朝起きた時から奇妙な違和感があった。
(なんだ?)
霧雨魔理沙は首を傾げた。
何かおかしい気がする。
言葉に出来ない違和感。
言うなれば、日ごろ見慣れた室内の家具の配置が数センチだけずれているかのような、そんな違和感があった。
腹の中に煮え切らない奇妙な感覚が圧し掛かってくる。
(これが世に聞く肝硬変か?)
そんなことを思いながら魔理沙はベッドから起き上がる。服を着替えて、食事の準備。
「……あれ?」
気付けば、米びつの中が空っぽだった。
「……」
そう言えば、全部食べきったような気もする。
「いや、どうだったかなぁ」
確信はない。記憶と噛み合わない気もするが、そういうことがこれまで無かったかというとそんなことはない。人間とは往々にして記憶にない場所に物を置いていたり、したはずのことをもう一度したり、そういうことをしてしまいがちな生き物だ。
魔理沙は気持ちを切り替えて外へ出ることにした。
とりあえず朝食は博麗神社で御相伴にあずかることにしよう。
「あれ?」
本日二度目の「あれ?」だった。
箒がない。乱雑な室内ではあるが、だからこそ良く使う道具の置き場はしっかり決めているのに……
しばらく室内を捜索したが、結局箒は見つからなかった。
仕方ない、と魔理沙が玄関から出たところ、箒は玄関脇に立て掛けられていた。
「ふむ……」
魔理沙はしばし、思索にふける。
今朝からの違和感。空の米櫃。そして箒。
何かが起こっていると断ずるにはあまりにも不確かなことの連鎖。
「まぁ、暇つぶしにはいいかも」
魔理沙は箒に跨り、ともかく博麗神社へと向かった。
はたして博麗神社は留守だった。
本来居るべき住人、博麗霊夢の姿が無い。
しかし、台所からはいい匂いが漂っている。朝食の準備を行っていたのだろう。
「発見した時には朝食の準備がなされており、ほんの一瞬前まで巫女はここにいたようだった……」
呟きながら魔理沙は鍋の蓋を開けた。味噌汁のいい匂いが鼻孔を擽る。
「どれ」
おたまで掬い、味見をしようとした魔理沙の後頭部に、こつんと棒状の物が振り下ろされる。
「こら、なに人の朝食に勝手に手をだしてんのよ」
「いや、折角の朝食がこのまま冷めていくのを見るのは忍びなかったんでな」
振り返ると、そこにはあきれ顔の霊夢が立っていた。
「朝からどこに行っていたんだ?」
二人分の食器を食卓に並べながら、魔理沙は霊夢に訊ねた。
「ちょっとね、朝から里の人間に呼ばれて忙しかったわー」
手を合わせて「いただきます」を済ませ、二人は食事を始める。
「里から呼ばれるとは珍しいなぁ」
「まったくね」
霊夢は上品に音を立てずに味噌汁を呑む。酒が入れば荒れるが、平素での食事作法はそれなりらしい。
「で、何の用だったんだ?」
「里に妖怪が出たって」
「……」
魔理沙は沢庵を掴み掛けていた箸を止めた。
「そんなことで?」
思わず、聞き返す。
霊夢は平然と箸を進めながら言う。
「そんなことで、よ。まぁ普通の人間にしたらそれなりの大事なのかもね」
「……」
また、魔理沙に例の違和感が芽生える。
会話も噛み合ってはいるけれど、歯車が上手く回っている感じが全くしない。噛み合っているようで、二つの歯車は互いに接触せずに、互いに勝手に回っているだけのような、そんな感じ。
「で、その妖怪をどうしたって?」
魔理沙は違和感を抑えつつ、会話を続けた。
「そりゃあ当然」
霊夢はこともなげに言う。
「始末したわ」
ぞわっ、と魔理沙の背中が震えた。
「魔理沙?」
魔理沙の表情が固まるのを見咎めるように霊夢が言う。
「あんた何か変じゃない?まぁ、常時変ではあるけど、いつにも増してどこか変よ」
「あぁ変だ。変と言われれば私は今間違いなく変なんだろう。けど、お前にゃ負けるぜ霊夢」
魔理沙の言葉を軽口と受け取ったのだろう、霊夢はにやっと笑う。しかし、実際は皮肉でもなく、魔理沙は本気でそう思っていた。
「まぁなんでもいいけどね。で、その後の処理とかしてたら遅くなったのよ」
その後霊夢がそれ以上里でのことを言うことは無かったし、魔理沙も更に踏み込んだことを訊くことが出来なかった。
食事を終え、魔理沙は博麗神社を後にした。
「始末、ね」
先ほどの霊夢の言葉を思い出す。
「やれやれだぜ」
朝起きてから感じていた一番の違和感。ここまで目を背けていた事実に、魔理沙はようやく正面から向き合うことにした。
「どうりで、静かなわけだ」
今朝から、魔理沙は妖怪の一匹も目撃していなかった。
空に上がれば何かが飛んでいるような、そんな幻想郷の空にも、今日は鳥以外の何の姿も無かった。
間違いなく、異変だ。
しかも今回は霊夢による解決も期待できないような異変。
(こりゃちょっとルールを逸脱してないか?)
