一週間に一度か、十日に一度か。
さとり様はとある部屋にこもって、一日をそこで過ごす日があるのさ。
その部屋で何をしてるかって?
何でも、好きなだけ煙草をふかして、何とかソナタとか、ともかくお上品で眠くなるような音楽を聴いているらしいよ。
黒い円盤はあたいにはちょっと魅力的だけど、大昔にそれを引っ掻いて大目玉を食らった事があるからね。
それ以来、あたいはあの部屋には近付かないようにしているし、他の子達は煙草の臭いがダメなもんだから、やっぱりあの部屋には近付かない。
言ってみれば、その部屋ではさとり様は本当の意味で一人になれるんじゃないかな?
◆◆◆◆
黒い革張りのソファに身体を沈めて、白い紙巻きの煙草を咥えてマッチを擦った。
小さな火で先端を炙るようにして息を吸う。ボ、と微かに火の暴れる音。
マッチを振って火を消して、灰皿へと押し込んだ。
短い煙草の先端から、紫を帯びた白い煙がくゆる。
薄い紫の煙が不自然に揺らめいたら、それが合図。
待ち望んでいたあの子は、いつの間にやら重厚な机の上に腰を下ろしていた。
「行儀が悪いですよ」
煙草の先端を灰皿の上に持っていって、フィルターを人差し指と中指で挟んだまま親指で軽く弾く。
灰皿の縁にトントンと当たる煙草の先端。ポロリと落ちた灰。
テーブルの上のガラス製の灰皿には、吸殻の山が出来ていた。
「それだって行儀が良いとは思えないけどね」
酷く不機嫌な様子でこいしは両足をぷらぷらと揺らした。
どうやら、机から下りてソファに座るという選択肢は彼女には無いらしい。
私の隣には来たくないのかもしれない。だからといって、机に座るのはどうかと思うのだが。
良くも悪くも、彼女は自由なのだと、事ある毎に感じるのだった。
それを羨んでいないと言い切ってしまえば嘘になる。
それでも、それが正しいとは到底思えないからこそ、私の眼は開いたままなのだけれど。
『おかえり』と言うタイミングは逃してしまった。
『どこへ行っていたの?』『何をしていたの?』『お風呂は?』『食事は?』
何を言って良いのか判らず、私は煙を吸い込んだ。
喉にピリと小さな刺激。
ふぅと緩く煙を吐き出すと、こいしの口許が僅かに歪んだ。
「いつからそんな安物に変えたの?」
こいしの視線の向く先は、私の右手にある煙草。
疎ましいと言わんばかりの険しい目付き。
貴方にそんな表情が出来たなんて。
それが『おかしくて』私は笑う。表には出さず、心の中でただ笑う。
「安物とは随分な言葉ですね」
「煙管は?」
随分と前に机の引き出しの奥底にしまってしまった煙管を、こいしは覚えていたようだった。
それだって嫌っていたように見えたのに、コレよりは良いとでも言うのだろうか。
「アレは私にはあまり向いていないようですので」
「私はあっちの方がまだマシだったと思うけど?」
「それはまたどうして?」
「だって、あっちの方が煙が少ないもの」
その『煙』が大事なのだろうに。
何も判っていないこいし。
けれど、それで良いのだ。判ってしまって困るのは私なのだから。
それとも、判っていて言っている?
もしそうだとすれば、彼女はそれ程までに私には会いたくないという事になる。
「で、答えは?」
若干の苛立ちを乗せた声で、こいしは問う。
私は何と答えるべきかと悩んで、フィルターを咥えた。
煙草の先端が朱く燃え、ゆらゆらと上る煙。
ゆっくりと吸い込んだそれは、ざらりと咥内を撫でるよう。
「夢を……」
「ん?」
「夢を見せてくれますからね」
「夢?」
「そう、夢です。そう考えれば、この名前も中々に素敵なモノだと思いませんか?」
手元にある煙草の箱をこいしに向ける。
眉根を顰めたこいしは、まるで憎いモノでも見るかのような表情をしてみせた。
私は、そんなこいしから視線を外した。
半分以上は灰となった手元の煙草に視線を落とした私は……笑ったのだろうか。
五分ばかりの短い夢。煙の向こうにくゆる夢。
ああ、その夢も、もう終わる。
「……お姉ちゃん?」
「次に会う時は……いえ、何でもありません」
奇しくも今吸っているのが最後の一本。
空になった煙草の箱をガラステーブルにトンと倒して、その絵柄を指でなぞる。
何と愛しくて、馬鹿らしい名前だろうか。
どういった意図で付けられたものかなど、私には判りようもないけれど、今の私にはぴったりだった。
だからこれを選んだのだ。本当は銘柄なんて何だって良かったのだから。
あと一呼吸でこの『夢』は終わる。
名残惜しくも、それは変わりようの無い事実。
深く深く、その一息を吸い込んで、重い煙を肺へと送り込む。
涙が滲んだのは、煙が目にしみたからだろう。
ぼんやりと滲むこいしを眺めて、ゆるゆると白い息を吐く。
「今度は十日後か二十日後か。……さようなら、『私の』こいし」
「待って、お姉ちゃん、待っ」
短くなった吸殻を灰皿に押し付ければ、それまで聴こえていた筈のこいしの声はぱたりと消えた。
まるで誰も居なかったかのように。
