「――レイセン、あなたに話があります。後で部屋に来るように」
豊姫様は微笑んで言ってくれたが、私は気が気ではなかった。
月の部隊のリーダーである豊姫様、依姫様のペットとなった私が、お二人の部屋に呼び出されるのはもちろん初めてではない。依姫様の部屋に呼ばれる時は大抵が辛い話で、あまり気が進まない。一方、豊姫様に呼ばれる時は、桃やお菓子を振る舞われ、面白い話を聞かせてくれるので、喜んで飛んでいく。
ただ、今回のように、豊姫様に面と向かって呼び出されることはなかったように思う。『話』とは、『面白い話』などではないのだろう。
最近の行動に何か粗相がなかったか顧みる。無い。なら、これから何かがあるのだろうか。不安に胃がきりきりする。
兎に角、私は言われたとおり、豊姫様の部屋に向かった。
今一度、短い髪が乱れていないか確認してから扉の前に立つ。些細なことでも角が立たないようにするべきだ。
コンコンコン。
――習った礼儀を反復するように、扉を3回ノックする。少しして、
「――はい、どうぞ――」
豊姫様の透き通った声が、返ってきた。
失礼します、と断りを入れてから踏み込んだ豊姫様の部屋は以前と変わらなかった。豊姫様の部屋、と言ってもいくつかの部屋で構成されており、入ってすぐの部屋は応接室のような作りになっている。それでも私に与えられた個室より広く、装飾する掛軸や壺はそこにあることが当然のように居住まいを正している。いや、豊姫様の御前にあって失礼のないようにしていると言ったほうがいいだろうか。
そして、
「いらっしゃい、レイセン」
部屋の主が悠然とソファーに腰掛けていることで、部屋全体が調和していた。
手で促され、私は向かい合うソファーに腰を下ろす。それから……なんとなく豊姫様の目を見ることはできなくて、部屋の内装へと目を泳がせていた。
まるで、最初にこの部屋に入った時のようだ。つい先日まで餅を搗いていた自分はここに居てはならない、そう物怖じしてしまう。煌びやかな部屋に不釣り合いな私には斥力が発生して押しつぶされそうになる。
「……何を緊張しているの?」
豊姫様に不審がられてしまった。相手に気を遣わせてはいけないものだ。
「すみません。一体どんな話でしょう」
私はいつもの調子を取り戻そうと、背筋を整える。
そんな私を見て、豊姫様は吹き出した。
「……ふふふ、そんなに気張らなくてもいいのに。まるで……」
言いかけて、豊姫様は口を噤んだ。何に例えようとしたのか、私は見当もつかない。
豊姫様は、話を再開する。
「――面白い話があるのよ。と言っても、世間話のようなものだけれどね」
普段こんな前置きは、ない。いつもと違う雰囲気に飲まれそうになる。
豊姫様は頭の回転が速い。学もある。きっと、何か大切な話なのだろう。
私は、しっかりと耳を立てて――と言っても長い耳は頭の横に垂れて、肩に付きそうだったけれど――話を聞くようにする。
豊姫様が、口を開く。
「白くて、うにゅ~っとしたものがいるのよ」
はい。
「……は、はい?」
思わず聞き返してしまう。
「だから、白くて、うにゅ~」
間延びした言葉には、緊張感の一欠けらも含まれない。
白くて、うにゅ~? 何だろう、それは。餅? 大福?