魔理沙は情報収集のために紅魔館に向けて箒を飛ばした。
一面に広がる湖。
いつもならばここで周囲の景観など全く無視した恥ずかしいほどの朱い館が視界に映るはずなのだが……
そこにあるのはただ湖だけだった。
紅魔館は、その存在もろとも丸ごと無くなっていた。
「おいおい……」
魔理沙の頬に、汗が一筋垂れる。
今少しでも気を抜けば、頭の中が暴走を始めそうだ。
魔理沙は深く息を吐いて、箒の向きを変えた。
冥界への門は閉ざされていた。
迷いの竹林にあるのは無人のあばら家だった。
妖怪の居ない妖怪の山の山頂に神社は無かった。
地下への入り口は封じられていた。
妖怪の集う寺などありはしなかった。
「なんなんだ……なんの冗談だ?」
行く先を失った箒の上で、魔理沙は絞り出すように言った。
「何の冗談だよ紫!悪趣味が過ぎるぜ!いい加減出てこいよ!」
魔理沙は空に向かって思い切り叫んだ。
そうだ。
分かっている。
狼狽える魔理沙を見て、きっと笑っている奴がいるはずだ。
その憎たらしい顔を思い浮かべながら、魔理沙は懇願するように叫ぶ。
「出てこい!お前以外いないだろ!?なぁ!」
しかし、魔理沙の叫びは空しくも空に呑み込まれていった。
「くそっ……どういうことだよ」
俯いて毒づく魔理沙が、急にハッと顔を上げた。
「香霖……」
訳が分からないこの世界。
彼が居るなら、屁理屈でも何でもいいから何か理屈をつけてくれるかもしれない。
「あいつ……いるんだろうな」
魔理沙は魔法の森へと取って返した。
薄暗い森の中を少し過ぎたところに、目指す香霖堂はあった。
「……」
あった。
込み上げてくる感情を抑え、魔理沙は香霖堂に駆け込んだ。
「香霖!」
「何事だい、まったく」
香霖堂主人、森近霖之助は魔理沙の来店を予見していたように、冷静に答えた。まぁ予見もクソも、窓から外に立っている魔理沙の姿が見えたに過ぎないのだろう。
しかし、そんならしい霖之助の姿が、魔理沙には何より安堵を与えた。
「別にそんな駆け込んでくるような特別な物なんて何も仕入れてないよ」
「香霖、先に断っておくが、私は別に頭がおかしくなった訳じゃないぜ。多少の混乱はあるけど、思考は至ってクリアで冴え渡ってる」
霖之助の言葉を無視して、魔理沙は言う。
魔理沙の前置きに、霖之助は驚いたように片眉を吊り上げた。
「今朝から何かおかしいんだ。米櫃が空だったり、箒がいつもの場所に無かったり……」
「魔理沙?」
霖之助は訝しむような表情に変わる。魔理沙の様子が冗談とかではなく、尋常ではないことを察したようだ。
「霊夢が里に呼ばれていたり、そして何より、妖怪を始末していたり……」
魔理沙はそこで言葉を切り、霖之助の反応を窺った。彼は難しい顔で顎に指を当てて何かを考えているようだった。しばらくして、言う。
「魔理沙、僕には君が何に驚き何に脅威を覚えたのかが全く伝わってこないんだが……」
霖之助の言葉に、魔理沙は体中の血が一気に巡るのを感じた。
ダン、と足を踏み出し、霖之助に顔を寄せる。
「紅魔館も無かった!冥界には行けなかった!永遠亭も、守矢神社も……みんな無くなったていたよ!それに何より……妖怪たちが全然居ないじゃないか!!」
目の前に迫られ、身を引いていた霖之助だったが、ふぅと息を吐いた。
「新しい冗談の類でも無さそうだ。分かった、もう少し詳しく聞こう」
どうどうと、馬でも抑える様に手で制され、魔理沙も気を落ち着けた。
「さっき魔理沙が言った施設……冥界はともかく、紅魔館や永遠亭は博麗の巫女に始末されたものの一つだね。あと……守矢神社と言ったかな?それは知らないが……」
霖之助の口からも、平然と始末という言葉が出た。
「君はそれらの建物がつい先日までは健在だったと?」
