持ち前の空気を読む能力でもって、山の神社の食卓に失礼したことがある。お茶碗片手に、巫女がファフロツキィズ現象なる話を熱心に披露しており、山の神が、それは
空から雨ならぬ魚が降る。地上の民からすればそれはそれは面妖なるできごとであろう。
だが、真実とはしばしば
私はごく即物的な煙を吐く七輪を前に、そういった
それでも
天高く、馬肥ゆる秋。天高く、雲の上で焼ける秋刀魚。非常に場違いなそれを実現させているのは、我ら竜宮の使いという種族の、ごく即物的な欲望である。煩悩を捨て去った天人の享楽的な生活を、煩悩を抱えたまま間近で見るがゆえ、悟りもへったくれも持ち合わせておらぬ、単なる一妖怪なる我ら種族は、即物的な享楽を得るに
なので、こう考える。空に魚がなければ、海から空に持ってくるがよい。
空気を読めば、上昇気流を発生させる巻き上げ漁法などは、経験を積んだ竜宮の使いであればお茶の子さいさいである。漁師の矜持や狩人のエレガントさなど持ち合わせておらぬ、欲望に任せた
つまるところ、冒頭で断ったファフロツキィなるものは、
こうして行き場のない独白を頭の中でこねくりまわしてゆくうちに、即物的な煙が即物的に良い匂いをはらんでくる。身から沁み出た脂が七輪の中に落ち、炭の上で、じゅう、と誘いの声をあげる。私はそれに心ひかれながらも、辛抱強く、その声が最高潮になるのを待って、耳を傾ける。わずかな焦げのできるタイミングを計り、皮がはがれないように注意して裏返す。これをしくじると、皮の破(や)れ目から、せっかくの秋刀魚の旨みが、豊かな皮下脂肪とともに落ちてしまう。秋刀魚は野蛮なる庶民の食べ物でありながら、かくも繊細な一面を持つがゆえ、味わうには最大の礼を尽くさねばならぬのである。
皮の表面から、ほんの幽かに、ぱちぱちと脂の爆ぜる音。持ち前の能力を最大限に生かし、私はその最高潮を聞きわけ、申し分ないタイミングで七輪の上からそのうつくしき流線型の身体を救いだす。
かくして、我が食卓に
「いただきます」
頭の近くの、背の身からほぐし、
箸を突き刺すたび、ぱり、と音を立てる皮。その下からじわりとしみ出す脂、そして白く輝いてすら見える身。それとともに銀シャリをかっ込む幸せ。
大根は少しで良い。欲を張って多量に載せてしまっては、大根の水分でせっかくの旨みに文字通り水を差してしまう。舌にピリリと辛いくらいのを少し、旨みに飽いた舌を奮い立たせるように添えてやるのが真意である。
そうして、背の身を味わったら、次は腹である。腹の身ははらわたの苦みがあるだの、小骨が多いだの、敢えて言おう、それは秋刀魚への礼儀に欠けていると。
秋刀魚で残していいのは、背骨と尻尾と頭のみである。
小骨ごと腹の身をほおばり、感謝をこめて噛む。人の身、また妖怪の身、このごとき華奢な骨を噛めぬほど
また、秋刀魚の醍醐味ははらわたである。人生の妙味のごときほろ苦さを味わえてこそ、食事という儀式は神聖なものとなる。安二郎なる昭和のキネマ監督も、そういうことを伝えたかったに違いない。
表側を食し、背骨を外す。裏側の身が白い顔を見せる。ああ、まだ半分残っている。その喜びをかみしめつつ。裏側の身をほぐし、銀シャリをかっ込む、かっ込む、かっ込む。皮下脂肪の多く付いた腹の身、そしてはらわたのほろ苦さが銀シャリを生かす。そう、海の幸なる者の血肉が私を生かしている。御飯が、進む。進み過ぎて、私はいつしかそれが一粒残らず平らげられたのを知る。
「……ごちそうさまでした」
皿の上の、潔く背骨のみをさらした秋刀魚にむかって、手を合わせ、深々と礼する。食卓に秋のすずしい風が通り抜け、私の即物的な欲望に満ちた肢体を落ちつかせる。
ほのかに煙の香りの残る、空気。
私は山の神社の巫女のことを思う。今度、一飯の恩義も兼ねて、秋刀魚を差し入れてもよかろう。海のない幻想郷で、海の幸を味わえる役得をお裾分けすれば、大層喜ばれるやもしれぬ。そこで、例のファフロツキィズの種明かしなどすれば、どのような顔をするのだろうか。それこそ、秋刀魚の味のように、ほろ苦いのが人生ですよ、などと訳知り顔に言ってやるのを夢想しつつ、私は満腔の多幸感をかみしめた。
海がなくて海苔もない幻想郷にて、秋刀魚は高級品かも。
しかし何が凄いって、衣玖さんが食べてると何の違和感もないってことだよなぁ。