【想起 I】
「パルスィの目って綺麗ですよねー。妬ましいです」
私の呪われた瞳を見つめていたさとりが、のほほんと何か愚かなことを呟いたように思えた。
「……今、なんて言った?」
私の耳は無駄に長いくせに、肝心である鼓膜の調子が悪いようだ。私はもう一度しっかりと、さとりのまんまるの目を見つめた。今度は聞き流さないようにと集中し耳を澄ます。
「パルスィの目って綺麗ですよねーって言いました」
「その後は」
「妬ましいですーって言いました。私の目なんかより、余程素敵だもの」
まるで他愛のない話のごとくあっさりと言われた。今日の晩ごはん何にしようとか、そういうレベルの話にさえ聞こえた。
さとりは天使のように妬ましい微笑を浮かべて、お弁当箱からタコさんウインナーを取り出して頬張った。そして、
「おいしー」
と、心を読めるくせに、私の狼狽に気付きもしないでほっぺたを落としていた。
私は、それっきり心の奥で何か燻るのを黙って感じていた。
* * *
【ある種の邂逅】
洞窟の隅っこに蹲るようにして座り、いつものように考え事をしていた。地上と地下を結ぶ役割を果たしていたこの"橋"は、今では時の流れというものに忘れ去られたかのように、ひっそりと佇んでいる。私は此処の穏やかな暖かさが好きだった。ついこの間までは。
遠い昔に小川の流れていたであろう"橋"下の砂場を背に、私は古明地さとりのことを思い出していた。彼女と初めて遊んでからというもの、どこか今までと違う感覚に囚われている。気持ちのいいはずの橋の空気が、どこか淀んで見える。
さとりは心を読む。その瞳が、どれだけ私を惹きつけたか……と。
やれやれ、私は何を考えているのか。考えを止め肩を竦めようとした瞬間、彼女の愛らしい瞳と、一瞬だけ目が合った気がした。
何か胸の奥で感情が昂って、気付いたときにはもう殆ど無意識に手を伸ばしていた。彼女の腕を掴んだ拍子、黒いシルクハットがふわりと落ちていく。
「あ、あのー……?」
思っていたより少し甲高い声がして、そこでようやく、彼女が古明地さとりでないと気付いた。
彼女はまんまるの目をさらに見開きこっちを見て、こう問いかけた。
「私のこと、見えるんですか?」
そう言われてみると、そんなに見えてもいなかった気がするのが不思議なところだった。
* * *
【すごい人】
その日から彼女、こいしちゃんに絡まれることが多くなった。毎日のように橋へ来て、"無意識"とやらで私を試していくのだ。一週間ぐらいそれを繰り返した頃、いい加減独りにしてほしいとぶつけてみたが無駄に終わった。むしろ、嫌がれば嫌がるほど傍に寄ってくるのだった。どうして私なんかに寄ってくるのよ、と子供のように喚いて追い返してやろうとも思ったが、結局諦めた。理由はなんてことはなくて、彼女は私の反応を見て愉しんでいるだけだろうから、言っても意味がないと気付いた、それだけ。
姉とおんなじで、見た目は可愛く繕っていても、根幹が意地悪なのだ。
目の前に佇む、大きくてまんまるの眼。透き通るような白い肌、身体に巻きつくように伸びるハートの管、それが指し示す胸には、第三の眼……ひとつひとつが"あいつ"と重なった。当然だ、目の前にいる彼女はあいつのよく似た妹なのだ。ただひとつ決定的に違うところがあるとすれば、覚りであるにも拘らず心を読めないことだ。
しかしそれは、私にとってはどうでもいいことだった。故に私は二人を重ねて見ていた。
「やっぱりおかしい」
私がだらしなく地べたに座ると、見上げた先のこいしちゃんが赤い頬をふっくらさせていた。
「どうかした?」
「どうして、ぱるさんにだけは見つかっちゃうんだろう。何かタネがあるの?」
「またその話」
