つの陰が現れた。恐らくはあれが今回の眠れない原因なのだろうと霊夢は思う。ならば、あれを何とかすれば今日は眠りに就くことができるというわけだ。
だが、どうしてか霊夢の胸にはもう一つの予感が過ぎっていた。きっとあれだけでは済まないだろうという、あまり外れたことのない直感が。
面倒くさくなければいいけど。そう思いながら待ち受けたそれは、記憶が正しければ今日来るなと言ったばかりの悪戯妖精だった。
「れぃ、れいむっ!」
「……はぁ」
目の前に着地したチルノと大妖精の姿を見て、全てを悟った。
「なんで、ここに来るのよ」
ここは神社で、医者が欲しいなら永遠亭に行くのが道理でしょう。
「だて、だって」
「ああ、もういい」
何があったかは知らないが、まともに理由は聞けそうになかったので取り合えず黙らせる。本当ならば放っておいて寝るのが一番なのだろうけれど、この様子を見る限りでは助けないとおちおち寝させてもくれなさそうだ。
心の底から、どうして自分には安息という文字がないのかとため息を吐いた。
世の不条理は一先ず置いといて、今は目の前の小さな異変を片付けることにする。先ずはチルノから大妖精を受け取る。直接持ったら凍傷を起こしてしまいそうだったので、体全体に薄い結界を施す。
そして、受け取った大妖精を見て、思う。
――無理。
妖精というのは自然が形を成したものだ。風の妖精が風を吹かせたいと思えば風が吹く。妖精は自然なので、意思はそのまま現象として表れる。
では何が無理なのか。例えば流れる川があるとする。その川は流れている内は川としての形を成している。その川がもしも凍ってしまったとしたら、それは果たして川なのだろうか。もちろん違う。それは川であった氷であり、決して川ではない。
霊夢の腕の中にいる妖精は、既に己の自然としての形が変わろうとしている。
だが、自然というものは廻るものでもある。凍った川も、溶けて流れを取り戻せばそれはまた川となる。妖精も同じで、一度綻んでしまえば、後は元の形を取り戻すだけだ。
ただ、戻って形を成した其れが、果たして元のものと同じ意思を持っているかどうかになると話は別だが。
どちらにしても、妖精は死ぬことはない。
「ねえ、これ、放ってちゃだめなの?」
「ぇ、ぇぅっ?」
「妖精でしょ?」
霊夢は視線で語る。即ち、あんたも妖精だから、意味は分かるわよね、と。
一瞬だけ、チルノの動きが固まる。霊夢の言葉に衝撃を受けたのではなく、ただ意味を理解するのに時間がかかっているだけだ。
「ぃ、ゃぁだぁ」泣きながらチルノは言う。「やぁ、だぁ」
「はぁ……」
こういう返事が来るだろうとは、何となくは分かっていたので、霊夢は何も言わない。それが許されるなら、こんなに戸惑った状態でここには来ないだろうから。
改めて大妖精を見る。もう、放っておいたらあと数寸で形が崩れ始めるだろう。
霊夢は思う。やっぱり面倒くさいなぁ、と。何故なら、実際問題として、今ここでこの妖精が形をなくそうとも、時間さえあれば元に戻るのだ。そこには、何の異変も問題も障害もない。
だから、これは本当は、しなくてもいいことなのだ。してもしなくても同じ結果が待っているのだから、ここで助けるということは、先ほど霊夢が避けた無駄骨なのだ。
だけど、同時にしなければならないことでもある。霊夢自身、理解できない感覚に若干の苛立ちを感じるけれど、どうしてか、チルノの泣き顔を見ていると『そうしてやらねば』という気持ちにさせられてしまう。
矛盾。何だかそれを考えるのも面倒くさくなって、霊夢は矛盾の名代を呼び出すことにした。
「紫、あんた夜行性でしょ。ちょっと来なさい」
無言。
「……ふぅん。一緒に寝る、お風呂、その他もろもろ、なくなっても――」
「――呼んだかしら霊夢?」
「最初から素直に出て来い」
後はもう語ることはない。正しい矛盾が全てを解決しただけだ。
晴れやかとまではいかないが、紫の力によって大妖精の表情は落ち着いたものになっている。縁側に寝かせているのは、自然を浴びせるほうが妖精にとっては薬になるからだ。後は、自然と目を覚ますのを待つだけだ。
「……」
「……」
真夜中に月を見上げながらの小さな茶会というのも中々に粋なものかもしれない。ここに月見団子でもあれば言うことはないのだろうが、生憎とそんなものを作って置いておくほど用意がいいわけでもない。
大妖精が目を覚ますまでとはいえ、ここまでしたのだから放っておくのも何とはなしに忍びないとこうしているものの、隣に座って俯いたまま黙っているチルノがこちらに意識をやっているのがこそばゆい。
「何かあるなら言いなさいよ」
抑揚なく言ったつもりだったけれど、もしかしたら不機嫌な声になったかもしれない。少し肩を震えさせたチルノを横目で見ながら、霊夢はそう思った。
一度だけこっちをみたチルノだったけれど、すぐにまた顔を俯かせて黙り込む。
――どうしろってのよ、全く……
「あの……」と、ようやくといった感じでチルノが口を開く。「……ごめんね、迷惑かけちゃって」
「……は?」
何というか、全くの予想外な言葉だった。
「迷惑? 誰が?」
「……霊夢」
「……」
これはどう返したらいいのだろうかと、本気で霊夢は悩む。
「一つ、聞いていいかしら?」
「……うん」
「何をもってして、私が今迷惑を感じているっての?」
「だって……! もう、来るなって言ったのに、こうして……」
「……」
やはり、霊夢には今のチルノの気持ちが分からなかった。
「ねぇ、あんた、本当に妖精?」
種類や、妖精という言葉の定義を深く掘り下げて考えてみれば、また違う言葉の一つも出てくるのだろう。けれど、少なくとも目の前に居る妖精は、基本的にそこらの妖怪と同じで自分のことしか考えないか、もしくは一つのことしか頭にないはずだ。
そもそも妖精というものはそんなに賢いわけではない。摩訶不思議な力を持ってして人間を惑わしたり悪戯して困らせたりするものの、頭の良さというか、思考の深さだけなら決して褒められるようなものはもって居ないはずなのだ。
「まぁ……あんたに関して言えば、今更なのかも知れないけどさぁ」
別に、これはこの“散る野”と仲良くしていたご先祖様の記憶を見たからではない。ここ最近の手伝いをしに来たり、さっきの泣いて感情ををあらわにしたりする姿から思うことだ。
一重に言ってしまえば、つまり、
「あんた、変よね」
思わず、吹き出してしまう。手を口に当てて笑いながらチルノを見ると、驚いた顔をして霊夢を見ていた。
「怒って、ないの?」
「だから、どうして? あはは、あんたおっかしいわ」
「だって――」
「――だって、なに? 私が何をどう思ってどう考えて何をするか、それをあんたが決めるの?」
そんなことはありえない。
「あんただって、自分の思ったこと考えたこと感じたこと、それらは全部、あんたのものでしょう? 誰かにしろ、って命令されて湧き上がってきたものじゃないはずよ。違う?」
「……」
「そりゃ、あたしだって人間だもの。悪戯されれば怒るし、嬉しいことがあれば笑う。お酒なんていいわね。うちで開かれる宴会はちょっと回数が多いから問題だけど、それでもやっぱりあれば楽しむ」
