神霊廟の一角に誂えてもらった縁側にて、‘古代日本の尸解仙‘こと物部布都は、うつらうつらと船を漕いでいる。
燦々と照る太陽が布都の覚醒をゆっくりと蝕み、次第に眠気を覚えさせた。
これも自然の理か――思い、布都は自ら目を閉じる。
暫くすると、ここぞとばかりに生命を輝かせる虫たちの声に、静かな寝息が混じっていった。
夢を見ている。
漂う意識の中、布都は自身の状態をぼんやりと理解する。
気付くきっかけになったのは、分裂したような意識。
話す自身と眺める自身を同時に感じた。
だとすれば、目覚めるのも時間の問題か――夢とはそういうものであろう。
自覚しつつ、布都は、自身の口から出る言葉を聞き取ろうとした。
夢は記憶の集合体で、故に全ては己に帰結する。
これも何時かの時のものなのだろう。
思いつつ、けれど一瞬後、布都は言葉への意識を他に切り替えた。
俯瞰するような視界が、自身の傍にいる者を捉えたのだ。
縁側に寝そべり、両手で顎を支え、両脚を交互に振っている。
幼い仕草やあどけない表情、否、その者の存在自体が、布都の意識を全て奪った。
その少女の名は、屠自古。蘇我屠自古郎女と言う。
今ではすっかり女らしい体型になった屠自古だが、視界の彼女は童と呼べる程度に小さかった。
何時の間にか抜かされていた身長も、その片鱗さえ見受けられない。
その齢は、まだ両の手で十分に足りる程度だろう。
随分と懐かしい光景だ、と布都の表情が綻んだ。
思春期の頃、とある事件をきっかけに、布都は屠自古の家、蘇我の屋敷に居候していた。
事件とは蘇我氏所有の寺社の小火で、犯人は当の布都だった。
世間一般には‘軟禁‘と噂されていたが、実際の扱いは客人のように扱われていた。
事実、布都にとってその頃の記憶は、今でも温かみをもって思い出される。
自身がきっかけを作ったとはいえ物部の一族を滅ぼした‘蘇我氏‘と言う団体に蟠りを持ちつつ、彼女は、個人への悪感情を持っていなかった。
諸々の経緯はともかく、だから、布都は和やかに、当時の自身と屠自古を眺めている。
少しして、視界の先の童の様子が変わった。
元来、屠自古は男子と称されるほど活発で、落ち着きのない童だった。
父親である馬子が‘蝶よ花よ‘と育てたのに反し、‘馬よ戦よ‘と野山を駆け回っていた。
つい先ほどまでそんな様子でころころと動いていた屠自古だったが、気付けば、話す布都を前に大人しくなっている。
屠自古の様に、布都は話している内容を思い出した。
それは大王や一族の昔話。
つまり、戦の話だ。
朝廷にて武力を担う一族の出と言うこともあり、屠自古ほどではないにしろ、布都もまたその手の話を好んでいた。
時に激しく時に緩やかに、布都は、英雄や策士を語る。
一人のために練られた展開は、十分に効果を発揮したと言えよう。
目を見開いて聞きいる屠自古を、布都は、愛おしげに眺め続けた。
緩やかに流れていると感じた時間は、しかし、突如にして緊張を伴うものになった。
どちらの布都も同時に気付く。
故に、話す彼女は今まで以上に熱を込めた。
故に、眺める彼女は――意味がないと解りつつ――目を逸らした。
――んぅ……痒い?
そう、意味がない。
どちらにしても、当事者が気付いてしまったのだから。
布都に緊張を強いたものとは屠自古の腕に現れた赤い腫れもの、所謂、虫刺されである。
今の屠自古はともかく、当時の彼女はやんちゃな童だ。
そんな彼女が痒みと言う症状にどう対処をするか。
患部にそろりと手が伸ばされる。
解らぬ、否、知らぬ布都ではない。
腫れに爪で十字を作るなど可愛らしいもの。
もう何度も、屠自古は虫刺されを掻きむしり、酷い目にあっていた。
その度に掻いたことを後悔するのだが、喉元過ぎれば何とやら、繰り返してしまっている。
そしてまた、わんわんと嘆くのだろう――見過ごす訳にはいかないと、布都は屠自古を諭す。
(掻いてはいかん!)