ふらっとどこかへ消えて行ってしまいそうな妹妖怪を捕まえておいただけだ。本当にタネなんかないと何度も言っているはずなのだけど。
* * *
「すごいね」。こいしちゃんは天真爛漫に、満面の笑みを見せた。
彼女をさとりと重ねて見ていた私は、ひどく違和感があることがおかしくて、つい笑顔をこぼした。
* * *
という回想を読まれたのは、明くる日のこと。
「おかしいですね」
「あんたまでそんなこと言うの? 至って普通だわよ私は」
言って、私はお弁当の卵焼きを啄んだ。さとりが持ってきてくれたものだ。
さとりと知り合ってから短いが、こうして話をするのは何度目か、もう分からない。仲がいいとまで言いたくはないが、しかし思ったより話がしやすいと気付いたのは意外と最近だった気がする。今こうして、時々さとりのほうから橋まで挨拶に来るのは、彼女も同じように考えているからなのだろうか。
「どんなタネがあるんです?」
姉も妹も同じことを言う。こいしちゃんの無意識は誰にも捕まえられないはずなのだと。じゃあ現に捕まえた私は何なのかと逆に尋ねると、これまた口裏でも合わせたかのように同じことを言うのだ。
「すごい人」
……まるで答えになっていない。
似たもの姉妹だと思った。
* * *
「とにかく、こいしは無意識なんですよ」
「とにかくって。だから、それじゃ分かんないってば」
こいしちゃんのことを聞くと、返ってくるのは大抵こういう答えだった。
彼女の心の中はさとりですら読むことができないらしい。じゃあ、私なんかに分かるわけがないのだ。それではあんまりだと思う。
「……あの子が喜んでいるから、まぁ何でもいいです。仲良くしてやってください」
さっきあれほど驚いていたわりには、今度は何でもないことのようにざっくばらんに呟いて、さとりは立ち上がった。
「じゃ」
こいつはいつも、不思議と別れるときだけ動きが早い。返事をする間もなくさっさと立ち去る後姿を見上げながら、私はなぜか少し寂しく思うのだった。
* * *
【気まぐれラブリービジター】
これで何度目だったか。こいしちゃんを捕まえることにも随分慣れてしまった。
それは思った以上に簡単だった。さとりによく似たねったましい瞳が突然、浮き上がるように視界に入る。これを見つけたあとはあまり深く考えず、流れに身を任せるように腕を伸ばせば自然にこいしちゃんの腕を掴むことができる。
また捕まっちゃった、と首を傾げて呟く彼女。不満そうだが、手を離してやると、すぐいつもの笑顔に戻る。
「私に黙って出て行こうとするなって言ってるでしょ? 地上には色々あるんだから」
「うーん。ごめんね」
どこか納得の行かない様子ではあったものの、まんまるの視線は素直だった。あんまり素直であると却って拍子抜けしてしまう。止めても止めても難癖をつけて無理やり通る奴もいることを考えると、それひとつとっても彼女はあまりに妬ましい。
「ま、いいや。通りなよ」
橋姫の仕事は地上と地底を行き来する者を安全に見送ることだ。私の力によって境界を通る者は守られている。
要は、私が気に入りさえすれば地上へ行けるということだ。
こんなにもすんなりと"橋"を通そうと思ったのは幾年ぶりか。或いは、止めても無駄と諦めたか。自分で自分の行動を理解できない、納得しているような、していないような。
「いいの?」
小首を傾げて、しかし嬉しそうにこいしちゃんは聞き返した。
ああ、私はたぶん、謙虚な人妖が好きなんだろう。
「いいよ」
「うーん……」
優しくしていても、私は橋姫。ぶっきら棒な喋り方ばかり続けていると、誠意なんて忘れてしまうものらしい。
それに何か思うところがあったのか、こいしちゃんは突然悩みだし、五秒ほど静止した後「やっぱりやめた」と呟いた。
「ほほう。私の好意は受けられないと」
