冬の夜。浴場の更衣室から廊下に出ると、途端に冷たい空気が体を包み込む。
肌触りの良いゆったりとしたネグリジェの上から、暖かいストールを羽織った。
体が冷える前に、部屋に戻ろうか、それとも……としばし逡巡する。
けれど、逡巡し始めたときには答えはすでに決まっていて、私はただ悩むふりをしただけだった。
悩むふりをすることで、自分の出した答えを擁護しようとしただけだった。
真っ直ぐに部屋には戻らず、美鈴の部屋へ向かった。と言っても訪ねるわけではない。
廊下を通り過ぎて、そのまま真っ直ぐ自分の部屋へ戻るだけだ。
ただそれだけの、自己満足の行為だけれど、この部屋の中に美鈴がいる、と思うだけで心が満たされる。
薄い扉を一枚挟んだ向こう側に、確かに存在するという幸福を、心に刻みつける。
それは決して『当たり前』という言葉に、安易にくくってしまってはいけないものだ。
同じ時を、同じ場所で過ごすということの貴さを、私はよく知っている。
時は、すべてを緩やかに消し去るものだから。消えたものは、もう二度とは戻らないから。
だから、私は美鈴の存在を確かめて、存在しているという現実に安堵し、幸福に浸りたいのだ。
……まぁ、ほんの少しだけ欲を言えば、何かの弾みで部屋に入れてもらえたら嬉しいのだけど。
美鈴に、純粋な想いだけを寄せられたら良いのに、邪まな想いも同時に抱いてしまう。
あの長く艶やかな紅い髪に、エメラルドのような緑色の、ぱっちりとした目。
細い首筋に、豊かな胸。細い腰。すらりと伸びた手足。女としての魅力を十分に備えているその体。
シックな色合いのドレスを上品に着こなせば、目を奪われるほど美しくなるだろう。
けれど実際は、表情豊かで純朴で、紅魔館の庭の手入れをせっせと行う庭師兼門番。
使役する側ではなく、使役される側。加えて私のほうが、彼女より立場が上だ。
そんな見た目とのアンバランスな具合が、私に邪まな想いを抱かせる。
純粋な好意だけを寄せられたら良いのに……。
そんな殊勝な思いは、美鈴の姿を見つけた途端に吹き飛んだ。
淡く月の光が降り注ぐ冷たい廊下で、美鈴が一人踊っている。
いつもの奇妙な踊り――太極拳という拳法らしいが――ではなく、自由で躍動的な踊りだ。
柔らかく裾が広がる白いワンピースを着て、髪をなびかせ、裸足のまま踊る姿に目を奪われる。引き寄せられる。
近付いて判然とした顔は上気していて、目は恍惚に潤んでおり、背筋にぞくりとしたものが走った。
けれど、目が釘付けになる一方で、同じくらいの危機感も襲ってきた。
この踊りは、あまりにも現実味がなさすぎる。幻想的でこの世のものとは思えない。
早く捕まえておかないと、どこかへ行ってしまうかもしれない、そんな恐怖が襲ってきた。
表情を引き締めて、一歩一歩近付く。獲物を狙う獣のように、注意深くゆっくりと。
お伽話の、天女や月の姫に焦がれた男たちも、ひょっとしたら同じような焦燥感に襲われたのかもしれない。
どんなに恋焦がれても、他の世界へ行ってしまったら、もうどうすることも出来ないから……。
「何か、ご用ですか?」
「別に用ってほどでもないんだけど」
唐突に声をかけられて、普段どおりの声を出せた自分を褒めてやりたい。
焦りを悟られないように、壁にもたれて、腕を組んだ。
少し心を落ち着けてから、窓にうっすらと映っている美鈴を、気付かれないようにそっと見つめた。
どこでそんな踊りを身に着けたんだろう。誰かに教わったんだろうか。
教わったとしたら、それはいつ? 最近、それとも昔? 最近なら、今も教わっているの? 一体、誰に?