事実、誰も居なかったのだ。そう、誰も。
のろのろとソファから立ち上がり、私は窓を開いた。
どこか濁った部屋の空気は、どれだけ窓を開け放てば外へと流れて行くだろうか。
もっとも、この部屋にはペット達は決して近付きはしないのだから、キチンと換気をする必要も無い。
それよりも、だ。
「私に付いた煙草の臭いを落とさないといけませんね……」
一人呟いて、私は誰も居ないその部屋を後にした。
◆◆◆◆
さとり様に頼まれて、私は旧都にお使いに行く。
忘れっぽい私でも大丈夫なお使い。
白い箱。青い弓矢の書かれた、白い箱。
忘れても大丈夫だと、さとり様は言う。
お店の主人に「いつもの」って言えば通じるって。
それはそれで良いんだけど、それでも私は「コレを下さい」って自分で言いたい。
ちゃんと覚えていたって、ちゃんと自分で買って来たって。
結果が同じならば、その過程に意味は無いのかもしれないけれど、それでも。
旧都の真ん中の方に、そのお店はある。
鬼が店先に色とりどりの箱を並べて売っている。
赤、緑、青、黒。
その中に白い箱はいくつもあって、けれど私の欲しい箱が無い。
「おや、お嬢ちゃん」
声をかけられて、私は顔を上げた。
店の主人は鬼にしては珍しい細面で、だからだろうか、少し優しく見える。
お燐ならば覚えているだろうか。彼の名前は前に聞いた筈だけど、忘れてしまった。
「いつものは?」
どこにも見当たらないそれは、もしかして棚の奥に隠してあったりするのだろうか。
彼の後ろを覗くように背伸びをして訊ねた私に、彼は困ったように笑って、その狭い額をぺちりと叩いた。
「それがねえ、今、ここには無いんだよ」
「無い?」
「ああ、ここだけじゃない。旧都からはあの銘柄はキレイに消えちまってさ」
「消えた?」
「そう、消えちまったのさ。一晩にしてあの銘柄だけが無くなった」
彼の言う事がよく判らない。判ったのは、とにかくあの箱はここに無いという事だけだった。
「いつ入って来るの?」
「いつ、ねえ。それは俺も知りたいくらいだよ」
「もう入って来ないの?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
どうしたら良いのかな?
考えていると彼はやはり困った顔で「申し訳無い」と小さく呟いた。
「一度帰るかい?」
「んー、代わりのを何か……」
「代わりか……しかし、お嬢ちゃんのご主人様は何を基準に選んでるんだか俺には判らないからなあ」
さとり様は何て言ってたっけ?
確か、いつものが無かったら好きなのを一つ買って来てって言ってた気がする。
好きなのって? 私の好きなので良いのかな?
「これなんか……」
「これ。これにする!」
私がそれを指差すと、彼は笑った。
「また随分古臭いのを選ぶじゃないか」
「そう?」
だって、可愛いもの。
クリーム色の箱。緑色の絵に描かれているこの動物は何だろう?
さとり様に訊いたら教えてくれるかな?
「もしも気に入らなかったら持っておいで。違うのと交換してあげるよ」
店の主人は心配そうに言ってくれたので、私はありがとうと返して地霊殿に戻った。
さとり様は書斎に居て、きっと仕事中だったんだろうけど、私がそこに入ると「お帰りなさい」と優しく微笑んでくれた。
「さとり様、あの……」
何て言ったら良いんだろう。私は旧都での鬼との会話を思い出す。
代わりに買った箱はスカートのポケットの中に入っている。
買った時は「これだ」って思ったけど、いざさとり様の前に来ると自信が無い。
違う物の方が良かったかもって。
「ふむ。おおよそは判りました。それで、代わりの煙草とは?」
おずおずと、ポケットからそれを取り出して、さとり様へと手渡す。
クリーム色の箱。可愛い動物。
「なるほど、確かに可愛いですね」
それを見て、さとり様は小さく笑った。
だから、私も少しだけ安心する。
「さとり様、それは何ていう動物なんですか?」
「らくだ、と言います。暑い場所、見渡す限りの砂の広がる場所に棲む動物ですよ」
らくだ。あれは本当に居る生き物なのか。
砂ばかりの場所ってどんな所だろう。
「そういった場所の文献もあったかと。図鑑とか物語とか」
後で本を貸してくれるとさとり様は言う。
読み書きの練習はしているけど、私に読めるかな?
読めなかったらお燐に訊けば良いだろうか。
「The Book of One Thousand and One Nights」
ポツリ、さとり様が呟いた。
何を言っているのか判らなくて、私は首を傾げる。
「そうですね、次はこれにしましょうか」
クリーム色の箱を見詰めて、さとり様は笑った。
「それもまた『夢』でしょう」と、寂しそうに呟いて。
理解しきれた感じはしませんが、さとりの疲れたような諦めたような表情が心にしみます。
煙草を吸ってる人は何時も大変そうですねぇ…(色んな意味で
なんか苦いというかかなしい話でした
いや、面白かったです。
ただ、落ち着き切った雰囲気が、とても心地良かったです。