せっかく、珍しく晴れ晴れしい気持ちだったのに、ひどい。口では強がるが、内心少し傷ついて、私はひどく落胆した―――
「違う違う。ぱるさんといたほうが楽しそうだと思って」
―――後、心臓が止まった。一秒間ぐらい。
この時の天真爛漫なこいしちゃんの笑顔は、妬ましいほど輝いて見え、狂おしいほど愛おしく見え、燃え上がるほど、その、つまり、私の顔はみるみる熱くなっていた。
「……ふん。勝手にしなひゃい」
意地を張ったわけだが、案の定噛んだ。恥ずかしかった。こいしちゃんは口元に手をやり、くすくすと笑みをこぼしている。
慌ててそっぽを向くがたぶん意味はない。
「早速面白いや」
急激な運動を行い心臓は未だ高鳴っていて、真っ白になった頭では毒づく言葉も出てきやしない。ましてこいしちゃんの顔を見ることもできないのでは、どうしていいか分からなくなる―――自分が悪いのだが。
これ以上私の心を刺激してほしくない。
まるでさとりともう一度出会ったかのようだった。
* * *
【想起 II】
考えてみれば、地底に来てから褒められたことなんてなかったように思う。きっとさとりは、私のことを無理矢理褒めやがった最初の物好きだろう。私の何がどう良いとは言わなかったのは残念だが、彼女の二つの目はとても優しかったことを憶えている。
もし私に第三の目があれば、その真意もきちんと伝わっただろうに、なんて思うと、彼女の目が無性に妬ましかった。
『貴方の心も、瞳も―――宝石みたいに綺麗』
記憶の中のさとりは顔を近づけ、優しく囁いてくる。記憶の中の私は、これが地底一の嫌われ者の姿なのかと我が目を疑った。
『だから、欲しくなっちゃうんです』
これがトドメだった。
ずるい、そんなふうに言われたら、どんなに逃げたくても目を背けるわけにいかない―――。
私は、初めて彼女に心を開いた。
* * *
【どくしん】
旧都から出て縦穴まで、短い距離の横穴と呼べそうな場所が"橋"であるが、幅も高さも私五人分ぐらいあって意外と広い。誰も来ないからと大の字に寝そべるのが気持ちよかった。
「何か敷かないと汚れますよ」
だが見られていた。
上からさとりが私の顔を覗き込む。随分楽しそうな顔をしているが、ガード固くスカートを押さえているのが私にしてみると面白くない。
別に見たいわけじゃないが。
「おべんと持ってきましたよ。食べましょ」
心を読む気がないのか無意識なのか、読んだ上で無視しているのか。地底のお嬢様は私のセクハラを華麗にかわし、私の傍に座った。五重の塔みたいなお弁当箱が次々と開けられ、美味しそうな匂いを放っていく。寝転がったまま私は、せっせとお弁当を広げるさとりを横目で見ていた。そろそろ、いつものことと言ってもよい頃かもしれない。
私にはいまいち、彼女が何を考えているか分からない。傍目何も考えていないように見える。
「ねぇパルスィ、来て」
「ん」
無邪気な笑顔を向けられて、いよいよ私も気を良くしていた。さとりがここにいることに説得力はまるでないが、それでもなぜかこの状況を許してしまっている自分がいた。起き上がり背中に付いた土をハンカチで拭ってもらうと、私はすっかり気が緩みニヤニヤと気持ち悪く笑った。
つまるところさとりの意図なんて、もうどうでもよくなっていた。貧乏暮らしの私にとって、お弁当を持ってきてくれるだけでもありがたかった。
「食いしんぼうですねぇ」
一口も食べぬうちからそう言われる。
なんだ、聞いていたのか。
「貧乏だからね。いつもひもじいのよ」
言うと、可愛い口元に指が当てられた。妹と同じシンキングポーズをするのが面白い。さてその間ひもじい私は、お先に割り箸を借りることにする。まるでおせち料理みたいなお弁当から昆布巻きを選んで頬張ってみると、物凄く美味しかった。よく噛んで味わうと、さらに香りが染み出してくるのがたまらない。
