■ 髪いとし
ねえあんたさあ、ちょっとお酒をおごりなさい。こんな酒場で目が会った仲よ。袖振り合いも多少の縁と言うのは、あれは真の言葉だって、私は分かるんだからね。
どうして幽霊に出会ったみたいな顔をしているのよ。巫女がお酒を飲んでいるのがおかしいのかしら。博麗の巫女だってねえ、俗っぽい地酒をごくりといきたい時があるものよ。そこんところをさあ、ね、分かってちょうだい。うんそう、ありがとうね、ありがたく一杯ちょうだいするわね。
そうよ、私は酔っ払っているのよ。だからさあ、ね、ちょっと付き合ってくれてもいいでしょう。ね、ね、かわりに面白い話を教えてあげるからね。酒の肴にでもしてちょうだい。
私の知り合いに何人か魔法使いがいるんだけど、アリスっていうのがいてね、人形に詳しくてさあ、家の中に引きこもって人形を縫ったり貼ったりしているの。その子は魔理沙ってのと家が近くて、仲もそこそこ。
あるときね、アリスが妙なことに気付いたの。いつの間にか知らないお人形さんを持っていてさあ、壊れかけみたいな、作りかけみたいな、気味悪い奴をね。本人はどこで買ったものか、拾ったものか、よく覚えていない。まあでも中途半端な姿だから、修繕してあげないといけないって思ったみたい。
お人形さんは髪の毛が右半分だけ生えていて、服は縫いかけの上着だけ。お目目なんて右だけ縫い付けられているんだから。可哀そうじゃない。まずは服を着せてあげなきゃって、アリスは別のお人形さんの服を貸してあげようとした。けど服はそのお人形さんと体型が合わなかった。仕方がないから新しく作ることにしたんだけど、そんなときに限って糸を切らしていたの。もちろん、糸の何もかもがなかったわけじゃないのよ。赤とか青とか、きちんと余っていたけど、お人形さんに合いそうな色あいの糸がなかったわけ。
それなら服は諦めて、髪を縫ってあげようとしたの。幸いお人形さんは金髪で、金色や黄色の糸は余っていたから、さっそく作業に取り掛かろうとしたの。するとね、アリスはまた気付いちゃった。髪に触れてみて、ゾクッときたの。触り心地が、どう考えても糸じゃない。まるで本物の髪だった。一本一本、すべて本物よ。
元は誰の髪だったのか、こんなに丹念に植えつける必要があったのか……とにかく恐ろしいわよね。アリスも、すっかり怖気づいちゃって、こんなものは捨てちゃいましょうって。いつの間にか持っていたのも、きっとタチの悪い妖精が悪戯で運んできたんだろうって思ったの。
そうやって、アリスはひとまずお人形さんから離れたわ。あとでいくらでも捨てられるからってね。ところが、家事に追われているうち、そのことを忘れちゃったの。私たちでも、よくあるわよね。だから何気ないことに思えるけど、このお話だと、ちょっと不安になってこない? ええまあ、私があんたを驚かせるつもりで話しているからなんだけど。
……ちょっと、あんたお酒を呑む手が止まっているわね。そんなに怖がらなくってもいいのに。私はただ、知り合いから聞いた話を口にしているだけなんだからさあ。
アリスはそれから数日、すっかりお人形さんを忘れていた。二度と思い出さないんじゃないかって具合にね。そんなある日、彼女の家に魔理沙がやってきたの。理由は本を借りにきたとか。アリスは魔理沙を家に上げて、目当ての本を渡そうとした。
そのとき、アリスは急にお人形さんを思い出したの。人形にまつわる話は一言も交わしていなかったのに、のっそりと立ち上がってきた。問題はね、アリスはそれから、お人形さんのことが頭から離れなくなっちゃったこと。なぜだか分からないけど、今すぐにでも直さなくちゃって感じられたそうよ。
アリスは本を探してくるって言って、魔理沙を椅子に座らせたの。けど本なんてどうでもよくなっていた。自分の部屋から取ってきたのは、櫛とハサミだったのよ。魔理沙のもとに戻って、真っ先に口から出てきたのはこんな言葉だった。
「ねえ、あんた髪の毛のびてんじゃない?」
魔理沙がそんなことはないって断っているのに、アリスは背中に近づいて、髪を撫でるのを止められなかったそうよ。魔理沙の琥珀色の癖っ毛を撫でたとき、心の底から、あのお人形さんにぴったりだって思った。
アリスがいつまでも髪をいじくっているものだから、魔理沙はとうとう怒りだしちゃったの。そこでアリスが何をしたかっていうと、ハサミを振りかざして、魔理沙を脅しはじめたの。
「私は髪を切ってあげたいだけなの。魔理沙の綺麗な髪の毛、切りそろえてあげるのよ。動いたら、ハサミが耳や頬を引っ掻いちゃうでしょ。魔理沙のお肌、傷ついちゃうでしょ」
そんなことを言われたら、誰だって抵抗できなくなっちゃうでしょ。魔理沙は動けなくなったの。アリスにもそれが分かって、けど少し申し訳ない気持ちもあったの。本人でさえよく分からない言い訳をしながら、髪に櫛をいれはじめた。
「ごめんなさいね、けどね、あの子がどうしても欲しいっていうからね。魔理沙の髪の毛がぴったりなのよ。ほんと、ごめんなさいね。ああ、こんな髪、せっかくのばしているのに、かわいい三つ編み、残念ね」
"あの子"のことなんて、今まで一度も話していなかったじゃない。魔理沙には、髪がのびているから切りましょうって言ったのに、お人形さんのことを口にするなんてねえ。魔理沙もおかしさに気付いて、アリスはこう言われたんだって。
「あの子って誰だ。ちょっと、何のために髪を切るつもりなんだよ」
「ごめんなさいね、あの子は魔理沙と違って髪が満足じゃないの。だから新しく植えつけてあげないといけないの」
「あの子って……」
魔理沙がそこで絶句したの。アリスは気になって、魔理沙が目を向けている先を見つめた。すると二人の正面、机の上に、いつの間にかお人形さんが座っていたの。アリスの私室にあったはずなのに、独りでにやってきたなんて。けどアリスは不思議がるより、見られているから頑張らなくちゃって考えたのよ。
