「それじゃあ、チルノ、また来年ね」
広い湖の上に降り立ったレティはそう微笑んだ。
少しだけ腰をかがめて、視線をチルノと同じ高さに合わせる。
氷精であるチルノは妖精の例にもれず、子供のように背が低い。一方、妖怪のレティはそれほど高い、というわけではないが、チルノよりはずっと大きい。
だからこうして、二人で話すときにはレティが少しだけ屈むことになる。いつもならば、それに合わせてチルノも少しだけ背伸びをするのだけれど、今日はしていない。
「……」
それどころか、視線を反らし、頬を膨らませたチルノはレティの言葉に応えることすらしない。
そんな様子を見て、レティは苦笑する。毎年のこととはいえ、困ってしまう。
季節モノの妖怪としては、シーズンオフにはどこかに隠れて眠りにつくというのは、わりと普通の在り方で、たとえば秋姉妹なども基本的にはシーズンオフには元気がないし、リリーホワイトに至っては、春以外はどこにいるのか分からない。
つまり、レティが冬以外の間眠って過ごすのは、別に取り立てて気にするようなことではない。
確かに、冬が長く続いたら楽しいとは思うけれど。
それなのに、この氷精はそれを嫌うのだ。
もちろんレティとしてはこれ以上に嬉しいことなどないし、ありがたいと思う。
なにより、自分がいなくなることを寂しがってくれる存在がいるというのは何より幸せなことだ。特に、寒さを操るせいで、人間を始めとして嫌われることの多いレティにとっては尚更である。
しかし、毎年、どうやってチルノをできるだけ寂しがらせずに眠りに行くか、ということは、レティにとっては頭痛の種だった。
よくよく見てみれば、涙に濡れた瞳だとか、真っ赤になったちっちゃな鼻だとか、いつも明るいチルノらしからぬ状態がよく分かる。
チルノが悲しい顔をしているとレティまで悲しくなってしまう。
何を言うべきか、うまい言葉さえ思いつかないレティは、ただただそれを黙って見守ることしかできなかった。
「だって」
ぼそり、といつもはきはきした声からは考えられないほど低く小さな声でチルノは呟く。
「まだ、そんなにあったかくないじゃんか」
「そうかしら。でも、もう三月だもの」
納得がいかない様子のチルノの頬をぷにぷにとつつきながら、言う。
唇を尖らせたチルノは不服そうに、目で続きを促してくる。
「それに、もうあの子が来てるもの」
「……あの子?」
「ええ、チルノとおんなじ妖精さんよ」
リリーホワイト。春を告げる妖精。
彼女を今年最初に見てから、もう何日になるだろうか。
これまでは顔を合わせるよりも前に眠ってしまうことが多かったのに、チルノと親しくなってからはついつい長く留まってしまう。それは今年も同様で。
しかし、それでも彼女が現れたというのならば、本当に春がやってきたのだ。
冬妖怪たるレティはもう行かなければならない。
「うー…、でもさぁ」
だって、でも、もっと、と反論の言葉を探すチルノも本当はそれをちゃんと理解している。だからこそ、泣きそうに顔を歪めて、レティを見つめているのだ。
「……レティ」
「チルノ、ごめんね」
「……レティ、は、寂しく、ないの?あたいは、レティがいないのはすっごく寂しい」
ほとんどべそをかいているような状態のチルノ。両手でぎゅっと自らのスカートのすそをきつく握りしめている。
そんなチルノの目をまっすぐに見つめてレティはやわらかく微笑む。
「寂しくないわ」
「え……?」
何を言われたのか分からない。迷子の子どものように途方にくれた、裏切られたようなそんな表情のチルノの髪をそっと撫でて、レティは言う。
「だって、目が覚めた時にはちゃんとチルノが待っていてくれるって分かってるもの」
「うん!待ってるよ、ずっと……」
「それに、眠っている間はチルノの夢を見るわ」
「あたいの?」
「そう。眠っていても、ちゃんとチルノの声が遠くに聞こえるの」
レティの寝床がどこにあるかはレティしか知らない。チルノ達のいる湖の近くでないことは確かだ。