少し、話が反れたわね、と一口茶をすする。
「大切なのは誰がどうか、よりも自分がどうありたいか、でしょう? ……まぁ、人の迷惑を顧みないでげらげら笑いながら宴会開いて後始末をぜーんぶこっちに持ってこられるよりはマシだけど」だから、と、霊夢は続ける。「あんたはまだまだちゃちな妖精。ただでさえ勝手な妖精なんだからもっと好き勝手にしてみれば?」
まぁ、悪戯したらもちろん怒るけど、と最後に付け加えることは忘れない。
「……」
最初、チルノは霊夢の言葉に放心した顔をしていた。そして、段々とその言葉の意味を理解し、飲み込むにつれて、じわりじわりと目尻が緩んでいくのを感じた。
チルノは、霧の湖のほとりで考えていたことを思い出した。
昔の霊夢ならば、絶対に自分に来るななんて言わない。だから、今の霊夢にとっては、自分はただの迷惑な、その辺にいる妖怪とかと同じ存在にしか過ぎないのだと、そう考えていた。
でも、違った。やっぱり、霊夢は霊夢だった。あの頃のように髪が長くなくても、微笑みの形も、漂わせる雰囲気が違っても、やっぱり、霊夢は霊夢だった。
「……うん」
何となく、チルノは霊夢の周りにいる人間がどうしてああも勝手ににして許されているのか、その答えを見つけた気がした。同時に、自分が以前考えたことがある一つの結論も、間違っていなかったのだと思った。やっぱり、少しくらい勝手な方が、霊夢との付き合いには丁度いいのかもしれない。
空を見ると、月が綺麗だった。
「それにしても……今日はこれで本当に終わるのかしら?」
「?」
「何でもない、こっちのこと」
霊夢の呟きにチルノが首をかしげる。チルノが来る時に感じた“予感”は二つだった。所詮は感でしかないし、何もないのならそれに越したことはない。
「まぁいいか。私はそろそろ寝るわ。あんた、どうすんの?」
「え?」
「どうせその子もまだ起きなさそうだしね。何、帰るの? それとも泊まってくの?」
「あ……じゃあ、泊まる……いいの?」
「うるさくしなければね。あとは勝手になさい」
「うん……」
「一応聞くけど、布団は?」
「いい」
「そ、じゃ、おやすみ」
そう言って、霊夢は障子の向こうに消えていった。
霊夢が居なくなってしばらく経ってからも、チルノはそのまま障子を見つめていた。
「……へへー」
嬉しい、とでも言えば今の気持ちに一番近いのだろうか。くすぐったいような笑みが止まらない。
大妖精が助かってくれたのも嬉しいし、霊夢が助けてくれたのも嬉しいし、またここに来てもいいんだと思えたことが嬉しい。
でもきっと、何よりも嬉しいのは、霊夢が霊夢だったこと。それに気がつけたことだろうとチルノは思う。
翌日。霊夢は前日に感じていたもう一つの予感が間違ってなかったことを知る。
それは、すっかりと調子の良くなった大妖精とチルノと霊夢、三人が縁側で腰を並べている時のことだった。
最初は気が付かなかったが、空の向こう側に、青でも白でもない色が点在している。チルノが指摘して、大妖精と霊夢が続いて気が付き、不思議そうに見つめていると、突然巨大な光が生まれ、次の瞬間には地面が間欠泉のように吹き上がっていた。
「は?」
ぽかんと霊夢が口を開く。残りの二匹も同じような顔で自由落下していく土を見ている。
土が落ちていくと、その向こう側からまた色とりどりの何かが煌き始めた。点在するそれらの姿がようやくはっきり見える距離になって、霊夢は何故か頭を抱えたい気持ちになった。
彩り鮮やかなそれは、星だった。それが段々と博麗神社に近づいてきている。となると、次に来るのは何か。
「チルノ……じゃ駄目か、あんた、もここの構造知らないか。仕方ない、ちょっとお茶入れてくるから、今から来るの、よろしく」
「え?」
返事を待たずして、霊夢はそそくさと土間へ消えていく。言葉の意味を今一つ理解できていない二匹だったが、視線を戻すと、霊夢が何を言いたかったのかがすぐに分かった。
「ルーミア、ちゃん?」
そう、まるで星たちに追われるようにルーミアを筆頭にしてリグルとミスティアが博麗神社目掛けて必死の形相で飛んで来ている。その後ろからは、白と黒の服が特徴的な霧雨魔理沙の姿があった。
「何か、したのかな?」
「かなぁ……」
見る見る間にルーミアたちは近づいてくる。もう少しで神社の敷地上空、というところになって、突然リグルとミスティアが反転して魔理沙目掛けて弾幕を張り始めた。
その間もルーミアだけはチルノたち目掛けて飛んでくる。
「え――」
と声を出す暇もなくルーミアは目の前に着地すると、チルノの手を取って何かを渡した。
「――チルノ、昨日はごめん! これはリグルとミスティアの分も謝る! ごめんねまた遊ぼう!」
そう口早に言うと、ルーミアはあっという間に空へと浮かび上がってリグルたちと混ざって魔理沙と弾幕ごっこを始めた。
「これって」
渡されたものを見ると、それはいつも霊夢が自分にくれて、昨日ルーミアが空にしてしまった飴玉が詰まった容器だった。
「なんで?」
「多分……そのままの意味じゃないかな?」
ルーミアの行動に首をかしげるチルノに、大妖精が言う。
「そのままって?」
「だから」にこ、と笑いながら、大妖精は言う。「また遊ぼうね、って意味じゃないかな」
「……」
チルノはルーミアたちを見た。魔理沙が放つ弾や魔砲をカスったりあるいは腕を持っていかれながらも必死に避けている。でも、その顔がどこか満足そうに微笑んでいるのは気のせいだろうか。
「ちょっと何よ、あれ……」
ぺたぺたと足音を立てながら霊夢が帰ってきた。上空で行われている弾幕ごっこを見ながら、こっちに被害がこなければいいけど、と呟いている。
「で、何だったの? 上でやんちゃしてるってことはここには用事がなかったのかしら」
「これ、昨日のお詫びだって」
「んん? ああ、魔理沙からもらった飴ね。あら、でもよく魔理沙が素直にくれたわね」
私だって条件付きでもらったのに。そう言う霊夢に、チルノは黙って指を上空に向ける。
「ああ……そういう」
やれやれと首を振る霊夢とは違って、チルノの顔は清々しいものだった。
「明日は何してあそぼっか」
両足をぷらぷらと揺らしながら、チルノは大妖精に問いかける。何でもよかった。今なら、きっと何をしても楽しいだろうから。
「あ、じゃあさチルノちゃん。その前に」と、大妖精はチルノの手を取る。何、と首を傾げるチルノの両手をそのまま上下に振りながら、大妖精は言う。「先ずは昨日の遊びをきちんと覚えよ? そしたら、今度は皆でできる新しい遊び、しない?」
「……うん。いいね。そうしよう。今度はあたしも、山に一緒に行くからさ」
「うんっ。じゃあ、いち、にの、さん、はい」
「あーるーぷーすー」
「いちまんじゃーくー」
「……どうでもいいけど、あれ、いつ終わるのかなぁ。どうせ、後で魔理沙が来るんだろうなぁ。偶には静かなお昼下がりを……ああ、無理そうね……」
魔理沙がミニ八卦炉を構えた方向にはルーミアたちが居て、その延長線上には博麗神社の鳥居がある。
