世界というものは、思いの外小さいらしい。
例えば世界の端を意味するこの壁。六方を取り囲むこの壁の傷や染みの位置、数、形……全て頭の中に入っている。
机、椅子、絨毯、掛け時計……目を瞑っていても総て、どんな細部に至るまでもが思い浮かべる事が出来る。
覚え切ってしまった。
すると、どうだろう。
『世界は私の頭の中に収まった』という事を意味する。なんと矮小な世界であろうか。
……無論、そんな事あるわけがない。
という事は、例えばこの壁の向こう、この扉の向こう、そこに別の世界があるのではないか?
私の知らない世界があるのではないか?
時々現れるお姉様や咲夜などの確定要素も実はそこからやって来ているのかも知れない。
いずれにせよ私には確認する術がなかった。と言うよりは単に興味がなかっただけかも知れない。
毎日何処からか、ふらっと現れるお姉様と他愛のない会話をする毎日は存外悪いものではないと思っているのだ。
□ □ □
初めて知らない物を見た。認識した。
紅白と白黒の2人組、私の知らない存在。
この世界に現れたイレギュラーだ。
それらは私の知る世界には存在しなかったはずだ。しかし、現にそこに居た。
つまり、彼女達は私の世界の外側……別の世界からやって来た事になる。
私の推測は正しかったのだ。この扉の向こうに世界がある。私の知らない世界がある。
……ただ、やはり興味が湧いたという訳ではなかった。
外の世界に特別感慨もないので、特に知ろうとかそういう考えはなかったのだ。
しかし、それから少し時間が経ち私の頭にある考えが浮かぶ。
――お姉様も外の世界に居るのだろうか
この世界に現れるお姉様。いつも優美で精悍なお姉様。
お姉様も本当はこの世界に生きているのではなくて外の世界の人なのかも知れない。
……そう思ったら不思議と考えが変わった。
扉に手を掛ける。
……何故だか手が震える。
自分の知らない世界に踏み出すという事は意外にも勇気がいるものだと知った。
不安、という言葉が私の頭に去来する。
それを打ち払うように、扉の開く音が私の耳と心を震わせた。
「おいでフラン。私が外の世界を教えよう」
いつものように突然現れたお姉様に手を引かれて、私は私の世界を飛び出した。
先程までの不安定な感情は既に、ない。
繋がれた手から伝わる熱が私の心を溶かしてくれるようだった。
□ □ □
外の世界というのは私の想定より遥かに広大で雄大であった。
地上、というらしい。
さらに今私とお姉様の居るこの部屋も、外の世界から見れば砂上の一粒でしかないようだ。
地下室(私の世界はそういう名称らしい)からこのお姉様の部屋までのほんの数分間。それだけで途方もない情報量だった。その眼前に広がる脳の許容量を超えた情報量に気分が悪くなりそうだった。
今私が居るのはお姉様の部屋。全体が紅い色彩に彩られ、座っているソファも紅い。
「フラン。よく聞きなさい」
「うん?」
「私達吸血鬼が地上で生きるには、地下室とは違い、様々な制約が生まれるわ」
「そうなんだ!」
私は地下室しか知らないから全くそういった知識を持っていなかった。だから知識というものは一方的に受け取る事しか出来ず、疑う事はなかった。
「先ずは太陽。この光は私達最大の弱点。決して触れぬように心しなさい」
「うん、判った」
「次に流水。シャワーとかは溜まり水だから心配いらないけど川には注意よ。あれは境界を指し示しているからね。まぁ、これは館の外に出なければ問題ないわ」
「うん、判った」
種族としての弱点らしい。強大な力である程、代償は大きいという事だろう。
「ここからが大切よ。先ず、朝晩に一回ずつ私とキスをする事」
今までは、してはならない事。
今から始まるのは、しなければならない事のようだ。
「『きす』? それってなぁに?」
「生きるための生理現象だと思っていいわ。違いがあるとすれば、それは自発的に行わないとならない事ね」
地上には地上のルールがある。地下室ではなかった事も地上では当たり前のようにやらなければならない。そういう事だろう。郷に入っては郷に従え。生きるためなら尚更だ。
