■ ナズの後ろの下の
月が顔を高くする夜。
ナズーリンは住処たる小屋の中で、一人黙々と夜食を進めていた。夜行性のネズミである彼女は、これから外に出る。小遣い稼ぎにしている物探し業、そのための英気を養っているところであった。
玄米の握り飯、焼き鮭、菜入りの味噌汁に、命蓮寺からくすねてきた瓜の漬物。すばやく口に運んでいく。明かりは蝋燭ただ一つであったが、獣の目にはそれで事足りた。
「……」
ふと、家鳴りがした。ナズーリンは大きく丸い耳だけを動かして、それを聞き漏らさなかった。建てて間もないあばら家であるが早くもボロの貫録か。
「……」
家鳴りが止まない。ナズーリンは顔を上げて、音の出所に振りかえる。
土間が暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。出入り口からかすかに夜風が吹きこんで、引戸をゴトゴトと鳴らしていた。
ナズーリンは食事にもどる。握り飯をかじるたびに、味噌汁をのんで、口の中でかき混ぜた。気が向いたら瓜漬けを食べて、爽やかな味に少し酔いしれた。
「…………」
また音が鳴り始めたが、今度のは家鳴りではなかった。ナズーリンはにわかに目を見開いて。音に意識を集める。
それは足音のようにも聞こえた。だがハッキリとしない。ギイ、ギイ、と一定の感覚で床板がきしむのだが妙に小さい。一つ言えることは、これは幻聴ではない。
ギイ、ギイ、音はナズーリンの背後にいた。すぐそばである。正座する足を組み直しただけで、音の源に触れてしまいかねない。なのでナズーリンは、さっきまでせわしなく動かしていた箸をすっかり止めていた。お膳の上に置こうともしない。
ギイ、ギイ、音はかすかに動いている。今はナズーリンの右側に回り込みつつあった。だが彼女がちらりと横目にみても何もない。夜の帳の降りる殺風景な居間があるだけである。
ナズーリンの首筋に冷や汗が伝う。
この音に遭遇するようになったのは最近である。いつもナズーリンの周りを巡るように動いていく。今はちょうど、真正面から音がしている。彼女の耳は狂っていない。だが目にうつるのは埃っぽい床板だけであった。
音は何度かナズーリンの周りを巡ったあと、すうっと消えていった。ナズーリンはそれとわかるや残った夜食をお腹にかきこんで、おぼんを水場へ放り込んだ。
外へ出る前に小屋の中へ振りかえる。消した蝋燭からたちのぼる煙が、人の手のように揺れ動いていた。
「ナズーリン、なにか悩みがありますか」
命蓮寺にて、寅丸星がそう尋ねてきた。ナズーリンは目を丸くする。
「なぜですか」
「そんな顔をしていますよ」
ナズーリンはうつむきながら夜中の出来事を思い出す。音の正体には察しがついていた。どうせろくでもない幽霊だろう。だがナズーリンは弾幕以外で幽霊を追い払う方法を知らない。
「御主人、なにか手頃な除霊のやり方などを知りませんか」
「手頃な、ですか。幽霊に困っているのですか」
ナズーリンはうなづいた。星は詳細が知りたそうに顔を覗きこんできたが、すぐに背筋を正して懐に手をいれた。四枚ほどの御札が差し出される。
「危なそうなところに貼りなさい。御札が汚れれば、除霊できている証拠」
月の傾く夜。
ナズーリンはてきぱきと夜食を片付けていく。今日も物探し業に勤しもうとしていた。
居間の四隅の柱には星からもらった御札を貼り付けてある。御札は蝋燭の明かりに照らされ、禍々しい文様を浮かび上がらせていた。ナズーリンはその文様を読んで、知識の許す限りで力のほどを考察する。たぶん良い呪文だった。
「……」
ギイ、ギイ。かすかな隙間風の音に混じって、例の物音が聞こえてくる。ナズーリンはすみやかに耳をそばだてて、いきさつを見守った。
ギイ、ギイ、と決まってナズーリンの背後から音がはじまる。まるで彼女の何らかを値踏みするように、慎重深い足取りで回りを巡りだす。
「……」
ナズーリンはちらりと御札を見上げた。物は黙して語らない。破れることもなければ黒ずむこともない。一方、音は右手のそばまでやってきたところであった。今日も変わらず、何巡りかで立ち去るつもりか。ナズーリンは少し諦めをつけた。
そのとき、音の様子が変わる。ひた、と止んだ。ナズーリンは身じろぎもしなかったが、内心では焦って耳をそばだてる。てっきり自分が音を見失ったのかと思った。
ギイ、ギイ。音が鳴り始める。動きが変わって、背後に戻りつつあった。こんなことは今までなかったので、ナズーリンは期待混じりに緊張する。御札の効果かもしれない。
音は真後ろへ来るとまた一拍の微妙な間を空けた。
「…………」
ナズーリンは体をこわばらせる。背後の空気が急に重たくなった気がした。誰かいるような得体のしれない圧迫感。
ガリ、ガリリ、カッカッ、カリ、ガリ、ガリ、ガリリ……。
奇怪な音が聞こえてきた。爪で物を引っ掻いているようである。まぎれもなくナズーリンの背後、それもかなり近い場所から聞こえてくる。自然と背中がこそばゆくなってくるのが居心地悪い。
ナズーリンは怯えつつも、また御札に目をやる。星からもらったときと同じく真新しい姿であった。なぜだろう、この幽霊には御札が効かないのか。
ガリ、ガリリ。音は止まない。ナズーリンは不安を膨らませる。この音は、床板を削り取っているように聞こえる。削り取って、何をしようというのか。
「……」
ふと、ナズーリンはあることに気付く。
今まで音の出所は、てっきり、部屋の中を蠢いているのだと思っていた。だから御札を部屋の四隅に張りつけた。そうすれば部屋を囲んで守ってくれる。この幽霊は守りを意に介することがない。そしてこの爪の音は、どちらかというと部屋の中よりも、部屋の下から聞こえている気がする。
うつむいたままのナズーリン。自分のスカートに覆い隠された床板の、さらなる底を睨みつける。前からずっと、そこにいるとしたら。
音の主にバレぬようゆっくりと立ち上がってみた。立ちあがって深呼吸をする。まだ音は止まない。料理を置いたおぼんを部屋の隅へ運んで。また中央へ戻る。
ナズーリンは決心した。爪を立てて、勢いにまかせて床板の隙間へ挟みこむ。両腕に力をこめると、床板がメリメリと剥がれはじめた。自分で建てた小屋だが、この際なりふり構っていられない。
一枚を剥がし終わった頃には例の音が消え失せていた。さらに二枚三枚と片付けて、床下の地面を露わにさせる。あれだけ嫌な音が響いていたのに、床板の裏面にはこれといった傷はない。
床下はぽつぽつと雑草が生えて、わらじ虫やゲジゲジがざわついていたが、他には何もない。だがここまでくれば、妖怪の端くれであるナズーリンである。ただならぬ気に鳥肌を立たせずにおれなかった。
ナズーリンの獣らしい鋭い爪がひらめき、瞬く間に土を掘り返していく。浅いところで早くも土の感触が違ってきた。まず見えてきたのは腐った麻袋。それは大きいが細長く、くの字に折れ曲がっていた。全てを外気にさらけ出すと、ただの麻袋ではないことがわかる。表面には呪術の跡と思しき文字や文様が、おびただしく記されている。麻袋そのものを締めつけているかのようである。
麻袋は掘り起こしたと同時に、強烈な臭いを放ちはじめた。ナズーリンは耐えきれず咳きこんだ。どうしたことか、咳に呼ばれたように麻袋の端がめくれて内側から何かまろび出てきた。
骨である。手の骨だろうか。いったい何の生き物の骨か。五本の指は細長く木の枝のように長い。人間にみえず動物とも違う。妖怪かもしれないが、こんな妖怪は見たことがない。
ナズーリンは恐怖に顔をひきつらせた。今までこんな腐れの真上で飯を食っていたのか。こんなものの上でくつろぎ、遊び、寝ていたというのか。そう思うと吐き気さえ感じられた。体の隅々まで穢されているような感覚がとめどなく溢れてきた。
にも関わらず手は自然と麻袋へのびていった。中身をみなければいけないと、脅迫的に心が騒ぎ立つ。骨に触れぬよう慎重な手つきで、麻袋の端を、あともう少しでつまみかける。
「…………」
再び、背後に何かのいる気配がした。
床下のひやりとした空気のせい。いや、そんなもので誤魔化しきれない。明らかに、何かが立っているとしか思えない。それに呼応するかのように、家鳴りがする。屋根がパキッと震え、戸口がガタリと揺れた。
ナズーリンの目が部屋を見渡す。これだけの圧力を放ちながら、相手は姿をみせない。代わりに、いると感じさせることが起きていた。部屋の四隅の御札が、それまで身じろぎもしなかったのに、今は急激に黒ずみはじめていた。
ナズーリンは息をするのもこらえてゆっくり体を起こす。麻袋から離れて、背後の重みから逃れるように床へ昇った。そこまでくると、一目散に外へ逃げ出した。
命蓮寺にて。
ナズーリンが居間で茶を飲んでいると、聖が部屋にやってきた。
「ナズーリン、新しい家のほうはどうですか」
