上白沢鈴音は、ただの犬にしか見えなかった。
まっ白な紀州犬の子で、鼻は黒い。
そんないたいけな子犬を容赦なく蹴とばしたのは、無頼の浪人だった。凶悪な面構えが赤らんでいる。すこし酔っているらしい。
徳川の治世も代を重ね、世も太平そのものであれば、いくさが仕事である浪人者に銭を得る手だてはほとんどなかった。稼げぬ身では酒も満足に飲めず、だから、みじめな身の上に積もる鬱憤を晴らすことができない。そうなると、こういう手合いは、おうおうにして弱者にそのはけぐちを持って行くのである。
路地のなかから往来の中ほどにまで転がった鈴音を、走って追いかけてきた浪人が、再びしたたかに蹴った。
「ぎゃっ」
と犬の口から悲鳴がもれた。
「なんだこいつ。妙な声だしやがって」
浪人があざけるようにいった。
何事かと立ち止まっていた人々のあいだから、忍び笑いがこぼれる。
なにせ犬の身には、時世が悪かった。
天下の悪法『生類あわれみの令』が廃止されて間もないころの江戸である。憎い“お犬様”などのために、目が合うだけで因縁をつけてきそうな浪人をいさめる者などあるはずがない。
三度蹴られた子犬の体が、ぽーんと白い毬のように青空にはねあがり、地に落ちて弾まなかった。うしろ足の片方がつっぱったまま、歩くときとは違った様子で動いた。
浪人は、ねちっこい奴らしい。
殺すつもりで何度も蹴ったのが、いまだ生きているのが気に入らないようで、雨上がりのぬかるんだ土のうえで震える小さな獣を、下駄の裏で踏み潰そうと足をあげた。
ところが酔いのためかふらついて、踏みそこなった。
「おいおい、やらねえのかい?」
遠巻きに見ていた者たちのなかから、野次が飛んだ。
それで浪人は、いい気になったらしい。
あごに手をやりにやにや笑い、下駄をとばすと、大刀で居合を使ってみせた。それが生半の手練でなく、辺りが賞賛と驚きの声にどよめいたほどである。
浪人が、子犬の首根っこをつかんで持ち上げた。品定めをするように顔のまえにかざした。
鈴音は、だらりと垂れていた舌を口のなかに引き戻すと、ぎりっと牙をあわせて頭をあげた。目にちからをこめて、むくんだ赤黒い悪人ヅラをにらみつけてやった。
――満月の頃やったら、こんな奴、目ぇつむってても……。
成敗してやれるのに、とおもった。今は新月である。
爪で頬にかすり傷でもつけてやろうと、前足をじたばたさせてみたが、てんで届かない。
「なんだこいつ、あれだけ蹴られてまだ元気かよ。気味悪りいな」
言葉と裏腹に、浪人はへらへらとしている。
――お前に、気味悪いやなんていわれとうないわ。
よっぽど口に出していってやろうかとおもって、辛うじておもいとどまった。ここで正体をばらすのはまずい。相場としては見世物にされるか、退治されるか、なんにしても面白くないことになる。
いまから目の前の男が、何をしようとしているのかは、明白だった。
あの居合の技で、大根よろしく鈴音を斬って捨てるつもりだろう。
――刀でうちを殺せるんやったらやってみい。こちとら殺して死なん半妖じゃ。
たとえまっぷたつにされようとも、眠ったようになるだけである。月が満ちてくれば、体はもとどおりになり復活できる。
――たぶん。
とはいえ、動けない間にカラスやネズミなどに、身をすっかり食われたらどうなるだろう。さすがに死んでしまうかな。
――いやや。うちは、なんも悪いことしてへんやろが……。はなせ、はなせや、あほ。
胴をくねらせじたばたしても、どうにもならない。
人相の悪い顔を見すえて、
「わん」
といってやるのが、せいいっぱいの抵抗だった。
「おっ?」
浪人がトンマな顔になって、周囲の人々を見まわした。どうもこの男、見世物をやる素質があるらしい。
どっと笑いがおこった。
鈴音は、はっとして、頭を右へ左へせわしくめぐらせた。ぐるりとまわりに並ぶ顔をいちいち確かめて、知らず求めていたのは自分への同情である。しかし、どれも、これも遠くを眺めるような嫌な目をしている。あびせられる笑い声は、蹴りよりもこたえるものがあった。
――人いっぱいや。味方は、おらん……。
苦しそうにゆがんだ毛むくじゃらの顔は、泥水に濡れつくしていた。
――おまえらあほや。
ふと目にはいった空がきれいで、ちょっと目を細めたら、とたんに溶けて流れた。
ころあいをみて、浪人が観衆を静めた。
あたりが、しんとした。
そのとき。
「しばらく、しばらく」
と声をあげた者があった。
人の輪をかきわけ、すっと抜けだしてくる。浪人とやや距離をおいて向かい合った。
はっとするような白髪に、老人かとおもえば若者である。白い着物に紺の袴をつけ、大小を差しているから、剣客なのだろう。手には、ぱんぱんに張ったおおきな風呂敷包みをさげている。
「なんだてめえ」
浪人が低い声をだした。
「もう止めにしておかんか?」
といった若い剣客は、まさに鈴音が求めた表情をしていた。
「かわいそうではないか」
この言葉に子犬の耳がぴくっとした。萎えていた体にちからが返ってきた。
「けっ」
浪人が、ぺっと唾を吐いた。
「ひっこめ、糞野郎!」
と誰かがいい、ついでまわりから剣客に罵声がつぎつぎと叩きつけられた。
勢いに乗った浪人が、周囲を圧する大音声をあげた。
「名のれってんだよ、ボケが!」
瞬間、いっさいの声がふつりと途絶えた。
「……魂魄五郎」
剣客が静かに答えた。こんぱく、ごろう、鈴音は胸のうちでその名を繰り返した。
「聞かん名だなあ。へぼ剣士がかっこうつけてっと、痛い目だけじゃあすまねえぜ、なっ」
顔を突きだして、下からにらむようにして言う浪人を、魂魄という若者は、だまって見ている。
「まわり見てみろよ、空気読めよ。おめえに味方、いねえだろ、な?」
「下種の味方などいらぬ」
浪人がするどく舌打ちをした。
「ひっこめ白髪頭!」
と口早にいったのは野次馬だが、さっきと声がおなじである。わざとらしくおこった人々の嘲笑はひかえめだった。
「どうしても助けてはやれんか?」
「ひっこめってんだよ」
ふと、魂魄五郎の足が前にでた。
それを見て、浪人が子犬を放り投げた。腰をきめ刀の柄に手をそえた。
「やる気かよ」
といった浪人の、かたちんばに剥かれた目が血走って、怒りとはすこし違う異様な感情にぎらついている。
投げ捨てられた鈴音は、地面にきつく叩きつけられて、息が詰まったようになりながらも、かろうじて頭をあげてふたりを見た。
浪人が音をたてて鯉口を切った。
五郎の足は止まらない。
手にさげた風呂敷づつみをふっているのが妙に気楽なようすで、大きさのわりに中身が軽いのか、不必要なほどふりまわしている。
刀がとどく間合いまであと三歩のところ、五郎がその包みをぽーんと放った。
これは“虚”である、と鈴音にも読めた。包みを斬らせ、その隙をつこうというのである。
が、浪人はその手には乗らない。
どっしりと構え、目はぴたりと白髪の剣客に据えている。
刹那、五郎がいっきに距離をつめた。間合いを越える寸前、小刀を抜きざまに、その身が大きく沈んだ。
「やっ!」
気合声とともに浪人の腰間から刀が走りでた。