硬直している魔理沙をよそに、髪をパチリパチリ、お人形さんにちょうどいい分だけ切っていく。それは案外少なくって、そのせいで魔理沙は後ろ髪だけ中途半端に短くなっちゃったの。
アリスはそれだけで終わらなかった。次は魔理沙の服の余った部分を引っ張って、そこにハサミを入れはじめたの。右肩から背中にかけて、切れ目をいれて、黒い外套を破く。白いシャツを切り取る。
けど、まだ足りないの。思い出してみて、お人形さんに何が足りなかったかを。髪の毛に、衣服に、左目よ。
そんなまさかって思ったでしょ。けどその時のアリスは本気だった、お人形さんに足りない左目を補ってあげなくちゃって思った。怯えている魔理沙の左目を、何とかしてくり抜かなくちゃって思った。ほんと、おかしい。お人形さんの目は糸で作られたもので、生身の目玉が代わりになるわけがないでしょ。けどアリスは何の疑問も抱かなかった。
魔理沙もとうとう、アリスがどんな目的を持っているのか分かったみたいね。だって、目の前にお人形さんがいるんですもの。切られたものと、お人形さんに足りていなかったもの、照らし合わせれば、嫌でも答えを閃いちゃう。次に狙われているものを想像したときの気持ちは、どんなものだったかしら。
アリスは、みるからに挙動不審になりはじめた魔理沙をみて、これは気付かれたなと思った。早めに済ませないとと思って、ハサミを握り締めていつでも突き刺せるようにしたの。
魔理沙は動きはじめた。椅子から転げるように飛び出して、モノ凄い勢いでアリスから離れた。机にいたお人形さんを捕まえて、さらに部屋の奥へ進んでいったの。アリスはそのとき、信じられないほど怒りが沸いたそうよ。すぐさま追いかけて、二人で台所に入って行った。
魔理沙はあろうことか、左手でお人形さんを抱えながら、右手で台所の隅にあった包丁を掴んだ。それを目前にしたアリスは、もう腹の煮えくりかえるような気持ちになって、絶対に左目をえぐってやるって決意した。そうして躊躇なく近づいていった。かたや魔理沙のほうも、我身を守るための包丁かと思いきや、自分からアリスとの距離を縮めていったの。
……それで、どうなったと思う? 二人が刃物で刺しあって、目玉を取り合うために、手も顔も血みどろのぐちゃぐちゃになったと思う? こんな濁ったお話だと、そういう結末を期待しちゃうわよね。けど、残念、終わりはあなたが思っているよりあっけないわ。
実はね、すごく運のいいことに、私がたまたまアリスの家にやってきていたの。私が別の用事で持っていた人形のことについて相談をしようとね。するとどう、二人が台所で威嚇しあっているじゃない。そうして、二人を取り巻く陰鬱な空気といったら。ああこれは、悪いものに取り憑かれているわねって、すぐに分かったの。
私があともう少し来るのが遅かったら、きっと二人は左目を失っていたでしょうね。あるいは、人前には決して出られないような顔に作りかえられていたでしょうね。私がお人形さんを取り上げて、おまじないをかけてあげなかったら、私まで巻き込まれていたでしょうね。
あら、そんな、あからさまに残念な顔をしないでよ。だって、本当にそれでお終いなんだから。お人形さんは今も私が持っているけどさあ、近いうちにお焚き上げをするつもりよ。お人形さんには、薄暗い人の思念がまとわりついているみたいだから、解き放ってあげないと。
それより、あなた、お人形さんを見てみたいと思わない? え、見たくないの。まあそんなこと言わずにさ、もうすぐ燃やしちゃうんだし。ふふ、そうよ、私は酔っ払っているのよ、だからさあ、呪いのお人形を他人に見せちゃいたいとも思っちゃうのよ。
あら、逃げるの。もしかして私が、アリスや魔理沙みたいに取り憑かれているとでも思ったかしら。あら、あなたの左目、きらきら綺麗でお人形さんにぴったりねって、狙いをつけたとでも思っているのかしら。
そんなことは決してないわよ。なんてったって私は博麗の巫女よ。数日後には、お人形さんなんて燃やしちゃうんだから。髪も服も目も……みんなドロドロの灰にしちゃうんだから……ねえ、ねえったら……。
■ おかえしなさい
人間の里に住むしがない団五郎にはある知り合いがいた。名を平左と呼び、里のはずれに建つ小屋に住んでいた。あやかしをも恐れぬ大胆な性格で、三下妖怪にいくどもちょっかいをかけては仕返しを受け、傷だらけの姿をたびたび見せていた。
団五郎はある日、平左に呼ばれて小屋に行くことになった。また妖怪や妖精と悶着を起こしたのかと、団五郎を不安にさせたが、会ってみると平気な顔でニヤニヤしていた。団五郎は座布団を借りて、囲炉裏ごしに向き合った。平左はナスビのような鼻をひくひくさせて、楽しげに口を開いた。
「面白いもんを見つけたんだが、見てみろよ」
平左は粗末な着物の懐から、きらめくものを取り出してきた。一目で団五郎の目を吸いつかせたものは、冷やかな紫色を秘めた玉石だ。平左のこぶしにおさまる大きさだが、深い亀裂が入ってしまっている。
平左のようなやくざ者が、どうやってこんな逸品を見つけたものか。団五郎は気になって問いかけた。
「もしや妖怪から盗んだのではないか」
「妖怪には違いないが、盗んだとは人聞きがわるいな」
平左は数日前のことを語り始める。
その日、平左は妖怪の山のふもと、森中で山菜探しにいそしんでいたそうだ。そこで突然、豪雨のような弾ける音が空に響き渡った。何事かと見上げれば、人の形をしたもの二つが空をぐるぐる巡りながら無数の光を投げ合っていた。ははあこれは妖怪同士の喧嘩だなと気付いて、せっかくの見物だと眺めていた。人の形のうち、片方は紫のドレスで着飾っていた。もう片方は白いシャツが清々しかった。
いやに激しい撃ち合いだったが、しばらくするとピタリと止んだ。なんだもう終わったのかと平左がきょろついているところ、目の前の地面に落っこちてきたものがあった。取り上げてみると、それが紫の玉石だったという。