「あぁ、そうだよ。紅魔館では吸血鬼が退屈そうに過ごしてて、永遠亭じゃ宇宙人たちがやっぱり退屈そうにしていたよ」
ふむ、と霖之助が唸る。
「魔理沙のさっきの話を聞く限り、君は博麗の巫女が妖怪を始末することに対して違和感を覚えているようだったね。つまり、君の知る巫女は妖怪を始末しなかった……ということかい?」
「そうだよ、巫女の仕事は妖怪退治だ!」
「退治と始末のニュアンスの違いについては少し話をする必要がありそうだが……なんだか妙な話だね。君も昨日までは妖怪を始末していたのに」
霖之助の言葉に、魔理沙は目を剥いた。
「私が、妖怪を始末?」
「だからこそ、博麗の巫女も君を友人と見ているんじゃないかな?」
内心、魔理沙の精神的ショックは少なくなかった。しかし、そんな身に覚えのない事柄で足踏みしている場合ではなかった。
「私が前に何やってようとなんだっていいんだ!なぁ、幻想郷は一体どうなったんだよ」
魔理沙の言葉に、霖之助は「う~ん」と唸りながら頭を掻く。
「魔理沙、君は荘子を知ってるかい?」
「荘子?」
「不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与 というやつだよ」
さすがにそれぐらいは魔理沙も知っていた。『胡蝶の夢』と言うやつだ。
「ッ!」
霖之助の言わんとすることを察した魔理沙は、カッとなった。
「つまり、お前は私が夢の話をしてるって言いたいのか?」
「魔理沙が単に納得したいのなら、それが一番早い道のりだ、とは言うよ」
自分の記憶していることが全て夢の話。
今、目の前にあるのが現実ならば、夢から出てきた私は一体何になる?
魔理沙はギュッと拳を握る。
「香霖、駄目だ。納得できない」
「そうか」
魔理沙がそう言うことを予想していたように、霖之助はあっさりと応えた。
「やっぱり駄目だ。紫に会わない限りは何も納得なんて出来ない!私は紫を探すぜ!」
紫の名を出した瞬間、霖之助の表情が変わった。その顔は驚愕に染まり、声も若干震えていた。
「魔理沙……紫とは、誰のことだい?」
「あ?決まってるだろ?紫はあいつだよ。八雲紫」
突然、霖之助が魔理沙の手を掴んで引き寄せた。
「どうしてその名前を知っているんだ!?」
「どうしてって……たまに居るだろ?それに香霖だって……」
霖之助は驚愕の表情のまま、口に手を当てた。
「魔理沙……まさか、君は本当に別の魔理沙なのか?」
霖之助の豹変ぶりに驚きながら、魔理沙は掴まれた手を振り払う。
「何なんだ?紫がどうしたっていうんだよ!」
「あぁ……あぁ、君には解らないだろう……八雲紫は、幻想郷と言う巨大な牧場の牧場主さ……」
「はあ?」
「彼女はここで人を育て、人を喰らっている。人を羊とするならば、妖怪は狼、巫女は羊飼いということさ。そして牧場主は、八雲紫ということになる」
「……」
比喩的な霖之助の話だったが、それだけでも魔理沙にもこの幻想郷の構造がよく解った。
魔理沙の知る幻想郷とは、まるで意味合いの違う、幻想郷とは名ばかりのただの牧羊場なのだ。
「なんだよそれ……私の知る紫より、よっぽど性格が悪いぜそいつ!」
「いいかい、魔理沙!八雲紫の存在は幻想郷の外の物だ。羊や羊飼いなんかが知っていい物じゃない!君が僕の知る魔理沙じゃないことは認めよう!しかしその上で言う、口を噤むんだ!八雲紫の名はこれ以降口にしちゃいけない!絶対にだ!」
必死に警告をしてくる霖之助に、魔理沙は「ふん」と鼻で笑った。
「ようやく私の言い分を認めたか。私も認めるぜ、香霖。お前が私の知ってる香霖じゃないってことをな」
「何を言って……!」
「香霖は、そんなためになる警告を必死に言うような奴じゃない」