眺める布都は言葉にした。
話す布都も、言葉にしたはずだ。
だと言うのに、己の耳に、その音は届かなかった。
口を開けども声にはならず、それでも布都は抗うように、より大きな声を出そうとした。
自然、両の眼、四つの瞳も大きく開き、屠自古の小さな白い手が、腫れものに触れるその瞬間を捉えてしまう。
「――は、いかんっ」
「ひゃ!?」
二つの声が鼓膜を震わせたのは、その一瞬後のことだった。
くらりと頭が揺れる。
布都は、即座にその理由を把握した。
どうと言うことはない、前のめり気味に目覚めたのだ。
声量を大きくしようとした結果、体まで動いてしまっていた模様。
意味のない行為に必死な様を露わにする自身に、布都は、くつくつと微苦笑を零した。
そして、はてと気付く。
「一つの声は我だが……もう一つは?」
姿勢を戻し、視界を前に向けると、大きくなった愛し子が其処にいた。
「もう、なに寝ぼけてるのよ」
「……屠自古か」
「ええ」
見上げながら、もう一度、その名を呟く。
本当に大きくなったと思う。
身体は勿論、その心も、成長した。
そんな屠自古を、嬉しさ半分寂しさ半分、布都は受け入れている。
手前勝手な心境は過した時間と関係性に依るものか、と、またくつくつ笑んだ。
「可笑しな布都ね」
笑みが自身に向けられているとは欠片も思っていないのだろう、屠自古が肩を竦め、布都の傍らに荷を下ろした。
「……あぁ。里に、買い出しに行っていたんだっけか。おかえりなさい」
経緯を思い出し、布都は呟く。
下ろされた風呂敷からのぞいているのは、様々な食料品だ。
道士である布都や怨霊の屠自古に、一般的な食事はさほど重要ではない。
では何故程々の量を買いこんでいるのかと言うと、単に、食べることが好きなのだ。
加えて、食卓を囲むのも、腕をふるった屠自古を褒めるのも、布都にとっては大事なことだった。
「ただいま。ほんとに寝ぼけているんじゃないわよ」
「夏にしては気候も穏やかでな」
「はいはい」
「こう、うつらうつらと」
「確かに、目覚める直前まではいい顔してたわ」
頷く布都に、にまりと笑み、屠自古が続ける。
「いい夢でも見ていたのかしら」
「ん? まぁな」
「例えば、山盛りの山菜ご飯とか」
「好物じゃな」
「その様子だと、もっと良かったのね」
我が意を得たり、と屠自古が拳を口に当て、くししと笑んだ。
「食いしん坊の貴女にして、ご飯よりも良い夢だった。
それはきっと、誰かとの思い出でしょう。
そう、つまり――」
悪戯気な表情を浮かべ、人差し指をぴっと立てる屠自古。
童ではなく大人でもないその顔は、珍しい少女の面影。
ご丁寧に、溜めの時間も自身で作っていた。
続けさせるのも一興だが――思いつつ、布都は静かに割って入った。
「つまり、主との思い出ぞ、屠自古」
「きゃー! 布都ったら……え?」
「我が居候していた幼き頃のな」
二の句が継がれるより早く、矢継ぎ早に布都は続けた。
自身の言葉を恥じている訳では、当然ながら、ない。
誤った嬌声をあげる屠自古のためだった。
そのお陰か、赤面する屠自古から返されたのは、唇を尖らせる程度の反応だった。
「……なにそれ、つまんない」
零された憎まれ口に、顔を俯かせ、布都は笑む。
緩やかな動作は、屠自古に相槌と思わせるためだった。
素直でない彼女の愛し子は、きっと、そうでもしないと更にむくれてしまうだろう。
「ところで……」
愛いなぁ――思いが強く胸に宿れど、見上げた時には素面の表情に戻していた。
「わりかし時間をかけた様だが、里で何かあったのか?」
改めて、布都は問う。
生前、元来の体の弱さから、布都はほとんど外出したことがなかった。
だからだろう、何処か行くたびに、屠自古は外の様子を語っていた。
今日も馬で遊んだ、明日は市に行く――。
その日一日の出来事が、身振り手振りを交えて伝えられる。
語る内容は勿論、時に笑い、時に顰め面を浮かべる屠自古に、布都は微笑し頷いていた。
二人のやり取りは、歳の離れた姉妹か、或いは親子とも映っただろう。
過去、彼女たちはそうだった。
しかし、今はどうだろうか。
屠自古は心身ともに成長している。
「ええ!