しかし、目にも止まらぬ斬撃は、地面に近い虚空を断ち割っただけだった。
五郎は、片膝をつき、両手で持った刀を大地に深深と突き刺して、間合いのぎりぎり外で停止している。“虚”はこちらだった。
弧を描いて空中を飛び、ようやく届いた風呂敷づつみを、浪人がふわりと片手で抱きとめた。いや、手で打ち払らったのが、頑として浪人の懐に飛びこんだといったほうがいい。
この時、すぐれた耳を持つ鈴音は、かすかに鈍い音を聞いている。どういうからくりか分からないが、風呂敷づつみが、浪人の身体、おそらく急所を打ったらしい。
「ぐっ……」
浪人の手から刀が落ちた。ぐらりと傾いてのけぞると、腰をぬかすように尻をつき、包みを抱きかかえたままちからなく首をたれた。
気を失って座りこんだ男のかたわらに立った五郎が、すでに散りつつあった人垣を見まわした。
「なあに、みね打ちでござるよ」
と可笑しなことを、もっともらしくいった。
よくやった、と何処かでちいさな声がした。
鈴音は、ほっとして頭を地に落とした。
安堵が胸にあった。あの人が側にあるかぎり安心であると肌で感じながら、ぼんやりと五郎の足をながめた。
その足がこちらを向き歩いてきて、目の前で止まった。
どうして、ちいさな胸が高鳴る。
急に寒気がしたとおもったら、あの風呂敷つづみが、すぐ横に置かれていた。
――いったい何が入ってんのやろ。
とおもう間もなく、おおきな手が上から伸びてきて、鈴音の頭をひとなでし、そっと体を包みこんだ。ふわりと体が軽くなって、引き上げられた。
見あげれば、日に焼け引き締まった顔が、まじめくさった目をしてのぞきこんでいる。
やや間があって、髪に負けないくらいまっ白な歯がこぼれた。
「痛むところはないようだな。よかった」
とても柔らかな手つきだったから気にしなかったけれど、そういえば、五郎が鈴音の体をいろいろと触っていたようである。白い毛皮のしたで、少女は真っ赤になってうつむいた。
あかねに色づいている西の空は、まだあんなに明るいのに、町は薄闇につつまれていた。
いつもどおり、夜は土の下からぼんやりとしみだしてくる。
逢魔が時、暗くなった軒の下や、路地の中に妖怪が立っている時間。
魂魄五郎は、白い子犬を抱きながら、ゆるゆると掘割沿いを歩んでいた。道をはさんで堀の反対側は、火事で焼けたあとの空き地である。ぬかるんでいた道が、だいぶん乾いてきているらしいのが、下駄の歯が地面を噛む音でわかった。
ふところに抱かれながら、鈴音はなんとなく流れる水の音に耳をかたむけている。たまに櫓(ろ)をあやつる軋んだ音がして、そのたびに首を曲げそちらへ鼻をむけたが、川面をすべっていく船の人影は、男か女かすら判然としなかった。
「それにしても、あてがすべて外れてしまった」
屈託のない五郎の声だった。
あれからこの男は、知り合いの家々を訪ねまわり、鈴音の飼い主を探した。が、結果は先の言葉のとおりである。
この剣客に関わりある人物たち、みな人の良さそうな顔つきながら、ことごとく子犬の引き取りをこばんだのは、すべてが既に犬を飼っていたからだった。……いや、なかには単に犬が苦手だから、という者もいた。
ともあれ……。
『生類あわれみの令』に従い、迷い犬の世話をしたところ、情がうつりそのまま家に迎え入れた。五郎の友人知人は、およそこういう人々の集まりだった。悪法をうけて、お犬様を憎むようになった者もいれば、このような人々もいる。世は一様ではないのである。
「さて、どうしたものかな」
やはり明るい声で五郎はいう。
「わが家に来るか? いや、しかし……」
と決めかねるようすで、ぶつぶついっている。
――しおどきかな。
と鈴音は、おもった。
細いが力強い腕に抱っこされているのが、温かくて心地よかったから、ここまでずるずると着いてきたけれど、お別れである。
上白沢鈴音は、誰が何といおうと人間なのだ。家畜のように飼われるつもりは毛頭ない。飼われるくらいなら野垂れ死んだほうがましだ、と思い生きてきた。
――けど。
ふと五郎を見上げる。
――この人にやったら……。
ちらりと思いかけて、かっと頭に血をのぼせた。
――あああ、うちは、なにを考えとんのや。あかん、人間の堕落や。
じっとしてられなくなって身悶えた。
「ん、どうした。どこか痛むか?」
やさしげな声が降ってくる。とたんに、ふにゃふにゃとなる鈴音だった。
――うちは、どうしてもうたんや。
すこし悲しいような気がした。が、五郎が、「よしよし」とあごのしたを指先でこちょこちょとしてきたのに、勃然となった。鈴音は、これをされるのが大嫌いだった。あまりにも犬あつかいに過ぎる。
ひと言いって颯爽と去ってやる、と鼻息あらく顔をあげ、ちょっとおじけづいた。
「あの、魂魄はん」
といった。
空のあかねは、おおかた山のむこうに去ってしまい、いよいよ辺りは暗くなってきている。ほとんど物音のない空気のなか、少女のうつくしい声が、ふわりと広がって川水にのまれて流れていった。
びくりとした五郎が、足を止め、あたりをきょろきょろ見まわしている。そして、ふところの子犬にちらりと目をやってから、もういちど後ろを向いて空をあおいだのは、耳をすましているらしい。
「魂魄はん。うちや、あなたの腕のなかにいてる白いのん」
五郎が、目を見張って鈴音の顔をのぞきこんだ。
「おぬしか?」
といった。
もういちどまわりを素早く確認して、声をひそめた。
「おぬしのような身の上で、うかつにしゃべるのは良くないのではないか」
この剣客は、おどろくよりも、面白がるよりもさきに心配してみせる。かなわないな、と鈴音はおもった。いっしょにいればいるほど離れがたくなる。
「せやかて……うち」
口ごもりうつむいて、ぱっと顔をあげた。
「どうしてもお礼、ゆうときたかったんや!」
というや、ふところから飛びだした。なんでもない高さであったけれど、浪人にやられたのが思いのほかこたえていたのだろう。鈴音は、よろめき倒れた。
「大丈夫か?」
期待どおりに投げかけられる声に、おどる胸をおさえこむ。
「ほっといてんか」
立ちあがり、ちょこちょこと歩んで、
「魂魄はん、助けてくれて、おおきにな」
といって駆けだした。
「おい。しばし待てんか!」
魔法にかけられたように足が止まる。
「なんや」
「おぬしは、妖怪か?」
「ちゃうわ」
「では、おぬしはいったい……」
「半身妖怪、半身人間。全霊で人間や」
背中に、五郎の息が止まった気配が伝わった。ゆっくりと吐きだしてから口を開いた。
「ならば……ならば、家へ来んか」
「は?」
どういう理屈だと鈴音はおもった。おもわずふりかえると、五郎がしゃがみこんでいる。固く結ばれている風呂敷づつみを苦労して解いているらしい。
結びが解けて出てきたのが、黒い布づつみであったのは、二重に包んでいたわけで、中身はよほど大切なものなのだろう。なんだか布のしたでむくむくと膨らんでくるようである。
それがふわりと浮かびだしたから、鈴音の右の前足がびくっと動いた。
立ちあがった五郎が、おもいきったようすで布を払いのける。