魔理沙はそう言って霖之助に背を向けると、そのまま香霖堂から出て行った。
一日が経った。
少しだけ記憶と異なる自宅のベッドに寝っころがりながら、魔理沙は天井を仰いだ。
「夢と現の境界……か」
眠ったところで、何が変わるということも無かった。魔理沙は魔理沙のままで、知らない幻想郷は知らない幻想郷のままだった。
「よっと」と、魔理沙は起き上がり、出かける準備をした。
何かする目的があるわけではない。ただじっとしていられなかっただけの話だ。
箒に跨り、何となく飛ぶ。
本当に何もない幻想郷だ。一体、ここの自分は何を楽しみに生きていたのか……
と、思った瞬間だった。
ドォン、と空気を震わせるほどの大きな音がした。
「なんだ?」
人が立てる様な大きさではない。人外の何かがいるのだ。
魔理沙は旋回して音の聞こえた方へ飛ばした。
「これは……」
その先にあったのは、抉られた大地だった。直径五メートルほどのクレーターが、大地にぽっかりと空いている。その窪みの真ん中には、何かが横たわっているような……
「魔理沙!そいつ止めて!」
いきなり名を呼ばれて魔理沙は驚いた。
「うわっ!」
魔理沙の横を強烈な勢いで何かが過ぎ去った。人ではない。妖怪だ。
「もう!何やってるのよ、魔理沙!あいつ妖怪よ!?」
その妖怪を追う様に、霊夢が飛んできた。
「……っ」
魔理沙は言葉に詰まる。
霊夢が妖怪を追っている。つまり、行っているのだ。
妖怪の始末を……
「逃がすと、思ってるのかしら!?」
霊夢は叫ぶと、札を大量に撒いた。意志を持ったかのような札が、先行する妖怪を追い掛ける。
避けきれない妖怪は、札を足に受けて体勢を崩して落下した。
「まったく、手間を掛けさせないで欲しいわ」
言いながら霊夢は手を天に翳す。そうすると、まるで空間から生じたかのように巨大な陰陽玉が現れた。
叩きつける気だ。
霊夢が動くのと、魔理沙が動くのは同時だった。
霊夢が飛ばした陰陽玉を、魔理沙はマスタースパークで吹っ飛ばした。
「!?」
驚いたように霊夢が魔理沙を見る。
「ちょっと!どこを狙ってるのよ!相手は下!」
霊夢には意図的に魔理沙が邪魔をした、という発想はないようだった。あくまでも誤射による事故的なものであると信じ切った顔だった。
「もう!」
逃げる妖怪に、トドメを刺すべく次の一発を用意する魔理沙の前に、魔理沙は立ちはだかった。
「魔理沙!?何してるの!?ふざけてる場合じゃないわよっ!」
「……」
困惑したように怒鳴る霊夢を、魔理沙は黙って睨みつけた。
「なに……?どうしたのよ、魔理沙」
二人が睨みあっている間に、妖怪は這う這うの体で逃げ出した。それを見た霊夢は追いかけようとするが、魔理沙が先まわってそれを阻止する。
「……どういうつもり?」
この段になって、霊夢も魔理沙が冗談や悪ふざけでもなく、確固たる意志を持って霊夢の行動を阻止していること察した。
「お前のやりかたは美しくない」
魔理沙の言葉に、霊夢は眉をしかめる。
「なに?」
どんどん表情を険しくする霊夢に対して、逆に魔理沙は不敵に笑って見せる。
「幻想郷の勝負の基準は、美しい方の勝ちだ。だからお前は負けてるぜ」
魔理沙は言い切った。
ここは幻想郷なんかじゃない。
似ただけの何かだ。
だから魔理沙は認めない。
美しくない幻想郷を認めない。
合わせてなんかやるものか。
自分のやり方を貫き通す。
ここが美しくない夢ならば、自分が美しく飾ってやろう。
そして夢が醒めた時、霊夢に話してやろう。
この夢の中での出来事を。
呆れるほどに真面目で、呆れるほどに寂しそうで、呆れるほどにつまらない霊夢の話を。
「さぁ、弾幕ごっこだ」
そう言って、魔理沙はありもしないスペルカードを引いた。
終わり
(なんだ?)