「生理現象? 呼吸とかそういう事?」
「そうよ」
「どうやればいいの?」
お姉様は一度、柔らかく微笑んだ。
「難しい事ではないわ。フラン、瞳を閉じなさい」
「う? うん」
言われるがまま私は目蓋を下ろす。
上方から闇が降りてきた。
ややあって唇にふにゃっ、と柔らかい感触が当たる。熱をもっていて、お姉様の存在が目を開けずとも近くに感じ取れた。
「目を開けていいわよ」
再び言われるがまま目蓋を上げると、お姉様の笑みが目に入ってきた。
私の両肩に手を乗せ、目を閉じる前より距離が縮まっている。
「どう? 簡単でしょ」
「うん」
私の身体には明らかな変化が訪れていた。
心拍数が跳ね上がり、血行が耳に聞こえる程良くなっている。頬は上気し、身体中が熱い。
成る程。『きす』という行為は身体の循環や代謝を促進するために行うのかもしれない。
「ねぇ、『きす』をしないとどうなっちゃうの?」
「え゛っっ!?」
お姉様はまるで『そんな事を訊かれるとは思わなかったー!』みたいな声を出した。
「えー……あー……んー……」
「うんうん」
「し、死ぬ」
「ひゃあっ!? 怖いねぇ!」
地上とは恐ろしい世界である。『きす』とやらをしないと、そこに待っているのは死であるらしい。
「そ、そうよー……だから忘れずに私とやるのよ?」
「う、うん」
吸血鬼は朝と夜に同士で『きす』をする。頭に刻みつけた。
□ □ □
昼過ぎになった。
地下室では感じなかった微かな温度の変化がある。
お腹から音がした。生きてる証。
地下室に居た時はいつもお姉様とかが食事を運んで来てくれた。だが地上では食事の時間に食堂という場所に赴く必要があるそうだ。
お姉様と手を繋いで食堂に向かう。
因みに廊下を歩く時は必ず手を繋がなくてはならないそうだ。そういえば地下室から連れ出してくれた時も私の手を強く握り締めてくれていた。
これを守らないと「て……手が一杯生えて死んでしまうわよ」だそうだ。真に恐ろしい。
何故手が生えるのか。そして何故それで死んでしまうのか。疑問にこそ思ったが、お姉様の言う事だから間違いない。お姉様の言は私にとって唯一にして絶対であった。
指を絡めて長い廊下を渡り、お姉様が扉を開いた。
食堂には華美な長テーブルが据え付けられ、既に食事が用意されていた。
そのメニューを見る。
見覚えがある、というよりは変わり映えしないと表現すべきだろうか。地下室にいた時とあまり変わらない気がした。
別に不満というわけではない。地下室に居た時から美味しく食べていたし飽きもない。ただ、今までの常識と地上の常識とは隔たる差があったので拍子抜けしたのだ。
再びお腹から音がした。急かされるように席に座る。
お姉様は上座に座ったので、私はその斜めに座った。
両手を合わせて頂きます。
「いただきまーす」
「ちょっと待ちなさいフラン!」
「へ?」
スプーンにご飯を乗せ、口まであと数センチの所でお姉様が私を制した。
「ああ……間に合って良かった……」
お姉様は大仰そうに安堵して見せた。
私が何かしでかしてしまったのだろうか。お姉様とは反対に少し不安になる。
「当たり前過ぎてて説明するのを忘れてたわ」
「え?」
「フラン、地上ではご飯を食べる前に『あ~ん』をしなきゃいけないのよ」
「『あ~ん』?」
「そう。『あ~ん』よ」
どうやら地上の世界にはたくさんの決まり事があるらしい。『きす』と同じように、これも必要なのだろう。吸血鬼が地上で生きるのは大変だ。ずっと前から地上で過ごしているお姉様を尊敬せずにはいられない。
「どうやるの?」
「なに、簡単よ。フラン、口開けて」
「こう?」
「はい、あ~ん♪」
お姉様は自分のスプーンにご飯を乗せ、私の舌に乗せる。
「食べていいわよ」
口を閉じた。美味しい。
味は自分で食べた時と何ら変わりはない気がする。ただ、体の奥底にむず痒さというか、何というか、得も知れぬ感覚があった。
『きす』をした時と似ている症状かもしれない。
何だったか……恥ずかしい?