あらわれたのは、幽霊だった。
空の雲をちぎってきて、したたる水滴の形にしたような純白の塊が、空中で淡く光っている。おおきさは、十歳ぐらいの子供ほどもあり、炎のように輪郭がゆらめき乱れていた。それが宙を泳ぐと、毛筆の軌跡のように伸びて、ゆっくりともとの形にもどってゆく。
羽衣のように幽霊をまといつかせた五郎が、どこか恥ずかしそうに微笑んだ。
「わしの半身だよ」
「えっ」
「わしの半身だ。わしもかような者なのだ。さよう、半身幽霊、半身人間。全霊で人間でござる」
しずしずと歩いてきて、鈴音のかたわらに膝をついてしゃがみこんだ。幽霊の尾がふわりと鈴音の鼻先をなでて、ひんやりとして、くしゅんと、くしゃみがでた。
「だから、わしの家に来んか?」
「そやから……なんで、そうなるの」
「おぬしとわし、似たもの同士なれば、共に助けおうて生きてゆけよう」
「共に、生きて?」
「うむ。わしらのような数の少ない者が、ちからを合わせずしてなんとする」
はげますような声でいう。
「そやかて、うち、こないな体や。魂魄はんにしてあげられるこというて……」
「居てさえくれればよい。それで、心強い」
といって、しばらく鈴音を見詰めていたのが、ふとこめかみのあたりに指をあてた。
「ただ、食い扶持が心細いゆえ、ろくなものを食わせてやれんのが心苦しい。育ちざかりのおぬしに、な」
苦笑する。
もう我慢できない鈴音は、五郎の胸に飛びこんでいた。
道がゆるやかに上りはじめたとき、行く手に茶屋が見えた。
わら屋根のちいさな建物を囲んだ木立が、昼まえの陽射しをあびて薄紅色に霞んでいるのは、桜だろう。枝の花が控えめだから、まだ咲きはじめて間もないとおもわれた。
旅立ちの日、江戸の桜は満開を過ぎて散りはじめていたのが、この地ではこれからである。
ひとつの春に花を何度もたのしめるとなれば、風流を解するものなら旅情をからめて一句したためるところだろうし、そうでなくとも何か知らの感動を覚えることだろう。もちろん、魂魄五郎にも、そういうところが無いわけではない。
が、やはり花より団子である。
茶屋を見て、団子をおもい、もう腹が鳴っている。
日に焼けた顔の、引き締まった口もとから、白い歯がこぼれた。
いたって凡庸な顔立ちであるのが、こう笑うと不思議といい男に見える。
はっとするような白髪が、無造作に後ろで束ねられているのが微風になびいている。ひげのほうはマメに剃っているのか、生えないたちなのか、さっぱりとしていた。着物のうえから羽織った半てん、股引に手甲それに脚半とすべてが藍染めで、浪人だけに庶民じみた旅姿である。刀は短めのを一本、落とし差しにしているだけだった。
「団子との果し合いに、いざ参ろうか」
五郎は、手に下げたおおきな風呂敷包みを持ちなおすと、大股で歩みはじめた。
前を歩いている商人は、今朝、宿を出てからの道連れだったが、その男との距離をみるみるうちに縮めて、追いつきかけた。
その時、五郎の足がはたと止まった。
棒のように立ちつくした男の視線は茶屋のまえに釘付けになっている。
女が立っていた。
空色の着物を身にまとった、白い顔の娘が、茶屋をでた所にたたずんでいる。桜から降った花びらに染まったような薄紅の髪を、日本髪にはせずに自然に流していた。
やや遠くて、いまひとつはっきりしないのに、女の顔が美しいとおもわれる。その視線が己にそそがれたことを、魂魄五郎ははっきりと感じとった。
ふと娘の顔から笑みがこぼれる。
束の間、五郎の息が止まった。
知らぬ間にうっすらと締めつけられていた胸が、やわらかに疼きはじめた。
まわりの景色があいまいになって、そこに桜色の髪をした娘だけが笑っている。
どれほどの間、見とれていたのだろう。気がつけば、娘の側に人が立っていた。
金色の髪に紫の着物を着た女が、桜色の娘になにやら話しかけているのが、声は聞こえないけれど、そぶりでわかる。やがて、どちらからともなく頷きあって、こちらに背を向け歩きはじめた。わき道にでも入ったのか、すぐに見えなくなった。
「あ……」
五郎は、あわてて駆けだした。
おおきな足音をさせたものだから、だいぶん先まで進んでいた商人が、背中のおおきな荷物に振りまわされるようにしてふりむいた。驚いた顔は、二十代のなかば程だろうか。狭い道でもないのに脇へ退いたのに、目礼をあたえていっきに抜き去った。
そうして茶屋のまえを過ぎ、女たちの消えたあたりまで来たけれど、わき道らしいものは見えなかった。
「はて面妖な」
五郎は、気が急いているから、その場でせわしなく足踏みをしながら首をかしげた。
街道のはたにはクマザサの茂みが続いており、そのむこうは急斜面の林となっている。女たちが踏みこんで行くとはおもえなかった。
まわりをひと通り見回した五郎が、くるりと身を返して茶屋へ飛びこんだ。
「いらっせえませ」
こざっぱりとした店の奥から顔を出したのは、まっ黒な肌をした老人だった。日に焼きすぎて水分をなくしてしまったような、しわしわのじじいである。
他に客はない。
爺さんは、まだ頼みもしないのに、茶と団子を手にしながら出てくると、突っ立っている五郎に長椅子をすすめた。団子は串に刺しておらず、鶏卵ほどのおおきさで、白い表面が少し湿ってつやつやとしている。それが皿にみっつ乗っていた。
娘のことを聞こうと駆けこんだのだけど、団子を目のまえに置かれてはたまらない。自然に手がのびて、ひとつぺろりとたいらげた。
「うまい」
待ってましたとばかりに、爺さんが機嫌のよい声をだした。
「ここの名物で黒々餅っていうんですよ」
「ふうん」
「白い団子が黒々餅。ね、おもしろうござんしょう。そもそも……」
爺さん、聞きもしないのに団子の由来を語り出した。
「いや、ご老体その話はあとで聞くとしよう。まず、わしの質問に答えてもらいたい」
「はあ……」
とそのとき、さっき追いこした商家の男が、
「ごめんよ」
ひょいと店に入ってきた。
それが他に椅子が空いてるのに、なれなれしく五郎のすぐ隣に落ち着いて、
「私にもこの旦那とおなじものを頼むぜ」
「はいはい」
奥へ入った爺さんが茶などを運んでくると、商人はその手に紙包みを握らせた。
「これから大事な話があるんだ。すまないな」
「へぇ、こりゃどうも」
爺さんは、ほくほく顔で奥へ引っこんで行った。
「おい、じいさん!」
五郎が大声をだした。
「わしの質問がまだすんでおらん!」
爺さんが奥からひょいと顔をだすと、商人が手まねでそれを引っこめさせた。
「旦那、さっきの娘たちのことなら、私のほうが詳しいとおもいますぜ」
といった。
「なに、まことか?」
「ええ。あの娘らは、峠を越えたさきのご城下にもしばしば現れる噂の美人姉妹でね。さらに私もご城下に店を開いているというわけだ」
「ふむ」
そういうことなら、慌てる必要はないな、と五郎はおもった。
旅の者であるならば、ここで見失えばもう会えないだろうが、城下で見かけるならば、そこに滞在するうちに何かの縁でまた会うこともあろう。いや、五郎は探して歩くつもりだから、きっと会えるはずである。