「まだ、建てている途中」
「あなたさえよければ、いつまでも命蓮寺にいてよいのですよ」
「独り暮らしのほうがいい」
「そうですか。たしかに独りはスッとして楽しいですね。そういえば、星に除霊の相談をしたとか。どうなりました」
ナズーリンは首をふった。聖は二コリと微笑むと部屋を出ていった。居間が静かになる。
パキッと家鳴りがして、ナズーリンは背筋をビクリとさせる。些細な天井からの音であった。
あの夜のことを思い出したナズーリンは、そそくさと聖の後を追って廊下に出た。
■ すりむく指
幻想郷の上空。
空を飛ぶ早苗と犬の妖怪が対峙。
早苗が弾幕で妖怪を撃ち抜く。
妖怪は胸の穴から光を放ちながら消えていく。
妖怪の山の麓。
木々の間を縫う早苗にむかってモグリの天狗が飛びかかる。
早苗が天狗を蹴飛ばして弾幕で串刺しにする。
モグリの天狗は鼻が折れて草木の中に没する。
幻想郷の端。
平野の上に舞う早苗と回りを取り囲む猫の妖怪が三匹。
早苗がスペルカードを解き放って光ある風をまき散らす。
妖怪は次々に地面にたたきつけられて動かなくなる。
守矢神社。
寝巻姿の早苗が居間に入った頃には、もうテーブルの上に朝食が用意されていた。白米、納豆、白菜の浅漬け。早苗は食卓につくと、納豆をすばやくかき混ぜて白米にかけていく。
隣には身軽にシャツを着る神奈子が座っていた。いつになくジロジロとした視線を注いでくる。早苗は気になって声をかけた。
「なに」
「邪気が溜まってるね。お祓いをしたほうがいい」
「邪気、私に?」
早苗は、妖怪の気配を探るときのように自らに意識を集中させる。神奈子のいうような不気味な雰囲気のものは感じられない。
「邪気ってなんのこと」
「とりあえず祓っておこう。用意しよっか」
「あ、今日ですか。今日はちょっとお仕事が」
「妖怪退治でしょ。中止。それが原因で邪気が溜まっているんだから」
朝食を片付けた早苗は、着替えるために自室へ戻る。畳んだ布団の匂いが埃と共に部屋に漂っていた。
(邪気なんて、ないじゃない。神奈子さまはしきたりに煩いから、多分そういう話だ。妖怪を退治したら邪気が溜まるなんて聞いたことない。良いことをして悪人になるってことじゃない。
この理屈なら、霊夢さんは今ごろ大悪党だ。けど霊夢さんをみても邪気なんて感じない。同じくらい張り切っている魔理沙さんだって気配は綺麗なもんだ。雪解けの水のようだ。妖怪退治で溜まっていくものなんて、お金と名誉くらいなものだ)
早苗はタンスの引き出しを空け、服をさっと取り出して振り返る。
体がこわばる。
部屋の中央に巨大な生き物がいた。毛の抜けた猿のよう体躯で、畳にどっしりと腰を下ろしている。誰かに引っ張られでもしたかのように長く伸びた首が不気味だ。先端についている顔の、丸みを帯びた様は花弁を思わせる。目がギョロリと早苗を捉えていた。
早苗はすかさず腕を振って一粒の弾を放つ。弾は瞬きせぬ間に化け物の頭を捉えたかと思われたが、その瞬間、化け物は姿を消す。弾は襖に穴を空けてしまった。
早苗は部屋を見渡した。彼女の神経に障る気配は何一つない。もしあの化け物が妖怪か何かだとしたら、気配を消す達人か、すごい逃げ足の持ち主といえる。だが、そんな妖怪の噂は聞いたことがない。
早苗は、自分が幻を見たのだと気付くのに時間はかからなかった。少し茫然としながら、服を着替えはじめる。
(あんなにハッキリした幻ははじめて見たわね。幻を見せる妖怪がいるのかも。神社のまわり、視てまわったほうがよさそう)
早苗はこのころには、神奈子からの忠告を忘れていた。
「待ちなさい!」
「やーだよ」
妖精が扇形に弾幕をまき散らしながら、空の彼方へと逃げていく。早苗は弾幕をかいくぐって追いかけていった。距離がしだいに近づいてくる。早苗のほうも弾幕の用意をはじめる。
ふいに、右目の端に黒い影が踊り出てきた。早苗は無意識に体をひねって、その方向に弾幕をとばす。弾幕は空にきらめき、やがて力を失い煙になっていった。
早苗の視線がすかさず元へ戻る。目当ての妖精は遠くに行ってしまったが追いつける距離だ。速度を出すために体にグッと力を入れる。
再び黒い影が映りこんできた。大胆にも視界を横切っていく。早苗は苛立ちながら八方、回りを見渡した。何もいないし気配もない。
しばらく中空を彷徨う早苗の目だった。ハッと気がついて意識を妖精に戻すと、ますます遠く離れてしまっていた。妖精から放たれた残りカスの弾幕だけが、主人に見捨てられた犬のようにふらふら早苗に近づいてくる。
すっかり調子が狂ってしまった早苗は仕事を早々に諦める。
(今日は朝から変だ。猿の幻を見るし、飛蚊症みたいなものを見る。いったいなんのしわざなの)
早苗は気分をもちなおそうと思った。人間の里がよい。時間をつぶすものが、たっぷり溢れている。
市場で鯛焼きを買い、木漏れ日の下でそれにかじりついた。小風がさらりと早苗の髪の撫であげていく。心地よい昼間だ。
夕方頃になったら、またあの妖精を探しにいくと心に決めていた。それまではぼんやり過ごすつもりだったが、頭の中には別のことが渦巻く。朝に見た猿の化け物と、視界に紛れこんできた黒い影のことだ。
これらが幻だとすると、それを見せている者がいることになる。早苗はさいしょ、そいつが神社の回りに潜んでいると思っていたが、杞憂だった。神社のまわりには大した妖怪がいなかったのだ。
神社を離れて依頼をこなしているときに幻は再びやってきた。となると、まだ見ぬ敵は守矢ではなく早苗ひとりを付け狙っている。だとしても困惑を振り払うことができない。敵らしい者の気配を一つとして感じないのだ。こうやって里に降り、呑気なフリを装って尻尾をつかもうとしても収穫はない。
いまいちど状況を整理するために、朝のことを思い浮かべる早苗。それでも神奈子から言われたことを思い出すことはなかった。ただ漠然とした、忠告だかお叱りだかを受けたというスッとしない気持ちだけが残っていた。
ふと、里の景観に目をやる。人々が陽の下をせわしなく行き交っている。早苗はぼんやりと眺めていたが、やがて目を見張る。人ごみに混じって、何をするでもなく立ち尽くす人間らしきものがいた。らしき、というのも、そいつはなぜか輪郭がハッキリとしていない。だがそのぼやけた姿なりに、こちらを覗き見ている気味悪さがあった。
早苗はそいつから目を離して、妖気をたしかめようと気を張った。相変わらず妖しいものは何一つ感じられない。もう一度そいつに目をやるとまだ立っている。早苗は腰を上げるとズンズンそいつに近づいていった。往来の波に逆らって、向こう岸の土塀へ一直線だ。
道の半分にさしかかっただろうか。追いかけていたそいつがふわりと消える。早苗は瞬きをしていないし、視界を遮られもしていないのに、この様だ。どうせ消えると予想はしていたが無念さを隠しきれない。
早苗は目を伏せて元いた場所へ戻ろうとする。振り返って道を見渡した。
道中のいたるところ、黒くて毛むくじゃらの人間が、棒立ちになって早苗を見つめていた。
「アッ」
早苗は声をもらしてその場に尻もちをつく。
あらためて顔を上げると、浴衣の若者が怪訝な目をむけながら横切っていった。まわりを行くのはみな普通の人ばかり。さっき早苗を取り囲んでいた黒い集団は影も形もない。
食べかけの鯛焼きは、埃っぽい地面にあんをまき散らしていた。早苗はそれを見捨てて空へ向かう。
(もうだめ。夕方まで待ってられない。おかしい。何が私を襲っている。早く神社に帰って神奈子さまに相談しよう。たしか朝になにか話していたはず)
早苗はすばやく青空の下を突き進んでいった。その最中、気分が悪くなってきた。視界が狭まり色が失われていく。手足から感覚が抜け落ちて、動いているのか止まっているのか分からなくなってくる。
足取りがどんどん衰えて高度を保てない。気がつけば木々はもう目の前。かろうじてしがみついていた意識を奮い、ぶつからぬように体をそらすも、ぐしゃりと音の出そうな勢いで地面に不時着した。
早苗の視界はほとんど効かず、耳もただならぬキンキンいう音に侵されてほとんど不能といってよい。そうして体の中では胃が裏返りそうだった。嘔吐を抑えるために深呼吸を繰り返した。
せめて立ち上がろうと顔を上げた早苗は、力なく後ずさる。こんなときに目の前に猿の化け物が立っていた。しかも化け物は大ぶりの腕を伸ばしてくるではないか。
(これは幻だ。何かが私にみせている悪い夢だ。何も怖がることはない)
化け物の腕が早苗の肩をわしづかんできた。むわっと獣の臭いが立ち昇り、地面に押し倒される。幻だと思っていたはずのものが生々しい手触りを与えてきた。早苗を守っていた理性が弾け飛んでいくのは早かった。
「イヤ、イヤ、イヤアアアアアアアア――アアアア――」
