里から外れた場所に一本だけ桜の木がある。
勿論、里の近くにはいくらでもあるから花見には困らないが、慧音にとってこの桜は意味のあるものなのだ。
「…今年も咲いたぞ、霖之助」
霖之助が里を出て行く前に、二人きりで花見をした場所だ。
春の暖かい空気が慧音の頬を撫でる。
慧音は風に揺れる髪の毛を掻き上げ、満開の桜を見つめる。
そう言えば、あのときもこんな良い天気だった、と心で呟いて。
時は遡る事十数年前、慧音は霧雨道具店に訪れていた。
ここで働いている男性の部屋に辿り着くなり、質問を投げかける。
『…どうしても、出て行くのか』
『あぁ、店を建てる場所も確保した、今から楽しみだよ、慧音。あぁそれから…』
トランクに当面必要なものを詰め込むの一旦止め、霖之助は懐から紙を取り出し慧音に突き付ける。
『…何だ、これ』
『僕の新しい名前だ』
慧音は紙を眺めながら呟く。
『…森近……霖之助?』
『あぁ、どうだい?』
『しみったれた名前だ、もう少し景気の良い名前にしろ』
投げ返しながら言う慧音に霖之助は反論した。
『しみったれたって、酷い言いようじゃないか!』
『五月蠅い。長い雨は農作物に悪い、だから駄目だ、霖之助』
『駄目だと言いつつもう僕の新しい名前言ってるじゃないか』
霖之助は口を尖らせながら慧音を責める。
暫くの間、張りつめた空気が漂い、どちらともなく溜息をつき、笑う。
『まぁ、お前らしいよ、雨でも晴れでもずっと屋内に居て本を読む。お前らしい』
『対する君は晴れなら畑仕事、雨なら雨でずっと勉強。君らしい』
一頻り言葉の応酬をしてから、見つめ合い、そして笑う。
この二人は、そんな関係だった。
『なぁ霖之助、もう出て行く日は決めたのか』
『いや、まだ当分は出ないかなぁ、お世話になった人がたくさんいるから』
お礼をしに回らなきゃならない。と霖之助は言った。
彼のトランクに腰を降ろしながら慧音は口を開く。
『そうか、じゃあ時間はあるのか』
『あぁ、あるよ』
慧音は勢いよく立ちあがり霖之助に詰め寄った。
『じゃあ花見しよう、お前里に居る間はやったことないだろ』
『外に出るのは嫌なんだが』
『引き籠るのは店を建てた後でいくらでもできる、良いだろ、な?』
慧音は有無を言わせず霖之助の腕を引っ掴み外へと引っ張り出す。
余りに急な出来事だったため霖之助は顔から廊下に激突しそうになった。
『ま、待ってくれ慧音!危ない!』
『大丈夫だ!』
階下へ駆けおり、帳簿をつけている親父に慧音は叫びながら店外へ出て行く。
『店主!霖之助借りるぞ!』
『いいですよ~…ってもういない…』
返答する間もなく消えた二人を眺め、煙管を吸い、吐き出す。
『…まぁ、あの二人がゆっくり一緒に居られるなんて、きっと最後でしょうからね』
親父は煙管から煙草を抜いて、二人が去って行った入り口を見つめながら呟いた。
霧雨道具店から飛び出した二人は里を勢いよく走っていた。
『…慧音!もう少しゆっくり走ってくれ!』
『良いじゃないか!霖之助』
何が良いのか分からない、そんな顔をしつつ霖之助は引っ張られていく。
何事かと不審がる里の住人の顔すら目に入らないかのように慧音は走る。
自然、住人達はこの二人の為に道を譲った。
走りに走って数十分、里のはずれに着くと、慧音は先程まで握っていた霖之助の袖を離す。
『…こんな場所があったのか』
『ついこの前見つけたんだ。里の事は知り尽くしているつもりだったが、私もまだまだ』
『ふーん』
霖之助は腰をおろして桜を見上げ呟いた。
『これだけ大きいってことは、もう何年……いや何十年もこの場所に立っていたのか』
『だろうな、これだけ太く立派な樹だ』
それだけ言って、霖之助の隣に座り、無言になる。
暫く春の暖かい空気と風の音を聞いていると慧音は声を張り上げた。
『あっ!しくじった!』
『どうしたんだい?慧音』
『行きの途中で団子を買うのを忘れていた。まずったなぁ』
愕然とした表情とは裏腹の阿呆な理由に霖之助はしばし呆然とし、笑う。