畳の上に無造作に置かれた玉石、団五郎は聞いた話と照らし合わせて、がぜん不安になってきた。これは、撃ち合いをしていた妖怪の片方が落としたものに違いない。それを取って帰ってくるとは、盗みと呼ばずして何と呼ぶか。
平左は嬉しそうにこう言った。
「俺はこれを質屋に売ろうと思う」
「待てよ、性急だな。これはおおかた妖怪のもんだろうから、妖怪が取り返してくるぞ」
「なにさ、もう数日たってんだ。けどここにゃ誰も来てないな」
「まだ探している途中だろうぜ」
せっかくの団五郎の忠告だが、平左は歯牙にもかけていない様子だった。それより玉石を団五郎のほうに押しのけてきて、持っていけと言い出した。里にある質屋へ見せてこいというわけだ。団五郎は薄気味わるいと断りを入れたものの、よい値が出たら山分けをしようとしつこく言われたので、折れる形で頼みを聞いた。
玉石を懐にいれると見た目よりも軽かった。団五郎はもう少し平左と談話をしたあと、帰り路をいくことになった。里へ辿り着くまでの道中、どことなく風が強くなったような気がして、ブルと身を震わせた。
翌日、団五郎は玉石を質屋へみせにいった。団五郎自身は、平左から聞いた話の危険な臭いと、亀裂の入ってしまっている玉石のために、価値はないと思っていた。はじめ玉石をみせたとき質屋は胡散臭げに顔をしかめた。平左はむしろその態度をよろこんだものだ。ところが鑑定をはじめると質屋の顔色がみるみる変わっていく。眉根をひそめてこう言ってきた。
「あんたこんなものを持ってきて、困るよ」
鑑定は終わり、質屋は玉石をつっぱねてしまった。いったい玉石の何が困るのかと尋ねてみても、質屋は言葉を濁すばかり。仕方がないので玉石は持ち帰らざるをえなかった。
この結果は団五郎にとって胸の透くところがあった。とはいえ、平左に申し訳なくもあった。質屋を出て、別の質屋にも寄るべきだろうかと思案していたときだ。団五郎の肩をそっと引っ張るものがいた。振り返ってみると、いやに冷めた顔をした金髪の女が、唐風のゆったりした衣装をひらひらさせながら立っていたのだ。
「もし、もし、お前はホウジュを知らぬか」
団五郎はそう問われた。女から人ならざる気色を感じ取り、内心でかすかに怯えながらホウジュなるものについて考えてみた。どうもパッとせぬ言葉だった。そうやって黙っていると、女の鋭い目つきが食い込んでくるようだ。あんまり居心地が悪いので、思わずこう答えた。
「どうも人違いをしているのではないですか」
「ホウジュを知らぬか」
「ホウジュなどというのは、初めて聞きました。それより貴方は何者ですか」
「邪魔をしたな」
何者かと尋ねた途端に、女はくるりと振り返って歩いていってしまう。その後ろ姿、スカートがあまりにたっぷりし過ぎているところが目につく。足を隠すにしては不自然だ。団五郎はいったん自分も歩き始めたが、いまいちど振り返ってみた。すると女は影も形もなくなっていた。紛れこめる人ごみもないというのに。やはり霊気めくものがあると思って、団五郎は足早にその場を去った。
さて団五郎は気持ちを改め、平左のもとに行くことにした。行きながら、女を邪険に扱ったことを後悔しはじめていた。もしやホウジュとは、いま自分が持っている玉石のことではなかったかと。あのとき怖気づかずに渡しておけばよかったのではないかと。しかしもう平左の小屋に辿り着いてしまっていた。
小屋に入ってみると、平左は雑魚寝ではあったが待ちかねたとばかり身を起こして、団五郎を座らせた。なので団五郎はまったく申し訳ない気持ちで、質屋が鑑定してくれなかったことを伝えた。平左がみるからに消沈しているところ、加えて先の出来事も伝えておいた。
「この玉は危ないと思うぞ。さっきなどは、持ち主と思われる女に話しかけられた」
「なに、どういう女だ」
「唐服姿で金髪の、何かやらかしてそうな女だった」
平左がふっと笑みを浮かべる。馬鹿にされているようで団五郎は眉をよせた。
「それなら違うな。俺が空で見かけた妖怪どもに、唐服はいなかった」
平左が玉石を返せというので団五郎は返した。彼はもっと特別な店にいって鑑定してもらおうと言った。恐らく香霖堂のことだろう。あんな陰気な場所に行って何になるものかと団五郎は忠告したが、平左は相変わらず金のことしか頭にないようだった。
それから数日後のこと。
団五郎は平左に呼ばれて小屋にいき、首をひねることになる。平左は落ちつきがない様子で、団五郎が小屋の戸をくぐったときなどは「誰だ!」と怒鳴る始末だった。
いざ対面してみると、平左は太刀を抱えて、脇にはピストルを置いて、座りこんでいた。得物の古々しい様子からして、先祖の物だろうか。いったい何があったのかと聞かずにはおれなかった。
「お前、前に女に話しかけられたと言ったな」
「ああ、金髪で唐服の、だがお前が見たのはそれではないのだろ」
「実は俺もそんな女に出会った。ここ数日、まわりをウロウロされている。たしかにお前の言った通り、腹に一物抱えてそうな。きっと妖怪に違いない」
平左が先祖の得物をひっぱりだしてきた理由は、それだった。しかし団五郎の目からしても、太刀やピストルがまったく手入れのされていない物であることは明白だった。それで戦うのは無理がある。こんな男でも知り合いであることには違いないので、何とか腹の虫を抑えてもらいたいところだった。
「やはりその女が持ち主だろうよ。いいかげん返したらどうだ」
平左がゆっくりと、自分の背後に腕をまわして何かを前に出してきた。それを見て団五郎は驚かされた。なにせ真っ二つに割れた玉石だったからだ。平左が言うには、隠し場所をいちいち変えていると、亀裂が激しくなって割れてしまったという。だが彼は平然とこんなことを言いだした。
「お前、かたわれをもっていてくれよ。俺かお前、どっちかの玉石が妖怪に奪い取られても、もう片方は無事って寸法だ」
「どちらも返せと言われるに決まっている」
「玉石は落っこちた時から割れていたんだと言えばいい」
半ば押しつけられる形で玉石のかたわれを持たされた団五郎だった。