霧雨魔理沙は首を傾げた。
何かおかしい気がする。
言葉に出来ない違和感。
言うなれば、日ごろ見慣れた室内の家具の配置が数センチだけずれているかのような、そんな違和感があった。
腹の中に煮え切らない奇妙な感覚が圧し掛かってくる。
(これが世に聞く肝硬変か?)
そんなことを思いながら魔理沙はベッドから起き上がる。服を着替えて、食事の準備。
「……あれ?」
気付けば、米びつの中が空っぽだった。
「……」
そう言えば、全部食べきったような気もする。
「いや、どうだったかなぁ」
確信はない。記憶と噛み合わない気もするが、そういうことがこれまで無かったかというとそんなことはない。人間とは往々にして記憶にない場所に物を置いていたり、したはずのことをもう一度したり、そういうことをしてしまいがちな生き物だ。
魔理沙は気持ちを切り替えて外へ出ることにした。
とりあえず朝食は博麗神社で御相伴にあずかることにしよう。
「あれ?」
本日二度目の「あれ?」だった。
箒がない。乱雑な室内ではあるが、だからこそ良く使う道具の置き場はしっかり決めているのに……
しばらく室内を捜索したが、結局箒は見つからなかった。
仕方ない、と魔理沙が玄関から出たところ、箒は玄関脇に立て掛けられていた。
「ふむ……」
魔理沙はしばし、思索にふける。
今朝からの違和感。空の米櫃。そして箒。
何かが起こっていると断ずるにはあまりにも不確かなことの連鎖。
「まぁ、暇つぶしにはいいかも」
魔理沙は箒に跨り、ともかく博麗神社へと向かった。
はたして博麗神社は留守だった。
本来居るべき住人、博麗霊夢の姿が無い。
しかし、台所からはいい匂いが漂っている。朝食の準備を行っていたのだろう。
「発見した時には朝食の準備がなされており、ほんの一瞬前まで巫女はここにいたようだった……」
呟きながら魔理沙は鍋の蓋を開けた。味噌汁のいい匂いが鼻孔を擽る。
「どれ」
おたまで掬い、味見をしようとした魔理沙の後頭部に、こつんと棒状の物が振り下ろされる。
「こら、なに人の朝食に勝手に手をだしてんのよ」
「いや、折角の朝食がこのまま冷めていくのを見るのは忍びなかったんでな」
振り返ると、そこにはあきれ顔の霊夢が立っていた。
「朝からどこに行っていたんだ?」
二人分の食器を食卓に並べながら、魔理沙は霊夢に訊ねた。
「ちょっとね、朝から里の人間に呼ばれて忙しかったわー」
手を合わせて「いただきます」を済ませ、二人は食事を始める。
「里から呼ばれるとは珍しいなぁ」
「まったくね」
霊夢は上品に音を立てずに味噌汁を呑む。酒が入れば荒れるが、平素での食事作法はそれなりらしい。
「で、何の用だったんだ?」
「里に妖怪が出たって」
「……」
魔理沙は沢庵を掴み掛けていた箸を止めた。
「そんなことで?」
思わず、聞き返す。
霊夢は平然と箸を進めながら言う。
「そんなことで、よ。まぁ普通の人間にしたらそれなりの大事なのかもね」
「……」
また、魔理沙に例の違和感が芽生える。
会話も噛み合ってはいるけれど、歯車が上手く回っている感じが全くしない。噛み合っているようで、二つの歯車は互いに接触せずに、互いに勝手に回っているだけのような、そんな感じ。
「で、その妖怪をどうしたって?」
魔理沙は違和感を抑えつつ、会話を続けた。
「そりゃあ当然」
霊夢はこともなげに言う。
「始末したわ」
ぞわっ、と魔理沙の背中が震えた。
「魔理沙?」
魔理沙の表情が固まるのを見咎めるように霊夢が言う。
「あんた何か変じゃない?まぁ、常時変ではあるけど、いつにも増してどこか変よ」
「あぁ変だ。変と言われれば私は今間違いなく変なんだろう。けど、お前にゃ負けるぜ霊夢」
魔理沙の言葉を軽口と受け取ったのだろう、霊夢はにやっと笑う。しかし、実際は皮肉でもなく、魔理沙は本気でそう思っていた。
「まぁなんでもいいけどね。で、その後の処理とかしてたら遅くなったのよ」
その後霊夢がそれ以上里でのことを言うことは無かったし、魔理沙も更に踏み込んだことを訊くことが出来なかった。
食事を終え、魔理沙は博麗神社を後にした。
「始末、ね」
先ほどの霊夢の言葉を思い出す。
「やれやれだぜ」
朝起きてから感じていた一番の違和感。ここまで目を背けていた事実に、魔理沙はようやく正面から向き合うことにした。
「どうりで、静かなわけだ」
今朝から、魔理沙は妖怪の一匹も目撃していなかった。
空に上がれば何かが飛んでいるような、そんな幻想郷の空にも、今日は鳥以外の何の姿も無かった。
間違いなく、異変だ。
しかも今回は霊夢による解決も期待できないような異変。
(こりゃちょっとルールを逸脱してないか?)