天気も良かったし、あっちこっちを散策して……。
そうそう、里のお菓子屋さんで新商品が出ていたのよ!」
これこれ、と風呂敷から斬新な色合いの饅頭を屠自古が取り出した。
人が見聞きしたことを語るのは何故か。
個人によってその意味は違えど、屠自古の場合は唯一つ。
自身をよりよく知って欲しい、そんな幼い願望が込められている。
心の成長はどうしたのか、と思われるかもしれない。
だが、以前は催促するまでもなく、帰ってくるなり話し出したのだ――(大きくなったものだ……ん)。
自身の思考に頷こうとする直前、布都は、屠自古に凝視されていることに気がついた。
否、正確には布都を見ているのではない。
饅頭を受け取ろうと伸ばしたその腕に、視線が注がれている。
ぽかんと小さく開かれた口が、屠自古の僅かな驚きぶりを表していた。
視線を追い、布都も自身の腕を見る。
「おぉ……」
零れた呟きは、感嘆か驚嘆か。
腕の極一部が腫れている。
ぷくりと、赤く、赤く。
虫に刺されていた。
気付くと同時、布都は、痒みを感じ始めた。
「ふむ……虫刺されとはこういうものだったか」
患部を中心にして、じんとした感覚が広がる。
痒みを散らすように、腕を二三度振った。
薄れたのは一瞬で、すぐにまた、疼く。
とんと覚えのない症状に、愉快気な笑い声を零す。
かつて、嫌と言うほど刺された屠自古と違い、布都にはその記憶が余りなかった。
「あ……」
先の夢はこれの暗示か――思う布都に、声が届く。
ただの声ではない、それは叫び声。
雷鳴のように、激しい音だった。
かけたのは、無論、屠自古。
「――掻いちゃ駄目!」
体さえ震えそうなその大声にぽかんとした後、布都は、ただ顔を俯かせた。
「く、くく」
「な、なによぅ!」
「いや、そう、そうだな、掻いてはいかんな」
大声を恥じたのだろう、赤面する屠自古に、どうにか布都は返事をする。
俯いたのは、浮かぶ表情を見せないため。
愛おしさを隠しえない。
「……ふん」
そんな布都の肯定に、鼻を鳴らし、屠自古が続ける。
「そうよ、掻いちゃ駄目なんだから。
最初は良くても、掻きむしったらひどいことになるわ。
じゅくじゅくとした膿が指について、他の所にも感染っちゃうの。
そうなったら大変よ。
あちこちに痒みが疾るのに、どうしようもないんだもの」
当時を思い出しでもしたのか、その症状は苦々しく告げられた。
頷きつつ、布都は、今を噛みしめる。
心の中で繰り返し、大きくなった、と喜んだ。
なぜならば、かつての自身の言葉に説得力は然程なく、今の屠自古のそれには大いにあるからだ。
(そろそろ、童扱いは失礼か)
気付かれぬよう頭を微かに揺らし、素面に戻した。
(思えば、屠自古も嫁いで随分経った。