「うんじゃ、うちに住みます?」
が、全部吹き出した。
「って、何きたないことやってるんですか」
言った本人はとても冷ややかだった。
「あんたがビックリさせるから……!」
「ちょっと言ってみただけですよ。もう、勿体無い」
ほっとする、冗談のようでよかった。またも瞬間的大運動会が行われた胸をそっと撫で下ろす私に一瞥をくれただけで、さとりはもう最初に口へ運ぶおかずを選んでいる。多少勿体無くても、それはそこまで興味を惹くものではないらしい。
こちとら未だ動悸が治まらぬというのに、もう少し気にしてくれたっていいんじゃないだろうか。私ばかり一人で慌てて、馬鹿みたいじゃないか。
さとりはお弁当箱の中にあるタコさんウインナーを愛しそうに見つめる。ちょっとだけ妬ましかった。
* * *
でもね、と、さとりはタコさんウインナーを飲み込んでから言った。
「パルスィ。もし貴方が望むなら、本当にうちに来たっていいんですよ」
彼女の家に訪れたことはまだ一度もなかった。
「こいしも待ってますから」
不思議と悪い気はしなかったが、なぜ、敢えてそこでこいしちゃんだったのだろう。
* * *
【ジェラシー・ライク・ラブ】
次の日、縦穴からの小さな日も差さなくなる夕刻ごろ。昨日は来なかったこいしちゃんを捕まえた。彼女は「あっ」と変な声を上げ、きょとんとした顔でこちらを見る。
なんだ、私の顔がそんなに変か。
「捕まっちゃった。昨日は捕まらなかったのに」
そう言いつつ、嬉しそうに笑っていた。手を離すと、それを追いかけ吸い付くように抱き付かれる。私の肩に帽子の鍔が引っ掛かり落ちそうになるのを、私が慌てて腰辺りの位置で捕まえた。こいしちゃんを抱き返すような形になるのが気恥ずかしい。
昨日はさとりが昼ごろに来てから、たまに現れる土蜘蛛を追い返したり引っぱたいたりしただけ。こいしちゃんを見つけることはできなかった。
「昨日? 来てたんだ」
「うん。でも気付かれなかったから、そのまま帰った」
そも、この子はどうして隠れんぼをしようとするのかが分からないが。気づかれなかったらそれまでだなんて、随分サバイバルな遊びだと思う。
「声でもかけてくれればいいのに」
「それじゃつまんない」
「ああそう……」
返ってきた答えに、私は少し興冷めする。深い理由もなく遊ばれている気がして、あまり面白くなかった。
* * *
心が読めないはずのこいしちゃんから、いつもの笑顔がいきなり消えた。さとりを避ける人妖たちの気持ちが、今少しわかってしまった気がする。
そんなわけもないのに、悪いことをしたかと思ったとき、不意に真剣な顔つきで彼女は告げた。
「ぱるさんさあ、お姉ちゃんのこと好きでしょ」
* * *
笑顔の代わりにあったのは、不安げな視線と、強く抱きしめる腕。
「えっ……」
「見てたのよ、お姉ちゃんと話してたとこ」
淡々と言って、こいしちゃんは私の顔をじっと見つめた。
まっすぐ視線を向ける瞳がさとりとよく似ていた。私は何も言えないまま、代わりに答えるように心臓が高鳴り始めていた。
「ぱるさん、見たことないくらい嬉しそうな顔してた」
顔から火が出た。
「なっばっあんたっちょっばっべっ」
言葉にならなかった。この際のたうち回りたかったが、こいしちゃんに抱きつかれているためそれもできなかった。
さとりが好き。
さとりが好き。
さとりが。
好きという甘美な言葉だけが、頭の中でひたすらぐるぐる回る。
停止した思考回路が復帰するまで、随分な時間を要した。その間こいしちゃんは何も言わないまま、ずっと私を抱きしめていた。
やっと落ち着いてきたというところで、最後に深呼吸をしようと息を吸い込むと、こいしちゃんの髪からなんだかいい匂いが漂ってきて危うく変な方向に再加熱するところであった。