平左の小屋を出て浮かない気持ちで道を行く団五郎は、急にぞくりと来るものを感じて立ち止まる。誰かに見られているような気がしてならなかった。と、周囲をうかがっていると、近くの茂みから飛び出してくるものがあった。狐だ。団五郎の前を通り過ぎていく。ひとまずは安堵させられた。だがその狐は立ち止まって、ぎらつく瞳をむけてきた。なぜか里で話しかけてきた女を思い出してしまい、団五郎は生唾をのみこんだ。
いつまでも立ち止まっているわけにはいかないので、しっしと手で追い払うと、狐は茂みへ消えていった。団五郎はそれを見送ると逃げるように道を急いだ。そしてしだいに嫌な想像がたくましくなっていく。恐らくあれは化け狐だろう。この幻想郷に住まう化け狐となると、八雲藍に違いない。八雲藍といえば、もっと恐ろしい妖怪の式神だったはずだ。
……もしやこの玉石は、八雲紫のものではないだろうか。割れてなお内部に満ちる紫の光は、その証ではなかろうか。団五郎がそう考えると、懐のかたわれが重たく感じられてくる。このまま道端にほっぽり出してしまったほうが、身のために思えてならなかった。しかし大妖怪の持ち物をゴミのように扱って、バチが当たらないとも限らない。この手で返すことができればよいのだが、団五郎はその方法を知らない。
家にもどった団五郎は、ひとまず玉石を、物置棚に収めることにした。そうして不安を抱いたまま過ごし、夜になると眠りについた。
その夜、団五郎はしずかに眠っていたが、あるとき突然に目を覚ました。まぶたをひらいて部屋の暗闇を見るともなく見ると、何かが動いたような気がした。身をこわばらせて様子をうかがってしばらく、変化はない。見間違えだろうか。
突然、畳がジリと音を鳴らした。ジリ、ジリ、ジリ、と団五郎の周囲から音がする。誰かが部屋の中を歩き回っている。団五郎は布団の中で硬直し、息をひそめて何者かの正体を探ろうとした。するうち気がついたのだが、目の前の様子がおかしいのだ。窓から月明かり星明かりを受けて、ぼんやり青い部屋の中でありながら、一か所だけ墨で塗りつぶしたように黒い。棚か何かがそう見えているだけだろうか。その黒一色は、中空に浮かんでいるように見えてならない。
いったい、何がいるんだ。
団五郎の緊張がいやましに大きくなっていくそのとき、恐怖はついに牙をむいた。黒一色の間から、突然に二本の腕が生えて、あろうことか団五郎の首根っこを掴みにかかった。あまりにも突然の出来事で抵抗もできず、団五郎はただ生白い両腕を見つめることしかできない。
いや、だが、命の危険を察した団五郎。間をおいて、両腕を掴み返そうとした。ところがそこで左右からも腕が飛び出してきて、団五郎の上半身は瞬く間に拘束された。その腕の数からいって、周囲に三四人は確実にいるだろうか。にも関わらず、人の気配は感じられない。まったく何が起きているのか、ただただ混乱するばかりの団五郎の耳元に、とある声が囁かれた。
「おかえしなさい」
「お、おかえしとは、なんのことで」
女の声だが、里で出会った女とは明らかに違う。団五郎は泣きそうになりながら、必死で言葉を返したが、かえって相手を怒らせたようだ。相手は黙ってしまって、首にからみつく腕の力がぐっと増して、爪が皮膚に食い込んできた。このままでは殺されると思った団五郎は、必死に次の言葉をたぐりよせた。
「あ、紫の、紫の玉か。それなら、物置棚に」
そう言った途端、部屋の隅の物置棚が独りでに開きはじめた。棚がいくつか適当に開かれたあと、また声が囁かれる。
「どこの棚か教えなさい」
「上から二番目、左側の棚」
言葉通りの棚がすかさず動き出した。団五郎の目の端で、紫の玉石が浮かび上がって、暗闇に吸い込まれていく。だが相変わらず腕が団五郎を締めあげたままで、さらに力が強まっていくではないか。団五郎は息苦しさから、喘がずにはおれなかった。
「割れた欠片も」
「お、俺が見つけたときから割れていて……」
「欠片も」
「あ、その、平左が、平左ってやつが持ってて、里のはずれの小屋の」
首を絞める力が弱まったかと思うと、団五郎を拘束していたいくつもの腕が離れていく。黒一色に溶け込んでいくと、その黒一色も薄れ、あとには何も残っていなかった。団五郎は汗まみれで茫然としていたが、じわじわと恐怖がぶり返してきた。なので布団を頭まで被った。
眠れないまま夜を明かした団五郎は、翌朝には平左の身を案じて急ぎ小屋まで向かった。小屋の中へ入った団五郎は言葉を失った。
小屋の中はひどい争いがあったらしい。囲炉裏の鍋がひっくり返り、物置棚、衣装棚がぐちゃぐちゃになっている。平左が使っていたと思しき布団は八つ裂きになっていて、いくつかの畳が引っぺがされている。そしてへし折られた太刀と、銃身のねじ曲がったピストルが捨ておかれていた。
押し入れを仕切る襖は大きな穴が開けられており、団五郎が平左を見つけたのはその穴を覗いたときだった。押し入れの奥で三角座りに身を縮こませて、全身を震わせている平左がいた。
団五郎は平左に声をかけたものの、怯えた様を見せるばかりで、会話をしてくれない。玉石のことを尋ねれば「やめろ」と呻くばかりで話にならなかった。団五郎は一人、平左にかわって部屋の掃除をしてやった。ついでに玉石の行方も調べたが、どこにも見つからなかった。恐らく、昨夜の妖怪が平左のもとまで取り返しにきたのだろう。平左はきっと、いらぬ抵抗をしたに違いない。そのせいで、ずいぶん恐ろしい目に会ったようだが、団五郎はそのことを考えるべきではないと分かっていた。
これで、紫の玉石についての話は終わりだ。この後、団五郎は平左と付き合わぬようになった。なにせ平左が小屋に引きこもって出ぬようになったからだ。また、あの夜から数日後、団五郎の家に何者からか知らぬが金と米が届けられた。手紙も添えられていて、いやに古風な文字で「宝珠のことは口外無用」と記されていた。
