妖怪が寝静まり、人間が起き上がるまでの僅かな隙間――そういう時間を青娥は好んだ。人目を憚られることをするに好都合だからだ。
邪な仙人は墓場の土を踏みしめている。鼻につく新鮮な死臭。口元が緩む。真下に眠る「宝物」のことを思えば、気分が高揚せずにはいられなかった。
踵をトントン、軽く二回叩けば地面が割れる。埋まっていた壺ごと。愛しの「宝物」は腐り始めの柔らかな手足を露出させた。
しかし青娥は一転顔をしかめた。藪をつついて蛇を出す。ミイラ取りがミイラになる。ドゴンと背後で轟音を聴いた時、地面に埋まっていたのは彼女の方ではないか。
「朝から精が出ますこと」
猛烈な怒りを握り潰してなお漏れる声が、振り下ろされる。
「御老人の朝は早いですこと」
生憎仙人は頑丈さが取り柄である。皮肉が鉄拳にまとわりつく。
「貴方と比べれば若輩者ですが。霍青娥」
「ならば年長者を労わるべきでしょう。聖白蓮」
「我々は儒学者ではありませんよ」
挨拶を終えるやいなや、寺の住職は墓場荒らしを念入りに叩きつけた。
だがこの邪仙に向かっての正攻法など、隙を突いてくれと言っているようなものだ。身体をバキバキに砕かれてなお狙った獲物に飛びついて、むしろ全身を砕くほどの衝撃を追い風に、地下へ地下へ潜っていく。
そうはさせない、と言ったのはどちらか。白蓮はすぐさま追い、青娥はこれを防ごうと埋蔵する死霊を解き放つ。
「今日は何の日かご存知かしら?」
「貴方に引導を渡す日です!」
猛る白蓮。目にするは今まで何度か撃退を試み、いつもすんでのところで逃がしてきた仇敵だ。普段は無欲な彼女も今日は貪欲である。
「聖バレンタインが殉教した日ですわ。人なら当たり前の情欲、それを禁ずる昏君(フンチュン)に抗った……後世の者は彼を讃えこの日を愛の自由の祭日にしたそうよ」
「だからなんだと言うのです」
「だから私達も添い遂げられるべきではなくて?」
「見逃すと!」
逃さんとするのは、死してなお生者の愛を求める魂もだ。白蓮は独鈷から迸る光でもって、これらを斬り捨てては逃げる邪仙に迫る。法の光はこの世の未練を浄化する光。それを青娥のようなタイプが厭うのは言うまでもない。
「南無三!」
スターソードが薙いだ。真っ二つに分かれた胴体、その断面からドバッと吹き出すは――悪鬼羅刹。この短時間で死体に無数の悪霊が仕込まれていた。それが牙を剥く。
思わぬ反撃にさしもの白蓮も怯む。対処が一歩遅れ、憑りつかれてしまった。しかし手に入れたばかりの死体をトラップとして手放さざるを得なくなった時点で、青娥にとっても完全敗北。屈辱の極み。思わず舌打ちしてしまう程の。
「バレンタインデーには、親しき者に贈り物をする風習があるそうですわ。今日くらいくださっても良かったのではなくて?」
だから所謂捨て台詞というヤツも怨霊と共に浴びせた。
「そのような風習幻想郷にはありません」
「田舎に封印されていたどこぞの破戒僧が知らないだけでしょ」
「邪教の祭りなど必要あるものですか」
体を思うように動かせない白蓮も、弾幕の代わりに言葉を送り返すくらいしかできないでいる。
この状況下でなお青娥の落下が緩やかなのは、せめて舌戦で巻き返すつもりだったか。
「屍は資源。仏は最早貴方達には不要でしょうに」
「貴方の物でもないわ。死者を弄ぶなど、冒涜の極み!」
「でもねぇ、所有を主張するならば貴方も私と同罪と、認めなさいな」
「問答無用」
「坊主のくせに?」
悪足掻きの独鈷投擲を右手で受け止め、ちょうど穴の開いた掌から青娥は悪態を付いた。
「これだから排他的な仏教は」
「都合良い言い訳になるなら何の教えでもいいんですね、浅薄な!」
「この礼は」
「必ず!」
激しく言霊を叩きつけあって離れていく二人。お互い相手への憎悪以上に不覚を取った自分自身への強い憤りがあった。
青娥の身体は深い深い穴倉へと沈んでいく。ほどなくして闇に飲まれ所在が分からなくなる。追跡を断念して、白蓮は自らを光差す方へ浮かび上がらせた。
その先で鶏か鵺か、獣の何かのけたたましい声が聞こえる。もう寺が目を覚ます時間だ。尼公は皆に贈る説法を考えなければならない、いつものように。
もっとも、その中身は今日だけの特別になるだろう。
仙界。幻想郷とは異なる理を持つ世界には多種多様な仙人が集まる。無論邪仙もだ。そこに建つ一際立派な霊廟が彼女と彼女の弟子の根城だった。
その最奥にある部屋は立ち込める香が濃密で、あまり人の出入りを感じさせない。専ら仙女達が甘い蜜を吸うのに使われている。
「まったく酷い目に遭いましたわ」
「聖白蓮のプレゼントは苦かったかい?」