「美味しい?」
「うん」
お姉様は満足したように目を細めた。
ただこれも今までの経験則から、やらなかった時のリスクがあるのだろう。
「因みにこれをしないと……なんか死ぬ」
「やっぱり!?」
私の考えを見透かしたようにお姉様が説明してくれた。
なんか死ぬ、とは随分とアバウトな気もしないではない。まぁ、世の中とはつまりそういうあやふやな理で成り立っているものなのだろう。
齢495にしてようやくその事実に気づけた。小さな大前進だ。
「さぁ、フラン! 次は死にたくなければ一緒にお昼寝しましょう!」
「えっ、う、うん」
吸血鬼に弱点が多い事は耳にしたが、これほどまでの制約があるものだとは。
さらに怠れば即刻この世とおさらばだ。こわいこわい。
□ □ □
後日談。お姉様の嘘が発覚したのはすでに習慣ついた後の事だ。
すっかりお姉様を信じ切った私を見かねた図書館の主が教えてくれたのだ。
始めはまるで信じられなかった。当たり前のようにしてきた事を否定されれば当然の反応だろう。
図書館の主こそが嘘をついている可能性も否定できない。それで思い切ってお姉様に尋ねてみた。
「きすとかしないと死ぬって嘘なの?」
「うん」
躊躇なく認めたよお姉様。むしろ開き直ってるような。お姉様の株大暴落だよ。
その時が人生2度目の転機だった。それ以降お姉様ときすしたり一緒に寝たりする事はなくなったのだ。転機といってもそれくらいなものだが。
ただ、たったそれだけの事なのに私の内には妙な喪失感のようなものがあった。
当たり前のあったものが消えてなくなった感じ。上手く説明はできないのだけれど、何となく物足りない。
うーでもそれをお姉様に知られるのは何だか癪だなぁ……。つまり私は騙されてた訳だし。寂しい、なんて言ったらつけあがるに違いない。
それは何だか悔しい。とっても悔しい。
どうにかして主導権を握りたい。姉の上に立ちたい。
ふーむ。
□ □ □
「あーもーパチェめー」
495年掛けたイチャイチャ計画もパチェによる横槍で水泡に帰してしまった。
嘘の知識をフランに植え付ける策。これが的中したのは良いが、第三者から邪魔が入るのを想定していなかった。
フランが可愛すぎる余りに視野が狭くなっていたようだ。これは改善せねばなるまい。
「……フランに嫌われてたらどうしよ」
フランを騙す形になった訳だ。どう思われても文句は言えない。
「だが大丈夫。何故なら私の妹とイチャイチャするための策は108式まであるからな」
ぶつくさ独り言を言っている間に到着。地下室、フランの部屋。呼び出しをされていたのだ。
何の用事かしら? 嘘吐いた私を非難するつもりかしら?
唇を噛み締め覚悟を決めた。恐る恐る扉を開けば私と同じ顔をしたフランが突っ立っている。瞳をギュッと閉じ、口を開く。
「ち、ちゅーしてよ!」
「……」
おねーちゃん絶句だよ。
「あ、そ、その顔はお姉様知らないのー? 私の部屋に入ったら『ちゅー』してくれないと死んじゃうんだよー?」
「へ、へぇ……」
棒読みながら必死のフランの言には色々突っ込み所が満載だった。
私は今までに幾度となく『ちゅー』無しでフランの部屋に出入りしていたし。
それでも肯定してしまったのはフランの勢いに気圧されてしまったからだ。
「さ、さぁ! お姉様、死にたくなければ、ち、ちゅ、ちゅーしなさい!」
な、なにその若干の上から目線。何が目論見……。いや、ちゅー位いくらでもしてあげるけど。むしろしたいけど。
では早速。
ちゅっ
例えば世界の端を意味するこの壁。六方を取り囲むこの壁の傷や染みの位置、数、形……全て頭の中に入っている。
机、椅子、絨毯、掛け時計……目を瞑っていても総て、どんな細部に至るまでもが思い浮かべる事が出来る。
覚え切ってしまった。
すると、どうだろう。
『世界は私の頭の中に収まった』という事を意味する。なんと矮小な世界であろうか。
……無論、そんな事あるわけがない。
という事は、例えばこの壁の向こう、この扉の向こう、そこに別の世界があるのではないか?
