湖。
くるみが夜釣りをしていた。
「ふう…」
頬杖をついて、釣り竿は片手で支えている。
ため息を吐いて、紅い目が水面を見やっている。
どうもかんばしくない。
隣の魚籠には、魚が二匹入っている。
どっちもやせっぽちな身体で、すでにぐったりと死んでいた。
つんつん、と糸が引いた。
(お。)
くるみは、竿を両手で握った。
ぐ、としっかりと、指を握り直す。
見た目は華奢だが、吸血鬼の怪力は凄まじいものである。
魚の一本釣りぐらい、ちょいである。
余裕を持って見ていると、竿が曲がった。
ぐぐううーと急激に曲がる。
「おっ。おおっ!?」
くるみは、思わず両足を踏んばった。
竿が信じられない勢いで曲がっている。
何事だろう。
よっぽどでかい魚でもかかったのだろうか。
「まっ、ま・け・る・かぁ~!!」
ぐぐぐ、とくるみは力任せにふんばった。
腕の瞬発力を一瞬で高める。
そのまま一気に竿を振り上げる。
水面がものすごい勢いで持ち上がる。
闇夜に踊ったのは、巨大な影である。
大の大人ほどもある。
それが放物線をえがいて、どしゃっと岸に落ちた。
くるみは呆然と目を丸くした。
(えっえっ。うそ。なにこれっまぼろしの巨大魚? 湖のヌシ釣り上げちゃった?)
一瞬思う。
岸に落ちた影が、低くうめいて、ゆっくり起き上がった。
人の声だ。
「……あ。なんだ。人じゃん。つまんないの」
くるみは半目で呟いて、起き上がった人影に目をこらした。
どうやら、娘のようだ。
とりあえず近寄ってみる。
「あら……ここは……」
娘が言う。
「え。なに? あなた誰?」
くるみは言った。
娘はようやく気づいたらしく、くるみを見た。
「ええと……そういうあなたはどなたでしょう」
「私? わたしはくるみだけど」
「はあ。くるみさんですか。どうも。イクと申します」
「あ。そう。こんにちは」
「こんにちは」
イクは頭を下げてきた。
なんだろうこいつ。
くるみは眉をひそめた。
「……えっと。え、なに? あなた? なんでいきなり釣り針にひっかかってるの? 溺れてた?」
くるみは聞いた。
イクはちょっと気まずげに目をそらした。
「……・いえ、溺れてはいません。泳いでいたんです」
「泳いでたって服着たまま?」
「ええ、この服、身体の一部なものですから。私、魚の化身なのですよ」
「へー。魚なの? 何の魚?」
くるみは聞いた。
イクは言った。
「リュウグウノツカイというのですけど」
「聞いたことないわね。なにそれ美味しいの?」
「食べる人によっては美味しいと言うようですけど」
「ふーん」
くるみは考える目で、イクの身体を上下に眺めた。
イクはなにか不穏を感じた様子もない。
すぐに付け足して言った。
「でも毒がありますからね。それに体に触れると不吉という言い伝えもあります」
「ふーん、言い伝えはまあいいけど、毒って吸血鬼でもダメなのかしら」
「いえ、吸血鬼なら、毒はなんでも効かないんじゃないでしょうか。以前お会いした吸血鬼の方も、そのようなことを言っていましたし」
イクは頬に指をあてて答えた。
くるみはうなった。
「ふーん。よかった。じゃあ平気なのね。せっかく釣ったんだしね」
「え。いえ、ちょっと……」
「え? だって魚なんでしょ?」
「え? それはそうですけど。え、もしかして本気……」
「お腹減ってるんだけど」
「いえ……あ、そ、そうだ。ほら。魚ならそっちにあるじゃないですか」
「いえ、もちろんあれも食べるけどね」
イクは後じさった。
冷や汗を掻きつつ言う。
「食べ盛りですね。あんまり食べると太りますよ」
「いえ、私は小食派よ? それに、吸血鬼が食べる物って言ったら、肉や魚だけにかぎったことじゃないでしょ」
言ってる間にも、くるみはじりじりとイクに詰め寄っている。
というか、すでに、両手をついた体勢でにじり寄っていた。
イクは後じさってはいたが、腰を落としたまま、その場から動けていない。
話し込んでいる間に、さりげに逃げ場がないように、くるみに近づかれていたのである。
イクはようやく危険な状況に合点がいったらしい。
両手を地面についているが、くるみの顔は、ほとんど目と鼻の先だ。
「いえ、ちょっと……ま、待って」
「いいじゃん、あなたのこと気に入った。吸わせてちょうだい。ね」
くるみはにっこりと微笑んで、鼻先を近づけた。
イクのきめ細かい肌を目につけ、嬉しそうに眼を細める。、
ちょっと水の匂いがするが、桃のような瑞々しい薫りが漂ってくる。
かぶりついたら甘そうだ。
(美味しそ)
くるみは唇を開いた。
翌朝。
オレンジが、湖の近くを飛んでいた。
時間はまだ白々と空が明るんだころである。
ふと、通りがかった湖畔を見下ろす。
「うん?」
見覚えのあるやつがいた。
くるみだ。
オレンジは地面に降りていった。
何をしているのだろう。
眉をひそめて近寄る。
くるみは、湖畔のすぐ近くで、ぶっ倒れてすやすや寝ていた。
「……なにしてんだろ。いっつもこんな遅いっけ? こいつ」
まだ朝早くだからいいが、このままだと、日が強くなって身体が煙を上げてしまう。
いつもなら、夜が明ける頃にはねぐらに戻っているはずなのだが。
オレンジは、起こしてやることにした。
「おーい? くるみ? くるみ!」
かがみこんで、呼んでやる。
ゆさゆさと身体を揺さぶると、ようやくうめき声を上げた。
んん、と眉をひそめて、不自然な体勢からみじろぐ。
それにしても、何をしていたのだろうか。
オレンジは、くるみの恰好を見下ろした。
くるみの服は、激しく乱れていた。
そもそもなんだか倒れている体勢も、尻を突き上げるみたいにしていて、不格好だし、スカートは腿までめくれあがっている。上のシャツは完璧にはだけて、のぞいた乳房が地面に垂れていた。
足先に白い布切れがついていたが、オレンジは確認して、げ、と思った。どうやら、脱げた下穿きのようだ。
くるみは、ぱちりと目を開けた。
「……んん? あれ? オレンジ?」
「……おはよう」
くるみはのそのそと起き上がり、んん、くあ、と、大きく伸びをした。
「ん? ……あれ? ああ、もう朝か……」
「なにやってたのよ、こんなところで。ひどいカッコ」
「ん? んふふ~」
くるみはにやにやと笑った。
なにかひどく満足そうだ。
オレンジはちょっと引いて言った。
「なによそれ……気味悪いな」
「なんでもないわよ~。あー、やっぱり、海の魚って、味が違うのねー。美味しかったー」
「何言ってんの?」
オレンジは言った。
くるみは、ただうっとりと頬を染めて、笑っているだけである。
魚籠に入っていた魚は、一匹だけ無くなっていた。
吸血鬼を食べるかどうかは知りませんが。
おい