それにしては、
「『いる』とは、どういうことでしょう?」
「……そうね。そこから話を始めましょう」
豊姫様が言うにはこうだ。
宮殿の門番を除き、ほとんどの者が休息を取る時間。その時間、人や兎は活動を止めないにしても、部屋にこもってしまう。綿月の屋敷にはそんな時間が設けられている。
少し前のこと。豊姫様が廊下を歩いていたところ、正体不明の白くて、うにゅ~、としたものがいたらしい。それは私たちより一回り大きく、胴体の下からは何本も足が生えていたのだとか。
――月にそんな生物はいない。少なくとも、私は見たことがない。
おかしいでしょう、と豊姫様は締めくくったが、つまり私にこう言っているのだ。その白くて、うにゅ~、とした何かを退治しなさい、と。
なぜ私に、と考えた。
――それはここに来て間もない私に対する豊姫様の御心遣いだろう。ここで何かしらの成果を上げられれば――上げられなくても、自主的に警備をしていたことで評価を得られるかもしれない。
特に私は他の兎に比べて、訓練はうまくいっていない。そのせいで依姫様に付きっきりで指導されている。
汚名返上のチャンスを与えてくださったのだ。
私は深く礼をして、豊姫様の部屋を後にする。それから、訓練場に銃剣を取りに行った――。
袋に包んだ銃剣を抱え、戻ってきたところで気が付いた。険しい顔をした警備の者に出くわすまで気付かなかった私は、どうしようもなく馬鹿だった。
「――待て、何を持っている」
まさか、武器を持って屋敷に入れてもらえないだろう。銃の組立の訓練も受けているのだから、分解して持ってくればよかった。
このままでは、豊姫様の御厚意を無下にしてしまう。
「こ、これは……」
言い淀む。正直に答えられるわけがない。
――以前にもこんなことがあった。八意様の封書を届ける時だ。八意様は犯罪者だ。名前を出すわけにはいかず、誰の者ともわからない手紙を持った兎など通してもらえるわけもなく、窮地に立たされた。あの時は豊姫様が助けて下さった。
今度は、そうもいかないだろう。何より、豊姫様に頼ってばかりではいけない。私の力で切り抜けないと、お膳立てして下さった豊姫様の顔が立たない。
意を決する。
下手に嘘を吐いても仕方がない。疑われるだけだ。
私には大義名分がある。警備のため、危険を取り払うために武器を持っていくのだ。説明すればわかってくれるはず。
言わなくちゃ、伝わらない――。
「じゅ……銃剣です」
言えた。目を逸らさずに、言えた。
警備の人間は、品定めするように私を見ていたが、一息吐くと、
「わかった、行け」
と言った。理由も聞かずに。
いくら私が豊姫様依姫様お二人のペットだとしても、それはないだろう。
「え……?」
私は思わず声を上げてしまった。自分でも、間抜けな顔をしていると思う。
疑問に答えるように、言葉が続けられた。
「――豊姫様から話は伺っている」
ああ……そうか。
また、豊姫様に助けられたのか。
豊姫様は私よりずっと聡明で、優しい方だった。
自分の不甲斐なさがみっともなかった。
緊張で、心臓が忙しく鼓動している。難は去ったのに、呼吸は落ち着かない。
少し、視界が滲んで見えた。
廊下を歩いていると、後姿が見えた。淡い紫の髪を黄のリボンで束ねた女性の姿。
依姫様だ。お淑やかで、しかししっかりとしている背中は、まさしく月の部隊のリーダーに相応しい。
……そうだ。この際、依姫様にも話を通しておくべきだろう。
「依姫様!」
長いスカートを翻さず、依姫様が振り返る。目が合った。途端、顔をしかめる。
「……あなたは何を持っているのです」
溜め息混じりの言葉。
何を、って……。
「銃剣、ですが……」
「訓練場に置いておきなさい、と言ってあるでしょう」
普段はそう言われている。が、今は違う。
もともと、警備をしていることを知ってもらうことが目的なのだ。私は事情を依姫様に説明する。
白くて、うにゅ~、とした何かが出ること。それを退治するために銃剣を持ってきたこと。休憩時間に、しばらく警備させてもらいたいこと。
御心遣いを無下にするわけにはいかないので豊姫様の名前を出さなかった。
ひとしきり話し終えると、依姫様は頭を縦に振った。
「わかったわ」
「では……」
