行為が大切なんじゃない。その行為をするに至った、想いこそが大切なのさ。
チョコレートは、栄養価が高い。
とある外国の小説には、その事がよく書かれている。疲れた時、風邪を引いた時の応急処置として、チョコレートは有効な手段なのだ。
また、酒も緊急時には重宝する。
アルコール度数が高い酒はそのまま消毒にも使用できるし、寒さに身を凍えさせた時、身体を暖めてくれる効果もある。
チョコレートと、酒。この二つは、非常時にこそ有用性を発揮する食物なのだ。
さて、ここに先月十四日、ブランデー入りチョコレートを送られた人物が居る。名を藤原妹紅、サバイバルの達人だった。
送り主の名は上白沢慧音、寺子屋の教師を勤めている。博識だと、評判だった。
妹紅は悩む。幾ら自分が辺鄙な場所に住んでいるからと言って、遭難する心配も無ければ寒さに凍える心配も無い。そもそも、風邪を引くような身体ではないのだ。
その真意は何なのか。妹紅は考えに考え続けた。三日くらい考え続けた。
懸念材料はもう一つあった。チョコレートを渡した帰り際、慧音はこう言ったのだ。
「お返し、期待してるからなっ」
最早、恐怖でしかなかった。堅物として知られる彼女が、このような非常食を渡して、その上見返りまで期待している。
何を期待されているというのか、妹紅には皆目見当もつかない。ただ、尋常なものではないのだろうな、と言う事だけは言葉ではない、心で理解した。
チョコレートを貰って一週間後、妹紅は覚悟を決めた。どうせ死なない身なのである。少なくない恩もある事だった。送ってやろうじゃないか、それも、飛び切り大層なブツを。
何を送り返すのか。慧音は教師だ。当然書も読む。里の道具屋にある、天狗の書。これを持ってくる事に決めた。
ひゅううぅぅぅ
人里を、一人の老人が歩いていた。どこにでも居そうな、普通の老人。しかし足取りはしっかりとしており、その眼には強い光が宿っている。
その老人は里一番の道具屋に入ると、そのまま出てこなかった。
里を、風が吹き抜ける。
人々が、何時の間にか通りから居なくなっていた。家の戸は、固く閉ざされている。通りを、歩く影。長い銀髪真紅のもんぺ。影は、道具屋の前で立ち止まると、戸を、二回叩いた。
「どちらさま、でしょうか」
空気が張り詰める。ただ、風の吹く音だけが聞こえた。かさかさと、枯れ草の塊が転がっていく。
「欲しい物があるんだよ」
戸が、キィと音を立てて開かれる。中から、店の者であろう男が顔を覗かせている。
「どうぞお入りください」そう言って、影は中へと入れられた。影の名は、藤原妹紅。その顔には、不退転の覚悟が刻まれていた。
「ようこそ、霧雨商店へ」
店の主人と思われる男が、口を開く。恰幅の良い身体。壮年に見えるが、それなりに歳はとっている筈だった。その瞳はなるほど商売人の格と言う物を表している。吸い込まれるような、深さがある。
妹紅は、早速「天狗の書」の事を聞いた。自分が何を探しに来たのか、隠した所で意味は無いと思ったからだ。主人の、顔色が変わる。
「それを知ってどうなさるおつもりですかな?」
「別に良いだろう、私がそれを何に使おうと」
主人が、頬を吊り上げる。同様に、妹紅も頬を吊り上げた。言葉には出さない、けれども両者の考えている事は一致している。そう確信した時の、それだった。
店主が、奥へと声をかける。程なくして、目的の物は持ってこられた。「天狗の書」である。天狗の技術の粋を集めて作られたと言われる文書。コレクターでなくとも、文化人ならば一度は目にしたいと考える一品だった。
「これが、天狗の書か……」
妹紅が書に手を伸ばす。しかし、それは店主によって遮られた。店主が、鋭い眼光で妹紅を見つめる。
