ペンを机に置き、私は小さく背を逸らす。
随分と同じ姿勢だったからだろう、小気味の良い音がした。
ついでとばかりに首を捻ると、音は少しだけ大きくなった――こき、こき。
「……鈴仙、まだ寝ないの?」
隣室のてゐから呼び声が掛る。
灯りは最低限しかつけていないし、物音も意識して鳴らさないようにしていた。
まさか先ほどの関節の音で起こした訳でもないだろうから、元から寝ていなかったんだろう。
……うん。寝たいんだけどね。眠いんだけどね。
「師匠の課題、終わってないから」
「昨日も聞いたけど。なに、新しいの?」
「うぅん、同じのだよ」
「……今日、妖夢と遊びに行ってたよね」
「黄龍堂のお饅頭、美味しゅうございました」
「お休みー」
「あぁん、裏切者!?」
いや、自業自得だけどさ。
「無茶し過ぎないようにね」
くぐもった声。
頭を枕に沈ませ、体を布団で覆ったのだろう。
既に桜が咲いている季節だが、どうにも夜は冷えてしまう。
「ん」
相槌と共にペンを取り、私はまた、机に向かった。
一時間ほど経っただろうか。
伸びのついでに時計に目を向ける。
……三十分しか過ぎてないでやんの。
遅々として進まない課題に、小さく息を吐く。
課題は何時も時間がかかる。
簡単なようで難しく、難解なようで易しい。
一つの解答を見出すと更に続きがあり、終わりがないように思えた。
「……ほんとになかったりして――くしゅっ」
昼ならともかく、夜の寒さは季節の比較云々じゃなく本物だ。
鼻をすすり、敷いていた布団を肩からかける。
眠れそう。
「くしゃみ? 起きているの?」
「ふが、寝てない! まだ寝てないわ!」
廊下からの声に、瞳をこじ開け、どうにか返す。
突然なことについ大きくなってしまった。
あ、涎が……。
……『廊下から』?
私は、椅子から立ち上がり、畳みに正坐した。
そのままの格好で跳ね、障子に向かう。
結構痛い。
だが、そんなことは気にしていられない。
月に照らされ映し出される影は、我が主――蓬莱山輝夜様。
「姫様!」
障子を開くと同時、私は頭を深く下げる。
「主に対して無礼な言葉遣い、誠に申し訳ごふぁう」
「隣の因幡は寝ている時間でしょう? 静かに」
「まぅまぅ。……ふぁい」
すかさず口に柔らかい物が突っ込まれた。お土産に買ってきたお饅頭だ。
ごくんと飲み込み、姫を見上げる。
月明かりを背に受けるその姿は、絵にも描けない美しさ。
長い黒髪が夜の暗さに混じり、幾ら手を伸ばしても届きそうにない。
「急かしたわね」
「え、あ、はい?」
「餡がついてしまっている」
向こうからの場合はその限りにあらず。
「良い土産ね。甘くて、美味しいわ」
人差し指で私の口元をそっと拭い、姫はその指をちろりと舐めた。
「こ、コケティッシュ!」
「はしたなかったかしら」
「もっとやってください」
頭を下げようとする私に、こほんと空咳が打たれる。
「悪影響ね。
……まぁ、今は良いわ。
因幡、貴女も、もう眠る時間では?」
静かな問いに、えっちらおっちら言葉を返す。
だけど、考えているのは別のことだった。
私が起きているのは課題が終わらないからだ。
では――「姫様は、その、何故起きているんですか?」
流れるような髪に乱れはなく、起きてきた、と言う訳ではないだろう。
そもそも、姫は滅多なことでは起きないし。
お手洗い?
姫はご不浄なんてしない。
「急に真顔になって、どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「そ。私も同じ」
「……へ? 課題ですか?」
「そっちじゃないわ。なんでもなく……ただ、まだ眠たくないのよ」
よくよく見れば、私に触れた右手の逆、つまり左手に、姫はお酒と饅頭が置かれた盆を持っている。
視線を注いでいると、視界に右手が現れた。
拳が開き、掌を向けられる。
誘われているようだ。
断れる訳もなく、私は促された。
「よしよし」
「うさ~……」
「いや、頭じゃなくてね」
姫様の手、すっごく柔らかい。
微苦笑する姫に見惚れつつ、改めて、私は誘いに応じた――。
部屋の中でも寒いのだから、外は言うまでもないだろう。
風はなく穏やかな夜と言えたが、それでも震えそうだ。
私はともかく、姫が風邪をひくのは宜しくない。
……ん?
