おことわり
※作者に都合のいいキャラ改変、設定改変が為されています。苦手な方はブラウザバックをお願いします。
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| rー──┐〈.イル^レツク,イ. | バトル☆ウィッチ
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「これは『試練』だ…過去に打ち克てという『試練』と俺は受け取った」
(『ジョジョの奇妙な冒険 第五部』ディアボロ)
必ず僕らは出会うだろう
同じ鼓動の音を目印にして
(『カルマ』バンプオブチキン)
外来人がやってくる。
この月の都に外からの人間がやってくるなど、どれくらいぶりのことだろうか。外来人は男である。名を水江浦島子(みずえのうらしまのこ)と名乗る(字は当て字。当人は字が書けなかったため)。
水江、というのは生まれた土地の地名、浦島とはそこの家の名であろう。ただ単にその子では趣にかけるため、ひとまずは浦島、と呼ぶことにした。
(『忙月長八意永琳の日記』より抜粋)
二週間。
永遠亭。
亭内。
自室。
「……」
鈴仙は目を覚ました。明け方頃であるのだろう、と寝ぼけ眼で推し量る。
春先の明け空は暗く、室内に滑り込む光が、家具や何かを藍と影とに落とし込んでいる。
「ぬ……う゛ぉ」
あまり年相応でないうめきを漏らしつつ、鈴仙は机を起き上がった。なんたることだろう。
課題に取り組んだまま寝こけてしまったらしい。
(ああ……もう)
鈴仙は愚痴をこぼしつつ、髪を手ぐしでといて、のろのろと部屋を出た。起き抜けの思考は、ほんのひととき、今自分の置かれている状況を忘れさせてくれたが、すぐにまた、思い出せてくれたようだった。
「……」
どうにかなった、と思ったわけではないが、自然と足は師の部屋に向かった。戸口までたどり着くと、戸の前にひざまずき「失礼します」と声をかける。
なかからの返事はない。鈴仙はそっと戸を開いた。
中をのぞくと、質素な師の寝室がある。畳敷きのそれなりな広さの部屋に布団が敷かれ、そこに師は寝ているところだった。
そう。かれこれ二週間の間、ずっと。
「師匠」
鈴仙は呼びかけてみた。師の返事はない。
その後も、何度かあきらめずに呼んでみるが、師はうんともすんとも言わなかった。ただ安らかな息をたてている。
「……」
鈴仙は、ため息をついて立ち上がった。部屋を後にして、静かにふすまを閉める。
師の寝室を後にして、鈴仙は、今度は輝夜の部屋に向かった。こちらも、一応呼びかけてから部屋に入る。
永琳の部屋とよく似た畳敷きの部屋に、輝夜が眠っている。鈴仙は、師にしたのと同じように、何度か呼びかけてみた。
しかし、やはり反応はなかった。そう、こちらもかれこれ二週間になる。
「……」
鈴仙はあきらめて部屋を出た。今度はため息も出ない。
どうすりゃいいのよ。
二週間前、とは言っても、その前後に何か前触れがあったわけではない。師と輝夜は、まるで息を合わせたようにぴったりと眠りについたまま、朝も夜も起きてこなくなった。
本当にまったく目を覚まさないのである。これといって前触れがない、ということで、鈴仙もはじめは深刻にさえ考えなかった。
とにかく、二人とも、完全に死ぬことはないと分かっていたから、その点ではまだマシだったが、しかし、鈴仙は歯がゆく感じつつも、しかたなく人里に降りて医者を呼んできた。とはいえ、これは、まあ、うすうすは分かっていたが、どんなに見せても二人ともまったくの健康体だと言うことが分かっただけだった。
とにかく、身の回りの世話についての注意を二、三鈴仙にして、医者は帰っていった。要するに、まったく分からないのだろう。
そして、それからさらに一週間。二人の様子にはまったく変化はない。
(はぁ~……)
鈴仙は、やることもなく一人机に突っ伏した。いや、やることはあるのだが。
平素から自由人の輝夜はともかくとして、師が抜けた穴は大きく、まさか鈴仙が気張ったくらいで埋まるはずもない。それでも、鈴仙は頑張っている方ではあった。
師の腕を必要とするような間者は完全に断るしかなかったが、それでも軽い症状の患者は診たし、もちろん、今まで薬を使っていた者にも薬を出さなければならなかったが、これも戦々恐々としつつもいくつかこなした。
しかしとてもではないがまにあわない。しょせんまだまだ未熟者の身である。
人ひとりの体をどうこう面倒見られるような人間ではないのだ。そろそろ、今日こそはと期待するのも疲れてきたし、いろいろな雑務と、このまま師の目が覚めなかったらという不安とで、頭が忙殺状態だ。正直、心の余裕が無くなりかけていた。
(どうすんのよ本当に。重症の患者はともかくより難しい病気の患者なんて来られたら断らないといけないのに。師匠のことは里に伝わっちゃってるだろうからある程度は何とかなるだろうけど、だいたい、このまま師匠たちの目が覚めなかったら私はどうするの? ここで暮らすの? その必要ってあるのかしら。ああもう。頭イタイ。私が医者にかかりたいわよ)
それになぜだか、てゐの姿も最近見えないようで、妖怪兎たちは、永遠亭に寄りつきもしなくなっている。もともと、鈴仙の言うことなどまるで聞かない連中である。
正直、半ば知ったことではなかったのだが。
(師匠たちの目が覚めないんなら、私ももう逃げちゃおうかな。面倒くさいしさ。ここにいる理由もないってのに)
まあ、月には帰れないから、また地上のどこかで生きさせてもらうしかないのだろうが。
「……。……どうすりゃいいのよ~……」
鈴仙はぼやいた。師の顔。
輝夜の顔。てゐの顔。
鈴仙は無意識に思い浮かべながら、いつのまにか眠りについた。私一人でどうしろって言うのよ。
(なんにもできないのに。私一人じゃどうしようもないのに。お願いだから、誰か助けてよ……)
間。
「――鈴仙ちゃーん。おーい? ありゃりゃあ。よく寝てるなあ。おーい。れいせんさま~。起きてくださいよ~。朝よ~」
頭の後ろの当たりで誰かの声がした。鈴仙は、目を覚まして、重たげにまぶたを開いた。
朝の光がまぶたを差した。鈴仙は、顔をしかめて光から目をそらした。
いつの間にか、すっかり日が昇っている。窓の外を見に行こう、と思いつつ、なにやら頭の近くに立っていた、背の低い兎のワンピースの襟が目に入る。
鈴仙は目を上げた。てゐがにこにこと笑って立っていた。
鈴仙は、ぼんやり目をこすってその姿を見た。それは、けっこう久しぶりに見えた姿だが、心の余裕を失っているうえ、寝起きも手伝って、鈴仙は、大げさな驚きも感じなかった。
「やあ。鈴仙ちゃん。おはよう。お久し」
「ああ、てゐか……あなた、一体どこ行っていたのよ……?」
「やあね。兎が行くところって言ったら不思議の国に決まっているじゃないの? 鈴仙ちゃんがいつまでも来ないから迎えに来たのよ」
「……なにいってるの? 寝ぼけてる?」
「寝ぼけてるのはあなたですよ。さて。チクタクチクタク。時計は回ると。急がないとね。鈴仙ちゃん、あなたは兎なんだから。それとも時計はなくしちゃったのかな?」
「は? ……ちょっと。どこ行くの」
「チクタクチクタク。ああ忙しい忙しい。やっほいやっほい」
「ちょっと……てゐ!」
鈴仙は、思わず立って部屋を出て、廊下を走った。何か激しい動悸(どうき)がしている。
てゐの姿はやたら速く、廊下を過ぎ去り、永遠亭の出口へと向かっていく。鈴仙は短い手足を動かして、必死で追った。
「てゐ! 待って――」
鈴仙は叫びかけて、出口から外へまろびでたが、その足元は不意になくなっていた。結果として、鈴仙の足は、いきなりがくりと落ち込んだ。
「おぼっ」
鈴仙は不意に足元が消え、すさまじい落下感が自分を襲うのを感じた。一瞬、どこまでも落ちていくような錯覚を覚えたが、終わりと暗転は、ほぼ同時に衝撃となって襲ってきた。
というか、たんに落とし穴に落ちてもろに頭を打っただけだったのだが。むろん、犯人は誰でもないが落とし穴の出口でによによと笑っていた。
「てゐいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
「――いいいいいいいいいいいいいっ!!! ん――?」
鈴仙は、叫び声を上げながら、はたと気づいて、辺りを見回した。いつの間にか、景色が変わっている。
「……。え?」
目をぱちくりさせて、よく辺りの様子をうかがう。何だ、ここは。
いや。何だ、これは。
自分は確かにあのイタズラ兎によって、落とし穴に突き落とされたはずである。それが、今はなぜか、どこか建物の廊下にいた。
硬い石の床、壁に施された彫刻。外には庭が見えた。
よく手入れが行き届き、まるで千年たっても変わらないような木や、花や、あるいは見事な桃の実が、かぐわしくて若々しい緑の匂いを届けてきている。
(え……。え……?)
鈴仙は、混乱して辺りを見回した。もっとも、それは未知の場所に放られた驚きばかりではなかった。
いや、最初は確かにそうだったのだが、それは、徐々に意識がはっきりとしていくにつれ、違うものへと変わった。そう。
なんだこれは。
(ここは――)
「ちょっと。あなた」
後ろから、声が聞こえた。鈴仙は、あわててそちらを振り返り、そして、そこにいた人物を目に入れて、激しい驚きに目をまん丸にした。
(よ、依妹姫様……!?)
鈴仙は、その名前を呼び、それと同時に、奇妙な違和感を感じ取って、ついまじまじと見た。
(ご本人……だけど……何? これ? ちょっと、……大人――?)
「ここは、みだりに立ち入っていい場所ではないわよ。いったいここで何をしているの」
依姫は、やや堅い口調で言った。少し印象が違うので、思わずまじまじと見つめてしまったが、それが気障りになったようだ。
どう考えても、好意的でない感じが、どことなく硬質な横顔に漂っている。とはいえ、鈴仙も目のやり場がなかった。
完全にあっけにとられていた。なんだこれは?
「門人を呼んで欲しいのかしら?」
身動きした拍子に剣帯がちゃり、と鳴る。鈴仙は少し正気を取り戻した。
「あ……ええと、あの? ですね? ええと……」
ここはどこでしょう、と聞こうとして鈴仙は激しくためらった。知っている。
ここは姫方が住まう月の宮殿である。
(おおお落ちつくのよ私。オーケイイッツオーライドントマインド・オブ・チェインよ私。こういうときは兎という字を手のひらに三回――うさぎ? あれ? うさぎってどうだっけ。いや、そんなことはどうだっていい、重要じゃない……)
「あなたは……玉兎? 見かけない顔だけど。所属はどこ? 名前は?」
「――は、はい! 正統王閥府立軍・二番大隊、局地戦闘要撃部隊所属のレイセンであります!」
(げ)
つい反射的に答えて、鈴仙は顔を青くした。そういうふうに正直に答えてどうする。
「知らないわね。新しく入った子?」
「は、はい! そうれ、そうでして! いえ、実はそうなんです、もも申しわけありません」
「へえ。ついでに言ってしまうけど私は、指揮官としてここの軍務に通じている者だけど、あなたのいうような部隊名は、ついぞ聞いたことがないわ。聞き違えたかしら? 正統王閥府立軍・二番大隊、局地戦闘要撃部隊だったわね。ふむ」
(えええと)
「あなた、もしかして間者かしら? そのわりには妙に間が抜けているようだけど」
じっと、眉をひそめつつ厳しいまなざしを向けてくる。鈴仙は目を白黒とさせた。
(えええええと)
「そっそうです、じゃなくて、いえ違う。違います、あのですね――」
「依姫様? どうなさいました?」
ふと、後ろから声がした。わたわたと弁解しかけていた鈴仙は、聞き覚えのある声に、思わず「え」となって振り返った。
すると、予想の通り、そこには師が立っていた。なぜかいつもの奇天烈な衣装の上に白衣を着ており、頭に帽子はかぶっておらず、顔にはそれほど似合わないような眼鏡をかけていた。
「いえ、不審者です」
「ふん?」
「しっ、ししょう!!」
「うん?」
師は、鈴仙が言うのを聞きつけると、ものすごく微妙な顔でこちらを見た。なんだこいつ、とあまり物事に動じない目が、そういう感情をこめて如実に物語っている。
(え)
鈴仙はすっと胸に冷えるものを感じた。なんだこれ。
なんだろうか。この、まるで、会ったことも見たこともない他人に初めて会ったときのような。
「師匠?」
鈴仙のつぶやきをかすめ取ったように、横から聞いたのは依姫である。
「……あなたの知り合いなのですか?」
「ふん――さて?」
永琳は曖昧に首を捻った。
「まあ、私の顔はよく知れていますけれど。さすがに、姫様方以外に生徒やら弟子を取った覚えというのはないわね。まあ、師匠だなんて呼ばれてみるのも、案外気分のいいものですわね」
「じゃあ今日からお呼びしましょうか?」
「止めてくださいましな。のぼせやすい質ですのよ、これでもね。ああ。そういえば浦島が探しておりましたよ」
「浦島が?」
依姫は言って、微妙な表情を返しつつ、ちらりと鈴仙を見た。それから永琳を見る。
「困ったわね……何の用事でです?」
「あらら。用がなければ呼ばわってはいけないという間柄でもないでしょうに」
「……永琳様。あなたが姉様のようなからかいを言うのはやめてちょうだい」
「あら、そのようでした? いけませんね。毒されているのかもしれません」
「あなたは誰にも毒されないでしょう。薬も効かないけど」
「まあ、そうですね。ですけど、この者の処遇は私がやっておきますから、どうぞ」
「あまり手荒なまねはよしてくださいよ」
「大丈夫ですよ。この者も間者のまねごとなんかしているんですから覚悟はあるでしょう」
(えええ)
鈴仙は、思わず抗議の声を上げたが、口に出しては言わなかった。依姫は永琳に言ったあと、すぐにきびすを返して向こうへ行ってしまった。
「さあ、あなたはこっちね。あまり血生臭いことはさせないでね」
いつの間にか後ろに回っていた永琳に言われ、鈴仙はおとなしく従った。というよりか、背後に何かひやりとした気配のするものを突きつけられていて、動けなかったのだ。
「あ、あの」
「ああ。質問は後でね。それと、両手は頭の後ろに組んで、顔は動かさないこと。二度は言わないわよ」
永琳は、言いつつ、背中に当てたものを押しつけてきた。鈴仙は、さすがに黙って言うとおりにして、押されるままに歩いた。
顔を動かさずに、通路だけを見ると、どうやらここは姉妹姫の住む宮殿の一角のようだった。それもかなり私的な空間に近いところで、鈴仙には懐かしいとさえ感じられる、桃のかすかな香りが漂ってきている。
そうして、緊張したまましばし人のいない建物の中を延々と歩かされていき、やがて、建物の外へ出て、また歩かされた。宮殿の外には、見事な桃の木と、永遠に咲き誇り、季節を告げない桃の庭園がちらりと見えた。
鈴仙は、さすがに胸が高鳴るのを覚えたが、背後にいる永琳の存在が恐ろしい圧迫感だったので、感傷どころではなかった。
(ここは……そんな……)
どくどくと胸騒ぎがする心臓に、足元が怪しくなりそうになる。ここは、そう。
月の都。自分のよく知っている月の都だ。
だが、そんな。
(ゆ、夢……よね?)
そう思い、否定しようとしたが、体の方はそれを否定したようだった。鼻に伝わる明確な香り、目に入る景色と陽の光、足の裏に踏みしめられる床、人の気配がまったくしないほどに静かで、時の流れを忘れるような空気感。
感じられるすべてのものが、これが現実であることを主張している。外へ出て歩いていくと、今度は別の建物に連れて行かれるようだった。
どこか薄寒い印象のある戸口をくぐって、人のいないらしいこの区画でも、とくに寒々とした室内に入り、後ろで永琳が戸を閉めるのを聞きつつ、中に進む。部屋の中には、頑丈そうな文机がひとつ置いてあり、そこに、やや年嵩の男が一人いた。
月の衛兵の服を着ており、永琳を見ると、読んでいた本を置き、折り目正しく席から立ち上がった。
「これは忙月長殿。ご苦労さまです。その者は?」
「侵入者です。不届きにも姉妹姫方の私殿内にいたようなので、捕らえて連れてきました」
「おお、それはなんと、ご苦労さまです。しかし、侵入者ですか? あのようなところに……」
「ええ。衛兵の怠慢かもしれませんね。申し訳ないですが、少し話を聞きたいので、奥の部屋をお借りしてもよろしいでしょうか」
「ええ。そういうことでしたらどうぞ」
「ありがとう。では、しばらくお借りします」
永琳は言って、先に立って歩き出した男についていくよう、鈴仙を促してきた。鈴仙は、おとなしくついて行き、男が鍵を開けた扉をくぐって、その先の、明かりのない狭い廊下へと入った。
どこか、ろう獄を思わせる暗さがずっと奥まで続いている。いや、この調子だと、そのものずばりなのだろうが。
(うう)
鈴仙はうめいたが、どうしようもない。男が「こちらへ」と促すままに、もう一つ開かれた扉を通り、その先の部屋へと入った。
「……」
鈴仙は、思わず部屋の中を見回した。一見して、狭い部屋である。
部屋の真ん中あたりには、異様に重たげだが、なにかの花をあしらった彫刻の施された、木製らしい黒い椅子が二つ、向かい合って置かれていた。テーブルはどこにもなく、部屋の隅には、やや場違いな感じの、白いきりの小たんすが置いてあり、その上には、頑丈に固定されているポットと、その横に数個の紙コップが積まれてある。
部屋の壁には、窓はないが、よく吟味されたらしい、明るい暖色系の装丁に、薄い桃の花の柄がデザインされた壁紙が貼られている。天井をちらりと見ると、どう見ても、そうとう高価にしか見えない黒いきりのがんどうが下がっている。
床には、ちょっと歩きにくいほどに毛足の長いじゅうたんまでが敷かれていて、鈴仙はあまりにも柔らかい感触に、ちょっとびびって足元を見たほどだ。なんだここは。
「そこへ座って」
後ろで永琳がそう言いつつ、扉を閉めて、鍵をかけた。そのまま鈴仙をつついて誘導して、指定した椅子へと座らせる。
自分はもう片方の椅子に腰を下ろした。その際に、手にしていたものがちらりと見えたが、どうやら小型の刃物か何かだったようだ。
永琳は、椅子に座ると、「ふう」とひとつ息をついた。
「さて、と」
言って、こちらを見る。
「優曇華」
「……」
鈴仙はふと一拍ほど置いてから、ふいに目を丸くした。顔を上げて師を見る。
「しっ――」
「しっ」
師が、口に指を立てて言う。鈴仙はそれでいったん声を抑えたが、すぐに表情がふにゃんとゆがんだ。
「し、しじょう~。あ、あいだがっだですう~……」
「おい。こら。ちょっと。待て。聞きなさい」
永琳は言ったが、鈴仙はだばだばと涙を流して、しっかりとしがみついてくる。永琳はそれを見ると、仕方ないというふうに小さくため息をついて、白衣の影から何かを取り出して見せた。
ぐるぐる巻きにされた一本のムチである。鈴仙はまだだらだらと泣き続けていたが、それを見ると、一瞬で顔色を変えた。
あわてて元の場所に戻って座り直す。
「はい。すみませんでした」
「はい。――さて、と」
永琳は言いつつ、ムチをしまった。それから椅子に座り直して、元通り鈴仙を見る。
「何から話したものかしらね。まずはあんたが何を知っているかが重要なんだろうけど、たぶん何も知らないでしょうし」
「ええ……」
「まあ、一口で説明できるものでもないし、おいおい説明していった方がいいかしらね」
「ここは何なんです? 何でこんな事に?」
「質問するときはもっと的を絞ってね。まあ何というかね。それは後にしましょう。優曇華。それよりあなたはどうやってここに来たの?」
「どうやってといいますとえーと、たしか、あれは――」
鈴仙は言いつつも、だいたいのあらましを師に話した。といっても、詳しい状況がなぜか思い出せなかったので、少し曖昧模糊としたものになった。
「ふむ。要領を得ないわね」
「はあ。すみません」
「いえ。実は私もなのよ。ここに迷い込んだ経緯がいまだに把握できていなくてね。私の場合も、眠りについて次の瞬間にはここにいたという様子だったわ。何の前触れもなくね」
「あの、師匠。姫は……?」
「悪いけれど、それは後よ。とにかく、ここに来て三か月ほどたつけれど、私もいまだに状況というのを理解していなくてね。分かっているのは、ここが何かしらの、一つの構築された空間であること。今の私たちは、物理的な肉体ではなく、限りなく現実的な感覚を備え、実際に動くことのできる精神体であること」
「あれ? ……三か月?」
鈴仙が聞くと、永琳は適当に手を振ってきた。
「向こうとここでは、時間の流れに差があるようね。まあ、それはささいなことだと思うけれど。とにかく、この世界は、完全に閉じている空間で、私には体に戻る方法がないの。それで立ち往生しているというのが今の状態よ。まあ、出られることは出られるのだけど――あ、そうだ」
永琳は言いつつ、うなってちょっと考えると、不意に立ち上がって部屋の隅へ歩いていった。そこに置いてある薬棚の引き出しを鍵で開け、そのなかから何かを取り出す。
鈴仙が見ていると、永琳はこちらにやってきて、薬包を差し出してきた。
「なんです? これ」
「いえ、忘れていたから、今渡しておくわ。その薬を飲めば、向こうに戻れるわよ」
「え?」
「いえ、まあ、上にたぶんがつくことではあるんだけどね。ちょうどいいから、今飲んでおきなさい」
永琳は言いつつ、水を入れたコップを渡してきた。鈴仙は、何となく不安に思いつつも、それを受け取り、薬包を開いて、水と一緒に口に流し込んだ。
「薬の効果はすぐには出ないわ。飲んでから、こちらの感覚で睡眠についた状態になると、スイッチのようなものが働いて、向こうに戻れるから。まあ、たぶんね」
「はあ……」
「私は、試してみたけれど、戻れなかったわ。そして戻れない、戻れるの条件も何にも分からないから、確実なことが言えないの」
「戻れない……?」
「とにかく……確かなことは今、私と姫はここに閉じこめられているという事ね」
師はわりと気楽げに言った。鈴仙はそれどころではなかったが。
「しかし、一体どうして……」
「さてね。さっきも言ったけれど、それは分からない。何者かの作為だか、偶発的な事故だか。もっともここ数日の分析だと、どうも作為的に作られた空間と断言していいようだけど、一体誰が何の目的でと言うのは分からない。何せ、私や姫をここに捕らえて、得する者というのが思い浮かばないしね。精神をとらえるというのは最も有効な方法だと思うけれど、それなら単に捕らえればいいだけで、こんな者を用意する必要性はないのよね。まあいたずらしそうな心当たりはあるけど……それでもやっぱり確証はないのよね。動きを封じて何の得があるのか、あるいは何の目的なのかと考えると、まるで分からない」
永琳は一人でつぶやくように言った。鈴仙は仕方なくおとなしくしていたが、内心ではこっそりと安心を感じているのにも気がついていた。
こんな状況なのにのんきなものだが、やはり師のそばにいるのは、自分にとって精神の安定にいいらしい。普段はあまり近くにいるのはごめんだが、今はこうして寄り添っているだけで、がっちりとした背中の支えのようなものを感じる。
そのうちに、鈴仙は、自分が眠気を感じているのに気がついた。うとうとと頭が重たくなり、師の話し声が頭の中に入ってこない。
どうやら一安心したぶん、気がどこかで抜け落ちたようだ。師の、「それで――うどんげ? 鈴仙。ちょっと」と言うような声を聞きつつ、そのまま、まぶたが重くなり、いつしか鈴仙はふっと意識を闇に落としていた。
数秒。
「んはっ」
鈴仙は、深海から浮上するような心地で目を覚ました。思わず体を動かそうとして、動かないことに気づく。
ぼんやりした目で見ると、手首が寝台状のものに固定されているのが見えた。それだけでなく、どうやら胴と首の部分も何かで固定されているらしく、動かせなかった。
「は?はれ?」
「ああ。おはよう」
横から師の声が聞こえる。そちらを見ると、さっきのとおり、白衣と赤青系二色の衣服が見えた。
「ちょっと動かないでね。今電流のスイッチを入れるところだから」
「ちょ!ちょっと待!!」
四半刻。
「いや、師匠の話を聞かないで寝るようなやつは軽くゴーモンされても仕方ないと言うね。私も毎度お仕置きするのは面倒なんだからあなた少しは成長してね」
「はい。すみませんでした」
鈴仙は半ば死んだ目で機械的に答えつつ、手首に残ったあざをさすった。首を動かしにくそうにしながら、ちらりと首の根っこの辺りを見下ろす。
今の鈴仙の首には、きっちりと首輪がかけられていた。見た感じ、普通の首輪であるから、また師がたわむれにつけたのかと思ったが、違うようだ。
「駄目よ。あなた、一応捕虜の扱いなんだし。形だけでもつけててくれないと。しかし天狗をこっちに持ち込めないのが残念でならないわね」
「絶対やめてください。……これ拘束具なんですか? 初めて見ましたけど」
「昔使っていた代物だからね。指定区域から逃げるのはもちろんだけど、勝手に外したりしようとしたら駄目よ。非常に強烈な性的快感を伴う激痛が走ってね。即効性のマインドセットがかかるようになっているのよ。しかもこの痛みには強い精神的依存性があって、三四回も繰り返せば、二度とこの首輪から逃れられない立派なマゾヒストに」
「何ですかそのえぐい器具」
「実は私が考えたんだけど」
「あ、それは言わなくても分かります」
「なんでよ」
「いえ。別に? ナンデモナイですよ?」
鈴仙は、師から目をそらしつつ言った。師はその横顔をじっと見ていたが、やがて不意に指を伸ばして、鈴仙の首輪に引っかけた。
「おっと。指が引っかかってしまったわ」
「すみません!!ごめんなさい!調子こいてました!二度と言いません!」
鈴仙が必死で言うと、師はようやく手を離した。やれやれといった調子でため息をつき、椅子に座り直す。
「さて――そろそろ外でのんきに眠っている雌兎の顔に落書きするように言ってこようかしら。『美味しい兎肉です。どうかよろしく』って。そしてきっと天狗(てんぐ)が呼ばれるでしょうね」
「すみませんでした。止めてください」
へたれて頭を下げつつ、ふと気づいて鈴仙は師を見た。
「――え。てことは、私もやっぱり眠ってるんですか?」
「ええ? 大丈夫よ。体の管理のことなら、てゐに任せてあるし」
「え。それ安心する所なんですか?」
「どんなときでもいたずら心とそれを実行する勇気を忘れない妖怪兎の手に指一本動かせないあなたの体の自由なら任せてあるから大丈夫よ」
「なんで二回言うんですか? しかも強調されても」
「まあ、とにかくね。あとは二、三日、このまま独房の方にでも入っていてちょうだい。今、衛兵に頼んで案内させるから。そのうち、内庁(ないちょう。王権府内部監査庁。月の王府にある調査の権限を持つ内部監査機関の略称)で査問があるだろうから、身の動向についてはそれからね」
「はあ」
鈴仙はさえない返事を返した。そうして、師は、立ち上がると、それで「それじゃあまた後でね」と、軽く鈴仙の背中をたたいて、部屋の扉へと歩いていき、外へ出て行った。
それから入れ替わりでさっきの男が入ってきた。鈴仙は、男に命じられるまま立ち上がり、その場で手かせをかけられ、視線遮断用の黒いバイザーをかけられた。
しばしして。
別の場所。
「ここだ」
男に言われるまま、鈴仙は、やや物々しい戸口の下をくぐった。バイザーと手かせを外され、案内された扉の中は、きれいな花柄の壁とじゅうたんが敷かれた簡素で清潔な感じの部屋になっていた。
少し小狭いが、寝台とトイレが用意されており、ちゃんと病院の入院患者が使用するような体を洗うらしいシャワー器具まで取り付けられていた。男からそちらの使い方などを簡単に説明を受け、なにか用のある時は扉から少し離れた脇の、スピーカーを使うこと、室内には監視カメラはついていないことなどを言われ、あとは、男は、部屋を出て行き、どうやら、自分はこのままほったらかしにされるようだった。
男が出て行ったあとに、扉の視線窓から外をのぞくと、急に壁とドアが透け、廊下の様子がまるまる見渡せた。どうやら視線認証式のマジックミラーシステムが使われているらしい。
一分ほどそれをやっていると、扉から電子音が鳴り、『扉から離れてください。扉から離れてください。一分以内に応答のない場合は、外へ警告を発します。扉から離れてください』と、やわらかい女性口調の音声で警告を発してきた。鈴仙は仕方なくドアから離れて寝台に戻った。
寝台は、座るとほどよい感触を返してきて、下手をすると自分が普段寝ている布団より寝心地が良さそうだ。
(うーむ)
鈴仙はうなった。これはつらそうだ。
部屋の快適さに文句はないが、師は二、三日と言っていた。やることもなく、ここに缶詰めでは、二、三日はつらすぎる。
(そういえば、一回眠ると、元の世界に戻れるとかいってたけど……)
鈴仙は便器の端を見つつ、ぼんやりと考えた。さっき自分は一回眠ったような気はしたのだが。
そうすると、自分も戻れないということだろうか?
(師匠は戻れないって言ってたわね。あ。そういや姫のことも結局聞きそびれてたわ。大丈夫かしら……姫)
鈴仙は、自分のうかつさを呪いつつ、やきもきした。永琳の口調から言っても、輝夜がここに来ているのは間違いないんじゃないかと思う。
何で師もはぐらかしたりするのだろうか。はっきり言われないと、余計にやきもきするではないか。
(そういうところの配慮が足りないってのよね、あの人も。まったく。はっきり言ってくれればいいのに。あーそわそわする。そわそわする)
そうして、鈴仙が落ちつかなげにしていると、こんこんこん、と部屋のドアがたたかれた。
「おい!食事だ!」
部屋の外から若い娘の声がして、鈴仙が返事をしようとすると、それを待たずに扉が開いた。入ってきたのは、月の軍服を着た、短めの、ちょっとウェーブがかった黒髪の娘である。
頭にぴこんと垂れた耳があり、玉兎かな、と一瞬思い、その顔をよく見てから、鈴仙はぎょっとして目を見開いた。
「てっ!!」
「あん? 何いきなり人の顔見ておどろいてるわけ? 捕虜の分際で生意気すぎる。おい、なめてんのか?」
てゐっぽい娘は言うと、いきなりずけずけと近づいてきて、鈴仙を蹴り倒した。
「痛!! ちょ、痛! いった! こら! やめなさい!」
「なにィ? 何一丁前に痛がってんの? この雌兎がっ! 毛長がっ! おらっ鳴いてみろよ! ああやばい、くせになりそう」
「ちょ、あなた絶対てゐでしょ! あいたっ! この、やめなさい! こら! きゃあ! 痛い! きゃっ! きゃあっ! 痛いっ痛いちょっとやめて! やめてよ! きゃあ!! いやっやっ! やっ! やあっ! 痛い! やめてえ!」
鈴仙はしこたまムチでぶたれて、ひとしきり悲鳴を上げた。やがて、頭を抱えて縮こまったまま動かなくなると、頭の上からふいーと満足げな吐息が聞こえた。
「あー。すっきりした。やあ、鈴仙ちゃん。お久しぶりね。まあ私にはそんなでもないけど、鈴仙ちゃんにはちょっと長かったかな? いろいろと」
「やっぱりてゐなんじゃないの!? 何の真似よ!? なんでいきなりぶつの!? なんかきにくわないことした!?」
鈴仙がかみついていくと、てゐは「どうどう」といさめてきた。
「鈴仙ちゃん。そういうセリフはいじめられっこのそれっぽくてあまりよくない。鈴仙ちゃんをいじめたいおとかいうゲスは、いくらでもいるんだから自重しなさい。よしよし」
てゐは言いつつ、鈴仙の頭をなでてきた。鈴仙はなにかわからないが、非常な屈辱を感じててゐの体を眺めやった。
(なにこいつ。大きくなってる?)