しかし、遠く離れていても、風に乗ってレティの元に時たまチルノの声が届くことがある。もしかしたら、活動範囲の広いチルノがたまたま近くにいるだけなのかもしれないけれど。
退屈な冬以外の季節、それに耳をすますことがレティにとって何よりの楽しみ。
「だから、チルノが元気にしていてくれれば、私は寂しくないわ」
「レティ……」
鼻をぐずぐず言わせていたチルノはなにか、考え込むようにして俯く。
そうして、やがて顔をあげて、一生懸命な声でレティに問いかける。
「ちゃんと、来年帰ってくる?」
「もちろんよ」
「そしたら、またいっぱい遊べる?」
「……目が覚めたら、いっとう先にチルノに会いにくるわ」
「絶対?」
「絶対よ。チルノは“最強”だもの」
頬を包み込むようにして撫でると、チルノはその手の感触を忘れまいとするかのようにすりよせてくる。ひんやりとした頬は涙のせいでいつもよりちょっとだけ熱い。
「……レティ、大好き」
「私も、チルノが大好きよ」
子供らしく短い腕をいっぱいに伸ばして、ぎゅうっと抱きついてくる。冷気をまとった小さな体がレティにとっては何より心地よく、愛おしかった。
「待ってるからね」
「おつかれさまですー」
チルノと別れて、寝床へと向かう途中、不意に声をかけられる。
それは聞き覚えのある鈴のような声。本物の鈴よりもおっとり柔らかい響きは耳に優しい。
見れば、レティに向かい合うように浮かんでいるのは小さな妖精。
ふわふわしたまっしろなドレスにさらさらと風になびく長い髪。
「ええ。ありがとう、リリー」
リリーホワイト。春の訪れの証左。レティと同じ季節モノの存在。
レティは冬にだけ姿を現すのと同じように、春になるとどこからともなく現れては消えていく。
そんな彼女は今、緩い笑顔を浮かべてレティを見つめている。
「次の冬までゆっくり休んでくださいねー」
「そうね。あなたも、これからしばらく頑張ってね」
「はいはーい」
何が楽しいのか、返答しながらくるりと一回転。そうすればひらりとスカートが翻った。
その軽やかな動作はまさに春めいている。まとう雰囲気そのものが春なのだ。
その様子を見ていると、どうしようもなく眠たくなってくる。
一つあくびをしたレティを見て、リリーはくすくすと笑う。
「ねむそうですね」
「春だもの」
「そうですねー」
重い瞼をこすりながら言えば、リリーも僅かに苦笑して同意する。
「それじゃあ、私はそろそろ行くわ。こんなところで寝ちゃったら大変」
「はい、そうですねー」
ふわぁ、ともう一度だけあくびをしたレティを見て、リリーは言う。
「それじゃあ、おやすみなさい、レティ」
「ええ、ありがとう、リリー」
お互い手を振りあって、真逆の方向へと向かって再び飛び続ける。
リリーはチルノ達のいる湖のほうへ。
レティは冬の間戻ることがなかった我が家へ。
「また、来年」
「春ですよー」
レティが寝床で丸くなっていると、どこからともなく聞こえてくる声。
リリーが春を告げる声。
暖かい、歌うような調子の声にレティはまどろむ。
今年の冬も楽しかった。
ぼんやりとこの冬の思い出を反芻していると、口元が自然と緩んでしまう。
「大ちゃん!こっちだよ!」
「待ってよ、チルノちゃーん」
風に乗って聞こえてくるのは可愛らしい、大切な友人たちのはしゃぐ声。
思わず、くすくす笑ってしまう。
さあ、そろそろ眠る時間だ。きっと今年もいい夢が見られるはず。
だって、こんなにも楽しい、幸せな冬を過ごすことが出来たのだから。
この冬の夢を見ようじゃないか。
「あたいってば最強ね!」
「もう、チルノちゃんったら」
聞こえてくるその声が、あたたかい夢を保障してくれているような気がした。
「春ですよー」
繰り返される春の呼び声は極上のこもりうた。
やさしいその調べに身を委ねて、レティは満ち足りた気持ちで、穏やかな眠りの世界へと落ちていった。
それでは、また来年、会いましょう。
さて、レティに膝枕をしに行ってあげようか
凄い暖かな気持ちになりました!