ねえあんたさあ、ちょっとお酒をおごりなさい。こんな酒場で目が会った仲よ。袖振り合いも多少の縁と言うのは、あれは真の言葉だって、私は分かるんだからね。
どうして幽霊に出会ったみたいな顔をしているのよ。巫女がお酒を飲んでいるのがおかしいのかしら。博麗の巫女だってねえ、俗っぽい地酒をごくりといきたい時があるものよ。そこんところをさあ、ね、分かってちょうだい。うんそう、ありがとうね、ありがたく一杯ちょうだいするわね。
そうよ、私は酔っ払っているのよ。だからさあ、ね、ちょっと付き合ってくれてもいいでしょう。ね、ね、かわりに面白い話を教えてあげるからね。酒の肴にでもしてちょうだい。
私の知り合いに何人か魔法使いがいるんだけど、アリスっていうのがいてね、人形に詳しくてさあ、家の中に引きこもって人形を縫ったり貼ったりしているの。その子は魔理沙ってのと家が近くて、仲もそこそこ。
あるときね、アリスが妙なことに気付いたの。いつの間にか知らないお人形さんを持っていてさあ、壊れかけみたいな、作りかけみたいな、気味悪い奴をね。本人はどこで買ったものか、拾ったものか、よく覚えていない。まあでも中途半端な姿だから、修繕してあげないといけないって思ったみたい。
お人形さんは髪の毛が右半分だけ生えていて、服は縫いかけの上着だけ。お目目なんて右だけ縫い付けられているんだから。可哀そうじゃない。まずは服を着せてあげなきゃって、アリスは別のお人形さんの服を貸してあげようとした。けど服はそのお人形さんと体型が合わなかった。仕方がないから新しく作ることにしたんだけど、そんなときに限って糸を切らしていたの。もちろん、糸の何もかもがなかったわけじゃないのよ。赤とか青とか、きちんと余っていたけど、お人形さんに合いそうな色あいの糸がなかったわけ。
それなら服は諦めて、髪を縫ってあげようとしたの。幸いお人形さんは金髪で、金色や黄色の糸は余っていたから、さっそく作業に取り掛かろうとしたの。するとね、アリスはまた気付いちゃった。髪に触れてみて、ゾクッときたの。触り心地が、どう考えても糸じゃない。まるで本物の髪だった。一本一本、すべて本物よ。
元は誰の髪だったのか、こんなに丹念に植えつける必要があったのか……とにかく恐ろしいわよね。アリスも、すっかり怖気づいちゃって、こんなものは捨てちゃいましょうって。いつの間にか持っていたのも、きっとタチの悪い妖精が悪戯で運んできたんだろうって思ったの。
そうやって、アリスはひとまずお人形さんから離れたわ。あとでいくらでも捨てられるからってね。ところが、家事に追われているうち、そのことを忘れちゃったの。私たちでも、よくあるわよね。だから何気ないことに思えるけど、このお話だと、ちょっと不安になってこない? ええまあ、私があんたを驚かせるつもりで話しているからなんだけど。
……ちょっと、あんたお酒を呑む手が止まっているわね。そんなに怖がらなくってもいいのに。私はただ、知り合いから聞いた話を口にしているだけなんだからさあ。
アリスはそれから数日、すっかりお人形さんを忘れていた。二度と思い出さないんじゃないかって具合にね。そんなある日、彼女の家に魔理沙がやってきたの。理由は本を借りにきたとか。アリスは魔理沙を家に上げて、目当ての本を渡そうとした。
そのとき、アリスは急にお人形さんを思い出したの。人形にまつわる話は一言も交わしていなかったのに、のっそりと立ち上がってきた。問題はね、アリスはそれから、お人形さんのことが頭から離れなくなっちゃったこと。なぜだか分からないけど、今すぐにでも直さなくちゃって感じられたそうよ。
アリスは本を探してくるって言って、魔理沙を椅子に座らせたの。けど本なんてどうでもよくなっていた。自分の部屋から取ってきたのは、櫛とハサミだったのよ。魔理沙のもとに戻って、真っ先に口から出てきたのはこんな言葉だった。
「ねえ、あんた髪の毛のびてんじゃない?」
魔理沙がそんなことはないって断っているのに、アリスは背中に近づいて、髪を撫でるのを止められなかったそうよ。魔理沙の琥珀色の癖っ毛を撫でたとき、心の底から、あのお人形さんにぴったりだって思った。
アリスがいつまでも髪をいじくっているものだから、魔理沙はとうとう怒りだしちゃったの。そこでアリスが何をしたかっていうと、ハサミを振りかざして、魔理沙を脅しはじめたの。
「私は髪を切ってあげたいだけなの。魔理沙の綺麗な髪の毛、切りそろえてあげるのよ。動いたら、ハサミが耳や頬を引っ掻いちゃうでしょ。魔理沙のお肌、傷ついちゃうでしょ」
そんなことを言われたら、誰だって抵抗できなくなっちゃうでしょ。魔理沙は動けなくなったの。アリスにもそれが分かって、けど少し申し訳ない気持ちもあったの。本人でさえよく分からない言い訳をしながら、髪に櫛をいれはじめた。
「ごめんなさいね、けどね、あの子がどうしても欲しいっていうからね。魔理沙の髪の毛がぴったりなのよ。ほんと、ごめんなさいね。ああ、こんな髪、せっかくのばしているのに、かわいい三つ編み、残念ね」
"あの子"のことなんて、今まで一度も話していなかったじゃない。魔理沙には、髪がのびているから切りましょうって言ったのに、お人形さんのことを口にするなんてねえ。魔理沙もおかしさに気付いて、アリスはこう言われたんだって。
「あの子って誰だ。ちょっと、何のために髪を切るつもりなんだよ」
「ごめんなさいね、あの子は魔理沙と違って髪が満足じゃないの。だから新しく植えつけてあげないといけないの」
「あの子って……」
魔理沙がそこで絶句したの。アリスは気になって、魔理沙が目を向けている先を見つめた。すると二人の正面、机の上に、いつの間にかお人形さんが座っていたの。アリスの私室にあったはずなのに、独りでにやってきたなんて。けどアリスは不思議がるより、見られているから頑張らなくちゃって考えたのよ。
硬直している魔理沙をよそに、髪をパチリパチリ、お人形さんにちょうどいい分だけ切っていく。それは案外少なくって、そのせいで魔理沙は後ろ髪だけ中途半端に短くなっちゃったの。
