およそ27.3日周期でめぐる朝日が寒々しい月面の起伏に乏しい砂丘地帯を明と暗の前衛的なコントラストに塗り分けた。ぎりぎりまで作業を続けていた天井磨きたちを乗せたハゴロモの最後の一団も、追い立てられるようにミハシラ最上部の港へと大急ぎで引き返していく。今日から約13日間続く《月の昼》はドーム外壁の表面温度を最大で摂氏110度まで上昇させ、その後訪れる《月の夜》は氷点下170度で凍てつかせる。
上半身裸のクラウンピースは温度が一定に保たれた狭い室内の小さな椅子の上に膝を抱えて、カーテンの隙間から差し込む日差しに手を透かして、人工でない本物の太陽光の下で見るマニキュアの発色を角度を変えて熱心に確かめていた。政府は禁止しているが、金とコネがあれば手に入れることは不可能ではないある種の薬物が放つ独特の甘い香りの漂う薄暗い部屋の一角を占める大きすぎるベッドの上には、一人の男が仰向けに寝ており、
「ふーん」クラウンピースは男にもらった虹色のマニキュアにうっとりしながら気のない返事をした。
「それに空が青いって言うんだぜ、そんな気味悪い土地に住めるかっつうの、なあ聞いてんのか?」
「さっきから何ぷりぷりしてんのさ」クラウンピースは塗ったばかりのマニキュアが付かないように指の腹でつまんでひっぱって、子供みたいに足をバタバタさせて星条旗のタイツを脱いだ。「そんなことよりあたいともっといいことしましょうよ」
お前にゃわかんねえよとへらへら笑う男の顔にクラウンピースは丸めたタイツを投げつけた。視界を覆う星条旗の下で男は痙攣的に身体をひくつかせた。クラウンピースはつんと顔を背けた。
「悪かったよ、謝るから、来いよ」男はベッドに肘を付いて誘った。クラウンピースは猫みたいに潜り込んだ。
「俺のモノになれよ」男はクラウンピースの豊かな金髪を撫でた。「こんな関係いつまでも続けるのはマズいんだよ、分かるだろ?」
「知ってる、あんた軍のショーコーなんでしょ?」クラウンピースは休暇に入ってからずっと剃っていない男の無精ひげを引っ張った。
「俺はお前のことを言ってるんだぜ」男はクラウンピースの頬に触れた。「こんなのは兎がやる仕事だ。いつかパクられて地上に堕とされちまう」
「あたいは穢れた女なの」クラウンピースは浅黒い男の脚に自分の白い脚を絡ませた。
「家を買ってやるよ。広くはないが、小さな庭付きのやつだ。悪くないだろ? 金ならあるんだ、見ろよ……」男はベッド脇の鞄に腕を伸ばそうとした。クラウンピースがその腕をつかんでベッドに押さえつけた。
「ねえ、こういうのはどう」クラウンピースは馬乗りになった。「あんたがあたいのモノになるの」
長い金髪が男の顔に覆い被さった。クラウンピースは貪るようにキスをした。能力の紅い光を帯びたヴァイオレットの虹彩が男の視線を釘付けにした。
「ああ……それも……悪くねえ……」抵抗を続けた意思の光の最後の一かけらが男の両目から完全に潰えた。
「きゃはははは。手駒は多い方がいいって友人様も言ってたから、いいわ、いらっしゃい、うんと可愛がってあげる」
クラウンピースは脱力した男のモジャモジャ頭を抱きしめたまま激しく腰を振り始めた。男はクラウンピースの白磁の胸に無言で顔をうずめた。クラウンピースはけたたましく笑い声を上げた。男は低く呻いて射精した。
首都新報(2月16日電子版)
対テロ戦闘は混迷、軍当局は作戦拡大を示唆――宇宙空間にも似た静寂の中にLEDの小さな星たちが明滅している。計器類の発する微かな光がオペレータの兎たちの顔を蒼白く照らす照明を抑えたオペレーションルームの中央の指揮机で、司令官のJ・S将軍は手元の時計を見ながら右手を上げてその瞬間を待った。午前九時ちょうどにその手は振り下ろされた。と同時に、オペレーションルームの壁に並ぶ大型スクリーンに浄化爆発の虹色の花が次々と咲き乱れた。