「ただただ不味いだけですわ、仏教徒の持て成しは。肉が入っていないのに脂でギトギト。ホワイトデーには三倍返しにして差し上げます」
師の背中を擦りながら、豊郷耳神子は良い心掛けだと笑った。
青娥が半日前に負った傷は見事に塞がっている。元々丹で鍛えているのが仙人ではあるが、神子の調合した薬が効いた割合も大きい。仙術の基礎を教えたのは青娥に相違ないのだが、資質の違いか、壁抜けの技術と悪趣味さ以外ではとっくに抜かされていた。
一見逆にも見える師弟関係。青娥の奔放な行動がそう思わせもする。しかし彼女は知っている、落ち着いた風の神子の内面は自分以上にハチャメチャで突拍子もないことを。弟子は師に似るものであり、それが賢い弟子であれば反面教師にもするのである。
「どうですか、マッサージは」
「いいですいいですそこ……アン❤」
「私に甘えたいという欲が透けて見えますよ。もしかしてわざとやられました?」
「そんなひどい……あっ今度は胸を診てくださいまし」
「やれやれ、まぁ骨折り損でも後々儲けじゃないかな」
「儲け? あら」
神子の笑顔に悪巧みの気配を感じとって綻ぶ口元。青娥は子供のように催促した。
「この駄仙にもわかるよう教えてくださいな」
待ってましたと言わんばかりにニヤつく神子。所詮似た者同士である。
「寺の者にバレンタインを教えたんでしょう? ならば人里に広まるのも時間の問題。まぁこちらも信徒を使って喧伝させるのですが」
「バレンタイン? ああ、それが何か?」
「チョコレートの販売を独占すれば、安定した財源を確保できるとは思いませんか」
「あぁん、そんなこと」
「布都の皿代も馬鹿にならないですし」
いかにも台所事情が切迫している、という風に右手で額を押さえてみせる。そんな小芝居にも青娥は付き合って落胆を取り繕った。けれど唇の湿り具合に本題への期待が明るみに出ている。欲望に正直すぎる邪仙にはこれが限界である。
他者の欲を読み取れるこの超人の前では、元より隠し事など無意味。遠慮の必要もなかった。
「供給はさらなる需要を生み出すんでしたっけ」
「はい。幸いこちらの経済はまだまだ発展途上のようで」
「それで?」
「プレゼントの供給がカップルの需要を生み出すわけですよ。チョコレートが人間を生む」
「つまり、妖怪側に傾きつつあるパワーバランスを拮抗状態に押し戻したい……」
外の世界では幻想は忘れ去られていくばかりだと青娥は知っている。その消えた分が幻想郷に流れていくのだから、妖怪は増える一方だ。それに伴って人間の立場はますます弱くなるのは必至。
神子が仙人である以前に聖人であることもまた、青娥は知っていた。しかし彼女はいつも予想の斜めを行く。わかっていながらいつも。今回も。
「いいや、崩すよ」
「おやまぁ」
「始めこそ捕食者は家畜を増やすことに賛成するだろう。けれど人間が数で上回ったらどうなると思う? 千年寝ていた私より青娥の方がご存じだろう」
「人間は最早妖怪を恐れなくなりますわ」
「そして妖怪は人間に駆逐されることを恐れるだろうね。さて家畜を最早食い減らすこともできない、牧場がパンク、ならどうやってパワーバランスを保つ?」
語られるよりも前に壮大な計画が浮かび上がる。その途方もなさに青娥の頭はクラクラしていた。だから飽きない、永遠に師として付きまとうのだ。
「モーゼにでもなる気ですか」
「千年王国もね。聖人ですよ? 私」
ドヤッと平たい胸を張る太子様、いや救世主(メシア)様。自然と辺りは約一名の拍手に包まれる。
それも廿秒キッカリで止む。一通り感嘆しきったところで、青娥は改めて質問した。
「それで私の儲けは?」
「いやまぁその、繁殖率が上がると君にも利有りと。人間は生まれた分だけ死ぬし、生まれなくとも良い材料なんでしょう? 私達のように人を超えなければ」
「私の取り分は理解しました。けれどよろしいので?」
青娥はひどくいやらしい笑みを浮かべていた。彼女の瞳は千四百年前のまだ幼い弟子を映す。人の死を許せない聖少女。そんな純粋過ぎて眩しい娘を自分と同じ邪仙の身に堕としてしまったことに、サディスティックにもマゾヒスティックにも悦ぶ。
一方で神子は今更な反応だと肩をすくめた。彼女は聖人である以前に為政者だ。それこそ千四百年前に割り切ったこと――でなければ仏教など広めていない。
「私には私の、君には君の、人民には人民の役目がある。私を目指す者には道を用意するのもそうだし、そのための王国ですよ」
「成程、それで私の役目というのはさしずめ恋人達を繋ぐキューピッドというわけですが」
「話が早くて助かります」
「永い付き合いですから」
互いに顔を見せあい、ニコリとほほ笑む。その時部屋の扉が豪快に開いた。騒がしい音が一気に雪崩れ込んでくる。