アリスはそれだけで終わらなかった。次は魔理沙の服の余った部分を引っ張って、そこにハサミを入れはじめたの。右肩から背中にかけて、切れ目をいれて、黒い外套を破く。白いシャツを切り取る。
けど、まだ足りないの。思い出してみて、お人形さんに何が足りなかったかを。髪の毛に、衣服に、左目よ。
そんなまさかって思ったでしょ。けどその時のアリスは本気だった、お人形さんに足りない左目を補ってあげなくちゃって思った。怯えている魔理沙の左目を、何とかしてくり抜かなくちゃって思った。ほんと、おかしい。お人形さんの目は糸で作られたもので、生身の目玉が代わりになるわけがないでしょ。けどアリスは何の疑問も抱かなかった。
魔理沙もとうとう、アリスがどんな目的を持っているのか分かったみたいね。だって、目の前にお人形さんがいるんですもの。切られたものと、お人形さんに足りていなかったもの、照らし合わせれば、嫌でも答えを閃いちゃう。次に狙われているものを想像したときの気持ちは、どんなものだったかしら。
アリスは、みるからに挙動不審になりはじめた魔理沙をみて、これは気付かれたなと思った。早めに済ませないとと思って、ハサミを握り締めていつでも突き刺せるようにしたの。
魔理沙は動きはじめた。椅子から転げるように飛び出して、モノ凄い勢いでアリスから離れた。机にいたお人形さんを捕まえて、さらに部屋の奥へ進んでいったの。アリスはそのとき、信じられないほど怒りが沸いたそうよ。すぐさま追いかけて、二人で台所に入って行った。
魔理沙はあろうことか、左手でお人形さんを抱えながら、右手で台所の隅にあった包丁を掴んだ。それを目前にしたアリスは、もう腹の煮えくりかえるような気持ちになって、絶対に左目をえぐってやるって決意した。そうして躊躇なく近づいていった。かたや魔理沙のほうも、我身を守るための包丁かと思いきや、自分からアリスとの距離を縮めていったの。
……それで、どうなったと思う? 二人が刃物で刺しあって、目玉を取り合うために、手も顔も血みどろのぐちゃぐちゃになったと思う? こんな濁ったお話だと、そういう結末を期待しちゃうわよね。けど、残念、終わりはあなたが思っているよりあっけないわ。
実はね、すごく運のいいことに、私がたまたまアリスの家にやってきていたの。私が別の用事で持っていた人形のことについて相談をしようとね。するとどう、二人が台所で威嚇しあっているじゃない。そうして、二人を取り巻く陰鬱な空気といったら。ああこれは、悪いものに取り憑かれているわねって、すぐに分かったの。
私があともう少し来るのが遅かったら、きっと二人は左目を失っていたでしょうね。あるいは、人前には決して出られないような顔に作りかえられていたでしょうね。私がお人形さんを取り上げて、おまじないをかけてあげなかったら、私まで巻き込まれていたでしょうね。
あら、そんな、あからさまに残念な顔をしないでよ。だって、本当にそれでお終いなんだから。お人形さんは今も私が持っているけどさあ、近いうちにお焚き上げをするつもりよ。お人形さんには、薄暗い人の思念がまとわりついているみたいだから、解き放ってあげないと。
それより、あなた、お人形さんを見てみたいと思わない? え、見たくないの。まあそんなこと言わずにさ、もうすぐ燃やしちゃうんだし。ふふ、そうよ、私は酔っ払っているのよ、だからさあ、呪いのお人形を他人に見せちゃいたいとも思っちゃうのよ。
あら、逃げるの。もしかして私が、アリスや魔理沙みたいに取り憑かれているとでも思ったかしら。あら、あなたの左目、きらきら綺麗でお人形さんにぴったりねって、狙いをつけたとでも思っているのかしら。
そんなことは決してないわよ。なんてったって私は博麗の巫女よ。数日後には、お人形さんなんて燃やしちゃうんだから。髪も服も目も……みんなドロドロの灰にしちゃうんだから……ねえ、ねえったら……。
■ おかえしなさい
人間の里に住むしがない団五郎にはある知り合いがいた。名を平左と呼び、里のはずれに建つ小屋に住んでいた。あやかしをも恐れぬ大胆な性格で、三下妖怪にいくどもちょっかいをかけては仕返しを受け、傷だらけの姿をたびたび見せていた。
団五郎はある日、平左に呼ばれて小屋に行くことになった。また妖怪や妖精と悶着を起こしたのかと、団五郎を不安にさせたが、会ってみると平気な顔でニヤニヤしていた。団五郎は座布団を借りて、囲炉裏ごしに向き合った。平左はナスビのような鼻をひくひくさせて、楽しげに口を開いた。
「面白いもんを見つけたんだが、見てみろよ」
平左は粗末な着物の懐から、きらめくものを取り出してきた。一目で団五郎の目を吸いつかせたものは、冷やかな紫色を秘めた玉石だ。平左のこぶしにおさまる大きさだが、深い亀裂が入ってしまっている。
平左のようなやくざ者が、どうやってこんな逸品を見つけたものか。団五郎は気になって問いかけた。
「もしや妖怪から盗んだのではないか」
「妖怪には違いないが、盗んだとは人聞きがわるいな」
平左は数日前のことを語り始める。
その日、平左は妖怪の山のふもと、森中で山菜探しにいそしんでいたそうだ。そこで突然、豪雨のような弾ける音が空に響き渡った。何事かと見上げれば、人の形をしたもの二つが空をぐるぐる巡りながら無数の光を投げ合っていた。ははあこれは妖怪同士の喧嘩だなと気付いて、せっかくの見物だと眺めていた。人の形のうち、片方は紫のドレスで着飾っていた。もう片方は白いシャツが清々しかった。
いやに激しい撃ち合いだったが、しばらくするとピタリと止んだ。なんだもう終わったのかと平左がきょろついているところ、目の前の地面に落っこちてきたものがあった。取り上げてみると、それが紫の玉石だったという。
畳の上に無造作に置かれた玉石、団五郎は聞いた話と照らし合わせて、がぜん不安になってきた。これは、撃ち合いをしていた妖怪の片方が落としたものに違いない。それを取って帰ってくるとは、盗みと呼ばずして何と呼ぶか。