『君は花より団子なのか』
『花も団子もだ。綺麗な花を見て美味しい菓子を食べれれば最高じゃないか』
『団子なんか何時でも食べれるだろうに。花見は菓子を食べるための口実かい?』
『それの何処が悪い?』
しばし見つめ合い、笑う。
そして桜へ向き直ると、慧音は霖之助の肩に自分の頭を静かに預けた。
『…お前が出て行くと……寂しくなるな』
『だろうね、君にとっては歴史談議に耳を傾けてくれる人がいなくなるだろうから』
『なんでそんな言い方しかできないんだ』
『…ごめん』
『謝るな』
霖之助はそっと手を回し慧音の肩に置く。
慧音は置かれた手にそっと触れると、独り言のように呟いた。
『お前の指は細いなぁ…まるで女性の指だ』
『そうかい』
『眠くなってくるなぁ、こんな天気良いと』
『良いよ、帰る時は起こしてあげるから』
『…そうか』
その言葉を聞いて、慧音は霖之助の手に触れたまま、静かに眠りはじめる。
風の音に紛れ、慧音の静かな寝息が聞こえ始めると、霖之助は静かに呟いた。
『…何も寂しくなるのは君だけじゃないんだ……僕だって』
それ以上の声は、誰にも聞こえることなく春の風に優しく攫われて行った。
慧音が目を覚ますと、見慣れた天井があった。
『…ここは』
『起きたのか、慧音』
声のする方に目を向けると行燈の光で本を読む霖之助の姿。
未だ状況がつかめない慧音は霖之助に尋ねる。
『何があったんだ、どうして私は家に居るんだ』
『起こしても起きなかったから背負って帰って来た』
至極まっとうで単純な答えに慧音は顔を赤らめた。
『…まぁ、礼は言う』
『はいはい。そんな事よりお腹は空かないかい?』
『あぁ、そう言えば』
慧音の答えを聞いた霖之助は書卓に置いていた包みを持ち出し、開ける。
『帰り途中、そこの和菓子屋さんから貰った団子だ、食べないか?』
『頂こう』
『茶でも淹れてくれると助かる』
『当り前だ、待っててくれ』
食べ終わるころには、すっかり夜の帳が降りていた。
串と湯飲みを台所の流しに放置して、慧音は本を読み、霖之助は硯に向かっていた。
慧音は先程顔を洗いに行ったついでに、寝間着に着換えている。
『…霖之助、さっきから何を書いているんだ』
『ん?特に無い。落書きさ』
『そうか』
聞き流して、慧音はさらに頁を捲る。
もう真夜中、草木も眠る丑三つ時に近い頃、筆を止め霖之助は口を開いた。
『もう遅いな、寝たらどうだい?』
『あぁ、そうしよう。霖之助は?』
『いや、書き終わったら寝るよ』
『そうか、じゃあ先に休んでいいか?』
霖之助は無言で手を振り、促す。
慧音は先程から敷いてあった布団に欠伸をしながら潜り込んだ。
『じゃあな霖之助、おやすみ』
『あぁ、おやすみ』
行燈の薄暗い光の下で滑らせている筆を止め、霖之助は恐る恐る口を開く。
『…なぁ慧音、話があるんだ』
しかし返答は聞こえてこず、代わりに慧音の静かな寝息だけが響いていた。
『…慧音』
最後に紙に自らの名前を書き込み、墨が完全に乾くまで待ち、乾いたのを確認すると丁寧に折りたたみ、表に慧音の名前を書き、先程まで使わせて貰っていた書卓に置くと、霖之助は静かに慧音の家の玄関を出て行った。
翌日は、雨だった。
慧音は雨音に起こされ、眠い目を擦りながら周りを見渡す。
『…帰ったのか』
暫し布団の上で呆けて過ごしていると、視界の隅の書卓に何かがある事にかがついた。
『これは…』
丁寧に折られた紙には
「上白沢慧音殿へ」
とこれまた丁寧な字で綴られている。
『…霖之助か』
紙を開き、眺める。
寝ぼけた目と頭では文字とその意味を理解するのに少しかかったが、手紙を読み終え放り、慧音は寝間着のまま外へ飛び出した。
『…何が自愛を祈るだ、馬鹿野郎』
傘もささず靴もはかず。
はねかかる泥すら気にも留めず慧音は霧雨道具店へと走って行った。
店の者は異様な風体の慧音を見て呆然とした。
当たり前だろう、寝巻のまま出歩き雨に濡れるどころか泥のシミさえ付けている女性に向かって愛想よくいらっしゃいませなど言える店員なんているはずはない。