早苗は声にならない声をあげて、手当たりしだいに弾幕を飛ばす。きらめく光は、歪む視界の中でことさら派手に踊り回った。そして煙をかき消すように、弾幕は化け物をさらさらと消し飛ばしていく。
行き場を失った弾が木々を襲う。穴のあいた幹はメリメリという音をたてて倒れていった。早苗は茫然としてその音を聞いていたが、ハッとして目の前を見る。立ちくらみの怖気は消え失せて、視界も良好だ。
草木はびこる地面に犬が横たわっていた。苦しげに舌をのばしてハッハッと荒い息遣い。毛皮は赤く濡れそぼっている。早苗は顔をひきつらせた。
「あっ、う、うそ、犬、ごめん、そんな」
早苗の呼びかけが聞こえたのかどうかは知らない。犬はピクリと顔を動かして、うらめしげな白眼を早苗に突き付けた。それきり動かなくなった。
早苗はなんともいえず胸が詰まって息苦しくなってくる。頭の中で犬や猫や、動物の鳴き声がやたらと響いて止まらない。自分でも信じられないほど罪悪感が膨らんできた。
この場から逃げ出すために慌てて飛び上がろうとするが、気ばかり焦って風をつかめない。それより手足がもつれて転びそうだ。地べたを走るしかない。
早苗がどこのどういう道を辿ったかは定かではない。彼女自身、記憶が切れ切れになっていた。気がつけば守矢神社の屋根の下、自室でうずくまって震えていた。
「ウウウウ――ウウウウ――」
口からなんの意味もなさない声を漏らす。両手の爪を立てて、畳みをガリガリと引っ掻きまわすものだから、畳の生地がささくれだって次々と早苗の指をすりむいていった。
廊下からせわしない足音とともに諏訪子が姿を現した。
「早苗、なにしてんの」
諏訪子が寄り添っても早苗はケダモノのように暴れ回るのをやめない。目がギョロりと動いて諏訪子を見つめると、赤くなった手を振り回して追い払うかのよう。諏訪子はそれを器用に避けるや、丸まった早苗の背中に乗り上げて、なにやら呪文を唱えはじめた。
「アアアアッ――――! ハアアアッ! ヤアアア――――……」
呪文が進むに応じて、早苗の声はいよいよ人間離れしていく。整った顔から吐き出される音ではない。別のおぞましい何かが早苗の喉を借りていると言ってもよかった。そして暴れざまといったら、野良犬でもまだかわいげのある動きをする。
さすがに小さな神のお言葉は効いてきたらしい。しだいに早苗の声も動きも弱々しくなっていく。しまいには使い古しのたすきのように萎れて動かなくなった。
時が進んだ。
早苗はゆっくりと目を覚ます。枕元に諏訪子と神奈子がいた。二人で相対して言い争いをしている。
「神奈子がきちんと話さないから、いけないんだよ」
「したわよ。なのにこの子ったら外に出ちゃって」
「今日話したの? あのさあ、もっと前から話しとかないと。どこの馬鹿がギリギリまで黙っているのさ」
「それは私が甘かったよ」
早苗が身を起こすと、二人と目が合う。諏訪子が身を寄せてきた。
「早苗、言葉いえるか」
「言葉ですか、えっと、どういうことでしょう」
「ああ、大丈夫そうだね」
早苗は眠る前のことを思い出そうとしたが記憶がハッキリしなかった。そしてなぜだか両手が痒いので見下ろしてみると包帯がいっぱいに巻かれている。もう一度諏訪子をみると、諏訪子は申し訳なさそうに眉をくねらせた。
「早苗、悪かったよ。本当はもっと前に話しておかなくちゃいけないことだった」
ぽつぽつと蘇ってくる記憶。犬を殺したことが脳裏によぎったとき、早苗はわなわなと身を震わせた。諏訪子にすがりつく。
「す、諏訪子さま。わたし、わたし、犬を殺してしまって、けど、けど」
「そうか。犬をか。辛いだろう。きっと本意ではなかったのだろう。わかるよ」
「事故なんです。本当に、何が起きたのか。私、私」
「辛いだろう。うん、辛いさ。殺生はね、大変だね」
しばらく、早苗は諏訪子の小さな胸のなかで泣いた。落ち着いてくると、諏訪子があることを話しはじめた。
妖怪退治をする者は常に気をつけておかねばならないことがある。妖怪、幽霊、妖精、これらを退治すれば、かならず逆恨みが返ってくる。人でいう呪いのようなものだが、これらが施すそれは人よりも確実でタチが悪い。
確実な逆恨みの気は、妖怪退治の本人にポツポツと溜まっていく。そうして妖怪、幽霊、妖精それぞれの逆恨みの仕方はデタラメだ。奴を不幸に、奴の食う飯がまずくなるように、奴の色恋沙汰がダメになるように、など。混ざり合って互いに強めあったり、かき消しあったりしながら、呪わしい思惑ばかりが濃くなっていく。
何も手を施さなければ、あるとき、それは破裂するだろう。すると本人は必ずのっぴきならない不幸に見舞われる。つもりつもった怨みの数々、何を起こすか祟った者にもわからない。気狂いになるのはまだぬるいほう。人によっては一家もろとも病に倒れ家系を絶やしたとか。
早苗は、幻想郷で妖怪退治に熱中してからというもの、今日の今日まで怨みのお祓いを一度もしなかった。そんなことで自分を祓うなど、考えもしていなかった。
目を覚ました早苗は、神奈子と諏訪子につれられて改めて正式なお祓いを受けた。なんとなく胸がスッとした気がした。だが、神奈子の忠告を聞かなかったということで、諏訪子からたっぷり叱られた。
■ 輝夜の夢
永遠亭で珍しくも宴があった。
鈴仙は宴の仕切りできりきり働き、終わった頃には指先一つ満足に動かなかった。倒れるように布団にもぐって眠ったのは、もはやいつ頃だったかわからない。
鈴仙が寝室で寝入っていると、ふいに襖の開く音がした。するするという静かな足音もしたので、いくら疲労困ぱいの鈴仙とはいえ目を覚ました。
師匠の永琳が仕事をよこしにきたのだと思った。まだ後始末の済んでいない宴の後だから、何がきても不思議はない。だが闖入者は声をかけてこない。耳だけで様子をうかがっていると、どんどん近づいてくる気配だ。
鈴仙はドキリとする。体にかけていた毛布をめくられた。かと思えば、鈴仙の丸めた背中に人の体が押し当てられた。いったい何事かと思ってみれば、何事もなかったかのように闖入者は寝息をたてはじめる。
しばらくは背後の人物を恐れて息を殺していた鈴仙だ。しかし寝息の雰囲気と、かすかに鼻をくすぐる香料の匂いにつけ、どうやら背後にいるのが輝夜らしいと気付いた。
(輝夜さま、今日はそうとう呑んでいたっけ。酔って寝ぼけて私の部屋にやってきたんだ。起こしてあげたほうがいいのかな。部屋まで送ってあげないと師匠にどやされるかも)
すると、輝夜の腕が鈴仙の寝巻をぐっと掴んで離さない。身を起そうとしていた鈴仙なので、これには参った。粗相のないよう静かに手を払いのけようとすると、声まで漏らしはじめる。
目を覚ましたのかと思いきや、違うようだった。それは声にならない呻き声で、まさに寝言というものだった。何か言っているようで聞き取れない。
ここでふと、鈴仙の中に探究心が芽生えた。不気味がりつつも、ちょっと寝言をたしかめてみようと思ったのだ。ところが、先もいった通り意味の図りかねる音ばかり耳をつっつく。
いたずらに時間が過ぎていく。
輝夜は急に寝言をやめて、またかわいらしい寝息をたてはじめた。ところが、一拍おいて急に泣きはじめた。かわいげある泣き方ではない。
「うううう……うあああああああ……おおおお……」
そんなものを背中に受け止める羽目になった鈴仙だから、すっかりたまげて縮こまる。
この心を絞り上げてくるようなむせび泣きは長く続いた。その間、鈴仙は何もすることができずにいた。
「ああああ……あっあっえっへっ……」
下手に動いては、恐ろしい仕返しを喰らいそうな気がしてならない。輝夜がそんなことをする人ではないと分かっていても、やはり気が引ける。
「んうううぅぅぅぅ……ああ、ああ、うあああ……」
やがて、泣きだしたときと同じように、輝夜は唐突に静かになった。
鈴仙はしばらく気をつかわずにおれなかった。またいつ泣きだすやもしれない。それでも、疲れた体に眠りかけていた意識だ。輝夜の寝息が甘い麻酔薬となって、鈴仙をとろとろにしていく。気がつけばまぶたが閉じていた。
翌日。
鈴仙が目覚めると輝夜は影も形もなくなっていた。
昨夜の宴の片付けが残っていたので、鈴仙は朝から永遠亭を駆け巡った。ところが昨夜のことが頭から離れない。時間の合間を縫って、輝夜の様子をたしかめにいった。
輝夜は部下の兎たちといっしょに遊んでいた。やたらと大きな盤面の大局将棋だ。それを見下ろすやわらかい笑みに、昨夜の面影は見つけられない。
「飛車がすごいわねえ」
「歩が役立たずなんですよ」
「もっと歩を出しましょ。そっちあるから。そっちの駒も置いちゃって」
「やっぱ役立たずですって。三マスいけることにしましょう」
「ダメよ」
春場の花のようにほがらかな輝夜。永遠亭で過ごす輝夜はいつもこんな調子だ。少なくとも落涙の姿を見せたことは一度としてない。