「――やめなさい」
――。それを制止の言葉とわかるまでに、長い時間を要した。
頷いたのは、了承ではなく理解だったのだろう。
「ど、どうして!?」
快諾してくれると考えていたのに。私は取り乱してしまう。
「どうして? では、どうしてあなたがそんなことをする必要があるのです」
それは……、と続く反論の言葉を飲み込む。依姫様の鋭い眼が、私を射抜いていた。
「あなたでは力不足よ。正体のわからないものに挑もうとしているのでしょう? わざわざあなたが危険を冒す必要はありません。警備は私が受け持ちましょう」
「ですが……」
「蛮勇は決して誉められたものではありません。――あなたの心意気だけは、受け取っておきましょう」
そう言われて、自分の中の何かが砕けてしまった。
――少し、背伸びしたかっただけかもしれない。
自分の部屋に戻ってから、思い直していた。もう遅いから明日戻しなさい、と言われて持ってきた銃剣は、依姫様が腰に下げている刀と比べるとただの玩具のように見えた。
それを抱きしめて、ベッドに寝転がる。硬くて、冷たい。瞼を閉じれば、暗い。
「何をしていたんだろう……」
呟いても答えは返ってこない。
私は道化だった。独りで先走っていただけだった。
よくよく考えれば依姫様の言う通りで、私が警備をしても、白くて、うにゅ~、とした何かをどうすることができたのだろう。
そう考えると、肩の力が抜けた。張りつめていたものが、ふっと緩む。
そのうち何かが変わる、そう考えて、何も変わらないことはわかっている。それでも、ここにいたくない。
そして、私は意識を手放した。
――わかっていたのだが、中途半端な時間に眠ると、中途半端な時間に起きてしまうものだ。まだ自分の失敗が続いているようで、少し嫌になる。
「ん……」
壁に掛けてあった時計を見ると、休息の時間。話に聞く、白くて、うにゅ~、としたものが闊歩している時間だろうか。
ふと、真偽を確かめたくなった。
好奇心、だろうか。とにかく、私の気分をここまで落としたものの正体が知りたくなった。
音を立てずに部屋を出る。銃剣をいつでも構えられるように、細心の注意を払う。
依姫様に見つかった時は……その時は、その時だ。
少し薄暗い所は、普段の廊下と変わらない。私は何の異変も危険も感じなかった。きっと何も見つからないだろう。
そう軽く考えていた。
依姫様の部屋に近づいてきたところで、前を誰かが歩いているのを見つけた。
この休息の時間でなくても、ここら辺に警備兵が歩いていることは珍しい。
それは、白く目立っていた。上は大きな三角形。下はたくさんの足……。
そこまで観察したところで、背筋に冷たいものが走った。全身の毛が逆立ち、長い耳がぴんと立ちそうな気がした。気がした。
あれが豊姫様の話に聞く、白くて、うにゅ~、としたものそのものだ。うにゅ~、はわからないが、当てはまる特徴がいくつもある。それに、あんなものが屋敷の廊下を歩いているなんてどう考えてもおかしい。
気がつけば、呼吸が荒い。気付かれてはまずい。焦る気持ちを落ち着けなければ。そして、相手の正体を確かめるのだ。
白いそれは、歩き辛そうに体を揺らしながら進んでいる。足の数は、10本。ダメだ、この時点で何かおどろおどろしい。
しかし、どこかで見たことがある。どこか……どこだっただろう?
最近ではない。だったら、穢れた土地、地上に行く前。
地上には、様々な生き物がいる。最初は住み着くつもりだったので、少しでも知識を貯めようと資料を漁ったものだ。もちろん無駄に終わったが。
穢れた海に住んでいる生物のことも調べた。
あれは、そう――。
イカだ。
なぜここにいるのかはわからないが、イカは、地上では食用にされるほど一般的な生物。危険性は少ないはず。
――あれなら、私にも捕まえられるはずだ。
胸が早鐘を打つように高鳴っている。手柄を立てたいという気持ちが戻ってくる。私を貶めた彼奴をとっちめてやりたい気持ちがふつふつと沸き起こる。
普段はとろくさく、だらしないと言われるが、もう言わせない。
足音をたてないように、一歩踏み出す。
そのときだ。早速、銃剣の先が壁に擦れる。鈍い音は、薄暗い廊下によく響き、
「――っ!」
――イカが逃げ出した!