無人機による超小型プランク爆弾の一斉攻撃は、一連の自爆テロ事件に関与した容疑者グループの地下ネットワークがあるとされる14の砂丘を一瞬にして素粒子レベルの塵に変えた。しかし、軍のスポークスマンが高らかに勝利宣言をした翌日の午後にはまた新たな自爆テロが起こり、その後一週間のうちに更に二件が追加された。統合特殊作戦コマンドで無人機による空爆作戦を指揮する先述のJ・S将軍は軍創設×××周年を祝う恒例の記念行事の席上で「無人機による空爆作戦は一定の成果を上げている」ことを強調した上で「残念ながらテロリストグループは依然として組織立った指揮命令系統を維持し続けている」と述べ、今後更なる大規模な軍事作戦が必要になるとの見方を示した。
一方で、作戦前夜に突如明かされた人事異動通達の中に、同作戦に否定的な立場をとる幹部役員が少なからず含まれていたことが内外に様々な政治的憶測を呼んでいる。ある人事担当者は「人事は厳格な規則によって決定される」としながらも「個別の案件についての回答は差し控える」として、理由の詳細について述べることを避けた。月夜見様は軍創設記念行事を昨年に引き続き欠席された。
濃紺のブレザーから慣れないピンク色のつなぎに着替え、軍手とゴーグルを装着した治安部隊の兎たちは、愛用の小銃を光工学のカッターに持ち替えて、遺伝子操作によって人工的に生み出され、どこかの実験プラントから流出した可能性が噂されるほぼ全ての浄化剤に耐性を持った不気味なヒマワリの丈夫な茎を、一列横隊で一本いっぽん手作業で焼き切っていった。その後方では、スコップを持った別の兎たちが根っこをほじくり出していた。
「あーもうやだ、なんで私らがこんなことしなきゃなんないの」スコップを地面に突き立てた兎は額の汗を作業着の袖で拭った。
「浄化剤が効かないんだからしょーがないでしょ」別の兎が焼き切った茎を放り投げた。
「こらそこーッ、口動かす暇があったら手ェ動かす!」地面に立てた刀の
「依姫様って最近怒りっぽくなったと思わない?」
「思う思う。それってレイセンがいなくなってからだよね?」
「添い寝してくれる
「やだー」
依姫は右手で柄、左手で
「羽虫……?」
直後、背の高いヒマワリの繁みから間の抜けた悲鳴と共に一匹の見知らぬ兎が勢いよく転がり出てきた。鈴瑚だった。
「痛テテテ……なんて乱暴なお姫様だろう。近づくものはなんでも見境なしかい?」
依姫は逆手に持った刀を順手に持ち替えて無言のまま橘色の闖入者を睨んだ。鈴瑚は構わず依姫の足元に転がっているであろう見えない羽虫の死骸を指差して続けた。
「あんたが今斬ったそれは軍の偵察用ドローンだ。視界がこいつに繋がってる」鈴瑚はHMDのゴムバンドを指にかけてくるくる回した。「おかげでまだ目の前がチカチカする」
依姫は眉をひそめた。「弁償しろと?」
「まさか、私の年収の何倍もするその子たちを四機も撃墜してくれたからね。苦情の一つも言ってみたくなったのさ……よっ」鈴瑚はポケットから取り出した何かを投げてよこした。依姫は鞘を持った左手で器用にそれを受け止めた。依姫はゆっくりと手を開いた。それは兎用のピアスだった。
「おっ、今度は斬らなかったね」鈴瑚は挑発的なニヤついた表情をすぐに元に戻し、続けた。「そいつはレイセンのだ」
殺意が見えない刃となって鈴瑚の首筋をかすめた。鈴瑚はわざと気づかないふりをして依姫のプレッシャーを受け流した。
「そう怖い顔で睨みなさんな。拷問はしちゃいないし、縛ってもいない。そういうのは我々の趣味じゃない。ただ眠ってもらってるだけだ。レイセンにいろいろ探らせてたろ? 相当目立ってたよ。あの手の兎は隠密行動に向かない。あのまま続ければ、他の部隊に身柄を拘束される可能性すらあった。だから先手を打った。憲兵なんかに捕まって痛くもない腹を探られるのは、あんたらにとっても都合が悪いんじゃないかと思ってね」
依姫は肩の力を抜き、刀を鞘に収めた。鈴瑚は顎を伝う冷や汗を気づかれないように拭った。