「ねえこれ、王手っぽくない?」
「違いますよ。ほら動ける」
「盤が広いから手が狂うのよ」
「これどっから歩じゃなくなるんですか」
「真ん中からでいいんじゃない」
鈴仙は部屋をそっと離れて宴の片付けにもどったが、まだ心のしこりは残っていた。ものをあっちこっちに動かして廊下をさっさと進みながら、しこりを揉みほぐすように思考を整える。
(昨日は夢だったんだ。疲れていたから変な夢をみたんだ。昨日の宴で輝夜さまに絡まれたっけ。そういうもんって夢にみるもんだ)
体を働かせていれば、いずれ消え去る一夜の夢か。鈴仙、そう高をくくって朝日と共に動き回った。しかし時が経てども、心のしこりは大きなままだった。輝夜は素知らぬ顔をしているが、それはかえって鈴仙の気を揉んだ。
食堂にて、昼食を食べる鈴仙の手つきはおぼつかない。いつもより遅めに食べ終えた頃には、鈴仙はあることを決意していた。輝夜の泣きの秘密を確かめてみたいと思った。
都合よく診療所に急患がやってきて永琳が診察にあたった。
鈴仙は永琳の薬品保管室に入った。記憶が正しければ、夢に入りこめるようになる薬があったはずだ。それがあると思しき薬棚はみつかったが、ガラス戸を開くための鍵が見つけられない。
廊下から永琳の足音が近づいて、保管室の前を通り過ぎていく。鈴仙は急ぐために別の薬を探すことにした。そして、やっと見つけた鍵で別の薬棚を紐解いた。そこにあるのは求めていたのより下級の薬だった。夢に入るのではなく、他人の夢を覗き見るだけの薬だ。
他に手はない。鈴仙は薬瓶をブレザーのポケットに滑りこませ、保管室を後にした。
その夜、鈴仙が目をつむる前に味わったのは、甘みと苦みの混じる薬だった。
輝夜の夢は色あせて、あちこちが破れぼやけていた。こんな夢は滅多にみられるものではない。年かさの人の夢はこんなに醜く曖昧なものだろうか。
鈴仙はどことも知れない屋敷の中にぽつんと立っていた。襖に遮られた奥の部屋から泣き声が聞こえてきた。
鈴仙は気を引き締めてゆっくりと襖を開いた。夢の中で身構えることは何もないが、つい忍びたくもなってしまう。部屋を覗きみると、まず輝夜が目にうつった。豪奢な十二単に包まれた身をかがめて、垂れた黒髪が顔を覆い隠してる。
泣いているようだった。華やかな見た目とは裏腹に泣き声は遠慮ない。寝言で泣きじゃくっていたのは、これが元に違いない。
だが、なぜ泣いているのだろうか。鈴仙はまだじっとしたまま様子を見守っていた。すると背後から足音がしたので、慌てて振りかえった。
みたことのない老人が真っすぐに鈴仙へ近づいてきた。が、鈴仙に見向きもせず、体にぶつかることもなくすうっと通り過ぎていった。襖を大きく開いて輝夜のそばへ寄り添った。
鈴仙はホッとしつつ恥ずかしくなる。他人の夢の中を見ているだけだ。バレることはない。慌てるなんてばからしい。
老人が輝夜の頭を撫でながら、二言三言やさしい声色で声をかけた。よく聞き取れない。記憶が抜け落ちているせいでハッキリしていないのだろうが、言葉がひどく古風なのも耳を通らない理由だった。なんと古い大和言葉だろうか。いまどき妖怪でも使わない。
輝夜は顔をあげて、老人と目線を交わし合う。鈴仙がやっと見ることのできた輝夜の顔は、それはもう目がまざまざと腫れて、頬は水を被ったかの如く濡れそぼっている。いったいどれだけの悲しみに暮れたら、こうもなろうか。
二人の様子をみているうちに、さすがの鈴仙も事情がのみこめてきた。しだいに緊張してくる。
(これが輝夜さまの、かぐや姫たる記憶か。地上ですごされた頃の思い出が悲しみと共に残っているということか。ならこのおじいさんは、あの人だ)
鈴仙はまたそっと身をひるがえした。縁側のあるほうに見当をつけて、そちらの襖を開いてみると、これが当たりだ。風情ある中庭が姿を現した。空を見上げると、禍々しくも赤みがかっている。月は遠眼鏡で覗いたかのように膨れ上がっている。あたかも、いますぐ降って落ちてきそうだ。
どうも現実離れした有り様だが、これは輝夜の心を映しとっているからだろう。特に月の大きさよ。人はとりわけ印象に残っているものを、巨大なものとして記憶に留めるという。
月の様子から暦を算出しようとした鈴仙の試みは無駄に終わった。この記憶が何月のそれかはわからずじまい。もう一度座敷にもどって輝夜の様子を覗き見る。泣きやんでいて、いくらか和やかに老人と言葉を交わしていた。それは別段面白いこともなかったが、鈴仙はなぜだか飽きずに眺めつづけた。
しばらく変わり映えのしない景色。
ふいに輝夜が鈴仙へ振り返ってくる。鈴仙は驚きつつも、どうせ夢だと身を引かない。ところが輝夜の視線はじろりと鈴仙を睨みつけて離れない。
明らかにみている。
まさか、と鈴仙は思った。
一人口を動かし続ける老人を尻目に、輝夜は立ち上がった。そうしてモノ凄い勢いで鈴仙の目の前にやってくるではないか。鈴仙は呆気にとられて、ただ輝夜を見上げることしかできなかった。
「起きろ」
透き通った声が鈴仙の耳を打つ。
その刹那、鈴仙はハッと目を覚ます。見慣れた永遠亭の天井が、ずんと頭上を圧している。部屋は薄暗く、その暗みの様からして月高い真夜中か。
(夢を覗き見ていただけなのに、輝夜さまはこっちに気付いた。そんなわけ。そういう風に見えただけかも。私がちょっと神経質になっていたから)
もう一度めをつむる鈴仙。こんどは自分の夢を見にいくつもりだったが、目が冴え渡って眠れやしない。そうやって朝日が来るまで天井とにらめっこをした。
朝。
寝そびれてしまった鈴仙は腹が空いていた。誰よりも早く食堂におもむいて、自炊で飯をつくろうと思った。
廊下に出た鈴仙を待っていたのは、寝巻姿の輝夜だった。
「ついてきなさい。話がある」
「あの」
「話はみんな部屋にいってから」
輝夜の顔に刺す影は寝起きの不機嫌か、それとも別のなにかか、鈴仙には図りかねた。だがとにかく従わないわけにはいかない。輝夜の背中を追いかけて永遠亭の長い廊下をぐるぐると進んでいく。しまいにどことも知れない部屋に招かれた。畳に座して、二人は相対する。
閉め切られた部屋だ。朝日は射さず、灯篭だけが不確かな光を放つ。鳥の音も風の音もない。万物から締め出された部屋だった。そんな中で輝夜の顔をみていると、鈴仙は気が気でなくなってきた。
(まず謝る)
鈴仙の頭が畳にこすりつけられる。
「申し訳ありませんでした。覗き見ました」
「そうね。無断で人の夢をみた不敬、とくと反省しなさい」
輝夜の声色はハキハキとしていて、高貴なものの振る舞いと呼ぶにふさわしかった。
「仰る通りに」
「表を上げなさい。話すことがある」
鈴仙が顔を上げると、輝夜の声色が少し弱くなる。
「鳥ははじめに見たものを親と思い、生涯忘れないそうで」
「え、はあ。そう聞きますね」
「私のはじめて見たものはアレらではないけど、ちょうどそんなところなの」
アレらと聞いて、鈴仙の脳裏をよぎる老人のしわれ顔。
「記憶ってへんね。些細なものばかり強くのこっている。コテで焼きつけたよう。私はいつになったらアレらを忘れることができるのかしら。いや、答えなくていい。そのまま聞いておきなさい。
ときおりあの夢をみる。私の冗長な人生において、ほんの一間もなかったあの生活が、季節を巡るように花を咲かせては消えていく。私があの頃にしかと感じたあれこれが、まざまざと心によみがえっては、いえあの頃より砥がれ洗練された気持ちとなって、私の目を濡らしていく。今は古き戯れを責めるよう。呪いのよう。思い出は呪いになるのね。
本当に、アレらは、変ね。体験したことのないことまで夢に出てくる。まるで今でも生きているような顔をみせたりね。去年なんて、アレらとご飯を食べたのよ。あの頃になかったはずの食べ物を一緒に食べたのよ。にこにこ私に話しかけてくるのよ。
どうだ、婿をとらぬのか。そしたら私は、おじいさん、私は誰の元にも参りませぬ。誰の元にも……って。
ごめんなさいね。こんな恥ずかしい話を聞かせてしまって。ときおり、どうしても我慢できなくなるの。哀しいやら、懐かしいやら、そんなもので胸がいっぱいになって節操がなくなっちゃう。
ごめんなさいね。あなたの布団にもぐりこんでしまったことも、ごめんなさいね。酔うとダメね。あの日の夢は鮮明だった。私、かなりうるさかったでしょう。
ありがとうね。このことは忘れてちょうだい。もう行っていいわよ」
鈴仙はしばらく輝夜の顔色をうかがっていたが、どうやら本当に話はこれっきりらしかった。
鈴仙は深々とお辞儀をして厳かに廊下へ出た。
待っていたのは、厳かに立つ永琳だった。
鈴仙はハッと気がつくと食堂にいた。朝の食堂は兎たちでにぎわっている。鈴仙の前にはテーブルを隔てて永琳が座り、黙々と箸を進めていた。
(なんだ……?)