「不躾な質問ですが、姫様って、風邪をひきましたっけ?」
「軽いものならね。以前、永琳もひいていたでしょう?」
「そう言えばそうでした」
誰かがひかないって言ってた気がする。キャリアにならない、だっけ。嘘つきめ。
私たちが腰を落ち着けたのは、縁側のとある一角だ。
座ってまず、私は酒を注ぐ。
次いで、姫がもう一つあった猪口に注いでくれた。
元より誰かと飲むつもりだったのか、都合のよいことに二つあったのだ。
向けられる猪口にちょんと自身のものを重ね、小さく乾杯。
もの言わず、私も姫も猪口に口を付ける。
こくりこくりと嚥下した。
液体が胃に落ちる。
次第に、体は熱くなっていった。
ほぅ、と一息吐く。
姫も温まっただろうか。
ちらりと見ると、見られていた。
「寒くはない?」
「滅相もございません」
「……可笑しな使い方をしているわよ」
微苦笑混じりの指摘に、顔がより熱くなる。
すると、手が伸ばされた。
頬を一二度撫でられる。
ほんと柔らかい。
「温かい……大丈夫なようね」
「はい! 姫も、白い肌にほんのりとした赤が素晴らしく、たまんない!」
「そう言う言葉遣い、止めなさい。……普段余り外に出ないから焼けないのよね。日光浴でもしてみましょうか」
想像してみる。
小麦色をした姫様。
魅力的だ。この上なく魅力的だ。
けれど、あぁ、だがしかし……っ。
結局、私は、姫の袖を両手で掴んだ。
「……冗談だから、そんな泣きそうな顔をしないで頂戴」
気付けば耳もしなだれている。
姫の袖から、はらりと白い何かが落ちた。
私の腕に柔らかく付着する。
何だろう……?
指ですくい取ったそれは、庭にも咲いているだろう、蒲公英の種子のようだった。
「あら、幼因幡の尻尾の毛ね」
「あ、そっちの蒲公英でしたか」
「あの子の毛は柔らかいから、気付かなかったわ」
確かに私自身、目視していなかったらそのままにしていただろう。
と言うか、尻尾の毛?
どういう状況で姫に付いたのか。
露出している箇所ならともかく、袖に覆われた腕に付いてたんだから不可思議だ。
……まさか、裸同士で戯れた? 羨ましい。なーんて。
「体を拭いた時に付いたんでしょうね」
「ほんとにスキンシップ!? う、羨ましい!」
「そう、スキンシップ。……幼因幡たちとお風呂に入っただけだけど」
きっと抜き打ちで入ったに違いない。姫ったらお茶目。
胡乱なことを考え、芽生えた感情をはぐらかす。
蒲公英や菫――姫様の言う『幼因幡』たちと私は、違う。
歳嵩と言うこともあるが、何より、これでも私は兎たちを纏める身だ。
本能の赴くまま、気軽に甘えられるような立場ではない。
さっき頭を差し出してしまったのは不可抗力。
それにしても、と心の内で嘆息し、自身のこめかみを軽く叩く。焼き餅とは情けない。
気持ちを切り替え、拳を下ろす。
膝へと置く直前、掴まれた。
白い手が瞳に飛び込む。
「……姫?」
誘われるように、私は、体を姫へと向けた。
「『羨ましい』?」
「私は、その……」
「……そ」
右手に右手首を掴まれている。
残る左手が、首筋を滑らかになぞった。
そぅと首を這い、頬へとあてがわれる。
見つめられていると言う自覚から、思考が失われた。
「勘違いしなさんな」
言葉を咀嚼するより早く、滔々と、姫は続ける。
「月因幡、貴女は、
‘月の頭脳‘の弟子であり永遠亭の三番手、
年を経た因幡より上に立ち、年が幼き因幡を纏める者」
手が離れ、体の拘束が解かれた。
「そして、月の姫君たちから寵愛を受けた兎」
でも、頭はまだ動かない。
「だけど、それがどうしたと言うのでしょう」
とは言え、五感は正常に機能していた。
姫の手が御自身の膝に置かれる。
とんとん、と叩かれた。
「――全ての因幡は、私に愛される義務がある」
そして、腕を広げ、目を細め、微笑まれた。
え、と。
「それはつまり、ボディトークでクリエイティブラブクリスタルということでしょうか」
「私は吝かではないけれど、意味、解ってる?」
「ごめんなさい。あんまり解ってないです」