私の知らない世界があるのではないか?
時々現れるお姉様や咲夜などの確定要素も実はそこからやって来ているのかも知れない。
いずれにせよ私には確認する術がなかった。と言うよりは単に興味がなかっただけかも知れない。
毎日何処からか、ふらっと現れるお姉様と他愛のない会話をする毎日は存外悪いものではないと思っているのだ。
□ □ □
初めて知らない物を見た。認識した。
紅白と白黒の2人組、私の知らない存在。
この世界に現れたイレギュラーだ。
それらは私の知る世界には存在しなかったはずだ。しかし、現にそこに居た。
つまり、彼女達は私の世界の外側……別の世界からやって来た事になる。
私の推測は正しかったのだ。この扉の向こうに世界がある。私の知らない世界がある。
……ただ、やはり興味が湧いたという訳ではなかった。
外の世界に特別感慨もないので、特に知ろうとかそういう考えはなかったのだ。
しかし、それから少し時間が経ち私の頭にある考えが浮かぶ。
――お姉様も外の世界に居るのだろうか
この世界に現れるお姉様。いつも優美で精悍なお姉様。
お姉様も本当はこの世界に生きているのではなくて外の世界の人なのかも知れない。
……そう思ったら不思議と考えが変わった。
扉に手を掛ける。
……何故だか手が震える。
自分の知らない世界に踏み出すという事は意外にも勇気がいるものだと知った。
不安、という言葉が私の頭に去来する。
それを打ち払うように、扉の開く音が私の耳と心を震わせた。
「おいでフラン。私が外の世界を教えよう」
いつものように突然現れたお姉様に手を引かれて、私は私の世界を飛び出した。
先程までの不安定な感情は既に、ない。
繋がれた手から伝わる熱が私の心を溶かしてくれるようだった。
□ □ □
外の世界というのは私の想定より遥かに広大で雄大であった。
地上、というらしい。
さらに今私とお姉様の居るこの部屋も、外の世界から見れば砂上の一粒でしかないようだ。
地下室(私の世界はそういう名称らしい)からこのお姉様の部屋までのほんの数分間。それだけで途方もない情報量だった。その眼前に広がる脳の許容量を超えた情報量に気分が悪くなりそうだった。
今私が居るのはお姉様の部屋。全体が紅い色彩に彩られ、座っているソファも紅い。
「フラン。よく聞きなさい」
「うん?」
「私達吸血鬼が地上で生きるには、地下室とは違い、様々な制約が生まれるわ」
「そうなんだ!」
私は地下室しか知らないから全くそういった知識を持っていなかった。だから知識というものは一方的に受け取る事しか出来ず、疑う事はなかった。
「先ずは太陽。この光は私達最大の弱点。決して触れぬように心しなさい」
「うん、判った」
「次に流水。シャワーとかは溜まり水だから心配いらないけど川には注意よ。あれは境界を指し示しているからね。まぁ、これは館の外に出なければ問題ないわ」
「うん、判った」
種族としての弱点らしい。強大な力である程、代償は大きいという事だろう。
「ここからが大切よ。先ず、朝晩に一回ずつ私とキスをする事」
今までは、してはならない事。
今から始まるのは、しなければならない事のようだ。
「『きす』? それってなぁに?」
「生きるための生理現象だと思っていいわ。違いがあるとすれば、それは自発的に行わないとならない事ね」
地上には地上のルールがある。地下室ではなかった事も地上では当たり前のようにやらなければならない。そういう事だろう。郷に入っては郷に従え。生きるためなら尚更だ。
「生理現象? 呼吸とかそういう事?」
「そうよ」
「どうやればいいの?」
お姉様は一度、柔らかく微笑んだ。
「難しい事ではないわ。フラン、瞳を閉じなさい」
「う? うん」
言われるがまま私は目蓋を下ろす。