鈴仙はしばらく空気をつかみかねた。なぜ自分が食堂にいるのか見当がつかない。なにせ布団から起き上がった記憶すらないのだ。
(宴があったはず。それで夜遅くに眠ったはず。それで、えっと、寝すぎちゃったのかな。いやでも食堂にいるし、この感じはまだ朝だし、師匠も食べている)
永琳がいつも通りの冷めた目をむけてきた。
「食べないの?」
鈴仙は言われてはじめて、目の前に食堂の料理があることに気付いた。いつ料理をとったのかまるで思いだせなかった。なんだかさっぱり歯車の噛み合っている感じがしない。鈴仙は場をとりつくろうために口を開いた。
「ねえ、師匠、宴の片付けってもういいんですかね」
「宴って、いつの話してるの」
「昨日の」
「おとといでしょ」
鈴仙の頭がますますこんがらがっていく。目をぱちぱちさせていると、永琳がニヤニヤと笑いだした。
「あなたよく呑んでたじゃない」
「そう、でしたっけ」
「そうよ。呑んでた。だから昨日も布団から出てこなかったじゃない」
昨日とかおとといとか、鈴仙はもう何から考えればいいかわからない。
しばらく悩んだ末に、自分がえらく腹を空かしていることに気付く。とりあえず箸をとって手を合わせた。おぼんにならぶ料理は鈴仙が普段とらぬものばかりだ。
永琳と鏡合わせの如く、鈴仙は黙々と箸を進めはじめる。ふっと脳裏に輝夜の泣き声が聞こえたような気がしたが、なぜなのか分からなかった。
月が顔を高くする夜。
ナズーリンは住処たる小屋の中で、一人黙々と夜食を進めていた。夜行性のネズミである彼女は、これから外に出る。小遣い稼ぎにしている物探し業、そのための英気を養っているところであった。
玄米の握り飯、焼き鮭、菜入りの味噌汁に、命蓮寺からくすねてきた瓜の漬物。すばやく口に運んでいく。明かりは蝋燭ただ一つであったが、獣の目にはそれで事足りた。
「……」
ふと、家鳴りがした。ナズーリンは大きく丸い耳だけを動かして、それを聞き漏らさなかった。建てて間もないあばら家であるが早くもボロの貫録か。
「……」
家鳴りが止まない。ナズーリンは顔を上げて、音の出所に振りかえる。
土間が暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。出入り口からかすかに夜風が吹きこんで、引戸をゴトゴトと鳴らしていた。
ナズーリンは食事にもどる。握り飯をかじるたびに、味噌汁をのんで、口の中でかき混ぜた。気が向いたら瓜漬けを食べて、爽やかな味に少し酔いしれた。
「…………」
また音が鳴り始めたが、今度のは家鳴りではなかった。ナズーリンはにわかに目を見開いて。音に意識を集める。
それは足音のようにも聞こえた。だがハッキリとしない。ギイ、ギイ、と一定の感覚で床板がきしむのだが妙に小さい。一つ言えることは、これは幻聴ではない。
ギイ、ギイ、音はナズーリンの背後にいた。すぐそばである。正座する足を組み直しただけで、音の源に触れてしまいかねない。なのでナズーリンは、さっきまでせわしなく動かしていた箸をすっかり止めていた。お膳の上に置こうともしない。
ギイ、ギイ、音はかすかに動いている。今はナズーリンの右側に回り込みつつあった。だが彼女がちらりと横目にみても何もない。夜の帳の降りる殺風景な居間があるだけである。
ナズーリンの首筋に冷や汗が伝う。
この音に遭遇するようになったのは最近である。いつもナズーリンの周りを巡るように動いていく。今はちょうど、真正面から音がしている。彼女の耳は狂っていない。だが目にうつるのは埃っぽい床板だけであった。
音は何度かナズーリンの周りを巡ったあと、すうっと消えていった。ナズーリンはそれとわかるや残った夜食をお腹にかきこんで、おぼんを水場へ放り込んだ。
外へ出る前に小屋の中へ振りかえる。消した蝋燭からたちのぼる煙が、人の手のように揺れ動いていた。
「ナズーリン、なにか悩みがありますか」
命蓮寺にて、寅丸星がそう尋ねてきた。ナズーリンは目を丸くする。
「なぜですか」
「そんな顔をしていますよ」
ナズーリンはうつむきながら夜中の出来事を思い出す。音の正体には察しがついていた。どうせろくでもない幽霊だろう。だがナズーリンは弾幕以外で幽霊を追い払う方法を知らない。
「御主人、なにか手頃な除霊のやり方などを知りませんか」
「手頃な、ですか。幽霊に困っているのですか」
ナズーリンはうなづいた。星は詳細が知りたそうに顔を覗きこんできたが、すぐに背筋を正して懐に手をいれた。四枚ほどの御札が差し出される。
「危なそうなところに貼りなさい。御札が汚れれば、除霊できている証拠」
月の傾く夜。
ナズーリンはてきぱきと夜食を片付けていく。今日も物探し業に勤しもうとしていた。
居間の四隅の柱には星からもらった御札を貼り付けてある。御札は蝋燭の明かりに照らされ、禍々しい文様を浮かび上がらせていた。ナズーリンはその文様を読んで、知識の許す限りで力のほどを考察する。たぶん良い呪文だった。
「……」
ギイ、ギイ。かすかな隙間風の音に混じって、例の物音が聞こえてくる。ナズーリンはすみやかに耳をそばだてて、いきさつを見守った。
ギイ、ギイ、と決まってナズーリンの背後から音がはじまる。まるで彼女の何らかを値踏みするように、慎重深い足取りで回りを巡りだす。
「……」
ナズーリンはちらりと御札を見上げた。物は黙して語らない。破れることもなければ黒ずむこともない。一方、音は右手のそばまでやってきたところであった。今日も変わらず、何巡りかで立ち去るつもりか。ナズーリンは少し諦めをつけた。
そのとき、音の様子が変わる。ひた、と止んだ。ナズーリンは身じろぎもしなかったが、内心では焦って耳をそばだてる。てっきり自分が音を見失ったのかと思った。
ギイ、ギイ。音が鳴り始める。動きが変わって、背後に戻りつつあった。こんなことは今までなかったので、ナズーリンは期待混じりに緊張する。御札の効果かもしれない。
音は真後ろへ来るとまた一拍の微妙な間を空けた。
「…………」
ナズーリンは体をこわばらせる。背後の空気が急に重たくなった気がした。誰かいるような得体のしれない圧迫感。
ガリ、ガリリ、カッカッ、カリ、ガリ、ガリ、ガリリ……。
奇怪な音が聞こえてきた。爪で物を引っ掻いているようである。まぎれもなくナズーリンの背後、それもかなり近い場所から聞こえてくる。自然と背中がこそばゆくなってくるのが居心地悪い。
ナズーリンは怯えつつも、また御札に目をやる。星からもらったときと同じく真新しい姿であった。なぜだろう、この幽霊には御札が効かないのか。
ガリ、ガリリ。音は止まない。ナズーリンは不安を膨らませる。この音は、床板を削り取っているように聞こえる。削り取って、何をしようというのか。
「……」
ふと、ナズーリンはあることに気付く。
今まで音の出所は、てっきり、部屋の中を蠢いているのだと思っていた。だから御札を部屋の四隅に張りつけた。そうすれば部屋を囲んで守ってくれる。この幽霊は守りを意に介することがない。そしてこの爪の音は、どちらかというと部屋の中よりも、部屋の下から聞こえている気がする。
うつむいたままのナズーリン。自分のスカートに覆い隠された床板の、さらなる底を睨みつける。前からずっと、そこにいるとしたら。
音の主にバレぬようゆっくりと立ち上がってみた。立ちあがって深呼吸をする。まだ音は止まない。料理を置いたおぼんを部屋の隅へ運んで。また中央へ戻る。
ナズーリンは決心した。爪を立てて、勢いにまかせて床板の隙間へ挟みこむ。両腕に力をこめると、床板がメリメリと剥がれはじめた。自分で建てた小屋だが、この際なりふり構っていられない。
一枚を剥がし終わった頃には例の音が消え失せていた。さらに二枚三枚と片付けて、床下の地面を露わにさせる。あれだけ嫌な音が響いていたのに、床板の裏面にはこれといった傷はない。
床下はぽつぽつと雑草が生えて、わらじ虫やゲジゲジがざわついていたが、他には何もない。だがここまでくれば、妖怪の端くれであるナズーリンである。ただならぬ気に鳥肌を立たせずにおれなかった。
ナズーリンの獣らしい鋭い爪がひらめき、瞬く間に土を掘り返していく。浅いところで早くも土の感触が違ってきた。まず見えてきたのは腐った麻袋。それは大きいが細長く、くの字に折れ曲がっていた。全てを外気にさらけ出すと、ただの麻袋ではないことがわかる。表面には呪術の跡と思しき文字や文様が、おびただしく記されている。麻袋そのものを締めつけているかのようである。
麻袋は掘り起こしたと同時に、強烈な臭いを放ちはじめた。ナズーリンは耐えきれず咳きこんだ。どうしたことか、咳に呼ばれたように麻袋の端がめくれて内側から何かまろび出てきた。
骨である。手の骨だろうか。いったい何の生き物の骨か。五本の指は細長く木の枝のように長い。人間にみえず動物とも違う。妖怪かもしれないが、こんな妖怪は見たことがない。
ナズーリンは恐怖に顔をひきつらせた。今までこんな腐れの真上で飯を食っていたのか。こんなものの上でくつろぎ、遊び、寝ていたというのか。そう思うと吐き気さえ感じられた。体の隅々まで穢されているような感覚がとめどなく溢れてきた。
にも関わらず手は自然と麻袋へのびていった。中身をみなければいけないと、脅迫的に心が騒ぎ立つ。骨に触れぬよう慎重な手つきで、麻袋の端を、あともう少しでつまみかける。
「…………」
再び、背後に何かのいる気配がした。
床下のひやりとした空気のせい。いや、そんなもので誤魔化しきれない。明らかに、何かが立っているとしか思えない。それに呼応するかのように、家鳴りがする。屋根がパキッと震え、戸口がガタリと揺れた。