こりゃいけない。変態みたいだ。心を読める相手じゃなくてよかった。
私はこいしちゃんの腕をなるべく優しくほどくと、ずっと手に持っていたままのシルクハットを被せてあげた。
帽子の上に手を置いたまま、私は一言、
「……そんなんじゃないもん」
強がった。自分でも今更何を、と思った。自分でさえそうなのだから当然、というか、こいしちゃんは「ぶっ」と思い切り吹き出していた。
「なんで笑うのよう」
「あはは。だって……九十三秒もフリーズしておいて、その言い草はないよ」
我慢できないというように、彼女はまだ肩を震わせている。ご丁寧に一秒一秒数えているなんて律儀だこと。……とは言わず、口を尖らせるだけして、私はこいしちゃんから手を離した。
二人の間を抜ける微風が、えらく冷たかった。
* * *
【お姉ちゃんはね、―――――】
「うちに住む決心はつきました?」
「つかないわよ!」
朝からさとりさとりと考えていたら本当に朝からさとりが現れ、私は昼までずっと遊ばれていた。
冗談じゃなかったのだろうか。
昨日はこいしちゃんに言われてからというもの、一日中さとりのことが頭から離れず、ついには寝不足に陥ったりしていた。分かっていたこととはいえ、結局今まで自分の気持ちの整理がつかないまま仕事場で出会ってしまったものだから、私の慌てぶりたるや相当のものであった。と自分では思う。
私よりさとりのほうが、私の気持ちをよく理解しているのかもしれない。或いはきっと、分かった上で敢えてからかっている。意地悪なのだ。
あら失礼しちゃいますねー、と彼女は心の声へ勝手に答えた。
「せっかく知らない振りをしつつ婉曲的間接的に気持ちを気付かせてあげようとそれとなく示唆してあげているのに」
「それが意地悪って言ってるのよ?」
はぁ。溜め息を吐いて、私は橋の隅に蹲った。やっぱり、さとりは分かっていたのだ。目の前の私が何を思い、何を求めてきたか。考えてみれば当たり前のことだった。相手は恐怖の妖怪古明地さとりなのだ。
いや。
本当は私も、気持ちを薄々感じてはいたのだろう。けれど、私は橋姫。それが夜も眠れなくなるほどの恋煩いに悩まされるなんて、認めたくなかった。
「じゃあ素直に言います。貴方の心は全てお見通し、です」
ニヤリと白い歯を覗かせ、かっこよく人差し指で人を指すさとり。「しゅばっ」という効果音を口で言うのも忘れない。
二重の意味で顔が熱くなった。
お互いに。
* * *
お弁当も大方なくなり、さとりは水筒と湯呑みを取り出して、お茶を淹れてくれた。二人お揃いの湯飲みでゆっくり飲み始めた頃、「あ、そうそう」と、さとりは頭の上に電球を浮かべた。
「パルスィが可愛すぎて忘れるところでした。こいしのことで話があるんですよ」
例によって私は噎せた。
「大丈夫ですか?」
「へ、平気……」
あまり心配していなさそうな顔でのほほんと言うさとり。どうせ分かっていてわざと言っているんだろう。そのくせ、一応背中をさすってくれる辺り、優しいのか意地悪なのか分からない。
「……で? こいしちゃんがどうかしたの」
と、私は半ば睨みつけるように彼女を一瞥しつつ、もう何を言われてもいいようさっさとお茶を飲み干す。
「最近ね、こいしが貴方のことばかり話してくるんですよ」
思わず手がピクッと跳ねる。
「わ、私?」
なんだそれは。まるで私のことが好きみたいに。お茶を口に含んでいたらきっとまた吹き出していただろう。飲み干していなければ、スカートへ派手にこぼしていたかもしれない。
「いきなり手を出されたって」
「んなー!?」
私の湯飲みが吹っ飛んでなぜか逆さまになって手元に戻ってきたのも意に介さず、さとりは芸術的なほどの仏頂面を披露していた。