上方から闇が降りてきた。
ややあって唇にふにゃっ、と柔らかい感触が当たる。熱をもっていて、お姉様の存在が目を開けずとも近くに感じ取れた。
「目を開けていいわよ」
再び言われるがまま目蓋を上げると、お姉様の笑みが目に入ってきた。
私の両肩に手を乗せ、目を閉じる前より距離が縮まっている。
「どう? 簡単でしょ」
「うん」
私の身体には明らかな変化が訪れていた。
心拍数が跳ね上がり、血行が耳に聞こえる程良くなっている。頬は上気し、身体中が熱い。
成る程。『きす』という行為は身体の循環や代謝を促進するために行うのかもしれない。
「ねぇ、『きす』をしないとどうなっちゃうの?」
「え゛っっ!?」
お姉様はまるで『そんな事を訊かれるとは思わなかったー!』みたいな声を出した。
「えー……あー……んー……」
「うんうん」
「し、死ぬ」
「ひゃあっ!? 怖いねぇ!」
地上とは恐ろしい世界である。『きす』とやらをしないと、そこに待っているのは死であるらしい。
「そ、そうよー……だから忘れずに私とやるのよ?」
「う、うん」
吸血鬼は朝と夜に同士で『きす』をする。頭に刻みつけた。
□ □ □
昼過ぎになった。
地下室では感じなかった微かな温度の変化がある。
お腹から音がした。生きてる証。
地下室に居た時はいつもお姉様とかが食事を運んで来てくれた。だが地上では食事の時間に食堂という場所に赴く必要があるそうだ。
お姉様と手を繋いで食堂に向かう。
因みに廊下を歩く時は必ず手を繋がなくてはならないそうだ。そういえば地下室から連れ出してくれた時も私の手を強く握り締めてくれていた。
これを守らないと「て……手が一杯生えて死んでしまうわよ」だそうだ。真に恐ろしい。
何故手が生えるのか。そして何故それで死んでしまうのか。疑問にこそ思ったが、お姉様の言う事だから間違いない。お姉様の言は私にとって唯一にして絶対であった。
指を絡めて長い廊下を渡り、お姉様が扉を開いた。
食堂には華美な長テーブルが据え付けられ、既に食事が用意されていた。
そのメニューを見る。
見覚えがある、というよりは変わり映えしないと表現すべきだろうか。地下室にいた時とあまり変わらない気がした。
別に不満というわけではない。地下室に居た時から美味しく食べていたし飽きもない。ただ、今までの常識と地上の常識とは隔たる差があったので拍子抜けしたのだ。
再びお腹から音がした。急かされるように席に座る。
お姉様は上座に座ったので、私はその斜めに座った。
両手を合わせて頂きます。
「いただきまーす」
「ちょっと待ちなさいフラン!」
「へ?」
スプーンにご飯を乗せ、口まであと数センチの所でお姉様が私を制した。
「ああ……間に合って良かった……」
お姉様は大仰そうに安堵して見せた。
私が何かしでかしてしまったのだろうか。お姉様とは反対に少し不安になる。
「当たり前過ぎてて説明するのを忘れてたわ」
「え?」
「フラン、地上ではご飯を食べる前に『あ~ん』をしなきゃいけないのよ」
「『あ~ん』?」
「そう。『あ~ん』よ」
どうやら地上の世界にはたくさんの決まり事があるらしい。『きす』と同じように、これも必要なのだろう。吸血鬼が地上で生きるのは大変だ。ずっと前から地上で過ごしているお姉様を尊敬せずにはいられない。
「どうやるの?」
「なに、簡単よ。フラン、口開けて」
「こう?」
「はい、あ~ん♪」
お姉様は自分のスプーンにご飯を乗せ、私の舌に乗せる。
「食べていいわよ」
口を閉じた。美味しい。
味は自分で食べた時と何ら変わりはない気がする。ただ、体の奥底にむず痒さというか、何というか、得も知れぬ感覚があった。
『きす』をした時と似ている症状かもしれない。
何だったか……恥ずかしい?