「太子様! 『ちよこれえと』なるものの製造法がわかりましたぞ! やはり里の貸本屋が当たりでした、これ見てくだされこれ!」
布都は言う間に駆け寄って、小奇麗な外来本をガバッと開いては見せつける。荒い息は全て隣の青娥にかけられた。
「原材料が豆でしてな、それを炒ったり潰したり脂を取ったり色々……まずは我の作った試作品をご賞味くだされ」
急かしてもいないのに慌ただしい手つきで取り出される小箱、それを受け取って一嗅ぎすれば、苦笑い。
「ご苦労だった布都。それにバレンタイン……チョコ、有難う」
食べるまでもなくその中身が豆腐かおからか何かとわかってしまったが、正直に告げてこの誇らしげに胸を張る部下に泥を塗るような真似はしない。その懐の大きさがまた布都らに評価される。
大豆味のチョコをつまみつつ、資料をめくる神子。それを布都は興奮冷めやらぬ様子で見つめる。青娥などは眼中になかった。一応彼女もまた師事したにも関わらず。
「……思っていた以上に煩雑な工程のようですね。機材を揃えるのもそうですが、まずこのカカオの栽培が……うーん、既成品を仕入れるのが早いでしょうね、青娥」
「おっ青娥殿もいらしたか。失礼」
神子が視線を隣に移してようやく青娥の存在を認める。それが布都の物の見方だった。
もっとも青娥の方とて同じなので、無視して神子に応じる。
「外の人間は板状の出来合いのを溶かし再度固めただけで『自作』と称するようですね。何枚くらい?」
「最初は10ダースくらいで。久々の外界、満喫してくるといい。旦那さんが恋しい頃でしょう?」
「まさか。今は貴方だけに夢中です」
軽い腰を上げて、空きっぱなしの戸をふらっと抜ける青娥。わざわざ自分の羽衣を置いていって。神子は残り香を吸ってはタラシ特有の溜息を吐いてみせた。
幻想郷の果て、そこは外界の果てでもある。没する日の出ずる月の光が交わり、影を二重に作る。
祭りの喧騒は遥か遠く、風が微かに運ぶのみ。博霊神社とは同じ境界線上にあるも、場所的には少し離れた、いわば穴場だった。
「あらよっと、ですわ」
地下を這いずり回ったばかりの青娥は、人に見せつけるような優美な手付きを取り繕って土埃を掃う。もっとも人目を憚れるから穴を掘り進んできたのだが。
念には念を、愛蔵のキョンシーを一体、自分と同じ顔に整形しては妖怪の山付近に飛ばしている。あまり人目にはつかずして、真面目過ぎる哨戒天狗かネタ探しに目が無い天狗記者がきっちりアリバイを証明してくれる、という寸法だ。さらには念を、「護衛」の芳香も付けている。
青娥はくんくんと鼻を鳴らす。稲荷の臭いが紛れ込んでいないか、最終確認。
「ウマく釣れたようね、神子様」
博麗大結界を抜ける上で最大の障壁は当然、管理人の八雲――紫が冬眠している間はその代行、藍――となる。最強の妖獣とやりあって負けない自信はあっても勝てないのは確信していた。だから共犯者に代行を、という手筈だ。
只今の神子は絶賛営業中。「バレンタインの贈り物に油揚げを」などと勧誘している様子を浮かべて、青娥は申し訳なく思いながらも下品な笑みを溢した。
「さて行って来ます」
お得意の鑿を取り出して、空に突き出せば――そこを基点に境界が切り開かれていく。行きはよいよい帰りはこわい、入るは易く出るは難き、と言ったのは誰だったか。案ずる時既に産んでいる、この壁抜けの邪仙にとっては。
もっとも目に映る障子の先を無条件に信じてしまったのは、流石に慢心というか、欲に眩んでいたか。
青娥は軽い気持ちで一歩踏み入れて、一歩踏み外した。
「あらあら、まぁ……」
うっかり罠に飛び込んだことには瞬時に気づく。辺りは完全に闇。日も月も青娥自身さえ没してしまっている。この世の何処だか皆目見当もつかない、きっと何処にもない世界の内。
ただし青娥は動じない。どこであろうと、彼女の行動原理は一つ。
立ち塞がる壁を抉じ開けて、自由に生きる。そのために少女は仙人になった。
力を込めて鑿を振りかざせば、ガンガラガッシャーンと虚空が盛大に割れる。割っては境界の向こう側へ。まだ檻の中ならまた錠前を壊して。向こうへ、向こうの向こうへ。
青娥の手は休まる試しがない。流石の邪仙も少しずつ、悪い予感を備えていく。
「一体何枚あるのかしら。バレンタインチョコレート」
「あら、貴方の養った小鬼と同じ数よ」
いつ潜り込んだか、与り知らぬ返答が喉元をせり上がってきた。青娥の予感はもう悪寒に代わっていた。
腹がガバッと割ける。そいつは上半身だけを出して宿主と顔を合わす。
「今晩は」
一寸の迷いも無く、母は望まぬ娘を絞め殺そうと手を伸ばした。しかし一瞬のうちに突起は引っ込み空を掴む羽目に。