じりじりとした嫉妬の炎が揺らめく。思わず問いつめたくなるのを堪えて、短く息をついた。
今は嫉妬に駆られている場合じゃない。美鈴を捕らえなければならない。
美鈴が美鈴の世界へ行ってしまう前に、この世界に引きずりおろさなければ。
ふわふわと揺れる軽やかな天女の衣を奪って、引き裂いてしまわなければならない。
この世界に縛りつけてしまえば、後はもう、こっちのものだ。
壁から背を離して美鈴を見つめると、ちらりと目が合った。
「何ですか?」
「ねぇ、貴女はどこへ行こうとしているの?」
「え?」
「この空の向こう側にでも行くつもり? そうやって踊りながら」
「……」
「今の貴女には、現実感がまるでない。空想の世界にでも行くつもりなの? でも残念ながら、貴女はそこへ行けないわ。肉体が存在するかぎり。……いえ、魂だけになったとしても」
途端に美鈴の足が止まり、みるみるうちに表情が曇っていく。
眉を寄せて、何かに耐えるように唇を引き結び、柔らかなスカートをきつく掴んだ。
どうやら私の言葉は相当な威力を発揮したらしい。
恍惚に潤んでいた瞳は、今は悔しさに歪んでいる。悪くない。
「咲夜さん、酷いです……。他人のささやかな夢を壊すなんて……」
「悪いわね。けど、貴女が夢見心地じゃ困るのよ。現実を見てもらわないと」
「え……?」
貴女の空想の世界に、私は手を出すことは出来ないから。
夢見ることが好きな貴女は、きっと素敵な貴女だけの世界を持っているんでしょう。
そこにはこの世の汚れなんてまったくなくて、綺麗な生き物たちが住む楽園なんでしょう。
貴女を傷つける者は誰もいない、平和で、穏やかな世界。貴女のスペルカードのような、色鮮やかな世界。
そこにいれば、貴女は満ち足りて、幸せに過ごせるんでしょう。……でも、それじゃ困るのよ。
貴女に私のことを見てもらうには、嫌がおうにもこの世界を直視させないといけない。
この世界で、私のことをしっかり認識してもらわないといけない。
心元なさげに揺れる美鈴の瞳をまっすぐ見据えながら、一歩一歩近づいて、抱きしめた。
そうっと、蝶や蜻蛉を掴み取るように、慎重に。
「やめてください。……汗かいてますから」
「別に構わないわよ」
「どうしてですか? どうしてそんな、こんなこと……」
「今は分からなくても良いのよ」
「わけが分かりません……」
「それで良いのよ」
弱々しく身じろぎ、戸惑いの声を上げるのを言葉で制しながら抱きしめていると、ほどなくおとなしくなった。
体から力が抜けて、もたれかかってくる。高めの体温を感じて、ようやくほっと胸を撫で下ろした。
ここにいる。美鈴はここにいる。この世界の、小さな私の腕の中に。
美鈴の柔らかな体の感触を確かめていると、抱き寄せた体がふるりと揺れた。
「咲夜さん……寒いです」
「冷えてきた? じゃあ私の部屋で温かい紅茶でも淹れてあげるわ」
「嫌です。シャワーが浴びたいです」
「仕方ないわね。じゃあその後いらっしゃい」
「お断りします。明日も早いので、すぐに寝ます」
「じゃあ、このまま風邪引くのと、どっちが良い?」
「う、……うかがいます」
「賢明な判断ね」
「はぁ……」
観念したように美鈴がため息をつく。
そう、観念なさい。この世界では、貴女よりも私のほうが有利なの。
貴女みたいに夢見心地にふわふわ漂っていないから。地に足をつけている分、私のほうが強い。
この世界まで落ちてしまったら、貴女に逃れる術はないのよ。
この世界の空間と時を上手に扱う術を、私はよく心得ているのだから。
「さぁ、行ってきなさい。美味しい紅茶を淹れて待ってるわ」
「はい。……期待して良いですか?」
「えぇ、期待してて」
力強く、自身ありげに笑うと、美鈴の表情が緩んだ。そう。それで良いのよ。
この世界だって捨てたものじゃないってことを、私が教えてあげる。
この世界にも暖かなぬくもりと、ささやかな夢があるってことを。
私の部屋で温かい紅茶でも飲みながら、暖かな時を過ごしましょう。
……あぁ、もちろん、眠るときは一緒にね。そんなこと、今は言わないけど。
「ありがとうございます」
「何で貴女が礼を言うのよ」
「さぁ、何ででしょうね」
お礼なんて、馬鹿な娘ね。
思わず苦笑してしまう。私はこんなに邪まな思いを抱いているって言うのに。
お礼を言われるようなことは、何もしていないのに。むしろ貴女の夢を壊す者なのに。
「今は分からなくても良いですよ」
ふわりとした笑み。柔らかで、少し夢見心地な。
……ねぇ、気付いてる? その表情が、さっき踊っていたときの表情とそっくりだっていうこと。
私を見る目が変わったっていうことに。
苦笑は自然と笑みに変わった。
貴女は私に、ささやかな夢を見つけたのね?
