◆
風のない日だった。
星の火がチラチラと揺れているのと無気力の中でもがいている自分の体以外には動くものも見当たらない。音もなく、温度もわからない、深夜だった。
夜の空気に当たれば、この無気力もとけてくれるだろうか。そう思ってラウンジを見やったのだが、皓皓たる月に照らし出されたそこは予想外に明るくて、なんだか行きたくはないような感じだった。
どこかもっと、薄暗くて、ぬるま湯みたいな場所。
私はそんな場所に行きたかった。
そこに行けば、眠れる気がしたから。
■
風のない日だった。
ランプの火が黙黙と手元の歴史書を読み続けるのを無気力に眺めている自分の体も、風にあわせて停止している。呼吸さえも止まっているような気さえする、深夜だった。
普段、ぽつぽつと鳴いているストーブも今は眠っているものだから、音もない。寒いとも暑いとも言えぬ空気の意思がそうさせるのか、点けるのがひどく億劫だった。
けれど、それなのに僕の鼓膜は振動を欲しがっていた。
なにか、あたたかみのある、そんな音。
僕はそんな音を聞きたかった。
それが聞ければ、眠れる気がしたから。
●
「で、まあそのあと魔理沙がヒキコモリだの何だのつっかかってくるから、ちょっと熱くなってしまったの」
「それが敗因、というのが君の自己分析か」
「負けてはいないわ、勝ちを譲ってあげただけ」
「そうかい。ところで、おかわりはいかがかな?」
「いただくわ。それにしても香霖さんにもチャイを淹れる甲斐性なんてあったのね」
「意外かな」
「そうね。日本茶なイメージ」
「普段はね。けれど、眠れない夜はマイルドなものがほしいじゃあないか」
「同感。けれど、スープを作るのも面倒だしね。インスタントだったかしら。なかなかおいしい物ね」
「おほめにあずかり恐悦至極」
「貴方の手柄でもないでしょうに」
「湯を沸かしたのは僕。淹れたのも僕。ならば僕の手柄なのだよ、ワトソン君」
「ワトソンって誰よ。私は」
「アリス、これは常套句だよ」
「知らないわよそんな常套句」
「まあ僕も昨日初めて知ったんだけど」
「覚えたての言葉をすぐに使いたがるなんて年寄りか子供のすることね」
「……そういえば魔理沙も小さい頃、新しい本を呼んでは好きな言葉を日常に捻じ込みたがったよなぁ。ほら、どうぞ」
「ありがとう。そういえば、魔理沙の幼なじみなのよね。どうしてあんなのになっちゃったの?」
「少なくとも僕は悪くない」
「目を逸らしながら言われても信用に欠けるわね」
「ほら、せっかく淹れたチャイが冷めてしまうよ」
「すぐそうやって話を反らす。悪い癖よ、香霖さん」
「そういえばクッキーがあるんだが、どうだい?」
「人の話を聞かないのもそうね。クッキーは頂くけど」
「ちょっと待ってくれよ、確かこの棚に……って、またか」
「なぁに?」
「魔理沙だよ。『ごちそうさま』だと」
「今朝とっちめてやる」
「任せたよ。……まぁ、仕方ない。クッキーはなしだ」
「えー」
「えー、と言われてもどうしようもないんだがね」
「言ってみたかっただけよ」
「君は……いや、いい。なんだか柳を相手どってるみたいだ」
「あら、それは霊夢じゃなくて?」
「あの子はちゃんと人の話を聞くよ。多少図々しいけど」
「え、霊夢が? 嘘でしょ?」
「嘘ついてどうするんだよ。魔理沙よりは聞き上手だよ、霊夢は」
「へー……霊夢がねぇ……フフっ」
「何だい気持ち悪い」
「だって霊夢よ?」
「何がだってなのか今一解らん」
「あ、そういえば霊夢とも幼なじみだっけ」
「魔理沙が連れてきて以来だね」
「いくつくらいの時?」
「あの子らが魔界に行くより少し前だから、十より前くらいかな」
「…………」
「無言でヤカンを振りかぶるのはよさないか」
「まったく……監督不行き届きだわ」
「何の話だ。それと、僕は悪くないと言っている。そもそも僕はあの子らの保護者じゃないよ」
「似たようなものよ」
「似て非なるものだ」
「似てるんじゃない」
「ところでアリス、おかわりはいかがかな?」
「もう!」
「ははは」
「まったく……あら、そろそろもうこんな時間」
「おや本当だ。今日はこのあたりでお開きかな?」
「そうね。今回はこれまで。チャイとお話をありがとう、香霖さん」
「こちらこそ話し相手になってくれてありがとう。おかげで今からでも眠れそうだよ」
「ふふ、子守唄でも歌ってあげましょうか?」
「いや結構。魔女の子守唄ともなると何かを抜かれてしまいそうだ」
「ひっどーい。これでも歌上手で有名なんですからね?」
「プリズムリバーにでも混ぜてもらえばよかろう」
「いやよあんなうるさいの」
「やれやれ我儘な子だね」
「好みに正直なだけよ。じゃ、そろそろ」
「うん。またおいで、アリス」
「ええ、魔理沙をとっちめたら来ることにするわ」
「僕の分まで頼んだよ」
「任せておいてちょうだい。こてんぱんにしてやるんだから」
「頼もしいことだ。それじゃあ、おやすみ、アリス」
「ええ、おやすみなさい、香霖さん」
◆
「……そういえば何で私、香霖堂に行ったのかしら」
■
「……そういえばなんでアリスはここにきたんだろうか」
●
『まあ、よく眠れそうだからいいか』
風のない日だった。