ナズーリンの目が部屋を見渡す。これだけの圧力を放ちながら、相手は姿をみせない。代わりに、いると感じさせることが起きていた。部屋の四隅の御札が、それまで身じろぎもしなかったのに、今は急激に黒ずみはじめていた。
ナズーリンは息をするのもこらえてゆっくり体を起こす。麻袋から離れて、背後の重みから逃れるように床へ昇った。そこまでくると、一目散に外へ逃げ出した。
命蓮寺にて。
ナズーリンが居間で茶を飲んでいると、聖が部屋にやってきた。
「ナズーリン、新しい家のほうはどうですか」
「まだ、建てている途中」
「あなたさえよければ、いつまでも命蓮寺にいてよいのですよ」
「独り暮らしのほうがいい」
「そうですか。たしかに独りはスッとして楽しいですね。そういえば、星に除霊の相談をしたとか。どうなりました」
ナズーリンは首をふった。聖は二コリと微笑むと部屋を出ていった。居間が静かになる。
パキッと家鳴りがして、ナズーリンは背筋をビクリとさせる。些細な天井からの音であった。
あの夜のことを思い出したナズーリンは、そそくさと聖の後を追って廊下に出た。
■ すりむく指
幻想郷の上空。
空を飛ぶ早苗と犬の妖怪が対峙。
早苗が弾幕で妖怪を撃ち抜く。
妖怪は胸の穴から光を放ちながら消えていく。
妖怪の山の麓。
木々の間を縫う早苗にむかってモグリの天狗が飛びかかる。
早苗が天狗を蹴飛ばして弾幕で串刺しにする。
モグリの天狗は鼻が折れて草木の中に没する。
幻想郷の端。
平野の上に舞う早苗と回りを取り囲む猫の妖怪が三匹。
早苗がスペルカードを解き放って光ある風をまき散らす。
妖怪は次々に地面にたたきつけられて動かなくなる。
守矢神社。
寝巻姿の早苗が居間に入った頃には、もうテーブルの上に朝食が用意されていた。白米、納豆、白菜の浅漬け。早苗は食卓につくと、納豆をすばやくかき混ぜて白米にかけていく。
隣には身軽にシャツを着る神奈子が座っていた。いつになくジロジロとした視線を注いでくる。早苗は気になって声をかけた。
「なに」
「邪気が溜まってるね。お祓いをしたほうがいい」
「邪気、私に?」
早苗は、妖怪の気配を探るときのように自らに意識を集中させる。神奈子のいうような不気味な雰囲気のものは感じられない。
「邪気ってなんのこと」
「とりあえず祓っておこう。用意しよっか」
「あ、今日ですか。今日はちょっとお仕事が」
「妖怪退治でしょ。中止。それが原因で邪気が溜まっているんだから」
朝食を片付けた早苗は、着替えるために自室へ戻る。畳んだ布団の匂いが埃と共に部屋に漂っていた。
(邪気なんて、ないじゃない。神奈子さまはしきたりに煩いから、多分そういう話だ。妖怪を退治したら邪気が溜まるなんて聞いたことない。良いことをして悪人になるってことじゃない。
この理屈なら、霊夢さんは今ごろ大悪党だ。けど霊夢さんをみても邪気なんて感じない。同じくらい張り切っている魔理沙さんだって気配は綺麗なもんだ。雪解けの水のようだ。妖怪退治で溜まっていくものなんて、お金と名誉くらいなものだ)
早苗はタンスの引き出しを空け、服をさっと取り出して振り返る。
体がこわばる。
部屋の中央に巨大な生き物がいた。毛の抜けた猿のよう体躯で、畳にどっしりと腰を下ろしている。誰かに引っ張られでもしたかのように長く伸びた首が不気味だ。先端についている顔の、丸みを帯びた様は花弁を思わせる。目がギョロリと早苗を捉えていた。
早苗はすかさず腕を振って一粒の弾を放つ。弾は瞬きせぬ間に化け物の頭を捉えたかと思われたが、その瞬間、化け物は姿を消す。弾は襖に穴を空けてしまった。
早苗は部屋を見渡した。彼女の神経に障る気配は何一つない。もしあの化け物が妖怪か何かだとしたら、気配を消す達人か、すごい逃げ足の持ち主といえる。だが、そんな妖怪の噂は聞いたことがない。
早苗は、自分が幻を見たのだと気付くのに時間はかからなかった。少し茫然としながら、服を着替えはじめる。
(あんなにハッキリした幻ははじめて見たわね。幻を見せる妖怪がいるのかも。神社のまわり、視てまわったほうがよさそう)
早苗はこのころには、神奈子からの忠告を忘れていた。
「待ちなさい!」
「やーだよ」
妖精が扇形に弾幕をまき散らしながら、空の彼方へと逃げていく。早苗は弾幕をかいくぐって追いかけていった。距離がしだいに近づいてくる。早苗のほうも弾幕の用意をはじめる。
ふいに、右目の端に黒い影が踊り出てきた。早苗は無意識に体をひねって、その方向に弾幕をとばす。弾幕は空にきらめき、やがて力を失い煙になっていった。
早苗の視線がすかさず元へ戻る。目当ての妖精は遠くに行ってしまったが追いつける距離だ。速度を出すために体にグッと力を入れる。
再び黒い影が映りこんできた。大胆にも視界を横切っていく。早苗は苛立ちながら八方、回りを見渡した。何もいないし気配もない。
しばらく中空を彷徨う早苗の目だった。ハッと気がついて意識を妖精に戻すと、ますます遠く離れてしまっていた。妖精から放たれた残りカスの弾幕だけが、主人に見捨てられた犬のようにふらふら早苗に近づいてくる。
すっかり調子が狂ってしまった早苗は仕事を早々に諦める。
(今日は朝から変だ。猿の幻を見るし、飛蚊症みたいなものを見る。いったいなんのしわざなの)
早苗は気分をもちなおそうと思った。人間の里がよい。時間をつぶすものが、たっぷり溢れている。
市場で鯛焼きを買い、木漏れ日の下でそれにかじりついた。小風がさらりと早苗の髪の撫であげていく。心地よい昼間だ。
夕方頃になったら、またあの妖精を探しにいくと心に決めていた。それまではぼんやり過ごすつもりだったが、頭の中には別のことが渦巻く。朝に見た猿の化け物と、視界に紛れこんできた黒い影のことだ。
これらが幻だとすると、それを見せている者がいることになる。早苗はさいしょ、そいつが神社の回りに潜んでいると思っていたが、杞憂だった。神社のまわりには大した妖怪がいなかったのだ。
神社を離れて依頼をこなしているときに幻は再びやってきた。となると、まだ見ぬ敵は守矢ではなく早苗ひとりを付け狙っている。だとしても困惑を振り払うことができない。敵らしい者の気配を一つとして感じないのだ。こうやって里に降り、呑気なフリを装って尻尾をつかもうとしても収穫はない。
いまいちど状況を整理するために、朝のことを思い浮かべる早苗。それでも神奈子から言われたことを思い出すことはなかった。ただ漠然とした、忠告だかお叱りだかを受けたというスッとしない気持ちだけが残っていた。
ふと、里の景観に目をやる。人々が陽の下をせわしなく行き交っている。早苗はぼんやりと眺めていたが、やがて目を見張る。人ごみに混じって、何をするでもなく立ち尽くす人間らしきものがいた。らしき、というのも、そいつはなぜか輪郭がハッキリとしていない。だがそのぼやけた姿なりに、こちらを覗き見ている気味悪さがあった。
早苗はそいつから目を離して、妖気をたしかめようと気を張った。相変わらず妖しいものは何一つ感じられない。もう一度そいつに目をやるとまだ立っている。早苗は腰を上げるとズンズンそいつに近づいていった。往来の波に逆らって、向こう岸の土塀へ一直線だ。
道の半分にさしかかっただろうか。追いかけていたそいつがふわりと消える。早苗は瞬きをしていないし、視界を遮られもしていないのに、この様だ。どうせ消えると予想はしていたが無念さを隠しきれない。
早苗は目を伏せて元いた場所へ戻ろうとする。振り返って道を見渡した。
道中のいたるところ、黒くて毛むくじゃらの人間が、棒立ちになって早苗を見つめていた。
「アッ」
早苗は声をもらしてその場に尻もちをつく。
あらためて顔を上げると、浴衣の若者が怪訝な目をむけながら横切っていった。まわりを行くのはみな普通の人ばかり。さっき早苗を取り囲んでいた黒い集団は影も形もない。
食べかけの鯛焼きは、埃っぽい地面にあんをまき散らしていた。早苗はそれを見捨てて空へ向かう。
(もうだめ。夕方まで待ってられない。おかしい。何が私を襲っている。早く神社に帰って神奈子さまに相談しよう。たしか朝になにか話していたはず)
早苗はすばやく青空の下を突き進んでいった。その最中、気分が悪くなってきた。視界が狭まり色が失われていく。手足から感覚が抜け落ちて、動いているのか止まっているのか分からなくなってくる。
足取りがどんどん衰えて高度を保てない。気がつけば木々はもう目の前。かろうじてしがみついていた意識を奮い、ぶつからぬように体をそらすも、ぐしゃりと音の出そうな勢いで地面に不時着した。
早苗の視界はほとんど効かず、耳もただならぬキンキンいう音に侵されてほとんど不能といってよい。そうして体の中では胃が裏返りそうだった。嘔吐を抑えるために深呼吸を繰り返した。
せめて立ち上がろうと顔を上げた早苗は、力なく後ずさる。こんなときに目の前に猿の化け物が立っていた。しかも化け物は大ぶりの腕を伸ばしてくるではないか。
(これは幻だ。何かが私にみせている悪い夢だ。何も怖がることはない)
化け物の腕が早苗の肩をわしづかんできた。むわっと獣の臭いが立ち昇り、地面に押し倒される。幻だと思っていたはずのものが生々しい手触りを与えてきた。早苗を守っていた理性が弾け飛んでいくのは早かった。
「イヤ、イヤ、イヤアアアアアアアア――アアアア――」
早苗は声にならない声をあげて、手当たりしだいに弾幕を飛ばす。きらめく光は、歪む視界の中でことさら派手に踊り回った。そして煙をかき消すように、弾幕は化け物をさらさらと消し飛ばしていく。