いつものちんちくりんな見た目からは想像つかないほど、てゐは年上の姿をしている。といっても、こちらより少し高いくらいの、年齢で言って十七、八といったところだが、おかげで鈴仙より頭半分ほど背が高い。
「なに? あなた、その見た目。なんかずるくない?」
「ずるくない? とか言われてもね。いや、そりゃまあ、妖怪だからね。見た目くらい変えられるわよ。八雲の大将だって結構伸び縮みしてたりするじゃない」
「どうでもいいけどそのムチはなんなの?」
「ああ。だって私、今あなたの世話役任されているしね」
「なんで今ぶったの?」
「いや、今世話役任されてるし」
「そうですか。乗馬ムチ痛いですね」
「まあまあ鈴仙ちゃん。どうどう。びしっ」
「痛っ!! くおら」
鈴仙はてゐの胸ぐらをつかんでにじりよったが、ふと、そのとき、服の端が引っ張られているのに気がついた。
(ん?)
けげんな顔で足元を見下ろす。すると、背のちんまい人影がそこに立っている。
「……」
鈴仙は沈黙して、人影を見やった。なんだろう。
足元でこちらの服の端を握っているのは、長い黒髪の、ちんまりとした着物姿の幼女だった。まん丸くて深い緑の黒目でじーとこちらを見上げており、顔にはこれといった表情は浮かんでいない、要するに普通の、頭悪そうな小さい子どもの顔である。
「……。ん?」
鈴仙は怪訝に眉をひそめそうになりながらも、ふと思いとどまって、幼女の顔をよく見た。何だろう。
誰かとよく似ている。自分の知っている誰かと、よく似ている。
しかし彼女はこんなにちまっこくないし、こんな頭悪そうな顔はしない。いつもこの丸くて深い緑の目は静かに澄んだ色でこちらを見るし、その目であまりじっと見られると、同性の鈴仙でさえ何かどぎまぎと落ち着かなくなり、きれいに切りそろえられた目の上の黒髪はいつも柔らかく、触れるのもためらわれるような感触と言いしれぬ匂いを返してきて、意外と繊細でない指先はでもぞくりとするほど細くて、急に触れられると自分でさえどきりとしてしまうし、抱きしめられると肉の薄いはずの体がすごく柔らかく、日なたと淡い香の香りがして、まるで優しさの固まりであるようにさえ思えてくる、そんな。
(いや、いやちょっと待て。そんなでも)
何を考えているのか、見ているこちらににぱーと笑い返してくる間抜け面を見つつ、鈴仙は勢いよく思考を空転させた。いや、いやちょっと待て。
そんなでも。
「あらら、こんなところに来たら駄目ですよ、輝夜様」
「うさしゃん」
「うっうさしゃん!? いやっじゃなくてかっかっ」
「ええ、兎ですね。でもあんまり近寄っちゃ駄目ですよ。こいつは性根の悪い兎なんです。もちろん、行いも悪いですけどね。私のような素い兎と違って腹も心もまっくろくろのいわば玄い兎ってやつです」
「うさしゃん?」
「はい。こいつは悪いことをしたもんだからこんなところに首輪をつけて閉じこめられているのですね。外に出るとまた何か悪さをするかもしれないので、いい子になるまではここに閉じこめておくのです。兎の悪いやつは本当何をするか分かりませんからねえ」
「うー。うさしゃん……?」
「ああ、はいはい。姫様はお優しいですねえ。でも、仕方がないのです。悪い子が一人いると、みんなが迷惑しますからね。下手をすれば、依姫様や豊姫様や、永琳様も迷惑なことをこうむってしまいます。それはこいつを外にはなったせいで起こることなのです。ですから。ね。ささ。ほら、早く外に参りましょう」
てゐが言っても、輝夜はまだちらちらとこちらを見ていたが、やがて、「ばいばい?」と手を振って、外へ出て行った。鈴仙はふりかエスコともできずにびっくり顔で固まっていた。
「ふむ。さすがにショックだったみたいでございますわね」
「てってっ、――えっええっ?」
「よそよしオーケイイッツオーライプリーズライクイフユーネバーレッツビギンザタイム鈴仙ちゃん。いや、まあとにかく落ち着いて。あなたの驚きも分かるんだけどね。はいっ! はいっ! 深呼吸! うん! はいすってーうんそうすってー。はいてー」
「えっ? あ、あ、はい」
てゐにいわれ、とりあえず鈴仙は深呼吸をした。すーっはーっと一つやると、何となく落ち着いたような感じはした。
目を二、三回瞬いて、再びてゐを見やる。
「あれ……」
「姫? うん」
「ひ、姫って……いや、何で? 何? いや。いや、本当、何? あのなんかまるで頭悪そうな子どもみたいな」
「どれ、今のセリフをお師匠様に言おうか」
「やめて殺されるから」
「いや、私に言われても困るけどね。とにかくアレが姫だってことしか。お師匠様も言ってたし、そういうことならそういうこなんでないの? むつかしいことはすまないけど興味がなくてね。お師匠様なら何か知っているんじゃないかな。今度聞いてみるといい」
てゐはいつもの調子で言いつつ、適当そうに手を振った。
「とにかく私も今回は外との橋渡しで動いている身でさあ。詳しいことは知らないし、やばそうなことは首つっこみたくないんだけど、本当、もうお師匠様には参ったよ。ハハ」
「何笑ってんの?あ。そういやたしかあなた、外に戻れるみたいな話って」
「うんまあね。一日おきくらいには戻って外の様子を報告してたわよ。鈴仙ちゃんの体のことも聞いてるから、まあ心配しなさんな。動けない鈴仙ちゃんにあんなことやこんなことムフフ」
「おい。おい」
「ジョークですよ。ほら笑いなさいよ鈴仙。私のサポートが心配か?」
「心配に決まってるでしょ。あ! そういやあなたよくも私を! 他にやりようがあったでしょ! なんか! 大体知ってるなら説明とかすりゃいいでしょ!? どういうこと!? 訴訟も辞さない!」
「うん? うん?」
「いやうんじゃない。とぼけるな頭にくるから」
「何? うん? 何のことを言ってるの? 何いきなりからんできてるわけ? あれのこと? それともあれのことかしら?」
「いやだから。あなたが私をこっちに連れてきたんでしょうが」
「私が? あなたを?」
「うん」
「どうやって?」
「……」
鈴仙はけげんそうにてゐを見た。何だろう。
どうも、とぼけているのとは少し違うようだが。
「まあよくわかんないけど、楽しいピロートークはこれくらいにしようか。とにかく私はいろいろと自由がきくし今はあなたの世話役ですからよろしくね」
「いや、うん、それはいいけど向こうの体に変なことしないでね? いえ、本当にね?」
「大丈夫よもう、私を誰だと思ってんの? いけず。びしっ!」
「痛っ!!」
とにかく、そんなありさまで、毎日やってくるてゐにからかわれているうちに、すぐに数日が過ぎた。
で。
独房に入れられて、数日。
そのころになって、ようやく鈴仙は師から呼び出しを受けた。いや、正確には査問の手続きのためという名目で、またあの部屋に呼ばれたのだ。
鈴仙がやってくると、永琳は「座って」と言って、衛兵を去らせて、それから一冊の本を渡してきた。本は、日記のようであり、表紙の隅に、忙月長、八意永琳と師の名前が記されてある。
日記の中には、表紙と同じ筆跡で、さまざまな出来事が書き連ねてあった。それによると、どうやら今は、月の外からやってきた水江浦島子という人物が姉妹姫の宮殿に滞在しているらしく、日記の永琳の初見には、その処遇についての検討らしきものが書き連ねてあった。
しかも、どうも、読み取った感じでは、永琳は浦島子を処分したがっているように思われるが。
(でも、まあ師匠の性格ならやるわよね)
鈴仙は一人で納得しつつ、むしろ今までこの男が処分に至っていないのが不思議だとは思った。日記によると、どうも姉妹姫のうち、依姫が浦島子と懇意になり、彼を帰すことを望んでいない、ということだが。
豊姫については、どう考えているのか分からないと書いてあり、しかし、おそらくいざ処分するとなれば反対はしないだろう、と推測がされている。
(あの依姫様が、地上の男なんかに……?)
その点では疑問符は上がったが、そういうこともあるかもしれない、と適当に保留はしておいた。
「地上から人間が……?」
「一昔前はそういうこともあったのよ。最近では、例の地上の輩が何かやらかそうと画策したのもあって、そういうことは一切なくなったのだけれど」
師は言って、ちょっと微妙な顔をした。
「もっとも、そこに書いてあるようなことも本当にあったわけではないのだけどね」
「ん? でも、これ師匠が書いたんでしょう?」
「いえ。私がここに来たときには、そういうことになっていたわ。その日記にはその文章が書かれていて、そして書かれているとおりの世界がここにすでにあったのよ」
師は言って、懐から取り出した銀の懐中時計を眺めた。
「とにかく、あなたの査問は明日と決まったわ。今日のうちはそれを預けておくから読んでおきなさい。今日のところは時間がないからあまり話ができないし。あ、その本は見つからないようにね」
言いたいことだけ言うと、師は椅子を立って見張りを呼んだ。そうして、鈴仙はまた独房に戻された。
翌日。
査問のために、いったん内庁に送られることとなり、鈴仙は牛車の中にいた。師は名目上、といっていたが、今は首輪の他に手かせもつけられており、あまり気分はよくない。
それでも、すぐ横には師が座っており、窓を見ることも許されていただけマシとは言えた。
余談ではあるが、出てくるときに、意外な人物と会った。独房を出て牛車へと連行されるときに、ふとその牛車のすぐそばで、なにやら従者と世間話らしきものをしている姿が、こちらを振り向いてきた。
(と、豊姉姫様)
鈴仙は思った。豊姫だった。
そのはしっこそうな目で鈴仙の姿を目に入れると、「まあ」と、表情の豊かな顔をぱっと輝かせ、近寄ってきた。その拍子に観察したところ、どうやらこの人も、依姫と同様少し姿のほうが大人っぽくなっている。
「まあ! かわいい兎さんだわ。なんて奇麗な紅い目をしているのかしら?」
豊姫は言い、遠慮もなく、無邪気に詰め寄ってきた。こうこうとした興味の色を宿す目元が、まるで穢れなど知らないように輝いているが、鈴仙の経験によると、この顔はかなり危ない。
こういう目をしているときにこそ、この姫は、もっとも欲望と打算をむき出しにしているからだ。
「うーん。まるで、月の海の色がそのまま閉じこめられたような光ねえ。なんてすてきな輝きかしら。永琳様、この子あなたのペットなの? 私、この子がほしいのだけど」
「別にペットなんかではございませんよ。私は小動物なんか好きではありませんもの。それにこいつは身元も定かでない不届き者です。こともあろうに私殿に入り込んでいたのです。これから内庁に行って、監査を行って参ります」
「ふうん。ああ、でも、その後ならいいんでしょう? どうせ処分するにせよどうするにせよ、身の自由はもうないのだし、私がこっそりもらっていっても、問題にはならないでしょう? どうせここからは逃げられないのだし」
「駄目よ。あなた私に内緒で何するかしれないし。由緒の正しき姉妹姫様の名に汚点を残すような自体は未然に防がなければ」
「いいじゃない、依姫にだって、もうペットがいるんですもの。外から来た耳のない人ね。でも、二人きりでいるときはどっちも兎さんなのかしら」
「豊姫様。永琳はそのような言葉づかいを教えた覚えはございませんよ」
「じゃあきっとあなたに似たのね」
「私はもっと慎み深うございます」
永琳は言って、その後二、三言会話を交わすと、豊姫と別れて歩き出した。豊姫は去り際、「私は豊姫という者よ。困ったことがあったら、あなたの力になってあげますからね。よろしく」と、冗談めいた様子で言って、向こうへ歩いていった。
月の都。
市街。
中心部。
牛車のなかから外を見ると、町中を、人が活気づいてにぎわっている様が見える。ちょうど、月の繁華街のようだ。
鈴仙が知っている道の上には、彼女のまったく知らない様子の町並みが流れており、どこからか音楽が流れ、絶え間のないざわめきの中に、時折放送音声が混じって聞こえ、やがて遠ざかっていく。人の姿自体は変わりないようだったが、どこか、古めかしくは見えた。
鈴仙のとは少し形式の違う軍の制服を着た月兎の一段が外を歩いていくのが見え、鈴仙は、思わずその中に、友人たちの姿を探したが、すぐに馬鹿馬鹿しいことだとは分かった。
「……こ、ここは、まさか」
「まさか?」
横から、いつもの調子の師の声が聞こえた。固まったままふり返る。
「過去の世界とでも言いたいの? 残念だけど、ただの夢よ。生き証人が言うんですもの」
あまり似合わない眼鏡を直しつつ、永琳は言った。
「夢?」
「こんな場所は存在しないって事よ」
「存在しないって……」
「確かに、あの浦島子がやってきたのは事実だけど、あの姉妹とはまったく親密になっていたわけではないわ。どちらかというと、ペットに近い扱いでね。偶然地上から迷い込んだのを豊姫が内緒でかくまっていたのよ。私は後になってようやくそれを相談されて、すぐに処分しようと言ったんだけどね。姉妹が反対したんで、仕方なく、誰も知っている者のいない時代に送り込むってことで納得させたのよ。その後、浦島子はあまりの孤独に絶望して死んだみたいだけれど」
永琳はさらりと言ったが、鈴仙としてはちょっとびびる心地で聞いた。この女性の性格は知っているが、目の当たりにすると、おののくものはある。
「とにかく、この世界が私の知るものとはまったくの別物であることは間違いないわ。まあ、まったくの間違いであるとは言えないのだけど。ついでに言うなら姫様も、この頃には罰を受けて地上に落とされた後だったしね。こんな世界はあり得ない。でも、あり得ているというか、わざわざ再現されている。おそらくは、悪趣味な何者かの手によってね」
永琳が言っていると、牛車が大きく揺らいだ。どうやら止まったようだ。
窓の外に警衛兵が寄ってきて、確認のために、永琳と鈴仙に照合機を向ける。「失礼しました。どうぞ」と警衛兵が言って、去っていく。
「私たちは、さっさとこの悪夢から抜け出さなければいけない。それには優曇華。あなたの協力も必要になるでしょう」
(……あれ?)
鈴仙は、ふと疑問符を上げた。今、ちょっとほほえんでこちらを見た師の顔が、何か別人のように見えたのだ。
それは、いつもより違った表情がかいま見えた、とかそういったことによるものではなく、どうも、何かは分からないが、不自然な気がしたのだ。それがなんなのかを考える前に、牛車は、今度こそ動きを止めた。
表に近寄ってきた警衛兵にせかされて、鈴仙は牛車を降りて、内庁へと連行されていった。
丸一日と半分ほど。
そうして、査問を終えて帰ってくると、師に、「あなた明日から、依姫たちのペットになりなさい」と告げられた。鈴仙は、聞きつつ、目をぱちくりとさせた。
「はい?」
「はい? じゃなくて、返事ははいでしょ。いえ、そのままの意味よ。あなた明日から依姫の身の回りの世話をしなさい。そういう風に取りはからっておいたから。いや、不満なら王族御領侵犯の罪で投獄するけどどっちがいい?」
「え? それって選択の余地あるんですか?」
「とりあえず、不法侵入の件についてはうやむやにしておいたわ。今のあなたの身分は記憶喪失を患ったっぽい素性不明の玉兎よ。動向を見守るということで、こういう措置がなされたの。本来なら軍に放り込んでもいいのだけど、一応依姫に預けておけば、いざとなっても斬り捨ててくれるし手間が省けるだろうということでね」
「はあ」
「では向こうに戻りましょう」
そうして、翌日。
鈴仙は朝食の席に引き出されて姉妹姫に挨拶することになった。依姫は、こちらの顔を見たとき、ちょっとけげんな顔をした。
「あれ、あなた――」
言って、こちらの顔をけげんそうに見た。豊姫は、その横に、いつものちょっと笑っているような顔で居たが、鈴仙と目が合うと、はっきりほほえんで手を振ってきた。
鈴仙は、どうしたものかと思いつつも、小さく頭を下げて応え、それから、頭を上げざまに、なんとなく食堂の様子をうかがった。食事の席なのだが、輝夜の姿はないようだった。
(そういえば、お二人との仲のことってお聞きしたことなかったけど)
鈴仙は、ややのんきげに思いつつ、姉妹姫と輝夜の仲について考えた。うまくいっていたのだろうか?
ふいに、そのとき、後ろで尻尾を握られて、鈴仙はちょっと目をぱちくりさせた。師の手のようだ。
「今日からこの子が依姫様にお仕えいたします。とりあえず、簡単な身の回りのお世話や何かを任せようと思うのですけど」
「私に?」
依姫が言う横で、豊姫がちょっとむくれるような顔をした。
「あら、依姫に? なんだ、私にはつけてくれないの?」
「……お姉様が、わがままで言ったんじゃないの?」
「なんで私がわがままを言うんです? 言いませんよ」
豊姫は、すっとぼけた様子で言った。依姫は、それにちょっとあきれた目を返しつつ、永琳に目を戻した。
「永琳様、これは?」
「はいはい。わかりました。お二人とも、人の話は最後まで聞いてくださいね」
永琳は、二人をたしなめつつ言うと、それから、事のあらましを、半分ほどでっちあげて二人に語った。鈴仙は、内心恐々としつつ師の言葉を聞いていたが、その話によるとどうやら、やはり自分は、今現在記憶喪失で、自分でも訳もわからない間にあそこにいた身元不明の玉兎と言うことになっているらしいことは、理解した。
(それって無理があるんじゃ?)
大丈夫かしら、などと不安に思いつつ、二人の様子をうかがう。この二人とて、絶対にだまされやすいタイプではないし、むしろ、鈴仙が知っている限りでは、この二人にうそをついてばれなかったためしはない。
二人は、どちらも今のところは、疑う様子もなく話に聞き入っていたが、かわりに、それほど納得した様子にも見えず、時折、なんのことはない目で鈴仙を見たり、また永琳に目を戻したりしていた。
「では、その子にも自分の身元はよくわからないと?」
「ええ」
「しかし、私に会ったときはうそをついていましたけれど」
依姫は言い、非難がましい様子もなく鈴仙を見た。永琳は、生徒にものを教える教師のように軽くうなずいて、それに応えた。
「ええ。それはどうやら、一時的な記憶の混同による、反射的なものだったようです。彼女には、自分の記憶はほぼありませんが、依姫様に見つかったときには、だいぶ混乱していて、そのとき、依姫様からされた質問に反応して、とっさに頭に浮かんだ単語を言ってしまったと言うことでした。まあ、記憶喪失症の患者というのは、わりとよくわかりませんから、そのようなこともまれにあります」
「そうなの?」
「は、はい」
鈴仙は、豊姫が横から言うのに、ちょっとしどろもどろになりつつ答えた。とっさとはいえ、久々にこの人の前で嘘をついたことに、じわりと生唾がにじんでくる。
「まあ……でも、永琳様がそれでいいというのなら、いいですけれど。見たところ、間者にしてもたいした実力はなさそうだし、私くらいの力の者なら、寝首をかかれることはまずありませんしね」
依姫があまり気にしない様子で言うと、横の豊姫も、同じように見える様子でうなずいた。ただし、持っていた扇子でちょっと口元は隠している。
「そうね。仕方がないかな。……できれば、依姫よりも、私のペットに欲しかったのだけれど。ねえ、永琳様。今からでも遅くありませんよね?」
「まあ、豊姫様は、私の言うことを聞かないからね。駄目よ」
「うん。もう。ずるいわ」
豊姫はちょっとすねたように言ったが、それ以上は食い下がらずに引き下がったようだった。そうして、あれよというまに、その場はそんな者で話がついてしまった。
ちなみに、鈴仙の呼称は、名前がないということで“首輪付き”と呼ばれることになった。不服だがむろん逆らえない。
依姫は、「でもかわいそうでは?せっかくかわいい子なのに」と擁護したが、永琳は「だって名前がないのでは、新しい名前をつけるのもかわいそうでしょう、元の名前のこの者とは別になってしまうんですよ?」とわけの分からない理屈を述べて納得させた。
豊姫はなにか言いたそうだったが、残念だが彼女が「地上のセンス」なにかにと言って、変な名前をつけたがる癖があるのは鈴仙も知っている。そうして鈴仙に任された仕事は、そのまんま、依姫の身の回りの世話だった。
姉妹姫にはそういう用向きのためのお付きの者は幾人もいるが、鈴仙もその中の一人として働かされることとなった。監視付きの個室も与えられ、許可されれば依姫の私室に立ち入ることも簡単にできる立場である。
(いいのかしらね)
と思わないでもなかったが、姉妹も周りの者もそれで納得しているらしかった。よほどいい加減なのだか、あるいは永琳に対する信頼があるのか、とにかく、ただの記憶喪失の玉兎として、親切にする者には親切にさえされるようだった。
違和感はぬぐえないながらもとりあえずその日も、召しつけられた依姫の下着類を届け終えて、鈴仙は私室を抜け出した。
(えーと。次は。ん?)
「ん?」
鈴仙はふと背後につんつんという違和感を感じた。何者かが尻尾をつまんで引っ張っている。
鈴仙は眉をひそめつつ振り返った。すると、誰もいない、と一瞬思ってから目線を下げる。
何か小さい人影が自分の尻尾をつまんでこちらを見上げているのが目に入った。
(げ)
鈴仙は思わず微妙な顔になった。輝夜である。
「……」
「うしゃしゃん」
相変わらず、聞いている者が苛々しかねないような舌っ足らずな声で言ってくる。
「あ、は、はい?」
「うしゃしゃん?」
輝夜は言って、首をかしげてくる。そう言われても自分はてゐではないので分からない。
(そういえば何であいつ、会話してたのかしら)
「ん? な、なに?」
鈴仙がそう聞き返す前に、輝夜は手に持ったまりを差し出してきた。
「あしょぼ」
「え?」
「あしょぼ。うしゃしゃん」
輝夜は舌っ足らずな声で言い、汚れない目を向けてきた。
「え? あ。私? ですか?」
鈴仙は自分を指さした。輝夜はうんうんとうなずいた。
「あしょぼ。にゅ」
「っと。……は、はい」
鈴仙は、言いつつ、こちらの腰をぎゅっと抱きしめてきた輝夜を見下ろした。抱きつく、というよりは、どうも手つきを見ると抱き寄せるといった感じのようだ。
もちろん、身長の関係でそうはならないのだが、ひょっとしたら、こちらのことはでかいぬいぐるみに思われているのかもしれない。鈴仙はぎこちない笑みを返してやりつつも、内心ではそのうれしそうな姿を見て、ひそかに嘆いていた。
(うう)
うそでしょ。こんなの。
これが姫? これが?
本当に?
これが彼女の心から敬愛するあの気高く美しくておちゃめで穏やかでたおやかで黒目がちの目は深く澄んでいてでもつややかすぎる黒髪は豊かで静かで優雅で何よりあの底意地の悪い師の少なくとも百倍くらいは優しくて暖かくてふわふわな自分より少し背の高い、いつも抱きしめてくれるあの大好きな姫の姿だろうか。鈴仙は情けなさを禁じ得なかったが、これも姫であるし、むげにするわけにも行かない。
忙しいから、といって逃げようかと一瞬は思ったが、結局、不器用ながらもまりつきにつきあってやる。しばらく遊んでやると、どうやら姫は喜んでくれたようだった。
まあこれはこれでいいか、と、鈴仙は適当なところで自分を納得させた。もともと子どもは苦手だし、好きではない。
とにかく適当にやって、早々にお帰り願おう。
「いにゃば」
「うん? 何ですか?」
「えーりんをたしゅけてあげてにぇ」
「……」
鈴仙は、一瞬ほうけた顔をした。輝夜は、相変わらず、にぱーと笑っているだけだ。
「え……?」
「んう。みゃりっみゃりっ」
「へ? あ、あ、はい」
鈴仙は手にしていたまりを、輝夜に手渡した。輝夜は、まりを受け取ると、笑ってとん、てん、とまりをつき始めた。
「わちゃしはこんにゃありしゃまだから何にもできにゃいけど、あなたはちぎゃうわ。えーりんをたしゅけてあげて。あの人はきっちょこみゃってう。いや、本当はこみゃってはいにゃいんだけどね。でみょ、確かに助けを必要としているの。だから、いざとなったらあなたがあの人を助けにゃさい。おねぎゃいね、いにゃば」
「姫――」
「んっ」
輝夜はちょっと身震いするような顔をした。まりをつく手を止めて、こちらを見やる。
「おちっこ」
「……え? あ、あ! あ、ああ、は、はい、ただいまってええと!?」
鈴仙はあわてて答え、急いで輝夜を近くの小用へと連れて行った。用を足して、また再び輝夜は遊び始めたが、もう一度変わったりすることはなかった。
少し遊ぶと、鈴仙も解放されて、輝夜が帰っていくのを見送った。
(……)
助ける?
誰が? 自分が?
(師匠を?)
何を言っているのだろう? 助けられるのは自分ではないか?
考えたが、輝夜の言葉の意味は分からなかった。
で。
しばしの時が流れる。
輝夜に言われてから、数日、世話をしているうちに、何となく親しくなった依姫と話すことが多くなった。鈴仙にとってはこれも懐かしいことだったが、向こうにとっては知るよしもないことなので、ひそかにそう思うだけで、自粛しておいた。
依姫は厳しいが、一度親しくなれば厳しいなりに気安い質で、はじめの頃も鈴仙が部屋に来るたびに、二、三言声をかけてくれた。表情の豊かなようで隙のないこの姫の扱いは、鈴仙もそれなり心がけてはいたので、そういうところもまた、依姫の気に召したようだ。
ある日など、少し訓練に参加してみないかと誘われ、何とも複雑な心地ながらも、鈴仙は返事して、訓練に参加して、ひととおり、体を動かした。依姫は、あれこれと他の玉兎たちに指図しながらも鈴仙の動きに目を配っており、時折、考えるような目でこちらを見ていた。
訓練を終えてから、鈴仙にお疲れさま、と告げて、ふと探るような目つきで見てきた。
「あなた、どこかで軍役についていなかった?」
「え。えーと。えー……」
「ああ。うん。そうね。記憶がないんだったわね……」
依姫は言って、内心ではびくびくしている鈴仙を見つつ、「ふむ」とうなった。
「でも、センスはなかなかあると思うわ。もし行き場がないんだったら、このまま私のところに所属してもらって構わないんだけど……」
「は、はあ……」
鈴仙は恐縮してうなった。まあ、スカウト、というやつだろう。
「まあ、私の一存では決められないしね。永琳様にお願いしてみることにしましょう。ご苦労さま」
依姫は言って、その場はそれ以上言わなかった。ただ、後日になって、師となにか話し込んでいるのが見受けられた。
数日後。
訓練所。
訓練後。更衣所前。
「ねえ、ちょっといいかしら?」
依姫に言われ、鈴仙は立ち止まり、「はあ」ときつ立した。
「こないだの話だけど、あなた、やはり私のところに所属してほしいのだけど」
依姫が言うのをききつつ、鈴仙は目をぱちくりとさせた。いや、何を言われたのか、分からなかったわけではないのだが。
「えーと。え?」
「ええ。私の指揮している玉兎隊があるでしょう。そこの一員になって訓練を受けてほしいの。永琳様にもご相談して、許可はいただいているわ」
「あ。えー、と……。は、はあ」
「もちろん、今までの身分がいいと言うんなら、それでもいいわ。訓練と世話役との両立は難しいだろうしね。それは、あなたが決めてちょうだい」
依姫は言って、まじめな顔でこちらを見た。鈴仙はひるみつつも、「は、はあ……」とさえない返事を返した。
「すぐには返事をしなくてもいいわ。あなたにも考えはあるでしょうし、すぐにおいそれと決められるようなことでもないでしょうしね。少し考えてから返答をちょうだい」
「……。はい」
鈴仙はうなずいて、依姫の顔をちらりと見た。
(こんなに優しい人だったかな)
ちらりと思いつつ、目をそらして礼をして、退室する。何だろうか。
(なんだか別人みたいな……気のせい?)
鈴仙は、首をひねりつつ、廊下を歩いた。どうも、柔和と言うか、暖かいというか、あの依姫は、自分の知っているそれよりも、ずいぶん人柄が円いというか、そんな気がしてならない。
「――わっ!」
「おっ、と――」
そうして考え事をして歩いていると、突如角を曲がったところで突き飛ばされた。鈴仙は無様に転んで尻餅をついた。
「いったぁ……う。あ。す、すみません!!」
「あ、ああ。いやすまん。こっちも前を見ておらんかった。大丈夫かい? ケガないか」
ぶつかったおとこはそういって、てをさしのべてきた。「あ、ありがとうございます」と言いつつ、鈴仙は、ふと何となく男をまじまじと見た。
(ん?)
ちょっと首をひねる。いや、男の挙動に不審なところがあったわけではない。
ただ、少し格好が妙だったのだ。それか、身にまとう匂いというか。
(地上の……?)
鈴仙は思いつつ、男の風体を眺めた。純朴そうだが、背ががっしりとしていて、鼻筋の通った顔立ちの男である。
やややせぎすだが、衣からのぞく腕は筋骨が隆々としていて太く、力強さを感じさせる。あまり精悍という感じはしないが、どこか、柔和で親しみがわく面立ちをしていた。
「すまんかったなあ。今度は、こっちゃも気をつけるで。堪忍な、嬢ちゃん」
男は言いつつ、すまなそうに笑って廊下を歩いていった。耳に残る、どこか、粗野な感じの言葉遣いは、やはり月の人間の者ではないようだ。
(……。あ)
そうか、と鈴仙は思った。あれが水江浦島子だろう。
(じゃあ、あの男が依姫様と……)
鈴仙は思いつつ、ちょっと罪悪感のようなものを感じた。引き起こされるときに握った腕が、妙に力強いなと感じたからだ。
月の者にはない暖かさがある。地上に住まって、久しく忘れていたが、そう、あれが地上の民という者だった。
(月の者にはない暖かさ……。もしかして依姫様もそこにほだされちゃったってことなのかしら?)
などと、本人の前ではとても言えないことを思いつつ、鈴仙は廊下を戻った。なんだか複雑な気分だった。
数日後。
結局、鈴仙は、訓練に加わることを了承した。断るためのうまい理由も見つからなかったし、一応、永琳に相談してみたところ、「好きになさい」と言われたからだった。
依姫は、その旨を伝えると、意外なほどうれしそうな顔をした。それほど重くは考えていないと思っていたので、意外なことではあった。
「そう。よかった。あなた、ずいぶん素質はあるようだけど、精神面に問題がありそうだから、鍛え直してあげたいと思っていたのよ」
依姫は言うと、「よろしくね」と手を差し出してきた。鈴仙はどぎまぎしつつも握りかえしたが、その手のひらは硬くて力強かった。
とにかく、そうして鈴仙は依姫の指揮する軍の傘下に入ることになり、訓練に参加することとなった。とはいえ、かつて取ったきねづかというか、ぶっちゃけ鈴仙にとっては昔からずっとやっていたことであるから、最初のうちこそ慣れなかったが、慣れてしまえば自然に体は動くし、苦にもならなかった。
先輩の玉兎たちは、基本的に気のいい連中で、覚えの早く、まじめな鈴仙に、厳しくも優しい態度で接してくれ、時折豊姫から差し入れられる菓子を分けてくれたり、いろいろと話しかけたりしてくれた。そういうかいもあって、鈴仙はすぐに隊の中にとけ込んでいくことができた。
(なんだか昔に戻ったみたい)
うっすらとそう思いつつ、鈴仙は、次第にこの状況を楽しむようになっていくのを感じていた。もう二度とは戻れない時間。
月の宮殿で、姉妹姫たちのペットとして飼われていた日々。
(あのころに戻ったみたいだな)
訓練と、依姫の世話との両立をこなしつつ、そんなことをぼんやりと考えた、そうして日々が過ぎた。
とある日。
早朝。
宮殿。
その日の朝も、鈴仙は、起きる前日言いつけられてあったとおり、依姫の召し物を持って、部屋へ向かった。
「失礼します」
声をかけると、しばしして、かちゃり、と遠慮がちに扉が開けられた。
「あ、おはよう……ございます」
「あ、ああ、おはよう……いや……ええ、と?」
「ええと。依姫様のお召し物を」
鈴仙は部屋の中をのぞき、その拍子に、裸体の依姫が、寝台に上体を起こしているのを目に入れた。依姫は気まずそうに顔を伏せており、こちらの目線を避けている。
すぐにだいたいの事態を把握して、顔を熱くする。そういえば、浦島子には私室が与えられているはずであるが、それがなぜ正式な関係でもない依姫の寝室にいるのか。
「あ、も、申し訳ありません! し、失礼をいたしました!」
鈴仙はあわて気味にいって、「あ、ちょっと!」と浦島が言うのもきかずに、扉を閉めた。なかば逃げるように、そそくさと廊下を戻っていく。
(や、やだなあ、もう……)
鈴仙は鼓動を早めつつ、早足で廊下を渡った。そりゃそうだ。
浦島の話を知っているなら、それくらいの配慮は自然と思いつくべきだろう。
(ふだんが女所帯だからなあ……とにもう)
恥じらって顔を赤くしつつ、鈴仙は廊下を戻った。とにかく、用向きをすますわけにも行かず、そのまま適当にごまかしてその場をすました。
(うん?)