「私は、霧雨屋政と申します」
と商人が名乗った。
「魂魄だ。何を商っておるかは知らぬが、よろず間に合っておる。なにも買わんぞ。いっておくが銭がないわけではない」
すると霧雨屋が、笑い声をもらした。
「なんだ?」
「いえ、ぶしつけな私を嫌な顔もせずに相手してくださる。話すまえからそんな気はしていたが、旦那はいい人らしい」
「む。どちらかというと、いい人の部類に入ると自負しておるが」
「うふふ……」
「妙な笑い方をする」
ちょっと嫌そうな顔をした五郎が、団子を口にはこんだ。
「ふふ、旦那はこちらのほうもお強いようだ……」
と霧雨屋が空想の剣で面を打つまねをしてみせた。
「うむ、わしに斬れぬものなどない。かもしれん」
「へっへえ」
おおげさに驚いてみせた商人の顔が、じんわりと人懐っこいものに変わった。
「私も若い頃に剣術をすこしかじりまして。いえ、スジのほうが悪く、さっぱり上達しなかったんですがね、目の方は鍛えられた。いわゆる見巧者というやつだ」
茶をすすって、ひと息いれる。
「その私の目をもってして見るに、旦那の身のこなしは、歩くだけにしても尋常でなかった。いや、たしかに、斬れないものはない、かもしれませんねえ。うふふ」
「冗談でいったわけではないぞ」
「そいつはもう」
五郎が、最後の団子を勢いよく口に放りこんで、湯のみの茶を一気に飲み干した。
「霧雨屋とやら」
「はい」
「物を売るのが目的ではないのなら、大事というのはなんだ? わしも急ぐ旅ではないが、団子がなくなっては茶屋に留まる意味がないのでな」
ちらりと霧雨屋の団子を見た。
「よければ私のぶんも召しあがってください」
「なに? それはすまぬな。では遠慮はせんぞ」
ためらいもなく人の団子をほうばって、にっかりと笑った。
「おい、爺さん。茶をもう一杯しょもうだ!」
へーい、と返事がした。
「ふ、ふふ。旦那、話っていうのは他でもない。ひとつ頼みを聞いておくれなせえ」
「もうせ」
「峠を越えるまでのあいだ、私を守っていただきたい」
「なに。ならば、わざわざ頼むまでもなかったぞ」
「といいますと?」
「宿からここまでの道中と変わらんということだ」
「すると?」
「うむ、旅は道連れ世は……なんとやら」
「ありがてえ……」
うつむいた霧雨屋が、小さな声でなにかいった。
「しかし、しかしだ旦那。ここからはこれまでとは訳が違うんだぜ」
「出るのか?」
といったのは、山賊の類のことである。
「ええ。たぶん物凄いのが」
「ふうむ……」
とあごに手をあてて何かを考えていた五郎が、はっとした。
「ならば、あの娘御ら、危ないのではないか!?」
急に大声をあげた。そうして、残りひとつになっていた団子を手に取ってきょろきょろとすると、あっけに取られる霧雨屋の開いた口に押し込んだ。
「親爺、銭はここにおいて行くぞ!」
と身支度もそこそこに駆けだしていった。
山間の谷底を蛇のようにうねりながら、峠道は上ってゆく。
両の斜面に乱立する木々は、新芽こそ吹いているものの、葉がないから寒々として見えた。
道は、ところどころで雪解けの水が筋を引いて流れているうえに、おおきな石のごろごろと転がった悪路だった。
足場の悪さに苦労しているのか、この男にしてはゆっくりと走っていた五郎がふと足を止めた。
くるりと身を返すとふたたび走りだす。
すぐに必死であとを追ってくる霧雨屋とでくわした。
「だ……だんな……だん」
と何かいいたそうなのが、息切れして声になっていない。
しっ、と五郎が口に人差し指をあてた。背中の荷を下ろしてしゃがみこむ霧雨屋のまえに立ちはだかり、風呂敷包みと笠などを地に投げ捨て、刀の鯉口を切った。
辺りはしんと静まりかえっている。
にわかに暗くなり、なまあたたかい風が吹きはじめた。
見上げれば、からりと晴れていた空いちめんに雲が立ち込めており、暗雲は大火の煙のように後から後からわきあがってくる。
きつい風がぴゅうぴゅう鳴らす木々のこずえの音に、妙な声が混じって聞こえた。それが甲高い笑い声だと気づいたとたん、耳をつんざくような音になって辺りにこだました。
どこから来るのか分からない笑いに、霧雨屋はしきりに首を動かしてまわりを見渡したが、声の主の姿は見えず、山道の左右にせまる急な斜面に、樹皮の黒っぽい木々が立っているばかりである。そのうちに木が化物に見えだして、霧雨屋は視線をまわすのを止めた。
背中を見せ目の前に立ちはだかる魂魄五郎は、前方を見据えたままでいる。
抜き払った刀を構えて微動だにしない。
ふいに頭上で、めきめきと木が折れる音がした。
はっと顔をあげた霧雨屋の目に飛びこんできたのは、大木のいただきを片手で持ち、小鳥が止まっただけで折れそうな細い枝に立つ、馬鹿みたいにおおきな猿だった。
「霧雨屋、動くなよ」
と五郎がいった。ちらりと顔をあげる。
「猿め、たいそうな殺気を放っておる」
「狒々(ひひ)だ。妖怪ですよ」
「妖怪。やはり……」
何かいいかけたのを飲みこんだ五郎が、来るぞ、と鋭くいった。
が、木のうえの狒々は動かない。
「な……?」
状況が飲みこめなくて、ぽかんとしてしまった霧雨屋の目の前で、五郎の身体が矢のように走りでた。つづけざま右へ左へとふらふらと揺れたように見えた。直後、そのかたわらの地面に、おおきな塊が、にぶい音をたててぶち当たった。
塊は、のたうつように軽くひと跳ねすると、地に転がる石くれをまきこみながら山道を滑ってきて、ねらったように霧雨屋のすぐ横に止まった。人型をしたそれは全身が毛むくじゃらで、とくに頭の毛が長い。手足が不恰好に細長く、すべてがいちいち間違った方向へ折れ曲がっていた。
狒々である。
死んでいるのか、気を失っただけなのか、ぴくりともしない。うつぶせの体のしたから、みるみる緋色の染みが広がってゆくのは、五郎に斬られたからだろう。
「上は囮だ。もう一匹くる」
背を向けたままの五郎が、すすっと退いてきた。
「……いや、逃げたか」
息をつくように言うと、涼しげな金属音を響かせて、刀を鞘におさめた。
あっけにとられる霧雨屋が見上げると、木のうえにはもう何もいなかった。
風が止み、にわかに雲が晴れる。
いまの騒動が嘘であるかのように鳥のさえずりが聞こえた。
身を返した五郎がしゃがみこんで、地に転がる狒々を鞘ごと抜いた刀のこじりで突いた。
それが、しつこく突くものだから、柄の先端に付けられた白い房が馬の尾のように揺れている。それだけやられて、やっぱり大猿じみた妖怪は微動だにしない。ややあって、納得したらしい五郎が霧雨屋に声を投げた。
「“出る”というのは、かようなモノたちのことであったか」
「ええ。しかし、魂魄の旦那が急に駆けていくから、説明するひまもなかった」
「さよう。あの娘御らのことで慌てておったからな」
と立ちあがって、刀を帯に差すと、道の行く手をながめやった。
「娘たち、無事であるだろうか。妖怪どもにさらわれでもしてないか……」
ぶつぶつと言うのを尻目に、霧雨屋は背負ってきた荷物を前に、なにやらごそごそとやっている。やがて行李(こうり)のなかから取り出したのは、両手のなかに収まるような、ちいさい壷だった。