行き場を失った弾が木々を襲う。穴のあいた幹はメリメリという音をたてて倒れていった。早苗は茫然としてその音を聞いていたが、ハッとして目の前を見る。立ちくらみの怖気は消え失せて、視界も良好だ。
草木はびこる地面に犬が横たわっていた。苦しげに舌をのばしてハッハッと荒い息遣い。毛皮は赤く濡れそぼっている。早苗は顔をひきつらせた。
「あっ、う、うそ、犬、ごめん、そんな」
早苗の呼びかけが聞こえたのかどうかは知らない。犬はピクリと顔を動かして、うらめしげな白眼を早苗に突き付けた。それきり動かなくなった。
早苗はなんともいえず胸が詰まって息苦しくなってくる。頭の中で犬や猫や、動物の鳴き声がやたらと響いて止まらない。自分でも信じられないほど罪悪感が膨らんできた。
この場から逃げ出すために慌てて飛び上がろうとするが、気ばかり焦って風をつかめない。それより手足がもつれて転びそうだ。地べたを走るしかない。
早苗がどこのどういう道を辿ったかは定かではない。彼女自身、記憶が切れ切れになっていた。気がつけば守矢神社の屋根の下、自室でうずくまって震えていた。
「ウウウウ――ウウウウ――」
口からなんの意味もなさない声を漏らす。両手の爪を立てて、畳みをガリガリと引っ掻きまわすものだから、畳の生地がささくれだって次々と早苗の指をすりむいていった。
廊下からせわしない足音とともに諏訪子が姿を現した。
「早苗、なにしてんの」
諏訪子が寄り添っても早苗はケダモノのように暴れ回るのをやめない。目がギョロりと動いて諏訪子を見つめると、赤くなった手を振り回して追い払うかのよう。諏訪子はそれを器用に避けるや、丸まった早苗の背中に乗り上げて、なにやら呪文を唱えはじめた。
「アアアアッ――――! ハアアアッ! ヤアアア――――……」
呪文が進むに応じて、早苗の声はいよいよ人間離れしていく。整った顔から吐き出される音ではない。別のおぞましい何かが早苗の喉を借りていると言ってもよかった。そして暴れざまといったら、野良犬でもまだかわいげのある動きをする。
さすがに小さな神のお言葉は効いてきたらしい。しだいに早苗の声も動きも弱々しくなっていく。しまいには使い古しのたすきのように萎れて動かなくなった。
時が進んだ。
早苗はゆっくりと目を覚ます。枕元に諏訪子と神奈子がいた。二人で相対して言い争いをしている。
「神奈子がきちんと話さないから、いけないんだよ」
「したわよ。なのにこの子ったら外に出ちゃって」
「今日話したの? あのさあ、もっと前から話しとかないと。どこの馬鹿がギリギリまで黙っているのさ」
「それは私が甘かったよ」
早苗が身を起こすと、二人と目が合う。諏訪子が身を寄せてきた。
「早苗、言葉いえるか」
「言葉ですか、えっと、どういうことでしょう」
「ああ、大丈夫そうだね」
早苗は眠る前のことを思い出そうとしたが記憶がハッキリしなかった。そしてなぜだか両手が痒いので見下ろしてみると包帯がいっぱいに巻かれている。もう一度諏訪子をみると、諏訪子は申し訳なさそうに眉をくねらせた。
「早苗、悪かったよ。本当はもっと前に話しておかなくちゃいけないことだった」
ぽつぽつと蘇ってくる記憶。犬を殺したことが脳裏によぎったとき、早苗はわなわなと身を震わせた。諏訪子にすがりつく。
「す、諏訪子さま。わたし、わたし、犬を殺してしまって、けど、けど」
「そうか。犬をか。辛いだろう。きっと本意ではなかったのだろう。わかるよ」
「事故なんです。本当に、何が起きたのか。私、私」
「辛いだろう。うん、辛いさ。殺生はね、大変だね」
しばらく、早苗は諏訪子の小さな胸のなかで泣いた。落ち着いてくると、諏訪子があることを話しはじめた。
妖怪退治をする者は常に気をつけておかねばならないことがある。妖怪、幽霊、妖精、これらを退治すれば、かならず逆恨みが返ってくる。人でいう呪いのようなものだが、これらが施すそれは人よりも確実でタチが悪い。
確実な逆恨みの気は、妖怪退治の本人にポツポツと溜まっていく。そうして妖怪、幽霊、妖精それぞれの逆恨みの仕方はデタラメだ。奴を不幸に、奴の食う飯がまずくなるように、奴の色恋沙汰がダメになるように、など。混ざり合って互いに強めあったり、かき消しあったりしながら、呪わしい思惑ばかりが濃くなっていく。
何も手を施さなければ、あるとき、それは破裂するだろう。すると本人は必ずのっぴきならない不幸に見舞われる。つもりつもった怨みの数々、何を起こすか祟った者にもわからない。気狂いになるのはまだぬるいほう。人によっては一家もろとも病に倒れ家系を絶やしたとか。
早苗は、幻想郷で妖怪退治に熱中してからというもの、今日の今日まで怨みのお祓いを一度もしなかった。そんなことで自分を祓うなど、考えもしていなかった。
目を覚ました早苗は、神奈子と諏訪子につれられて改めて正式なお祓いを受けた。なんとなく胸がスッとした気がした。だが、神奈子の忠告を聞かなかったということで、諏訪子からたっぷり叱られた。
■ 輝夜の夢
永遠亭で珍しくも宴があった。
鈴仙は宴の仕切りできりきり働き、終わった頃には指先一つ満足に動かなかった。倒れるように布団にもぐって眠ったのは、もはやいつ頃だったかわからない。
鈴仙が寝室で寝入っていると、ふいに襖の開く音がした。するするという静かな足音もしたので、いくら疲労困ぱいの鈴仙とはいえ目を覚ました。
師匠の永琳が仕事をよこしにきたのだと思った。まだ後始末の済んでいない宴の後だから、何がきても不思議はない。だが闖入者は声をかけてこない。耳だけで様子をうかがっていると、どんどん近づいてくる気配だ。
鈴仙はドキリとする。体にかけていた毛布をめくられた。かと思えば、鈴仙の丸めた背中に人の体が押し当てられた。いったい何事かと思ってみれば、何事もなかったかのように闖入者は寝息をたてはじめる。
しばらくは背後の人物を恐れて息を殺していた鈴仙だ。しかし寝息の雰囲気と、かすかに鼻をくすぐる香料の匂いにつけ、どうやら背後にいるのが輝夜らしいと気付いた。
(輝夜さま、今日はそうとう呑んでいたっけ。酔って寝ぼけて私の部屋にやってきたんだ。起こしてあげたほうがいいのかな。部屋まで送ってあげないと師匠にどやされるかも)
すると、輝夜の腕が鈴仙の寝巻をぐっと掴んで離さない。身を起そうとしていた鈴仙なので、これには参った。粗相のないよう静かに手を払いのけようとすると、声まで漏らしはじめる。
目を覚ましたのかと思いきや、違うようだった。それは声にならない呻き声で、まさに寝言というものだった。何か言っているようで聞き取れない。
ここでふと、鈴仙の中に探究心が芽生えた。不気味がりつつも、ちょっと寝言をたしかめてみようと思ったのだ。ところが、先もいった通り意味の図りかねる音ばかり耳をつっつく。
いたずらに時間が過ぎていく。
輝夜は急に寝言をやめて、またかわいらしい寝息をたてはじめた。ところが、一拍おいて急に泣きはじめた。かわいげある泣き方ではない。
「うううう……うあああああああ……おおおお……」
そんなものを背中に受け止める羽目になった鈴仙だから、すっかりたまげて縮こまる。
この心を絞り上げてくるようなむせび泣きは長く続いた。その間、鈴仙は何もすることができずにいた。
「ああああ……あっあっえっへっ……」
下手に動いては、恐ろしい仕返しを喰らいそうな気がしてならない。輝夜がそんなことをする人ではないと分かっていても、やはり気が引ける。
「んうううぅぅぅぅ……ああ、ああ、うあああ……」
やがて、泣きだしたときと同じように、輝夜は唐突に静かになった。
鈴仙はしばらく気をつかわずにおれなかった。またいつ泣きだすやもしれない。それでも、疲れた体に眠りかけていた意識だ。輝夜の寝息が甘い麻酔薬となって、鈴仙をとろとろにしていく。気がつけばまぶたが閉じていた。
翌日。
鈴仙が目覚めると輝夜は影も形もなくなっていた。
昨夜の宴の片付けが残っていたので、鈴仙は朝から永遠亭を駆け巡った。ところが昨夜のことが頭から離れない。時間の合間を縫って、輝夜の様子をたしかめにいった。
輝夜は部下の兎たちといっしょに遊んでいた。やたらと大きな盤面の大局将棋だ。それを見下ろすやわらかい笑みに、昨夜の面影は見つけられない。
「飛車がすごいわねえ」
「歩が役立たずなんですよ」
「もっと歩を出しましょ。そっちあるから。そっちの駒も置いちゃって」
「やっぱ役立たずですって。三マスいけることにしましょう」
「ダメよ」
春場の花のようにほがらかな輝夜。永遠亭で過ごす輝夜はいつもこんな調子だ。少なくとも落涙の姿を見せたことは一度としてない。
「ねえこれ、王手っぽくない?」
「違いますよ。ほら動ける」
「盤が広いから手が狂うのよ」
「これどっから歩じゃなくなるんですか」
「真ん中からでいいんじゃない」
鈴仙は部屋をそっと離れて宴の片付けにもどったが、まだ心のしこりは残っていた。ものをあっちこっちに動かして廊下をさっさと進みながら、しこりを揉みほぐすように思考を整える。
(昨日は夢だったんだ。疲れていたから変な夢をみたんだ。昨日の宴で輝夜さまに絡まれたっけ。そういうもんって夢にみるもんだ)
体を働かせていれば、いずれ消え去る一夜の夢か。鈴仙、そう高をくくって朝日と共に動き回った。しかし時が経てども、心のしこりは大きなままだった。輝夜は素知らぬ顔をしているが、それはかえって鈴仙の気を揉んだ。
食堂にて、昼食を食べる鈴仙の手つきはおぼつかない。いつもより遅めに食べ終えた頃には、鈴仙はあることを決意していた。輝夜の泣きの秘密を確かめてみたいと思った。