だが、イカの動きは遅かった。ほとんどの足を引き摺り、よたよたとふらついているように見える。
私は好機と見、咄嗟に銃剣を投げ捨て、地面を蹴る。
直線の廊下。相対速度を考えても、彼我の距離を埋めるのに三つかからない。
――一つ。
よく見れば、10本の足のうち2本の足だけで『走っていた』。中心から生えたそれは色、形、動き、どれを取っても人間の脚だった。覆うものが何もない、生まれたそのままの脚は、本音を言えば綺麗だった。妬ましい。
――二つ。
あれは本物のイカではない。本物のイカなど月には生息しない。私は確信する。あれは誰かがイカの姿を模した着ぐるみを纏い、悪ふざけをしているのだ。きっと兎だろう。
――三つ。
そうとわかったら、もうイカに恐怖の念は抱かない。抑えつけて、正体を暴く――ッ!
目前に迫り、私はさらに踏み込む。
低く構え、跳ぶ。
イカがぶら下げている足を引き、上体に体当たりする――!
ただでさえ悪かったバランスが失われ、イカは廊下に倒れ込んだ。
イカ――いや――イカの着ぐるみは軟らかく、中の人はほとんどダメージを負わないだろう。だから私はイカに跨り、マウントポジションを取る。これで私は優位に立った。そもそも、外部に脚しか露出していないのだから、元から起き上がることも困難だろう。
そして、私はその優位から宣言する。
相手の敗北を。
私の勝利を。
冷酷に。
「――誰? 事情を話せば無傷で返してあげましょう」
依姫様の口調の真似をする。普段の私よりずっと威圧的で、冷たい言葉が出た。
だが、イカは沈黙を保ったままだった。
生意気な。――今、私が絶対だというのに、それが解っていない。
しかし、武器は放り出してきてしまった。だからと言って、素手で痛めつけるのは難しい。
――そうだ。着ぐるみが足だけ露出させているとは考えにくい。前面はきっと顔が出ているはずだ。
私はすこし腰を浮かせ、イカを転がした。
「――っ!」
イカは抵抗したが、むしろ勢いが付いて簡単に顔を向かせることができた。
ご対面。
白の中から、顔と前髪が浮き出ていた。
その顔は、見覚えがある――。頭の中で、ある人物とまったく一致する。
それは、依姫様だった。
先の転倒で鼻の頭を打ったのか、薄白い肌が赤く色づいていたが、その射抜かれるような鋭い目つきはまごうことなく依姫様だった。
「な、なにをして……いるんですか……」
頭が真っ白になり、声が上擦る。
私が追い詰めていたのは着ぐるみのイカだったはず。しかし、私が追い詰めたのは依姫様だった。つまり――。
イカは依姫様だったのだ。
依姫様は唇を真一文字に結んで、私のことを睨みつけている。まるで……いや、まさしく私が憎悪の対象なのだ。私を、今すぐにでも八つ裂きにしたいに違いない。
「……どきなさい」
背筋が凍った。私が出した声よりずっと低い。その威圧感に噛み潰されそうだ。
足が震える。今にも立ちあがって、逃げ出したい。なのにこの足は、真の恐怖に、言うことを全く聞いてくれなかった。
時間が間延びし、ここ最近の出来事が走馬灯のように駆け巡った。
餅を搗いていたこと。
そのルーチンワークが嫌になって、地上へ逃げ出したこと。
地上で八意様と出会い、手紙を託され、月に戻ることを強いられたこと。
綿月のお屋敷に行き、豊姫様と依姫様のお二人に会ったこと。
二人のペットになったこと。
ここが、新しい場所になったこと。
――穢土へ行ったことがそもそも間違いだったのだろうか。穢れは、やがて壊滅をもたらす。私はこのまま、私の最小限のものさえ失ってしまうのだろうか――。
……あれ。