異物は今度は下から排出される。紅の滴る足で潰そうとした時には、すでに背後の陰に潜んでいた。この境界の内側全てが影だ、最早判別することなどできない。
「逃しませんわ」
ならば面で制圧すべし。青娥は開かれた腸からそのまま悪意の塊を振りかける。
それはまるで、攻城塔に備えられたバリスタの一斉砲撃。取り囲む結界と衝突し、炸裂。暗闇に光が満ちた。
しかし闇は滅びず、また小さな仙人を覆い尽くしてしまう。いつの間にか、一面には無数の目。一斉に見開いて、蔑視する。
「私が貴方を捕まえた」
万の瞳に映る「彼女」は勝ち誇るように言う。
「まだ如月ですよ? お休みでなくてよくて?」
無視。ああ空寝と青娥は憎々しげに呟いた。
「幻想郷は、全て受け入れてくれるって、そう聞いたけど」
全てを呑み込む、の間違いよと、答えることも無し。
いつかの水鬼鬼神長の包囲網が脳裏をよぎる。開けてもすぐ修復する水の壁が幾重にも張り巡らされ、正面突破は青娥と言えど不可能だった。けれどあの時は地面という逃げ道が用意されていたのである。
ところがこの多重結界は四方八方塞がり。所詮お役所仕事の刺客などとは格が違う。個人的な理由から猛烈に仕掛けてくるタイプ、しかも聖白蓮のようなパワー押しではなくどこぞの誰かのようにブレインでもって、が一番厄介――そう青娥の経験は物語っていた。
「モテる女は辛いわね。けれど逃れてみせますわ、貴方、八雲紫を殺してね」
「あら、やれるのかしら」
つい挑発に乗って、紫は瞳から全身を現す。それを見た邪仙は不気味なくらいにこやかに微笑んだ。
「だって私、壁抜けの青娥娘々ですもの」
そびえ立つ壁が険しいほど昂ぶりを覚えてしまう。霍青娥とは、そういう生き物だった。
霍青娥が折り畳まれたトランクが仙界神霊廟に届いたのは、翌日のことだ。
芳香から受け取った布都は驚く様子もなく、慣れた手つきでバラバラの身体を組み立てた。ただ少し呆れた様子で「あまり荒事をなさぬようにな」と説教してから主に託した。
「幻想郷のチョコレートの味は如何?」
神子の第一声で青娥は理解した。ただ紫の出方を見るために自分を焚き付けたのだと。
この突拍子もない計画が上手くいくなどと夢想していたのは、それこそ昨日の青娥くらいなものである。目先の欲に目が眩む生き方を、彼女だけが肯定していた。
神子とて大概な夢想家だが、大志を成し遂げるために現実的な修正を加えていくことにも余念がない。彼女は常に大局を見ている。過去も今も未来も。
「私の感想を先に述べるなら、案外甘い。正直青娥とは昨日でお別れだと思ってました」
「あらひどい」
「相手はどんなゲテモノだろうが骨の髄までしゃぶる性質ね。昨夜の各新聞によればバレンタインとは弾幕を贈るお祭り、だそうだよ」
ひらひらと舞う大量のスクラップ。そのいづれにも青娥が幻想郷の強者――身に覚えのない相手ならまだしも、身に覚えのある相手まで――と弾幕ごっこに勤しむ写真がデカデカと載っていた。当の本人は思わず首を傾げる。
「有り得ませんわ」
「殆ど君のキョンシーの『式』のようだけど、この花果子念報の記者は念写能力者と聞いている。元ネガを撮ったのもおそらくまぁ、言わずもがな」
「……してやられましたわ」
「けれど良い経験にもなった。負け惜しみじゃなくてね。今回八雲紫は動き過ぎ、ビビってる?」
これからバレンタインは妖怪本位の「弾幕ごっこ」として定着していくことだろう。しかし神子は前向きに分析していた。その根本には、妖怪が人を恐れるが故に恐れられんとする、という思想がある。
安楽椅子軍師は超長期的に見て勝利を確信し、ほくそ笑んだ。
「さて後夜祭といきましょうか。青娥も一つ戴くかい? 信者に一杯貰っちゃってさ、チョコレート」
卓に積まれた大小の箱を見せびらかす神子。部屋には微かに甘い香りが漂っている。そこに大豆臭さはない。
「不思議じゃない? 彼らが手に入れられるということは流通はしているわけだ。もっとも非常に限定的であることもわかってるんだけど」
内訳は香霖堂の売り物なり紅魔館の台所からの盗品なり無縁塚の落し物なり……大まかに「流れ着いたもの」と「運ばれたもの」の二通りだと講釈した。そのどちらも制御しているのは結界の管理者八雲紫、以外に有り得ないのは自明である。
隙間妖怪の隙を探るのが神子で、突くのが青娥の役目。それがわかっていてもどの道邪仙は目先の欲でしか行動しない。既に関心は「神子のバレンタインチョコ」に移っていた。
「ともあれそのチョコは神子様に向けたものでしょう? そんなの要りませんわ私」
「そう言うと思って、一個『自作』したのを用意してあるよ」
「戴きます」
これだから愛らしい、と和やかな笑みを浮かべ、主は餌をやる。