星の火がチラチラと揺れているのと無気力の中でもがいている自分の体以外には動くものも見当たらない。音もなく、温度もわからない、深夜だった。
夜の空気に当たれば、この無気力もとけてくれるだろうか。そう思ってラウンジを見やったのだが、皓皓たる月に照らし出されたそこは予想外に明るくて、なんだか行きたくはないような感じだった。
どこかもっと、薄暗くて、ぬるま湯みたいな場所。
私はそんな場所に行きたかった。
そこに行けば、眠れる気がしたから。
■
風のない日だった。
ランプの火が黙黙と手元の歴史書を読み続けるのを無気力に眺めている自分の体も、風にあわせて停止している。呼吸さえも止まっているような気さえする、深夜だった。
普段、ぽつぽつと鳴いているストーブも今は眠っているものだから、音もない。寒いとも暑いとも言えぬ空気の意思がそうさせるのか、点けるのがひどく億劫だった。
けれど、それなのに僕の鼓膜は振動を欲しがっていた。
なにか、あたたかみのある、そんな音。
僕はそんな音を聞きたかった。
それが聞ければ、眠れる気がしたから。
●
「で、まあそのあと魔理沙がヒキコモリだの何だのつっかかってくるから、ちょっと熱くなってしまったの」
「それが敗因、というのが君の自己分析か」
「負けてはいないわ、勝ちを譲ってあげただけ」
「そうかい。ところで、おかわりはいかがかな?」
「いただくわ。それにしても香霖さんにもチャイを淹れる甲斐性なんてあったのね」
「意外かな」
「そうね。日本茶なイメージ」
「普段はね。けれど、眠れない夜はマイルドなものがほしいじゃあないか」
「同感。けれど、スープを作るのも面倒だしね。インスタントだったかしら。なかなかおいしい物ね」
「おほめにあずかり恐悦至極」
「貴方の手柄でもないでしょうに」
「湯を沸かしたのは僕。淹れたのも僕。ならば僕の手柄なのだよ、ワトソン君」
「ワトソンって誰よ。私は」
「アリス、これは常套句だよ」
「知らないわよそんな常套句」
「まあ僕も昨日初めて知ったんだけど」
「覚えたての言葉をすぐに使いたがるなんて年寄りか子供のすることね」
「……そういえば魔理沙も小さい頃、新しい本を呼んでは好きな言葉を日常に捻じ込みたがったよなぁ。ほら、どうぞ」
「ありがとう。そういえば、魔理沙の幼なじみなのよね。どうしてあんなのになっちゃったの?」
「少なくとも僕は悪くない」
「目を逸らしながら言われても信用に欠けるわね」
「ほら、せっかく淹れたチャイが冷めてしまうよ」
「すぐそうやって話を反らす。悪い癖よ、香霖さん」
「そういえばクッキーがあるんだが、どうだい?」
「人の話を聞かないのもそうね。クッキーは頂くけど」
「ちょっと待ってくれよ、確かこの棚に……って、またか」
「なぁに?」
「魔理沙だよ。『ごちそうさま』だと」
「今朝とっちめてやる」
「任せたよ。……まぁ、仕方ない。クッキーはなしだ」
「えー」
「えー、と言われてもどうしようもないんだがね」
「言ってみたかっただけよ」
「君は……いや、いい。なんだか柳を相手どってるみたいだ」
「あら、それは霊夢じゃなくて?」
「あの子はちゃんと人の話を聞くよ。多少図々しいけど」
「え、霊夢が? 嘘でしょ?」
「嘘ついてどうするんだよ。魔理沙よりは聞き上手だよ、霊夢は」
「へー……霊夢がねぇ……フフっ」
「何だい気持ち悪い」
「だって霊夢よ?」
「何がだってなのか今一解らん」
「あ、そういえば霊夢とも幼なじみだっけ」
「魔理沙が連れてきて以来だね」
「いくつくらいの時?」
「あの子らが魔界に行くより少し前だから、十より前くらいかな」
「…………」
「無言でヤカンを振りかぶるのはよさないか」
「まったく……監督不行き届きだわ」
「何の話だ。それと、僕は悪くないと言っている。そもそも僕はあの子らの保護者じゃないよ」
「似たようなものよ」
「似て非なるものだ」
「似てるんじゃない」
「ところでアリス、おかわりはいかがかな?」
「もう!」
「ははは」
「まったく……あら、そろそろもうこんな時間」
「おや本当だ。今日はこのあたりでお開きかな?」
「そうね。今回はこれまで。チャイとお話をありがとう、香霖さん」
「こちらこそ話し相手になってくれてありがとう。おかげで今からでも眠れそうだよ」
「ふふ、子守唄でも歌ってあげましょうか?」
「いや結構。魔女の子守唄ともなると何かを抜かれてしまいそうだ」
「ひっどーい。これでも歌上手で有名なんですからね?」
「プリズムリバーにでも混ぜてもらえばよかろう」
「いやよあんなうるさいの」
「やれやれ我儘な子だね」
「好みに正直なだけよ。じゃ、そろそろ」
「うん。またおいで、アリス」
「ええ、魔理沙をとっちめたら来ることにするわ」
「僕の分まで頼んだよ」
「任せておいてちょうだい。こてんぱんにしてやるんだから」
「頼もしいことだ。それじゃあ、おやすみ、アリス」
「ええ、おやすみなさい、香霖さん」
◆
「……そういえば何で私、香霖堂に行ったのかしら」
■
「……そういえばなんでアリスはここにきたんだろうか」
●
『まあ、よく眠れそうだからいいか』
互いに色気のない会話が、個人的に好きです。