――そのとき、依姫様の顔を見つめるしかできなかった私は、依姫様の目尻に涙が浮かんでいるのを見つけた。鼻の頭を打ったのだから、当然と言えば当然だ。
それを私は、可愛らしい、と思った。
そして、私はさらに気づいた。こんな依姫様の表情を見るのは初めてだという事に。
思えば、依姫様といえば華麗で欠点がなく、厳しいところもあるが憧れの的だった。そんな依姫様を、今、あろうことか押し倒し、見下ろしている。依姫様の上に立ち、絶対を保っている。こんなことがあるだろうか。
呼吸の荒くなっているのがわかる。自分でも、何を考えているのかわからない。
「――嫌です」
「なっ――!?」
依姫様の顔が引き攣る。まだ怖い、が私の思い通りの反応だった。
「嫌だと言ったんです。依姫様」
「あなた、自分の立場を弁えてからものを言いなさい――!」
依姫様こそ、この状況を客観的に見てみるといい。イカの着ぐるみを身に纏い、夜中に徘徊していたところを兎に押し倒され、『抵抗できずにいる』のだ。
私の胸は躍っている。まるで自分が自分じゃないかのようだ。
手を依姫様の顔に添える。美しく、ずっと手の届かないはずのものに、今、触れている。
「やめなさい、レイセン……!」
「あんまり大きい声を出すと、誰かに聞こえちゃいますよ」
依姫様は、はっと息を呑んだ。徘徊癖があるなんて、誰にも知られたくないに決まっている。またも思った通りの反応に、思わず顔が綻びそうになった。
「それに、依姫様も御存じでしょう? この耳で、遠くの仲間と話すことができるんです。これはきっと兎達のいい話のタネになるでしょうね」
堪えるような表情の依姫様。指で、その涙を拭ってあげる。他にこんなことをできるのは豊姫様くらいだろうか。だけど今の私には、豊姫様にも出来ないこと――これ以上のことが出来る。
イカの着ぐるみはふかふか。そのまま抱きつく。
「柔らかい……」
きっと柔軟剤を使っているのだろう。汚れも少なく、依姫様がこのイカの着ぐるみを大切にしていることがわかる。
それから、手を下げていき……露出した太腿に触れる。
「ここも柔らかいですね」
あまりの感動に、顔がにやけてしまう。言葉と同時、依姫様の顔が屈辱に歪む。
「くっ……」
その表情が愛おしく、私はとても楽しい。
まるで酒に酔っているかのように、顔がにやけて止まらない。そして行動も止まらない。
「そういえば、イカの本当の口って下にあるんですよね……」
言いながら、私はその手を足の付け根までスライドさせる。もちろん感触をたっぷりと味わいながら。
「……?」
そこには、あるものがなかった。どこまで行っても、素肌の感触。
もしや……。そう考えて、高揚している私がいた。
「中に、何も着てないんですか?」
依姫様は視線を逸らす。
もうダメだ……私は思わず吹き出してしまう。
「……はははっ。とんでもない、依姫様はとんでもないお方だ!」
楽しい、非常に楽しい。まさか、依姫様の恥部を垣間見ることができるなんて!
「まさか夜中、裸にイカの着ぐるみを着て歩いているなんて!」
「な、なによ……」
「『危険を冒す必要はありません』? ほー、これはこれは。確かに危険ですねぇ、こんなに魅力的な獲物は。でも私は――」
生唾を呑む。
「危険を、オカシタイ――!」
「――っ!」
依姫様が、怯えた。
視界はちかちかと点滅し、心臓はばくばく張り裂けそうだ。が、心地いい。これまでの刺激が今まであっただろうか。いや、ない。餅を搗いていた頃ではまったく想像の出来なかった、熱狂、魅了、恍惚。
こんな依姫様を見られるのは、私だけ。依姫様は、もう、私のものなんだ……!