我が色々とやかく口を出すのはお門違い。
否、それどころか不敬にさえ当たり得る、か)
続けて浮かべた微笑は、作ったもの。
胸に疼く一抹の寂しさを、無理やりに払拭した笑み。
それは、少女に、ましてや幼子に向けるものではなく、大人の女に対するものだった。
また或いは、嫁ぐ娘を祝う母の顔とも評せよう。
(屠自古は、屠自古殿は、ひじりつま――太子様の妻なのだから)
顔をあげ、告げようとする。
布都は、曖昧な関係を崩そうとしていた。
主と従者、母と娘、姉と妹……そういったものを、一切、断つ。
(今、我を見下ろすこの方は、かつて、戦語りをせがみ、虫刺されに嘆いた屠自古ではないのだから)
布都は、視線を合わせ、口を開こうとした。
だがしかし、瞳は重なっていなかった。
屠自古の瞳は、微動だにしていない。
「……たい」
つまり、布都の腕の腫れものに注がれ続けていた。
「ん?」
「……作りたい」
「なんぞ、屠自古?」
伸ばされる腕、微かに震える爪先。
問いかけに応えた訳ではないだろう。
感情儘の欲求が、幼い言葉で零される。
――「ばってん、作りたい」
屠自古ちゃんのおねだりに布都さんの相好が大崩壊を起こしたのは、言うまでもないことだろう。
「甘えた声を出すでない。しようのない童ぞ」
「だって、とってもぷっくり腫れていて」
「ほれ、好きにせい」
爪先に腕を差し出すと、小首がこてんと傾けられる。
「いいの?」
「二言はない」
「痛かったら言ってね?」
告げつつも、布都の腕に一文字を描く屠自古。
痛みにより痒みが紛れる。
それは一時のことであろう。
しかし、だからなんだと言うのであろう。
痒みも痛みも、布都には既に心地よい感覚になっていた。
「ばってん、できた」
(今しばらく、このままで良いか)
向けられる幼い笑みと与えられた甘い痛みに、布都もまた、柔らかな微笑を返すのだった――。
《神子様が見てた》
眼を見開く神子に、表情を一転させ半眼となり、布都が問う。
「太子様、屠自古と共にお帰りになられてから何も仰られておりませんが、なにか?」
そう、神子は見ていた。
ずっと見ていた。
物欲しそうに見ていた。
仲間になりたそうに、見ていた。
「屠自古! ねぇ屠自古!」
ノースリーブゆえ袖はないのだが、それでも袖部を掴み上腕を必要以上に強調し、神子が言う。
「私もほら、虫刺されが! 見ってほら見って!」
「まぁ、こんなにもぷっくりと!」
「好きにして、いいのよ?」
なんですかその艶のある言い方――思いつつ、布都は目を閉じ、息を吐く。
続く屠自古の行動が、ある程度解っていた。
彼女は良き妻であろうとしている。
つまり、こう。
「少々お待ち下さいませ太子様、水を汲んできますわ!