そのとき、なにか違和感を感じたのだが、それが何なのかを考えようとすると、頭がぼやけた。まあいいか。
たいしたことではあるまい。
しばしして。
食堂。
朝食の場。
依姫は、いつもどおり豊姫とともにやってきた。鈴仙は内心びくびくしながらも、脇に控えていた。
依姫はいつもと変わらぬ様子で、鈴仙に視線を向けることもなく、そうするような気配もない。もしかすると、気にしていないのだろうか。
(ま、まあ、普通のことなのかも。でも、よくわからないしなあ……)
鈴仙は内心で考えながら、自分で動揺した。まあ、ぶっちゃけて言ってしまえば、彼女の苦手な分野だ。
そのうちに朝食を終えて、依姫は席を立ち、自室の方へ行ってしまった。鈴仙はほかの仕えの者たちとともに、食器を片付けながら、内心ではどきどきとしていた。
(うう……このあとお部屋に行かなくちゃならないのに)
今朝、すませそびれた用事をすませてこなければならない。さすがに室内に二人きりになるのは勘弁である。
とはいえ、内気さがたたって誰にも押しつけることができず、鈴仙は結局、自分で依姫の部屋に洗い終えた召し物を持って行った。
「失礼します」
「どうぞ」
依姫の声に許しを得て、鈴仙は部屋の中に入った。すぐそこの寝台には目を向けないようにしつつ、依姫のそばを通って部屋の奥に行く。
寝台のそばを通るとき、なにか独特の匂いをかぎ取ってしまい、思わずどぎまぎとしたが、そのまま召し物をしまい終えて、ふたたび依姫のそばを通り抜ける。
(な、何も言わないのかな?)
なにか書き物をしているらしい背中を見つつ、扉の方へ行き、「失礼いたしました」と礼をして出ようとすると、「ああ、ちょっと待って」と呼び止められた。
「は、はい?」
「ええと、ね、あなた。その……」
依姫は、こちらを見て、言葉に詰まったような顔をした。髪を梳いて、こちらの顔を見る。
「そのね。今朝のことなんだけど」
「あ、……はい」
「……あまり言いふらさないでほしいのよ。特に、お姉様の耳には入れないでほしいの。そのう、外聞もよくないしね」
「はあ。あ、でもお二人のご関係は周知のことなんでは……」
鈴仙が言うと、依姫は微妙な顔になった。
「……そりゃ周知と言えば周知だけど、さすがに知れ渡っていいこととよくないことはあるわよ。正式な関係になる前に同衾していたなんてのは、いくら何でもね。だから、すまないけれど、お願い」
「はあ、いえ、それはもちろん、構いませんが……」
「……ありがとう」
依姫はちょっと気恥ずかしそうに笑った。鈴仙もあまり見ないが、珍しく柔らかな顔ではあった。
こんなにかわいい人だったかな、と思いつつ、鈴仙は、とりあえず退室した。どうにも、調子が狂うわ。
(なんなんだろ)
思いつつ、廊下を歩いて首をひねる。
その日の夕食。
食事を終えて、依姫が下がっていった。それをちらりと見てから、豊姫が立って、鈴仙の方へやってきた。
「ご苦労さま。大変ね」
「え。あ。ええ。はい、どうも」
「何でも最近は、依姫の訓練に参加しているんだそうね。頑張っているのね」
「はい。まあ」
「あの子に見込まれるのだから、あなたはずいぶん見込みがあるということなのね。この間、自慢げに言っていたわよ。いい子が来たってね」
「は、はあ……」
鈴仙はちょっとはにかみつつ、豊姫のくすくす笑う顔に答えた。
「それじゃ、依姫とだけじゃなく、たまには私とも遊んでね」
豊姫は言いつつ、軽く手を振って退室していこうとした。それから、「あ、そうそう」と振り返ってくる。
「ねえ、ちょっと聞きたいのだけど」
「あ、はい?」
「今朝、依姫の部屋に行ったとき、誰か、いなかったかしら?」
「え――」
鈴仙は、一瞬、言葉に詰まって、それからしまったと思った。あわてて取り繕おうとしたが、豊姫は当然気がついただろう。
(な、なんで)
「うふふ」
豊姫はちょっと笑って、そのまま何も言わずに離れた。その笑みに、なぜか寒いものが感じられた。
翌日。
「あ。ねえ。首輪ちゃん」
「ん?」
訓練の時に、よく話す先輩兎に言われ、鈴仙はそちらを見た。すると、先輩兎は、鈴仙の兎耳の先をちょっと引っ張ってささやいてきた。
「依姫様、ついに浦島と寝たって本当?」
「……。は?」
鈴仙は聞き返した。
「いや。なにか知ってるかと思ってさ。内心うずうずしていると思うわよ、みんな」
先輩兎は言いつつ「ね、どうなの、そこらへん」とすりよってくる。しかし、鈴仙は何が何だか分からなかった。
いや、分かってはいた。
(なななななななななな)
「何を言っているのよ!?」と叫びかけて、鈴仙は自制した。しかし、本当何だ。
いや、何だ? 何だ?
コレは? そう思ってよくよく話を聞いてみると、もう玉兎たちの間では恐ろしい速さで知れ渡ってしまっていることらしい。
「だからさ。昨日の夜にネットに書き込みがあって。画像も上げられちゃっててさ。その依姫様と浦島の」
「ネット?」
「あ、そうか。首輪ちゃんは知らないか。その耳、私らのと同期しないんだもんね」
先輩兎は言って、そのネットとやらに対する説明を始めたが、聞いてみると、何のことはない、玉兎たちの使う通信網のことだった。ただし、鈴仙たちの使っているものとは違い、娯楽性と閉鎖性を高くした、一種の匿名で行う遊び場と言うことだった。
「タマチャンて言うんだけど。あ、玉兎チャンネルの略ね、コレ。あ。せっかくだし首輪ちゃんにも見せてあげようか。それ、私らのと構造は同じなんだよね? じゃ、こうして――」
先輩兎は言うと、鈴仙のウサミミをつまんで、自分のものと合わせた。そのまま目を閉じて「えーと、昨日の……」と言いつつ、なにかを探る顔をした。
(おっ)
すると、鈴仙の網膜の中に、文書情報と、なにか特殊構成された画像情報が一緒くたになって流れ込んできた。「ようこそタマチャンへ!」と、いかにもポップでキュートな感じのタイトルが、アニメーションとともに表示され、きらきらとした効果音とともに、いくつかの項目が表示された。
並んだ項目は、どうやら同じく表示されたカーソルで選択できるようになっているらしく、操作の方は先輩兎がしているようだった。選択された項目の中に、「月兎の裏」というタイトルの項があり、横の()に1000という数字が入っているが、それを開くと、なにやら一定の法則に従っているらしい文字列が表示され、大量の文字があっという間に、鈴仙の目をくらくらさせた。
「えーとね。ここの――。あ、これこれ。このアドレスの――」
と、先輩兎は一人で勧めていくが、鈴仙としては、それ以外の文字列に関する解説が欲しいところだった。
「えーと。だからね。ここが日付で。ここがコテ――あ。まあ名前欄? 何も記入しないと、「薬を撒く程度の月兎」とか、こういうのが出るの」
先輩兎は、丁寧に説明してくれ、鈴仙にも何となく構造が分かってきた。つまり、このコテとやらの下に表示されているのが、やりとりされたメッセージの記録ということらしい。
それらを読み解くところによると、話はこうだ。昨日の夜、ここに投稿されたメッセージの中に、アドレス(画像などの場所を示す文字列らしい)を貼り付けて、「すごいのみつけた(笑)!」などと、あおり文句を並べているのがあり、そのアドレスを開くと、出てくるのが、なんと、依姫の部屋から出てくる浦島の姿であった。そのかたわらには依姫の姿もあり、これが、よりにもよって、下着姿であり、下ろした髪が肩に垂れ、いかにも、その、そういうものの事後といった、激しく生々しい様子が、やや露出の悪さを主張して、映し出されていた。
やや合成っぽい感はあるものの、どっちみち、その下へ続く書き込みは、これを信用する方向で動いており、「さらなる証拠UPよろしく!」「嘘! 信じらんない!」「コラだコラだコラだコラだコラだ」「ちょっとやばくない、これ?」「どうせ合成でしょ(笑)? やめてよね心臓に悪い」「兎の心臓だけにね」「〈審議中〉」「角度が嘘くさい。この角度から撮って依姫様が気づかないはずないじゃん? バレバレの工作画像上げないでくださいますか〈怒〉」「まあ落ち着けよ」「薬撒くかい?」「もちつけよ」「モチ食う?」「いや、やっぱ男といると油断するのよ。依姫様も女だし。生肩可愛いむしゃぶりつきたい」「はいはいレズレズ」「レズは隔離スレ帰れよ」などと、延々と、短い時間に、異様なほどの書き込みが続いている。何の証拠にもなりはしないようだが、元の書き込みを見やると、コテに【Rhapsody Ice】と書かれてあり、もしかして特定はできるのか、と先輩兎に聞いてみると、「いやー。無理無理。というか、それだと何のための匿名ってことになっちゃうでしょ? まあ、こういうのはアレ、結構ありがちだから」などと答えが返ってきた。
「で、実際どうなの? いや、ほら、下着とか洗うわけじゃん?」
先輩兎はわくわくと瞳を光らせて聞いてくるが、鈴仙には答えようがあるはずもない。というか、こちらが聞きたいくらいではある。
(な、何で……?)
呆然(ぼうぜん)とつぶやいて、どこか、遠くを眺めやる。私は一言も話していないのに。
なぜだ?
(なぜ……)
夜半近く。
依姫の部屋。
鈴仙は、疑問に頭をさいなまれたまま、ふらふらと訓練から帰り着き、またふらふらとしたまま、仕事についた。もちろん、当然のように失敗を重ねたが、特に指摘もされていないので、そんなまま、依姫の部屋へと入っていった。
よほど様子がおかしかったのだろう。声をかけるのもためらわれたようだ。
「ねえ」
依姫にいわれ、「は、はひ?」と、鈴仙は顔を上げた。依姫は、その妙な様子には気づいたようだが、表面上では何も気づかない様子でこちらを見た。
「……。もしかして、疲れているかしら?」
ちらりと見てから、やや探るように言ってくる。
「あ、あ、い、いえ」
「……、ふむ。ならいいのだけど。少したるんだ様子をしているからね」
依姫は、なにやららしいことを言いつつ、心配げにした目を引っ込めた。鈴仙は、差し向かいで座りつつも、なにか気が気でない様子で、妙な想像を働かせつつ、依姫を気にしていた。
いつも通り、身の回りの用でやってきたのだが、美味しいお茶が入っているから、飲んでいってちょうだい、と言われ、ごちそうになっているところである。お茶は確かに美味しかったのだが、正直、差し向かいで話すのは勘弁願いたかった。
今日の玉兎たちの、なにかそわそわとした様子は、依姫も気づいていただろうし、妙には思っているはずだ。その中でもある程度親しい自分を捕まえて、玉兎たちの様子を聞こうとするのは、当たり前のことだろう。
案外、そういう意図はなく、鈴仙をねぎらっただけなのかもしれないが。
「……。ねえ、ところで今日の玉兎たちの様子なんだけど、妙に浮ついたところがなかった?」
「え? あ。そそそうでしたか?」
鈴仙は動揺して、椀を不自然に鳴らしたが、依姫は気にしないそぶりで見た。やはり気にしているようだ。
「あなたもそうだけれど、どうも、訓練中に身が入っていないというか、そんな様子が見受けられたわ。なんだか内緒話も多いようだし、まるで、なにか気になることでもあったようよ。それも、私や姉様あたりに関連した話かしらね。私には、心当たりはあるなくもないけれど」
依姫は言って、また椀に口をつけつつ、鈴仙をちらりと見た。何だろうか、もしかして疑われているのだろうか。
「いえ、あなたを疑っているわけではないわ。ただ気になっただけよ。たぶん他のことだとは思うけれどああいうのがあまり長く続くと、あの子たちのやる気に影響するからね。まあ、玉兎というのも、わりと噂好きで嘘つきなところのあるものだしね。彼女らに聞いたところで。あんまりまともな答えは期待できないし……」
独り言のようにいって、宅の上に目を落とす。鈴仙はそわそわしつつ、目を泳がせた。
なるほど。どうやら、自分がそれを期待されているらしい。
(どうしようか。正直に言おうか? いや、それだと私が疑われるんじゃないの? ああ、でも、黙ってるのもなんか申し訳が――)
鈴仙は、義理と保身の板挟みになり、懊悩した。そのとき、部屋のドアがノックされ、「失礼いたします、依姫様」と、永琳の声が聞こえた。
「? 永琳様?」
依姫が答えると、部屋のドアが開いて、師が入ってきた。後ろ手にドアを閉めて、鈴仙の姿をちらりと見やる。
「ああ、ご休憩中でしたか。もうしわけございません」
「いえ、どうかなさいましたか?」
依姫が言うと、師は笑ってうなずいた。片手に持った書簡を開き、依姫の前に下げてみせる。
「内庁から、依姫様に査問の要請が来ています」
「……。なんですって?」
依姫が言うと、師は淡泊な顔で繰り返した。
「内庁が依姫様に査問の要請を出しました。応じますね?」
師はどこか、気楽そうに言った。
翌日。
要請に応じた依姫が内庁へ出かけていった。帰りは翌日の朝だという。
鈴仙は、また依姫の部屋の掃除などを済ませてからは、やることもなく手持ちぶさたをしていた。干し終えた召し物の類を抱えて廊下を歩きつつ、物思いする。
(どうなってるのかしら。結局あのあとは師匠もどっか行っちゃって会えていないし、ていうかこの大事なときにどこに行ったのよ? てゐのやつはいないし。何がどうなっているのかさっぱりだわ。あーもう、そわそわする)
依姫の査問。おそらく原因はきっとあのことに違いない。
いったい、師はなんのつもりなのだろうか。さっぱりわからない。
(でも師匠のことだから放っておいても大丈夫というか私ごときがどたばたすると、逆にこじれそうと言うかそんなよね? 知らないけどきっとそう)
鈴仙は気をもみつつも、何をすることも思いつかず、廊下を歩いた。ふと、そのとき、後ろから急に体を押さえ込まれ、口をふさがれる。
(え?)
鈴仙は、ふと急に押さえ込まれてから疑問符を上げた。間が抜けているようだが、実際、まったく抵抗ができなかったのだから仕方がない。
そして、抵抗できない間に首輪がぐっと引っ張られた。すごい勢いで、まるで無理やり引きはがそうとするように。
「い、――、っ!!」
鈴仙は、押さえ込まれた口の中で叫び、びくびくびくと体を硬直させた。言いようのないほどの痛みと快感が膨張し、脳という脳の中で灼熱(しゃくねつ)のようにはじけ飛び、真っ白になる。
「……んんんんうりゅううううううううううううううっ!!!!!?????」
鈴仙は叫び、ものの数秒で意識を失った。
暗転。
(……ふふ)
くすくすとした笑い声で、意識がゆっくりと頭をもたげた。目の白い部分がまだ熱を帯び、ちかちかと瞬いているようだった。
「あ、う……?」
鈴仙は、まだちかちかとするまぶたを開き、天井を見やった。
(永、遠、亭……?)
「あら。おはよう」
ふと、誰かの声が言った。鈴仙はそちらを見やろうとして顔をしかめた。
「ああ。無理はしなくてもいいわよ。寝ていなさい。今、お茶を入れるから」
声が言った。
「あなた、廊下に倒れていたのよ? 見つけて運んできたんだけど」
鈴仙は、身を起こそうとしたが、うまく体に力が入らなかった。どうにか上体だけは起こして、頭を押さえる。
(うー?)
「無理しては駄目ですよ。今日はお仕事はないんでしょう? ここで少し休んでいきなさい」
寝台の脇に声の主が寄ってきて、鈴仙の体を寝台に寝かせた。爽やかな桃の香りがしたので、ちらりと見やると予想通り豊姫だった。
「は、はあ……」
鈴仙は豊姫に言われるままに、寝台に横になった。豊姫はその間に部屋の隅に行き、かちゃかちゃと陶器の音を鳴らした。
「それにしても大丈夫なの? 少し疲れているんじゃないかしら? 依姫は優しい子だから、あなたをこき使うなんてことはないだろうけど、少々、気詰まりなところもあるんじゃない?」
「あ、い、いえ……」
「本当、永琳様も、お付きにするんならどうして私にしてくれないのかしら。別に逃がしたり悪巧みしたりなんてないのにねえ?」
豊姫は言いつつ、ティーカップを載せた盆を持って、こちらへやってきた。寝台の脇の小さな台にカップを置く。
「はい。お茶よ。疲れと緊張をとる効能があるものだから、飲んでおきなさいな」
「あ、ありがとうございます……」
鈴仙は、何か懐かしい感じを覚えつつ、カップを手に取った。おそるおそる口をつけると、桃のような薄い香りと、ほどよい熱さの茶が、喉を流れ込んでくる。
豊姫がよく入れる、桃の茶だ。豊姫の作る菓子によく合う、ほのかな甘さの茶で、鈴仙も、依姫とともによく振る舞ってもらった覚えがある。
「ああ、よかったらこれもつまんでみてちょうだいね。お茶に合うと思うわ」
そう思っている間に豊姫が言い、小さな乾菓子を皿に乗せてきた。見た目は金平糖のような、シンプルだが見栄えのかわいらしい粒菓子である。
「どう?」
「あ。美味しいです」
「そう。よかった。砂糖菓子は最近手を出したのだけど、なかなかできばえがよくなくてね。わりと失敗してしまうのが多いのだけど」
豊姫は柔らかく笑って、自分の分のカップに口をつけ、菓子を一つつまんだ。鈴仙は、その姿を見るともなく見つつ、茶をすすった。
「ところで、聞きたいのだけど」
「あ、はい?」
「あなた、依姫のことを内庁に密告した?」
「……。え?」
「今日、依姫が査問に行っているのは、おそらくあの者との同衾が原因だと思うわ。誰かが内庁に告げ口したのね。もっとも、なぜそれが信用されたのかは分からないけれど」
豊姫は言って、こちらを見た。鈴仙はぎくりとして息を詰まらせた。
「そ――」
「うふふ。冗談よ。あなたの言で内庁が信用するわけがないじゃない。大体先方では私たちの立場を重視しているし、めったなことでは失脚させたりはしないわよ。月の者は穢れを嫌うから、制裁なんて事は、起こらない。私たちはそういうものから脱却し、穢れから脱却した精神性を勝ち得たのだもの。そのようなものを抱えていると思うなんてこと自体が、馬鹿馬鹿しいことだと思わない? もっとも地上の多くの者が、あるいは、この世界の観測者たちには、そんなこと、どうだっていいことなのだけどね。ただ私たちはそれを見て、書いた者の神経をはかりかねて、反応に困った顔でもしていればいい。彼らは反応さえされれば、それでいいんだもの。「現実」がどうであれ、しょせんは「私たち」は現実に存在する者ではないのだから、真剣になる方が、むしろどうかしているのよ。ねえ?」
豊姫は笑って、鈴仙の顔を見た。
「あなたもそのうちの一人。上げへつらって笑う人たちは、主義主張を建前にして、ただ上げへつらって笑うだけ。こんな可能性はないだなんてこと、誰が決めつけられるでもないことを決めつける人たちがそうして笑いの的になるのも当然なのよ。どちらも愚かで無知で滑稽だからね。そう、そんなことはどこにだってある。でも今はそんなことはどうだっていい。重要じゃない」
「……あ、あの……?」
鈴仙は言いかけて、ぎくりとして息を詰まらせた。豊姫は笑ったまま、のぞき込んでいる。
笑っていない目で。こちらの目を。
鈴仙は金縛りにあったように、その目をのぞき込み、そして感じ取った。わき上がるような何か。
殺意。
「本当、まったく、依姫も兎さんよね。つんけんしておいて、寂しがり屋なんだから。まあ、もうすぐあれとはお別れなのだし、仕方がないから、許してあげようかな」
「は、はあ……」
「これは依姫には内緒よ? 直前に教えて、びっくりさせたいからね」
「……?」
「あの浦島子という人には、死んでもらうことにしたの。こちらのことを言いふらされても困るからね」
「つ、月では、殺生は、穢れだと……?」
「あら、地上ではこのように教えているそうよ。獣は殺してはいけないけれど、穢れたものである豚や牛は殺して食べてもいいんですって」
(……違う?)
鈴仙は思った。これは、豊姫なのか?
「な、なぜ、そ、そんなことを、依姫様には伏せているんです……? 一番に伺うべきでは……」
「依姫?」
豊姫は言って、くすりと扇子の影で笑った。
「ああ、そうねえ。依の意見も聞かなければならなかったわねえ。そういえば。でも、どうせ話せば賛同してくれただろうから大丈夫でしょう。あの人はとっても思いやりが強いんだもの」
豊姫は笑って言う。鈴仙は、寒気を感じて体を動かした。
思った以上に大きく動いた腕が、寝台をそれ、近くの台に当たる。体が動く。
鈴仙は起き上がった。
「あ、ありがとうございました。し、失礼します」
言いつつ、部屋の入り口へと逃げだす。豊姫は笑ってそれを見送っていた。
鈴仙は、もう一度その目を確かめることができなかった。赤かった。
一瞬、見えた目が。月の海の光を写したように。
翌朝。
依姫が帰ってきたようだ。鈴仙は、手伝いに入った自室でその姿を見た。
「ああ、お帰りなさいませ、姫様……」
鈴仙は言った。依姫は、なぜかその顔をじろりと見やった。
(うん?)
そのまま、しばし無言で見つめられ、鈴仙はひるんだ声を上げた。何だろう。
「……。あの、なにか?」
「……」
依姫は無言で返したが、しばしして、けげんそうに眉をひそめた。小さく首を振って、目をそらす。
「いや、あなたじゃない、か……? しかし、そうじゃないと他に考えられないし……」
依姫は、ぶつぶつとつぶやいた。鈴仙は居心地の悪さを感じつつ、目を泳がせた。
「ねえ、実はね。今日の査問で少しおかしな事を聞かれたのよ」
「は……? はい……」
「なんでも、私が数日前、浦島と同衾していたと言うが、事実か否かとね。何でも、内庁にそのような密告があったらしくて、内庁側もそれを信用に足るものと判断したらしいわ」
依姫は、考えるような顔のまま言った。鈴仙は、何を言われているのか一瞬遅れて理解した。
「そ、そんな! 私!」
「誰にも言わなかったのね」
「い、言ってません!言ってませんよ!誰にも!」
鈴仙は必死で言った。しかし、依姫は、それをあまり信じていない顔つきで見た。
「でも、それだとあなた以外に知っている人がいなくなるわね。すると密告したのはやっぱりあなたということになるのかしら。もちろん、その場合、内庁が信用するのはおかしいから、あなたはやはりどこかから送り込まれた間者ということになりますね。記憶がないというのは巧妙な演技で、貶めるための材料を探っていた」
「違います! 違いますって! なんですかそれ! おかしいですよ、依姫さま!」
「言っておきますが、私は永琳様を尊敬はしていますが、信用はしていません。あの人は、冷酷な人だし、危険で恐ろしい人だ。今日はまだ親しげにしていて大切にさえしているようでも、明日それが必要であればもう捨てる準備をしている。あれだけの力をもちながら、あの人には思想や行動の規範というものがないのです。私はあの人が好きですが、この世の誰よりも恐ろしい」
「あ、それはわかりますけど、あ、い、いえ――」
鈴仙はちょっと気まずそうに言いなおしたが、依姫はどっちみち聞いていないようだ。
「あの人ならあなたが意識しない間に、あなたを送り込めるのかもしれない。あなたはおそらく、本当に何も知らないのだわ」
「……」
鈴仙は困惑した面持ちで黙り込んだ。ふと、急に何かが思い浮かびそうな錯覚にとらわれ、かるいめまいを感じる。
「……ねえ、そういえば、あなたね。なぜ、あのときあそこにいたの?あんな時間に、身の回りの世話の者なんかは来ないはずなんだけど。何の用事があったのかしら」
「え? ですから、お召し物を――」
あれ? と、言いかけて鈴仙はふと思った。服?何を言っているのだろう。
自分で自分に問い直す。あのとき自分は手ぶらだったではないか。
「……あなた……」
依姫が言った。その表情が険しくなっていた。
剣のんな気配がふくれあがり、剣の鞘が鳴った。見やるといつの間にか、鯉口に指がかけられている。
鈴仙はいすくんだ。
「……正直に答えなさい。いったい、誰に頼まれたの?」
「ち、違――」
「言いなさい! 誰に頼まれた! 姉様か? それとも――」
「ひっ――」
鈴仙は、思わず悲鳴のような息を漏らした。依姫のけんまくに、ではない。
一瞬見えた依姫の目の色を見て、愕然とする。赤い。
月の狂気に当てられた者、特有の、あの目の色。そのまま、何も言えずにいると、依姫は、不意に表情を険しくした。
目の前の鈴仙に対してではなく、何かに気づいたように。
「まさか……浦島? 姉様!」
依姫は言うと不意に、鈴仙の体を押しのけた。鈴仙は思わず体を引かせた。
「わっ」
鈴仙が言う横で、依姫はそのまま部屋の扉を開いた。が、外へ出たところで、不意に立ち止まる。
「……。何ですか?」
依姫が尋ねる口調で言った。鈴仙は、目を動かして、依姫の肩越しに扉の外を見やった。
見やると、部屋のすぐ外には衛兵が二人おり、依姫の前に立ちふさがっている。
「依姫様。申し訳ありませんが、お部屋にお戻りください」
衛兵が言った。依姫はかすかに眉をひそめた。
「どのような理由ででしょう」
「依姫様には、内庁より、今後三週間の御室謹慎の要請が出ております。速やかにお部屋の中へお戻りください」
「……。そのようなことは初耳ですが」
「達しが来たのはつい先ほどです。お耳にお入れするのが遅くなり申し訳ありませんが、われわれは正式に仰せつかってここにいます。どうかすぐにお部屋の中へお戻りください」
「申し訳ありませんが聞けません。そこを退いてください。姉様に危急の用があります」
「なりません。自室にお戻りください」
衛兵が言うと、依姫は表情を消した。二人を無視して、無言のまま間を通ろうとする。
「依姫様!」
衛兵が言い、構わずに行こうとした依姫の肩をつかんだ。依姫はその手を取ると、衛兵の足を払い、打ち倒した。
もう一人の衛兵が、顔を険しくして、刀に手をかける。依姫は起き上がるなり、衛兵の腰から奪った刀を抜いて構えた。
「依姫様!! ご自重なさいませ!」
衛兵が言い、刀を抜いたが、それより早く下から走った依姫の剣に斬り上げられ、勢いよく首を飛ばした。重たいものが床を打つ音を後にして、依姫は髪を翻して歩き出した。
呆然として依姫の蛮行を眺めていた鈴仙は、やがてはっとして、その場からまろびでるように走り出した。
「よ、依姫様! お待ちください! うおっ」
鈴仙は、すぐ足元に転がった首に悲鳴を上げつつ、それでもなんとか部屋の外を見た。
(い、行かなきゃ――!)
自分を奮い立たせて、入り口から飛び出す。が、そこでがっと足をかけられ、いきなり派手にすっころんだ。
痛い、とうめく間もなく、何者かに馬乗りになられ、がしりと手首を押さえられる。ものすごい力だ。
(な、なに!?)
鈴仙は、あわてて上を見て、自分にのっている者の顔を見た。てゐ。
「て、てゐ!! あなた、なにするのよ!?」
「鈴仙ちゃんみーっけ」
上にいたてゐは言うと、かちり、と何かのスイッチを入れた。キイイイイン、と何かが高速で回転する音が聞こえてくる。
鈴仙はその音の元をたどり、てゐの手元を見た。どうやら工作用に使う小型のドリルである。
「これ、なんだと思う?」
てゐは言って、右手の器具をみせびらかしてきた。
「いやあ、鈴仙に一番に試したくてさあ。ごめんごめん、ほら、あれ以来なんかあなたいたぶる癖になっちゃってねえ」
てゐは言うと、鈴仙の髪をつかんで頭を押さえ、片手に持った器具を持ち上げた。それが押さえつけられた鈴仙のまなこの当たりに突きつけられ、今しも押しつけられようとしている。
(なっ)
鈴仙は、てゐが何をしようとしているのか一瞬でさとって、血の気を引かせててゐの腕をつかみ、押し戻そうとした。だが、すごい力だ。
体格が上回ってるのもあるだろうが、とても押さえきれない。
「ま、まてっ!! 待って! てゐ! 何!? 何するのよ!?」
「ん? ん? 何って何? いや、もちろん鈴仙ちゃんを穴だらけにしようかなって。ほら、これいい音でしょ? ズブブっといくよー。一瞬で行くよー」
「ちょっと! やめてよ、てゐ! やめっやっやっ」
(うっうそっやばっやばっ)
鈴仙は、心の中でさえ悲鳴を上げた。押さえた腕が押される力に負けて震え、徐々に器具の先端が押し込まれていく。
(ちょっちょっとっ……やだっ……!)
「てゐ!! やめて! やめて! やめ、やめぇっ――やめろって言ってんでしょうが!!」
「おぐっ」
てゐは、いきなり鈴仙の膝に腹部を蹴り上げられて、ひるんだようだった。その隙に、てゐの肘の内側を狙って、両手を組み合わせた肘打ちを放つ。
てゐの腕がしびれて力がゆるんだところで、さらに反対に腕を振って返し、素早くてゐの下を抜け出す。さらに平衡を失ったてゐの肘の外側を打ち、前のめりにくずれ込んだところで、再度、最短の動きで肘を振り上げると、体重を乗せつつ、延髄をめがけて力任せに落とした。
ごぐ、とものすごく嫌な手応えがして、てゐは、びくりとふるえると、うめき声一つあげずに動かなくなった。ぐったりと体から力が抜けている。
どうやら、見事に急所に入ったようだ。鈴仙は、今更はっとしつつ、おそるおそるてゐの様子を見た。
(……、し、死んでないわよね?)
内心で思いつつ、てゐの顔をのぞきこむ。さすがに呼吸があるかどうかまでは確かめる余裕がなかったが、完全に白目をむいて、舌を少し出しているだけだった。
(大丈夫大丈夫)
たぶん、と付け加えて、鈴仙はとりあえず立ち上がった。まあ、間違いなく生きてはいるだろう、妖怪だし。
「ぎゃあああああああっ――!」
ふと、そのとき、すぐ近くの角あたりから、悲鳴が上がった。鈴仙は思わずそちらを見て、何かが倒れる物音と、短い悲鳴と、なにか幼い感じの笑い声を聞いた。
そのなにかが暴れるような音はしばらく続いていたが、唐突に止んだ。一瞬、しんとなったほうから「ありぇー」という舌っ足らずな声が聞こえ、やがて、ぺたぺた、ずりずりり、という、何かを引きずっている音が聞こえた。
やがて、角を曲がって、やたらちみっちゃい人影が現れた。輝夜だ。
なぜこんなところに居るのか知らないが、その姿を見て、鈴仙ははじめ、輝夜がどこかにけがでもしているのかと思って、一瞬あわてた。だが、違っていた。
どうやら、全身についているのは返り血のようだ。信じられないほどおびただしい量だが。
まるでやんちゃないいとこの姫が、どろんこ遊びをして、どろどろになったかのように、顔やら髪やら鼻の頭やらに、真っ赤な血のかすがこびりついている。右手に何かを引きずっていた。
指の間からのぞいているものを見ると、髪の毛のようだ。ふと、こちらに気づいた輝夜が、ぱあーと顔を笑わせる。
「あー、うしゃしゃん!」
輝夜は叫ぶと、手に持った誰かの頭を放り捨てて、こちらに走り寄ってきた。そうして、もう片方の手に持った武骨に光る、分厚くどでかい頭部のついた何かを振りかざした。
ごとん! ごろごろごろと水っぽい音を立てて、放られた首が転がっていく。そちらを見ると、兎の耳をなくした玉兎の一匹の顔が、恐怖に目を見開いたままの顔で、うつろにこちらを見ているようだった。
「うしゃしゃ~ん。あしょぼ~」
「っぎゃああああああああああああ!!」
「うしゃしゃあんあしょぼー」
輝夜はにぱーと笑って言いつつ、手に持った斧を振りかざしてこちらへ走り寄ってきた。斧、といっても、かなりでかい斧である。
少なくとも鈴仙を一目でびびらせ逃げ出させるほどにはごつく、とても幼女の腕には持てそうにない。しかし刃にべっとりと血と髪の毛と肉っぽいものがついているし、よく見れば輝夜の服は血まみれだし、その血まみれの片方の手には何か赤黒い長いものがどっさりとにぎられている。
それはまるで根本から切り落とした兎の耳のようだった。それはそのものだったが、鈴仙の脳は受け付けるのを拒否した。
「うしゃしゃ~んの耳~目ぇ~はにゃ~ちょうだ~い」
「ぎゃあああああああああああっ!!」
「にゃはははははっ」
「やめっちょっ姫っやめえっ!!」
鈴仙は言いつつ、必死で逃げ出した。輝夜はその短い足では追って来られないはずなのだが、なぜか軽々と追いついてきた。
後ろで斧を振るってくる。
「うしゃしゃ~んまちぇ~」
「ぎゃああああああっ!!」
「うしゃしゃ~んまちぇ~」
「ぎゃあああああああああああああっ!!」
「まちぇ~、うしゃしゃ~ん」
「ぎゃあああああああああああっ!! うおっ! はっ! うっうおおおおおおおおお!?」
鈴仙はなすすべなく逃げまどった。道も分からず足元も見ずに大急ぎで角を曲がる。
「うおっ!? はぐっ」
そして、角を曲がったとたん何かにけつまずいて、そのまま派手に転倒した。
「いったぁ……うおおおッ!?」
すかさず後ろを見やると、首と腕のないブレザー姿の人が倒れている。いや、もちろん死んでいた。
だが、あまりのありさまに、一瞬よくできた人形かと思った。まるで誰かにお人形遊びでもされたかのように、その腹がかっさばかれていて、そればかりか、仰向けになった腹からわざわざ引きずり出された形で辺りに中身がぶちまけられていた。
「ひっ――」
「うしゃしゃ~ん。ちゅかみゃえたぁ~」
「ひっ!」
(ぎゃーっ!! ぎゃーっ!!)