上の出来事とは無関係にはしゃぐチルノと大妖精を見ながら、あんたらはのんきでいいわねぇ、と霊夢はぼやいた。
魔法の森の中は普通の人間だけでなく、一般の妖怪もあまり足を踏み入れることはない。森の中は化け物茸が放つ瘴気が宙を漂っているからだ。
だが、それも人間の里寄りは比較的過ごしやすい。
「さて、じゃあ次は何して遊ぼうか」
森の中に小さくひらけた広場がある。そう広くもないが、集って雑談を交わしたりする程度には丁度いい場所だ。その真ん中で、ある意味では恒例となりつつある、チルノ、リグル、ルーミア、ミスティア、大妖精の五匹が輪を作っている。
「かくれんぼは駄目なんだっけ?」
「……前にやって、リグルの一人勝ちだったから駄目」
大妖精があごに指を当てて言うも、腕を組んだミスティアが苦い顔で否定する。ミスティアとしては、本当ならかくれんぼでもいい。魔法の森というだけあって木々は山ほどあるし、隠れるところにはこと困らない、のだが……
「あー……うん、ごめん」
「いや、仕方ないよ、あれは、ね」
何日か前に、集まった五人がかくれんぼをした。最初にリグルが鬼になったのだが、数を数え終わって探し始めて数分もしない内に全員が見つかることとなった。理由は簡単で、皆が隠れているところに、不自然な形で虫たちが集まっていたのだ。リグルが命令してやったわけではなく、虫たちがリグルのためにやったことだったのだが、この後いくらリグルが虫たちに「そんなことはしなくていい」と言っても聞き入れてはくれなかった。
もしかしたら、リグルのためであると同時に虫たちもリグルの真似をしたかったのかもしれない。厳しく言えばきっと止めてくれるだろうけれど、そこまでして除け者みたいに扱いたくないというリグルの意見で、かくれんぼは虫たちがいないところ以外では出来にくくなってしまった。虫たちがいないところなんて、ないのだけれども。
「えー、かくれんぼでもいいのにー」
「……まぁ、理由はそれだけじゃないしね。あたしも命をかけてまでかくれんぼしたいわけじゃないし」
ルーミアが残念そうに言うが、ミスティアは聞かない振りをする。隠れている時、背後から忍び寄ってきたルーミアに食べられそうになったのをミスティアは忘れていない。
「んー、じゃあどうしよ。人里から何か持ってきてもいいんだけど、後で慧音に怒られそうだし」
「怒るで済めばいいけど」
「だね」
「ねえ、チルノちゃんは何かしたいことある?」
「――え?」
ぼんやりと考えごとをしていたチルノが顔を上げる。
「いや、チルノも何か案はないかなーって」
「あー、うん。何でもいいけど」
「その何でもが見つからないから困ってるんだよ」
「んー、そうだなぁ」
言いながら、草原に座る。森の中のひらけた場所なので、草の上にはちらほらと花弁が落ちている。もう、異変の名残は段々と姿を消そうとしている。
「あ、そういえば前々から気になってたんだけど、ねぇリグル」
「なに?」
「やっぱり、花が一杯咲いたから虫たちって喜んでたの?」
特に理由はないが、チルノが座ったので他の四匹も倣って草の上に腰を下ろす。
「あー、そうだなぁ。蝶とか、蜜が大好きな子たちは大喜びだったかな。でもどっちかっていうと、花畑に棲んでる人の方が喜んでた気がするかな」
「ああ、あれ?」
「そう、あれ。一回受粉させたいからって呼び出し、もとい拉致された」
「え……それって大丈夫だったの?」
噂程度ではあったけれど、何やら危険な妖怪ということだけは聞いているミスティアが顔を引きつらせる。
「うん、まぁやっぱり最初は怖かったけど、花に害を与えなければ特に問題はなかったよ」
「へー、噂では笑顔で人が気絶したとか聞いたけど」
「あー……」と、リグルが空を仰ぐ。その視線は、どこか遠い。「蝶や蜂に混ざって花を食べたり枯らしちゃう虫まで一緒だったから、見つかった瞬間土下座はした、かな」
「……」
ははは、と乾いた笑みを浮かべるリグルに、やっぱりあそこには近づくまいと心に誓う。
「でも、本当に普段は特に害はないよ。こっちが何もしなければ、だけど。あ、それよりミスティア、何かこないだ人間に怒られたって聞いたけど?」
「あー? どれ?」
「ほら、プリズムリバーと勝手に騒いでたとかなんとか」
「あれは勝手に人間たちが近寄ってきただけでー」
「――」
「――」
自分は悪くないけど人に被害が出てしまって、更には慧音まで出てきてしまったから云々。二人はそのままその時の会話に没頭し始めた。
ルーミアは既に草の上に寝転がっているし、大妖精は大妖精で先日面白いことを教えてもらったのだと嬉しそうにチルノに語っている。
どうやら、今日はもう歓談の時間を過ごすことに決まったようだった。
ルーミアがお腹空いたとうつぶせになり、リグルはミスティアと人里の周辺を歩くときの注意を話している。その論題は主に、如何にして慧音に見つからず、また怒られないようにするかというもの。
そして、大妖精はチルノに新しい手遊びを教えていた。
「せっせっせーのよいよいよい」
「あーるーぷーすー……ん?」
最初は形にならなかったのがようやく遊びになってきた頃、ふとチルノが頭上を見上げた。つられるように大妖精も顔を向ける。
「どうしたの?」
「ん。ごめん、あたしそろそろ行くね」
大妖精と合わせた手を離して、チルノは立ち上がる。
「また何かお山の妖怪から聞いたら教えてね」
「あー、チルノ行くの?」
「うん、またね」
「またー」
手を振ってチルノは青空の中へと消えていく。ゆっくりと遠くなっていくチルノの背中を見つめながら、そういえば、とリグルが口を開く。
「最近なんだかチルノ、いっつもどっかに行ってる気がするけど、知ってる?」
「さぁ。分かんない。」
「さー」
「あ、私知ってる」
と、大妖精の言葉に全員が振り向く。
「え、どこ」
「博麗神社に行ってるんだって」
大妖精の口から出た意外な場所の名前に、ミスティアが首をひねる。
「神社って巫女のところ? 何でまた」
「それは私も聞いてないけど……」
大妖精とリグルも首をひねる。ルーミアは寝ている。
「そういえばさ、何か最近チルノって雰囲気変わったよね」
「ああ、それは思う。何か大人しくなった感じ」
「丸くなったって言い方は変かなぁ」
「赤ちゃんが出来たのかー?」
『それは違う』
始めから会話に参加するつもりがないのか、ルーミアはテキトウなことを言う。他の皆もそれが分かっているからこそ放っているが、ルーミアは偶に可笑しなことを言うので無視が出来ない。
「まぁ、別に悪いことじゃないから、いいんだけどさ」
リグルがそう締めると、会話がなくなった。話題はないし、することもない。いや、リグルに関して言えば偶に虫たちの様子を見たり幽香のところに顔を出さないといけないのだが、別にそれは早急なものではない。
「どうしよっか」
「そうだねー」
妖怪の呟きは空気に消える。解散してもいいのだが、それもまた味気がない。
さて本格的にどうするか、となった時だった。何気なく、リグルが言った。
「私たちも神社に行ってみる?」