「そう。誰が?」
「師匠に」
にご。
微笑う姫。
何処かで何かの音がした。
ぱん、ぱん。
出所を探そうとする私の耳に、乾いた音が届く。
姫が手を打たれた模様。
視界が急に暗転する。
鼻を覆ったのは、何故だか懐かしい匂いと柔らかい感触だった。
「要は、甘えて頂戴と言うことよ」
「すぅすぅ、くんかくんかっ」
「スティ、スティよ因幡」
英語なんて勉強するんじゃなかった。
じゃなくて。
『待て』と言われ、動きを止める。
恐る恐る視線を上げると、目の前に人差し指が突き出された。
くるんと半回転。
「手始めは膝枕」
「この状態ですと股枕に」
「そうね、少しずらして頂戴」
ずるずると体を動かし、右腿をお借りする。
「偶には、こう言うのも悪くないでしょう?」
「うさ、うさ~」
「鈴仙……」
「左膝が空いているわよ?」
「頑張って増えます。増えてみせます。……え、あれ、『鈴仙』?」
如何にして分身するかを考えようとした矢先、不意の呼び声が届く。
開いた瞳に映るのは、姫の横顔。
視線を追うと、てゐがいた。
そっか、部屋の前だっけ。
「いやいや、あんた、寝たんじゃないの?」
「その、なんだ、どうにも寝つきが」
「どうでもいいわ」
問う私。
珍しく、てゐがしどろもどろだ。
だけれど、一切合財を吹き飛ばす鶴の一声、ならぬ姫のお言葉。
とん、とん。
「地因幡、私の問いへの答えは?」
「や、姫様、私これでも」
「関係ないわ」
『これでも』……なんだろうか。
言葉の続きを膝の上で考える。
あぁ、やらかい。
「私に、輝夜に、二度同じことを言わせるつもり?」
思考を放棄した私の耳に、愉快気な声が響く。
「召しませ、ぐやどん」
「幸せ増し増しってとこですか」
「うさ~」
数秒後、ふわりと柔らかい物が、私の耳に触れるのだった――。
<了>
「……あとですね、姫。気付いていないと思いますが、いやさ、気付いていれば声をかけると思うのですが」
「柱の影で、ヒトリ寂しく兎の着ぐるみを着た何かがタンゴのリズムを取っているわね」
「口に銜えた薔薇が涙を誘います。フォローを台無しにされやがりましたね!?」
「月因幡の課題待ちと……そう言えば私、部屋に行くって言ってたわ」
「ひでぇ!?」
<姫様の性格も大概なものです。可愛い>
随分と同じ姿勢だったからだろう、小気味の良い音がした。
ついでとばかりに首を捻ると、音は少しだけ大きくなった――こき、こき。
「……鈴仙、まだ寝ないの?」
隣室のてゐから呼び声が掛る。
灯りは最低限しかつけていないし、物音も意識して鳴らさないようにしていた。
まさか先ほどの関節の音で起こした訳でもないだろうから、元から寝ていなかったんだろう。
……うん。寝たいんだけどね。眠いんだけどね。
「師匠の課題、終わってないから」
「昨日も聞いたけど。なに、新しいの?」
「うぅん、同じのだよ」
「……今日、妖夢と遊びに行ってたよね」
「黄龍堂のお饅頭、美味しゅうございました」
「お休みー」
「あぁん、裏切者!?」
いや、自業自得だけどさ。
「無茶し過ぎないようにね」
くぐもった声。
頭を枕に沈ませ、体を布団で覆ったのだろう。
既に桜が咲いている季節だが、どうにも夜は冷えてしまう。
「ん」
相槌と共にペンを取り、私はまた、机に向かった。
一時間ほど経っただろうか。
伸びのついでに時計に目を向ける。
……三十分しか過ぎてないでやんの。
遅々として進まない課題に、小さく息を吐く。
課題は何時も時間がかかる。
簡単なようで難しく、難解なようで易しい。
一つの解答を見出すと更に続きがあり、終わりがないように思えた。
「……ほんとになかったりして――くしゅっ」
昼ならともかく、夜の寒さは季節の比較云々じゃなく本物だ。
鼻をすすり、敷いていた布団を肩からかける。
眠れそう。
「くしゃみ? 起きているの?」
「ふが、寝てない! まだ寝てないわ!」
廊下からの声に、瞳をこじ開け、どうにか返す。
突然なことについ大きくなってしまった。
あ、涎が……。
……『廊下から』?