針が残っているといけませんから洗い流さないと。
その後、鎮痒作用のある軟膏を塗りましょう。
お掻きになるのもいけませんから、布も持ってきますわね。
あぁそうです、患部の周囲を冷やすのも有効ですから、その布をたっぷり濡らしましょう!」
パーペキな処理である。
「おぉ……おぉぉぅおぅぅ……っ」
こうしてはいられない、と手を打ち、屠自古が駆けていく。
嗚咽を漏らし、ただ腕を伸ばし続け、うち震える神子。
婦妻のやり取りは割と何時もこんな調子だ。
布都は、土産の饅頭を一口含む、呟いた――「ほんに愛い」。
《/神子様はキャッキャウフフをお望みです》
燦々と照る太陽が布都の覚醒をゆっくりと蝕み、次第に眠気を覚えさせた。
これも自然の理か――思い、布都は自ら目を閉じる。
暫くすると、ここぞとばかりに生命を輝かせる虫たちの声に、静かな寝息が混じっていった。
夢を見ている。
漂う意識の中、布都は自身の状態をぼんやりと理解する。
気付くきっかけになったのは、分裂したような意識。
話す自身と眺める自身を同時に感じた。
だとすれば、目覚めるのも時間の問題か――夢とはそういうものであろう。
自覚しつつ、布都は、自身の口から出る言葉を聞き取ろうとした。
夢は記憶の集合体で、故に全ては己に帰結する。
これも何時かの時のものなのだろう。
思いつつ、けれど一瞬後、布都は言葉への意識を他に切り替えた。
俯瞰するような視界が、自身の傍にいる者を捉えたのだ。
縁側に寝そべり、両手で顎を支え、両脚を交互に振っている。
幼い仕草やあどけない表情、否、その者の存在自体が、布都の意識を全て奪った。
その少女の名は、屠自古。蘇我屠自古郎女と言う。
今ではすっかり女らしい体型になった屠自古だが、視界の彼女は童と呼べる程度に小さかった。
何時の間にか抜かされていた身長も、その片鱗さえ見受けられない。
その齢は、まだ両の手で十分に足りる程度だろう。
随分と懐かしい光景だ、と布都の表情が綻んだ。
思春期の頃、とある事件をきっかけに、布都は屠自古の家、蘇我の屋敷に居候していた。
事件とは蘇我氏所有の寺社の小火で、犯人は当の布都だった。
世間一般には‘軟禁‘と噂されていたが、実際の扱いは客人のように扱われていた。
事実、布都にとってその頃の記憶は、今でも温かみをもって思い出される。
自身がきっかけを作ったとはいえ物部の一族を滅ぼした‘蘇我氏‘と言う団体に蟠りを持ちつつ、彼女は、個人への悪感情を持っていなかった。
諸々の経緯はともかく、だから、布都は和やかに、当時の自身と屠自古を眺めている。
少しして、視界の先の童の様子が変わった。
元来、屠自古は男子と称されるほど活発で、落ち着きのない童だった。
父親である馬子が‘蝶よ花よ‘と育てたのに反し、‘馬よ戦よ‘と野山を駆け回っていた。
つい先ほどまでそんな様子でころころと動いていた屠自古だったが、気付けば、話す布都を前に大人しくなっている。
屠自古の様に、布都は話している内容を思い出した。
それは大王や一族の昔話。
つまり、戦の話だ。
朝廷にて武力を担う一族の出と言うこともあり、屠自古ほどではないにしろ、布都もまたその手の話を好んでいた。
時に激しく時に緩やかに、布都は、英雄や策士を語る。
一人のために練られた展開は、十分に効果を発揮したと言えよう。
目を見開いて聞きいる屠自古を、布都は、愛おしげに眺め続けた。
緩やかに流れていると感じた時間は、しかし、突如にして緊張を伴うものになった。
どちらの布都も同時に気付く。
故に、話す彼女は今まで以上に熱を込めた。
故に、眺める彼女は――意味がないと解りつつ――目を逸らした。
――んぅ……痒い?
そう、意味がない。
どちらにしても、当事者が気付いてしまったのだから。
布都に緊張を強いたものとは屠自古の腕に現れた赤い腫れもの、所謂、虫刺されである。
今の屠自古はともかく、当時の彼女はやんちゃな童だ。
そんな彼女が痒みと言う症状にどう対処をするか。
患部にそろりと手が伸ばされる。
解らぬ、否、知らぬ布都ではない。
腫れに爪で十字を作るなど可愛らしいもの。
もう何度も、屠自古は虫刺されを掻きむしり、酷い目にあっていた。
その度に掻いたことを後悔するのだが、喉元過ぎれば何とやら、繰り返してしまっている。
そしてまた、わんわんと嘆くのだろう――見過ごす訳にはいかないと、布都は屠自古を諭す。
(掻いてはいかん!)