「のう霧雨屋?」
呼びかける五郎の声には耳も貸さないで、懐から匕首(あいくち)をすっと抜き出した。
「なにをしておる?」
との問いかけには、へへへと、笑うだけである。
すらりと匕首を抜くと、手馴れた手つきで狒々の首筋を切り裂いた。その傷口に刃をあて、伝い出る血を壷に注ぎこむ。
「こいつの血は、いい染料になるらしいんですよ。それに薬にもなるとか」
「ほう」
「こういう珍しい材料を良い値で買ってくれる薬売りがいるんです。それが、ちょいとこう、可愛らしいのだが、やけに商売上手で……」
といいかけて、こんな話はいいかと口をつぐんだ。
「なるほど。おぬしも、転んでただでは起きんな」
「私は、あきんどですぜ」
栓をした壷に油紙で厳重に封をした霧雨屋が、得意なようすで破顔した。
「そうそう、あの茶屋のまえにいた娘のことで言い忘れていたことがありました」
てきぱきと荷をまとめながら切りだす。
「あの姉妹、城下でも有名な幽霊姉妹なんですよ」
「なに」
とたんに、五郎が目に見えて動揺した。先ほど地に投げ捨てた風呂敷包みを視線でなぞって、念入りに改めている。霧雨屋はうつむいていたから、これを見ていなかったが、動揺の気配のほうは察したらしい。
「おおっ、やはり驚かしちまいましたか。旦那はそっち関係は苦手で?」
「ん、うむ。あ、いや、そんなことはないぞ」
と、さりげなく風呂敷包みを拾いあげてつづけた。
「しかし、昼日中に団子を食べにくる幽霊か。それで夜には柳の下ではいそがしくて仕方なかろう」
「いいや、昼にしかでませんよ。いまのご城下は夜が物騒ですからね」
と霧雨屋は変なことをいったが、
「む? なるほど」
五郎はとても納得したように相づちをうってみせた。どうも考えごとをしていて、上の空であるらしい。
「私の店にも、姉妹のうちの妹らしいのが一度買い物に来たのだが、あとになってそれと気づくほど……どうかしました?」
「いや」
と答えて、五郎はなおもしばらく思案をつづけている。
いや、ともう一度いった。
「おぬしは、物凄い奴がでるというておったが、大した事もなかったと思うてな」
来し方を見て、行く手をみやった。
「ああ、そっちか。そうですね、運がよかった」
といった霧雨屋が、荷物を背負い立ちあがった。落ち着きなくあたりに目を配ると、どこに持っていたのか菅笠をとりだして目深にかぶった。
「そろそろ、いきませんか」
といった。
関所を過ぎると、すぐに峠を示す祠に行き当たった。
そこから下りはじめた道をしばらく行ったところで、急に左手の視界が開けた。
望まれる見晴らしに、五郎はおもわず足を止めた。
「なんと見事な」
ため息を漏らし、それきり景色に見入ってしまった。
山々に囲まれた狭い平地に、京を模したような整然たる町並みが窮屈そうに収まっている。城は手前の山影に隠れているのか見当たらなかったが、あれこそ霧雨屋の言う城下町であろう。瓦ぶきの黒い屋根の並ぶあいだに、ところどころ桜色のかすみがかかっているのが、なんとも風雅なものだった。
が、それよりも五郎の目と心を奪ったのは、町の背後にそびえる雄大な山である。
町よりもずいぶん遠いらしいのに、どうかするとすぐ近くにあるように見える。それほどに大きい。
青い山の麓から立ち上る白い霧が、風に頂をちぎられちぎられしながらも上昇を止めないで、右手から左へと流れている。稜線はおおむねなだらかであるけれど、どちらかというと左手から山頂へ向かうほうが登るのに苦労しそうであった。
なんの気負いもなしに、頭が天の遥か高みまで達している。
山頂に雪をのせたその姿は、
「まるで富士山……」
だった。これほどのものを、今まで噂にも聞かなかったことを不思議に思う。
「ふふ」
霧雨屋が、菅笠のふちを持ちあげた。
「まさに、ここらじゃあ北の富士と呼ばれてますよ」
得意げな声でいった。
「ただしくは容魁山(ようかいざん)ですがね」
と付け加え、しばらく同じように山を眺めていたが、ふと疲れたような息をした。
「旦那、もう少し先に座るのに手ごろな石っころが並べてあるんですよ」
「ふぅむ……」
「そこで景色を眺めながら、弁当を使いましょうぜ。もう昼どきもとっくに過ぎた。団子だけでは、ご城下まで持ちやしません」
「おう」
と答えた五郎の動きは素早かった。すたすたと歩いていって、霧雨屋が足を踏み出したときには、もう平べったい石に腰を落ち着けている。脇目もふらずに振り分けの荷物を開いて、竹皮の包みを取りだすと、包みを解くがはやいか握り飯にかぶりついた。
「しかし、北の富士も立派でよいが、手前の低い山も神社なんぞを戴いて味なものだ」
と五郎が、米でいっぱいになった口を、もごもごと動かした。
「博麗様ですか。飲んだくれの神主と暴れ巫女で喧嘩ばかりしている、人が寄り付かない神社ですよ」
「ほう、なんだか面白そうな話だな」
「面白いもんですか。あいつらのせいで、こっちはとんでもない目にあってるんだ」
吐き捨てるように言う。
「ふむ」
とふりむいた五郎の視線が、霧雨屋の豪勢な弁当に釘付けとなりかけて、その横顔へ流れた。そして、背後へと走った。
商人のおおきな荷物が、でんと置いてある。
その少し上のなんにもないところに、得体の知れない黒い裂け目が横むきに口を開けていた。
なかから白いものが垂れ下がっている。
何かと思いよく見れば、女らしい白い手だった。
五郎は、口に残っていた米を音をたてて飲み込んだ。
白い手が、だんだんと伸び出てきて、音もさせずに荷物をまさぐりはじめたのが妙に艶めいていたが、かぶさっている布を取り払おうとしているらしい。
ゆっくりとした動作で、五郎は食べさしの握り飯を置いた。
石に立て掛けてあった刀を手に取った。
それに気がついた霧雨屋が、おどろいて五郎を凝視する。
「霧雨屋。“出た”ぞ」
「えっ?」
「前に飛べ。くれぐれも弁当は落とすなよ」
すこし目を離したすきに、白い手は布をすっかりどかせてしまい、行李のふたに手をかけようとしている。刹那、
「飛べ!」
叫んだ五郎が、立ちあがりざま、すらりと刀を抜いた。
「ひっ」
飛べと言われて、とっさに飛べるものではない。霧雨屋は、中腰で前によろよろと歩みでた。
それを認めた五郎が、おおきく踏みこんで横一文字に刀を払った。
「ぬ」
存外に重い、いや重すぎる手応えに崩れかけた姿勢をなんとか立てなおし、刀を振りぬいた五郎の目の前で、白い手が撥ね飛んだ。
斬り落とされた手が、宙を走って霧雨屋の背中にどんとぶつかる。一瞬張りついて、背中を撫でるようにずり落ちた。
「ひいいっ」
驚いた霧雨屋がつまずいて、つんのめって地に伏した。
そのかたわらに、ころりと白い手が転がった。
手首から先を失った腕のほうは、血を流すこともなく、斬られるとすぐに黒い裂け目に引っ込んでしまったが、裂け目もすでにかき消すように消失している。
身構えたまましばらく動かなかった五郎が、あたりを見まわすと気をゆるめて刀を鞘に収めた。