魔理沙は情報収集のために紅魔館に向けて箒を飛ばした。
一面に広がる湖。
いつもならばここで周囲の景観など全く無視した恥ずかしいほどの朱い館が視界に映るはずなのだが……
そこにあるのはただ湖だけだった。
紅魔館は、その存在もろとも丸ごと無くなっていた。
「おいおい……」
魔理沙の頬に、汗が一筋垂れる。
今少しでも気を抜けば、頭の中が暴走を始めそうだ。
魔理沙は深く息を吐いて、箒の向きを変えた。
冥界への門は閉ざされていた。
迷いの竹林にあるのは無人のあばら家だった。
妖怪の居ない妖怪の山の山頂に神社は無かった。
地下への入り口は封じられていた。
妖怪の集う寺などありはしなかった。
「なんなんだ……なんの冗談だ?」
行く先を失った箒の上で、魔理沙は絞り出すように言った。
「何の冗談だよ紫!悪趣味が過ぎるぜ!いい加減出てこいよ!」
魔理沙は空に向かって思い切り叫んだ。
そうだ。
分かっている。
狼狽える魔理沙を見て、きっと笑っている奴がいるはずだ。
その憎たらしい顔を思い浮かべながら、魔理沙は懇願するように叫ぶ。
「出てこい!お前以外いないだろ!?なぁ!」
しかし、魔理沙の叫びは空しくも空に呑み込まれていった。
「くそっ……どういうことだよ」
俯いて毒づく魔理沙が、急にハッと顔を上げた。
「香霖……」
訳が分からないこの世界。
彼が居るなら、屁理屈でも何でもいいから何か理屈をつけてくれるかもしれない。
「あいつ……いるんだろうな」
魔理沙は魔法の森へと取って返した。
薄暗い森の中を少し過ぎたところに、目指す香霖堂はあった。
「……」
あった。
込み上げてくる感情を抑え、魔理沙は香霖堂に駆け込んだ。
「香霖!」
「何事だい、まったく」
香霖堂主人、森近霖之助は魔理沙の来店を予見していたように、冷静に答えた。まぁ予見もクソも、窓から外に立っている魔理沙の姿が見えたに過ぎないのだろう。
しかし、そんならしい霖之助の姿が、魔理沙には何より安堵を与えた。
「別にそんな駆け込んでくるような特別な物なんて何も仕入れてないよ」
「香霖、先に断っておくが、私は別に頭がおかしくなった訳じゃないぜ。多少の混乱はあるけど、思考は至ってクリアで冴え渡ってる」
霖之助の言葉を無視して、魔理沙は言う。
魔理沙の前置きに、霖之助は驚いたように片眉を吊り上げた。
「今朝から何かおかしいんだ。米櫃が空だったり、箒がいつもの場所に無かったり……」
「魔理沙?」
霖之助は訝しむような表情に変わる。魔理沙の様子が冗談とかではなく、尋常ではないことを察したようだ。
「霊夢が里に呼ばれていたり、そして何より、妖怪を始末していたり……」
魔理沙はそこで言葉を切り、霖之助の反応を窺った。彼は難しい顔で顎に指を当てて何かを考えているようだった。しばらくして、言う。
「魔理沙、僕には君が何に驚き何に脅威を覚えたのかが全く伝わってこないんだが……」
霖之助の言葉に、魔理沙は体中の血が一気に巡るのを感じた。
ダン、と足を踏み出し、霖之助に顔を寄せる。
「紅魔館も無かった!冥界には行けなかった!永遠亭も、守矢神社も……みんな無くなったていたよ!それに何より……妖怪たちが全然居ないじゃないか!!」
目の前に迫られ、身を引いていた霖之助だったが、ふぅと息を吐いた。
「新しい冗談の類でも無さそうだ。分かった、もう少し詳しく聞こう」
どうどうと、馬でも抑える様に手で制され、魔理沙も気を落ち着けた。
「さっき魔理沙が言った施設……冥界はともかく、紅魔館や永遠亭は博麗の巫女に始末されたものの一つだね。あと……守矢神社と言ったかな?それは知らないが……」
霖之助の口からも、平然と始末という言葉が出た。
「君はそれらの建物がつい先日までは健在だったと?」