鈴仙は悲鳴を上げたが、斧の刃は無情にも振りかぶられた。そのまま、一息にひゅっ、と振り下ろされ、るかに見えたが、そこで刃は止まっていた。というか、すでにそこになかった。
「いけませんわ、姫様。そのような野蛮なもの、持ってはいけません」
輝夜の後ろで、いつのまにか現れた永琳が言った。片手には、血まみれの斧の刃を持っており、それが、見る間にふっと消え去った。
「ありえ~?」
輝夜は言って、自分の手と後ろの永琳とを交互に見た。そして、とたんにむくれた顔をすると、永琳に詰め寄った。
「んうっ。えーりんっ。おにょおっ! きゃえしちぇっ!」
輝夜は怒った様子でいったが、永琳はそれをたしなめるようにほほ笑んで、頭をなでた。
「はいはい。申し訳ありません。姫。後でお相手をいたしますから。先にお戻りくださいね」
永琳は言うと、指を鳴らした。すると、一瞬でそこにいた輝夜の姿が消えた。
「さ。行くわよ」
「し、しじょう~! こわがっだですぅ~!」
「ああもう面倒くさいなあ。えい。びしっ」
「いたっ! んはっ!? あれっ!? ここは!?」
鈴仙が正気を取り戻して騒ぐのに、永琳はムチをしまった。
「おはよう鈴仙ちゃん。状況が分からないならもう一発いっておく?」
「あ、いえ。わかりました。すみません」
零戦は行って、脇の死体から目をそらしつつ、師を見た。
「し、師匠、姫は……?」
「この世界からはいったん消したわ。まだ目覚めはしないでしょうけど。こっちに主導権を持ってくるのにずいぶん時間がかかってしまったけど、ようやくここから反撃できるわ。さ、急ぐわよ」
永琳は言って歩き出した。鈴仙もそれについて、廊下を歩き出した。
「いっ――」
歩き出してすぐ、二つほど角を曲がったところで、鈴仙は思わずうめいた。
(なに、なにこれ……!)
鈴仙は激しく混乱してうめいた。廊下には様々な衛兵の体が死屍累々と横たわっていた。
炭化した者や首をはねられている者、また一体何にやられたのか分からない、頭頂から股間まで、まっぷたつにされている者、内腑がはぜた者。これを依姫が一人でやったというのだろうか。
二重の意味で信じられない。永琳は、その中を気にせずに進んでいく。
鈴仙も従うしかない。
(月人同士で殺しあいだなんて――こんなの考えられない!)
死体、死体、死体。本物の死体!
(嫌ァ――)
頭がぐらぐらして、天地が失われかけた。こらえがたい吐き気がした。
実際に戻しもした。膝をつき、突っ伏して、喉から沸いてきたものを、なすすべなく床にぶちまける。
こんなの、ひどすぎる!
「鈴仙! 何してるの! 立ちなさい! 置いていくわよ」
「嫌です! 嫌です! 私、戦いたくない! 月のためになんか戦いたくない! 怖いのは嫌! 死にたくないんです! 嫌!! 嫌ァっ!!」
「よし、わかったわ。帰ったらスペシャルミックスヤゴコロジュース入り☆マルチ拷問お仕置きコースね」
「嫌、嫌です、こんなの見たくないです! 見たくないんです! お仕置きするなら勝手にやってください! 嫌です、こんなところにいるのはもう嫌ぁっ!! おう――」
鈴仙は言いながら、残りのもついでにはき出した。服が汚物でびちゃびちゃと汚れ、喉が痛み、涙が目からぼろぼろとこぼれた。
「……。まあ、そういえば無理に来る必要はないのだけど。置いてこうかしら」
永琳はぶつぶつ言って、少し考えるような沈黙をした。
「とにかく、ほら、立って。落ち着けるところに移動しましょう」
永琳は、そう促して、鈴仙を立たせると、背を押して歩き、死体の姿の見えないところを探して、近くの階段の踊り場までやってきた。
「ちょっと座っていなさい。水を持ってくるから」
「あ、い、いえ……自分で……」
「おとなしくしていなさい。そんな状態で動いたら倒れるわよ」
永琳は言って、立とうとする鈴仙をおとなしくさせ、その場を離れた。ほどなくして水の入った器を持ってきて、鈴仙が受け取ろうとするのを制して、自分の手で飲ませる。
「口元をふいて」
永琳は、白い布を差し出して言った。鈴仙は布を受け取って、口元と手をぬぐった。汚れたブレザーやスカートも、申しわけていどにぬぐう。
「落ち着いた?」
「はい、あの、すみません。本当……」
鈴仙が縮こまって言うと、永琳は少し表情を微妙な風に和らげた。
「……まあ、あれね。うん。気にしなくていいわよ。まあ、おそらくあれは、全部本物の死体ではないから」
「え?」
「さっき見たら、残らず砂みたいなものになっていたわ。どうやら、だんだんとこの世界もぼろがはがれてきたわね」
永琳は言った。鈴仙はまだ目をぱちくりとさせて聞いた。
「あれは本物の人間じゃないってことですか?」
「ええ。やはりこれは、何者かが作り出した幻覚ね。その幻覚は、今明らかに何らかの作為によって狂いはじめている。それに乗じて一体何を狙っているのか、あるいは狙おうとしているのか……」
「あの依姫様たちも……」
「さて、それはまだ分からないわ。あるいは……そう。私たち自身もむしろ幻覚という可能性はあるわね。思い出して、私たちはとても不確かな経緯でここに来た。いえ、「来た」ことすらも本当は認識していない。だから自身にそっくりの幻覚であるのかもしれない。私たちではないのに、そう思いこんでいるだけかもしれない――」
「そんな――」
鈴仙は言ったが、永琳はちょっと人が悪そうに笑った。
「可能性よ。そう論じはじめたらキリがないということ。今は目の前のことを見、判断して、そして片付けなくてはならない。さあ、行くわよ鈴仙」
永琳は立ち上がった。鈴仙はあわてて立ち上がり、それに続いた。
さっきの廊下を通り抜けようとすると、本当に死体は一つも残っていなかった。
しばし。
宮殿内。
客室。
浦島の元へたどり着くと、今まさに修羅場といった様子が展開していた。依姫と豊姫たちがにらみ合っている。
浦島は依姫の後ろにいて、数人の衛兵に囲まれている。その表情からは、今しもどうにかされる寸前であったことが伺える。
浦島のそばに斬り伏せられた者たちが転がっているのを見て、鈴仙は眉をひそめた。状況から見て、やったのは依姫だろう。
周りの者を皆殺しにして浦島を救おうとした寸前、後ろから来た豊姫たちにそれを阻まれた、といった感じだが、時間的に見ても、それは不自然だった。鈴仙たちがぐずぐずしている間に、もっと状況は進んでいてもいいはずだ。
そうして見ていると、にらみ合っている二人は、まるで二人が来るのを見計らったように動き出した。そう、今までは動きを止めていた。
「お姉様。これはどういうことです」
「どうって? ああ、その前にお帰りなさい。査問はどうだったかしら?」
「そのようなことはどうでもいいわ。これは何なの」
「そうねえ。まあ、どうでもいいことよね」
「……。お姉様。私と浦島が同衾していたのを内庁に密告したのは、あなたですか」
「何のこと?」
「もう一度聞きますよ。これは何です」
「あなたが何を言っているのかさっぱりだけど、私としては当然の処置かと思うわ。永琳様も同意見よ?」
「その永琳様はどちらですか」
「来ていないわよ」
豊姫が言うのに、依姫はしばし言葉を止めた。短く黙考して眉をひそめる。
「……あの子は関係ない。あの子はあまりに無自覚すぎる。それくらいは私にも分かる。……あの子を見つけたとき、そばにいたのは永琳様、――でも、そういうことなの?」
依姫は言って、首を振った。何かを否定して、肯定したようなそぶりで豊姫を見る。
「そう、そんなことはどうでもいい。どちらにせよ、仕組んだのはあなただわ、お姉様」
「ふん?」
「……そんなにしてまで、私と浦島の間を裂きたいのですか」
依姫が言うと、豊姫はくすりと笑った。
「あらら。当然じゃない。依ったら。そんな地上の男にあなたを攫われるだなんて吐き気がしますわ。地上の生き物なんて穢れそのもの。そんなものと交わりまぐわうのにうつつを抜かすだなんて、どうかしているのはあなたのほうなんじゃない? もう一度自分の立場というものをよく考えていらしたらどうかしら」
「浦島を殺す必要はありません。彼は――そもそも、いきなり極論に走るだなんてずいぶん安直な話じゃないですか。姉様は月の者の品位というものをお忘れになったのですか」
「品位ね。むじなのごとくぬるぬる交わっておいてよくその口が言えますこと」
「姉様は殿方を知りませんものね」
「あらら。開き直りは見苦しいですわよ、依?」
「ご自由に。ああいったことに汚らわしいことや浅ましいことなど何一つありません。ただの自然な望みですよ」
「あらまあ。依ったら、ちょっと首をつっこんだだけのくせに、大げさね。突っ走りやすいのはあなたの悪い癖ですわ」
「そんなことで姉様と言い合いなどしたくないわ。とにかくもう一度ご再考を。浦島はこのままでは殺させませんよ。あなたのわがままにつきあうのはうんざりだわ、お姉様」
「あら、じゃあどうするの? 二人で地上にでも逃げる? その方をかばうんならあなたの居場所はここにはないのよ?」
「話をそらさないでくださいまし。この凶行があなたの独断であることは明白です。ここでしくじれば、立場が苦しいのはあなたですよ。お姉様」
「しかたないなあ。じゃあやっぱりあなたを殺しちゃおうかな」
「やってみなさい!」
依姫は言うなり、刀を振るった。それとともに空間に割れ目が走り、一瞬で豊姫へと駆け抜けた。
豊姫の周りにいた衛兵たちが幾人か、声を上げるまもなく両断され、首や腕をとばしたが、肝心の豊姫はこれをさけていた。お返しとばかりに腕をかざす。
どん! と依姫の片腕が吹き飛んで、後ろへ転がった。同時にその後ろの空間がずらりとうがたれ、すっぽりと消え去った後に、奇麗な断面をさらした。
しかしそのときには、依姫は豊姫の懐に入り、刀を振り上げていた。豊姫の首から頭が飛び、鮮やかな軌跡を描いて、床に転がりはねた。
豊姫の体は、一瞬びくんとけいれんして動きを止めたが、その直後には、なんと片腕を上げた。その手のひらの先にあった依姫の腹が、突如破裂したように裂け飛び、おびただしい量の血が、無造作に飛び散った。
依姫は、さすがに二、三歩たたらを踏んだが、そのまま豊姫をにらんで、刀を構えた。
「はいはい」
そこへ、ようやく師が割って入った。呆然と見ていた鈴仙の横から歩み出る。
「まあまあ姫様方。そうたかぶるものではございませんわ。どうぞ鞘をお納めになってくださいな」
「永琳様。口を差し挟まないでいただけます?」
床に落ちた豊姫の首が言う。こちらを見て、表情をとげとげしくゆがめている。
「そうです。これはあなたの差し出る問題ではありません。控えていてください」
腹に開いた穴から中身をぶら下げたまま、依姫が言う。ちぎれた片腕のことも、何とも感じていないらしい。
「あらら、お二人とも? 永琳はあなた方にそのような口の利き方を教えましたかしら」
「何を偉そうに。たとえ珍重されていようが、あなたはわれわれに仕える従者の身の上でしょう。あまりたいそうな口をきかないでちょうだい」
「そうよ。ちょっとばかりちやほやされているからっていい気にならないでくれる?あなたなどしょせん、王族の敬意がなければ、何の権限もないただの月人に過ぎないのですよ。あまり過ぎた口をきかないでもらいたいわね」
「そうやっていつもいつも一人で何でも分かったような顔をして、結局何もできないんでしょう?」
「あなたごときが私たちの問題に口を挟む資格はないわ。控えなさい」
「静かに」
永琳が言うと、姉妹姫の声が止んだ。いや、声が止んだだけではなかった。
すべての動きが止まっていた。そこだけ時が止まったように。
「なに、悪夢の中で見ている狂気など、存外安っぽいものなのですよ。それを本質だのなんだのと、大げさに騒ぎ立てるのは、至極、滑稽なことなのです。それは、あくまでその人の一面か、ただのわかりやすい表層でしかない。そんなところを見るなら、誰だって多かれ少なかれ狂っているのです。気にするだけ損なのですよ」
永琳は言うと、静かにほほ笑んで目を閉じた。澄ましているような顔で、ほれぼれするほどに奇麗な礼をする。
「では、姫様方。一足お先にお帰りください。また、あとで。あるいは、いつかはるか遠くの時の中にでも、お会いいたしましょうね。それでは、こちらにご注目。今からみっつ数えますと、こちらの姉妹姫の姿がかき消えます。はい、ワン、ツウ、スリー!」
永琳が三つ手をたたいて、指を鳴らすと、姉妹姫の姿がぱっと消えた。同時に、残っていた衛兵たちが、一斉にこちらを向いて、銃口を向けてくる。
(ひっ――)
鈴仙は思わず悲鳴を上げかけたが、その間隙を縫うように、風を切って飛んだ何かが、あっという間に衛兵たちを打ち据え、その体を壁まで吹き飛ばして、持っていた銃さえ数発で粉々に砕いた。その謎の衝撃の先を見ると、永琳が、手にしたムチの柄を引き戻すところだった。
そうして、素早く脇に目を配ると、ばっと残った片手を掲げて、鋭く指を鳴らした。
それに呼応して、空間が震え、視界の先にあったものはすべて粉々になり、吹き飛んだ。その中で浦島だけが原形を保っている。永琳がそれを見て、わずかに眉をひそめるのがわかった。
「――くくっ」
浦島が言い、砂になった衛兵の脇に、杯を落とした。これも原形を保っている。
外れたのではない。
「……はっはっはっは……」
浦島は笑って立ち上がった。
「そうだよ。俺だよ。八意永琳。お久しいな。相変わらずお若く美しくていらっしゃる。あんたはまったく、年も取らずにな」
言ってどこか芝居がかったように腕を上げて、続けてくる。好ましい顔はもはやみじんもなく、醜悪な老人のような表情が、青年の顔に貼りつけられている。
「あんたの持たせてくれた玉手箱のおかげで、俺はまったくひどいざまだ。俺があの後、どうして死んだのか知っているか? あ? 分かるだろ? 分かるよな? そうだよ。これは仕返しさ」
「仕返しね」
「そうさ。お前はもちろんだが、お前だけじゃない。月の連中はどいつもこいつもみんなさ。みんな引きずり込まれればいい。この世界にな。ははは。知っていたかね? 俺は、実は、豊姫や、依姫よりも、あんたのその永遠にも思える美貌にこそ心をひかれていたのさ。まるで永ごうの時を経てもついぞ変わらぬような、その白せきのごとき美しさにね。依姫に懸想したのもそのためさ。あの姫には、どこかあんたの面影があるからな。依姫はそれに気づいていた。あのあんたへの敬意に満ちた顔の裏では、あんたに力で負け、女としても負けた嫉妬がいつも渦巻いていたのさ」
「昔のことなどどうでもいいわ。下せんな地上の男にそのように思われていたとは殺意がしそうね」
永琳は言って、いぶかしんで浦島を見た。
「では、この妙な世界を仕組んだのはあなただと?」
「そうさ。その通り。何だ? その顔は。疑っているのかな? 俺にはできないと? それともまだお前は気づいていないのか? 存外鈍いな。俺はあんたなんだぜ? そして、あんたそのものでもある。まだ気づいていないのか? ここがどこなのか。ここがなんなのか。あんたがやったことだろう? あんたの知っていたことだろう? どうして気がつかない?」
「……違うわ……」
永琳は眉をひそめて歩み寄った。目の前の浦島の顔に手をかざす。
そのときの師の顔は、なにかに気づいて困惑しているようだった。そう見えた。
何に対してか分からない。あの師が、心底から意表を突かれて、がく然とつぶやく様子を、鈴仙は初めて見た。
「あなたじゃないわね。黒幕は……本当の黒幕は……誰?」
永琳が言う。すると、手のひらをかざされた浦島子の顔が溶け、下から別な顔が現れた。白せきの美貌をとどめた、麗しい女の顔。深い青と重厚な赤で区切られた衣をまとい、豊かな女性特有のふくらみが布地を押し上げ、天の星の羅列をそのままもしたような不可思議な意匠をちりばめた裾が、柔らかなラインを描き出す。
その千年の時を経ても生み出せない唇を笑わせ、目の前の、驚がくして色を無くした女の顔を見やり、腕を上げる。
「「そう」」
女が言った。師とうり二つの顔の女が。
「「あなたが黒幕よ」」
二人が同時に言い、そして、今まで鈴仙が師匠と呼んでいた方が崩れ去った。そうして新しく現れた方の永琳だけが、そこに残る。
「そう、ついでに、さっきの続きを言いましょうか。なぜなら狂気とは、現実には存在しないもの。あるいは、表現しようとすれば消えてしまうものなのよ。悪夢やフィクションという媒体で表現され、あぶり出されるようなものは、すでにもう狂気とは呼べない。なぜなら、悪夢やフィクションといったいわゆる虚構もまた、しょせんは現実の一部であるから、そうして狂気と呼び慣わされたものはすでに狂気ではない。それは、あくまでわれわれのイメージや想像力を超えるものではない。たとえ何億年生きようとも、この器である以上、それは変わらない。狂気は、もっと身近にあり、根本的なところにあり、寄り添ってあるものであり、でも見ようとすれば、陽炎(かげろう)のように消えるでしょう。逃げ水のようにうせるでしょう。狂気とは、見ることはできず、聞くことはできず、触れることもできない。でも、確かにそこにあるもの。そういうものをこそ狂気と呼び慣わす。分かるかしら、優曇華?」
「……分かりません……」
鈴仙は呆然としつつも、ついいつもの癖で答えていた。師はちょっと笑った。
「そうね。でもそれで正解よ。分かってしまったら、それもまた狂気ではなくなる」
師は笑ったまま言った。その顔は、いつもの師の顔だった。
そう、本当にいつもの師の顔。ああ、これか、と鈴仙はぼんやりと思った。
(これだったのか……)
違和感の正体は。師に感じていたいいようのない違和感の正体は。
あれは、ただの投影された師の一面のようなものだった。水面に映した月のようなものだった。
そっくりだが、どこかぼやけてゆがんでいた。目の前の師の笑顔は、それらを吹き飛ばしてぴたりと当てはまっていた。
「あなたは――あなたが、師匠、なんですか」
「おや。あなたにしてはなかなかいい質問ね。じゃあ、うすうすは気づいていたのね。そう。私が八意永琳。あなたのお師匠様よ。優曇華」
「さっきまでいたのは――」
「あれはただの影みたいなものね。」
あれも私ではあるのだけど、いろいろ主観と客観が入り交じって不明瞭になっていたわね。そう、本当の私はこっち。さっきまでは浦島子と呼ばれていたのがそうとも呼べるかしらね?
「ここは――ここは、別世界や幻なんかではないんですね? ここは――あなた、一人の意識の中なんですね?」
「ええ。それも正解。まあ、冷静になればあなたにはわかるか」
師は、微笑したまま言った。
「アレは、自分で自分だと思いこんでいたでしょうけどね。自分が自分の一部であるとは気づいていなかった。長く生きすぎた私の中は、ああいういくつもの私が存在している。ここにいるものは、どれもすべて私なのよ。綿月姉妹、姫、あなた、てゐ、浦島子、それだけではないすべて。ここにいる人すべてが、私の中で、独立した意識として常に存在している」
「あなたは、なんなんです? 人間なんですか?」
「ええ、人間よ。ただ少し極端なだけ。自分の中に他者の一面を持つことは、誰にだってある事よ。私は少しばかり長く生きすぎたので、このような形で現れているんだけどね」
「これはなんなんです」
「そうね。まあ、一言で言えば意識の葛藤かしらね。私も一枚岩ではないから、どれだけそれが総意だったとしても、必ず離反する者は出てくるわ。それは、私自身の意志では消せない。あれも私で、私自身を消し飛ばせる力くらいは持っているからね。だから、こうやって注意深く慎重に事を運んだ。回りくどくなったのは、無駄じゃなく、それだけやらなければ私にもできなかったからよ」
「私もあなたの一部でしかないって事ですか? あのとき言っていたことは全部うそだったんですか?」
「そうね。うそかと言えばうそではないわ。今、現実のあなたはたしかに私や姫様と同様に眠っているし、このままだと衰弱死するわね。だってさっき、てゐも取り込んでしまったから。あなたたちは、平たく言えば私の意識に意識を食われ、私の中に生まれ変わったような状態なのよ。だから今のあなたは私であってあなたでもある。なぜなら、まだ体が死んでいないからね。もし体が死んでしまえば、あなたとあなたは完全に分かたれて、あちらのあなたは幽霊になって、そして、こちらのあなたは私の一部となって生き続ける。ここで永久にね」
「そうか――依姫様たちの方が、先だったんですね。師匠よりも」
「そう。それも正解。あの子たちはとっくの昔に取り込まれて自我を無くしていた。まあ、それでも体の方は、あと何千年という単位で死なないでしょうけれど」
「なぜこんなことを」
「なぜ? 決まっているでしょう? 飽きたのよ。そう、何もかもあきあきしたのよ。まったく、誰も、彼も、どれも、これも。死ぬほどに退屈だわ! まあ死ねないんだけどね!」
「……」
「毎日毎日、馬鹿な姫の世話焼きにご機嫌取りに馬鹿な弟子やら馬鹿な兎どもやらの世話焼きや、馬鹿な連中の相手やら。うんざりよ。あんな連中でも、少しは暇つぶしになるかと思ったけど、もう限界よ。こんなところにはもういたくないと心の底から思い続けて、とうとう数百年もたってしまった。まったく無駄きわまりない時間だわ。そう、盛大な時間の無駄。腹の足しにもなりはしない。割り切るのにも限度というものがある」
「違うわ……」
鈴仙は言った。どこか呆然としつつも、何かが冷めた目で師を見る。
「違うわ……あんたは……あんたが私の師匠ですって? 違うわ……」
鈴仙は、首を振って言った。誰に言うともなく、続ける。
「あんたが私の師匠ですって? 違うわよ……私の、私の師匠はね……八意永琳様はね、もっと……もっと、そう。そうね。変な人なのよ。あんたみたいにまともなことなんて言わないのよ。もっと……もっと、ものすごく変な人でね――」
「おや。どうかしたのかしら? ふむ。なにやら目が現実を見ていないようだけど」
「変なとこで常識かけてるし、イヤミなくらい自信満々だしね。わかりにくいの。もっとわかりにくいのよ。あんたみたいにわかりやすいことなんて言う人じゃないのよ。あんたが師匠ですって? 誰よあんた? 私の師匠はあんたみたいにまともな人じゃないのよ。すごく頭いい人なのに変な人でね。普段は厳しいことばっかり言うし、自分基準で人にもの要求するし、そのくせ変なところで優しくてね……」
「まあいいわ。それならそれで。あんたなんかどうでもいいことにかわりないしね。狂ったなら狂ったでペットにでもして、鎖でつないでおきましょう」
「師匠……」
「まったくなぜ私がいつまでもこんな場所でくすぶっていなければいけないのよ。以来千年。出会う輩はどいつもこいつも馬鹿ばかり。いい加減に飽き飽きしてくるわ」
「師匠……」
「あのお馬鹿なお姫様にも、確かに最初は責任は感じていたけどそれももう限界。毎日毎日、調子合わせのご機嫌取りで退屈しきり。へどがでるわ。こんな暮らし」
「師匠……」
「でもこれで何もかも終わり。本当に終わり。私はここで永遠に暮らすわ。穏やかで時が止まったように静かで……誰にも邪魔をされない暮らし! なんてすてきなのかしらね! 豊姫と依姫はいい子だし、弟子は私に振り回されていつまでもあたふたしてくれるし、あのわがままなお姫様は永遠に子どもの姿でいるのがお似合いだわ! ああ、なんてステキ」
「師匠」
「地上とはこれでおさらば。私は永遠に眠り続ける。誰にも患わされることなく、この夢の中で。これこそが真の自由ってやつね! ああ、私は今本当に自由だわ! 今から私の本当の人生が始まるのね!」
「師匠っ!!」
鈴仙は勢い込んで顔を近づけた。頭突きが出来るほどに、鼻先をぐいっと。
「……なによ?」
「全世界ナイトメアってどう思います?」
「は?」
その瞬間、師の目は間違いなく鈴仙の目にくぎ付けになった。当たり前だが。
なにせ顔も逸らせないほど、視界一杯に、彼女の弟子の顔があるのだから。
その気を逃さず、ぱん、と鈴仙は両手を打ち付けた。あっさりと術にかかった様子の永琳が、ぴくん、と鼻先を動かす。
「はい、では、そのまま私の目をじっと見てくださいね。いきますよー。はい、ワン。ツウ。スリー」
鈴仙は、ぱん、ぱん、ぱん、と手をたたいて、ぱきっと指を鳴らした。永琳は、一瞬だけほうけた顔になった。
「……」
それからやがて瞳が重たく下がり、完全に閉じられた。頭が大きく傾ぐ。
そのまま永琳は糸の切れた人形のように、床に倒れた。倒れると同時に、周囲に立っていた人影も、細かい砂粒のようになった。
同じくして、回りの景色があめ細工のようにぐにゃりとひん曲がりだし、視界が遠近感をなくし、油絵の具で塗りたくったカンバスの上にシンナーをぶちまけたように、どろりと溶け始めた。平衡もなくなり、鈴仙は、意識が遠のいていくのを感じた。
(……やった、の、かな?)
景色ががらがらと崩壊していくのを感じながら、鈴仙は、つぶやきつつ、なぜか片隅では、まったく本人にでも聞こえていたら絶対にただではすまないようなことを考えていた。なによ? だって。
(……師匠ってさ、やっぱり案外かわいいところあるのよね)
そうして意識がかき消え、鈴仙はどこか暗い海へと沈んだ。真っ暗な深海の底へと。
だが、今度、見える景色は深海ではない。海の上のきれいな青空と、あの空に浮かぶ白い月だ。
間。
暗闇。
「ええ。ええ。――ええ。ええ、どうもご迷惑をおかけして――ええ。はい。ええ。それでは。またいつか。ええ」
師の声を遠くに聞きながら、鈴仙は、うっすらと意識が醒めるのを感じた。受話器を置く音が耳に届くのを聞きつつ、重たいまぶたを持ち上げる。
何か、ひどく頭が重い。鈴仙は、のろのろと上体を起こして、はっきりしない意識に軽く頭を押さえた。
(う゛ー)
「ああ。気がついたわね。おはよう」
師の声を聞いて、鈴仙はそちらを向いた。そこには予想したとおりの師の顔がある。
似合わない白衣に似合わない眼鏡をかけた、いつもの姿だ。ただ、その格好は夢の中と同じものだったために、鈴仙は、まだ確証が持てずにその顔をまじまじと見た。
「何よ。その間抜け面は。安心しなさい。ここは間違いなく永遠亭よ。まあ、戻ってきた、と言っても、あなたはずっとここに寝かされていたんだけどね」
「はあ……」
鈴仙はさえない返事を返した。師は指を伸ばすと、その額をかるく弾いた。
「いった。……なにするんですか」
「いや。起きてないみたいだったからね。まあ、とりあえずまだ寝てなさい」
師は言うと、持っていたカップを差し出してきた。鈴仙はカップを受け取ると、中の液体のほどよい香りとぬくもりが鼻をくすぐるのを感じた。
カップに口をつけると、少し甘みのついたスープが唇を通り抜けた。自然と心が安らぐのを感じつつ、鈴仙は何となく部屋の中を見た。
「いまさっき月の姉妹姫たちとも連絡をとってね。ご無事のようだったわ。どうやら、向こうでもちょっとした騒ぎにはなっていたようね。まあ、大事にならなくてまだマシだったわ」
永琳は、さらりと言った。
「てことは……」
「ええ。問題は解決したわ。今度はしばらくは大丈夫でしょう。といって、まだどうなるかはわからないけれども」
「いったい何だったんですか? あれ」
「あれってどれ?」
「えーと。ええ、あれと――とりあえず、全部です」
「全部ねえ。まあ、自分で考えなさいと言いたいところだけど。夢の中で私が言ったことは全部聞いていたでしょう? あの通りよ。あれで全部」
「……」
鈴仙は、困惑げに眉をひそめた。複雑な目で自分の師である女性を見やる。
確かに、その通りと言われればその通りなのだが、内心では否定してほしい気持ちがあった。あるいは、期待、だろうか。
「ええ。この騒動の原因は全部私よ。私がやったの」
永琳が言うのを聞きつつ、鈴仙は、持っていたカップを握りしめそうになり、あわててやめた。
「じゃあ、あの師匠は……」
「あれは私自身よ。私の一部というか、心というか。そんなようなものか。あるいは、私の願望とか、もっと直接的に言えば、うっぷんね。長いこと生きる間にたまった憂さというやつ。それがちょっとしたきっかけで吹き出してしまったのが、今回の原因ね」
(つまり、今回のことは、全部師匠の憂さ晴らしだったって事かしら)
鈴仙は思った。永琳は、それを読んだようにうなずいた。
「そうね。いわば憂さ晴らしってところかしらね。あれはもうこの世界が嫌になっていて、あの夢の世界を作って閉じこもろうとしていたのよ。誰も彼をも引き込んでね。ただ、そのためには自分の中の理性がじゃまだった。それで、なにやら手の込んだまねをして、消そうとしていたわけね」
「それじゃあ、あの世界は……」
「ええ。あれは私の意識そのものよ。向こうでも言ったと思うけれど、あなたが見ていたのは私の中の意識のこぜりあいだったというわけ」
永琳があっさりとした調子で言うのを、鈴仙は冷や汗混じりに聞いた。師はなんでもないように言っているが、あれが全部、個人の意識が起こしたことだと言うのはとんでもないことだ。
鈴仙は一瞬ならず、この女性の正体の知れなさを思い、底知れない不気味な思いを抱いた。師には、それはたぶん感づかれていただろうが。
「……じゃあ、師匠が望んだのは、あの世界に閉じこもる事だったって言うんですか? 私たちを引き寄せて閉じこめたのも、望んだことだったって言うんですか?」
「そうよ」
「……師匠は、ここでの暮らしが楽しくないんですか?」
「いいえ」
「じゃあどうして」
鈴仙が言うと、永琳は小さく首を振った。少し自嘲するように、柔らかく眉をひそめて笑う。
「優曇華。私はね。地上にいるのが嫌だったのよ。地上の下せんな者たちとふれあうのが嫌だった。それはそれはとてつもなくね。私がここで過ごしたのは、ほんの千年ばかりのことだけど、内心ではね、いつも月に帰りたいと思っていたのよ。ここでの暮らしはごめんだとね。でも、私は今更何もかも捨てるのも嫌だった。なぜならね、あなたたちとここで暮らしているのは楽しいことだったからよ。いろいろな不便に悩まされるのが楽しくてしょうがなかったからよ。私の心は、その二つの心の間でジレンマを起こし、ずっと危うい平衡を保ち続けていた。そして、つい最近には地上の者たちとの封印を完全に解いて、なおさら広くつきあうようになった。姫様はそれを喜んでいたけどね。私は? 私はどうだったか? そう。私は違っていたのよ」
「そんな……」
「彼らとさらにふれあうようになり、あなたやてゐたち、さらには姫様までも通じて、私には、彼らとふれあう機会が増えた。それはとてつもない苦痛だったの。私はね、本音を言ってしまえば、静かに暮らしたかった。誰にも邪魔をされることなく、あのままずっと、永遠にね。この里の者たちの事なんて、私には少しも理解できないし、逆に、理解してしまうからつまらない。そう、まさに死ぬほどに退屈だった。私はいつも、あなたたちも、里の者たちも、てゐたちも、あの姫に絡んでくるうっとうしい子も……そして、姫のことも、そういう目で見ていたわ。もううんざりだとね。心の底では。ただし、それでも、私には退屈でない側面はあった。この千年、時が止まったように穏やかな暮らしを送っていたこと、また、幾千年も月での暮らしを送っていたことは、私の感覚にも少なくない影響を与えていたのよ。……まあ、あなたには言ったと思うけれど、私の内面というのは、いわば、細分化されたいくつもの独立する人格の統合でできているものだから、それもあった。私自身は、この地上を嫌っていたけれど、また、私自身もこの解き放たれた強烈な五感の刺激に歓喜していた。ちょうど、自分から泥にまみれて喜びはしゃぐ、いかにも頭の悪い、何も知らない子どもみたいに、このおびただしい穢れの流入を、無邪気に喜んでいた。「心」に飢えていたのね。普通の人間は、こういう、生きるのには邪魔な汚れない心を、年をとるにつれ、すり減らして捨てていく。でも、私はそれをも抱えていた。なぜなら、私が知るすべての人の面は、私の中に内包され、いまなお、一つの人格として育っているから。そして、その状態はすぐには終わらず、いつまでも続き、そのたびに、ジレンマは飛躍的に大きくなっていった。私はこの上ない喜びの中で、もう耐えきれないと悲鳴を上げた。すべてを投げ捨てたいという意志を、押さえきれなかった。そして……そして、ストレスでジレンマが爆発し、私の心は平衡を失った。その隙に、結合が崩れ、今回の反乱が起こった。ほぼ最悪に近い形で。千年という年月分を考えれば、それでも妥当だったかもしれないけれど、結果から見れば、弁解の余地はないわね」
永琳は、そこで言葉を切って、持っていたカップに口をつけた。ため息一つつかずに黙り込む。
「姫やあの子たちは私を許してくれるのかしら」
永琳は、やがて言った。それは、誰にともないものだったらしく、鈴仙に同意を求めるでもなく、指で前髪を軽くすいた。
鈴仙はかける言葉もなく師を見て、じっとなにかを待つようにした。知らず、膝に置いた手で自分のももをこする。
(謝らないわよね。まさか)
一人ごちる。何となく今の師を見ているとそんなことになりそうな気がしたのだ。
しかし、そんなことをされてしまえば、自分はきっと、師に対して失望を感じるだろう、と鈴仙は思った。そんな白々しことはしてほしくない。
だって、師からすれば、問題は解決したわけではないのだ。今の師はやっぱり変わらず自分たちや地上の民たちを見下しているのだろうし、その精神はたえずジレンマにさらされている。
しかも、経緯をたどってみれば、ほぼ彼女の正常や過去の行いから来る自業自得という側面が強く、他人が擁護できるものでもない。謝られたって、どうにもならないのだ。
(いや、だからって、どうこう言えることもないんだけど……私が、ねえ?)