「あのような裂け目から自在に現れ消える妖怪か……油断も隙もないな」
とふりかえったのが、
「おのれ……」
と恨みがましい声をだしたのは、弁当が地面にぶちまけられているのを見たからだった。
霧雨屋が地面を這いながらだんだんと身体を起こし、そのまま立ちあがったが、なんだかへっぴり腰になっている。
「まったく……死ぬかと思いましたぜ」
しきりに背中をさすった。
「おおげさなことをもうすな」
と側に歩み寄った五郎が、足下に落ちている白い手を拾いあげた。こちらも血を流しておらず、斬り口が他の部分とおなじような皮膚に覆われている。それにしても、妖怪のものとはおもえぬ、滑らかな肌をした美しい手だった。どういう意味があるのか、親指の付け根と小指の先に、赤い布を細長くしたものが結びつけてある。
それを何気なく見た霧雨屋が目を見開いた。
「これは……」
というと、五郎から妖怪の手をもぎ取った。
「まさか、いや、間違いねえ」
「どうした」
「いえ、旦那がこれをお斬りなさったので」
「さよう」
「なるほど、いや、いくら旦那でも……」
ここで言葉を切って、斬れるような相手ではねえはずだが、とささやくような声でいった。
「旦那」
「ん?」
「私がこれを持っていっても構いませんか」
「構うも構わないも、わしはそのようなものいらんぞ。おぬしの好きにすればよい」
霧雨屋は、片手で拝むようなことをして、ぺこりと頭を下げた。
「そのようなものも商売の足しになるのか」
五郎は、もとの石に腰掛けて、握り飯を頬張りながらいった。
「まあ、そんなところです」
霧雨屋のほうは、荷物をまえに座りこんで中をごそごそとやっている。
桐の箱を手にとると、蓋を開けて巻物を取りだして無造作に懐に押しこんだ。空になった箱に妖怪の手を入れると、なるほど大きさがぴったりである。霧雨屋は桐の箱にお札を貼り封印したが、その札に書いてあった文字を五郎が、目ざとく読みとった。
「博麗か」
「ええ、ろくでもねえ神社だが、退魔に関してだけは、一流なんですよ」
と苦く笑う。
箱を袱紗(ふくさ)に包むと、丁重に行李に収めた。
「ふむ」
五郎が、山の神社を見やった。
町のうえを飛ぶトビが、春の陽射しをあびながら良い声で鳴いている。
「しかし、弁当は惜しいことをしたな」
と思いだしたようにいった。
豪華なおかずを分けてもらう気まんまんだったので、ほんとうに口惜しかったのである。
峠を越えてからこちらは、坂のきついところが石の階段になっている行き届いた道だった。はじめこそ急な坂が続いたけれど、やがてゆるやかになって細々と林のなかに続いた。
そんな道を、だいぶん長いこと歩いてきた。
杉の古木のあいだを通る道は昼間から薄暗かったが、先程から辺りが一段と暗くなったようである。
宵の口にはまだ間があるはずなのに、頭上の枝葉の合間に見える細長い空が透き通ってきている。どうやら、もう暮れ始めているらしい。そう考えてみると、急に空気が冷えびえとして感じられた。山のなかにいる寂しさが直接肌に触れてくるようだった。
「旦那ちょっと」
と足を止めた霧雨屋が、気の早いことに提灯をとりだして火を入れた。
「もうじきこの林を抜けますよ。そうすればご城下まで目と鼻の先だ。ほんと、もうすぐですよ」
荷物をひと揺すりして歩きはじめる。そういえば、と切りだした。
「旦那はしばらくご滞在で?」
「さよう。そうしようかと思うておる」
「おお、そいつはなによりだ。容魁山東にようこそってね」
「なに?」
「やはり、あれですか。剣術の腕を頼りに妖怪退……」
「ちょっと待ってくれ」
五郎の足が止まった。数歩先へ進んだ霧雨屋が、どうしました、と立ち止まり半身にふりかえった。
「この先は保科様の城下ではないのか? なんとか東など聞いたこともないぞ」
「いや、間違いなく容魁山東ですよ。将軍様が直々にお治めになる」
「なんと……道を間違うた。いや、しかしどこで……?」
と辿り来た道をかえりみて、じっとしている。
「旦那、だんな、魂魄さん、もう日も暮れちまうんだ、いまから引き返すなんて法はない。町はいま夜が物騒だが、家のなかなら安全ですよ。峠道よりよっぽどいい。とにかく今日はこっちで泊まって、これからのことを考えてみてはどうです?」
五郎は考えこんだまま何も言わない。
「旦那?」
「む、そうだな。……ときに霧雨屋」
「はい」
「おぬし、後ろに尻尾なんぞ隠しておらんだろうな。腹鼓を打ったり、油揚げを盗んだりはせんか」
五郎の顔が笑っている。
「馬鹿いっちゃあいけません」
霧雨屋は、ほっとした様子でいった。
ふたりは黙々と林のなかを行く。
やがて、ぽっかりと開けた場所へとさしかかった。
方形に地面が綺麗にならされて、ふるいにかけられた細かい土が敷き詰められている。幅は十間(約18m)、奥行きは五十間(約90m)は下らないだろう。
「おー、もうここまで来たか」
と霧雨屋が、声をあげた。
「いえね、ご城下が手狭になったってんで、町なかの馬場が取り潰しになるんですよ。それでここに新しいのを造っているというわけ。ここまで来れば、ほんとうに目と鼻の先だ」
「なるほど」
広場の端には、切り倒した木を積み上げたのや切り株があり、土地を広げようとしている様子がみてとれる。やわらかな土のうえへ踏みだした五郎が、数歩すすんで足を止めた。
足下を照らすようにしながら、ぴったりと着いて来ていた霧雨屋が、ぶつかりそうになって驚いた声をあげた。
「どうしました?」
緊張を隠せない声音で尋ねる。
「む……」
と五郎が何か言いかけたところ、それを遮るように異変が起こった。
空から何かが降ってきて、馬場の中程に落ちて乾いた土をまきあげた。
馬場のなかは、林道に比べるとまだずいぶん明るいから、すぐにそれが狒々(ひひ)であることがわかった。
「またでやがった」
と霧雨屋がいったが、なんだか狒々の様子がおかしい。
飛んできて着地したというよりは、墜落して地面に激突したといったほうが正しいようである。
落ちた狒々はうつぶせで張りついたようになったまま動かない。
その背中に、巨大な物体がものすごい音をたててぶち当たった。ゆうに十三尺(約4m)はあろうかという熊である。それが、逆さまに落ちてきて、横たわる大猿の胴を頭で押し潰して地面に斜めに突き立った。潰された狒々の顔から何か飛び出したが判然としない。
「お、鬼熊か? なんだってんだ一体」
霧雨屋の声が震えている。
五郎が無言で鯉口を切った。ふと、ものの気配を感じて顔をあげると、天から数え切れないほどの塊が降ってきていた。
塊は、これすべて毛皮につつまれた獣たちである。
犬、猫、狐に狸、熊、兎などに混ざって毛のない蝦蟇や蛇までいる。
ことごとくが、狒々と鬼熊のある所めがけて、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなくぶつかってゆく。
無数の馬が駆けまわっているような音があたりに轟きわたり地響きがして、皮膚がぴりぴりと波打つようだった。