都合よく診療所に急患がやってきて永琳が診察にあたった。
鈴仙は永琳の薬品保管室に入った。記憶が正しければ、夢に入りこめるようになる薬があったはずだ。それがあると思しき薬棚はみつかったが、ガラス戸を開くための鍵が見つけられない。
廊下から永琳の足音が近づいて、保管室の前を通り過ぎていく。鈴仙は急ぐために別の薬を探すことにした。そして、やっと見つけた鍵で別の薬棚を紐解いた。そこにあるのは求めていたのより下級の薬だった。夢に入るのではなく、他人の夢を覗き見るだけの薬だ。
他に手はない。鈴仙は薬瓶をブレザーのポケットに滑りこませ、保管室を後にした。
その夜、鈴仙が目をつむる前に味わったのは、甘みと苦みの混じる薬だった。
輝夜の夢は色あせて、あちこちが破れぼやけていた。こんな夢は滅多にみられるものではない。年かさの人の夢はこんなに醜く曖昧なものだろうか。
鈴仙はどことも知れない屋敷の中にぽつんと立っていた。襖に遮られた奥の部屋から泣き声が聞こえてきた。
鈴仙は気を引き締めてゆっくりと襖を開いた。夢の中で身構えることは何もないが、つい忍びたくもなってしまう。部屋を覗きみると、まず輝夜が目にうつった。豪奢な十二単に包まれた身をかがめて、垂れた黒髪が顔を覆い隠してる。
泣いているようだった。華やかな見た目とは裏腹に泣き声は遠慮ない。寝言で泣きじゃくっていたのは、これが元に違いない。
だが、なぜ泣いているのだろうか。鈴仙はまだじっとしたまま様子を見守っていた。すると背後から足音がしたので、慌てて振りかえった。
みたことのない老人が真っすぐに鈴仙へ近づいてきた。が、鈴仙に見向きもせず、体にぶつかることもなくすうっと通り過ぎていった。襖を大きく開いて輝夜のそばへ寄り添った。
鈴仙はホッとしつつ恥ずかしくなる。他人の夢の中を見ているだけだ。バレることはない。慌てるなんてばからしい。
老人が輝夜の頭を撫でながら、二言三言やさしい声色で声をかけた。よく聞き取れない。記憶が抜け落ちているせいでハッキリしていないのだろうが、言葉がひどく古風なのも耳を通らない理由だった。なんと古い大和言葉だろうか。いまどき妖怪でも使わない。
輝夜は顔をあげて、老人と目線を交わし合う。鈴仙がやっと見ることのできた輝夜の顔は、それはもう目がまざまざと腫れて、頬は水を被ったかの如く濡れそぼっている。いったいどれだけの悲しみに暮れたら、こうもなろうか。
二人の様子をみているうちに、さすがの鈴仙も事情がのみこめてきた。しだいに緊張してくる。
(これが輝夜さまの、かぐや姫たる記憶か。地上ですごされた頃の思い出が悲しみと共に残っているということか。ならこのおじいさんは、あの人だ)
鈴仙はまたそっと身をひるがえした。縁側のあるほうに見当をつけて、そちらの襖を開いてみると、これが当たりだ。風情ある中庭が姿を現した。空を見上げると、禍々しくも赤みがかっている。月は遠眼鏡で覗いたかのように膨れ上がっている。あたかも、いますぐ降って落ちてきそうだ。
どうも現実離れした有り様だが、これは輝夜の心を映しとっているからだろう。特に月の大きさよ。人はとりわけ印象に残っているものを、巨大なものとして記憶に留めるという。
月の様子から暦を算出しようとした鈴仙の試みは無駄に終わった。この記憶が何月のそれかはわからずじまい。もう一度座敷にもどって輝夜の様子を覗き見る。泣きやんでいて、いくらか和やかに老人と言葉を交わしていた。それは別段面白いこともなかったが、鈴仙はなぜだか飽きずに眺めつづけた。
しばらく変わり映えのしない景色。
ふいに輝夜が鈴仙へ振り返ってくる。鈴仙は驚きつつも、どうせ夢だと身を引かない。ところが輝夜の視線はじろりと鈴仙を睨みつけて離れない。
明らかにみている。
まさか、と鈴仙は思った。
一人口を動かし続ける老人を尻目に、輝夜は立ち上がった。そうしてモノ凄い勢いで鈴仙の目の前にやってくるではないか。鈴仙は呆気にとられて、ただ輝夜を見上げることしかできなかった。
「起きろ」
透き通った声が鈴仙の耳を打つ。
その刹那、鈴仙はハッと目を覚ます。見慣れた永遠亭の天井が、ずんと頭上を圧している。部屋は薄暗く、その暗みの様からして月高い真夜中か。
(夢を覗き見ていただけなのに、輝夜さまはこっちに気付いた。そんなわけ。そういう風に見えただけかも。私がちょっと神経質になっていたから)
もう一度めをつむる鈴仙。こんどは自分の夢を見にいくつもりだったが、目が冴え渡って眠れやしない。そうやって朝日が来るまで天井とにらめっこをした。
朝。
寝そびれてしまった鈴仙は腹が空いていた。誰よりも早く食堂におもむいて、自炊で飯をつくろうと思った。
廊下に出た鈴仙を待っていたのは、寝巻姿の輝夜だった。
「ついてきなさい。話がある」
「あの」
「話はみんな部屋にいってから」
輝夜の顔に刺す影は寝起きの不機嫌か、それとも別のなにかか、鈴仙には図りかねた。だがとにかく従わないわけにはいかない。輝夜の背中を追いかけて永遠亭の長い廊下をぐるぐると進んでいく。しまいにどことも知れない部屋に招かれた。畳に座して、二人は相対する。
閉め切られた部屋だ。朝日は射さず、灯篭だけが不確かな光を放つ。鳥の音も風の音もない。万物から締め出された部屋だった。そんな中で輝夜の顔をみていると、鈴仙は気が気でなくなってきた。
(まず謝る)
鈴仙の頭が畳にこすりつけられる。
「申し訳ありませんでした。覗き見ました」
「そうね。無断で人の夢をみた不敬、とくと反省しなさい」
輝夜の声色はハキハキとしていて、高貴なものの振る舞いと呼ぶにふさわしかった。
「仰る通りに」
「表を上げなさい。話すことがある」
鈴仙が顔を上げると、輝夜の声色が少し弱くなる。
「鳥ははじめに見たものを親と思い、生涯忘れないそうで」
「え、はあ。そう聞きますね」
「私のはじめて見たものはアレらではないけど、ちょうどそんなところなの」
アレらと聞いて、鈴仙の脳裏をよぎる老人のしわれ顔。
「記憶ってへんね。些細なものばかり強くのこっている。コテで焼きつけたよう。私はいつになったらアレらを忘れることができるのかしら。いや、答えなくていい。そのまま聞いておきなさい。
ときおりあの夢をみる。私の冗長な人生において、ほんの一間もなかったあの生活が、季節を巡るように花を咲かせては消えていく。私があの頃にしかと感じたあれこれが、まざまざと心によみがえっては、いえあの頃より砥がれ洗練された気持ちとなって、私の目を濡らしていく。今は古き戯れを責めるよう。呪いのよう。思い出は呪いになるのね。
本当に、アレらは、変ね。体験したことのないことまで夢に出てくる。まるで今でも生きているような顔をみせたりね。去年なんて、アレらとご飯を食べたのよ。あの頃になかったはずの食べ物を一緒に食べたのよ。にこにこ私に話しかけてくるのよ。
どうだ、婿をとらぬのか。そしたら私は、おじいさん、私は誰の元にも参りませぬ。誰の元にも……って。
ごめんなさいね。こんな恥ずかしい話を聞かせてしまって。ときおり、どうしても我慢できなくなるの。哀しいやら、懐かしいやら、そんなもので胸がいっぱいになって節操がなくなっちゃう。
ごめんなさいね。あなたの布団にもぐりこんでしまったことも、ごめんなさいね。酔うとダメね。あの日の夢は鮮明だった。私、かなりうるさかったでしょう。
ありがとうね。このことは忘れてちょうだい。もう行っていいわよ」
鈴仙はしばらく輝夜の顔色をうかがっていたが、どうやら本当に話はこれっきりらしかった。
鈴仙は深々とお辞儀をして厳かに廊下へ出た。
待っていたのは、厳かに立つ永琳だった。
鈴仙はハッと気がつくと食堂にいた。朝の食堂は兎たちでにぎわっている。鈴仙の前にはテーブルを隔てて永琳が座り、黙々と箸を進めていた。
(なんだ……?)
鈴仙はしばらく空気をつかみかねた。なぜ自分が食堂にいるのか見当がつかない。なにせ布団から起き上がった記憶すらないのだ。
(宴があったはず。それで夜遅くに眠ったはず。それで、えっと、寝すぎちゃったのかな。いやでも食堂にいるし、この感じはまだ朝だし、師匠も食べている)
永琳がいつも通りの冷めた目をむけてきた。
「食べないの?」
鈴仙は言われてはじめて、目の前に食堂の料理があることに気付いた。いつ料理をとったのかまるで思いだせなかった。なんだかさっぱり歯車の噛み合っている感じがしない。鈴仙は場をとりつくろうために口を開いた。
「ねえ、師匠、宴の片付けってもういいんですかね」
「宴って、いつの話してるの」
「昨日の」
「おとといでしょ」
鈴仙の頭がますますこんがらがっていく。目をぱちぱちさせていると、永琳がニヤニヤと笑いだした。
「あなたよく呑んでたじゃない」
「そう、でしたっけ」
「そうよ。呑んでた。だから昨日も布団から出てこなかったじゃない」
昨日とかおとといとか、鈴仙はもう何から考えればいいかわからない。
しばらく悩んだ末に、自分がえらく腹を空かしていることに気付く。とりあえず箸をとって手を合わせた。おぼんにならぶ料理は鈴仙が普段とらぬものばかりだ。
永琳と鏡合わせの如く、鈴仙は黙々と箸を進めはじめる。ふっと脳裏に輝夜の泣き声が聞こえたような気がしたが、なぜなのか分からなかった。
一話目 結局床下から出たのはなんだったのか?とても気になります。臆病なナズーリンが可愛いかったです。
二話目 少しずつ頭角を現す異常状態が緊張感を高めていたと思います。恨みってこえぇ・・・。
三話目 永琳いったい何をした!?最後の最後で後味が悪くなるのがよかったです。
今までの掌編の中でも特に