「ハッピーバレンタイン、青娥」
「そういうところ、好きですわ」
邪な仙人は墓場の土を踏みしめている。鼻につく新鮮な死臭。口元が緩む。真下に眠る「宝物」のことを思えば、気分が高揚せずにはいられなかった。
踵をトントン、軽く二回叩けば地面が割れる。埋まっていた壺ごと。愛しの「宝物」は腐り始めの柔らかな手足を露出させた。
しかし青娥は一転顔をしかめた。藪をつついて蛇を出す。ミイラ取りがミイラになる。ドゴンと背後で轟音を聴いた時、地面に埋まっていたのは彼女の方ではないか。
「朝から精が出ますこと」
猛烈な怒りを握り潰してなお漏れる声が、振り下ろされる。
「御老人の朝は早いですこと」
生憎仙人は頑丈さが取り柄である。皮肉が鉄拳にまとわりつく。
「貴方と比べれば若輩者ですが。霍青娥」
「ならば年長者を労わるべきでしょう。聖白蓮」
「我々は儒学者ではありませんよ」
挨拶を終えるやいなや、寺の住職は墓場荒らしを念入りに叩きつけた。
だがこの邪仙に向かっての正攻法など、隙を突いてくれと言っているようなものだ。身体をバキバキに砕かれてなお狙った獲物に飛びついて、むしろ全身を砕くほどの衝撃を追い風に、地下へ地下へ潜っていく。
そうはさせない、と言ったのはどちらか。白蓮はすぐさま追い、青娥はこれを防ごうと埋蔵する死霊を解き放つ。
「今日は何の日かご存知かしら?」
「貴方に引導を渡す日です!」
猛る白蓮。目にするは今まで何度か撃退を試み、いつもすんでのところで逃がしてきた仇敵だ。普段は無欲な彼女も今日は貪欲である。
「聖バレンタインが殉教した日ですわ。人なら当たり前の情欲、それを禁ずる昏君(フンチュン)に抗った……後世の者は彼を讃えこの日を愛の自由の祭日にしたそうよ」
「だからなんだと言うのです」
「だから私達も添い遂げられるべきではなくて?」
「見逃すと!」
逃さんとするのは、死してなお生者の愛を求める魂もだ。白蓮は独鈷から迸る光でもって、これらを斬り捨てては逃げる邪仙に迫る。法の光はこの世の未練を浄化する光。それを青娥のようなタイプが厭うのは言うまでもない。
「南無三!」
スターソードが薙いだ。真っ二つに分かれた胴体、その断面からドバッと吹き出すは――悪鬼羅刹。この短時間で死体に無数の悪霊が仕込まれていた。それが牙を剥く。
思わぬ反撃にさしもの白蓮も怯む。対処が一歩遅れ、憑りつかれてしまった。しかし手に入れたばかりの死体をトラップとして手放さざるを得なくなった時点で、青娥にとっても完全敗北。屈辱の極み。思わず舌打ちしてしまう程の。
「バレンタインデーには、親しき者に贈り物をする風習があるそうですわ。今日くらいくださっても良かったのではなくて?」
だから所謂捨て台詞というヤツも怨霊と共に浴びせた。
「そのような風習幻想郷にはありません」
「田舎に封印されていたどこぞの破戒僧が知らないだけでしょ」
「邪教の祭りなど必要あるものですか」
体を思うように動かせない白蓮も、弾幕の代わりに言葉を送り返すくらいしかできないでいる。
この状況下でなお青娥の落下が緩やかなのは、せめて舌戦で巻き返すつもりだったか。
「屍は資源。仏は最早貴方達には不要でしょうに」
「貴方の物でもないわ。死者を弄ぶなど、冒涜の極み!」
「でもねぇ、所有を主張するならば貴方も私と同罪と、認めなさいな」
「問答無用」
「坊主のくせに?」
悪足掻きの独鈷投擲を右手で受け止め、ちょうど穴の開いた掌から青娥は悪態を付いた。
「これだから排他的な仏教は」
「都合良い言い訳になるなら何の教えでもいいんですね、浅薄な!」
「この礼は」
「必ず!」
激しく言霊を叩きつけあって離れていく二人。お互い相手への憎悪以上に不覚を取った自分自身への強い憤りがあった。
青娥の身体は深い深い穴倉へと沈んでいく。ほどなくして闇に飲まれ所在が分からなくなる。追跡を断念して、白蓮は自らを光差す方へ浮かび上がらせた。
その先で鶏か鵺か、獣の何かのけたたましい声が聞こえる。もう寺が目を覚ます時間だ。尼公は皆に贈る説法を考えなければならない、いつものように。
もっとも、その中身は今日だけの特別になるだろう。
仙界。幻想郷とは異なる理を持つ世界には多種多様な仙人が集まる。無論邪仙もだ。そこに建つ一際立派な霊廟が彼女と彼女の弟子の根城だった。
その最奥にある部屋は立ち込める香が濃密で、あまり人の出入りを感じさせない。専ら仙女達が甘い蜜を吸うのに使われている。
「まったく酷い目に遭いましたわ」
「聖白蓮のプレゼントは苦かったかい?」
「ただただ不味いだけですわ、仏教徒の持て成しは。肉が入っていないのに脂でギトギト。ホワイトデーには三倍返しにして差し上げます」