毛の塊が降り積もるにしたがって轟音は小さくなり、かわりに生肉を硬いものに叩きつける音が大きくなった。地面に黒ずんだ染みがみるみる広がって、生臭い臭気が鼻をついた。
やがて、獣の雨が止んだ。
あたりがしんとする。
動物たちが潰れて重なりあった山は、見上げるほどに高かった。
てらてらした表面に、犬の足がひょっこりと突き出ているのが滑稽でむごたらしい。ところどころに白い物が見えるのは、やはり骨だろうか。ときおり一部が陥没して生卵が潰れる音がした。
五郎は、空を見あげた。
獣たちを降らせた張本人がやってくるのではないかと目をこらしたが、そのようなものは影も形もない。手に下げている風呂敷包みの結び目を片手でゆるめようとしているのは、無意識の行動だった。
「旦那」
地に落ちている五郎の荷物を拾いあつめた霧雨屋が、
「何か来るまえにとっとと行きましょうぜ。妖怪は町には入って来られないようになっているんで」
そういって馬場のぎりぎり端を伝うようにして歩きだした。
そのとき。
泥田から足を引き抜くときの嫌な音をさせて、肉の山から丸太のごとく太い腕が突き出した。
腕は虎のそれである。が、皮膚がずる剥けになっており、血まみれで赤い。先端の真っ赤な曲がり爪が、霧雨屋に向かって突きつけられていた。
「林に入り身を守れ!」
刀を抜き払った五郎が声を飛ばした。足がすくんだようになっていた霧雨屋が、息を飲みこんで木々のあいだに飛び込んで行った。
「む」
いつの間にか肉山の中ほどが盛り上がっている。よく見ると、丸太の腕にみあった巨大な獣の鼻面だった。鼻の穴が息をする。空気を吸い込んで、かわりに瘴気のような怪しいもやを吐きだした。
そうするうちに、ずるずると音をたてながら鼻面がせり出してきて、現れたのは神社の狛犬に似た獣の頭だった。やはり皮膚がない。
獣の頭は、すじばったのどを見せ天を仰ぐと、真正面に向き直り異様な臭気を放つ暗い空気を口からあふれさせた。軽く吼えたのが、遠い雷鳴をおもわせた。
眼窩に白の碁石がはまったような目でもって、五郎を見ながら鼻をひくつかせている。不意にぐるりと横を向いて、林の一点を睨めつけた。
「きりさめやあ、にげられんぞお」
と腹の底に響く低い声でいった。
林のなかでがさりと音がして、しんとしたとおもったら、肉山のほうで例の嫌な音がした。もう一方の前足が生えている。獣の二本の腕が、地面に敷かれた布を手繰り寄せるように動きはじめ、それにつれてだんだんと皮膚のない胴体が出てくる。やがて全身があらわになった。
とてつもなく巨大な獅子に見える。
全身が赤剥けで、血が滴っている。
それが犬のように体を震わせると、瞬きする間に赤い毛皮に覆われていた。炎のような尾が逆立って揺らめいている。
四つ足で立っているのに、十三尺の鬼熊より背が高い。
前足の太さが、人間の胴にして三人前という、とんでもない奴だった。
「なんてえ妖獣だ。こんなの……聞いたこともねえ」
林のなかから、霧雨屋の泣きそうな声が聞こえた。
五郎は、黙してたじろかない。
ぽーんと、風呂敷包みを真上に放り、落ちてきたそれの結び目をすっぱりと斬り落とした。折りからの風が風呂敷を吹き飛ばし、なかの黒い布をも払いのけた。現れたのは大ぶりの幽霊である。幽霊が、羽衣のように五郎の身にまとわりついた。
にわかに淡く光りはじめた刀を一振りして身構えた五郎が、赤い妖獣に切っ先を突きつけた。
「全力で参る。わしを人とは思わぬほうがいいぞ」
それを横目で見た赤い奴が、鼻を鳴らした。
悠然と身を返すと、肉の山の残りカスを、むさぼり食いはじめた。
「不敵な奴め……」
大胆に隙を見せる相手に裏があるようにおもえて、五郎は斬りこめない。ふと林のなかに目をやると、霧雨屋が地面に下ろした荷物に隠れるようにして震えている。提灯を消していないものだから、まわりから浮きあがって見えた。
五郎はすっと動いて、霧雨屋と敵のあいだに陣取った。
あっという間に肉をたいらげた妖獣が、ゆっくりとふたりに向き直った。
「たらん、たらんなあ」
と舌なめずりをして、赤く染まったよだれを口の端からこぼした。
「たしにもならんがあ、おまえらあ、くうか」
と人の目線まで頭を下げ、ぎろりと目を光らせた。
「させぬ」
「いいや、くう」
「参る」
といった五郎が、消えた。
直後、赤い妖獣に向かって右、獰猛な顔のすぐ横に立っている。
ひらりと舞うように体(たい)を回した。
瞬間、その姿が妖獣の左側にある。
――人智剣「天女返し」
血飛沫をあげて赤獅子の右側の腕が撥ね飛んだ。痛みのせいか巨大な獅子は、顔をあげ咆哮をあげている。その身が、ぐらりと傾いた。
間髪入れず体を相手に向けた五郎が、刀を大上段に構えたとみるや大顎の下を走り抜けた。
――妄執剣「修羅の血」
椿の花のように赤獅子の首が落ちた。
勢いのあまり地を滑る五郎が、土煙をあげながら反転した。とおもうやまたも姿が消える。気づけば、もとの位置に立っていた。
全身が汗にまみれている。
刀を払って血糊を飛ばすと、林のなかの商人に向かって身を返した。
「霧雨屋、終わったぞ」
「いや、まだ。旦那、うしろ!」
「なに?」
とふり向きかけた五郎の身体が、いきなりねじれて横倒しになった。
柔い土を打つ重い音と共に、土煙が舞い上がる。
五郎がねじれたまま二転三転と転がった。
薄れゆく土埃のむこうに赤獅子が立っていた。頭がない。首の切り口から血がとめどなく溢れ、滝のように流れ落ちている。斬られたほうの腕は再生していたが、形が不恰好で皮がずる剥けだった。もういっぽうの腕が、横になぎ払ったかたちのままで宙に留まっている。
五郎はうつぶせに倒れて、ぴくりともしない。
「ざまあねえなあ」
と天地を逆さまにして向こうに転がっている赤獅子の頭がいった。
その目がふと閉じた。
同時に胴体の、あるべきところに頭が生えた。が、なんだか厚みが足りないようで平べったくてみっともない。毛皮の剥がれた異様な面が畜生のくせにニヤリと笑った。
そろりと歩みでた赤獅子が、五郎のすぐそばまで来ると、いきなりその頭を踏みにじった。そのまま、滅多打ちに殴りはじめる。ところかまわず殴打するのが爪をしまっているのは、猫がするように獲物をいたぶっているのである。
柔らかい土のうえであるから、だんだん五郎の身体が沈んでいく。
そのうちに、赤獅子が熊のように後ろ足で立ち上がった。そうして、右腕に全体重を乗せて振り下ろした。重い音がして、踏みつけにされた五郎の背中が仰け反った。拍子にくるりと土のなかで半回転して、横向けに埋まるかたちになった。半分だけ露出した顔の、鼻からしたが赤く染まっていた。
「こりゃあ、しんだなあ」
と満足そうにいった赤獅子が、林のなかに顔をむけた。
「きりさめやあ、にげるなよ。よけいなてま、かけさせるなよお」
くるりと背をむけて、斬り落とされた頭の所までゆくと、地に転がる頭をぼりぼりとむさぼりはじめた。が、顔が変形しているせいか、なかなかうまく食えないらしい。
それを見て霧雨屋が、おもわずえずいた。気をとりなおして、
「旦那、旦那」
と呼びかけた。
