思いの外、ベイクド・チーズケーキが上手に焼けたから、陰鬱とした気分は欠片も存在しなかった。
カタカタと窓が鳴る。霜月の夜。仄かに見えるのは薄雲の向こうに座する半月だけ。ティーカップに指を絡ませる。暖かい。このコントラストは悪くない。
自律人形の開発に至る道筋は順調であった。彼の地は未だ見えないけれど、一歩ずつ前進している実感は確かに得ている。いつかは辿り着くであろうことを驕りではなく論理の面から理解をしている。だからつまり、今は少し休憩をしているだけなのだ。
ノックの鳴る音が聞こえた。
こんな夜中に誰だろう。迷子かしら。
「ごめんください」
ドアの向こうから発せられたのは僅かに不安めいた声。
確定。迷子ね。このようなおとなしい声を出す知り合いは、悲しいかな、私の記憶の内には見当たらない。
魔力を探る。予想通り、大したことはない。こんな微細な力でこの森を歩くなんて自殺行為そのものだ。夢見が悪くなるのは勘弁してほしいものである。
これ以上は。
ドアを開けるとそこには見知らぬ顔がひとつ。八雲紫に顔貌が似ているかもしれない、とは思うけれど、抱えているものがまるで異なる。別の存在だ。
「こんな夜更けにごめんなさい。道に迷ってしまいまして」
「それは大変ね。宜しければ、ここで夜を越してはいかがかしら」
「ありがとうございます。では、恐縮ですが、お言葉に甘えさせて頂きます」
「どうぞ。ご自由になさって」
「分かりました。重ねて、お礼を申し上げます」
「気にしないで。私は気にしていない」
纏う空気に微量の人工的な温かさが在る。外来の者か。日が昇り次第、霊夢の下に身柄を引き渡そう。
それまでは今少し宵の淵に佇んでいようか。
「凄い人形ですねぇ」
周囲をくるくると見渡す迷子の子の反応はさして珍しいものではない。
我が家に迷い込んだ者の大半は、まずこの人形達に目を奪われる。
心と時間は、込めているつもりである。それ以外の諸々も当然。温い空気に触れようとその表層すら絶対に溶けないだろう。上海人形に指示を出しカップとソーサーとティースプーンをそれぞれ一つずつ持って来させる。息を呑む音が聞こえた。白木の椅子に腰を落とす。少し、硬い。
「こんなに可愛らしいオートマトンは初めて見ました」
惚けたリアクションが中空に浮いた。普通はもっと驚愕なり恐怖といった表情を呈するものだが。この様子はまるで自ずから動く人形を見たことがある者のそれだ。ティーセットをセッティングする上海人形に対して「ありがとう」と柔らかい笑みを向ける。慄く様子は無い。リネン素材のふわふわとしたキャップが膝の上に置かれた。危機感が足りていないだけなのか。それとも。
「人形工学には明るいのかしら」
カモミールを注いであげながら問う。
「ありがとうございます」の次に紡がれた言葉は「そんなことはありません」だった。
やっぱり、私には棚から落ちたぼた餅が似合わない運命にあるのかしらね。他者の知識に頼って目的地に到着することは趣味ではない。それは確かなことなのだけれど。
まぁ、いいわ。
カモミールにレモンを落とそうかどうしようかと少し悩む。フルーティである方が口には合うのだけれど、客の前であまり子供のようなことはしたくない。
「お力添えができれば、私としても嬉しかったのですが」
心配の念を含んだ眼で見られた。意識してティーカップに手を伸ばし、カモミールを口へと運ぶ。冷静に。
疲れが表情に出てしまっているのかもしれない。
客の前でそれはとてもよろしくない。
澄んだ渋みを味わう。
悩みは無い。しかし、疲れが生じることはしょうがないとは思う。歩く道が見えてはいたとしてもその距離は長い。終始疾走を続けられるほど頑丈な我が身でもない。歩き、休み、歩く。その程度。ゆえにゴリアテの作成から次ステップへと研究が上手く繋がらないという現状の問題は特筆すべきことではないのである。一休みするには丁度良い理由、といったくらいか。
ただ、最近の不眠の日々はかんばしくないと自覚している。
魔女なのだから、本当は睡眠なんて無くても良い筈なのだけれどね。
しかし夢は、できることならば見たいのだ。
「ここで会ったのも何かの縁です。悩み事があるのでしたら私に零されてみてはいかがでしょう。カウンセリングに自信があるわけではないのですが、しかしそれでも、霞を晴らす一助にはなれるかもしれません」
「悩みなんて無いわ」
「そうですか」