「あぁ、そうだよ。紅魔館では吸血鬼が退屈そうに過ごしてて、永遠亭じゃ宇宙人たちがやっぱり退屈そうにしていたよ」
ふむ、と霖之助が唸る。
「魔理沙のさっきの話を聞く限り、君は博麗の巫女が妖怪を始末することに対して違和感を覚えているようだったね。つまり、君の知る巫女は妖怪を始末しなかった……ということかい?」
「そうだよ、巫女の仕事は妖怪退治だ!」
「退治と始末のニュアンスの違いについては少し話をする必要がありそうだが……なんだか妙な話だね。君も昨日までは妖怪を始末していたのに」
霖之助の言葉に、魔理沙は目を剥いた。
「私が、妖怪を始末?」
「だからこそ、博麗の巫女も君を友人と見ているんじゃないかな?」
内心、魔理沙の精神的ショックは少なくなかった。しかし、そんな身に覚えのない事柄で足踏みしている場合ではなかった。
「私が前に何やってようとなんだっていいんだ!なぁ、幻想郷は一体どうなったんだよ」
魔理沙の言葉に、霖之助は「う~ん」と唸りながら頭を掻く。
「魔理沙、君は荘子を知ってるかい?」
「荘子?」
「不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与 というやつだよ」
さすがにそれぐらいは魔理沙も知っていた。『胡蝶の夢』と言うやつだ。
「ッ!」
霖之助の言わんとすることを察した魔理沙は、カッとなった。
「つまり、お前は私が夢の話をしてるって言いたいのか?」
「魔理沙が単に納得したいのなら、それが一番早い道のりだ、とは言うよ」
自分の記憶していることが全て夢の話。
今、目の前にあるのが現実ならば、夢から出てきた私は一体何になる?
魔理沙はギュッと拳を握る。
「香霖、駄目だ。納得できない」
「そうか」
魔理沙がそう言うことを予想していたように、霖之助はあっさりと応えた。
「やっぱり駄目だ。紫に会わない限りは何も納得なんて出来ない!私は紫を探すぜ!」
紫の名を出した瞬間、霖之助の表情が変わった。その顔は驚愕に染まり、声も若干震えていた。
「魔理沙……紫とは、誰のことだい?」
「あ?決まってるだろ?紫はあいつだよ。八雲紫」
突然、霖之助が魔理沙の手を掴んで引き寄せた。
「どうしてその名前を知っているんだ!?」
「どうしてって……たまに居るだろ?それに香霖だって……」
霖之助は驚愕の表情のまま、口に手を当てた。
「魔理沙……まさか、君は本当に別の魔理沙なのか?」
霖之助の豹変ぶりに驚きながら、魔理沙は掴まれた手を振り払う。
「何なんだ?紫がどうしたっていうんだよ!」
「あぁ……あぁ、君には解らないだろう……八雲紫は、幻想郷と言う巨大な牧場の牧場主さ……」
「はあ?」
「彼女はここで人を育て、人を喰らっている。人を羊とするならば、妖怪は狼、巫女は羊飼いということさ。そして牧場主は、八雲紫ということになる」
「……」
比喩的な霖之助の話だったが、それだけでも魔理沙にもこの幻想郷の構造がよく解った。
魔理沙の知る幻想郷とは、まるで意味合いの違う、幻想郷とは名ばかりのただの牧羊場なのだ。
「なんだよそれ……私の知る紫より、よっぽど性格が悪いぜそいつ!」
「いいかい、魔理沙!八雲紫の存在は幻想郷の外の物だ。羊や羊飼いなんかが知っていい物じゃない!君が僕の知る魔理沙じゃないことは認めよう!しかしその上で言う、口を噤むんだ!八雲紫の名はこれ以降口にしちゃいけない!絶対にだ!」
必死に警告をしてくる霖之助に、魔理沙は「ふん」と鼻で笑った。
「ようやく私の言い分を認めたか。私も認めるぜ、香霖。お前が私の知ってる香霖じゃないってことをな」
「何を言って……!」
「香霖は、そんなためになる警告を必死に言うような奴じゃない」
魔理沙はそう言って霖之助に背を向けると、そのまま香霖堂から出て行った。