胸は突き上げられ、呼吸もままならない。
――齧り付きたい。あるがままの欲望が、私を突き動かす。
依姫様の脚を抑え、体を移動させる。イカの口が覗けるような――依姫様を下から覗けるような位置につく。依姫様の顔が見えないのは残念だが、ここなら下肢の眺めを存分に楽しむことができる。
顔を近づけると、汗の香りがした。鼻腔をくすぐる甘美なそれは、麻薬として脳の判断能力を低下させてしまう。これは依姫様が悪い。こんなにも魅惑的で美味しそうなのがいけないのだ。
そのまま、かぶりつく。
ぴちゃぴちゃと、わざと音を立てるように、舐め回す。
「い……や……」
愛おしい依姫様。
「これがっ。はぁっ、依姫様の味……っ」
たまらない。
「いやぁ……っ」
依姫様の声が、懇願するような声が、私をさらに加速させる。
もう、どんな許しを請おうたって、止まることはない。
だから、
「ま、た……ぁ」
もっとその声を――。
「また……レイセン、にぃっ……!」
『また、レイセンに』
――え?
『また、レイセンに』?
――待って、待って……。
嫌な予感に、依姫様の脚から顔を離す。急速に自分の頭が冷めていくのを感じる。
『レイセン』とは、私の名だ。『レイセン』とは、私のことだ。
私のこと。
違う。
……違う。
私は知っている。
私にその名前を与えたのは豊姫様と依姫様の二人。その名前を与えられたとき、二人はなんと仰っていたか。
それは、すぐに思い起こされた。
『今日から貴方のことはレイセンと呼ぶわ』
豊姫様は、こう続けていた。
『これは昔地上に逃げたペットの名前』
……あれ。
それじゃあ。
それじゃあ。
前の『レイセン』も……。
「ひっ……く……っ」
夜風に当たり酔いが醒める。すると、視界がずっと開けて見える。
そこには残酷な現実が転がっていた。
イカの着ぐるみを着て、腕が出ていないためにすすり泣く顔も覆えない依姫様。
それを押し倒し、またがり……間違いを犯そうとしていた私。
それは主従関係にあるまじき現実。
恩人にしてはならない仇。
もうここにはいられなかった。
――どうしてこんなことになってしまったんだろう。
答えは返ってこない。
自分は不運続きだったんだろう。そんなことを言っても、仕方がない。私はもう、失ってしまった。
仕方がない。
諦めの言葉が浮かんで、そして、頬に熱いものを感じた。
もうここにはいられない。
もうここにはいたくなかった。
立ち上がる。そのまま、廊下に沿って走る。
私は振り向かない。振り向いてしまうと、失ったものの大きさがわかってしまうから。失ったものの暖かさに、また後悔してしまうから。
涙は溢れて止まらない。風が乾かそうとしても間に合わないのだ。
後悔が溢れて止まない。私はあまりにも愚かだったのだ。
走って、走って――逃げる。
逃げて、逃げて――ひと時の安らぎに別れを告げる。
私はこれからどうするのだろう。月の部隊のリーダー、その依姫様の顔を汚してしまったのだ。もう月にはいられないだろう。
私に残された道はひとつ。
それは、地上に逃げること。
奇しくも私、レイセンは――以前の『レイセン』と同じ選択を迫られていたのだった。
地上に逃げるには月の羽衣が必要だ。
私は羽衣が収められている倉庫へ走っていた。目頭はとても熱い。だというのに、私の頭はいつになく冷静だった。
真っ直ぐ走れば、倉庫は目の前に。
そのとき、足に何かが引っ掛かった。
――ひっ!?