私は、椅子から立ち上がり、畳みに正坐した。
そのままの格好で跳ね、障子に向かう。
結構痛い。
だが、そんなことは気にしていられない。
月に照らされ映し出される影は、我が主――蓬莱山輝夜様。
「姫様!」
障子を開くと同時、私は頭を深く下げる。
「主に対して無礼な言葉遣い、誠に申し訳ごふぁう」
「隣の因幡は寝ている時間でしょう? 静かに」
「まぅまぅ。……ふぁい」
すかさず口に柔らかい物が突っ込まれた。お土産に買ってきたお饅頭だ。
ごくんと飲み込み、姫を見上げる。
月明かりを背に受けるその姿は、絵にも描けない美しさ。
長い黒髪が夜の暗さに混じり、幾ら手を伸ばしても届きそうにない。
「急かしたわね」
「え、あ、はい?」
「餡がついてしまっている」
向こうからの場合はその限りにあらず。
「良い土産ね。甘くて、美味しいわ」
人差し指で私の口元をそっと拭い、姫はその指をちろりと舐めた。
「こ、コケティッシュ!」
「はしたなかったかしら」
「もっとやってください」
頭を下げようとする私に、こほんと空咳が打たれる。
「悪影響ね。
……まぁ、今は良いわ。
因幡、貴女も、もう眠る時間では?」
静かな問いに、えっちらおっちら言葉を返す。
だけど、考えているのは別のことだった。
私が起きているのは課題が終わらないからだ。
では――「姫様は、その、何故起きているんですか?」
流れるような髪に乱れはなく、起きてきた、と言う訳ではないだろう。
そもそも、姫は滅多なことでは起きないし。
お手洗い?
姫はご不浄なんてしない。
「急に真顔になって、どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「そ。私も同じ」
「……へ? 課題ですか?」
「そっちじゃないわ。なんでもなく……ただ、まだ眠たくないのよ」
よくよく見れば、私に触れた右手の逆、つまり左手に、姫はお酒と饅頭が置かれた盆を持っている。
視線を注いでいると、視界に右手が現れた。
拳が開き、掌を向けられる。
誘われているようだ。
断れる訳もなく、私は促された。
「よしよし」
「うさ~……」
「いや、頭じゃなくてね」
姫様の手、すっごく柔らかい。
微苦笑する姫に見惚れつつ、改めて、私は誘いに応じた――。
部屋の中でも寒いのだから、外は言うまでもないだろう。
風はなく穏やかな夜と言えたが、それでも震えそうだ。
私はともかく、姫が風邪をひくのは宜しくない。
……ん?
「不躾な質問ですが、姫様って、風邪をひきましたっけ?」
「軽いものならね。以前、永琳もひいていたでしょう?」
「そう言えばそうでした」
誰かがひかないって言ってた気がする。キャリアにならない、だっけ。嘘つきめ。
私たちが腰を落ち着けたのは、縁側のとある一角だ。
座ってまず、私は酒を注ぐ。
次いで、姫がもう一つあった猪口に注いでくれた。
元より誰かと飲むつもりだったのか、都合のよいことに二つあったのだ。
向けられる猪口にちょんと自身のものを重ね、小さく乾杯。
もの言わず、私も姫も猪口に口を付ける。
こくりこくりと嚥下した。
液体が胃に落ちる。
次第に、体は熱くなっていった。
ほぅ、と一息吐く。
姫も温まっただろうか。
ちらりと見ると、見られていた。
「寒くはない?」
「滅相もございません」
「……可笑しな使い方をしているわよ」
微苦笑混じりの指摘に、顔がより熱くなる。
すると、手が伸ばされた。
頬を一二度撫でられる。
ほんと柔らかい。
「温かい……大丈夫なようね」
「はい! 姫も、白い肌にほんのりとした赤が素晴らしく、たまんない!」
「そう言う言葉遣い、止めなさい。……普段余り外に出ないから焼けないのよね。日光浴でもしてみましょうか」
想像してみる。
小麦色をした姫様。
魅力的だ。この上なく魅力的だ。
けれど、あぁ、だがしかし……っ。
結局、私は、姫の袖を両手で掴んだ。
「……冗談だから、そんな泣きそうな顔をしないで頂戴」
気付けば耳もしなだれている。
姫の袖から、はらりと白い何かが落ちた。
私の腕に柔らかく付着する。
何だろう……?
指ですくい取ったそれは、庭にも咲いているだろう、蒲公英の種子のようだった。
「あら、幼因幡の尻尾の毛ね」
「あ、そっちの蒲公英でしたか」
「あの子の毛は柔らかいから、気付かなかったわ」
確かに私自身、目視していなかったらそのままにしていただろう。
と言うか、尻尾の毛?