「イワフネがドックに入ったのは知ってる?」鈴瑚は探るような目つきで尋ねた。「委員会はあれを地上に下ろすつもりらしい」
「自分たちで定めたタブーを自ら破ろうっていうの?」依姫は嘲笑した。
「時代が変わったんだよ。地上の情勢は十年単位で目まぐるしく変化する。ここ百年足らずの地上人の科学の発展ぶりは異常で、ようやく回復した資源を早速食いつぶす勢いだ……ねえ、こう考えたことはない? 急速な技術革新の背景には何者かの技術供与があるって」
「何が言いたいの?」依姫の目つきが再び警告の色を帯びた。
「私が何の話をしてるかなんて、あんたはとっくに気付いてるはずだ。委員会は地上に下りるもっともらしい口実を探している。反逆者討伐は反対派の言論を封殺して地上に介入するまたとない口実になる」
「八意様が月の都を? 馬鹿げてるわ」
「事実かどうかはこの際問題じゃない。可能性ありと断ずれば、憶測が事実に取って代わる。プロパガンダってのはそういうもんでしょ?」
「1400年前の意趣返しをしようというの?」
「あんたら姉妹は」鈴瑚は依姫を指差した。「テロと地上の罪人を結びつける鍵になる」
依姫は掌の上のピアスに視線を落とした。「でレイセンは何と?」
鈴瑚は肩をすくめた。「私はあんたら姉妹にそれを渡してくれと頼まれただけ。あの
「待ちなさい」依姫は頭の後ろで手を組んで立ち去ろうとする鈴瑚を引き止めた。「あなたも軍の所属でしょ、なぜ私たちにこれを?」
依姫の視線には強い疑念の色が混じっていた。
「あっそうそう」鈴瑚は振り返らずに話した。「あと一時間もすれば後任の兎が私の仕事を引き継ぎにやってくるけど、残念ながら手持ちの羽虫はあんたがさっき撃墜したので最後だったんだよね。新しいのを補充するのに最低二日はかかるから、その間あんたらの行動を監視する手段がなくなるんだった」
鈴瑚は半分だけ振り返り、念を押すように「48時間だからね」と言い残して去っていった。
安っぽい光沢でぴかぴか光る真珠大のピアスのコネクタから伸びる細いケーブルを接続した端末の前で、ニコニコしながらものすごいスピードでコンソールを操作する綿月豊姫の師から譲り受けた特別なクラッキング手法は、レイセンのパスワードを半日とかからずに解読してしまった。呆気にとられる依姫に「貴方はこういうの昔から苦手だものね」と言って普段はなかなか見せられない姉の威厳を見せて気をよくした豊姫は、ピアスのメモリーバンクに記録されたレイセンの視覚情報と聴覚情報を他者が閲覧可能なフォーマットに再構成してホログラムのスクリーンに投影した。ショーウィンドウの素敵な小物に気を取られながらもなんとか前を向いて77番街の現場の調査に向かう健気なレイセンの視界がスクリーンに映し出された。豊姫は不要な部分を早送りして現場に到着したところから再生した。案の定、清掃兎たちが浄化した現場には何ら痕跡らしいものは残っていなかった。
「レイセンがわざわざ送ってよこしたのだから、きっと何かが映ってるはずだわ」依姫は巻き戻してもう一度再生した。二人は食い入るように映像を見つめた。無機質な灰色の壁が大写しになった。レイセンは近づいたり、離れたり、角度を変えたりしながら長い時間をかけてその壁を眺めていた。依姫は壁がアップになったところで一時停止してスクリーンに顔を近づけた。
「駄目、何も見えないわ」依姫はため息をついた。
「レイセンに見えて私たちに見えないもの?」豊姫の脳裏に何かが閃いた。しなやかな指をコンソールに這わせ、映像から可視光領域の波長をカットして、代わりに人には見えない赤外領域の波長をシフトさせた。「清掃兎が洗い落とせなかった僅かな痕跡を、あの
モノクロに切り替わった映像の中央にもやもやした薄い染みのような模様が浮かび上がった。
「文字……でしょうか?」
「この部分を拡大して、波長の変化をより強調してやれば……どうかしら?」
依姫は目を細めた。
壁に残された落書き
『 娥よ見て か』(一部判読不能)