「おっとお嬢さん、これをそんなに簡単に持って行かれては困りますなあ?」
「ふん、なんだ、私とヤるってのかい?」
「ふっふっ、そちらがお望みとあらば」
妹紅の血が滾る。体熱が、上昇していく。全てを、薙ぎ倒す時、妹紅は自らの強さを実感する。長い年月にわたり磨き上げてきた技。それを叩き付ける喜びは、何物にも変えがたい。
それを受けて、奥からも一人出てくる。男。それも、かなりの高齢。しかしその身のこなしに隙は無く、纏う気には微塵の揺らぎも無かった。
腰には、二本の大小。紛う事なき手練だ。それは、その佇まいの静けさからも分かる。
傾いた日が、空を紅く照らす。霧雨商店の店の前、二人は向かい合っていた。老人が、刀を抜く。
「まず名乗っておこう。わしの名は魂魄妖忌。言っておくが、わしは強いぞ娘さん。若い命を散らす事もあるまい」
「なら私だって負けちゃ居ないさ。私は藤原妹紅。焼き鳥屋さんだよ。これでも長生きでね、あんたより歳行ってるんじゃないかな?」
妹紅が、拳を握る。開いた時、その手は真っ赤に燃えていた。炎が、妹紅の全身を包む。
じり、じり。焼け付く空気。そして、詰まる間合い。妖忌は少しも動じない。ただ、刀だけが、少しづつ持ち上がっていく。
一閃、炎が切り裂かれた。あらわになる妹紅の身体。次の瞬間、妹紅の首に、一振りの短刀が突き刺さっていた。
「妖怪ならば死にはしないだろうが、暫くは動けまい。わしに出会ってしまった身の不幸を恨むんだな」
一瞬の出来事だった。妖忌は、振り返りもしないで店の中へと入っていく。後には、動かなくなった妹紅だけが残された。
ひゅううぅぅぅ
草木も眠る丑三つ時、店から出てくる者が一人。手には大事そうに品を抱え、駆ける速度は速い。
後ろから、もう一人。こちらも速度では負けていない。しかし、前を走るものが落としていく置き土産が、その進みを邪魔する。
ひぅ、ひぅと風を切る音。その度に鳴り響く、高い金属音。疾駆する両者には、無言の殺気が交わされる。
ふいに、前を走っていた者が立ち止まった。後ろへと、向き直る。後ろを追って来ていた男も立ち止まった。
空は雲一つ無い。星が瞬き、満月が、高く煌いて両者を照らす。
「随分とこすい手を使うのう、小娘……!」
「良く気付いたもんだ。やっぱり爺さん、相当の使い手だね」
両者とも、知った顔だった。つい先ほど、夕暮れに殺し合った仲。妹紅が、手に持っていた書を置く。
「今回は、本気でやらせてもらうよ。蓬莱の人の形、その姿をしかと目に焼き付けるがいい!」
「なんと、貴様蓬莱人か。道理で回復が早い。ならば、わしも手加減は必要ないな。貴様は幾ら切り刻んだとて死なぬのだから」
大小を独特な形で構える。右手に短刀を斜に、左手に大刀を切っ先が相手に向くように。魂魄の、必殺の構え。
突きを主体とした構えながらも、その用途によって薙ぎ払い、投擲などに姿を変える。ちなみに、右手のいなしに全神経を集中するため、未熟者がこの構えを使うと足が棒立ちになる。
妹紅は、炎を発しようとはしなかった。ただ、無造作に、その身体を相手のもとへと近づけていく。
刹那、妹紅の首が跳ね飛ばされた。鮮血が吹き上がる。しかし、倒れない。未だ、妖忌に向かって歩き続けている。二度、三度、脚を切り、胴を切断する。しかし、その度に再生してはゆっくりと、確実に歩を進める。
「面妖なぁっ……!」
たまらず間合いを取ろうとした所で、いきなり妹紅の身体が突進してきた。腹部に、拳がめり込む。続けざまに、上段への蹴り。辛うじて防いだものの、短刀が弾き飛ばされてしまった。
これまで、こうも切っても動かなくならない者など、見た事が無かった。実態の無い相手なら、何度か死合った事がある。だが、そのような奴らはこそ、妖忌の剣閃に掻き消されてしまうのだった。