平左は嬉しそうにこう言った。
「俺はこれを質屋に売ろうと思う」
「待てよ、性急だな。これはおおかた妖怪のもんだろうから、妖怪が取り返してくるぞ」
「なにさ、もう数日たってんだ。けどここにゃ誰も来てないな」
「まだ探している途中だろうぜ」
せっかくの団五郎の忠告だが、平左は歯牙にもかけていない様子だった。それより玉石を団五郎のほうに押しのけてきて、持っていけと言い出した。里にある質屋へ見せてこいというわけだ。団五郎は薄気味わるいと断りを入れたものの、よい値が出たら山分けをしようとしつこく言われたので、折れる形で頼みを聞いた。
玉石を懐にいれると見た目よりも軽かった。団五郎はもう少し平左と談話をしたあと、帰り路をいくことになった。里へ辿り着くまでの道中、どことなく風が強くなったような気がして、ブルと身を震わせた。
翌日、団五郎は玉石を質屋へみせにいった。団五郎自身は、平左から聞いた話の危険な臭いと、亀裂の入ってしまっている玉石のために、価値はないと思っていた。はじめ玉石をみせたとき質屋は胡散臭げに顔をしかめた。平左はむしろその態度をよろこんだものだ。ところが鑑定をはじめると質屋の顔色がみるみる変わっていく。眉根をひそめてこう言ってきた。
「あんたこんなものを持ってきて、困るよ」
鑑定は終わり、質屋は玉石をつっぱねてしまった。いったい玉石の何が困るのかと尋ねてみても、質屋は言葉を濁すばかり。仕方がないので玉石は持ち帰らざるをえなかった。
この結果は団五郎にとって胸の透くところがあった。とはいえ、平左に申し訳なくもあった。質屋を出て、別の質屋にも寄るべきだろうかと思案していたときだ。団五郎の肩をそっと引っ張るものがいた。振り返ってみると、いやに冷めた顔をした金髪の女が、唐風のゆったりした衣装をひらひらさせながら立っていたのだ。
「もし、もし、お前はホウジュを知らぬか」
団五郎はそう問われた。女から人ならざる気色を感じ取り、内心でかすかに怯えながらホウジュなるものについて考えてみた。どうもパッとせぬ言葉だった。そうやって黙っていると、女の鋭い目つきが食い込んでくるようだ。あんまり居心地が悪いので、思わずこう答えた。
「どうも人違いをしているのではないですか」
「ホウジュを知らぬか」
「ホウジュなどというのは、初めて聞きました。それより貴方は何者ですか」
「邪魔をしたな」
何者かと尋ねた途端に、女はくるりと振り返って歩いていってしまう。その後ろ姿、スカートがあまりにたっぷりし過ぎているところが目につく。足を隠すにしては不自然だ。団五郎はいったん自分も歩き始めたが、いまいちど振り返ってみた。すると女は影も形もなくなっていた。紛れこめる人ごみもないというのに。やはり霊気めくものがあると思って、団五郎は足早にその場を去った。
さて団五郎は気持ちを改め、平左のもとに行くことにした。行きながら、女を邪険に扱ったことを後悔しはじめていた。もしやホウジュとは、いま自分が持っている玉石のことではなかったかと。あのとき怖気づかずに渡しておけばよかったのではないかと。しかしもう平左の小屋に辿り着いてしまっていた。
小屋に入ってみると、平左は雑魚寝ではあったが待ちかねたとばかり身を起こして、団五郎を座らせた。なので団五郎はまったく申し訳ない気持ちで、質屋が鑑定してくれなかったことを伝えた。平左がみるからに消沈しているところ、加えて先の出来事も伝えておいた。
「この玉は危ないと思うぞ。さっきなどは、持ち主と思われる女に話しかけられた」
「なに、どういう女だ」
「唐服姿で金髪の、何かやらかしてそうな女だった」
平左がふっと笑みを浮かべる。馬鹿にされているようで団五郎は眉をよせた。
「それなら違うな。俺が空で見かけた妖怪どもに、唐服はいなかった」
平左が玉石を返せというので団五郎は返した。彼はもっと特別な店にいって鑑定してもらおうと言った。恐らく香霖堂のことだろう。あんな陰気な場所に行って何になるものかと団五郎は忠告したが、平左は相変わらず金のことしか頭にないようだった。
それから数日後のこと。
団五郎は平左に呼ばれて小屋にいき、首をひねることになる。平左は落ちつきがない様子で、団五郎が小屋の戸をくぐったときなどは「誰だ!」と怒鳴る始末だった。
いざ対面してみると、平左は太刀を抱えて、脇にはピストルを置いて、座りこんでいた。得物の古々しい様子からして、先祖の物だろうか。いったい何があったのかと聞かずにはおれなかった。
「お前、前に女に話しかけられたと言ったな」
「ああ、金髪で唐服の、だがお前が見たのはそれではないのだろ」
「実は俺もそんな女に出会った。ここ数日、まわりをウロウロされている。たしかにお前の言った通り、腹に一物抱えてそうな。きっと妖怪に違いない」
平左が先祖の得物をひっぱりだしてきた理由は、それだった。しかし団五郎の目からしても、太刀やピストルがまったく手入れのされていない物であることは明白だった。それで戦うのは無理がある。こんな男でも知り合いであることには違いないので、何とか腹の虫を抑えてもらいたいところだった。
「やはりその女が持ち主だろうよ。いいかげん返したらどうだ」
平左がゆっくりと、自分の背後に腕をまわして何かを前に出してきた。それを見て団五郎は驚かされた。なにせ真っ二つに割れた玉石だったからだ。平左が言うには、隠し場所をいちいち変えていると、亀裂が激しくなって割れてしまったという。だが彼は平然とこんなことを言いだした。
「お前、かたわれをもっていてくれよ。俺かお前、どっちかの玉石が妖怪に奪い取られても、もう片方は無事って寸法だ」
「どちらも返せと言われるに決まっている」
「玉石は落っこちた時から割れていたんだと言えばいい」
半ば押しつけられる形で玉石のかたわれを持たされた団五郎だった。