一日が経った。
少しだけ記憶と異なる自宅のベッドに寝っころがりながら、魔理沙は天井を仰いだ。
「夢と現の境界……か」
眠ったところで、何が変わるということも無かった。魔理沙は魔理沙のままで、知らない幻想郷は知らない幻想郷のままだった。
「よっと」と、魔理沙は起き上がり、出かける準備をした。
何かする目的があるわけではない。ただじっとしていられなかっただけの話だ。
箒に跨り、何となく飛ぶ。
本当に何もない幻想郷だ。一体、ここの自分は何を楽しみに生きていたのか……
と、思った瞬間だった。
ドォン、と空気を震わせるほどの大きな音がした。
「なんだ?」
人が立てる様な大きさではない。人外の何かがいるのだ。
魔理沙は旋回して音の聞こえた方へ飛ばした。
「これは……」
その先にあったのは、抉られた大地だった。直径五メートルほどのクレーターが、大地にぽっかりと空いている。その窪みの真ん中には、何かが横たわっているような……
「魔理沙!そいつ止めて!」
いきなり名を呼ばれて魔理沙は驚いた。
「うわっ!」
魔理沙の横を強烈な勢いで何かが過ぎ去った。人ではない。妖怪だ。
「もう!何やってるのよ、魔理沙!あいつ妖怪よ!?」
その妖怪を追う様に、霊夢が飛んできた。
「……っ」
魔理沙は言葉に詰まる。
霊夢が妖怪を追っている。つまり、行っているのだ。
妖怪の始末を……
「逃がすと、思ってるのかしら!?」
霊夢は叫ぶと、札を大量に撒いた。意志を持ったかのような札が、先行する妖怪を追い掛ける。
避けきれない妖怪は、札を足に受けて体勢を崩して落下した。
「まったく、手間を掛けさせないで欲しいわ」
言いながら霊夢は手を天に翳す。そうすると、まるで空間から生じたかのように巨大な陰陽玉が現れた。
叩きつける気だ。
霊夢が動くのと、魔理沙が動くのは同時だった。
霊夢が飛ばした陰陽玉を、魔理沙はマスタースパークで吹っ飛ばした。
「!?」
驚いたように霊夢が魔理沙を見る。
「ちょっと!どこを狙ってるのよ!相手は下!」
霊夢には意図的に魔理沙が邪魔をした、という発想はないようだった。あくまでも誤射による事故的なものであると信じ切った顔だった。
「もう!」
逃げる妖怪に、トドメを刺すべく次の一発を用意する魔理沙の前に、魔理沙は立ちはだかった。
「魔理沙!?何してるの!?ふざけてる場合じゃないわよっ!」
「……」
困惑したように怒鳴る霊夢を、魔理沙は黙って睨みつけた。
「なに……?どうしたのよ、魔理沙」
二人が睨みあっている間に、妖怪は這う這うの体で逃げ出した。それを見た霊夢は追いかけようとするが、魔理沙が先まわってそれを阻止する。
「……どういうつもり?」
この段になって、霊夢も魔理沙が冗談や悪ふざけでもなく、確固たる意志を持って霊夢の行動を阻止していること察した。
「お前のやりかたは美しくない」
魔理沙の言葉に、霊夢は眉をしかめる。
「なに?」
どんどん表情を険しくする霊夢に対して、逆に魔理沙は不敵に笑って見せる。
「幻想郷の勝負の基準は、美しい方の勝ちだ。だからお前は負けてるぜ」
魔理沙は言い切った。
ここは幻想郷なんかじゃない。
似ただけの何かだ。
だから魔理沙は認めない。
美しくない幻想郷を認めない。
合わせてなんかやるものか。
自分のやり方を貫き通す。
ここが美しくない夢ならば、自分が美しく飾ってやろう。
そして夢が醒めた時、霊夢に話してやろう。
この夢の中での出来事を。
呆れるほどに真面目で、呆れるほどに寂しそうで、呆れるほどにつまらない霊夢の話を。
「さぁ、弾幕ごっこだ」
そう言って、魔理沙はありもしないスペルカードを引いた。
終わり
色々伏線もあるようですし
ストーリーに興味があるのでここで終わらせず、転と結を見たいです。