今日も今日とて博麗霊夢は掃除に忙しい。それだけではない、朝起きては水で体を清め、瞑想し神に祈りを捧げる。更には人里の周辺や魔法の森、または御山に至るまでを見回る。彼女の幻想郷の平和に対する姿勢に瑕疵はない。
なんてわけがあるわけもない。
「……霊夢、だらしない」
縁側から足を垂らしたまま仰向けになり、霊夢は寝ていた。服の裾が捲れ、おへそが見えるのが何とも言えない。お茶でも飲んでいたのだろう、脇にはいつものお茶飲み道具が置いてある。
チルノはお茶を挟んで霊夢の隣に座った。急須を持ってみると少しだけ入っていたので、まだ中身が半分は残っている霊夢の飲みかけに継ぎ足す。もう熱くはないので、そのまま飲めるのが嬉しいところだ。
チルノの最近の日課はお昼を過ぎる頃になったらこうして霊夢の元を訪れて何かしらの手伝いをすることだ。もちろんその目的は霊夢にご褒美をもらうの一点。しかし、二回目にお手伝いをして、一回目と同じご褒美をお願いしたら次からは飴玉を用意されてしまった。
本音を言えば、霊夢と一緒に居ることが目的なのだから別に手伝いに対する報酬はなくてもいい。結局のところ、自分は手伝い、謝礼という形を利用して霊夢に会いに来ているだけなのだから。それくらいの自覚は、チルノにはあった。
だから、別に手伝ったご褒美が飴玉になろうと何だろうと不満というものはない。ない。ないのだが……
左隣ですやすやと寝息を立てる霊夢の寝顔を見る。
「……」
恐る恐る、ほっぺたを指先で触れる。何度か軽く押しても起きる気配が一向にないので、そのまま手のひらで触れてみた。
「わ……」
何故か分からないけれど、触れているこっちが恥ずかしくなってくる。何だか居たたまれない気持ちになり、チルノは残りのお茶を一気に飲み干して縁側から飛び降りた。
「……掃除、してよ」
さっき境内を通ってきたときにはまだ掃除をした形跡はなかった。この調子だと今日はあまりやる気がないみたいなので、起きる前に終わらせてしまっておいても問題はないだろう。
「ん?」
一瞬、林の方で音がしたので振り向いて見るが、何もいない。
「ま、いっか」
特に気にとめることもなく、チルノは物置に箒を取りに行った。
そして、特に目的もなく後を追って神社へとやってきた四匹は草陰に隠れてチルノが立ち去るのを見ていた。
「……」
「……どう思う?」
「うーん……悪戯して逃げたんじゃない?」
「やっぱり?」
「うん」
「お腹空いたー」
リグルとミスティアから見たチルノの行動は、チルノが勝手にお茶を飲んで霊夢の頬をつねり、起きそうになったから逃げた、というものだ。
「何て言うか、チルノも勇気があるね」
「だねー。とてもじゃないけど真似できないなぁ」
「うーん……」と、しみじみとチルノの行動を観察していた二人に、大妖精がポツリと呟く。「ほんとに、悪戯だったのかなぁ」
「どういうこと?」
「だって、チルノちゃん……」
不思議そうにするリグルの疑問に、大妖精はチルノが立ち去った方向を見たまま続けようとする。
「ちょ、ルーミアっ」
その時、話しに参加していなかったルーミアが突然草陰から出て行った。慌ててミスティアが止めようとするも、既に宙に浮かんでいるルーミアの動きが早く袖を掴み損ねる。
「ちょっと、不味いって」
「ルーミアちゃんっ」
慌ててリグルと大妖精も後を追う。
ルーミアは縁側まで来ると、霊夢の顔を見つめだした。
「食べていいかなぁ?」
「駄目に決まってるじゃんっ!」
「う~」
そのままルーミアは土間の方へと飛んでいく。
「大妖精お願い」
「うん」
瞬間移動が出来る大妖精が一瞬の内にルーミアの後ろに現れて羽交い絞めにする。が、ルーミアの力の方が強いのか、空腹がそうさせるのか、大妖精を引きずりながら、ルーミアは土間へと消えていく。
「あ~あ……」
「大丈夫かなぁ」
「まぁ、大妖精に任せておけばいいんじゃない?」
二匹は追いかけるのを止めてルーミアと大妖精の背中を見送る。大妖精なら任せておけば大丈夫だろうし、もし無理だったとしても、ルーミアも飽きれば戻ってくるだろう。
だが、ここで戻ってくるだろう存在がもう一つあったことを、リグルたちはすっかり忘れていた。
「あれ、リグルとミスティア?」
二匹の肩が大きくはねる。
「え、あれ、なんで?」
近づいてくる足音に心臓を激しく鳴らしながら、恐る恐るとチルノに振り返る。
一瞬、リグルとミスティアの視線が絡み合う。
どうする?
いや、どうしよう。
素直に言う?
そうしようか?
自分たちの前まできたチルノに、リグルが口を開く。
「あー、いや、さ。最近チルノが何だかこの神社に足を運んでるっていうから、何かあるのかと思って来てみたらチルノはいないし、巫女は寝てるからどうしようかなーってさ」
「え、それって誰から聞いたの?」
「大妖精」
「あー、ああ。そういえば……」と、チルノの視線が霊夢の方に向く。「あ、霊夢起きたらいけないから、境内の方に行かない?」
「ん? うん、いいけど。あ、でも今ルーミアが……」
そこまで言って、ルーミアの姿が視界の端に映った。そして、リグルは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「ルーミアちゃん駄目だってっ、勝手に食べたら怒られちゃうよ」
「んー、でもおいしいよ。大妖精も食べない?」
「食べたいけど、駄目なものは駄目だよぉ」
「あ……」
チルノは見る。ルーミアが手に持って食べているもの、それはいつもお手伝いのご褒美にと霊夢がくれる飴玉だった。小さく透明な容器の中には、色とりどりの飴が入っていて、一回手伝いをするたびに一つ、チルノは舐めることができるのだ。
容器の中の飴玉は、三分の二がなくなっていた。
その中身がどこへといったのか、でこぼこに膨らんだルーミアの頬を見れば自然と理解できた。
「――」
霊夢の手伝いをする。
仕方ないといった顔で、霊夢は飴をくれる。
本当は違うご褒美が欲しかった。
でも、それは確かに“霊夢”が“自分”にとくれたものだった。
ここ数日のそれらが、何か嫌なものに塗りつぶされた。思い出すだけで不思議な嬉しさを感じることが出来たのに。なのに、泥団子をぶつけられたような、何か、嫌なものでつぶされた。
「んー?」と、チルノの存在に気がついたルーミアが残り僅かな飴玉の入った容器を掲げる。「チルノやっほーう。チルノも食べるー? おいしいよ」
ルーミアは大妖精を腰に引きずったまま、廊下から一寸上を浮かびながら移動している。その先には、霊夢の体がある。結果、チルノの方を向いたままのルーミアの足が寝ている霊夢の体に引っかかり、前に倒れていく。腰にしがみついていた大妖精の体もつられて倒れていく。
ルーミアが顔からお茶に突っ込み、大妖精は霊夢の上に倒れこんだ。
『あ――』と出たその声は一体誰のものだったか。
「……」
静かに、霊夢は体を起こした。その顔を仰ぐようになっている大妖精の顔は固まっている。ルーミアは目を回して廊下に倒れたまま。
容器から、飴玉が一つ、二つと廊下から地面へと落ちていく。
「ぁ」
その時、チルノは霊夢と目が合った。
それから、五匹は怒られた。起き上がった霊夢によって大妖精とルーミアは宙に投げられる。そして問答無用に霊夢は指を二本立てる。スペルカード二枚使用の弾幕ごっこ。