そわそわしながら思う。こんな時、姫なら何というのだろうか。それとも、あの小憎たらしい顔の詐欺兎は?
なにか、こう、気の利いた、一言で場を丸く収めるような、そんな。鈴仙がもじもじしている間に、師は椅子を立ってしまった。
その動きを追いつつも、じっと見ているのは不自然かと思い、ふと向こうに目をそらして、鈴仙は落ち着かなさげにした。はた目から見たらさぞかし滑稽だっただろう。
(誰か来ないかしら)
「おかわり、いる?」
「え。あ。はい。あ、あ。すみません。私が……」
「いいわよ。というよりか、ぶっちゃけあんまり動かない方がいいわよ。――ウ、ウン。雲。ああ。いえ。あなた、それでも一応、病み上がりなんだからね。下手に動くと、めまいを起こすわよ」
永琳がちょっとせき払いしたのを見て、鈴仙はちょっと疑問に思った。何だろう、今のは。
なにか、こちらの顔を見て、一瞬言葉に詰まったような。けげんに思いつつ、鈴仙は、ほどよい温度のカップに口をつけた。
「……。さて、と。それでは、ぼつぼつ仕事を始めましょうか。何せ、二か月ちかくもほったらかしだもの。片づけることは山積みだわ。ああ、それを飲んでからでいいわよ」
「あ、はい」
鈴仙は、うなずいて、カップをすすった。とはいえ、師があっという間にごくりごくりと飲み干してしまったので(あの注いだばかりのを二口ほどで飲み込んでしまった)そうのんびりしているわけにもいかなかった。
あわてて飲み干して、あわただしく椅子を立ち上がる。師は、すでに器具やら何やらを取り出して、山積みにした書類の類に目を通しはじめている。
鈴仙は、まずは、薬の在庫のリストを持って、薬棚のチェックに向かうことにした。帳面を取り、部屋の入り口に向かおうとしたところで、ふと立ち止まる。
「――あ。師匠」
「ん?」
「全世界ナイトメアってどう思います?」
「うん? どうって。なかなかいいんじゃない? 独特のセンスを感じるわ。なにかこうフィーリングっていう」
師はこちらを振り向きもせずに答えてきた。
「ですよね」
鈴仙は言うと、すたすたと部屋の外へ出た。
廊下。
ぱたぱたと歩いていると、向こうから輝夜が歩いてくるのが見えた。
「あ。おはようございます」
「ええ。おはよう。ひさしぶりね」
輝夜はいつもと変わらない声で言って、それからちょっと鈴仙の顔を見た。
「イナバ」
輝夜は穏やかに笑って言った。つん、と自分の顔をつついて、指し示す。
「なにかついているわよ」
鈴仙は、意味に気づいて自分の顔をはたと触った。輝夜が差し出してきた手鏡を受け取ると、そこにでかでかと文字の書かれた自分の間抜け面を映し出して、硬直した。
『美味しい兎肉です。どうぞよろしく』
「ぶわはははははははははははははは」
背後から、すごく聞き覚えのある兎のドカ笑いが聞こえてきた。
「お、お、美味しいって。兎肉って。じじ自分で言っちゃうんだ。よろしくされても困るふはははははははははは」
「てゐいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!!!!」
※作者に都合のいいキャラ改変、設定改変が為されています。苦手な方はブラウザバックをお願いします。
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「これは『試練』だ…過去に打ち克てという『試練』と俺は受け取った」
(『ジョジョの奇妙な冒険 第五部』ディアボロ)
必ず僕らは出会うだろう
同じ鼓動の音を目印にして
(『カルマ』バンプオブチキン)
外来人がやってくる。
この月の都に外からの人間がやってくるなど、どれくらいぶりのことだろうか。外来人は男である。名を水江浦島子(みずえのうらしまのこ)と名乗る(字は当て字。当人は字が書けなかったため)。
水江、というのは生まれた土地の地名、浦島とはそこの家の名であろう。ただ単にその子では趣にかけるため、ひとまずは浦島、と呼ぶことにした。
(『忙月長八意永琳の日記』より抜粋)
二週間。
永遠亭。
亭内。
自室。
「……」
鈴仙は目を覚ました。明け方頃であるのだろう、と寝ぼけ眼で推し量る。
春先の明け空は暗く、室内に滑り込む光が、家具や何かを藍と影とに落とし込んでいる。
「ぬ……う゛ぉ」
あまり年相応でないうめきを漏らしつつ、鈴仙は机を起き上がった。なんたることだろう。
課題に取り組んだまま寝こけてしまったらしい。
(ああ……もう)
鈴仙は愚痴をこぼしつつ、髪を手ぐしでといて、のろのろと部屋を出た。起き抜けの思考は、ほんのひととき、今自分の置かれている状況を忘れさせてくれたが、すぐにまた、思い出せてくれたようだった。
「……」
どうにかなった、と思ったわけではないが、自然と足は師の部屋に向かった。戸口までたどり着くと、戸の前にひざまずき「失礼します」と声をかける。
なかからの返事はない。鈴仙はそっと戸を開いた。
中をのぞくと、質素な師の寝室がある。畳敷きのそれなりな広さの部屋に布団が敷かれ、そこに師は寝ているところだった。
そう。かれこれ二週間の間、ずっと。
「師匠」
鈴仙は呼びかけてみた。師の返事はない。
その後も、何度かあきらめずに呼んでみるが、師はうんともすんとも言わなかった。ただ安らかな息をたてている。
「……」
鈴仙は、ため息をついて立ち上がった。部屋を後にして、静かにふすまを閉める。
師の寝室を後にして、鈴仙は、今度は輝夜の部屋に向かった。こちらも、一応呼びかけてから部屋に入る。
永琳の部屋とよく似た畳敷きの部屋に、輝夜が眠っている。鈴仙は、師にしたのと同じように、何度か呼びかけてみた。
しかし、やはり反応はなかった。そう、こちらもかれこれ二週間になる。
「……」
鈴仙はあきらめて部屋を出た。今度はため息も出ない。
どうすりゃいいのよ。
二週間前、とは言っても、その前後に何か前触れがあったわけではない。師と輝夜は、まるで息を合わせたようにぴったりと眠りについたまま、朝も夜も起きてこなくなった。
本当にまったく目を覚まさないのである。これといって前触れがない、ということで、鈴仙もはじめは深刻にさえ考えなかった。
とにかく、二人とも、完全に死ぬことはないと分かっていたから、その点ではまだマシだったが、しかし、鈴仙は歯がゆく感じつつも、しかたなく人里に降りて医者を呼んできた。とはいえ、これは、まあ、うすうすは分かっていたが、どんなに見せても二人ともまったくの健康体だと言うことが分かっただけだった。
とにかく、身の回りの世話についての注意を二、三鈴仙にして、医者は帰っていった。要するに、まったく分からないのだろう。
そして、それからさらに一週間。二人の様子にはまったく変化はない。
(はぁ~……)
鈴仙は、やることもなく一人机に突っ伏した。いや、やることはあるのだが。
平素から自由人の輝夜はともかくとして、師が抜けた穴は大きく、まさか鈴仙が気張ったくらいで埋まるはずもない。それでも、鈴仙は頑張っている方ではあった。
師の腕を必要とするような間者は完全に断るしかなかったが、それでも軽い症状の患者は診たし、もちろん、今まで薬を使っていた者にも薬を出さなければならなかったが、これも戦々恐々としつつもいくつかこなした。
しかしとてもではないがまにあわない。しょせんまだまだ未熟者の身である。
人ひとりの体をどうこう面倒見られるような人間ではないのだ。そろそろ、今日こそはと期待するのも疲れてきたし、いろいろな雑務と、このまま師の目が覚めなかったらという不安とで、頭が忙殺状態だ。正直、心の余裕が無くなりかけていた。
(どうすんのよ本当に。重症の患者はともかくより難しい病気の患者なんて来られたら断らないといけないのに。師匠のことは里に伝わっちゃってるだろうからある程度は何とかなるだろうけど、だいたい、このまま師匠たちの目が覚めなかったら私はどうするの? ここで暮らすの? その必要ってあるのかしら。ああもう。頭イタイ。私が医者にかかりたいわよ)
それになぜだか、てゐの姿も最近見えないようで、妖怪兎たちは、永遠亭に寄りつきもしなくなっている。もともと、鈴仙の言うことなどまるで聞かない連中である。
正直、半ば知ったことではなかったのだが。
(師匠たちの目が覚めないんなら、私ももう逃げちゃおうかな。面倒くさいしさ。ここにいる理由もないってのに)
まあ、月には帰れないから、また地上のどこかで生きさせてもらうしかないのだろうが。
「……。……どうすりゃいいのよ~……」
鈴仙はぼやいた。師の顔。
輝夜の顔。てゐの顔。
鈴仙は無意識に思い浮かべながら、いつのまにか眠りについた。私一人でどうしろって言うのよ。
(なんにもできないのに。私一人じゃどうしようもないのに。お願いだから、誰か助けてよ……)
間。
「――鈴仙ちゃーん。おーい? ありゃりゃあ。よく寝てるなあ。おーい。れいせんさま~。起きてくださいよ~。朝よ~」
頭の後ろの当たりで誰かの声がした。鈴仙は、目を覚まして、重たげにまぶたを開いた。
朝の光がまぶたを差した。鈴仙は、顔をしかめて光から目をそらした。
いつの間にか、すっかり日が昇っている。窓の外を見に行こう、と思いつつ、なにやら頭の近くに立っていた、背の低い兎のワンピースの襟が目に入る。
鈴仙は目を上げた。てゐがにこにこと笑って立っていた。
鈴仙は、ぼんやり目をこすってその姿を見た。それは、けっこう久しぶりに見えた姿だが、心の余裕を失っているうえ、寝起きも手伝って、鈴仙は、大げさな驚きも感じなかった。
「やあ。鈴仙ちゃん。おはよう。お久し」
「ああ、てゐか……あなた、一体どこ行っていたのよ……?」
「やあね。兎が行くところって言ったら不思議の国に決まっているじゃないの? 鈴仙ちゃんがいつまでも来ないから迎えに来たのよ」
「……なにいってるの? 寝ぼけてる?」
「寝ぼけてるのはあなたですよ。さて。チクタクチクタク。時計は回ると。急がないとね。鈴仙ちゃん、あなたは兎なんだから。それとも時計はなくしちゃったのかな?」
「は? ……ちょっと。どこ行くの」
「チクタクチクタク。ああ忙しい忙しい。やっほいやっほい」
「ちょっと……てゐ!」
鈴仙は、思わず立って部屋を出て、廊下を走った。何か激しい動悸(どうき)がしている。
てゐの姿はやたら速く、廊下を過ぎ去り、永遠亭の出口へと向かっていく。鈴仙は短い手足を動かして、必死で追った。
「てゐ! 待って――」
鈴仙は叫びかけて、出口から外へまろびでたが、その足元は不意になくなっていた。結果として、鈴仙の足は、いきなりがくりと落ち込んだ。
「おぼっ」
鈴仙は不意に足元が消え、すさまじい落下感が自分を襲うのを感じた。一瞬、どこまでも落ちていくような錯覚を覚えたが、終わりと暗転は、ほぼ同時に衝撃となって襲ってきた。
というか、たんに落とし穴に落ちてもろに頭を打っただけだったのだが。むろん、犯人は誰でもないが落とし穴の出口でによによと笑っていた。
「てゐいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
「――いいいいいいいいいいいいいっ!!! ん――?」
鈴仙は、叫び声を上げながら、はたと気づいて、辺りを見回した。いつの間にか、景色が変わっている。
「……。え?」
目をぱちくりさせて、よく辺りの様子をうかがう。何だ、ここは。
いや。何だ、これは。
自分は確かにあのイタズラ兎によって、落とし穴に突き落とされたはずである。それが、今はなぜか、どこか建物の廊下にいた。
硬い石の床、壁に施された彫刻。外には庭が見えた。
よく手入れが行き届き、まるで千年たっても変わらないような木や、花や、あるいは見事な桃の実が、かぐわしくて若々しい緑の匂いを届けてきている。
(え……。え……?)
鈴仙は、混乱して辺りを見回した。もっとも、それは未知の場所に放られた驚きばかりではなかった。
いや、最初は確かにそうだったのだが、それは、徐々に意識がはっきりとしていくにつれ、違うものへと変わった。そう。
なんだこれは。
(ここは――)
「ちょっと。あなた」
後ろから、声が聞こえた。鈴仙は、あわててそちらを振り返り、そして、そこにいた人物を目に入れて、激しい驚きに目をまん丸にした。
(よ、依妹姫様……!?)
鈴仙は、その名前を呼び、それと同時に、奇妙な違和感を感じ取って、ついまじまじと見た。
(ご本人……だけど……何? これ? ちょっと、……大人――?)
「ここは、みだりに立ち入っていい場所ではないわよ。いったいここで何をしているの」
依姫は、やや堅い口調で言った。少し印象が違うので、思わずまじまじと見つめてしまったが、それが気障りになったようだ。
どう考えても、好意的でない感じが、どことなく硬質な横顔に漂っている。とはいえ、鈴仙も目のやり場がなかった。
完全にあっけにとられていた。なんだこれは?
「門人を呼んで欲しいのかしら?」
身動きした拍子に剣帯がちゃり、と鳴る。鈴仙は少し正気を取り戻した。
「あ……ええと、あの? ですね? ええと……」
ここはどこでしょう、と聞こうとして鈴仙は激しくためらった。知っている。
ここは姫方が住まう月の宮殿である。
(おおお落ちつくのよ私。オーケイイッツオーライドントマインド・オブ・チェインよ私。こういうときは兎という字を手のひらに三回――うさぎ? あれ? うさぎってどうだっけ。いや、そんなことはどうだっていい、重要じゃない……)
「あなたは……玉兎? 見かけない顔だけど。所属はどこ? 名前は?」
「――は、はい! 正統王閥府立軍・二番大隊、局地戦闘要撃部隊所属のレイセンであります!」
(げ)
つい反射的に答えて、鈴仙は顔を青くした。そういうふうに正直に答えてどうする。
「知らないわね。新しく入った子?」
「は、はい! そうれ、そうでして! いえ、実はそうなんです、もも申しわけありません」
「へえ。ついでに言ってしまうけど私は、指揮官としてここの軍務に通じている者だけど、あなたのいうような部隊名は、ついぞ聞いたことがないわ。聞き違えたかしら? 正統王閥府立軍・二番大隊、局地戦闘要撃部隊だったわね。ふむ」
(えええと)
「あなた、もしかして間者かしら? そのわりには妙に間が抜けているようだけど」
じっと、眉をひそめつつ厳しいまなざしを向けてくる。鈴仙は目を白黒とさせた。
(えええええと)
「そっそうです、じゃなくて、いえ違う。違います、あのですね――」
「依姫様? どうなさいました?」
ふと、後ろから声がした。わたわたと弁解しかけていた鈴仙は、聞き覚えのある声に、思わず「え」となって振り返った。
すると、予想の通り、そこには師が立っていた。なぜかいつもの奇天烈な衣装の上に白衣を着ており、頭に帽子はかぶっておらず、顔にはそれほど似合わないような眼鏡をかけていた。
「いえ、不審者です」
「ふん?」
「しっ、ししょう!!」
「うん?」
師は、鈴仙が言うのを聞きつけると、ものすごく微妙な顔でこちらを見た。なんだこいつ、とあまり物事に動じない目が、そういう感情をこめて如実に物語っている。
(え)
鈴仙はすっと胸に冷えるものを感じた。なんだこれ。
なんだろうか。この、まるで、会ったことも見たこともない他人に初めて会ったときのような。
「師匠?」
鈴仙のつぶやきをかすめ取ったように、横から聞いたのは依姫である。
「……あなたの知り合いなのですか?」
「ふん――さて?」
永琳は曖昧に首を捻った。
「まあ、私の顔はよく知れていますけれど。さすがに、姫様方以外に生徒やら弟子を取った覚えというのはないわね。まあ、師匠だなんて呼ばれてみるのも、案外気分のいいものですわね」
「じゃあ今日からお呼びしましょうか?」
「止めてくださいましな。のぼせやすい質ですのよ、これでもね。ああ。そういえば浦島が探しておりましたよ」
「浦島が?」
依姫は言って、微妙な表情を返しつつ、ちらりと鈴仙を見た。それから永琳を見る。
「困ったわね……何の用事でです?」
「あらら。用がなければ呼ばわってはいけないという間柄でもないでしょうに」
「……永琳様。あなたが姉様のようなからかいを言うのはやめてちょうだい」
「あら、そのようでした? いけませんね。毒されているのかもしれません」
「あなたは誰にも毒されないでしょう。薬も効かないけど」
「まあ、そうですね。ですけど、この者の処遇は私がやっておきますから、どうぞ」
「あまり手荒なまねはよしてくださいよ」
「大丈夫ですよ。この者も間者のまねごとなんかしているんですから覚悟はあるでしょう」
(えええ)
鈴仙は、思わず抗議の声を上げたが、口に出しては言わなかった。依姫は永琳に言ったあと、すぐにきびすを返して向こうへ行ってしまった。
「さあ、あなたはこっちね。あまり血生臭いことはさせないでね」
いつの間にか後ろに回っていた永琳に言われ、鈴仙はおとなしく従った。というよりか、背後に何かひやりとした気配のするものを突きつけられていて、動けなかったのだ。
「あ、あの」
「ああ。質問は後でね。それと、両手は頭の後ろに組んで、顔は動かさないこと。二度は言わないわよ」
永琳は、言いつつ、背中に当てたものを押しつけてきた。鈴仙は、さすがに黙って言うとおりにして、押されるままに歩いた。
顔を動かさずに、通路だけを見ると、どうやらここは姉妹姫の住む宮殿の一角のようだった。それもかなり私的な空間に近いところで、鈴仙には懐かしいとさえ感じられる、桃のかすかな香りが漂ってきている。
そうして、緊張したまましばし人のいない建物の中を延々と歩かされていき、やがて、建物の外へ出て、また歩かされた。宮殿の外には、見事な桃の木と、永遠に咲き誇り、季節を告げない桃の庭園がちらりと見えた。
鈴仙は、さすがに胸が高鳴るのを覚えたが、背後にいる永琳の存在が恐ろしい圧迫感だったので、感傷どころではなかった。
(ここは……そんな……)
どくどくと胸騒ぎがする心臓に、足元が怪しくなりそうになる。ここは、そう。
月の都。自分のよく知っている月の都だ。
だが、そんな。
(ゆ、夢……よね?)
そう思い、否定しようとしたが、体の方はそれを否定したようだった。鼻に伝わる明確な香り、目に入る景色と陽の光、足の裏に踏みしめられる床、人の気配がまったくしないほどに静かで、時の流れを忘れるような空気感。
感じられるすべてのものが、これが現実であることを主張している。外へ出て歩いていくと、今度は別の建物に連れて行かれるようだった。
どこか薄寒い印象のある戸口をくぐって、人のいないらしいこの区画でも、とくに寒々とした室内に入り、後ろで永琳が戸を閉めるのを聞きつつ、中に進む。部屋の中には、頑丈そうな文机がひとつ置いてあり、そこに、やや年嵩の男が一人いた。
月の衛兵の服を着ており、永琳を見ると、読んでいた本を置き、折り目正しく席から立ち上がった。
「これは忙月長殿。ご苦労さまです。その者は?」
「侵入者です。不届きにも姉妹姫方の私殿内にいたようなので、捕らえて連れてきました」
「おお、それはなんと、ご苦労さまです。しかし、侵入者ですか? あのようなところに……」
「ええ。衛兵の怠慢かもしれませんね。申し訳ないですが、少し話を聞きたいので、奥の部屋をお借りしてもよろしいでしょうか」
「ええ。そういうことでしたらどうぞ」
「ありがとう。では、しばらくお借りします」
永琳は言って、先に立って歩き出した男についていくよう、鈴仙を促してきた。鈴仙は、おとなしくついて行き、男が鍵を開けた扉をくぐって、その先の、明かりのない狭い廊下へと入った。
どこか、ろう獄を思わせる暗さがずっと奥まで続いている。いや、この調子だと、そのものずばりなのだろうが。
(うう)
鈴仙はうめいたが、どうしようもない。男が「こちらへ」と促すままに、もう一つ開かれた扉を通り、その先の部屋へと入った。
「……」
鈴仙は、思わず部屋の中を見回した。一見して、狭い部屋である。
部屋の真ん中あたりには、異様に重たげだが、なにかの花をあしらった彫刻の施された、木製らしい黒い椅子が二つ、向かい合って置かれていた。テーブルはどこにもなく、部屋の隅には、やや場違いな感じの、白いきりの小たんすが置いてあり、その上には、頑丈に固定されているポットと、その横に数個の紙コップが積まれてある。
部屋の壁には、窓はないが、よく吟味されたらしい、明るい暖色系の装丁に、薄い桃の花の柄がデザインされた壁紙が貼られている。天井をちらりと見ると、どう見ても、そうとう高価にしか見えない黒いきりのがんどうが下がっている。
床には、ちょっと歩きにくいほどに毛足の長いじゅうたんまでが敷かれていて、鈴仙はあまりにも柔らかい感触に、ちょっとびびって足元を見たほどだ。なんだここは。
「そこへ座って」
後ろで永琳がそう言いつつ、扉を閉めて、鍵をかけた。そのまま鈴仙をつついて誘導して、指定した椅子へと座らせる。
自分はもう片方の椅子に腰を下ろした。その際に、手にしていたものがちらりと見えたが、どうやら小型の刃物か何かだったようだ。
永琳は、椅子に座ると、「ふう」とひとつ息をついた。
「さて、と」
言って、こちらを見る。
「優曇華」
「……」
鈴仙はふと一拍ほど置いてから、ふいに目を丸くした。顔を上げて師を見る。
「しっ――」
「しっ」
師が、口に指を立てて言う。鈴仙はそれでいったん声を抑えたが、すぐに表情がふにゃんとゆがんだ。
「し、しじょう~。あ、あいだがっだですう~……」
「おい。こら。ちょっと。待て。聞きなさい」
永琳は言ったが、鈴仙はだばだばと涙を流して、しっかりとしがみついてくる。永琳はそれを見ると、仕方ないというふうに小さくため息をついて、白衣の影から何かを取り出して見せた。
ぐるぐる巻きにされた一本のムチである。鈴仙はまだだらだらと泣き続けていたが、それを見ると、一瞬で顔色を変えた。
あわてて元の場所に戻って座り直す。
「はい。すみませんでした」
「はい。――さて、と」
永琳は言いつつ、ムチをしまった。それから椅子に座り直して、元通り鈴仙を見る。
「何から話したものかしらね。まずはあんたが何を知っているかが重要なんだろうけど、たぶん何も知らないでしょうし」
「ええ……」
「まあ、一口で説明できるものでもないし、おいおい説明していった方がいいかしらね」
「ここは何なんです? 何でこんな事に?」
「質問するときはもっと的を絞ってね。まあ何というかね。それは後にしましょう。優曇華。それよりあなたはどうやってここに来たの?」
「どうやってといいますとえーと、たしか、あれは――」
鈴仙は言いつつも、だいたいのあらましを師に話した。といっても、詳しい状況がなぜか思い出せなかったので、少し曖昧模糊としたものになった。
「ふむ。要領を得ないわね」
「はあ。すみません」
「いえ。実は私もなのよ。ここに迷い込んだ経緯がいまだに把握できていなくてね。私の場合も、眠りについて次の瞬間にはここにいたという様子だったわ。何の前触れもなくね」
「あの、師匠。姫は……?」
「悪いけれど、それは後よ。とにかく、ここに来て三か月ほどたつけれど、私もいまだに状況というのを理解していなくてね。分かっているのは、ここが何かしらの、一つの構築された空間であること。今の私たちは、物理的な肉体ではなく、限りなく現実的な感覚を備え、実際に動くことのできる精神体であること」
「あれ? ……三か月?」
鈴仙が聞くと、永琳は適当に手を振ってきた。
「向こうとここでは、時間の流れに差があるようね。まあ、それはささいなことだと思うけれど。とにかく、この世界は、完全に閉じている空間で、私には体に戻る方法がないの。それで立ち往生しているというのが今の状態よ。まあ、出られることは出られるのだけど――あ、そうだ」
永琳は言いつつ、うなってちょっと考えると、不意に立ち上がって部屋の隅へ歩いていった。そこに置いてある薬棚の引き出しを鍵で開け、そのなかから何かを取り出す。
鈴仙が見ていると、永琳はこちらにやってきて、薬包を差し出してきた。
「なんです? これ」
「いえ、忘れていたから、今渡しておくわ。その薬を飲めば、向こうに戻れるわよ」
「え?」
「いえ、まあ、上にたぶんがつくことではあるんだけどね。ちょうどいいから、今飲んでおきなさい」
永琳は言いつつ、水を入れたコップを渡してきた。鈴仙は、何となく不安に思いつつも、それを受け取り、薬包を開いて、水と一緒に口に流し込んだ。
「薬の効果はすぐには出ないわ。飲んでから、こちらの感覚で睡眠についた状態になると、スイッチのようなものが働いて、向こうに戻れるから。まあ、たぶんね」
「はあ……」
「私は、試してみたけれど、戻れなかったわ。そして戻れない、戻れるの条件も何にも分からないから、確実なことが言えないの」
「戻れない……?」
「とにかく……確かなことは今、私と姫はここに閉じこめられているという事ね」
師はわりと気楽げに言った。鈴仙はそれどころではなかったが。
「しかし、一体どうして……」
「さてね。さっきも言ったけれど、それは分からない。何者かの作為だか、偶発的な事故だか。もっともここ数日の分析だと、どうも作為的に作られた空間と断言していいようだけど、一体誰が何の目的でと言うのは分からない。何せ、私や姫をここに捕らえて、得する者というのが思い浮かばないしね。精神をとらえるというのは最も有効な方法だと思うけれど、それなら単に捕らえればいいだけで、こんな者を用意する必要性はないのよね。まあいたずらしそうな心当たりはあるけど……それでもやっぱり確証はないのよね。動きを封じて何の得があるのか、あるいは何の目的なのかと考えると、まるで分からない」
永琳は一人でつぶやくように言った。鈴仙は仕方なくおとなしくしていたが、内心ではこっそりと安心を感じているのにも気がついていた。
こんな状況なのにのんきなものだが、やはり師のそばにいるのは、自分にとって精神の安定にいいらしい。普段はあまり近くにいるのはごめんだが、今はこうして寄り添っているだけで、がっちりとした背中の支えのようなものを感じる。
そのうちに、鈴仙は、自分が眠気を感じているのに気がついた。うとうとと頭が重たくなり、師の話し声が頭の中に入ってこない。
どうやら一安心したぶん、気がどこかで抜け落ちたようだ。師の、「それで――うどんげ? 鈴仙。ちょっと」と言うような声を聞きつつ、そのまま、まぶたが重くなり、いつしか鈴仙はふっと意識を闇に落としていた。
数秒。
「んはっ」
鈴仙は、深海から浮上するような心地で目を覚ました。思わず体を動かそうとして、動かないことに気づく。
ぼんやりした目で見ると、手首が寝台状のものに固定されているのが見えた。それだけでなく、どうやら胴と首の部分も何かで固定されているらしく、動かせなかった。
「は?はれ?」
「ああ。おはよう」
横から師の声が聞こえる。そちらを見ると、さっきのとおり、白衣と赤青系二色の衣服が見えた。
「ちょっと動かないでね。今電流のスイッチを入れるところだから」
「ちょ!ちょっと待!!」
四半刻。
「いや、師匠の話を聞かないで寝るようなやつは軽くゴーモンされても仕方ないと言うね。私も毎度お仕置きするのは面倒なんだからあなた少しは成長してね」
「はい。すみませんでした」
鈴仙は半ば死んだ目で機械的に答えつつ、手首に残ったあざをさすった。首を動かしにくそうにしながら、ちらりと首の根っこの辺りを見下ろす。
今の鈴仙の首には、きっちりと首輪がかけられていた。見た感じ、普通の首輪であるから、また師がたわむれにつけたのかと思ったが、違うようだ。
「駄目よ。あなた、一応捕虜の扱いなんだし。形だけでもつけててくれないと。しかし天狗をこっちに持ち込めないのが残念でならないわね」
「絶対やめてください。……これ拘束具なんですか? 初めて見ましたけど」
「昔使っていた代物だからね。指定区域から逃げるのはもちろんだけど、勝手に外したりしようとしたら駄目よ。非常に強烈な性的快感を伴う激痛が走ってね。即効性のマインドセットがかかるようになっているのよ。しかもこの痛みには強い精神的依存性があって、三四回も繰り返せば、二度とこの首輪から逃れられない立派なマゾヒストに」
「何ですかそのえぐい器具」
「実は私が考えたんだけど」
「あ、それは言わなくても分かります」
「なんでよ」
「いえ。別に? ナンデモナイですよ?」
鈴仙は、師から目をそらしつつ言った。師はその横顔をじっと見ていたが、やがて不意に指を伸ばして、鈴仙の首輪に引っかけた。
「おっと。指が引っかかってしまったわ」
「すみません!!ごめんなさい!調子こいてました!二度と言いません!」
鈴仙が必死で言うと、師はようやく手を離した。やれやれといった調子でため息をつき、椅子に座り直す。
「さて――そろそろ外でのんきに眠っている雌兎の顔に落書きするように言ってこようかしら。『美味しい兎肉です。どうかよろしく』って。そしてきっと天狗(てんぐ)が呼ばれるでしょうね」
「すみませんでした。止めてください」
へたれて頭を下げつつ、ふと気づいて鈴仙は師を見た。
「――え。てことは、私もやっぱり眠ってるんですか?」
「ええ? 大丈夫よ。体の管理のことなら、てゐに任せてあるし」
「え。それ安心する所なんですか?」
「どんなときでもいたずら心とそれを実行する勇気を忘れない妖怪兎の手に指一本動かせないあなたの体の自由なら任せてあるから大丈夫よ」
「なんで二回言うんですか? しかも強調されても」
「まあ、とにかくね。あとは二、三日、このまま独房の方にでも入っていてちょうだい。今、衛兵に頼んで案内させるから。そのうち、内庁(ないちょう。王権府内部監査庁。月の王府にある調査の権限を持つ内部監査機関の略称)で査問があるだろうから、身の動向についてはそれからね」
「はあ」
鈴仙はさえない返事を返した。そうして、師は、立ち上がると、それで「それじゃあまた後でね」と、軽く鈴仙の背中をたたいて、部屋の扉へと歩いていき、外へ出て行った。
それから入れ替わりでさっきの男が入ってきた。鈴仙は、男に命じられるまま立ち上がり、その場で手かせをかけられ、視線遮断用の黒いバイザーをかけられた。
しばしして。
別の場所。
「ここだ」
男に言われるまま、鈴仙は、やや物々しい戸口の下をくぐった。バイザーと手かせを外され、案内された扉の中は、きれいな花柄の壁とじゅうたんが敷かれた簡素で清潔な感じの部屋になっていた。
少し小狭いが、寝台とトイレが用意されており、ちゃんと病院の入院患者が使用するような体を洗うらしいシャワー器具まで取り付けられていた。男からそちらの使い方などを簡単に説明を受け、なにか用のある時は扉から少し離れた脇の、スピーカーを使うこと、室内には監視カメラはついていないことなどを言われ、あとは、男は、部屋を出て行き、どうやら、自分はこのままほったらかしにされるようだった。
男が出て行ったあとに、扉の視線窓から外をのぞくと、急に壁とドアが透け、廊下の様子がまるまる見渡せた。どうやら視線認証式のマジックミラーシステムが使われているらしい。
一分ほどそれをやっていると、扉から電子音が鳴り、『扉から離れてください。扉から離れてください。一分以内に応答のない場合は、外へ警告を発します。扉から離れてください』と、やわらかい女性口調の音声で警告を発してきた。鈴仙は仕方なくドアから離れて寝台に戻った。
寝台は、座るとほどよい感触を返してきて、下手をすると自分が普段寝ている布団より寝心地が良さそうだ。
(うーむ)
鈴仙はうなった。これはつらそうだ。
部屋の快適さに文句はないが、師は二、三日と言っていた。やることもなく、ここに缶詰めでは、二、三日はつらすぎる。
(そういえば、一回眠ると、元の世界に戻れるとかいってたけど……)
鈴仙は便器の端を見つつ、ぼんやりと考えた。さっき自分は一回眠ったような気はしたのだが。
そうすると、自分も戻れないということだろうか?