が、返事がない。
しかし、答えるように刀を持った手が動いた。
横むきに倒れているのが刀の切っ先で地面をしゃくるようにして、反動で仰向けになった。身体が、まだ少し埋まっているが、口は塞がっていない。ぶはっ、と口腔の泥を吐き出した。
「霧雨屋……」
「旦那、無事でよかった」
「いや、無事ではないぞ……わしでは奴に勝てん。斬って倒せぬでは、いかにもしようがない」
纏わりついた土を散らしながらよろよろと身を起こした五郎が、立ちあがろうとして立てず、膝をついた。そのまま横向けに倒れかけたが、刀を地に差して踏みとどまる。袖で口元をぬぐった。
「霧雨屋、にげよ。このようなていたらくでも、しばしのあいだなら奴めを引き止めておけよう」
背中のほうにいる霧雨屋にむけて言う。
「しかし……」
「にげよ。ぐずぐずしていると機会を失うぞ」
「だ、旦那。私に……」
と霧雨屋が何か言いかけるのを遮るように、低い声が辺りに響いた。
「なんだあ、おまええ、いきてたかあ」
見れば、斬られた腕も頭もすっかり元通りになった赤獅子である。
「あいにくと、人より頑丈にできているものでな」
ふん、と赤い妖獣が鼻を鳴らした。
「なんだろうと、はらにはいればおんなじよお」
十間(約18m)ほど向こうにいるのが、悠然と足を踏みだした。
赤獅子と五郎のあいだにおおきな血溜まりが出来ている。これは、さきほど赤獅子が首からあふれさせていた血だが、地面の傾斜の関係で向こう側におおきく広がったのである。
そのなかほどに、いつのまにか五郎の半身である幽霊が、身をまるめて浸かっていた。
――天星剣
だしぬけに半霊が輝きを放った。
一瞬で血の海が凍りつく。
鞘に刀を収めた五郎が、片膝をついたなりで居合の構えをとった。
「ぐっ」
と苦悶を押し殺して、逆袈裟に抜き打った。
ぴゅんと刃が虚空を断ち割って、太刀風が起こる。
するどい風が、衝撃波となって凍った血のうえをかすめて吹きぬけた。血の氷が砕け、散りぢりになって舞いあがり、不意に飛びあがった半霊が螺旋を描いて上昇するのにまきこまれて、空に昇って行った。
刹那の、静寂があった。
「なんのお、こざいくだあ?」
赤獅子が面白がって馬鹿にしたようにいう。
なんの警戒もせずに近づいて来る。
その鼻先をかすめて赤い欠片がふわりと舞った。
――「涅槃寂静の如し」
暮れかかった天から、赤い雪がふわりふわりと降ってくる。薄闇の中、ほんのり光っているのは、霊的な力がこめられているからだった。
赤いひとひらが赤獅子の腕に触れた。いましも次の一歩を踏み出しかけていた腕が、びくりとして固まった。
「なんだあ?」
と硬直した腕に向けようとした顔が、またも中途半端なところで不意に止まった。ぎろりと横にうごいた碁石の目が五郎を射た。
「その雪には触れた者の身をごく短時間、金縛りにする霊力がこめられておる。悪いが、しばしおまえの動きを封じさせてもうぞ。嫌なら雪に触れぬことだ。が、おまえには叶わぬことだろう」
五郎がご丁寧に説明したのは言霊により雪の効力が高まると思ったからである。
いまや赤獅子の全身は、ふりしきる雪のなかにあった。
「こしゃくなあ」
と赤獅子は足を踏みだそうとしたが、やはりぴくりとしただけで止まってしまう。
しゃにむに動こうとするのが、あちらこちらから飛んでくる雪にはばまれ、ほとんど動けていない。傍目には痙攣しているように見える。
「よし……」
かすかに頷いた五郎の手から刀が落ちた。
ぐらりと身体が傾く。
「霧雨屋……今のうちに、うまく逃げのびてくれればよいが……」
つぶやきながら倒れてゆく。
その身をふわりと抱きとめた力強い腕があった。
「旦那、眠るにはまだ早い時間ですぜ」
霧雨屋である。
いい男が顔を青くしながら、目にちからをこめて懸命に赤獅子を見ている。
「おぬし、何故逃げぬ」
苦痛に顔をゆがめながら五郎が、声をしぼりだした。
「へっへへ、お武家さまには失礼かもしれないが、私はね……」
口もとがほろ苦く笑う。
「私は、あなたと友……いや、旦那とは昔からの友達みたいな気が、ちがう、もはや私にとって旦那は大事な友人だ。友達を置いてひとりで逃げるなんて私にはできませんや」
五郎を抱える腕にちからがこもる。
「……馬鹿もの。死んでは友もなにもないであろう」
「死にやしませんよ」
といった霧雨屋が、着物の袖をまくった腕を、いまだ動けぬ赤獅子に突きつけた。
その手には、何やら八角形の平たい物が、掌に重ねるようにして握られている。
「旦那。あなたのおかげで魔法を準備する時間が稼げました」
といった直後、霧雨屋の突きだされた手から、圧倒的な光が音をたてて激流のようにほとばしった。白い光が赤い妖獣を丸ごと呑みこんで蒸発させる。
そして、どこまでも真っ直ぐに突き進んでいった。
暮れ残る空のした、漠と広がる暗い野に、乾いた道ばかりが白っぽく浮きあがっていた。細い道が、ちっとも曲がることなく野にのびている。
寄り添って歩む、ふたつの影があった。
霧雨屋政とその肩にぶらさがるようにしながら足を引きずる魂魄五郎である。
霧雨屋は、あの大きな荷物を置いてきたらしく、かわりに風呂敷包みが肩から斜めに掛けられている。
提灯はない。が、五郎の半身である幽霊が、ぼんやりと行く手を照らしていた。
「おおっ」
ふいに霧雨屋が声をあげ立ち止まった。五郎の膝がくだけて、身体が沈んだからだった。
脇に回していた手で、五郎の身を揺するようにして引き上げた霧雨屋が励ますようにいう。
「町の入り口にある木戸の傍に番所があります。そこまでたどり着けばもう大丈夫ですよ。人を出してもらって、私の店まで送ってもらいましょうぜ」
五郎はうなだれたまま動かず、息をしているようにも見えない。
「旦那……しっかりしてください!」
「……」
かすかに五郎が頷いたようだった。
その足が力強く地を踏みしめた。それは、これから五郎が、そして霧雨屋が歩んで行く苦難の道のはじまりの一歩でもあった。
「行きましょう」
と霧雨屋がいった。
行く手に町の灯が瞬いている。
それは、数日あとなのか、それとも何年か後の事なのか判然としない。
どこでの出来事かも知れない。
が、そこに五郎と桜色をした髪の娘がいることだけは確かだった。
「名を、聞かせては下さらんか」
五郎はいった。
娘が答えたのへ、よい名だ、と感心してみせる。
「それで、あなたのお名前は?」
と今度は娘が問うた。
「や、これは失礼した。拙者、魂魄五郎と申す」
「そうじゃないの」
開いた扇で口もとを隠し娘が笑う。
「私は、冥界の者。あの世での名前を聞かせてくれないと」
武士は死後の名前を持っている。すなわち諱(いみな)である。娘はそれを問うていた。
「しからば、改めて」
生前に諱を知られることは不吉とされ、主人にすら隠すべきものなのだが、五郎には何のためらいもなかった。
「拙者、魂魄五郎妖忌と申す。さよう、魂魄妖忌にござる」
いや言われずともそれで見てたけれども
叶うなら、この2人がどういう風に子孫?達に繋がっていくかの物語も読んでみたかったです。