どういう状況で姫に付いたのか。
露出している箇所ならともかく、袖に覆われた腕に付いてたんだから不可思議だ。
……まさか、裸同士で戯れた? 羨ましい。なーんて。
「体を拭いた時に付いたんでしょうね」
「ほんとにスキンシップ!? う、羨ましい!」
「そう、スキンシップ。……幼因幡たちとお風呂に入っただけだけど」
きっと抜き打ちで入ったに違いない。姫ったらお茶目。
胡乱なことを考え、芽生えた感情をはぐらかす。
蒲公英や菫――姫様の言う『幼因幡』たちと私は、違う。
歳嵩と言うこともあるが、何より、これでも私は兎たちを纏める身だ。
本能の赴くまま、気軽に甘えられるような立場ではない。
さっき頭を差し出してしまったのは不可抗力。
それにしても、と心の内で嘆息し、自身のこめかみを軽く叩く。焼き餅とは情けない。
気持ちを切り替え、拳を下ろす。
膝へと置く直前、掴まれた。
白い手が瞳に飛び込む。
「……姫?」
誘われるように、私は、体を姫へと向けた。
「『羨ましい』?」
「私は、その……」
「……そ」
右手に右手首を掴まれている。
残る左手が、首筋を滑らかになぞった。
そぅと首を這い、頬へとあてがわれる。
見つめられていると言う自覚から、思考が失われた。
「勘違いしなさんな」
言葉を咀嚼するより早く、滔々と、姫は続ける。
「月因幡、貴女は、
‘月の頭脳‘の弟子であり永遠亭の三番手、
年を経た因幡より上に立ち、年が幼き因幡を纏める者」
手が離れ、体の拘束が解かれた。
「そして、月の姫君たちから寵愛を受けた兎」
でも、頭はまだ動かない。
「だけど、それがどうしたと言うのでしょう」
とは言え、五感は正常に機能していた。
姫の手が御自身の膝に置かれる。
とんとん、と叩かれた。
「――全ての因幡は、私に愛される義務がある」
そして、腕を広げ、目を細め、微笑まれた。
え、と。
「それはつまり、ボディトークでクリエイティブラブクリスタルということでしょうか」
「私は吝かではないけれど、意味、解ってる?」
「ごめんなさい。あんまり解ってないです」
「そう。誰が?」
「師匠に」
にご。
微笑う姫。
何処かで何かの音がした。
ぱん、ぱん。
出所を探そうとする私の耳に、乾いた音が届く。
姫が手を打たれた模様。
視界が急に暗転する。
鼻を覆ったのは、何故だか懐かしい匂いと柔らかい感触だった。
「要は、甘えて頂戴と言うことよ」
「すぅすぅ、くんかくんかっ」
「スティ、スティよ因幡」
英語なんて勉強するんじゃなかった。
じゃなくて。
『待て』と言われ、動きを止める。
恐る恐る視線を上げると、目の前に人差し指が突き出された。
くるんと半回転。
「手始めは膝枕」
「この状態ですと股枕に」
「そうね、少しずらして頂戴」
ずるずると体を動かし、右腿をお借りする。
「偶には、こう言うのも悪くないでしょう?」
「うさ、うさ~」
「鈴仙……」
「左膝が空いているわよ?」
「頑張って増えます。増えてみせます。……え、あれ、『鈴仙』?」
如何にして分身するかを考えようとした矢先、不意の呼び声が届く。
開いた瞳に映るのは、姫の横顔。
視線を追うと、てゐがいた。
そっか、部屋の前だっけ。
「いやいや、あんた、寝たんじゃないの?」
「その、なんだ、どうにも寝つきが」
「どうでもいいわ」
問う私。
珍しく、てゐがしどろもどろだ。
だけれど、一切合財を吹き飛ばす鶴の一声、ならぬ姫のお言葉。
とん、とん。
「地因幡、私の問いへの答えは?」
「や、姫様、私これでも」
「関係ないわ」
『これでも』……なんだろうか。
言葉の続きを膝の上で考える。
あぁ、やらかい。
「私に、輝夜に、二度同じことを言わせるつもり?」
思考を放棄した私の耳に、愉快気な声が響く。
「召しませ、ぐやどん」
「幸せ増し増しってとこですか」
「うさ~」
数秒後、ふわりと柔らかい物が、私の耳に触れるのだった――。
<了>
「……あとですね、姫。気付いていないと思いますが、いやさ、気付いていれば声をかけると思うのですが」
「柱の影で、ヒトリ寂しく兎の着ぐるみを着た何かがタンゴのリズムを取っているわね」
「口に銜えた薔薇が涙を誘います。フォローを台無しにされやがりましたね!?」
「月因幡の課題待ちと……そう言えば私、部屋に行くって言ってたわ」
「ひでぇ!?」
<姫様の性格も大概なものです。可愛い>
好きですよ、こういう輝夜。