眺める布都は言葉にした。
話す布都も、言葉にしたはずだ。
だと言うのに、己の耳に、その音は届かなかった。
口を開けども声にはならず、それでも布都は抗うように、より大きな声を出そうとした。
自然、両の眼、四つの瞳も大きく開き、屠自古の小さな白い手が、腫れものに触れるその瞬間を捉えてしまう。
「――は、いかんっ」
「ひゃ!?」
二つの声が鼓膜を震わせたのは、その一瞬後のことだった。
くらりと頭が揺れる。
布都は、即座にその理由を把握した。
どうと言うことはない、前のめり気味に目覚めたのだ。
声量を大きくしようとした結果、体まで動いてしまっていた模様。
意味のない行為に必死な様を露わにする自身に、布都は、くつくつと微苦笑を零した。
そして、はてと気付く。
「一つの声は我だが……もう一つは?」
姿勢を戻し、視界を前に向けると、大きくなった愛し子が其処にいた。
「もう、なに寝ぼけてるのよ」
「……屠自古か」
「ええ」
見上げながら、もう一度、その名を呟く。
本当に大きくなったと思う。
身体は勿論、その心も、成長した。
そんな屠自古を、嬉しさ半分寂しさ半分、布都は受け入れている。
手前勝手な心境は過した時間と関係性に依るものか、と、またくつくつ笑んだ。
「可笑しな布都ね」
笑みが自身に向けられているとは欠片も思っていないのだろう、屠自古が肩を竦め、布都の傍らに荷を下ろした。
「……あぁ。里に、買い出しに行っていたんだっけか。おかえりなさい」
経緯を思い出し、布都は呟く。
下ろされた風呂敷からのぞいているのは、様々な食料品だ。
道士である布都や怨霊の屠自古に、一般的な食事はさほど重要ではない。
では何故程々の量を買いこんでいるのかと言うと、単に、食べることが好きなのだ。
加えて、食卓を囲むのも、腕をふるった屠自古を褒めるのも、布都にとっては大事なことだった。
「ただいま。ほんとに寝ぼけているんじゃないわよ」
「夏にしては気候も穏やかでな」
「はいはい」
「こう、うつらうつらと」
「確かに、目覚める直前まではいい顔してたわ」
頷く布都に、にまりと笑み、屠自古が続ける。
「いい夢でも見ていたのかしら」
「ん? まぁな」
「例えば、山盛りの山菜ご飯とか」
「好物じゃな」
「その様子だと、もっと良かったのね」
我が意を得たり、と屠自古が拳を口に当て、くししと笑んだ。
「食いしん坊の貴女にして、ご飯よりも良い夢だった。
それはきっと、誰かとの思い出でしょう。
そう、つまり――」
悪戯気な表情を浮かべ、人差し指をぴっと立てる屠自古。
童ではなく大人でもないその顔は、珍しい少女の面影。
ご丁寧に、溜めの時間も自身で作っていた。
続けさせるのも一興だが――思いつつ、布都は静かに割って入った。
「つまり、主との思い出ぞ、屠自古」
「きゃー! 布都ったら……え?」
「我が居候していた幼き頃のな」
二の句が継がれるより早く、矢継ぎ早に布都は続けた。
自身の言葉を恥じている訳では、当然ながら、ない。
誤った嬌声をあげる屠自古のためだった。
そのお陰か、赤面する屠自古から返されたのは、唇を尖らせる程度の反応だった。
「……なにそれ、つまんない」
零された憎まれ口に、顔を俯かせ、布都は笑む。
緩やかな動作は、屠自古に相槌と思わせるためだった。
素直でない彼女の愛し子は、きっと、そうでもしないと更にむくれてしまうだろう。
「ところで……」
愛いなぁ――思いが強く胸に宿れど、見上げた時には素面の表情に戻していた。
「わりかし時間をかけた様だが、里で何かあったのか?」
改めて、布都は問う。
生前、元来の体の弱さから、布都はほとんど外出したことがなかった。
だからだろう、何処か行くたびに、屠自古は外の様子を語っていた。
今日も馬で遊んだ、明日は市に行く――。
その日一日の出来事が、身振り手振りを交えて伝えられる。
語る内容は勿論、時に笑い、時に顰め面を浮かべる屠自古に、布都は微笑し頷いていた。
二人のやり取りは、歳の離れた姉妹か、或いは親子とも映っただろう。
過去、彼女たちはそうだった。
しかし、今はどうだろうか。
屠自古は心身ともに成長している。
「ええ!