(師匠は戻れないって言ってたわね。あ。そういや姫のことも結局聞きそびれてたわ。大丈夫かしら……姫)
鈴仙は、自分のうかつさを呪いつつ、やきもきした。永琳の口調から言っても、輝夜がここに来ているのは間違いないんじゃないかと思う。
何で師もはぐらかしたりするのだろうか。はっきり言われないと、余計にやきもきするではないか。
(そういうところの配慮が足りないってのよね、あの人も。まったく。はっきり言ってくれればいいのに。あーそわそわする。そわそわする)
そうして、鈴仙が落ちつかなげにしていると、こんこんこん、と部屋のドアがたたかれた。
「おい!食事だ!」
部屋の外から若い娘の声がして、鈴仙が返事をしようとすると、それを待たずに扉が開いた。入ってきたのは、月の軍服を着た、短めの、ちょっとウェーブがかった黒髪の娘である。
頭にぴこんと垂れた耳があり、玉兎かな、と一瞬思い、その顔をよく見てから、鈴仙はぎょっとして目を見開いた。
「てっ!!」
「あん? 何いきなり人の顔見ておどろいてるわけ? 捕虜の分際で生意気すぎる。おい、なめてんのか?」
てゐっぽい娘は言うと、いきなりずけずけと近づいてきて、鈴仙を蹴り倒した。
「痛!! ちょ、痛! いった! こら! やめなさい!」
「なにィ? 何一丁前に痛がってんの? この雌兎がっ! 毛長がっ! おらっ鳴いてみろよ! ああやばい、くせになりそう」
「ちょ、あなた絶対てゐでしょ! あいたっ! この、やめなさい! こら! きゃあ! 痛い! きゃっ! きゃあっ! 痛いっ痛いちょっとやめて! やめてよ! きゃあ!! いやっやっ! やっ! やあっ! 痛い! やめてえ!」
鈴仙はしこたまムチでぶたれて、ひとしきり悲鳴を上げた。やがて、頭を抱えて縮こまったまま動かなくなると、頭の上からふいーと満足げな吐息が聞こえた。
「あー。すっきりした。やあ、鈴仙ちゃん。お久しぶりね。まあ私にはそんなでもないけど、鈴仙ちゃんにはちょっと長かったかな? いろいろと」
「やっぱりてゐなんじゃないの!? 何の真似よ!? なんでいきなりぶつの!? なんかきにくわないことした!?」
鈴仙がかみついていくと、てゐは「どうどう」といさめてきた。
「鈴仙ちゃん。そういうセリフはいじめられっこのそれっぽくてあまりよくない。鈴仙ちゃんをいじめたいおとかいうゲスは、いくらでもいるんだから自重しなさい。よしよし」
てゐは言いつつ、鈴仙の頭をなでてきた。鈴仙はなにかわからないが、非常な屈辱を感じててゐの体を眺めやった。
(なにこいつ。大きくなってる?)
いつものちんちくりんな見た目からは想像つかないほど、てゐは年上の姿をしている。といっても、こちらより少し高いくらいの、年齢で言って十七、八といったところだが、おかげで鈴仙より頭半分ほど背が高い。
「なに? あなた、その見た目。なんかずるくない?」
「ずるくない? とか言われてもね。いや、そりゃまあ、妖怪だからね。見た目くらい変えられるわよ。八雲の大将だって結構伸び縮みしてたりするじゃない」
「どうでもいいけどそのムチはなんなの?」
「ああ。だって私、今あなたの世話役任されているしね」
「なんで今ぶったの?」
「いや、今世話役任されてるし」
「そうですか。乗馬ムチ痛いですね」
「まあまあ鈴仙ちゃん。どうどう。びしっ」
「痛っ!! くおら」
鈴仙はてゐの胸ぐらをつかんでにじりよったが、ふと、そのとき、服の端が引っ張られているのに気がついた。
(ん?)
けげんな顔で足元を見下ろす。すると、背のちんまい人影がそこに立っている。
「……」
鈴仙は沈黙して、人影を見やった。なんだろう。
足元でこちらの服の端を握っているのは、長い黒髪の、ちんまりとした着物姿の幼女だった。まん丸くて深い緑の黒目でじーとこちらを見上げており、顔にはこれといった表情は浮かんでいない、要するに普通の、頭悪そうな小さい子どもの顔である。
「……。ん?」
鈴仙は怪訝に眉をひそめそうになりながらも、ふと思いとどまって、幼女の顔をよく見た。何だろう。
誰かとよく似ている。自分の知っている誰かと、よく似ている。
しかし彼女はこんなにちまっこくないし、こんな頭悪そうな顔はしない。いつもこの丸くて深い緑の目は静かに澄んだ色でこちらを見るし、その目であまりじっと見られると、同性の鈴仙でさえ何かどぎまぎと落ち着かなくなり、きれいに切りそろえられた目の上の黒髪はいつも柔らかく、触れるのもためらわれるような感触と言いしれぬ匂いを返してきて、意外と繊細でない指先はでもぞくりとするほど細くて、急に触れられると自分でさえどきりとしてしまうし、抱きしめられると肉の薄いはずの体がすごく柔らかく、日なたと淡い香の香りがして、まるで優しさの固まりであるようにさえ思えてくる、そんな。
(いや、いやちょっと待て。そんなでも)
何を考えているのか、見ているこちらににぱーと笑い返してくる間抜け面を見つつ、鈴仙は勢いよく思考を空転させた。いや、いやちょっと待て。
そんなでも。
「あらら、こんなところに来たら駄目ですよ、輝夜様」
「うさしゃん」
「うっうさしゃん!? いやっじゃなくてかっかっ」
「ええ、兎ですね。でもあんまり近寄っちゃ駄目ですよ。こいつは性根の悪い兎なんです。もちろん、行いも悪いですけどね。私のような素い兎と違って腹も心もまっくろくろのいわば玄い兎ってやつです」
「うさしゃん?」
「はい。こいつは悪いことをしたもんだからこんなところに首輪をつけて閉じこめられているのですね。外に出るとまた何か悪さをするかもしれないので、いい子になるまではここに閉じこめておくのです。兎の悪いやつは本当何をするか分かりませんからねえ」
「うー。うさしゃん……?」
「ああ、はいはい。姫様はお優しいですねえ。でも、仕方がないのです。悪い子が一人いると、みんなが迷惑しますからね。下手をすれば、依姫様や豊姫様や、永琳様も迷惑なことをこうむってしまいます。それはこいつを外にはなったせいで起こることなのです。ですから。ね。ささ。ほら、早く外に参りましょう」
てゐが言っても、輝夜はまだちらちらとこちらを見ていたが、やがて、「ばいばい?」と手を振って、外へ出て行った。鈴仙はふりかエスコともできずにびっくり顔で固まっていた。
「ふむ。さすがにショックだったみたいでございますわね」
「てってっ、――えっええっ?」
「よそよしオーケイイッツオーライプリーズライクイフユーネバーレッツビギンザタイム鈴仙ちゃん。いや、まあとにかく落ち着いて。あなたの驚きも分かるんだけどね。はいっ! はいっ! 深呼吸! うん! はいすってーうんそうすってー。はいてー」
「えっ? あ、あ、はい」
てゐにいわれ、とりあえず鈴仙は深呼吸をした。すーっはーっと一つやると、何となく落ち着いたような感じはした。
目を二、三回瞬いて、再びてゐを見やる。
「あれ……」
「姫? うん」
「ひ、姫って……いや、何で? 何? いや。いや、本当、何? あのなんかまるで頭悪そうな子どもみたいな」
「どれ、今のセリフをお師匠様に言おうか」
「やめて殺されるから」
「いや、私に言われても困るけどね。とにかくアレが姫だってことしか。お師匠様も言ってたし、そういうことならそういうこなんでないの? むつかしいことはすまないけど興味がなくてね。お師匠様なら何か知っているんじゃないかな。今度聞いてみるといい」
てゐはいつもの調子で言いつつ、適当そうに手を振った。
「とにかく私も今回は外との橋渡しで動いている身でさあ。詳しいことは知らないし、やばそうなことは首つっこみたくないんだけど、本当、もうお師匠様には参ったよ。ハハ」
「何笑ってんの?あ。そういやたしかあなた、外に戻れるみたいな話って」
「うんまあね。一日おきくらいには戻って外の様子を報告してたわよ。鈴仙ちゃんの体のことも聞いてるから、まあ心配しなさんな。動けない鈴仙ちゃんにあんなことやこんなことムフフ」
「おい。おい」
「ジョークですよ。ほら笑いなさいよ鈴仙。私のサポートが心配か?」
「心配に決まってるでしょ。あ! そういやあなたよくも私を! 他にやりようがあったでしょ! なんか! 大体知ってるなら説明とかすりゃいいでしょ!? どういうこと!? 訴訟も辞さない!」
「うん? うん?」
「いやうんじゃない。とぼけるな頭にくるから」
「何? うん? 何のことを言ってるの? 何いきなりからんできてるわけ? あれのこと? それともあれのことかしら?」
「いやだから。あなたが私をこっちに連れてきたんでしょうが」
「私が? あなたを?」
「うん」
「どうやって?」
「……」
鈴仙はけげんそうにてゐを見た。何だろう。
どうも、とぼけているのとは少し違うようだが。
「まあよくわかんないけど、楽しいピロートークはこれくらいにしようか。とにかく私はいろいろと自由がきくし今はあなたの世話役ですからよろしくね」
「いや、うん、それはいいけど向こうの体に変なことしないでね? いえ、本当にね?」
「大丈夫よもう、私を誰だと思ってんの? いけず。びしっ!」
「痛っ!!」
とにかく、そんなありさまで、毎日やってくるてゐにからかわれているうちに、すぐに数日が過ぎた。
で。
独房に入れられて、数日。
そのころになって、ようやく鈴仙は師から呼び出しを受けた。いや、正確には査問の手続きのためという名目で、またあの部屋に呼ばれたのだ。
鈴仙がやってくると、永琳は「座って」と言って、衛兵を去らせて、それから一冊の本を渡してきた。本は、日記のようであり、表紙の隅に、忙月長、八意永琳と師の名前が記されてある。
日記の中には、表紙と同じ筆跡で、さまざまな出来事が書き連ねてあった。それによると、どうやら今は、月の外からやってきた水江浦島子という人物が姉妹姫の宮殿に滞在しているらしく、日記の永琳の初見には、その処遇についての検討らしきものが書き連ねてあった。
しかも、どうも、読み取った感じでは、永琳は浦島子を処分したがっているように思われるが。
(でも、まあ師匠の性格ならやるわよね)
鈴仙は一人で納得しつつ、むしろ今までこの男が処分に至っていないのが不思議だとは思った。日記によると、どうも姉妹姫のうち、依姫が浦島子と懇意になり、彼を帰すことを望んでいない、ということだが。
豊姫については、どう考えているのか分からないと書いてあり、しかし、おそらくいざ処分するとなれば反対はしないだろう、と推測がされている。
(あの依姫様が、地上の男なんかに……?)
その点では疑問符は上がったが、そういうこともあるかもしれない、と適当に保留はしておいた。
「地上から人間が……?」
「一昔前はそういうこともあったのよ。最近では、例の地上の輩が何かやらかそうと画策したのもあって、そういうことは一切なくなったのだけれど」
師は言って、ちょっと微妙な顔をした。
「もっとも、そこに書いてあるようなことも本当にあったわけではないのだけどね」
「ん? でも、これ師匠が書いたんでしょう?」
「いえ。私がここに来たときには、そういうことになっていたわ。その日記にはその文章が書かれていて、そして書かれているとおりの世界がここにすでにあったのよ」
師は言って、懐から取り出した銀の懐中時計を眺めた。
「とにかく、あなたの査問は明日と決まったわ。今日のうちはそれを預けておくから読んでおきなさい。今日のところは時間がないからあまり話ができないし。あ、その本は見つからないようにね」
言いたいことだけ言うと、師は椅子を立って見張りを呼んだ。そうして、鈴仙はまた独房に戻された。
翌日。
査問のために、いったん内庁に送られることとなり、鈴仙は牛車の中にいた。師は名目上、といっていたが、今は首輪の他に手かせもつけられており、あまり気分はよくない。
それでも、すぐ横には師が座っており、窓を見ることも許されていただけマシとは言えた。
余談ではあるが、出てくるときに、意外な人物と会った。独房を出て牛車へと連行されるときに、ふとその牛車のすぐそばで、なにやら従者と世間話らしきものをしている姿が、こちらを振り向いてきた。
(と、豊姉姫様)
鈴仙は思った。豊姫だった。
そのはしっこそうな目で鈴仙の姿を目に入れると、「まあ」と、表情の豊かな顔をぱっと輝かせ、近寄ってきた。その拍子に観察したところ、どうやらこの人も、依姫と同様少し姿のほうが大人っぽくなっている。
「まあ! かわいい兎さんだわ。なんて奇麗な紅い目をしているのかしら?」
豊姫は言い、遠慮もなく、無邪気に詰め寄ってきた。こうこうとした興味の色を宿す目元が、まるで穢れなど知らないように輝いているが、鈴仙の経験によると、この顔はかなり危ない。
こういう目をしているときにこそ、この姫は、もっとも欲望と打算をむき出しにしているからだ。
「うーん。まるで、月の海の色がそのまま閉じこめられたような光ねえ。なんてすてきな輝きかしら。永琳様、この子あなたのペットなの? 私、この子がほしいのだけど」
「別にペットなんかではございませんよ。私は小動物なんか好きではありませんもの。それにこいつは身元も定かでない不届き者です。こともあろうに私殿に入り込んでいたのです。これから内庁に行って、監査を行って参ります」
「ふうん。ああ、でも、その後ならいいんでしょう? どうせ処分するにせよどうするにせよ、身の自由はもうないのだし、私がこっそりもらっていっても、問題にはならないでしょう? どうせここからは逃げられないのだし」
「駄目よ。あなた私に内緒で何するかしれないし。由緒の正しき姉妹姫様の名に汚点を残すような自体は未然に防がなければ」
「いいじゃない、依姫にだって、もうペットがいるんですもの。外から来た耳のない人ね。でも、二人きりでいるときはどっちも兎さんなのかしら」
「豊姫様。永琳はそのような言葉づかいを教えた覚えはございませんよ」
「じゃあきっとあなたに似たのね」
「私はもっと慎み深うございます」
永琳は言って、その後二、三言会話を交わすと、豊姫と別れて歩き出した。豊姫は去り際、「私は豊姫という者よ。困ったことがあったら、あなたの力になってあげますからね。よろしく」と、冗談めいた様子で言って、向こうへ歩いていった。
月の都。
市街。
中心部。
牛車のなかから外を見ると、町中を、人が活気づいてにぎわっている様が見える。ちょうど、月の繁華街のようだ。
鈴仙が知っている道の上には、彼女のまったく知らない様子の町並みが流れており、どこからか音楽が流れ、絶え間のないざわめきの中に、時折放送音声が混じって聞こえ、やがて遠ざかっていく。人の姿自体は変わりないようだったが、どこか、古めかしくは見えた。
鈴仙のとは少し形式の違う軍の制服を着た月兎の一段が外を歩いていくのが見え、鈴仙は、思わずその中に、友人たちの姿を探したが、すぐに馬鹿馬鹿しいことだとは分かった。
「……こ、ここは、まさか」
「まさか?」
横から、いつもの調子の師の声が聞こえた。固まったままふり返る。
「過去の世界とでも言いたいの? 残念だけど、ただの夢よ。生き証人が言うんですもの」
あまり似合わない眼鏡を直しつつ、永琳は言った。
「夢?」
「こんな場所は存在しないって事よ」
「存在しないって……」
「確かに、あの浦島子がやってきたのは事実だけど、あの姉妹とはまったく親密になっていたわけではないわ。どちらかというと、ペットに近い扱いでね。偶然地上から迷い込んだのを豊姫が内緒でかくまっていたのよ。私は後になってようやくそれを相談されて、すぐに処分しようと言ったんだけどね。姉妹が反対したんで、仕方なく、誰も知っている者のいない時代に送り込むってことで納得させたのよ。その後、浦島子はあまりの孤独に絶望して死んだみたいだけれど」
永琳はさらりと言ったが、鈴仙としてはちょっとびびる心地で聞いた。この女性の性格は知っているが、目の当たりにすると、おののくものはある。
「とにかく、この世界が私の知るものとはまったくの別物であることは間違いないわ。まあ、まったくの間違いであるとは言えないのだけど。ついでに言うなら姫様も、この頃には罰を受けて地上に落とされた後だったしね。こんな世界はあり得ない。でも、あり得ているというか、わざわざ再現されている。おそらくは、悪趣味な何者かの手によってね」
永琳が言っていると、牛車が大きく揺らいだ。どうやら止まったようだ。
窓の外に警衛兵が寄ってきて、確認のために、永琳と鈴仙に照合機を向ける。「失礼しました。どうぞ」と警衛兵が言って、去っていく。
「私たちは、さっさとこの悪夢から抜け出さなければいけない。それには優曇華。あなたの協力も必要になるでしょう」
(……あれ?)
鈴仙は、ふと疑問符を上げた。今、ちょっとほほえんでこちらを見た師の顔が、何か別人のように見えたのだ。
それは、いつもより違った表情がかいま見えた、とかそういったことによるものではなく、どうも、何かは分からないが、不自然な気がしたのだ。それがなんなのかを考える前に、牛車は、今度こそ動きを止めた。
表に近寄ってきた警衛兵にせかされて、鈴仙は牛車を降りて、内庁へと連行されていった。
丸一日と半分ほど。
そうして、査問を終えて帰ってくると、師に、「あなた明日から、依姫たちのペットになりなさい」と告げられた。鈴仙は、聞きつつ、目をぱちくりとさせた。
「はい?」
「はい? じゃなくて、返事ははいでしょ。いえ、そのままの意味よ。あなた明日から依姫の身の回りの世話をしなさい。そういう風に取りはからっておいたから。いや、不満なら王族御領侵犯の罪で投獄するけどどっちがいい?」
「え? それって選択の余地あるんですか?」
「とりあえず、不法侵入の件についてはうやむやにしておいたわ。今のあなたの身分は記憶喪失を患ったっぽい素性不明の玉兎よ。動向を見守るということで、こういう措置がなされたの。本来なら軍に放り込んでもいいのだけど、一応依姫に預けておけば、いざとなっても斬り捨ててくれるし手間が省けるだろうということでね」
「はあ」
「では向こうに戻りましょう」
そうして、翌日。
鈴仙は朝食の席に引き出されて姉妹姫に挨拶することになった。依姫は、こちらの顔を見たとき、ちょっとけげんな顔をした。
「あれ、あなた――」
言って、こちらの顔をけげんそうに見た。豊姫は、その横に、いつものちょっと笑っているような顔で居たが、鈴仙と目が合うと、はっきりほほえんで手を振ってきた。
鈴仙は、どうしたものかと思いつつも、小さく頭を下げて応え、それから、頭を上げざまに、なんとなく食堂の様子をうかがった。食事の席なのだが、輝夜の姿はないようだった。
(そういえば、お二人との仲のことってお聞きしたことなかったけど)
鈴仙は、ややのんきげに思いつつ、姉妹姫と輝夜の仲について考えた。うまくいっていたのだろうか?
ふいに、そのとき、後ろで尻尾を握られて、鈴仙はちょっと目をぱちくりさせた。師の手のようだ。
「今日からこの子が依姫様にお仕えいたします。とりあえず、簡単な身の回りのお世話や何かを任せようと思うのですけど」
「私に?」
依姫が言う横で、豊姫がちょっとむくれるような顔をした。
「あら、依姫に? なんだ、私にはつけてくれないの?」
「……お姉様が、わがままで言ったんじゃないの?」
「なんで私がわがままを言うんです? 言いませんよ」
豊姫は、すっとぼけた様子で言った。依姫は、それにちょっとあきれた目を返しつつ、永琳に目を戻した。
「永琳様、これは?」
「はいはい。わかりました。お二人とも、人の話は最後まで聞いてくださいね」
永琳は、二人をたしなめつつ言うと、それから、事のあらましを、半分ほどでっちあげて二人に語った。鈴仙は、内心恐々としつつ師の言葉を聞いていたが、その話によるとどうやら、やはり自分は、今現在記憶喪失で、自分でも訳もわからない間にあそこにいた身元不明の玉兎と言うことになっているらしいことは、理解した。
(それって無理があるんじゃ?)
大丈夫かしら、などと不安に思いつつ、二人の様子をうかがう。この二人とて、絶対にだまされやすいタイプではないし、むしろ、鈴仙が知っている限りでは、この二人にうそをついてばれなかったためしはない。
二人は、どちらも今のところは、疑う様子もなく話に聞き入っていたが、かわりに、それほど納得した様子にも見えず、時折、なんのことはない目で鈴仙を見たり、また永琳に目を戻したりしていた。
「では、その子にも自分の身元はよくわからないと?」
「ええ」
「しかし、私に会ったときはうそをついていましたけれど」
依姫は言い、非難がましい様子もなく鈴仙を見た。永琳は、生徒にものを教える教師のように軽くうなずいて、それに応えた。
「ええ。それはどうやら、一時的な記憶の混同による、反射的なものだったようです。彼女には、自分の記憶はほぼありませんが、依姫様に見つかったときには、だいぶ混乱していて、そのとき、依姫様からされた質問に反応して、とっさに頭に浮かんだ単語を言ってしまったと言うことでした。まあ、記憶喪失症の患者というのは、わりとよくわかりませんから、そのようなこともまれにあります」
「そうなの?」
「は、はい」
鈴仙は、豊姫が横から言うのに、ちょっとしどろもどろになりつつ答えた。とっさとはいえ、久々にこの人の前で嘘をついたことに、じわりと生唾がにじんでくる。
「まあ……でも、永琳様がそれでいいというのなら、いいですけれど。見たところ、間者にしてもたいした実力はなさそうだし、私くらいの力の者なら、寝首をかかれることはまずありませんしね」
依姫があまり気にしない様子で言うと、横の豊姫も、同じように見える様子でうなずいた。ただし、持っていた扇子でちょっと口元は隠している。
「そうね。仕方がないかな。……できれば、依姫よりも、私のペットに欲しかったのだけれど。ねえ、永琳様。今からでも遅くありませんよね?」
「まあ、豊姫様は、私の言うことを聞かないからね。駄目よ」
「うん。もう。ずるいわ」
豊姫はちょっとすねたように言ったが、それ以上は食い下がらずに引き下がったようだった。そうして、あれよというまに、その場はそんな者で話がついてしまった。
ちなみに、鈴仙の呼称は、名前がないということで“首輪付き”と呼ばれることになった。不服だがむろん逆らえない。
依姫は、「でもかわいそうでは?せっかくかわいい子なのに」と擁護したが、永琳は「だって名前がないのでは、新しい名前をつけるのもかわいそうでしょう、元の名前のこの者とは別になってしまうんですよ?」とわけの分からない理屈を述べて納得させた。
豊姫はなにか言いたそうだったが、残念だが彼女が「地上のセンス」なにかにと言って、変な名前をつけたがる癖があるのは鈴仙も知っている。そうして鈴仙に任された仕事は、そのまんま、依姫の身の回りの世話だった。
姉妹姫にはそういう用向きのためのお付きの者は幾人もいるが、鈴仙もその中の一人として働かされることとなった。監視付きの個室も与えられ、許可されれば依姫の私室に立ち入ることも簡単にできる立場である。
(いいのかしらね)
と思わないでもなかったが、姉妹も周りの者もそれで納得しているらしかった。よほどいい加減なのだか、あるいは永琳に対する信頼があるのか、とにかく、ただの記憶喪失の玉兎として、親切にする者には親切にさえされるようだった。
違和感はぬぐえないながらもとりあえずその日も、召しつけられた依姫の下着類を届け終えて、鈴仙は私室を抜け出した。
(えーと。次は。ん?)
「ん?」
鈴仙はふと背後につんつんという違和感を感じた。何者かが尻尾をつまんで引っ張っている。
鈴仙は眉をひそめつつ振り返った。すると、誰もいない、と一瞬思ってから目線を下げる。
何か小さい人影が自分の尻尾をつまんでこちらを見上げているのが目に入った。
(げ)
鈴仙は思わず微妙な顔になった。輝夜である。
「……」
「うしゃしゃん」
相変わらず、聞いている者が苛々しかねないような舌っ足らずな声で言ってくる。
「あ、は、はい?」
「うしゃしゃん?」
輝夜は言って、首をかしげてくる。そう言われても自分はてゐではないので分からない。
(そういえば何であいつ、会話してたのかしら)
「ん? な、なに?」
鈴仙がそう聞き返す前に、輝夜は手に持ったまりを差し出してきた。
「あしょぼ」
「え?」
「あしょぼ。うしゃしゃん」
輝夜は舌っ足らずな声で言い、汚れない目を向けてきた。
「え? あ。私? ですか?」
鈴仙は自分を指さした。輝夜はうんうんとうなずいた。
「あしょぼ。にゅ」
「っと。……は、はい」
鈴仙は、言いつつ、こちらの腰をぎゅっと抱きしめてきた輝夜を見下ろした。抱きつく、というよりは、どうも手つきを見ると抱き寄せるといった感じのようだ。
もちろん、身長の関係でそうはならないのだが、ひょっとしたら、こちらのことはでかいぬいぐるみに思われているのかもしれない。鈴仙はぎこちない笑みを返してやりつつも、内心ではそのうれしそうな姿を見て、ひそかに嘆いていた。
(うう)
うそでしょ。こんなの。
これが姫? これが?
本当に?
これが彼女の心から敬愛するあの気高く美しくておちゃめで穏やかでたおやかで黒目がちの目は深く澄んでいてでもつややかすぎる黒髪は豊かで静かで優雅で何よりあの底意地の悪い師の少なくとも百倍くらいは優しくて暖かくてふわふわな自分より少し背の高い、いつも抱きしめてくれるあの大好きな姫の姿だろうか。鈴仙は情けなさを禁じ得なかったが、これも姫であるし、むげにするわけにも行かない。
忙しいから、といって逃げようかと一瞬は思ったが、結局、不器用ながらもまりつきにつきあってやる。しばらく遊んでやると、どうやら姫は喜んでくれたようだった。
まあこれはこれでいいか、と、鈴仙は適当なところで自分を納得させた。もともと子どもは苦手だし、好きではない。
とにかく適当にやって、早々にお帰り願おう。
「いにゃば」
「うん? 何ですか?」
「えーりんをたしゅけてあげてにぇ」
「……」
鈴仙は、一瞬ほうけた顔をした。輝夜は、相変わらず、にぱーと笑っているだけだ。
「え……?」
「んう。みゃりっみゃりっ」
「へ? あ、あ、はい」
鈴仙は手にしていたまりを、輝夜に手渡した。輝夜は、まりを受け取ると、笑ってとん、てん、とまりをつき始めた。
「わちゃしはこんにゃありしゃまだから何にもできにゃいけど、あなたはちぎゃうわ。えーりんをたしゅけてあげて。あの人はきっちょこみゃってう。いや、本当はこみゃってはいにゃいんだけどね。でみょ、確かに助けを必要としているの。だから、いざとなったらあなたがあの人を助けにゃさい。おねぎゃいね、いにゃば」
「姫――」
「んっ」
輝夜はちょっと身震いするような顔をした。まりをつく手を止めて、こちらを見やる。
「おちっこ」
「……え? あ、あ! あ、ああ、は、はい、ただいまってええと!?」
鈴仙はあわてて答え、急いで輝夜を近くの小用へと連れて行った。用を足して、また再び輝夜は遊び始めたが、もう一度変わったりすることはなかった。
少し遊ぶと、鈴仙も解放されて、輝夜が帰っていくのを見送った。
(……)
助ける?
誰が? 自分が?
(師匠を?)
何を言っているのだろう? 助けられるのは自分ではないか?