でも、それは手加減の一切ない、逃げ出したくなるような怒気の篭った弾幕だった。事実、四匹は逃げようとしたが、逃げられずに、一枚のカードを宣言することもなく殲滅された。
唯一、チルノだけは最初から動こうとしなかった。霊夢も、もしかしたらそれは逃げようとしなかったからかも知れないが、チルノに弾を向けることはなかった。
ただ一言だけ――もう来るな、と言った。
「いたたたたた……」
「今回はマジだったね。手加減あった? あれ」
「多分、なかったと思う……」
「だよね……あれ多分ぎりぎりで弾幕ごっこ、じゃないよ。もしくは紙一重での弾幕ごっこ。ついでに言うと、被弾の数を指定しなかったのはあれきっとわざとだね」
「うー」
四匹は朝に遊んでいた広場に戻って来ていた。巫女は怒っていたけれど、そこまで追いかけてくるつもりはないのか、それとも全員に二回ずつ当てたからか追いかけてくることはなかった。
「しばらくは霊夢のところには近づけないね」
「元々近づくこともないけど、そうだね。しばらくは目につかないようにした方がいいかも」
「あ、チルノちゃん」
ルーミアなどよりは比較的痛い弾を食らってない大妖精が空を指差す。見ると、確かにチルノがゆっくりとこちらに向かってきていた。何となく、元気がないように見える。
「チルノは大丈夫だったんだね」
服装は朝と何の変わりもない。自分たちは逃げることで必死だったけれど、もしかしたらチルノだけは謝って許してもらえたのかもしれない。
着地したチルノは、力ない足取りでリグルたちに近づいてくる。でも、顔は俯いていて、四匹の方を見ようとはしない。
すぐ傍まで来て、立ち止まる。
「チルノ?」
「……」
「え?」
小さく口を動かして、チルノは突然踵を返して走り出した。
「あ、チルノ!」
チルノの背中が森の中へと消えていく。それからすぐに、森の上空をチルノが飛んでいくのが見えた。
「どうしたんだろ、リグル」
「ちょっと様子が違ったよね」
「うん……」
一体何が起きたのか分かっていない中、大妖精だけは、チルノが何を言ったのかを確かに聞いていた。
――ばか。
夜というものは、基本的に静かなものとして認識されるものだろう。それは人里であろうと魔法の森であろうと妖怪の御山であろうと変わりはない。
それでも、ミスティアが開いている夜の屋台は夜の帳がおりても比較的賑やかな場所だった。訪れるものも千差万別で、そこに酒とつまみがあれば小さな宴会に早変わりする。
だというのに、今日に至ってそこは、通夜のような静けさを漂わせている。ミスティアは焼き場の前で黙々と串を焼いているし、席に座るリグルも同様に、出されたつまみを淡々と口の中に入れている。
不思議なもので、こんな晩には他の客足も一向に訪れることはない。
普段はあまり飲まない酒で口の中のものを流し込んだリグルが口を開く。
「チルノに、悪いことしちゃったかな……」
「かもね」
チルノが去ってから訪れたものは、何とも言いがたい、気まずい空気だった。自分たちの友達を傷つけてしまったのだろうことは、何とはなしに分かっている。でも、根本的なその理由が誰も分からないでいた。
その切欠を知っていたのは、四匹の中で最もチルノと付き合いの長い大妖精だった。大妖精は、最近のチルノが頻繁に神社に行っていることと、それを自分に語るときの様子を話してくれた。
チルノが神社に行った話をしてくれる時は、とても楽しそうにしていた、と。
チルノと霊夢の間に何があるのか、それは誰も分からない。けれど、もしかしたらチルノにとって、神社での出来事は何か大切なものを含んでいたのかもしれない。
所詮は憶測でしかなく、真相は分からない。でも、もしもそれが正しかった場合、自分たちはチルノにとっての大切な場所で勝手なことをしてしまった。
「どうしよっか」
ミスティアが焼いてくれた新しい串盛りを頬張りながら、リグルが呟く。謝るべきなのだろうけど、どう謝罪すればいいのか分からない。
それはミスティアも同じことなのか、リグルの言葉をただ聞いているだけだ。
「うー、みすちー何か食べるものなぁい?」
そんな時、暗闇の中からルーミアが姿を現した。そのまま席に座ると、彼女はどこか気だるそうに体を突っ伏した。しばらくその姿勢のままで居たが、ふと何かに気がついたかのように体を起こすと、その視線をリグルの手元に向けた。
「あ、リグルー、それもらってもいい?」
「え、ああうん。いいよ。いいよね、ミスティア」
「いいんじゃない」
「いただきまーす」
そう言って、ルーミアは盛ってある串を一口で食べる。
「よく食べるなぁルーミア……」豪快な食べっぷりを見ながら、呆れたような感想を漏らす。そんなに食べても大丈夫なのだからすごいなぁ、と思い、ふと疑問を抱く。「あれ、でもルーミア今日はずっとお腹空いたって言ってたね」
「みすちーお替りぃ」
「ルーミア、リグルの話し聞いてないでしょ……」
ため息を吐きながらも、ミスティアは新しい串を焼き始める。
「んー。最近ご飯あんまり食べれなくてさ」
「なんで?」
「あんまり森とかに迷い込んだり、道から外れた人間もいないからー。木の実とかでもいいんだけど、最近咲いた花に栄養が全部取られちゃったのか実がちょっとしかついてないし、お腹ぺこぺこ」
「魚とか獣は?」
「前にいっぱい食べ過ぎて慧音に怒られた」
「あー……」
きっと人里に実害が出るほどに乱獲してしまったのだろう。魚や獣は、妖怪だけじゃなく、どちらかと言えば人間が主に食するものだから。
「今は大丈夫なの?」
「今はだいぶー。もうお腹が空いて仕方がないから少し食べてきたし、今も食べてるから」
「ちなみに食べてきたってどこで何を?」
「内緒」
深く考えると怖くなるので、この話題をこれ以上追求するのは止めることにした。
厳密に言ってしまえば、妖怪はものを食べなくてもそうそう死んだり弱ったりはしない。でも、その代わりに少しだけ凶暴性が増す傾向にある。
ルーミアは偶にこうして屋台に来ては好きなだけ食べていく。一応は商いをしてるわけだから、ミスティアとしても困るといえば困るが、半分は仕方ないとも思っている。空腹になっても暴れるわけでもなく、ただ餓鬼のように食べ物に貪欲になるだけだし、同じ妖怪としてその欲求はよく分かるから。
「あー、だから今日も神社であんな無謀なことを」
いくら欲求が強くても、あの神社で盗人行為をすることは万死に値するだけに、無謀としか言いようがない。
「うん。まぁあの時はあんまり頭が働いてなかったからなー」
わはー、と笑う。口の中にある肉を飲み込んで、串だけを皿に戻すと、
「ところで、さぁ」一転して、少し調子を落とした声で、ルーミアが言う。「チルノ、やっぱり怒ってた?」
その言葉に、また、場の空気が重くなる。
「どうかな。怒ってはいないと思う。ただ、多分」
そう、誰もはっきりとは見ていないけど、恐らくチルノは、
「……泣いてた、かな」
「そっか……じゃあ、やっぱり悪いことしちゃったんだね」
「うん」