師の背中を擦りながら、豊郷耳神子は良い心掛けだと笑った。
青娥が半日前に負った傷は見事に塞がっている。元々丹で鍛えているのが仙人ではあるが、神子の調合した薬が効いた割合も大きい。仙術の基礎を教えたのは青娥に相違ないのだが、資質の違いか、壁抜けの技術と悪趣味さ以外ではとっくに抜かされていた。
一見逆にも見える師弟関係。青娥の奔放な行動がそう思わせもする。しかし彼女は知っている、落ち着いた風の神子の内面は自分以上にハチャメチャで突拍子もないことを。弟子は師に似るものであり、それが賢い弟子であれば反面教師にもするのである。
「どうですか、マッサージは」
「いいですいいですそこ……アン❤」
「私に甘えたいという欲が透けて見えますよ。もしかしてわざとやられました?」
「そんなひどい……あっ今度は胸を診てくださいまし」
「やれやれ、まぁ骨折り損でも後々儲けじゃないかな」
「儲け? あら」
神子の笑顔に悪巧みの気配を感じとって綻ぶ口元。青娥は子供のように催促した。
「この駄仙にもわかるよう教えてくださいな」
待ってましたと言わんばかりにニヤつく神子。所詮似た者同士である。
「寺の者にバレンタインを教えたんでしょう? ならば人里に広まるのも時間の問題。まぁこちらも信徒を使って喧伝させるのですが」
「バレンタイン? ああ、それが何か?」
「チョコレートの販売を独占すれば、安定した財源を確保できるとは思いませんか」
「あぁん、そんなこと」
「布都の皿代も馬鹿にならないですし」
いかにも台所事情が切迫している、という風に右手で額を押さえてみせる。そんな小芝居にも青娥は付き合って落胆を取り繕った。けれど唇の湿り具合に本題への期待が明るみに出ている。欲望に正直すぎる邪仙にはこれが限界である。
他者の欲を読み取れるこの超人の前では、元より隠し事など無意味。遠慮の必要もなかった。
「供給はさらなる需要を生み出すんでしたっけ」
「はい。幸いこちらの経済はまだまだ発展途上のようで」
「それで?」
「プレゼントの供給がカップルの需要を生み出すわけですよ。チョコレートが人間を生む」
「つまり、妖怪側に傾きつつあるパワーバランスを拮抗状態に押し戻したい……」
外の世界では幻想は忘れ去られていくばかりだと青娥は知っている。その消えた分が幻想郷に流れていくのだから、妖怪は増える一方だ。それに伴って人間の立場はますます弱くなるのは必至。
神子が仙人である以前に聖人であることもまた、青娥は知っていた。しかし彼女はいつも予想の斜めを行く。わかっていながらいつも。今回も。
「いいや、崩すよ」
「おやまぁ」
「始めこそ捕食者は家畜を増やすことに賛成するだろう。けれど人間が数で上回ったらどうなると思う? 千年寝ていた私より青娥の方がご存じだろう」
「人間は最早妖怪を恐れなくなりますわ」
「そして妖怪は人間に駆逐されることを恐れるだろうね。さて家畜を最早食い減らすこともできない、牧場がパンク、ならどうやってパワーバランスを保つ?」
語られるよりも前に壮大な計画が浮かび上がる。その途方もなさに青娥の頭はクラクラしていた。だから飽きない、永遠に師として付きまとうのだ。
「モーゼにでもなる気ですか」
「千年王国もね。聖人ですよ? 私」
ドヤッと平たい胸を張る太子様、いや救世主(メシア)様。自然と辺りは約一名の拍手に包まれる。
それも廿秒キッカリで止む。一通り感嘆しきったところで、青娥は改めて質問した。
「それで私の儲けは?」
「いやまぁその、繁殖率が上がると君にも利有りと。人間は生まれた分だけ死ぬし、生まれなくとも良い材料なんでしょう? 私達のように人を超えなければ」
「私の取り分は理解しました。けれどよろしいので?」
青娥はひどくいやらしい笑みを浮かべていた。彼女の瞳は千四百年前のまだ幼い弟子を映す。人の死を許せない聖少女。そんな純粋過ぎて眩しい娘を自分と同じ邪仙の身に堕としてしまったことに、サディスティックにもマゾヒスティックにも悦ぶ。
一方で神子は今更な反応だと肩をすくめた。彼女は聖人である以前に為政者だ。それこそ千四百年前に割り切ったこと――でなければ仏教など広めていない。
「私には私の、君には君の、人民には人民の役目がある。私を目指す者には道を用意するのもそうだし、そのための王国ですよ」
「成程、それで私の役目というのはさしずめ恋人達を繋ぐキューピッドというわけですが」
「話が早くて助かります」
「永い付き合いですから」
互いに顔を見せあい、ニコリとほほ笑む。その時部屋の扉が豪快に開いた。騒がしい音が一気に雪崩れ込んでくる。
「太子様! 『ちよこれえと』なるものの製造法がわかりましたぞ! やはり里の貸本屋が当たりでした、これ見てくだされこれ!」