考えたが、輝夜の言葉の意味は分からなかった。
で。
しばしの時が流れる。
輝夜に言われてから、数日、世話をしているうちに、何となく親しくなった依姫と話すことが多くなった。鈴仙にとってはこれも懐かしいことだったが、向こうにとっては知るよしもないことなので、ひそかにそう思うだけで、自粛しておいた。
依姫は厳しいが、一度親しくなれば厳しいなりに気安い質で、はじめの頃も鈴仙が部屋に来るたびに、二、三言声をかけてくれた。表情の豊かなようで隙のないこの姫の扱いは、鈴仙もそれなり心がけてはいたので、そういうところもまた、依姫の気に召したようだ。
ある日など、少し訓練に参加してみないかと誘われ、何とも複雑な心地ながらも、鈴仙は返事して、訓練に参加して、ひととおり、体を動かした。依姫は、あれこれと他の玉兎たちに指図しながらも鈴仙の動きに目を配っており、時折、考えるような目でこちらを見ていた。
訓練を終えてから、鈴仙にお疲れさま、と告げて、ふと探るような目つきで見てきた。
「あなた、どこかで軍役についていなかった?」
「え。えーと。えー……」
「ああ。うん。そうね。記憶がないんだったわね……」
依姫は言って、内心ではびくびくしている鈴仙を見つつ、「ふむ」とうなった。
「でも、センスはなかなかあると思うわ。もし行き場がないんだったら、このまま私のところに所属してもらって構わないんだけど……」
「は、はあ……」
鈴仙は恐縮してうなった。まあ、スカウト、というやつだろう。
「まあ、私の一存では決められないしね。永琳様にお願いしてみることにしましょう。ご苦労さま」
依姫は言って、その場はそれ以上言わなかった。ただ、後日になって、師となにか話し込んでいるのが見受けられた。
数日後。
訓練所。
訓練後。更衣所前。
「ねえ、ちょっといいかしら?」
依姫に言われ、鈴仙は立ち止まり、「はあ」ときつ立した。
「こないだの話だけど、あなた、やはり私のところに所属してほしいのだけど」
依姫が言うのをききつつ、鈴仙は目をぱちくりとさせた。いや、何を言われたのか、分からなかったわけではないのだが。
「えーと。え?」
「ええ。私の指揮している玉兎隊があるでしょう。そこの一員になって訓練を受けてほしいの。永琳様にもご相談して、許可はいただいているわ」
「あ。えー、と……。は、はあ」
「もちろん、今までの身分がいいと言うんなら、それでもいいわ。訓練と世話役との両立は難しいだろうしね。それは、あなたが決めてちょうだい」
依姫は言って、まじめな顔でこちらを見た。鈴仙はひるみつつも、「は、はあ……」とさえない返事を返した。
「すぐには返事をしなくてもいいわ。あなたにも考えはあるでしょうし、すぐにおいそれと決められるようなことでもないでしょうしね。少し考えてから返答をちょうだい」
「……。はい」
鈴仙はうなずいて、依姫の顔をちらりと見た。
(こんなに優しい人だったかな)
ちらりと思いつつ、目をそらして礼をして、退室する。何だろうか。
(なんだか別人みたいな……気のせい?)
鈴仙は、首をひねりつつ、廊下を歩いた。どうも、柔和と言うか、暖かいというか、あの依姫は、自分の知っているそれよりも、ずいぶん人柄が円いというか、そんな気がしてならない。
「――わっ!」
「おっ、と――」
そうして考え事をして歩いていると、突如角を曲がったところで突き飛ばされた。鈴仙は無様に転んで尻餅をついた。
「いったぁ……う。あ。す、すみません!!」
「あ、ああ。いやすまん。こっちも前を見ておらんかった。大丈夫かい? ケガないか」
ぶつかったおとこはそういって、てをさしのべてきた。「あ、ありがとうございます」と言いつつ、鈴仙は、ふと何となく男をまじまじと見た。
(ん?)
ちょっと首をひねる。いや、男の挙動に不審なところがあったわけではない。
ただ、少し格好が妙だったのだ。それか、身にまとう匂いというか。
(地上の……?)
鈴仙は思いつつ、男の風体を眺めた。純朴そうだが、背ががっしりとしていて、鼻筋の通った顔立ちの男である。
やややせぎすだが、衣からのぞく腕は筋骨が隆々としていて太く、力強さを感じさせる。あまり精悍という感じはしないが、どこか、柔和で親しみがわく面立ちをしていた。
「すまんかったなあ。今度は、こっちゃも気をつけるで。堪忍な、嬢ちゃん」
男は言いつつ、すまなそうに笑って廊下を歩いていった。耳に残る、どこか、粗野な感じの言葉遣いは、やはり月の人間の者ではないようだ。
(……。あ)
そうか、と鈴仙は思った。あれが水江浦島子だろう。
(じゃあ、あの男が依姫様と……)
鈴仙は思いつつ、ちょっと罪悪感のようなものを感じた。引き起こされるときに握った腕が、妙に力強いなと感じたからだ。
月の者にはない暖かさがある。地上に住まって、久しく忘れていたが、そう、あれが地上の民という者だった。
(月の者にはない暖かさ……。もしかして依姫様もそこにほだされちゃったってことなのかしら?)
などと、本人の前ではとても言えないことを思いつつ、鈴仙は廊下を戻った。なんだか複雑な気分だった。
数日後。
結局、鈴仙は、訓練に加わることを了承した。断るためのうまい理由も見つからなかったし、一応、永琳に相談してみたところ、「好きになさい」と言われたからだった。
依姫は、その旨を伝えると、意外なほどうれしそうな顔をした。それほど重くは考えていないと思っていたので、意外なことではあった。
「そう。よかった。あなた、ずいぶん素質はあるようだけど、精神面に問題がありそうだから、鍛え直してあげたいと思っていたのよ」
依姫は言うと、「よろしくね」と手を差し出してきた。鈴仙はどぎまぎしつつも握りかえしたが、その手のひらは硬くて力強かった。
とにかく、そうして鈴仙は依姫の指揮する軍の傘下に入ることになり、訓練に参加することとなった。とはいえ、かつて取ったきねづかというか、ぶっちゃけ鈴仙にとっては昔からずっとやっていたことであるから、最初のうちこそ慣れなかったが、慣れてしまえば自然に体は動くし、苦にもならなかった。
先輩の玉兎たちは、基本的に気のいい連中で、覚えの早く、まじめな鈴仙に、厳しくも優しい態度で接してくれ、時折豊姫から差し入れられる菓子を分けてくれたり、いろいろと話しかけたりしてくれた。そういうかいもあって、鈴仙はすぐに隊の中にとけ込んでいくことができた。
(なんだか昔に戻ったみたい)
うっすらとそう思いつつ、鈴仙は、次第にこの状況を楽しむようになっていくのを感じていた。もう二度とは戻れない時間。
月の宮殿で、姉妹姫たちのペットとして飼われていた日々。
(あのころに戻ったみたいだな)
訓練と、依姫の世話との両立をこなしつつ、そんなことをぼんやりと考えた、そうして日々が過ぎた。
とある日。
早朝。
宮殿。
その日の朝も、鈴仙は、起きる前日言いつけられてあったとおり、依姫の召し物を持って、部屋へ向かった。
「失礼します」
声をかけると、しばしして、かちゃり、と遠慮がちに扉が開けられた。
「あ、おはよう……ございます」
「あ、ああ、おはよう……いや……ええ、と?」
「ええと。依姫様のお召し物を」
鈴仙は部屋の中をのぞき、その拍子に、裸体の依姫が、寝台に上体を起こしているのを目に入れた。依姫は気まずそうに顔を伏せており、こちらの目線を避けている。
すぐにだいたいの事態を把握して、顔を熱くする。そういえば、浦島子には私室が与えられているはずであるが、それがなぜ正式な関係でもない依姫の寝室にいるのか。
「あ、も、申し訳ありません! し、失礼をいたしました!」
鈴仙はあわて気味にいって、「あ、ちょっと!」と浦島が言うのもきかずに、扉を閉めた。なかば逃げるように、そそくさと廊下を戻っていく。
(や、やだなあ、もう……)
鈴仙は鼓動を早めつつ、早足で廊下を渡った。そりゃそうだ。
浦島の話を知っているなら、それくらいの配慮は自然と思いつくべきだろう。
(ふだんが女所帯だからなあ……とにもう)
恥じらって顔を赤くしつつ、鈴仙は廊下を戻った。とにかく、用向きをすますわけにも行かず、そのまま適当にごまかしてその場をすました。
(うん?)
そのとき、なにか違和感を感じたのだが、それが何なのかを考えようとすると、頭がぼやけた。まあいいか。
たいしたことではあるまい。
しばしして。
食堂。
朝食の場。
依姫は、いつもどおり豊姫とともにやってきた。鈴仙は内心びくびくしながらも、脇に控えていた。
依姫はいつもと変わらぬ様子で、鈴仙に視線を向けることもなく、そうするような気配もない。もしかすると、気にしていないのだろうか。
(ま、まあ、普通のことなのかも。でも、よくわからないしなあ……)
鈴仙は内心で考えながら、自分で動揺した。まあ、ぶっちゃけて言ってしまえば、彼女の苦手な分野だ。
そのうちに朝食を終えて、依姫は席を立ち、自室の方へ行ってしまった。鈴仙はほかの仕えの者たちとともに、食器を片付けながら、内心ではどきどきとしていた。
(うう……このあとお部屋に行かなくちゃならないのに)
今朝、すませそびれた用事をすませてこなければならない。さすがに室内に二人きりになるのは勘弁である。
とはいえ、内気さがたたって誰にも押しつけることができず、鈴仙は結局、自分で依姫の部屋に洗い終えた召し物を持って行った。
「失礼します」
「どうぞ」
依姫の声に許しを得て、鈴仙は部屋の中に入った。すぐそこの寝台には目を向けないようにしつつ、依姫のそばを通って部屋の奥に行く。
寝台のそばを通るとき、なにか独特の匂いをかぎ取ってしまい、思わずどぎまぎとしたが、そのまま召し物をしまい終えて、ふたたび依姫のそばを通り抜ける。
(な、何も言わないのかな?)
なにか書き物をしているらしい背中を見つつ、扉の方へ行き、「失礼いたしました」と礼をして出ようとすると、「ああ、ちょっと待って」と呼び止められた。
「は、はい?」
「ええと、ね、あなた。その……」
依姫は、こちらを見て、言葉に詰まったような顔をした。髪を梳いて、こちらの顔を見る。
「そのね。今朝のことなんだけど」
「あ、……はい」
「……あまり言いふらさないでほしいのよ。特に、お姉様の耳には入れないでほしいの。そのう、外聞もよくないしね」
「はあ。あ、でもお二人のご関係は周知のことなんでは……」
鈴仙が言うと、依姫は微妙な顔になった。
「……そりゃ周知と言えば周知だけど、さすがに知れ渡っていいこととよくないことはあるわよ。正式な関係になる前に同衾していたなんてのは、いくら何でもね。だから、すまないけれど、お願い」
「はあ、いえ、それはもちろん、構いませんが……」
「……ありがとう」
依姫はちょっと気恥ずかしそうに笑った。鈴仙もあまり見ないが、珍しく柔らかな顔ではあった。
こんなにかわいい人だったかな、と思いつつ、鈴仙は、とりあえず退室した。どうにも、調子が狂うわ。
(なんなんだろ)
思いつつ、廊下を歩いて首をひねる。
その日の夕食。
食事を終えて、依姫が下がっていった。それをちらりと見てから、豊姫が立って、鈴仙の方へやってきた。
「ご苦労さま。大変ね」
「え。あ。ええ。はい、どうも」
「何でも最近は、依姫の訓練に参加しているんだそうね。頑張っているのね」
「はい。まあ」
「あの子に見込まれるのだから、あなたはずいぶん見込みがあるということなのね。この間、自慢げに言っていたわよ。いい子が来たってね」
「は、はあ……」
鈴仙はちょっとはにかみつつ、豊姫のくすくす笑う顔に答えた。
「それじゃ、依姫とだけじゃなく、たまには私とも遊んでね」
豊姫は言いつつ、軽く手を振って退室していこうとした。それから、「あ、そうそう」と振り返ってくる。
「ねえ、ちょっと聞きたいのだけど」
「あ、はい?」
「今朝、依姫の部屋に行ったとき、誰か、いなかったかしら?」
「え――」
鈴仙は、一瞬、言葉に詰まって、それからしまったと思った。あわてて取り繕おうとしたが、豊姫は当然気がついただろう。
(な、なんで)
「うふふ」
豊姫はちょっと笑って、そのまま何も言わずに離れた。その笑みに、なぜか寒いものが感じられた。
翌日。
「あ。ねえ。首輪ちゃん」
「ん?」
訓練の時に、よく話す先輩兎に言われ、鈴仙はそちらを見た。すると、先輩兎は、鈴仙の兎耳の先をちょっと引っ張ってささやいてきた。
「依姫様、ついに浦島と寝たって本当?」
「……。は?」
鈴仙は聞き返した。
「いや。なにか知ってるかと思ってさ。内心うずうずしていると思うわよ、みんな」
先輩兎は言いつつ「ね、どうなの、そこらへん」とすりよってくる。しかし、鈴仙は何が何だか分からなかった。
いや、分かってはいた。
(なななななななななな)
「何を言っているのよ!?」と叫びかけて、鈴仙は自制した。しかし、本当何だ。
いや、何だ? 何だ?
コレは? そう思ってよくよく話を聞いてみると、もう玉兎たちの間では恐ろしい速さで知れ渡ってしまっていることらしい。
「だからさ。昨日の夜にネットに書き込みがあって。画像も上げられちゃっててさ。その依姫様と浦島の」
「ネット?」
「あ、そうか。首輪ちゃんは知らないか。その耳、私らのと同期しないんだもんね」
先輩兎は言って、そのネットとやらに対する説明を始めたが、聞いてみると、何のことはない、玉兎たちの使う通信網のことだった。ただし、鈴仙たちの使っているものとは違い、娯楽性と閉鎖性を高くした、一種の匿名で行う遊び場と言うことだった。
「タマチャンて言うんだけど。あ、玉兎チャンネルの略ね、コレ。あ。せっかくだし首輪ちゃんにも見せてあげようか。それ、私らのと構造は同じなんだよね? じゃ、こうして――」
先輩兎は言うと、鈴仙のウサミミをつまんで、自分のものと合わせた。そのまま目を閉じて「えーと、昨日の……」と言いつつ、なにかを探る顔をした。
(おっ)
すると、鈴仙の網膜の中に、文書情報と、なにか特殊構成された画像情報が一緒くたになって流れ込んできた。「ようこそタマチャンへ!」と、いかにもポップでキュートな感じのタイトルが、アニメーションとともに表示され、きらきらとした効果音とともに、いくつかの項目が表示された。
並んだ項目は、どうやら同じく表示されたカーソルで選択できるようになっているらしく、操作の方は先輩兎がしているようだった。選択された項目の中に、「月兎の裏」というタイトルの項があり、横の()に1000という数字が入っているが、それを開くと、なにやら一定の法則に従っているらしい文字列が表示され、大量の文字があっという間に、鈴仙の目をくらくらさせた。
「えーとね。ここの――。あ、これこれ。このアドレスの――」
と、先輩兎は一人で勧めていくが、鈴仙としては、それ以外の文字列に関する解説が欲しいところだった。
「えーと。だからね。ここが日付で。ここがコテ――あ。まあ名前欄? 何も記入しないと、「薬を撒く程度の月兎」とか、こういうのが出るの」
先輩兎は、丁寧に説明してくれ、鈴仙にも何となく構造が分かってきた。つまり、このコテとやらの下に表示されているのが、やりとりされたメッセージの記録ということらしい。
それらを読み解くところによると、話はこうだ。昨日の夜、ここに投稿されたメッセージの中に、アドレス(画像などの場所を示す文字列らしい)を貼り付けて、「すごいのみつけた(笑)!」などと、あおり文句を並べているのがあり、そのアドレスを開くと、出てくるのが、なんと、依姫の部屋から出てくる浦島の姿であった。そのかたわらには依姫の姿もあり、これが、よりにもよって、下着姿であり、下ろした髪が肩に垂れ、いかにも、その、そういうものの事後といった、激しく生々しい様子が、やや露出の悪さを主張して、映し出されていた。
やや合成っぽい感はあるものの、どっちみち、その下へ続く書き込みは、これを信用する方向で動いており、「さらなる証拠UPよろしく!」「嘘! 信じらんない!」「コラだコラだコラだコラだコラだ」「ちょっとやばくない、これ?」「どうせ合成でしょ(笑)? やめてよね心臓に悪い」「兎の心臓だけにね」「〈審議中〉」「角度が嘘くさい。この角度から撮って依姫様が気づかないはずないじゃん? バレバレの工作画像上げないでくださいますか〈怒〉」「まあ落ち着けよ」「薬撒くかい?」「もちつけよ」「モチ食う?」「いや、やっぱ男といると油断するのよ。依姫様も女だし。生肩可愛いむしゃぶりつきたい」「はいはいレズレズ」「レズは隔離スレ帰れよ」などと、延々と、短い時間に、異様なほどの書き込みが続いている。何の証拠にもなりはしないようだが、元の書き込みを見やると、コテに【Rhapsody Ice】と書かれてあり、もしかして特定はできるのか、と先輩兎に聞いてみると、「いやー。無理無理。というか、それだと何のための匿名ってことになっちゃうでしょ? まあ、こういうのはアレ、結構ありがちだから」などと答えが返ってきた。
「で、実際どうなの? いや、ほら、下着とか洗うわけじゃん?」
先輩兎はわくわくと瞳を光らせて聞いてくるが、鈴仙には答えようがあるはずもない。というか、こちらが聞きたいくらいではある。
(な、何で……?)
呆然(ぼうぜん)とつぶやいて、どこか、遠くを眺めやる。私は一言も話していないのに。
なぜだ?
(なぜ……)
夜半近く。
依姫の部屋。
鈴仙は、疑問に頭をさいなまれたまま、ふらふらと訓練から帰り着き、またふらふらとしたまま、仕事についた。もちろん、当然のように失敗を重ねたが、特に指摘もされていないので、そんなまま、依姫の部屋へと入っていった。
よほど様子がおかしかったのだろう。声をかけるのもためらわれたようだ。
「ねえ」
依姫にいわれ、「は、はひ?」と、鈴仙は顔を上げた。依姫は、その妙な様子には気づいたようだが、表面上では何も気づかない様子でこちらを見た。
「……。もしかして、疲れているかしら?」
ちらりと見てから、やや探るように言ってくる。
「あ、あ、い、いえ」
「……、ふむ。ならいいのだけど。少したるんだ様子をしているからね」
依姫は、なにやららしいことを言いつつ、心配げにした目を引っ込めた。鈴仙は、差し向かいで座りつつも、なにか気が気でない様子で、妙な想像を働かせつつ、依姫を気にしていた。
いつも通り、身の回りの用でやってきたのだが、美味しいお茶が入っているから、飲んでいってちょうだい、と言われ、ごちそうになっているところである。お茶は確かに美味しかったのだが、正直、差し向かいで話すのは勘弁願いたかった。
今日の玉兎たちの、なにかそわそわとした様子は、依姫も気づいていただろうし、妙には思っているはずだ。その中でもある程度親しい自分を捕まえて、玉兎たちの様子を聞こうとするのは、当たり前のことだろう。
案外、そういう意図はなく、鈴仙をねぎらっただけなのかもしれないが。
「……。ねえ、ところで今日の玉兎たちの様子なんだけど、妙に浮ついたところがなかった?」
「え? あ。そそそうでしたか?」
鈴仙は動揺して、椀を不自然に鳴らしたが、依姫は気にしないそぶりで見た。やはり気にしているようだ。
「あなたもそうだけれど、どうも、訓練中に身が入っていないというか、そんな様子が見受けられたわ。なんだか内緒話も多いようだし、まるで、なにか気になることでもあったようよ。それも、私や姉様あたりに関連した話かしらね。私には、心当たりはあるなくもないけれど」
依姫は言って、また椀に口をつけつつ、鈴仙をちらりと見た。何だろうか、もしかして疑われているのだろうか。
「いえ、あなたを疑っているわけではないわ。ただ気になっただけよ。たぶん他のことだとは思うけれどああいうのがあまり長く続くと、あの子たちのやる気に影響するからね。まあ、玉兎というのも、わりと噂好きで嘘つきなところのあるものだしね。彼女らに聞いたところで。あんまりまともな答えは期待できないし……」
独り言のようにいって、宅の上に目を落とす。鈴仙はそわそわしつつ、目を泳がせた。
なるほど。どうやら、自分がそれを期待されているらしい。
(どうしようか。正直に言おうか? いや、それだと私が疑われるんじゃないの? ああ、でも、黙ってるのもなんか申し訳が――)
鈴仙は、義理と保身の板挟みになり、懊悩した。そのとき、部屋のドアがノックされ、「失礼いたします、依姫様」と、永琳の声が聞こえた。
「? 永琳様?」
依姫が答えると、部屋のドアが開いて、師が入ってきた。後ろ手にドアを閉めて、鈴仙の姿をちらりと見やる。
「ああ、ご休憩中でしたか。もうしわけございません」
「いえ、どうかなさいましたか?」
依姫が言うと、師は笑ってうなずいた。片手に持った書簡を開き、依姫の前に下げてみせる。
「内庁から、依姫様に査問の要請が来ています」
「……。なんですって?」
依姫が言うと、師は淡泊な顔で繰り返した。
「内庁が依姫様に査問の要請を出しました。応じますね?」
師はどこか、気楽そうに言った。
翌日。
要請に応じた依姫が内庁へ出かけていった。帰りは翌日の朝だという。
鈴仙は、また依姫の部屋の掃除などを済ませてからは、やることもなく手持ちぶさたをしていた。干し終えた召し物の類を抱えて廊下を歩きつつ、物思いする。
(どうなってるのかしら。結局あのあとは師匠もどっか行っちゃって会えていないし、ていうかこの大事なときにどこに行ったのよ? てゐのやつはいないし。何がどうなっているのかさっぱりだわ。あーもう、そわそわする)
依姫の査問。おそらく原因はきっとあのことに違いない。
いったい、師はなんのつもりなのだろうか。さっぱりわからない。
(でも師匠のことだから放っておいても大丈夫というか私ごときがどたばたすると、逆にこじれそうと言うかそんなよね? 知らないけどきっとそう)
鈴仙は気をもみつつも、何をすることも思いつかず、廊下を歩いた。ふと、そのとき、後ろから急に体を押さえ込まれ、口をふさがれる。
(え?)
鈴仙は、ふと急に押さえ込まれてから疑問符を上げた。間が抜けているようだが、実際、まったく抵抗ができなかったのだから仕方がない。
そして、抵抗できない間に首輪がぐっと引っ張られた。すごい勢いで、まるで無理やり引きはがそうとするように。
「い、――、っ!!」
鈴仙は、押さえ込まれた口の中で叫び、びくびくびくと体を硬直させた。言いようのないほどの痛みと快感が膨張し、脳という脳の中で灼熱(しゃくねつ)のようにはじけ飛び、真っ白になる。
「……んんんんうりゅううううううううううううううっ!!!!!?????」
鈴仙は叫び、ものの数秒で意識を失った。
暗転。
(……ふふ)
くすくすとした笑い声で、意識がゆっくりと頭をもたげた。目の白い部分がまだ熱を帯び、ちかちかと瞬いているようだった。
「あ、う……?」
鈴仙は、まだちかちかとするまぶたを開き、天井を見やった。
(永、遠、亭……?)
「あら。おはよう」
ふと、誰かの声が言った。鈴仙はそちらを見やろうとして顔をしかめた。
「ああ。無理はしなくてもいいわよ。寝ていなさい。今、お茶を入れるから」
声が言った。
「あなた、廊下に倒れていたのよ? 見つけて運んできたんだけど」
鈴仙は、身を起こそうとしたが、うまく体に力が入らなかった。どうにか上体だけは起こして、頭を押さえる。
(うー?)
「無理しては駄目ですよ。今日はお仕事はないんでしょう? ここで少し休んでいきなさい」
寝台の脇に声の主が寄ってきて、鈴仙の体を寝台に寝かせた。爽やかな桃の香りがしたので、ちらりと見やると予想通り豊姫だった。
「は、はあ……」
鈴仙は豊姫に言われるままに、寝台に横になった。豊姫はその間に部屋の隅に行き、かちゃかちゃと陶器の音を鳴らした。
「それにしても大丈夫なの? 少し疲れているんじゃないかしら? 依姫は優しい子だから、あなたをこき使うなんてことはないだろうけど、少々、気詰まりなところもあるんじゃない?」
「あ、い、いえ……」
「本当、永琳様も、お付きにするんならどうして私にしてくれないのかしら。別に逃がしたり悪巧みしたりなんてないのにねえ?」
豊姫は言いつつ、ティーカップを載せた盆を持って、こちらへやってきた。寝台の脇の小さな台にカップを置く。
「はい。お茶よ。疲れと緊張をとる効能があるものだから、飲んでおきなさいな」
「あ、ありがとうございます……」
鈴仙は、何か懐かしい感じを覚えつつ、カップを手に取った。おそるおそる口をつけると、桃のような薄い香りと、ほどよい熱さの茶が、喉を流れ込んでくる。
豊姫がよく入れる、桃の茶だ。豊姫の作る菓子によく合う、ほのかな甘さの茶で、鈴仙も、依姫とともによく振る舞ってもらった覚えがある。
「ああ、よかったらこれもつまんでみてちょうだいね。お茶に合うと思うわ」
そう思っている間に豊姫が言い、小さな乾菓子を皿に乗せてきた。見た目は金平糖のような、シンプルだが見栄えのかわいらしい粒菓子である。
「どう?」
「あ。美味しいです」
「そう。よかった。砂糖菓子は最近手を出したのだけど、なかなかできばえがよくなくてね。わりと失敗してしまうのが多いのだけど」
豊姫は柔らかく笑って、自分の分のカップに口をつけ、菓子を一つつまんだ。鈴仙は、その姿を見るともなく見つつ、茶をすすった。
「ところで、聞きたいのだけど」
「あ、はい?」
「あなた、依姫のことを内庁に密告した?」
「……。え?」
「今日、依姫が査問に行っているのは、おそらくあの者との同衾が原因だと思うわ。誰かが内庁に告げ口したのね。もっとも、なぜそれが信用されたのかは分からないけれど」
豊姫は言って、こちらを見た。鈴仙はぎくりとして息を詰まらせた。
「そ――」
「うふふ。冗談よ。あなたの言で内庁が信用するわけがないじゃない。大体先方では私たちの立場を重視しているし、めったなことでは失脚させたりはしないわよ。月の者は穢れを嫌うから、制裁なんて事は、起こらない。私たちはそういうものから脱却し、穢れから脱却した精神性を勝ち得たのだもの。そのようなものを抱えていると思うなんてこと自体が、馬鹿馬鹿しいことだと思わない? もっとも地上の多くの者が、あるいは、この世界の観測者たちには、そんなこと、どうだっていいことなのだけどね。ただ私たちはそれを見て、書いた者の神経をはかりかねて、反応に困った顔でもしていればいい。彼らは反応さえされれば、それでいいんだもの。「現実」がどうであれ、しょせんは「私たち」は現実に存在する者ではないのだから、真剣になる方が、むしろどうかしているのよ。ねえ?」
豊姫は笑って、鈴仙の顔を見た。
「あなたもそのうちの一人。上げへつらって笑う人たちは、主義主張を建前にして、ただ上げへつらって笑うだけ。こんな可能性はないだなんてこと、誰が決めつけられるでもないことを決めつける人たちがそうして笑いの的になるのも当然なのよ。どちらも愚かで無知で滑稽だからね。そう、そんなことはどこにだってある。でも今はそんなことはどうだっていい。重要じゃない」
「……あ、あの……?」
鈴仙は言いかけて、ぎくりとして息を詰まらせた。豊姫は笑ったまま、のぞき込んでいる。
笑っていない目で。こちらの目を。
鈴仙は金縛りにあったように、その目をのぞき込み、そして感じ取った。わき上がるような何か。
殺意。
「本当、まったく、依姫も兎さんよね。つんけんしておいて、寂しがり屋なんだから。まあ、もうすぐあれとはお別れなのだし、仕方がないから、許してあげようかな」
「は、はあ……」
「これは依姫には内緒よ? 直前に教えて、びっくりさせたいからね」
「……?」
「あの浦島子という人には、死んでもらうことにしたの。こちらのことを言いふらされても困るからね」
「つ、月では、殺生は、穢れだと……?」
「あら、地上ではこのように教えているそうよ。獣は殺してはいけないけれど、穢れたものである豚や牛は殺して食べてもいいんですって」
(……違う?)
鈴仙は思った。これは、豊姫なのか?
「な、なぜ、そ、そんなことを、依姫様には伏せているんです……? 一番に伺うべきでは……」
「依姫?」
豊姫は言って、くすりと扇子の影で笑った。
「ああ、そうねえ。依の意見も聞かなければならなかったわねえ。そういえば。でも、どうせ話せば賛同してくれただろうから大丈夫でしょう。あの人はとっても思いやりが強いんだもの」
豊姫は笑って言う。鈴仙は、寒気を感じて体を動かした。
思った以上に大きく動いた腕が、寝台をそれ、近くの台に当たる。体が動く。
鈴仙は起き上がった。
「あ、ありがとうございました。し、失礼します」
言いつつ、部屋の入り口へと逃げだす。豊姫は笑ってそれを見送っていた。
鈴仙は、もう一度その目を確かめることができなかった。赤かった。
一瞬、見えた目が。月の海の光を写したように。
翌朝。
依姫が帰ってきたようだ。鈴仙は、手伝いに入った自室でその姿を見た。
「ああ、お帰りなさいませ、姫様……」
鈴仙は言った。依姫は、なぜかその顔をじろりと見やった。
(うん?)
そのまま、しばし無言で見つめられ、鈴仙はひるんだ声を上げた。何だろう。
「……。あの、なにか?」
「……」
依姫は無言で返したが、しばしして、けげんそうに眉をひそめた。小さく首を振って、目をそらす。
「いや、あなたじゃない、か……? しかし、そうじゃないと他に考えられないし……」
依姫は、ぶつぶつとつぶやいた。鈴仙は居心地の悪さを感じつつ、目を泳がせた。
「ねえ、実はね。今日の査問で少しおかしな事を聞かれたのよ」
「は……? はい……」
「なんでも、私が数日前、浦島と同衾していたと言うが、事実か否かとね。何でも、内庁にそのような密告があったらしくて、内庁側もそれを信用に足るものと判断したらしいわ」
依姫は、考えるような顔のまま言った。鈴仙は、何を言われているのか一瞬遅れて理解した。
「そ、そんな! 私!」
「誰にも言わなかったのね」
「い、言ってません!言ってませんよ!誰にも!」
鈴仙は必死で言った。しかし、依姫は、それをあまり信じていない顔つきで見た。
「でも、それだとあなた以外に知っている人がいなくなるわね。すると密告したのはやっぱりあなたということになるのかしら。もちろん、その場合、内庁が信用するのはおかしいから、あなたはやはりどこかから送り込まれた間者ということになりますね。記憶がないというのは巧妙な演技で、貶めるための材料を探っていた」
「違います! 違いますって! なんですかそれ! おかしいですよ、依姫さま!」
「言っておきますが、私は永琳様を尊敬はしていますが、信用はしていません。あの人は、冷酷な人だし、危険で恐ろしい人だ。今日はまだ親しげにしていて大切にさえしているようでも、明日それが必要であればもう捨てる準備をしている。あれだけの力をもちながら、あの人には思想や行動の規範というものがないのです。私はあの人が好きですが、この世の誰よりも恐ろしい」
「あ、それはわかりますけど、あ、い、いえ――」
鈴仙はちょっと気まずそうに言いなおしたが、依姫はどっちみち聞いていないようだ。
「あの人ならあなたが意識しない間に、あなたを送り込めるのかもしれない。あなたはおそらく、本当に何も知らないのだわ」
「……」
鈴仙は困惑した面持ちで黙り込んだ。ふと、急に何かが思い浮かびそうな錯覚にとらわれ、かるいめまいを感じる。
「……ねえ、そういえば、あなたね。なぜ、あのときあそこにいたの?あんな時間に、身の回りの世話の者なんかは来ないはずなんだけど。何の用事があったのかしら」
「え? ですから、お召し物を――」
あれ? と、言いかけて鈴仙はふと思った。服?何を言っているのだろう。
自分で自分に問い直す。あのとき自分は手ぶらだったではないか。
「……あなた……」
依姫が言った。その表情が険しくなっていた。
剣のんな気配がふくれあがり、剣の鞘が鳴った。見やるといつの間にか、鯉口に指がかけられている。
鈴仙はいすくんだ。
「……正直に答えなさい。いったい、誰に頼まれたの?」
「ち、違――」
「言いなさい! 誰に頼まれた! 姉様か? それとも――」
「ひっ――」
鈴仙は、思わず悲鳴のような息を漏らした。依姫のけんまくに、ではない。
一瞬見えた依姫の目の色を見て、愕然とする。赤い。
月の狂気に当てられた者、特有の、あの目の色。そのまま、何も言えずにいると、依姫は、不意に表情を険しくした。
目の前の鈴仙に対してではなく、何かに気づいたように。
「まさか……浦島? 姉様!」
依姫は言うと不意に、鈴仙の体を押しのけた。鈴仙は思わず体を引かせた。
「わっ」
鈴仙が言う横で、依姫はそのまま部屋の扉を開いた。が、外へ出たところで、不意に立ち止まる。
「……。何ですか?」
依姫が尋ねる口調で言った。鈴仙は、目を動かして、依姫の肩越しに扉の外を見やった。
見やると、部屋のすぐ外には衛兵が二人おり、依姫の前に立ちふさがっている。
「依姫様。申し訳ありませんが、お部屋にお戻りください」
衛兵が言った。依姫はかすかに眉をひそめた。
「どのような理由ででしょう」
「依姫様には、内庁より、今後三週間の御室謹慎の要請が出ております。速やかにお部屋の中へお戻りください」
「……。そのようなことは初耳ですが」
「達しが来たのはつい先ほどです。お耳にお入れするのが遅くなり申し訳ありませんが、われわれは正式に仰せつかってここにいます。どうかすぐにお部屋の中へお戻りください」
「申し訳ありませんが聞けません。そこを退いてください。姉様に危急の用があります」
「なりません。自室にお戻りください」
衛兵が言うと、依姫は表情を消した。二人を無視して、無言のまま間を通ろうとする。
「依姫様!」
衛兵が言い、構わずに行こうとした依姫の肩をつかんだ。依姫はその手を取ると、衛兵の足を払い、打ち倒した。
もう一人の衛兵が、顔を険しくして、刀に手をかける。依姫は起き上がるなり、衛兵の腰から奪った刀を抜いて構えた。
「依姫様!! ご自重なさいませ!」
衛兵が言い、刀を抜いたが、それより早く下から走った依姫の剣に斬り上げられ、勢いよく首を飛ばした。重たいものが床を打つ音を後にして、依姫は髪を翻して歩き出した。
呆然として依姫の蛮行を眺めていた鈴仙は、やがてはっとして、その場からまろびでるように走り出した。
「よ、依姫様! お待ちください! うおっ」
鈴仙は、すぐ足元に転がった首に悲鳴を上げつつ、それでもなんとか部屋の外を見た。
(い、行かなきゃ――!)