床が近づいてきて、思わず息を呑む。
そのまま、顔を床に擦り付けた。
……なんて自分は無様なのだろう。
このまま、ここで涙を枯らすことができたならずっと楽なんだろうけど、そういうわけにもいかなくて。
立ち上がろうと、体を起こそうとする。逃げなくちゃいけない。怒られる前に、咎められる前に逃げなくちゃ。
いけないのに、動けなかった。
私はまだ、ここから離れたくなかった。
嫌だ。
もう嫌だ、何もかも。
私の、たった一つだけの望みも叶えられないのだろうか。
私はただ。
「ここにいたいだけなのにぃ……っ」
どうして私の邪魔をするの。
どうして私はここにいちゃいけないの……。
誰か許して。私のこと、誰でもいいから、誰か許してください……。
「――ここにいたいなら、いればいいでしょう」
私は自分の耳を疑った。
誰が、私をここにいてもいいと言うのだろう。誰が、私のことを許してくれるのだろう。
顔を上げる。
そこにいたのは、
「あらあら、酷い顔。そんな顔、容易に他人に見せるものじゃないですよ」
豊姫様だった。
「落ち着いた?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭いたタオルは煌びやかだった。拭いたから煌びやかになったんじゃなくて、元々綺麗で、私の顔を拭いて汚れたのだ。
今は、涙は流れてこない。豊姫様は私を落ち着かせるため――もしかしたら私を逃がさないためか。とにかく、豊姫様はずっと私を強く抱きしめていた。
「……あ゛い」
第一声はがらがらで濁っていた。失礼だとは思っても、しばらく元に戻りそうにない。
「ん~。それで、どうするの?」
「どうずるの、どは」
「また逃げ出すの?」
『また』とは、何のことを言っているのだろうか。豊姫様の目はどこか遠いところを見ていた。
何より、私はこれからどうすればいいのかわからなくなっていた。豊姫様に引き止められ、逃げる覚悟がどこかに飛んでいってしまった。
それでも、
「私は依姫様に非道いことをしましたから」
私がここに留まれる選択肢は残っていないように思える。私がいては依姫様の顔が立たないだろう。
「何を言っているの。たまには立ち向かいなさい」
「殺されます」
「押し倒しちゃいなさい」
いや、それはダメだろう。
豊姫様は、はあ、と一つ息を吐く。
「とにかく来なさい。――きっと依姫も私と同じ気持ちだから」
ねっ、と豊姫様は私を励ますように言ってくれた。
豊姫様に腕を引かれて、有無も言う前に依姫様の部屋に押し込められてしまった。まだ心の準備はできていない。言い訳も、これからどうするのかも。
依姫様はイカじゃなくなっていた。
私たちに背中を向け、そこに悠然と立っていた。どこにあの私が嬲りまわした依姫様の面影があるだろうか。
私は畏怖していた。いつものように。いつも以上に。針の筵に座る気持ちだ。できれば触れたくない。
だというのに、隣に立つ豊姫様は私を肩で突く。処刑台に向かっている人を急かすのかこの人は。
「――何もしないのですか?」
痺れを切らしたのか、依姫様が口火を切った。少し声がくぐもっているように聞こえる。
なんて答えればいいか戸惑っていると、豊姫様が耳打ちしてくれる。
「あなたをオカシタイ」
言い切る前に文字通り私の首が飛ばされそうな台詞だ。当然棄却させてもらう。
私は精一杯考える。今、なんて言えばいいのか。――けれど、言葉は浮かばない。この場に言い訳の言葉など必要だろうか。ここに必要なのは私への裁きだけではないだろうか。
私にはもう、祈りの五分間しか残されていないのだ。
依姫様は言葉を続ける。
「貴方が私に何をしたのか、わかっていないわけではありませんよね――?」
わかっているつもりだ。
「私は依姫様を辱め――」
「言わなくてもいいです」
まずい。余計怒りに触れてしまった。
もう絞首台で縄に首を掛けているところだ。あとは足場が取り除かれるだけ。
依姫様が振りかえる。
私は目を閉じる。
ついに私の一生が閉じられようとしていた。
「この――っ!」
――肩を押さえられ、床に押し倒される。驚いて瞼を開くと、依姫様に見下ろされていた。
まだ、何が起きたのか、理解できない。
「お姉様、そっち押さえて!」
「はいはい~」
ブレザーの、ブラウスのボタンを外され、スカートのフォックを外され……。挙句ショーツが剥ぎ取られ。
あれよあれよと言う間に私は全ての服を脱がされてしまった。
ああ、次は皮を剥がれて鍋にでも放り込まれるのだろうか。……次は何をされるのだろうかと思っていると、立たされて、何かを上から被せられた。顔と脚だけが露出している。
私は恐る恐る目を開ける。
見ると、私は体が一回り大きく、白くなっていた。おまけに脚が増えている。
これは……。
「イカ?」
私はイカに生まれ変わってしまったじゃないか。
……えっと、それで私は、どうしたらいいのだろうか?