布都は言う間に駆け寄って、小奇麗な外来本をガバッと開いては見せつける。荒い息は全て隣の青娥にかけられた。
「原材料が豆でしてな、それを炒ったり潰したり脂を取ったり色々……まずは我の作った試作品をご賞味くだされ」
急かしてもいないのに慌ただしい手つきで取り出される小箱、それを受け取って一嗅ぎすれば、苦笑い。
「ご苦労だった布都。それにバレンタイン……チョコ、有難う」
食べるまでもなくその中身が豆腐かおからか何かとわかってしまったが、正直に告げてこの誇らしげに胸を張る部下に泥を塗るような真似はしない。その懐の大きさがまた布都らに評価される。
大豆味のチョコをつまみつつ、資料をめくる神子。それを布都は興奮冷めやらぬ様子で見つめる。青娥などは眼中になかった。一応彼女もまた師事したにも関わらず。
「……思っていた以上に煩雑な工程のようですね。機材を揃えるのもそうですが、まずこのカカオの栽培が……うーん、既成品を仕入れるのが早いでしょうね、青娥」
「おっ青娥殿もいらしたか。失礼」
神子が視線を隣に移してようやく青娥の存在を認める。それが布都の物の見方だった。
もっとも青娥の方とて同じなので、無視して神子に応じる。
「外の人間は板状の出来合いのを溶かし再度固めただけで『自作』と称するようですね。何枚くらい?」
「最初は10ダースくらいで。久々の外界、満喫してくるといい。旦那さんが恋しい頃でしょう?」
「まさか。今は貴方だけに夢中です」
軽い腰を上げて、空きっぱなしの戸をふらっと抜ける青娥。わざわざ自分の羽衣を置いていって。神子は残り香を吸ってはタラシ特有の溜息を吐いてみせた。
幻想郷の果て、そこは外界の果てでもある。没する日の出ずる月の光が交わり、影を二重に作る。
祭りの喧騒は遥か遠く、風が微かに運ぶのみ。博霊神社とは同じ境界線上にあるも、場所的には少し離れた、いわば穴場だった。
「あらよっと、ですわ」
地下を這いずり回ったばかりの青娥は、人に見せつけるような優美な手付きを取り繕って土埃を掃う。もっとも人目を憚れるから穴を掘り進んできたのだが。
念には念を、愛蔵のキョンシーを一体、自分と同じ顔に整形しては妖怪の山付近に飛ばしている。あまり人目にはつかずして、真面目過ぎる哨戒天狗かネタ探しに目が無い天狗記者がきっちりアリバイを証明してくれる、という寸法だ。さらには念を、「護衛」の芳香も付けている。
青娥はくんくんと鼻を鳴らす。稲荷の臭いが紛れ込んでいないか、最終確認。
「ウマく釣れたようね、神子様」
博麗大結界を抜ける上で最大の障壁は当然、管理人の八雲――紫が冬眠している間はその代行、藍――となる。最強の妖獣とやりあって負けない自信はあっても勝てないのは確信していた。だから共犯者に代行を、という手筈だ。
只今の神子は絶賛営業中。「バレンタインの贈り物に油揚げを」などと勧誘している様子を浮かべて、青娥は申し訳なく思いながらも下品な笑みを溢した。
「さて行って来ます」
お得意の鑿を取り出して、空に突き出せば――そこを基点に境界が切り開かれていく。行きはよいよい帰りはこわい、入るは易く出るは難き、と言ったのは誰だったか。案ずる時既に産んでいる、この壁抜けの邪仙にとっては。
もっとも目に映る障子の先を無条件に信じてしまったのは、流石に慢心というか、欲に眩んでいたか。
青娥は軽い気持ちで一歩踏み入れて、一歩踏み外した。
「あらあら、まぁ……」
うっかり罠に飛び込んだことには瞬時に気づく。辺りは完全に闇。日も月も青娥自身さえ没してしまっている。この世の何処だか皆目見当もつかない、きっと何処にもない世界の内。
ただし青娥は動じない。どこであろうと、彼女の行動原理は一つ。
立ち塞がる壁を抉じ開けて、自由に生きる。そのために少女は仙人になった。
力を込めて鑿を振りかざせば、ガンガラガッシャーンと虚空が盛大に割れる。割っては境界の向こう側へ。まだ檻の中ならまた錠前を壊して。向こうへ、向こうの向こうへ。
青娥の手は休まる試しがない。流石の邪仙も少しずつ、悪い予感を備えていく。
「一体何枚あるのかしら。バレンタインチョコレート」
「あら、貴方の養った小鬼と同じ数よ」
いつ潜り込んだか、与り知らぬ返答が喉元をせり上がってきた。青娥の予感はもう悪寒に代わっていた。
腹がガバッと割ける。そいつは上半身だけを出して宿主と顔を合わす。
「今晩は」
一寸の迷いも無く、母は望まぬ娘を絞め殺そうと手を伸ばした。しかし一瞬のうちに突起は引っ込み空を掴む羽目に。
異物は今度は下から排出される。紅の滴る足で潰そうとした時には、すでに背後の陰に潜んでいた。この境界の内側全てが影だ、最早判別することなどできない。