しかも相手はまだ自分の能力や、妖術すら使っていない。ただ近づいてきて、殴り飛ばされた。それが、妖忌にこれ以上無い屈辱を与えた。
妹紅も、必死だった。身体を切り刻まれる苦痛。それは、果たして常人が考えうるものを遥かに超える。それを、気合と、執念だけで耐えているのだ。
一撃決まった時、勝ったと思った。もうこの老人に向かってくるだけの余力は残っていないだろうと。しかし、その油断が命取り。
いつの間にか、胸に刃が突き立っていた。遅れて、激痛。叫び声こそ上げなかったものの、もんどりうって倒れこむ。
「奥の手、だ。あまり使いたくは無いのだがな」
この老人に、自分を面妖だなどと言う資格があるのかと妹紅は思った。目の前に居るのは、先ほどまで戦っていた人物。自分を後ろから刺したのも、また同じ人物。
「二対一なんて、卑怯じゃないのか……」
「卑怯には卑怯で返しただけだ。それにこれはわしの体質でな。貴様にとやかく言われる筋合いは無いよ」
そう言って、刀を引き抜く。妹紅の口からうめき声が漏れた。
「不死人、しかしそれも、所詮は人の精神。死なぬのならば、動けなくなるまで痛めつけるしかない、と言う事だな」
ただ、決められた作業をするのだとでも言わんばかりに、妖忌は言った。やはりそこには、何の感情も込められていない。明鏡止水。その境地がここにあった。
決して、この老人に加虐趣味などは無い。そこにあるのは、ひたむきな武への心。その心が、強敵への油断を許さなかった。それだけの事である。
風が、吹く。
二人の妖忌が、ゆっくりと妹紅に近づいていく。妹紅は未だ倒れたままだが、起死回生の一手を狙っている。
膠着が続いた。きっと、これが最後の一手になる。妖忌が勝てばそのまま妹紅は捕縛され、妹紅が勝てば彼女は闇夜へと消える。
長い睨み合いだった。動く事が出来ない。最初に動いた方が倒される、そんな状況。
その静寂を切り裂いたのは、どれほどの時間が経過した後だったろうか。彼方から、土煙を上げ何かが走ってきた。
それは二人の元へと瞬く間に迫って行き、叫び声を上げた。
「貴様! 私の妹紅に何をするっ!」
里の守護者、妹紅の思い人。上白沢慧音だった。今宵は満月。頭上に角を生やし、いきり立っている。突然の乱入者の存在に、勝負はお流れとなった。
「これは、うちの妹紅が申し訳ない事を……」
「ははは、よいよい。わしとしても楽しかったしな、商品が無事で戻ってくればそれで良いよ」
慧音がぺこぺこと頭を下げる。それを笑って済ます妖忌。ふてくされる妹紅。
「こら、妹紅! お前も謝らないか」
「むう、済まなかったよ……」
「おう、もう二度とこんな事はするんじゃないぞ。そうでなければまたいつか、戦いたいものだな」
そう言って、妖忌は笑いながら去っていった。手には、少し土で汚れてしまった天狗の書を持って。
去っていく妖忌を見届けた後、慧音が妹紅に聞いた。
「こーら妹紅、何でこんな事したんだ」
「だって、慧音が……」
「私が? 妹紅よ、物事を人のせいにするのは感心しないぞ?」
「違うよ、慧音にあれをあげようと思って。この前、お返しが欲しいって言ってたし、だから」
慧音が鼻血を噴出すのと、妹紅が下手人の両手に抱きしめられ血をこすりつけられるのはほぼ同時だったと言う。
ホワイトデー。それは渡してくれた愛に、また愛を返す機会を与えてくれる素敵な日。
そう、大切なのは物じゃない。そこに込められた想いなのさ。
その夜は一晩中、慧音と妹紅の仲睦まじき行為が続いたそうな。ちゃんちゃん。
完
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