辺りに、ミスティアの串を焼く音だけが響き渡る。静かな夜だけに、その音はいやに大きく聞こえる。
リグルはミスティアに頼んで、ルーミアの分のコップを出してもらう。黙ってそれに酒を注ぎ足すと、自分の分にも入れて、ルーミアのコップと合わせた。小さく、甲高い音が鳴る。
「取り合えず、明日、チルノに謝りに行こうか」
うん、とルーミアが頷く。
「何か、手土産でも持っていければいいんだけど。チルノ、何が好きだっけ」
「……あ、それなら一つ心当たりがあるかも。チルノが好きかどうかは分かんないけど……」
「え、なに、それ」
「飴」
「飴?」
「うん。今日、勝手にあたしが食べちゃったあれ」
「ああ、神社のか。でも、あれって人里に行ってもあるかどうか……」
「それもね、一つ心当たりがあるんだ」
そうして、ルーミアはその心当たりを話す。
「……それ、本気で言ってる?」
「あんまり行きたくはない、かなぁ」
「あたしは嫌だなぁ……」と、焼きあがった串を出しながらミスティアが会話に参加する。「この串みたいに、こんがり焼かれちゃいそうだし」
「焼きあがればいいけど、下手したら跡形もないかも」
全員が唸る。飴があるであろう場所には、出来ればあまり近寄りたくないのだ。それに、飴を持っているであろう人物が素直にくれるとは到底思えない。
「でも、まぁ……」と、少なくなったコップに酒を注ぎ足しながら、リグルが笑う。「それくらいしか、今のところ良い案はなさそうだし、いっちょ行きますか」
わはーとルーミア。やれやれ、とミスティア。
明日のことを話し合いながら、三匹の夜は更けていく。
リグルたちが乾杯の音頭をあげている頃。静かな夜はチルノの元にも訪れていた。
訪れていたのは夜だけではない。霧の湖のほとりに座るチルノの隣には、沈痛した大妖精の姿があった。
「……」
今日の出来事の元を辿ってみれば、自分がリグルたちにチルノの行き先を話してしまったことが始まりなのだ。
もちろん、あんなことになると分かっていれば話しはしなかった。ただ、会話の流れから話しただけであって、決してチルノの楽しい時間を奪いたかったわけではない。
「ごめんね、チルノちゃん……」
そう言っても、膝に顔を埋めたチルノからの返事はない。その姿を見ていると、あまりの痛々しさに胸が苦しくなるのを大妖精は感じた。
チルノが神社に行っていることをリグルたちに話していなかったのは知らなかったし、神社に行って何をしているのかという詳細までは聞いていなかった。大妖精自身も、チルノと二人きりの時に、たまたま会話の流れで聞いただけだった。
だから、そのことを話してくれた時、柔らかくなったチルノの表情の意味を知りたくて神社に行ったという事実は否定できない。だけど、チルノを傷つけたいわけなんてなかった。
悪気はない。でも、結果傷つけてしまった。
「ごめんね……」言い訳なんてできない。自分にできることはひたすらに謝罪の言葉を繰り返すだけ。「ほんとに、ごめんね……」
空に雲はない。僅かに欠けた月が煌々とした明かりで湖を照らし出している。こんなにも綺麗な月の夜だというのに、どうしてこんなにも空気が重いのだろうか。
大妖精はチルノと同じように、膝を立てて、そこに頬を乗せた。チルノの姿を見つめたまま、片手を地面に着く。
ぱり、と草が鳴った。
驚いて手を見てみると、凍って砕けた草の一部が付着していた。見渡すと、チルノを中心にして草や地面が氷を張っている。
それはまるで、チルノの悲しみがあふれ出しているようだった。
堪らず、チルノを背から抱きしめる。冷たい。でも、きっとチルノの心の中はもっと冷たいのだろうと考えると、やりきれない気持ちで一杯になる。
「……ねぇ」
今まで一言も口を開かなかったチルノの呟きが聞こえた。大妖精は言葉を返さず、ただチルノの声がもっとよく聞こえるように顔を近づける。耳元に顔を埋めるようにすると、冷たく澄んだ、チルノの匂いがした。
「霊夢も、さ……」
ひぅ、とチルノの肩が震えた。
「霊夢も、い、今はしてもらったこと、ないけど」
大妖精は抱きしめる腕に力を篭める。肩だけでなく、声が震えているのも、チルノの顔と腕の間から熱を感じるのも、気のせいじゃないから。
「抱きしめ、っ――抱きしめ、てさ、くれたんだ。直接、熱は、感じないんだけど、温かくってさ。おて、つだいしたら、偉い偉いて、ほめ、くれたんだ。ぁ、あの、ね。ほめて、くれたんだよ?」
風が吹く音が聞こえる。ものが凍る音が聞こえる。風は冷気で、凍っていくのは大妖精であり、辺りの自然だ。
「今、は、あんまり撫でたり、褒めたり、ないけど。でも、ね。でも、いい子にしてれば、いつか、また、ね。い、い――」
ひぅ、と、チルノが喉を鳴らす。言葉は時に言葉にならない。それはきっと、言葉に沢山の思いが含まれすぎて、喉から出てこないから。
だから、漏れてきたそれはきっと、彼女の苦しみそのものなのだろう。
「――ぃ、一緒に、寝てくれるかなぁってさぁっ!」
ついにチルノは声をあげて泣き出した。チルノが泣けば泣くほどに、声をあげればあげるほどに、冷気の風は一段と強くなって辺り一体を凍らせていく。
地獄の閻魔をして力を持ちすぎると言わせるチルノの力は、全ての生命を奪いつくす。それは、ただの精霊にはあってはならない力だ。でも、チルノはそれを持ってしまった。
チルノは昔、一人だった。昔、博麗霊夢と出会って一人でなくなって、そしてまた一人になった。
自分で凍らせていたその記憶が解けて、チルノは再び温もりを求めた。でも、それはやっぱり無理なことだったのかもしれない。結局のところ、何をどうしようと、最後は一人になるのが自分の宿命なのかもしれない。力を持ってしまった自分をどうすることもできないように、生まれ持った定めもまた、同じなのかも……
ただ、そんなチルノの脳裏に、あの言葉が浮かび上がる。そう、彼女が言ってくれた、あの言葉が。
「――チルノちゃん?」
その声は、不思議なくらいにはっきりと聞こえた。
「あの、あの、ね。私、ね。うまく言えないんだけ、ど。一緒に、あや、謝りにい、行っても、いいかなぁ? ちチルノちゃんが、嫌なのは、嫌だか、ね……?」
「大……妖精?」
自分を抱きしめる腕をそっと解いて、振り返る。
「――っ! 大妖精!?」
大妖精の体は顔の半分を残して全てが氷に包まれていた。慌てて周囲に視線を巡らすと、地面からも木々の枝葉からも、全てにツララが伸びていて、当たり前の自然などどこにもなかった。
「ね……ね。わた、し一緒に、ぃい?」
「ぁあ、あ、あ……」
――どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう!
大妖精の姿が、重なる。世界に絶望したあの瞬間が、今、また目の前に現れようとしている。自分は、また同じ過ちを犯そうとしている。
「ごめ、ごめん大妖精! あたし、あたし――」
「――ね」
どうしてそんな状態で笑えるのだろうか。大妖精は生きる力を奪われながらも、安心させるように頬を緩ませて、チルノに言う。
「チルノちゃんが嫌、なのは、嫌。だから、謝りに、ね? もし、駄目でも、許して、もらえなくても」
――ね?