平左の小屋を出て浮かない気持ちで道を行く団五郎は、急にぞくりと来るものを感じて立ち止まる。誰かに見られているような気がしてならなかった。と、周囲をうかがっていると、近くの茂みから飛び出してくるものがあった。狐だ。団五郎の前を通り過ぎていく。ひとまずは安堵させられた。だがその狐は立ち止まって、ぎらつく瞳をむけてきた。なぜか里で話しかけてきた女を思い出してしまい、団五郎は生唾をのみこんだ。
いつまでも立ち止まっているわけにはいかないので、しっしと手で追い払うと、狐は茂みへ消えていった。団五郎はそれを見送ると逃げるように道を急いだ。そしてしだいに嫌な想像がたくましくなっていく。恐らくあれは化け狐だろう。この幻想郷に住まう化け狐となると、八雲藍に違いない。八雲藍といえば、もっと恐ろしい妖怪の式神だったはずだ。
……もしやこの玉石は、八雲紫のものではないだろうか。割れてなお内部に満ちる紫の光は、その証ではなかろうか。団五郎がそう考えると、懐のかたわれが重たく感じられてくる。このまま道端にほっぽり出してしまったほうが、身のために思えてならなかった。しかし大妖怪の持ち物をゴミのように扱って、バチが当たらないとも限らない。この手で返すことができればよいのだが、団五郎はその方法を知らない。
家にもどった団五郎は、ひとまず玉石を、物置棚に収めることにした。そうして不安を抱いたまま過ごし、夜になると眠りについた。
その夜、団五郎はしずかに眠っていたが、あるとき突然に目を覚ました。まぶたをひらいて部屋の暗闇を見るともなく見ると、何かが動いたような気がした。身をこわばらせて様子をうかがってしばらく、変化はない。見間違えだろうか。
突然、畳がジリと音を鳴らした。ジリ、ジリ、ジリ、と団五郎の周囲から音がする。誰かが部屋の中を歩き回っている。団五郎は布団の中で硬直し、息をひそめて何者かの正体を探ろうとした。するうち気がついたのだが、目の前の様子がおかしいのだ。窓から月明かり星明かりを受けて、ぼんやり青い部屋の中でありながら、一か所だけ墨で塗りつぶしたように黒い。棚か何かがそう見えているだけだろうか。その黒一色は、中空に浮かんでいるように見えてならない。
いったい、何がいるんだ。
団五郎の緊張がいやましに大きくなっていくそのとき、恐怖はついに牙をむいた。黒一色の間から、突然に二本の腕が生えて、あろうことか団五郎の首根っこを掴みにかかった。あまりにも突然の出来事で抵抗もできず、団五郎はただ生白い両腕を見つめることしかできない。
いや、だが、命の危険を察した団五郎。間をおいて、両腕を掴み返そうとした。ところがそこで左右からも腕が飛び出してきて、団五郎の上半身は瞬く間に拘束された。その腕の数からいって、周囲に三四人は確実にいるだろうか。にも関わらず、人の気配は感じられない。まったく何が起きているのか、ただただ混乱するばかりの団五郎の耳元に、とある声が囁かれた。
「おかえしなさい」
「お、おかえしとは、なんのことで」
女の声だが、里で出会った女とは明らかに違う。団五郎は泣きそうになりながら、必死で言葉を返したが、かえって相手を怒らせたようだ。相手は黙ってしまって、首にからみつく腕の力がぐっと増して、爪が皮膚に食い込んできた。このままでは殺されると思った団五郎は、必死に次の言葉をたぐりよせた。
「あ、紫の、紫の玉か。それなら、物置棚に」
そう言った途端、部屋の隅の物置棚が独りでに開きはじめた。棚がいくつか適当に開かれたあと、また声が囁かれる。
「どこの棚か教えなさい」
「上から二番目、左側の棚」
言葉通りの棚がすかさず動き出した。団五郎の目の端で、紫の玉石が浮かび上がって、暗闇に吸い込まれていく。だが相変わらず腕が団五郎を締めあげたままで、さらに力が強まっていくではないか。団五郎は息苦しさから、喘がずにはおれなかった。
「割れた欠片も」
「お、俺が見つけたときから割れていて……」
「欠片も」
「あ、その、平左が、平左ってやつが持ってて、里のはずれの小屋の」
首を絞める力が弱まったかと思うと、団五郎を拘束していたいくつもの腕が離れていく。黒一色に溶け込んでいくと、その黒一色も薄れ、あとには何も残っていなかった。団五郎は汗まみれで茫然としていたが、じわじわと恐怖がぶり返してきた。なので布団を頭まで被った。
眠れないまま夜を明かした団五郎は、翌朝には平左の身を案じて急ぎ小屋まで向かった。小屋の中へ入った団五郎は言葉を失った。
小屋の中はひどい争いがあったらしい。囲炉裏の鍋がひっくり返り、物置棚、衣装棚がぐちゃぐちゃになっている。平左が使っていたと思しき布団は八つ裂きになっていて、いくつかの畳が引っぺがされている。そしてへし折られた太刀と、銃身のねじ曲がったピストルが捨ておかれていた。
押し入れを仕切る襖は大きな穴が開けられており、団五郎が平左を見つけたのはその穴を覗いたときだった。押し入れの奥で三角座りに身を縮こませて、全身を震わせている平左がいた。
団五郎は平左に声をかけたものの、怯えた様を見せるばかりで、会話をしてくれない。玉石のことを尋ねれば「やめろ」と呻くばかりで話にならなかった。団五郎は一人、平左にかわって部屋の掃除をしてやった。ついでに玉石の行方も調べたが、どこにも見つからなかった。恐らく、昨夜の妖怪が平左のもとまで取り返しにきたのだろう。平左はきっと、いらぬ抵抗をしたに違いない。そのせいで、ずいぶん恐ろしい目に会ったようだが、団五郎はそのことを考えるべきではないと分かっていた。
これで、紫の玉石についての話は終わりだ。この後、団五郎は平左と付き合わぬようになった。なにせ平左が小屋に引きこもって出ぬようになったからだ。また、あの夜から数日後、団五郎の家に何者からか知らぬが金と米が届けられた。手紙も添えられていて、いやに古風な文字で「宝珠のことは口外無用」と記されていた。
霊夢の口調がだいぶ子供っぽいのは、酔ってるせいなのか、人形のせいなのか。