肌触りの良いゆったりとしたネグリジェの上から、暖かいストールを羽織った。
体が冷える前に、部屋に戻ろうか、それとも……としばし逡巡する。
けれど、逡巡し始めたときには答えはすでに決まっていて、私はただ悩むふりをしただけだった。
悩むふりをすることで、自分の出した答えを擁護しようとしただけだった。
真っ直ぐに部屋には戻らず、美鈴の部屋へ向かった。と言っても訪ねるわけではない。
廊下を通り過ぎて、そのまま真っ直ぐ自分の部屋へ戻るだけだ。
ただそれだけの、自己満足の行為だけれど、この部屋の中に美鈴がいる、と思うだけで心が満たされる。
薄い扉を一枚挟んだ向こう側に、確かに存在するという幸福を、心に刻みつける。
それは決して『当たり前』という言葉に、安易にくくってしまってはいけないものだ。
同じ時を、同じ場所で過ごすということの貴さを、私はよく知っている。
時は、すべてを緩やかに消し去るものだから。消えたものは、もう二度とは戻らないから。
だから、私は美鈴の存在を確かめて、存在しているという現実に安堵し、幸福に浸りたいのだ。
……まぁ、ほんの少しだけ欲を言えば、何かの弾みで部屋に入れてもらえたら嬉しいのだけど。
美鈴に、純粋な想いだけを寄せられたら良いのに、邪まな想いも同時に抱いてしまう。
あの長く艶やかな紅い髪に、エメラルドのような緑色の、ぱっちりとした目。
細い首筋に、豊かな胸。細い腰。すらりと伸びた手足。女としての魅力を十分に備えているその体。
シックな色合いのドレスを上品に着こなせば、目を奪われるほど美しくなるだろう。
けれど実際は、表情豊かで純朴で、紅魔館の庭の手入れをせっせと行う庭師兼門番。
使役する側ではなく、使役される側。加えて私のほうが、彼女より立場が上だ。
そんな見た目とのアンバランスな具合が、私に邪まな想いを抱かせる。
純粋な好意だけを寄せられたら良いのに……。
そんな殊勝な思いは、美鈴の姿を見つけた途端に吹き飛んだ。
淡く月の光が降り注ぐ冷たい廊下で、美鈴が一人踊っている。
いつもの奇妙な踊り――太極拳という拳法らしいが――ではなく、自由で躍動的な踊りだ。
柔らかく裾が広がる白いワンピースを着て、髪をなびかせ、裸足のまま踊る姿に目を奪われる。引き寄せられる。
近付いて判然とした顔は上気していて、目は恍惚に潤んでおり、背筋にぞくりとしたものが走った。
けれど、目が釘付けになる一方で、同じくらいの危機感も襲ってきた。
この踊りは、あまりにも現実味がなさすぎる。幻想的でこの世のものとは思えない。
早く捕まえておかないと、どこかへ行ってしまうかもしれない、そんな恐怖が襲ってきた。
表情を引き締めて、一歩一歩近付く。獲物を狙う獣のように、注意深くゆっくりと。
お伽話の、天女や月の姫に焦がれた男たちも、ひょっとしたら同じような焦燥感に襲われたのかもしれない。
どんなに恋焦がれても、他の世界へ行ってしまったら、もうどうすることも出来ないから……。
「何か、ご用ですか?」
「別に用ってほどでもないんだけど」
唐突に声をかけられて、普段どおりの声を出せた自分を褒めてやりたい。
焦りを悟られないように、壁にもたれて、腕を組んだ。
少し心を落ち着けてから、窓にうっすらと映っている美鈴を、気付かれないようにそっと見つめた。
どこでそんな踊りを身に着けたんだろう。誰かに教わったんだろうか。
教わったとしたら、それはいつ? 最近、それとも昔? 最近なら、今も教わっているの? 一体、誰に?