人の身から離れてどれ程の時が経っただろうか、というフレーズが浮かんだけれど、さして大した時間が流れていないことには反射で思い至ることができた。そうでなければ、食事も、睡眠も、とうに切り離している筈だ。まだまだ浅く甘い。それも含めて私がアリス・マーガトロイドなのだけれど。森が風に吹かれる音が聞こえる。外は寒いだろう。目の前の人間はさぞや辛い思いをした筈だ。である筈なのに、やはり彼女は妙に余裕のある態度で在り続けている。不穏な様子は見受けられないが意識を傾けるには値するか。「ご馳走になりました」という声とカップをソーサーに下ろす音が響いた。そしてそれらを持って流しに向かおうとする。「あぁ、良いわよ」と私は言って目をつむり人形達に彼女からティーセットを受け取るように指示を走らせて目を開けた時に、そこには誰もいなかった。
「え?」
そして私は眠りから覚めた。
夢。
夢、か。
突っ伏していた机から顔を上げて頬を一撫で。変な跡が付いていないことを望む限りだ。
窓の向こうを見るにおおよそ今は六時くらいだと思う。太陽は見えないけれど青色が滲み出してきた空が綺麗。だいたい四時間は寝れたのかしら。疲れが少し、取れている。うん。悪くない。
夢の内容が思い出せない。
誰か、知り合い、いや、知り合いに似た誰かと話をした覚えが有るような無いような。ダメだ。曖昧が過ぎる。
まぁ、いいか。
所詮は只の夢だろう。
このくらいのことで悲観をしないでも良い筈。
私には悩み事なんて、無い。
頭が冴えてくるのを自覚した。
四時間の睡眠というのは最近ではなかなか寝れた方だ。二度寝をする必要無しと、脳は判断をしたらしい。抗う理由は見つからない。椅子から腰を上げ、身体を捻る。少し優雅さが欠けた行動かしら。まぁ、別にいいか。誰が見ているわけでもないし。モーニング・ティーにはマロウを淹れよう。アレは良い。そのままでは透明だけれど、そこにレモンを浮かべた途端に薄い青へと色が変化をするのだ。今の空の色と一緒の、夜明けの色である。
私はその色が、好き。
カタカタと窓が鳴る。霜月の夜。仄かに見えるのは薄雲の向こうに座する半月だけ。ティーカップに指を絡ませる。暖かい。このコントラストは悪くない。
自律人形の開発に至る道筋は順調であった。彼の地は未だ見えないけれど、一歩ずつ前進している実感は確かに得ている。いつかは辿り着くであろうことを驕りではなく論理の面から理解をしている。だからつまり、今は少し休憩をしているだけなのだ。
ノックの鳴る音が聞こえた。
こんな夜中に誰だろう。迷子かしら。
「ごめんください」
ドアの向こうから発せられたのは僅かに不安めいた声。
確定。迷子ね。このようなおとなしい声を出す知り合いは、悲しいかな、私の記憶の内には見当たらない。
魔力を探る。予想通り、大したことはない。こんな微細な力でこの森を歩くなんて自殺行為そのものだ。夢見が悪くなるのは勘弁してほしいものである。
これ以上は。
ドアを開けるとそこには見知らぬ顔がひとつ。八雲紫に顔貌が似ているかもしれない、とは思うけれど、抱えているものがまるで異なる。別の存在だ。
「こんな夜更けにごめんなさい。道に迷ってしまいまして」
「それは大変ね。宜しければ、ここで夜を越してはいかがかしら」
「ありがとうございます。では、恐縮ですが、お言葉に甘えさせて頂きます」
「どうぞ。ご自由になさって」
「分かりました。重ねて、お礼を申し上げます」
「気にしないで。私は気にしていない」
纏う空気に微量の人工的な温かさが在る。外来の者か。日が昇り次第、霊夢の下に身柄を引き渡そう。
それまでは今少し宵の淵に佇んでいようか。
「凄い人形ですねぇ」
周囲をくるくると見渡す迷子の子の反応はさして珍しいものではない。
我が家に迷い込んだ者の大半は、まずこの人形達に目を奪われる。
心と時間は、込めているつもりである。それ以外の諸々も当然。温い空気に触れようとその表層すら絶対に溶けないだろう。上海人形に指示を出しカップとソーサーとティースプーンをそれぞれ一つずつ持って来させる。息を呑む音が聞こえた。白木の椅子に腰を落とす。少し、硬い。
「こんなに可愛らしいオートマトンは初めて見ました」