言葉は既に紡がれず、だけど、大妖精の瞳は伝えたい思い全てを語っていた。
――許してもらえなくても、私は、友達だからね。
それは、いつか聞いた言葉と、同じもの。
――たとえ一人になっても、孤独になっても、それは決して孤独ってわけじゃないの。だって、この世界に存在する全ての存在が孤独なんだから、本当の意味で孤独なんてありえないの。
『ね、チルノちゃん』
『分かった? ちるの』
二つの顔が、二つの言葉が、重なって、自分に向けられる。
「ぅ――わぁぁぁぁぁあああああああああ!」
チルノは大妖精の足元の氷を全力の力で踏みつけた。地面と大妖精を繋げているそれは、恐ろしいほどの固さで欠片を散らすこともできない。蹴っても蹴っても、それは大妖精を離そうとはしない。
「ああああああああああああああああああ!」
掲げた手のひらに巨大なツララの塊を作り出す。無我夢中で作ったそれを、大妖精の足元に突き刺すと、ようやく崩れ、氷の塊となった大妖精が傾く。
地面に倒れる前に大妖精をしかと受け止め、チルノは月を見上げた。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ。
この時間帯にある月の位置で、方角を確認する。同時に大妖精を抱きしめたまま飛び上がり、もう一度だけ方向を確認して、全力で翔る。
また、自分は同じ過ちを繰り返そうとしている。また、自分は大切な人を失おうとしている。それも、今回は己の手によって。
――嫌だ嫌だ嫌だ。
一瞬、胸元の大妖精を流し見る。妖精にも血の気というものが当てはまるのなら、既に大妖精の顔は死人のそれだった。目を閉じて、唇を紫の斑に変えて、息をしていなくて。
――やだやだやだやだやだやだ。
助けられない。自分では、どうすることもできない。こんな時、自分は何の力もない。
助けて、と思う。助けて、と。自分の向かう先に居る彼女に。
「霊夢ーーーーーー!!!!!!」
「それにしても、あれかしらね。妖精って頭の中身が鳥と一緒なのかしら」
博麗神社の縁側。月の明かりがあたる廊下に大妖精を寝かせながら、霊夢は嘆息交じりに呟いた。
ようやく花の異変の名残も消えようとしている。追随するかのような異変は今のところ姿を見せていないので、ここ最近は心地よい睡眠時間を確保できているというのに、今日に限ってはあまりよろしくない予感があって眠りに就くことができなかった。
本格的に乗り出さないといけないのかどうかがまだ分からない以上、それらしき現場に足を運んで無駄骨になるのは避けたい。できることならこの感覚が今晩中に消えてくれることを祈りながら茶を飲んで月を見ていたら、そこに一つの陰が現れた。恐らくはあれが今回の眠れない原因なのだろうと霊夢は思う。ならば、あれを何とかすれば今日は眠りに就くことができるというわけだ。
だが、どうしてか霊夢の胸にはもう一つの予感が過ぎっていた。きっとあれだけでは済まないだろうという、あまり外れたことのない直感が。
面倒くさくなければいいけど。そう思いながら待ち受けたそれは、記憶が正しければ今日来るなと言ったばかりの悪戯妖精だった。
「れぃ、れいむっ!」
「……はぁ」
目の前に着地したチルノと大妖精の姿を見て、全てを悟った。
「なんで、ここに来るのよ」
ここは神社で、医者が欲しいなら永遠亭に行くのが道理でしょう。
「だて、だって」
「ああ、もういい」
何があったかは知らないが、まともに理由は聞けそうになかったので取り合えず黙らせる。本当ならば放っておいて寝るのが一番なのだろうけれど、この様子を見る限りでは助けないとおちおち寝させてもくれなさそうだ。
心の底から、どうして自分には安息という文字がないのかとため息を吐いた。
世の不条理は一先ず置いといて、今は目の前の小さな異変を片付けることにする。先ずはチルノから大妖精を受け取る。直接持ったら凍傷を起こしてしまいそうだったので、体全体に薄い結界を施す。
そして、受け取った大妖精を見て、思う。
――無理。
妖精というのは自然が形を成したものだ。風の妖精が風を吹かせたいと思えば風が吹く。妖精は自然なので、意思はそのまま現象として表れる。
では何が無理なのか。例えば流れる川があるとする。その川は流れている内は川としての形を成している。その川がもしも凍ってしまったとしたら、それは果たして川なのだろうか。もちろん違う。それは川であった氷であり、決して川ではない。
霊夢の腕の中にいる妖精は、既に己の自然としての形が変わろうとしている。
だが、自然というものは廻るものでもある。凍った川も、溶けて流れを取り戻せばそれはまた川となる。妖精も同じで、一度綻んでしまえば、後は元の形を取り戻すだけだ。
ただ、戻って形を成した其れが、果たして元のものと同じ意思を持っているかどうかになると話は別だが。
どちらにしても、妖精は死ぬことはない。
「ねえ、これ、放ってちゃだめなの?」
「ぇ、ぇぅっ?」
「妖精でしょ?」
霊夢は視線で語る。即ち、あんたも妖精だから、意味は分かるわよね、と。
一瞬だけ、チルノの動きが固まる。霊夢の言葉に衝撃を受けたのではなく、ただ意味を理解するのに時間がかかっているだけだ。
「ぃ、ゃぁだぁ」泣きながらチルノは言う。「やぁ、だぁ」
「はぁ……」
こういう返事が来るだろうとは、何となくは分かっていたので、霊夢は何も言わない。それが許されるなら、こんなに戸惑った状態でここには来ないだろうから。
改めて大妖精を見る。もう、放っておいたらあと数寸で形が崩れ始めるだろう。
霊夢は思う。やっぱり面倒くさいなぁ、と。何故なら、実際問題として、今ここでこの妖精が形をなくそうとも、時間さえあれば元に戻るのだ。そこには、何の異変も問題も障害もない。
だから、これは本当は、しなくてもいいことなのだ。してもしなくても同じ結果が待っているのだから、ここで助けるということは、先ほど霊夢が避けた無駄骨なのだ。
だけど、同時にしなければならないことでもある。霊夢自身、理解できない感覚に若干の苛立ちを感じるけれど、どうしてか、チルノの泣き顔を見ていると『そうしてやらねば』という気持ちにさせられてしまう。
矛盾。何だかそれを考えるのも面倒くさくなって、霊夢は矛盾の名代を呼び出すことにした。
「紫、あんた夜行性でしょ。ちょっと来なさい」
無言。
「……ふぅん。一緒に寝る、お風呂、その他もろもろ、なくなっても――」
「――呼んだかしら霊夢?」
「最初から素直に出て来い」
後はもう語ることはない。正しい矛盾が全てを解決しただけだ。
晴れやかとまではいかないが、紫の力によって大妖精の表情は落ち着いたものになっている。縁側に寝かせているのは、自然を浴びせるほうが妖精にとっては薬になるからだ。後は、自然と目を覚ますのを待つだけだ。
「……」
「……」
真夜中に月を見上げながらの小さな茶会というのも中々に粋なものかもしれない。ここに月見団子でもあれば言うことはないのだろうが、生憎とそんなものを作って置いておくほど用意がいいわけでもない。
大妖精が目を覚ますまでとはいえ、ここまでしたのだから放っておくのも何とはなしに忍びないとこうしているものの、隣に座って俯いたまま黙っているチルノがこちらに意識をやっているのがこそばゆい。
「何かあるなら言いなさいよ」
抑揚なく言ったつもりだったけれど、もしかしたら不機嫌な声になったかもしれない。少し肩を震えさせたチルノを横目で見ながら、霊夢はそう思った。
一度だけこっちをみたチルノだったけれど、すぐにまた顔を俯かせて黙り込む。
――どうしろってのよ、全く……
「あの……」と、ようやくといった感じでチルノが口を開く。「……ごめんね、迷惑かけちゃって」
「……は?」
何というか、全くの予想外な言葉だった。
「迷惑? 誰が?」
「……霊夢」
「……」
これはどう返したらいいのだろうかと、本気で霊夢は悩む。
「一つ、聞いていいかしら?」
「……うん」
「何をもってして、私が今迷惑を感じているっての?」
「だって……! もう、来るなって言ったのに、こうして……」
「……」
やはり、霊夢には今のチルノの気持ちが分からなかった。
「ねぇ、あんた、本当に妖精?」
種類や、妖精という言葉の定義を深く掘り下げて考えてみれば、また違う言葉の一つも出てくるのだろう。けれど、少なくとも目の前に居る妖精は、基本的にそこらの妖怪と同じで自分のことしか考えないか、もしくは一つのことしか頭にないはずだ。