「逃しませんわ」
ならば面で制圧すべし。青娥は開かれた腸からそのまま悪意の塊を振りかける。
それはまるで、攻城塔に備えられたバリスタの一斉砲撃。取り囲む結界と衝突し、炸裂。暗闇に光が満ちた。
しかし闇は滅びず、また小さな仙人を覆い尽くしてしまう。いつの間にか、一面には無数の目。一斉に見開いて、蔑視する。
「私が貴方を捕まえた」
万の瞳に映る「彼女」は勝ち誇るように言う。
「まだ如月ですよ? お休みでなくてよくて?」
無視。ああ空寝と青娥は憎々しげに呟いた。
「幻想郷は、全て受け入れてくれるって、そう聞いたけど」
全てを呑み込む、の間違いよと、答えることも無し。
いつかの水鬼鬼神長の包囲網が脳裏をよぎる。開けてもすぐ修復する水の壁が幾重にも張り巡らされ、正面突破は青娥と言えど不可能だった。けれどあの時は地面という逃げ道が用意されていたのである。
ところがこの多重結界は四方八方塞がり。所詮お役所仕事の刺客などとは格が違う。個人的な理由から猛烈に仕掛けてくるタイプ、しかも聖白蓮のようなパワー押しではなくどこぞの誰かのようにブレインでもって、が一番厄介――そう青娥の経験は物語っていた。
「モテる女は辛いわね。けれど逃れてみせますわ、貴方、八雲紫を殺してね」
「あら、やれるのかしら」
つい挑発に乗って、紫は瞳から全身を現す。それを見た邪仙は不気味なくらいにこやかに微笑んだ。
「だって私、壁抜けの青娥娘々ですもの」
そびえ立つ壁が険しいほど昂ぶりを覚えてしまう。霍青娥とは、そういう生き物だった。
霍青娥が折り畳まれたトランクが仙界神霊廟に届いたのは、翌日のことだ。
芳香から受け取った布都は驚く様子もなく、慣れた手つきでバラバラの身体を組み立てた。ただ少し呆れた様子で「あまり荒事をなさぬようにな」と説教してから主に託した。
「幻想郷のチョコレートの味は如何?」
神子の第一声で青娥は理解した。ただ紫の出方を見るために自分を焚き付けたのだと。
この突拍子もない計画が上手くいくなどと夢想していたのは、それこそ昨日の青娥くらいなものである。目先の欲に目が眩む生き方を、彼女だけが肯定していた。
神子とて大概な夢想家だが、大志を成し遂げるために現実的な修正を加えていくことにも余念がない。彼女は常に大局を見ている。過去も今も未来も。
「私の感想を先に述べるなら、案外甘い。正直青娥とは昨日でお別れだと思ってました」
「あらひどい」
「相手はどんなゲテモノだろうが骨の髄までしゃぶる性質ね。昨夜の各新聞によればバレンタインとは弾幕を贈るお祭り、だそうだよ」
ひらひらと舞う大量のスクラップ。そのいづれにも青娥が幻想郷の強者――身に覚えのない相手ならまだしも、身に覚えのある相手まで――と弾幕ごっこに勤しむ写真がデカデカと載っていた。当の本人は思わず首を傾げる。
「有り得ませんわ」
「殆ど君のキョンシーの『式』のようだけど、この花果子念報の記者は念写能力者と聞いている。元ネガを撮ったのもおそらくまぁ、言わずもがな」
「……してやられましたわ」
「けれど良い経験にもなった。負け惜しみじゃなくてね。今回八雲紫は動き過ぎ、ビビってる?」
これからバレンタインは妖怪本位の「弾幕ごっこ」として定着していくことだろう。しかし神子は前向きに分析していた。その根本には、妖怪が人を恐れるが故に恐れられんとする、という思想がある。
安楽椅子軍師は超長期的に見て勝利を確信し、ほくそ笑んだ。
「さて後夜祭といきましょうか。青娥も一つ戴くかい? 信者に一杯貰っちゃってさ、チョコレート」
卓に積まれた大小の箱を見せびらかす神子。部屋には微かに甘い香りが漂っている。そこに大豆臭さはない。
「不思議じゃない? 彼らが手に入れられるということは流通はしているわけだ。もっとも非常に限定的であることもわかってるんだけど」
内訳は香霖堂の売り物なり紅魔館の台所からの盗品なり無縁塚の落し物なり……大まかに「流れ着いたもの」と「運ばれたもの」の二通りだと講釈した。そのどちらも制御しているのは結界の管理者八雲紫、以外に有り得ないのは自明である。
隙間妖怪の隙を探るのが神子で、突くのが青娥の役目。それがわかっていてもどの道邪仙は目先の欲でしか行動しない。既に関心は「神子のバレンタインチョコ」に移っていた。
「ともあれそのチョコは神子様に向けたものでしょう? そんなの要りませんわ私」
「そう言うと思って、一個『自作』したのを用意してあるよ」
「戴きます」
これだから愛らしい、と和やかな笑みを浮かべ、主は餌をやる。
「ハッピーバレンタイン、青娥」
「そういうところ、好きですわ」