天気も良かったし、あっちこっちを散策して……。
そうそう、里のお菓子屋さんで新商品が出ていたのよ!」
これこれ、と風呂敷から斬新な色合いの饅頭を屠自古が取り出した。
人が見聞きしたことを語るのは何故か。
個人によってその意味は違えど、屠自古の場合は唯一つ。
自身をよりよく知って欲しい、そんな幼い願望が込められている。
心の成長はどうしたのか、と思われるかもしれない。
だが、以前は催促するまでもなく、帰ってくるなり話し出したのだ――(大きくなったものだ……ん)。
自身の思考に頷こうとする直前、布都は、屠自古に凝視されていることに気がついた。
否、正確には布都を見ているのではない。
饅頭を受け取ろうと伸ばしたその腕に、視線が注がれている。
ぽかんと小さく開かれた口が、屠自古の僅かな驚きぶりを表していた。
視線を追い、布都も自身の腕を見る。
「おぉ……」
零れた呟きは、感嘆か驚嘆か。
腕の極一部が腫れている。
ぷくりと、赤く、赤く。
虫に刺されていた。
気付くと同時、布都は、痒みを感じ始めた。
「ふむ……虫刺されとはこういうものだったか」
患部を中心にして、じんとした感覚が広がる。
痒みを散らすように、腕を二三度振った。
薄れたのは一瞬で、すぐにまた、疼く。
とんと覚えのない症状に、愉快気な笑い声を零す。
かつて、嫌と言うほど刺された屠自古と違い、布都にはその記憶が余りなかった。
「あ……」
先の夢はこれの暗示か――思う布都に、声が届く。
ただの声ではない、それは叫び声。
雷鳴のように、激しい音だった。
かけたのは、無論、屠自古。
「――掻いちゃ駄目!」
体さえ震えそうなその大声にぽかんとした後、布都は、ただ顔を俯かせた。
「く、くく」
「な、なによぅ!」
「いや、そう、そうだな、掻いてはいかんな」
大声を恥じたのだろう、赤面する屠自古に、どうにか布都は返事をする。
俯いたのは、浮かぶ表情を見せないため。
愛おしさを隠しえない。
「……ふん」
そんな布都の肯定に、鼻を鳴らし、屠自古が続ける。
「そうよ、掻いちゃ駄目なんだから。
最初は良くても、掻きむしったらひどいことになるわ。
じゅくじゅくとした膿が指について、他の所にも感染っちゃうの。
そうなったら大変よ。
あちこちに痒みが疾るのに、どうしようもないんだもの」
当時を思い出しでもしたのか、その症状は苦々しく告げられた。
頷きつつ、布都は、今を噛みしめる。
心の中で繰り返し、大きくなった、と喜んだ。
なぜならば、かつての自身の言葉に説得力は然程なく、今の屠自古のそれには大いにあるからだ。
(そろそろ、童扱いは失礼か)
気付かれぬよう頭を微かに揺らし、素面に戻した。
(思えば、屠自古も嫁いで随分経った。
我が色々とやかく口を出すのはお門違い。
否、それどころか不敬にさえ当たり得る、か)
続けて浮かべた微笑は、作ったもの。
胸に疼く一抹の寂しさを、無理やりに払拭した笑み。
それは、少女に、ましてや幼子に向けるものではなく、大人の女に対するものだった。
また或いは、嫁ぐ娘を祝う母の顔とも評せよう。
(屠自古は、屠自古殿は、ひじりつま――太子様の妻なのだから)