じりじりとした嫉妬の炎が揺らめく。思わず問いつめたくなるのを堪えて、短く息をついた。
今は嫉妬に駆られている場合じゃない。美鈴を捕らえなければならない。
美鈴が美鈴の世界へ行ってしまう前に、この世界に引きずりおろさなければ。
ふわふわと揺れる軽やかな天女の衣を奪って、引き裂いてしまわなければならない。
この世界に縛りつけてしまえば、後はもう、こっちのものだ。
壁から背を離して美鈴を見つめると、ちらりと目が合った。
「何ですか?」
「ねぇ、貴女はどこへ行こうとしているの?」
「え?」
「この空の向こう側にでも行くつもり? そうやって踊りながら」
「……」
「今の貴女には、現実感がまるでない。空想の世界にでも行くつもりなの? でも残念ながら、貴女はそこへ行けないわ。肉体が存在するかぎり。……いえ、魂だけになったとしても」
途端に美鈴の足が止まり、みるみるうちに表情が曇っていく。
眉を寄せて、何かに耐えるように唇を引き結び、柔らかなスカートをきつく掴んだ。
どうやら私の言葉は相当な威力を発揮したらしい。
恍惚に潤んでいた瞳は、今は悔しさに歪んでいる。悪くない。
「咲夜さん、酷いです……。他人のささやかな夢を壊すなんて……」
「悪いわね。けど、貴女が夢見心地じゃ困るのよ。現実を見てもらわないと」
「え……?」
貴女の空想の世界に、私は手を出すことは出来ないから。
夢見ることが好きな貴女は、きっと素敵な貴女だけの世界を持っているんでしょう。
そこにはこの世の汚れなんてまったくなくて、綺麗な生き物たちが住む楽園なんでしょう。
貴女を傷つける者は誰もいない、平和で、穏やかな世界。貴女のスペルカードのような、色鮮やかな世界。
そこにいれば、貴女は満ち足りて、幸せに過ごせるんでしょう。……でも、それじゃ困るのよ。
貴女に私のことを見てもらうには、嫌がおうにもこの世界を直視させないといけない。
この世界で、私のことをしっかり認識してもらわないといけない。
心元なさげに揺れる美鈴の瞳をまっすぐ見据えながら、一歩一歩近づいて、抱きしめた。
そうっと、蝶や蜻蛉を掴み取るように、慎重に。
「やめてください。……汗かいてますから」
「別に構わないわよ」
「どうしてですか? どうしてそんな、こんなこと……」
「今は分からなくても良いのよ」
「わけが分かりません……」
「それで良いのよ」
弱々しく身じろぎ、戸惑いの声を上げるのを言葉で制しながら抱きしめていると、ほどなくおとなしくなった。
体から力が抜けて、もたれかかってくる。高めの体温を感じて、ようやくほっと胸を撫で下ろした。
ここにいる。美鈴はここにいる。この世界の、小さな私の腕の中に。
美鈴の柔らかな体の感触を確かめていると、抱き寄せた体がふるりと揺れた。
「咲夜さん……寒いです」
「冷えてきた? じゃあ私の部屋で温かい紅茶でも淹れてあげるわ」
「嫌です。シャワーが浴びたいです」
「仕方ないわね。じゃあその後いらっしゃい」
「お断りします。明日も早いので、すぐに寝ます」
「じゃあ、このまま風邪引くのと、どっちが良い?」
「う、……うかがいます」
「賢明な判断ね」
「はぁ……」
観念したように美鈴がため息をつく。
そう、観念なさい。この世界では、貴女よりも私のほうが有利なの。
貴女みたいに夢見心地にふわふわ漂っていないから。地に足をつけている分、私のほうが強い。
この世界まで落ちてしまったら、貴女に逃れる術はないのよ。
この世界の空間と時を上手に扱う術を、私はよく心得ているのだから。
「さぁ、行ってきなさい。美味しい紅茶を淹れて待ってるわ」
「はい。……期待して良いですか?」
「えぇ、期待してて」
力強く、自身ありげに笑うと、美鈴の表情が緩んだ。そう。それで良いのよ。
この世界だって捨てたものじゃないってことを、私が教えてあげる。
この世界にも暖かなぬくもりと、ささやかな夢があるってことを。
私の部屋で温かい紅茶でも飲みながら、暖かな時を過ごしましょう。
……あぁ、もちろん、眠るときは一緒にね。そんなこと、今は言わないけど。
「ありがとうございます」
「何で貴女が礼を言うのよ」
「さぁ、何ででしょうね」
お礼なんて、馬鹿な娘ね。
思わず苦笑してしまう。私はこんなに邪まな思いを抱いているって言うのに。
お礼を言われるようなことは、何もしていないのに。むしろ貴女の夢を壊す者なのに。
「今は分からなくても良いですよ」
ふわりとした笑み。柔らかで、少し夢見心地な。
……ねぇ、気付いてる? その表情が、さっき踊っていたときの表情とそっくりだっていうこと。
私を見る目が変わったっていうことに。
苦笑は自然と笑みに変わった。
貴女は私に、ささやかな夢を見つけたのね?
文章が生きてるみたいで。こういう雰囲気は大好きです。
嬉しいです。
こういう雰囲気いいですね^^
とってもいいめーさくです。