惚けたリアクションが中空に浮いた。普通はもっと驚愕なり恐怖といった表情を呈するものだが。この様子はまるで自ずから動く人形を見たことがある者のそれだ。ティーセットをセッティングする上海人形に対して「ありがとう」と柔らかい笑みを向ける。慄く様子は無い。リネン素材のふわふわとしたキャップが膝の上に置かれた。危機感が足りていないだけなのか。それとも。
「人形工学には明るいのかしら」
カモミールを注いであげながら問う。
「ありがとうございます」の次に紡がれた言葉は「そんなことはありません」だった。
やっぱり、私には棚から落ちたぼた餅が似合わない運命にあるのかしらね。他者の知識に頼って目的地に到着することは趣味ではない。それは確かなことなのだけれど。
まぁ、いいわ。
カモミールにレモンを落とそうかどうしようかと少し悩む。フルーティである方が口には合うのだけれど、客の前であまり子供のようなことはしたくない。
「お力添えができれば、私としても嬉しかったのですが」
心配の念を含んだ眼で見られた。意識してティーカップに手を伸ばし、カモミールを口へと運ぶ。冷静に。
疲れが表情に出てしまっているのかもしれない。
客の前でそれはとてもよろしくない。
澄んだ渋みを味わう。
悩みは無い。しかし、疲れが生じることはしょうがないとは思う。歩く道が見えてはいたとしてもその距離は長い。終始疾走を続けられるほど頑丈な我が身でもない。歩き、休み、歩く。その程度。ゆえにゴリアテの作成から次ステップへと研究が上手く繋がらないという現状の問題は特筆すべきことではないのである。一休みするには丁度良い理由、といったくらいか。
ただ、最近の不眠の日々はかんばしくないと自覚している。
魔女なのだから、本当は睡眠なんて無くても良い筈なのだけれどね。
しかし夢は、できることならば見たいのだ。
「ここで会ったのも何かの縁です。悩み事があるのでしたら私に零されてみてはいかがでしょう。カウンセリングに自信があるわけではないのですが、しかしそれでも、霞を晴らす一助にはなれるかもしれません」
「悩みなんて無いわ」
「そうですか」
人の身から離れてどれ程の時が経っただろうか、というフレーズが浮かんだけれど、さして大した時間が流れていないことには反射で思い至ることができた。そうでなければ、食事も、睡眠も、とうに切り離している筈だ。まだまだ浅く甘い。それも含めて私がアリス・マーガトロイドなのだけれど。森が風に吹かれる音が聞こえる。外は寒いだろう。目の前の人間はさぞや辛い思いをした筈だ。である筈なのに、やはり彼女は妙に余裕のある態度で在り続けている。不穏な様子は見受けられないが意識を傾けるには値するか。「ご馳走になりました」という声とカップをソーサーに下ろす音が響いた。そしてそれらを持って流しに向かおうとする。「あぁ、良いわよ」と私は言って目をつむり人形達に彼女からティーセットを受け取るように指示を走らせて目を開けた時に、そこには誰もいなかった。
「え?」
そして私は眠りから覚めた。
夢。
夢、か。
突っ伏していた机から顔を上げて頬を一撫で。変な跡が付いていないことを望む限りだ。
窓の向こうを見るにおおよそ今は六時くらいだと思う。太陽は見えないけれど青色が滲み出してきた空が綺麗。だいたい四時間は寝れたのかしら。疲れが少し、取れている。うん。悪くない。
夢の内容が思い出せない。
誰か、知り合い、いや、知り合いに似た誰かと話をした覚えが有るような無いような。ダメだ。曖昧が過ぎる。
まぁ、いいか。
所詮は只の夢だろう。
このくらいのことで悲観をしないでも良い筈。
私には悩み事なんて、無い。
頭が冴えてくるのを自覚した。
四時間の睡眠というのは最近ではなかなか寝れた方だ。二度寝をする必要無しと、脳は判断をしたらしい。抗う理由は見つからない。椅子から腰を上げ、身体を捻る。少し優雅さが欠けた行動かしら。まぁ、別にいいか。誰が見ているわけでもないし。モーニング・ティーにはマロウを淹れよう。アレは良い。そのままでは透明だけれど、そこにレモンを浮かべた途端に薄い青へと色が変化をするのだ。今の空の色と一緒の、夜明けの色である。
私はその色が、好き。
それがアリスの心を浮き彫りにしているようで
響きます
まさに不思議の国のアリスと言うか、淡々と綴られた文章に込められた幻想的な雰囲気と詩的な余韻がとても素敵!
雰囲気がすんばらしいな
他の作品も見てきます
素晴らしい雰囲気を堪能させて頂きました
邂逅して何かが劇的に変わるわけでもなくただあるがままですね