だが、半分ほど予想していたのか親父だけは平然とした顔で帳簿をつけていた。
『…店主……霖之助は』
息も絶え絶えに慧音は親父に問いただす。
『今朝がた出て行きましたよ、この手紙を残して』
親父は手紙を振りながら慧音に示す。
『…ひょっとして、慧音さんの所にも」
『あぁ』
『全く、彼は慧音さんに挨拶もなしに出て行ったんですか』
そう言って呆れた顔で煙管をふかす。
暫くしてから、親父は口を開いた。
『…多分、里にはいないでしょう、僕が起きた時にはもういなかったんですから。慧音さんもそんな恰好してると風邪ひきますよ、帰った方が良い』
その代わり、と言って親父は煙管から煙草を抜きとりながら言う。
『霖之助君から店を始めたと言う連絡が来たら貴方に店の場所を教えましょう』
『…すまない』
『礼を言われる立場じゃありません。傘貸しましょうか?』
『いや、いい』
『そうですか』
慧音は親父から傘を借りず、家へと歩いて行った。
『すぐには出て行かないって……言ったじゃないか…』
昨日の霖之助の言葉を思い出しながら歩く。
『嘘吐き…嘘吐き…』
雨の音は激しく、他の者には聞き取れないほど、弱く呟いた。
慧音が家に着く頃、雨はいよいよ激しさを増していた。
『……霖之助』
玄関に足を投げ出し、濡れた体を放置しながら呟く。
目線の先には放りっぱなしの手紙が置かれた書卓。
『…ばかやろう』
言いながら、唇を噛み締める。
「…なーんてこともあったなぁ」
腰をおろしながら独りで笑うように呟いたその時、後ろから不意に声を掛けられた。
「やっぱり来てたか」
「霖之助!」
誰あろう置き手紙だけで置いて出て行った森近霖之助その人だった。
「今年も綺麗に咲いたね」
霖之助はよっこらせと言いながら慧音の隣に腰を下ろす。
「外出は嫌いじゃなかったのか?」
「嫌いだよ、でもこの桜だけは特別さ」
君と二人で見た桜だから、と霖之助は笑いながら言う。
暫くの間呆けて桜を見つめていた霖之助だが、左手を持ち上げ包みをを慧音に突き付けた。
「…何だ、これは」
「団子だよ」
「あぁ、最初来た時は忘れたんだっけ」
「で君が大騒ぎしたと」
「大騒ぎはしてない」
「分かったよ、みたらしとあんこ、どっちが良い」
あんこ、と慧音は答え霖之助はみたらしを取る。
「…旨いな」
「あぁ」
それくらいの言葉しか交わさず、終始無言で。
団子を全て食べ終えた時、慧音は霖之助に尋ねた。
「なぁ霖之助、お茶はないか」
「あ、忘れていた」
「お前、団子を持ってきて茶を忘れる奴があるか?」
「良くあるだろう、そんなこと」
絶対ない、と言いきって慧音は霖之助を見つめる。
霖之助の方も負けじと慧音を睨みつける。
暫く風の音だけが耳を打ち、そしてどちらからともなく笑いだす。
この二人の関係は、些かも変わる事はなかった。
「さぁ、僕はもう帰る、やっぱり外はあんまり好きじゃない」
「無理をするなよ」
霖之助は立ち上がり尻の汚れを軽く払い、慧音の手を取り立ち上がるのを助ける。
「まぁ、でも久しぶりかな、こうやって静かで平和に過ごせた一日ってのは」
「そうか」
それじゃまた、と言って霖之助は自分の店の方へ歩き出して行った。
薄桃色の風が吹き抜け、霖之助の背中が見えなくなると、慧音も里の方へと歩いて行く。
つまり何が言いたいのかと言うといぞもっとやれって事です投げ槍様
,,.. -―- ..,,__ }'、
,,. ''´ `´ヽ/__〉
/ ',`ヽ
/ / / ヽ ヽ こまかいことはいいんだよ
∠、_ノ / / l } ', '、
/) {∠ノ / l /r=、lヽl/ } ヽ
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/,.=゙''"/ } { 从 l//`ヽ、 /l /-‐/ } l |
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