そもそも妖精というものはそんなに賢いわけではない。摩訶不思議な力を持ってして人間を惑わしたり悪戯して困らせたりするものの、頭の良さというか、思考の深さだけなら決して褒められるようなものはもって居ないはずなのだ。
「まぁ……あんたに関して言えば、今更なのかも知れないけどさぁ」
別に、これはこの“散る野”と仲良くしていたご先祖様の記憶を見たからではない。ここ最近の手伝いをしに来たり、さっきの泣いて感情ををあらわにしたりする姿から思うことだ。
一重に言ってしまえば、つまり、
「あんた、変よね」
思わず、吹き出してしまう。手を口に当てて笑いながらチルノを見ると、驚いた顔をして霊夢を見ていた。
「怒って、ないの?」
「だから、どうして? あはは、あんたおっかしいわ」
「だって――」
「――だって、なに? 私が何をどう思ってどう考えて何をするか、それをあんたが決めるの?」
そんなことはありえない。
「あんただって、自分の思ったこと考えたこと感じたこと、それらは全部、あんたのものでしょう? 誰かにしろ、って命令されて湧き上がってきたものじゃないはずよ。違う?」
「……」
「そりゃ、あたしだって人間だもの。悪戯されれば怒るし、嬉しいことがあれば笑う。お酒なんていいわね。うちで開かれる宴会はちょっと回数が多いから問題だけど、それでもやっぱりあれば楽しむ」
少し、話が反れたわね、と一口茶をすする。
「大切なのは誰がどうか、よりも自分がどうありたいか、でしょう? ……まぁ、人の迷惑を顧みないでげらげら笑いながら宴会開いて後始末をぜーんぶこっちに持ってこられるよりはマシだけど」だから、と、霊夢は続ける。「あんたはまだまだちゃちな妖精。ただでさえ勝手な妖精なんだからもっと好き勝手にしてみれば?」
まぁ、悪戯したらもちろん怒るけど、と最後に付け加えることは忘れない。
「……」
最初、チルノは霊夢の言葉に放心した顔をしていた。そして、段々とその言葉の意味を理解し、飲み込むにつれて、じわりじわりと目尻が緩んでいくのを感じた。
チルノは、霧の湖のほとりで考えていたことを思い出した。
昔の霊夢ならば、絶対に自分に来るななんて言わない。だから、今の霊夢にとっては、自分はただの迷惑な、その辺にいる妖怪とかと同じ存在にしか過ぎないのだと、そう考えていた。
でも、違った。やっぱり、霊夢は霊夢だった。あの頃のように髪が長くなくても、微笑みの形も、漂わせる雰囲気が違っても、やっぱり、霊夢は霊夢だった。
「……うん」
何となく、チルノは霊夢の周りにいる人間がどうしてああも勝手ににして許されているのか、その答えを見つけた気がした。同時に、自分が以前考えたことがある一つの結論も、間違っていなかったのだと思った。やっぱり、少しくらい勝手な方が、霊夢との付き合いには丁度いいのかもしれない。
空を見ると、月が綺麗だった。
「それにしても……今日はこれで本当に終わるのかしら?」
「?」
「何でもない、こっちのこと」
霊夢の呟きにチルノが首をかしげる。チルノが来る時に感じた“予感”は二つだった。所詮は感でしかないし、何もないのならそれに越したことはない。
「まぁいいか。私はそろそろ寝るわ。あんた、どうすんの?」
「え?」
「どうせその子もまだ起きなさそうだしね。何、帰るの? それとも泊まってくの?」
「あ……じゃあ、泊まる……いいの?」
「うるさくしなければね。あとは勝手になさい」
「うん……」
「一応聞くけど、布団は?」
「いい」
「そ、じゃ、おやすみ」
そう言って、霊夢は障子の向こうに消えていった。
霊夢が居なくなってしばらく経ってからも、チルノはそのまま障子を見つめていた。
「……へへー」
嬉しい、とでも言えば今の気持ちに一番近いのだろうか。くすぐったいような笑みが止まらない。
大妖精が助かってくれたのも嬉しいし、霊夢が助けてくれたのも嬉しいし、またここに来てもいいんだと思えたことが嬉しい。
でもきっと、何よりも嬉しいのは、霊夢が霊夢だったこと。それに気がつけたことだろうとチルノは思う。
翌日。霊夢は前日に感じていたもう一つの予感が間違ってなかったことを知る。
それは、すっかりと調子の良くなった大妖精とチルノと霊夢、三人が縁側で腰を並べている時のことだった。
最初は気が付かなかったが、空の向こう側に、青でも白でもない色が点在している。チルノが指摘して、大妖精と霊夢が続いて気が付き、不思議そうに見つめていると、突然巨大な光が生まれ、次の瞬間には地面が間欠泉のように吹き上がっていた。
「は?」
ぽかんと霊夢が口を開く。残りの二匹も同じような顔で自由落下していく土を見ている。
土が落ちていくと、その向こう側からまた色とりどりの何かが煌き始めた。点在するそれらの姿がようやくはっきり見える距離になって、霊夢は何故か頭を抱えたい気持ちになった。
彩り鮮やかなそれは、星だった。それが段々と博麗神社に近づいてきている。となると、次に来るのは何か。
「チルノ……じゃ駄目か、あんた、もここの構造知らないか。仕方ない、ちょっとお茶入れてくるから、今から来るの、よろしく」
「え?」
返事を待たずして、霊夢はそそくさと土間へ消えていく。言葉の意味を今一つ理解できていない二匹だったが、視線を戻すと、霊夢が何を言いたかったのかがすぐに分かった。
「ルーミア、ちゃん?」
そう、まるで星たちに追われるようにルーミアを筆頭にしてリグルとミスティアが博麗神社目掛けて必死の形相で飛んで来ている。その後ろからは、白と黒の服が特徴的な霧雨魔理沙の姿があった。
「何か、したのかな?」
「かなぁ……」
見る見る間にルーミアたちは近づいてくる。もう少しで神社の敷地上空、というところになって、突然リグルとミスティアが反転して魔理沙目掛けて弾幕を張り始めた。
その間もルーミアだけはチルノたち目掛けて飛んでくる。
「え――」
と声を出す暇もなくルーミアは目の前に着地すると、チルノの手を取って何かを渡した。
「――チルノ、昨日はごめん! これはリグルとミスティアの分も謝る! ごめんねまた遊ぼう!」
そう口早に言うと、ルーミアはあっという間に空へと浮かび上がってリグルたちと混ざって魔理沙と弾幕ごっこを始めた。
「これって」
渡されたものを見ると、それはいつも霊夢が自分にくれて、昨日ルーミアが空にしてしまった飴玉が詰まった容器だった。
「なんで?」
「多分……そのままの意味じゃないかな?」
ルーミアの行動に首をかしげるチルノに、大妖精が言う。
「そのままって?」
「だから」にこ、と笑いながら、大妖精は言う。「また遊ぼうね、って意味じゃないかな」
「……」
チルノはルーミアたちを見た。魔理沙が放つ弾や魔砲をカスったりあるいは腕を持っていかれながらも必死に避けている。でも、その顔がどこか満足そうに微笑んでいるのは気のせいだろうか。
「ちょっと何よ、あれ……」
ぺたぺたと足音を立てながら霊夢が帰ってきた。上空で行われている弾幕ごっこを見ながら、こっちに被害がこなければいいけど、と呟いている。
「で、何だったの? 上でやんちゃしてるってことはここには用事がなかったのかしら」
「これ、昨日のお詫びだって」
「んん? ああ、魔理沙からもらった飴ね。あら、でもよく魔理沙が素直にくれたわね」
私だって条件付きでもらったのに。そう言う霊夢に、チルノは黙って指を上空に向ける。
「ああ……そういう」
やれやれと首を振る霊夢とは違って、チルノの顔は清々しいものだった。
「明日は何してあそぼっか」
両足をぷらぷらと揺らしながら、チルノは大妖精に問いかける。何でもよかった。今なら、きっと何をしても楽しいだろうから。
「あ、じゃあさチルノちゃん。その前に」と、大妖精はチルノの手を取る。何、と首を傾げるチルノの両手をそのまま上下に振りながら、大妖精は言う。「先ずは昨日の遊びをきちんと覚えよ? そしたら、今度は皆でできる新しい遊び、しない?」
「……うん。いいね。そうしよう。今度はあたしも、山に一緒に行くからさ」
「うんっ。じゃあ、いち、にの、さん、はい」
「あーるーぷーすー」
「いちまんじゃーくー」
「……どうでもいいけど、あれ、いつ終わるのかなぁ。どうせ、後で魔理沙が来るんだろうなぁ。偶には静かなお昼下がりを……ああ、無理そうね……」
魔理沙がミニ八卦炉を構えた方向にはルーミアたちが居て、その延長線上には博麗神社の鳥居がある。
上の出来事とは無関係にはしゃぐチルノと大妖精を見ながら、あんたらはのんきでいいわねぇ、と霊夢はぼやいた。