「――イカです」
言った依姫様は真っ赤になっていた。並ぶ豊姫様はにやにやと笑っている。
さて、どうすればいいものやら。
「……どうですか」
「依姫様の匂いがします」
二人が吹き出した。一人は恥ずかしさに。もう一人は面白さに。私はただ正直な感想を述べただけなのに。
さらに真っ赤になって、依姫様は続ける。
「そのまま屋敷を一周してきなさい」
「え……、嫌です」
さらに二人が吹き出した。豊姫様とか、お腹を抱えて、声を出して笑って、ひきつけを起こさないだろうか心配になる。
二人が笑っているので、私もつられて笑ってしまう。
――ああ、よかった。
私はここにいていいんだ。
ほっと、胸を撫で下ろす。
「――よく戻ってきました」
なんの前触れもなく、私は依姫様に抱きしめられていた。
「私のことを、許していただけるのでしょうか」
何も言わず依姫様が頷いたのがわかった。
代わりに豊姫様が言う。
「――私たちはもう、『レイセン』を失いたくないのですよ」
何があったのか、私には察することはできないことばかりだ。
『レイセン』とお二人がどんな関係だったのか。お二人にとって私――レイセンがどれほどの存在なのか。
お二人の過去に何があったのか。お二人がどれだけそれを抱え込んでいるのだろうか。
私にはわからないことばかりだ。
ただ、私の役割とは何なのだろうか。
それはお二人の支えになることじゃないのだろうか。
月の人間は、私が思うよりずっと長く生きている。心が擦り切れてしまうんじゃないかというほどに。しかし、彼らは擦り切れない。きっと彼らは互いに触れようとせずにいるからじゃないだろうか。ふとしたことで壊れてしまうほど繊細なガラスなんじゃないだろうか。
だから、緩衝材になるように。また失ってしまわないように。
私はそう努めるべきじゃないだろうか。
――なんとなく、そんなこと考えてみるのだった。
「イカの着ぐるみ、貴方の分も用意しました」
豊姫様を誘えばいいじゃないか――喉まででかかったその言葉を無理矢理飲み込む。きっとすでに千年前くらいに言って断られたに違いない。
何故彼女の性癖を誰も矯正しなかったのだろうか。八意様とか。豊姫様とか。
そのせいで、私は定期的にイカの着ぐるみを着る羽目になっている。
そして、ベッドに座らされて愛玩動物のような扱いを受けているのだ。
それからにゃんにゃんやって気を抜いていた隙に、豊姫様に写真を撮られてしまった。
今思えば、豊姫様に呼び出されたことから始まり、助言でとんとん拍子に話が進み、倉庫までの道で待ち構えられ……すべての元凶は豊姫様じゃないのだろうか。
そして……私は、それほど嫌じゃなかった。
依姫様の部屋に行く足取りは、以前よりずっと軽くなったように思う。