「通りがかったところを、無理矢理……」
「違!」
いや違わないのだが、問題点だらけだった。この説明のしかたは狙っているとしか思えない。こいしちゃんの恐ろしい悪戯に思わず肩が竦む。おかげで私の脳みそが勝手に変な想像を始め、しかもそれを読んだらしいさとりの仏頂面がぽっと紅潮するのが見て分かった。
「いや、冗談なの分かってますけどね」
「そんなこったろうと思ったけどさあ!」
恥ずかしかった。
「いいんですよ。あの子は、貴方に好かれることを望んでるんです」
「ふ、ふーん? どうして」
「さあ。どうしてでしょうね……」
聞きながら、私はこいしちゃんに抱きつかれたときの感触を思い出していた。小さくて、細くて、ハートの管がちょっと邪魔で、だけど髪からは凄くいい匂いがして、見上げる視線が可愛くて。
どうして、だなんて、我ながら馬鹿馬鹿しい言葉だった。あの子が私のことを……ちょっとくらいは好きでいてくれていることに、本当は気が付いていた。少なくとも嫌いな相手を抱き締めるような奴はなかなかいないだろう。
「へぇ、抱き締められた……」
「あ、いやその、喜んでなんかないわよ」
さとりだから当然なんだが、当たり前のように心の声に返事されるのは未だに落ち着かない。いかにも「いま心読んでます!」っていう顔をしているときは、覚悟ができるからいいのだが。
そのうち慣れるだろうか。
「パルスィ。こう言ってはアレなんですけど、あの子はああ見えて傷つきやすいですから、あまり心にもないこと言って虐めたりしないでくださいね」
「何よそれ」
「本当は嬉しかったんでしょう」
「んんんんなわけないでしょ!?」
さとりもこいしちゃんも、私の意志に拘らず遠慮なく近づいてくる。こんな不躾な奴らにも拘らず憎めない、憎む気にもなれないのが不思議だった。
『妬ましいです。私の目なんかより、余程素敵』
過去の会話が蘇る。
ああ妬ましい、妬ましい。私は貴方の目が妬ましい。
* * *
【さとりの想起】
「ああいう子だから、目を閉ざしたりするのも必然だったのかもしれませんけど」
文句をいうような口調で、しかし優しい声色で。
さとりは自分の第三の目を撫でながら、たぶん、こいしちゃんの笑顔を思い浮かべていたに違いない。
* * *
【ココロとコトバ】
横穴から十歩も進めば縦穴の最も底へ。見上げると、まだ地上に夕日の色が僅かに見える。
「ねね、ぱるさん、どうしてお姉ちゃんがいいの?」
しつこいなぁと私は思った。好奇心旺盛というか、子供っぽいというか……しかしもちろん悪気があってやっているわけではないのだろう、彼女はいつものように屈託なく笑っていたから。悪意のない意地悪といい、可愛らしい悪戯といい、憎めないこの少女が妬ましい。
「うるさいわね、なんだっていいでしょ」
だから、とすぐ毒づく自分が自分で憎らしい。さとりにも言われたというのに。こいしちゃんの顔を見られず、地上の光ばかり見ていた。
ここからだと全く動かないように見えて、本当は目まぐるしく動いている地上。今はどんな世界が広がっているのか、少し興味はある。こいしちゃんはそこで誰と会って、何をしているのか。
私は彼女のことを何も知らない。妬ましいから、私のことも教えてあげない。
なんて。
「んー、どうしてもだめ?」
いつのまにか私の前にこいしちゃんが回り込み、私の顔を覗いていた。
「わたし、もっとぱるさんのこと知りたいの」
「……」
わたしを捕まえたぱるさんのことを、と。
ああ、まったく。
無邪気な笑顔が、やたら眩しい。さとりと違って心を読めないからか、どストレートに物を言うのがある意味恐ろしかった。