「美味しい?」
「うん」
お姉様は満足したように目を細めた。
ただこれも今までの経験則から、やらなかった時のリスクがあるのだろう。
「因みにこれをしないと……なんか死ぬ」
「やっぱり!?」
私の考えを見透かしたようにお姉様が説明してくれた。
なんか死ぬ、とは随分とアバウトな気もしないではない。まぁ、世の中とはつまりそういうあやふやな理で成り立っているものなのだろう。
齢495にしてようやくその事実に気づけた。小さな大前進だ。
「さぁ、フラン! 次は死にたくなければ一緒にお昼寝しましょう!」
「えっ、う、うん」
吸血鬼に弱点が多い事は耳にしたが、これほどまでの制約があるものだとは。
さらに怠れば即刻この世とおさらばだ。こわいこわい。
□ □ □
後日談。お姉様の嘘が発覚したのはすでに習慣ついた後の事だ。
すっかりお姉様を信じ切った私を見かねた図書館の主が教えてくれたのだ。
始めはまるで信じられなかった。当たり前のようにしてきた事を否定されれば当然の反応だろう。
図書館の主こそが嘘をついている可能性も否定できない。それで思い切ってお姉様に尋ねてみた。
「きすとかしないと死ぬって嘘なの?」
「うん」
躊躇なく認めたよお姉様。むしろ開き直ってるような。お姉様の株大暴落だよ。
その時が人生2度目の転機だった。それ以降お姉様ときすしたり一緒に寝たりする事はなくなったのだ。転機といってもそれくらいなものだが。
ただ、たったそれだけの事なのに私の内には妙な喪失感のようなものがあった。
当たり前のあったものが消えてなくなった感じ。上手く説明はできないのだけれど、何となく物足りない。
うーでもそれをお姉様に知られるのは何だか癪だなぁ……。つまり私は騙されてた訳だし。寂しい、なんて言ったらつけあがるに違いない。
それは何だか悔しい。とっても悔しい。
どうにかして主導権を握りたい。姉の上に立ちたい。
ふーむ。
□ □ □
「あーもーパチェめー」
495年掛けたイチャイチャ計画もパチェによる横槍で水泡に帰してしまった。
嘘の知識をフランに植え付ける策。これが的中したのは良いが、第三者から邪魔が入るのを想定していなかった。
フランが可愛すぎる余りに視野が狭くなっていたようだ。これは改善せねばなるまい。
「……フランに嫌われてたらどうしよ」
フランを騙す形になった訳だ。どう思われても文句は言えない。
「だが大丈夫。何故なら私の妹とイチャイチャするための策は108式まであるからな」
ぶつくさ独り言を言っている間に到着。地下室、フランの部屋。呼び出しをされていたのだ。
何の用事かしら? 嘘吐いた私を非難するつもりかしら?
唇を噛み締め覚悟を決めた。恐る恐る扉を開けば私と同じ顔をしたフランが突っ立っている。瞳をギュッと閉じ、口を開く。
「ち、ちゅーしてよ!」
「……」
おねーちゃん絶句だよ。
「あ、そ、その顔はお姉様知らないのー? 私の部屋に入ったら『ちゅー』してくれないと死んじゃうんだよー?」
「へ、へぇ……」
棒読みながら必死のフランの言には色々突っ込み所が満載だった。
私は今までに幾度となく『ちゅー』無しでフランの部屋に出入りしていたし。
それでも肯定してしまったのはフランの勢いに気圧されてしまったからだ。
「さ、さぁ! お姉様、死にたくなければ、ち、ちゅ、ちゅーしなさい!」
な、なにその若干の上から目線。何が目論見……。いや、ちゅー位いくらでもしてあげるけど。むしろしたいけど。
では早速。
ちゅっ
ツンデレじゃない・・・?