顔をあげ、告げようとする。
布都は、曖昧な関係を崩そうとしていた。
主と従者、母と娘、姉と妹……そういったものを、一切、断つ。
(今、我を見下ろすこの方は、かつて、戦語りをせがみ、虫刺されに嘆いた屠自古ではないのだから)
布都は、視線を合わせ、口を開こうとした。
だがしかし、瞳は重なっていなかった。
屠自古の瞳は、微動だにしていない。
「……たい」
つまり、布都の腕の腫れものに注がれ続けていた。
「ん?」
「……作りたい」
「なんぞ、屠自古?」
伸ばされる腕、微かに震える爪先。
問いかけに応えた訳ではないだろう。
感情儘の欲求が、幼い言葉で零される。
――「ばってん、作りたい」
屠自古ちゃんのおねだりに布都さんの相好が大崩壊を起こしたのは、言うまでもないことだろう。
「甘えた声を出すでない。しようのない童ぞ」
「だって、とってもぷっくり腫れていて」
「ほれ、好きにせい」
爪先に腕を差し出すと、小首がこてんと傾けられる。
「いいの?」
「二言はない」
「痛かったら言ってね?」
告げつつも、布都の腕に一文字を描く屠自古。
痛みにより痒みが紛れる。
それは一時のことであろう。
しかし、だからなんだと言うのであろう。
痒みも痛みも、布都には既に心地よい感覚になっていた。
「ばってん、できた」
(今しばらく、このままで良いか)
向けられる幼い笑みと与えられた甘い痛みに、布都もまた、柔らかな微笑を返すのだった――。
《神子様が見てた》
眼を見開く神子に、表情を一転させ半眼となり、布都が問う。
「太子様、屠自古と共にお帰りになられてから何も仰られておりませんが、なにか?」
そう、神子は見ていた。
ずっと見ていた。
物欲しそうに見ていた。
仲間になりたそうに、見ていた。
「屠自古! ねぇ屠自古!」
ノースリーブゆえ袖はないのだが、それでも袖部を掴み上腕を必要以上に強調し、神子が言う。
「私もほら、虫刺されが! 見ってほら見って!」
「まぁ、こんなにもぷっくりと!」
「好きにして、いいのよ?」
なんですかその艶のある言い方――思いつつ、布都は目を閉じ、息を吐く。
続く屠自古の行動が、ある程度解っていた。
彼女は良き妻であろうとしている。
つまり、こう。
「少々お待ち下さいませ太子様、水を汲んできますわ!
針が残っているといけませんから洗い流さないと。
その後、鎮痒作用のある軟膏を塗りましょう。
お掻きになるのもいけませんから、布も持ってきますわね。
あぁそうです、患部の周囲を冷やすのも有効ですから、その布をたっぷり濡らしましょう!」
パーペキな処理である。
「おぉ……おぉぉぅおぅぅ……っ」
こうしてはいられない、と手を打ち、屠自古が駆けていく。
嗚咽を漏らし、ただ腕を伸ばし続け、うち震える神子。
婦妻のやり取りは割と何時もこんな調子だ。
布都は、土産の饅頭を一口含む、呟いた――「ほんに愛い」。
《/神子様はキャッキャウフフをお望みです》
でもって、神子様は爆ぜろ。まじ爆ぜろ。
私も「ばってん」してくれる怨霊の彼女が欲しいです。
布都は布都でマジおかーさん
次はぜひ、屠自古がなぜ亡霊にされちゃったかについて読みだいです