可愛い瞳と視線が合う。まっすぐな視線の存在感まで、さとりとよく似ている。私の動揺をすぐに見透かすところも、同じだったりするだろうか。
「仕方ないなー。これで懐柔されてくれませんかねえ」
取っておきだよ、と、いつもの悪戯な笑顔のまま、彼女はどこからか酒瓶を取り出す。
これには苦笑いするしかなかった。
* * *
私を強引に壁際に座らせ、こいしちゃんはどこに仕込んでいたのか分からないお猪口を丁寧に取り出すと、有無を言わさずお酌してくれた。悪い気もしないと米酒に口を付けたとき、彼女は珍しく上目遣いで問いかけた。
「心を読まれるの、嫌じゃないの?」
胸の前にぶら下がる第三の目を包むように撫でながら、彼女は私の右隣にぺたんと座り込んだ。私はただ緑の目を泳がせた。
さとりは心を読む。その瞳が、どれだけの人妖を遠ざけたか。
同情するつもりで彼女に近づこうとしたわけじゃない。ただ彼女の優しさに触れたとき、気付いてしまったのだ。
私の心の中にあるものなんて、どす黒い嫉妬だけなのだと思っていた。その他の色々は、全て地上に捨ててきたと。なのに。
「私自身気付いていなかったような心の奥底を、あいつは読み取るわ」
間違いなく、さとりにしかできないこと。
きょとんとした顔で、こいしちゃんはじっと私を見た。ニヤニヤした私の顔、ちょっと気持ち悪いかもしれない。
「だから、好きなんだ」
殆ど動かないまま、彼女は噛み締めるように言った。
少し身体が熱くなってきた。早くもお酒が回ってしまっただろうか。
「……そうね」
ぐいっと一気に、お猪口を逆さまにする。お腹が一気に熱くなって、私はますます上機嫌になった。もやもやした気分が、すっきり消え去った気がした。
あーあ、お酒というものはこれだから怖い。結局こいしちゃんの策にまんまと嵌って、胸の内を全部喋ってしまった。
酒臭い溜め息をゆっくり吐き出すと、右手側が静かになったことに気付く。見ればこいしちゃんは、先程とずっと同じ姿勢のままフリーズしていた。酒瓶を持ったまま、じっとこちらを見つめている。
真剣な表情でこうも見つめられると、困る。
あまりに動かないからもしや突然死したのかと思ったが、よく見ると時々瞬きしているので安心する。瞬きしながら死んでいるのでなければ生きているだろう。
「おーい。こいしちゃん?」
呼びかけても目を二、三回ぱちくりしただけで、また硬直してしまった。何かの病気じゃなかろうな。
「私さあ……」
心配はどうやら脳みそを素通りしていったようで、ようやく発された言葉に私は安堵する。どうやらただ考え事をしていただけらしい。
「嫌いだったんだよね。お姉ちゃんのこと」
「え?」
安心したのもつかの間、私はすぐにまた驚かされてしまった。この子にはいつも驚かされてばかりだ。さとりの様子からいって、てっきり仲がいいものと思っていた。
驚いた私の顔がよほど意外だったのか、こいしちゃんは酒瓶を床に立てながら、「変?」と不安そうに尋ねた。
「いや、さ。変っていうか、意外だなって」
「そう」
真相を知った彼女の顔は、また意外に素っ気なかった。
「……嫌いだったんだけどね。ぱるさんのこと見てたら、お姉ちゃんでもあんなに人を笑わせられるんだなって分かった」
「えらく酷い言い様ね……」
苦笑いしながら、私はこいしちゃんの肩を小突く。するとこいしちゃんは、
「えへへ」
いつもとは違って、少し遠慮したように笑った。そこでようやく私は、彼女の笑顔が妬ましいほど好きなのだと理解した。
「似てるわよ? さとりとあんたって」
だから意地悪したくなって、つい零す。こいしちゃんが焦ったようにこっちを見るのが面白かった。
「うえっ」
「目元とか、そっくり」
「えー。うわー。やだー」
……そんな意地悪をした側の私が焦り出すぐらい、にこやかなはずの妹妖怪は露骨に嫌そうな顔をした。そこまで嫌がらなくてもいいだろうに、帽子の鍔を、まるで瞳を隠すように下ろす。
「可愛いじゃない、貴方の目」
そんな彼女に向かって、たぶん初めて、素直な好意の言葉が口をついた。
見た目のことなのか精神的な意味なのか、もしくはその両方か上手く言えないが、私は確かに彼女ら姉妹の瞳が妬ましいのだ。でも、そうは言いたくなかった。
まんまるの目が、こっそりとこちらを覗き見る。こいしちゃんは何も言わなかったが、まるで意外とでも言うような視線だった。私が帽子の鍔を上げてやったりした後、少しの間なぜか何も言わず見つめ合った後に、こいしちゃんが不意にこう言った。
「ぱるさんってさ。照れ屋さんなのに、時々いきなり素敵なことを言うのね」
「そ、そう?」
「うん。ドキッとしちゃった」
彼女は胸の前で手を重ねながら、照れたようにはにかむ。
「きっと声に出さないだけで、ぱるさんの心の中は素敵な言葉に満ちてるんだね」
そして、私の美辞なんて霞むぐらいのロマンチックな言葉を囁いてくる。だが、その表情はどことなく悲しそうに思えた。
私の心は瞳のフィルターによって緑色にばかり染まっている。さとりの瞳はありのままを克明に映す。
故に私は妬むのだった。だけど、こいしちゃんの瞳は―――。
「だから、お姉ちゃんもぱるさんが好きなのかな」
もう驚かない、と思っていたがやっぱり驚いた。こんなにオーバーな反応ばかりしているから面白がられるんだろうが、長年聞いていなかった愛らしい言葉の数々には、いつまで経っても慣れやしない。
「嬉しそうだなー。いいなー。ねたましいなー」
悪戯に笑うとき、姉妹は本当によく似ている。
冗談めかした言葉の裏にある心の底の嫉妬心を、私は不本意ながらも堪能してしまった。きっとニヤニヤしている。誤魔化すように、こいしちゃんの肩を抱き寄せる。すると彼女はまたいつものように笑った。
「と、そんなわけで、わたしもぱるさんが好きなんです」
「……そっか」
好意を持たれることがこんなに嬉しいとは。
ありのままに、素直に、物を見られる覚りの瞳。なんて妬ましいのだろう。
こいしちゃんがそれを失ったとは、私は思えない。
* * *
【要するに、何でもなかったのかもしれないけれど】
変わらない橋の風景。相変わらず通行人は全然いなくて、変化らしい変化といえば時々吹く微風のみ。なのだが、それも今日は少なく心なしか暑い。
静かなのはいいけど、退屈で憂鬱な午前中、私はいつもと同じ壁際に蹲って誰かさんを待ち侘びていた。
うとうとと眠気に誘われだした頃、ようやく聞き慣れた声がして、私はあっさり現実に呼び戻された。
「パルスィ」
「ん」
見上げた一瞬だけ、なぜかちょっとした違和感を覚えた。
そこにはノースリーブのワンピースを着たさとりが立っていた。いつもより薄着で、いつもよりお洒落な。何より、いつもよりずっと楽しそうな笑顔だった。なぜなら―――
「ぱるさん、こんにちは」
さとりに手を引かれ、もう一人の影が、おんなじような目をして、おんなじような笑顔をしていたからに違いない。
やっぱり似ている。私はニヤニヤ笑った。
どうりで、いつもと違うと思ったわけだ。
* * *
是非とも続きを書いてほしい作品です。
ぎこちないけれど、三者が同じしあわせに向かって歩み寄っているみたいで、素敵なお話でした。
新しいのに目覚めたかもしれん
ぱるさん…言ってみただけです…
ぱるさん。なんかかわいい響き。
ところで……ヤマメとお燐はどこで何やっているのですか? 前作から待っているのですが。
こいパルもさとパルもいいね!
前作今から読んでくる。
でも一番可愛いのはぱるさんだと思うんだ
ごちそうさまでした
面白かったです。
こいパルも良いものだなあと感じられる内容でした。