自分を奮い立たせて、入り口から飛び出す。が、そこでがっと足をかけられ、いきなり派手にすっころんだ。
痛い、とうめく間もなく、何者かに馬乗りになられ、がしりと手首を押さえられる。ものすごい力だ。
(な、なに!?)
鈴仙は、あわてて上を見て、自分にのっている者の顔を見た。てゐ。
「て、てゐ!! あなた、なにするのよ!?」
「鈴仙ちゃんみーっけ」
上にいたてゐは言うと、かちり、と何かのスイッチを入れた。キイイイイン、と何かが高速で回転する音が聞こえてくる。
鈴仙はその音の元をたどり、てゐの手元を見た。どうやら工作用に使う小型のドリルである。
「これ、なんだと思う?」
てゐは言って、右手の器具をみせびらかしてきた。
「いやあ、鈴仙に一番に試したくてさあ。ごめんごめん、ほら、あれ以来なんかあなたいたぶる癖になっちゃってねえ」
てゐは言うと、鈴仙の髪をつかんで頭を押さえ、片手に持った器具を持ち上げた。それが押さえつけられた鈴仙のまなこの当たりに突きつけられ、今しも押しつけられようとしている。
(なっ)
鈴仙は、てゐが何をしようとしているのか一瞬でさとって、血の気を引かせててゐの腕をつかみ、押し戻そうとした。だが、すごい力だ。
体格が上回ってるのもあるだろうが、とても押さえきれない。
「ま、まてっ!! 待って! てゐ! 何!? 何するのよ!?」
「ん? ん? 何って何? いや、もちろん鈴仙ちゃんを穴だらけにしようかなって。ほら、これいい音でしょ? ズブブっといくよー。一瞬で行くよー」
「ちょっと! やめてよ、てゐ! やめっやっやっ」
(うっうそっやばっやばっ)
鈴仙は、心の中でさえ悲鳴を上げた。押さえた腕が押される力に負けて震え、徐々に器具の先端が押し込まれていく。
(ちょっちょっとっ……やだっ……!)
「てゐ!! やめて! やめて! やめ、やめぇっ――やめろって言ってんでしょうが!!」
「おぐっ」
てゐは、いきなり鈴仙の膝に腹部を蹴り上げられて、ひるんだようだった。その隙に、てゐの肘の内側を狙って、両手を組み合わせた肘打ちを放つ。
てゐの腕がしびれて力がゆるんだところで、さらに反対に腕を振って返し、素早くてゐの下を抜け出す。さらに平衡を失ったてゐの肘の外側を打ち、前のめりにくずれ込んだところで、再度、最短の動きで肘を振り上げると、体重を乗せつつ、延髄をめがけて力任せに落とした。
ごぐ、とものすごく嫌な手応えがして、てゐは、びくりとふるえると、うめき声一つあげずに動かなくなった。ぐったりと体から力が抜けている。
どうやら、見事に急所に入ったようだ。鈴仙は、今更はっとしつつ、おそるおそるてゐの様子を見た。
(……、し、死んでないわよね?)
内心で思いつつ、てゐの顔をのぞきこむ。さすがに呼吸があるかどうかまでは確かめる余裕がなかったが、完全に白目をむいて、舌を少し出しているだけだった。
(大丈夫大丈夫)
たぶん、と付け加えて、鈴仙はとりあえず立ち上がった。まあ、間違いなく生きてはいるだろう、妖怪だし。
「ぎゃあああああああっ――!」
ふと、そのとき、すぐ近くの角あたりから、悲鳴が上がった。鈴仙は思わずそちらを見て、何かが倒れる物音と、短い悲鳴と、なにか幼い感じの笑い声を聞いた。
そのなにかが暴れるような音はしばらく続いていたが、唐突に止んだ。一瞬、しんとなったほうから「ありぇー」という舌っ足らずな声が聞こえ、やがて、ぺたぺた、ずりずりり、という、何かを引きずっている音が聞こえた。
やがて、角を曲がって、やたらちみっちゃい人影が現れた。輝夜だ。
なぜこんなところに居るのか知らないが、その姿を見て、鈴仙ははじめ、輝夜がどこかにけがでもしているのかと思って、一瞬あわてた。だが、違っていた。
どうやら、全身についているのは返り血のようだ。信じられないほどおびただしい量だが。
まるでやんちゃないいとこの姫が、どろんこ遊びをして、どろどろになったかのように、顔やら髪やら鼻の頭やらに、真っ赤な血のかすがこびりついている。右手に何かを引きずっていた。
指の間からのぞいているものを見ると、髪の毛のようだ。ふと、こちらに気づいた輝夜が、ぱあーと顔を笑わせる。
「あー、うしゃしゃん!」
輝夜は叫ぶと、手に持った誰かの頭を放り捨てて、こちらに走り寄ってきた。そうして、もう片方の手に持った武骨に光る、分厚くどでかい頭部のついた何かを振りかざした。
ごとん! ごろごろごろと水っぽい音を立てて、放られた首が転がっていく。そちらを見ると、兎の耳をなくした玉兎の一匹の顔が、恐怖に目を見開いたままの顔で、うつろにこちらを見ているようだった。
「うしゃしゃ~ん。あしょぼ~」
「っぎゃああああああああああああ!!」
「うしゃしゃあんあしょぼー」
輝夜はにぱーと笑って言いつつ、手に持った斧を振りかざしてこちらへ走り寄ってきた。斧、といっても、かなりでかい斧である。
少なくとも鈴仙を一目でびびらせ逃げ出させるほどにはごつく、とても幼女の腕には持てそうにない。しかし刃にべっとりと血と髪の毛と肉っぽいものがついているし、よく見れば輝夜の服は血まみれだし、その血まみれの片方の手には何か赤黒い長いものがどっさりとにぎられている。
それはまるで根本から切り落とした兎の耳のようだった。それはそのものだったが、鈴仙の脳は受け付けるのを拒否した。
「うしゃしゃ~んの耳~目ぇ~はにゃ~ちょうだ~い」
「ぎゃあああああああああああっ!!」
「にゃはははははっ」
「やめっちょっ姫っやめえっ!!」
鈴仙は言いつつ、必死で逃げ出した。輝夜はその短い足では追って来られないはずなのだが、なぜか軽々と追いついてきた。
後ろで斧を振るってくる。
「うしゃしゃ~んまちぇ~」
「ぎゃああああああっ!!」
「うしゃしゃ~んまちぇ~」
「ぎゃあああああああああああああっ!!」
「まちぇ~、うしゃしゃ~ん」
「ぎゃあああああああああああっ!! うおっ! はっ! うっうおおおおおおおおお!?」
鈴仙はなすすべなく逃げまどった。道も分からず足元も見ずに大急ぎで角を曲がる。
「うおっ!? はぐっ」
そして、角を曲がったとたん何かにけつまずいて、そのまま派手に転倒した。
「いったぁ……うおおおッ!?」
すかさず後ろを見やると、首と腕のないブレザー姿の人が倒れている。いや、もちろん死んでいた。
だが、あまりのありさまに、一瞬よくできた人形かと思った。まるで誰かにお人形遊びでもされたかのように、その腹がかっさばかれていて、そればかりか、仰向けになった腹からわざわざ引きずり出された形で辺りに中身がぶちまけられていた。
「ひっ――」
「うしゃしゃ~ん。ちゅかみゃえたぁ~」
「ひっ!」
(ぎゃーっ!! ぎゃーっ!!)
鈴仙は悲鳴を上げたが、斧の刃は無情にも振りかぶられた。そのまま、一息にひゅっ、と振り下ろされ、るかに見えたが、そこで刃は止まっていた。というか、すでにそこになかった。
「いけませんわ、姫様。そのような野蛮なもの、持ってはいけません」
輝夜の後ろで、いつのまにか現れた永琳が言った。片手には、血まみれの斧の刃を持っており、それが、見る間にふっと消え去った。
「ありえ~?」
輝夜は言って、自分の手と後ろの永琳とを交互に見た。そして、とたんにむくれた顔をすると、永琳に詰め寄った。
「んうっ。えーりんっ。おにょおっ! きゃえしちぇっ!」
輝夜は怒った様子でいったが、永琳はそれをたしなめるようにほほ笑んで、頭をなでた。
「はいはい。申し訳ありません。姫。後でお相手をいたしますから。先にお戻りくださいね」
永琳は言うと、指を鳴らした。すると、一瞬でそこにいた輝夜の姿が消えた。
「さ。行くわよ」
「し、しじょう~! こわがっだですぅ~!」
「ああもう面倒くさいなあ。えい。びしっ」
「いたっ! んはっ!? あれっ!? ここは!?」
鈴仙が正気を取り戻して騒ぐのに、永琳はムチをしまった。
「おはよう鈴仙ちゃん。状況が分からないならもう一発いっておく?」
「あ、いえ。わかりました。すみません」
零戦は行って、脇の死体から目をそらしつつ、師を見た。
「し、師匠、姫は……?」
「この世界からはいったん消したわ。まだ目覚めはしないでしょうけど。こっちに主導権を持ってくるのにずいぶん時間がかかってしまったけど、ようやくここから反撃できるわ。さ、急ぐわよ」
永琳は言って歩き出した。鈴仙もそれについて、廊下を歩き出した。
「いっ――」
歩き出してすぐ、二つほど角を曲がったところで、鈴仙は思わずうめいた。
(なに、なにこれ……!)
鈴仙は激しく混乱してうめいた。廊下には様々な衛兵の体が死屍累々と横たわっていた。
炭化した者や首をはねられている者、また一体何にやられたのか分からない、頭頂から股間まで、まっぷたつにされている者、内腑がはぜた者。これを依姫が一人でやったというのだろうか。
二重の意味で信じられない。永琳は、その中を気にせずに進んでいく。
鈴仙も従うしかない。
(月人同士で殺しあいだなんて――こんなの考えられない!)
死体、死体、死体。本物の死体!
(嫌ァ――)
頭がぐらぐらして、天地が失われかけた。こらえがたい吐き気がした。
実際に戻しもした。膝をつき、突っ伏して、喉から沸いてきたものを、なすすべなく床にぶちまける。
こんなの、ひどすぎる!
「鈴仙! 何してるの! 立ちなさい! 置いていくわよ」
「嫌です! 嫌です! 私、戦いたくない! 月のためになんか戦いたくない! 怖いのは嫌! 死にたくないんです! 嫌!! 嫌ァっ!!」
「よし、わかったわ。帰ったらスペシャルミックスヤゴコロジュース入り☆マルチ拷問お仕置きコースね」
「嫌、嫌です、こんなの見たくないです! 見たくないんです! お仕置きするなら勝手にやってください! 嫌です、こんなところにいるのはもう嫌ぁっ!! おう――」
鈴仙は言いながら、残りのもついでにはき出した。服が汚物でびちゃびちゃと汚れ、喉が痛み、涙が目からぼろぼろとこぼれた。
「……。まあ、そういえば無理に来る必要はないのだけど。置いてこうかしら」
永琳はぶつぶつ言って、少し考えるような沈黙をした。
「とにかく、ほら、立って。落ち着けるところに移動しましょう」
永琳は、そう促して、鈴仙を立たせると、背を押して歩き、死体の姿の見えないところを探して、近くの階段の踊り場までやってきた。
「ちょっと座っていなさい。水を持ってくるから」
「あ、い、いえ……自分で……」
「おとなしくしていなさい。そんな状態で動いたら倒れるわよ」
永琳は言って、立とうとする鈴仙をおとなしくさせ、その場を離れた。ほどなくして水の入った器を持ってきて、鈴仙が受け取ろうとするのを制して、自分の手で飲ませる。
「口元をふいて」
永琳は、白い布を差し出して言った。鈴仙は布を受け取って、口元と手をぬぐった。汚れたブレザーやスカートも、申しわけていどにぬぐう。
「落ち着いた?」
「はい、あの、すみません。本当……」
鈴仙が縮こまって言うと、永琳は少し表情を微妙な風に和らげた。
「……まあ、あれね。うん。気にしなくていいわよ。まあ、おそらくあれは、全部本物の死体ではないから」
「え?」
「さっき見たら、残らず砂みたいなものになっていたわ。どうやら、だんだんとこの世界もぼろがはがれてきたわね」
永琳は言った。鈴仙はまだ目をぱちくりとさせて聞いた。
「あれは本物の人間じゃないってことですか?」
「ええ。やはりこれは、何者かが作り出した幻覚ね。その幻覚は、今明らかに何らかの作為によって狂いはじめている。それに乗じて一体何を狙っているのか、あるいは狙おうとしているのか……」
「あの依姫様たちも……」
「さて、それはまだ分からないわ。あるいは……そう。私たち自身もむしろ幻覚という可能性はあるわね。思い出して、私たちはとても不確かな経緯でここに来た。いえ、「来た」ことすらも本当は認識していない。だから自身にそっくりの幻覚であるのかもしれない。私たちではないのに、そう思いこんでいるだけかもしれない――」
「そんな――」
鈴仙は言ったが、永琳はちょっと人が悪そうに笑った。
「可能性よ。そう論じはじめたらキリがないということ。今は目の前のことを見、判断して、そして片付けなくてはならない。さあ、行くわよ鈴仙」
永琳は立ち上がった。鈴仙はあわてて立ち上がり、それに続いた。
さっきの廊下を通り抜けようとすると、本当に死体は一つも残っていなかった。
しばし。
宮殿内。
客室。
浦島の元へたどり着くと、今まさに修羅場といった様子が展開していた。依姫と豊姫たちがにらみ合っている。
浦島は依姫の後ろにいて、数人の衛兵に囲まれている。その表情からは、今しもどうにかされる寸前であったことが伺える。
浦島のそばに斬り伏せられた者たちが転がっているのを見て、鈴仙は眉をひそめた。状況から見て、やったのは依姫だろう。
周りの者を皆殺しにして浦島を救おうとした寸前、後ろから来た豊姫たちにそれを阻まれた、といった感じだが、時間的に見ても、それは不自然だった。鈴仙たちがぐずぐずしている間に、もっと状況は進んでいてもいいはずだ。
そうして見ていると、にらみ合っている二人は、まるで二人が来るのを見計らったように動き出した。そう、今までは動きを止めていた。
「お姉様。これはどういうことです」
「どうって? ああ、その前にお帰りなさい。査問はどうだったかしら?」
「そのようなことはどうでもいいわ。これは何なの」
「そうねえ。まあ、どうでもいいことよね」
「……。お姉様。私と浦島が同衾していたのを内庁に密告したのは、あなたですか」
「何のこと?」
「もう一度聞きますよ。これは何です」
「あなたが何を言っているのかさっぱりだけど、私としては当然の処置かと思うわ。永琳様も同意見よ?」
「その永琳様はどちらですか」
「来ていないわよ」
豊姫が言うのに、依姫はしばし言葉を止めた。短く黙考して眉をひそめる。
「……あの子は関係ない。あの子はあまりに無自覚すぎる。それくらいは私にも分かる。……あの子を見つけたとき、そばにいたのは永琳様、――でも、そういうことなの?」
依姫は言って、首を振った。何かを否定して、肯定したようなそぶりで豊姫を見る。
「そう、そんなことはどうでもいい。どちらにせよ、仕組んだのはあなただわ、お姉様」
「ふん?」
「……そんなにしてまで、私と浦島の間を裂きたいのですか」
依姫が言うと、豊姫はくすりと笑った。
「あらら。当然じゃない。依ったら。そんな地上の男にあなたを攫われるだなんて吐き気がしますわ。地上の生き物なんて穢れそのもの。そんなものと交わりまぐわうのにうつつを抜かすだなんて、どうかしているのはあなたのほうなんじゃない? もう一度自分の立場というものをよく考えていらしたらどうかしら」
「浦島を殺す必要はありません。彼は――そもそも、いきなり極論に走るだなんてずいぶん安直な話じゃないですか。姉様は月の者の品位というものをお忘れになったのですか」
「品位ね。むじなのごとくぬるぬる交わっておいてよくその口が言えますこと」
「姉様は殿方を知りませんものね」
「あらら。開き直りは見苦しいですわよ、依?」
「ご自由に。ああいったことに汚らわしいことや浅ましいことなど何一つありません。ただの自然な望みですよ」
「あらまあ。依ったら、ちょっと首をつっこんだだけのくせに、大げさね。突っ走りやすいのはあなたの悪い癖ですわ」
「そんなことで姉様と言い合いなどしたくないわ。とにかくもう一度ご再考を。浦島はこのままでは殺させませんよ。あなたのわがままにつきあうのはうんざりだわ、お姉様」
「あら、じゃあどうするの? 二人で地上にでも逃げる? その方をかばうんならあなたの居場所はここにはないのよ?」
「話をそらさないでくださいまし。この凶行があなたの独断であることは明白です。ここでしくじれば、立場が苦しいのはあなたですよ。お姉様」
「しかたないなあ。じゃあやっぱりあなたを殺しちゃおうかな」
「やってみなさい!」
依姫は言うなり、刀を振るった。それとともに空間に割れ目が走り、一瞬で豊姫へと駆け抜けた。
豊姫の周りにいた衛兵たちが幾人か、声を上げるまもなく両断され、首や腕をとばしたが、肝心の豊姫はこれをさけていた。お返しとばかりに腕をかざす。
どん! と依姫の片腕が吹き飛んで、後ろへ転がった。同時にその後ろの空間がずらりとうがたれ、すっぽりと消え去った後に、奇麗な断面をさらした。
しかしそのときには、依姫は豊姫の懐に入り、刀を振り上げていた。豊姫の首から頭が飛び、鮮やかな軌跡を描いて、床に転がりはねた。
豊姫の体は、一瞬びくんとけいれんして動きを止めたが、その直後には、なんと片腕を上げた。その手のひらの先にあった依姫の腹が、突如破裂したように裂け飛び、おびただしい量の血が、無造作に飛び散った。
依姫は、さすがに二、三歩たたらを踏んだが、そのまま豊姫をにらんで、刀を構えた。
「はいはい」
そこへ、ようやく師が割って入った。呆然と見ていた鈴仙の横から歩み出る。
「まあまあ姫様方。そうたかぶるものではございませんわ。どうぞ鞘をお納めになってくださいな」
「永琳様。口を差し挟まないでいただけます?」
床に落ちた豊姫の首が言う。こちらを見て、表情をとげとげしくゆがめている。
「そうです。これはあなたの差し出る問題ではありません。控えていてください」
腹に開いた穴から中身をぶら下げたまま、依姫が言う。ちぎれた片腕のことも、何とも感じていないらしい。
「あらら、お二人とも? 永琳はあなた方にそのような口の利き方を教えましたかしら」
「何を偉そうに。たとえ珍重されていようが、あなたはわれわれに仕える従者の身の上でしょう。あまりたいそうな口をきかないでちょうだい」
「そうよ。ちょっとばかりちやほやされているからっていい気にならないでくれる?あなたなどしょせん、王族の敬意がなければ、何の権限もないただの月人に過ぎないのですよ。あまり過ぎた口をきかないでもらいたいわね」
「そうやっていつもいつも一人で何でも分かったような顔をして、結局何もできないんでしょう?」
「あなたごときが私たちの問題に口を挟む資格はないわ。控えなさい」
「静かに」
永琳が言うと、姉妹姫の声が止んだ。いや、声が止んだだけではなかった。
すべての動きが止まっていた。そこだけ時が止まったように。
「なに、悪夢の中で見ている狂気など、存外安っぽいものなのですよ。それを本質だのなんだのと、大げさに騒ぎ立てるのは、至極、滑稽なことなのです。それは、あくまでその人の一面か、ただのわかりやすい表層でしかない。そんなところを見るなら、誰だって多かれ少なかれ狂っているのです。気にするだけ損なのですよ」
永琳は言うと、静かにほほ笑んで目を閉じた。澄ましているような顔で、ほれぼれするほどに奇麗な礼をする。
「では、姫様方。一足お先にお帰りください。また、あとで。あるいは、いつかはるか遠くの時の中にでも、お会いいたしましょうね。それでは、こちらにご注目。今からみっつ数えますと、こちらの姉妹姫の姿がかき消えます。はい、ワン、ツウ、スリー!」
永琳が三つ手をたたいて、指を鳴らすと、姉妹姫の姿がぱっと消えた。同時に、残っていた衛兵たちが、一斉にこちらを向いて、銃口を向けてくる。
(ひっ――)
鈴仙は思わず悲鳴を上げかけたが、その間隙を縫うように、風を切って飛んだ何かが、あっという間に衛兵たちを打ち据え、その体を壁まで吹き飛ばして、持っていた銃さえ数発で粉々に砕いた。その謎の衝撃の先を見ると、永琳が、手にしたムチの柄を引き戻すところだった。
そうして、素早く脇に目を配ると、ばっと残った片手を掲げて、鋭く指を鳴らした。
それに呼応して、空間が震え、視界の先にあったものはすべて粉々になり、吹き飛んだ。その中で浦島だけが原形を保っている。永琳がそれを見て、わずかに眉をひそめるのがわかった。
「――くくっ」
浦島が言い、砂になった衛兵の脇に、杯を落とした。これも原形を保っている。
外れたのではない。
「……はっはっはっは……」
浦島は笑って立ち上がった。
「そうだよ。俺だよ。八意永琳。お久しいな。相変わらずお若く美しくていらっしゃる。あんたはまったく、年も取らずにな」
言ってどこか芝居がかったように腕を上げて、続けてくる。好ましい顔はもはやみじんもなく、醜悪な老人のような表情が、青年の顔に貼りつけられている。
「あんたの持たせてくれた玉手箱のおかげで、俺はまったくひどいざまだ。俺があの後、どうして死んだのか知っているか? あ? 分かるだろ? 分かるよな? そうだよ。これは仕返しさ」
「仕返しね」
「そうさ。お前はもちろんだが、お前だけじゃない。月の連中はどいつもこいつもみんなさ。みんな引きずり込まれればいい。この世界にな。ははは。知っていたかね? 俺は、実は、豊姫や、依姫よりも、あんたのその永遠にも思える美貌にこそ心をひかれていたのさ。まるで永ごうの時を経てもついぞ変わらぬような、その白せきのごとき美しさにね。依姫に懸想したのもそのためさ。あの姫には、どこかあんたの面影があるからな。依姫はそれに気づいていた。あのあんたへの敬意に満ちた顔の裏では、あんたに力で負け、女としても負けた嫉妬がいつも渦巻いていたのさ」
「昔のことなどどうでもいいわ。下せんな地上の男にそのように思われていたとは殺意がしそうね」
永琳は言って、いぶかしんで浦島を見た。
「では、この妙な世界を仕組んだのはあなただと?」
「そうさ。その通り。何だ? その顔は。疑っているのかな? 俺にはできないと? それともまだお前は気づいていないのか? 存外鈍いな。俺はあんたなんだぜ? そして、あんたそのものでもある。まだ気づいていないのか? ここがどこなのか。ここがなんなのか。あんたがやったことだろう? あんたの知っていたことだろう? どうして気がつかない?」
「……違うわ……」
永琳は眉をひそめて歩み寄った。目の前の浦島の顔に手をかざす。
そのときの師の顔は、なにかに気づいて困惑しているようだった。そう見えた。
何に対してか分からない。あの師が、心底から意表を突かれて、がく然とつぶやく様子を、鈴仙は初めて見た。
「あなたじゃないわね。黒幕は……本当の黒幕は……誰?」
永琳が言う。すると、手のひらをかざされた浦島子の顔が溶け、下から別な顔が現れた。白せきの美貌をとどめた、麗しい女の顔。深い青と重厚な赤で区切られた衣をまとい、豊かな女性特有のふくらみが布地を押し上げ、天の星の羅列をそのままもしたような不可思議な意匠をちりばめた裾が、柔らかなラインを描き出す。
その千年の時を経ても生み出せない唇を笑わせ、目の前の、驚がくして色を無くした女の顔を見やり、腕を上げる。
「「そう」」
女が言った。師とうり二つの顔の女が。
「「あなたが黒幕よ」」
二人が同時に言い、そして、今まで鈴仙が師匠と呼んでいた方が崩れ去った。そうして新しく現れた方の永琳だけが、そこに残る。
「そう、ついでに、さっきの続きを言いましょうか。なぜなら狂気とは、現実には存在しないもの。あるいは、表現しようとすれば消えてしまうものなのよ。悪夢やフィクションという媒体で表現され、あぶり出されるようなものは、すでにもう狂気とは呼べない。なぜなら、悪夢やフィクションといったいわゆる虚構もまた、しょせんは現実の一部であるから、そうして狂気と呼び慣わされたものはすでに狂気ではない。それは、あくまでわれわれのイメージや想像力を超えるものではない。たとえ何億年生きようとも、この器である以上、それは変わらない。狂気は、もっと身近にあり、根本的なところにあり、寄り添ってあるものであり、でも見ようとすれば、陽炎(かげろう)のように消えるでしょう。逃げ水のようにうせるでしょう。狂気とは、見ることはできず、聞くことはできず、触れることもできない。でも、確かにそこにあるもの。そういうものをこそ狂気と呼び慣わす。分かるかしら、優曇華?」
「……分かりません……」
鈴仙は呆然としつつも、ついいつもの癖で答えていた。師はちょっと笑った。
「そうね。でもそれで正解よ。分かってしまったら、それもまた狂気ではなくなる」
師は笑ったまま言った。その顔は、いつもの師の顔だった。
そう、本当にいつもの師の顔。ああ、これか、と鈴仙はぼんやりと思った。
(これだったのか……)
違和感の正体は。師に感じていたいいようのない違和感の正体は。
あれは、ただの投影された師の一面のようなものだった。水面に映した月のようなものだった。
そっくりだが、どこかぼやけてゆがんでいた。目の前の師の笑顔は、それらを吹き飛ばしてぴたりと当てはまっていた。
「あなたは――あなたが、師匠、なんですか」
「おや。あなたにしてはなかなかいい質問ね。じゃあ、うすうすは気づいていたのね。そう。私が八意永琳。あなたのお師匠様よ。優曇華」
「さっきまでいたのは――」
「あれはただの影みたいなものね。」
あれも私ではあるのだけど、いろいろ主観と客観が入り交じって不明瞭になっていたわね。そう、本当の私はこっち。さっきまでは浦島子と呼ばれていたのがそうとも呼べるかしらね?
「ここは――ここは、別世界や幻なんかではないんですね? ここは――あなた、一人の意識の中なんですね?」
「ええ。それも正解。まあ、冷静になればあなたにはわかるか」
師は、微笑したまま言った。
「アレは、自分で自分だと思いこんでいたでしょうけどね。自分が自分の一部であるとは気づいていなかった。長く生きすぎた私の中は、ああいういくつもの私が存在している。ここにいるものは、どれもすべて私なのよ。綿月姉妹、姫、あなた、てゐ、浦島子、それだけではないすべて。ここにいる人すべてが、私の中で、独立した意識として常に存在している」
「あなたは、なんなんです? 人間なんですか?」
「ええ、人間よ。ただ少し極端なだけ。自分の中に他者の一面を持つことは、誰にだってある事よ。私は少しばかり長く生きすぎたので、このような形で現れているんだけどね」
「これはなんなんです」
「そうね。まあ、一言で言えば意識の葛藤かしらね。私も一枚岩ではないから、どれだけそれが総意だったとしても、必ず離反する者は出てくるわ。それは、私自身の意志では消せない。あれも私で、私自身を消し飛ばせる力くらいは持っているからね。だから、こうやって注意深く慎重に事を運んだ。回りくどくなったのは、無駄じゃなく、それだけやらなければ私にもできなかったからよ」
「私もあなたの一部でしかないって事ですか? あのとき言っていたことは全部うそだったんですか?」
「そうね。うそかと言えばうそではないわ。今、現実のあなたはたしかに私や姫様と同様に眠っているし、このままだと衰弱死するわね。だってさっき、てゐも取り込んでしまったから。あなたたちは、平たく言えば私の意識に意識を食われ、私の中に生まれ変わったような状態なのよ。だから今のあなたは私であってあなたでもある。なぜなら、まだ体が死んでいないからね。もし体が死んでしまえば、あなたとあなたは完全に分かたれて、あちらのあなたは幽霊になって、そして、こちらのあなたは私の一部となって生き続ける。ここで永久にね」
「そうか――依姫様たちの方が、先だったんですね。師匠よりも」
「そう。それも正解。あの子たちはとっくの昔に取り込まれて自我を無くしていた。まあ、それでも体の方は、あと何千年という単位で死なないでしょうけれど」
「なぜこんなことを」
「なぜ? 決まっているでしょう? 飽きたのよ。そう、何もかもあきあきしたのよ。まったく、誰も、彼も、どれも、これも。死ぬほどに退屈だわ! まあ死ねないんだけどね!」
「……」
「毎日毎日、馬鹿な姫の世話焼きにご機嫌取りに馬鹿な弟子やら馬鹿な兎どもやらの世話焼きや、馬鹿な連中の相手やら。うんざりよ。あんな連中でも、少しは暇つぶしになるかと思ったけど、もう限界よ。こんなところにはもういたくないと心の底から思い続けて、とうとう数百年もたってしまった。まったく無駄きわまりない時間だわ。そう、盛大な時間の無駄。腹の足しにもなりはしない。割り切るのにも限度というものがある」
「違うわ……」
鈴仙は言った。どこか呆然としつつも、何かが冷めた目で師を見る。
「違うわ……あんたは……あんたが私の師匠ですって? 違うわ……」
鈴仙は、首を振って言った。誰に言うともなく、続ける。
「あんたが私の師匠ですって? 違うわよ……私の、私の師匠はね……八意永琳様はね、もっと……もっと、そう。そうね。変な人なのよ。あんたみたいにまともなことなんて言わないのよ。もっと……もっと、ものすごく変な人でね――」
「おや。どうかしたのかしら? ふむ。なにやら目が現実を見ていないようだけど」
「変なとこで常識かけてるし、イヤミなくらい自信満々だしね。わかりにくいの。もっとわかりにくいのよ。あんたみたいにわかりやすいことなんて言う人じゃないのよ。あんたが師匠ですって? 誰よあんた? 私の師匠はあんたみたいにまともな人じゃないのよ。すごく頭いい人なのに変な人でね。普段は厳しいことばっかり言うし、自分基準で人にもの要求するし、そのくせ変なところで優しくてね……」
「まあいいわ。それならそれで。あんたなんかどうでもいいことにかわりないしね。狂ったなら狂ったでペットにでもして、鎖でつないでおきましょう」
「師匠……」
「まったくなぜ私がいつまでもこんな場所でくすぶっていなければいけないのよ。以来千年。出会う輩はどいつもこいつも馬鹿ばかり。いい加減に飽き飽きしてくるわ」
「師匠……」
「あのお馬鹿なお姫様にも、確かに最初は責任は感じていたけどそれももう限界。毎日毎日、調子合わせのご機嫌取りで退屈しきり。へどがでるわ。こんな暮らし」
「師匠……」
「でもこれで何もかも終わり。本当に終わり。私はここで永遠に暮らすわ。穏やかで時が止まったように静かで……誰にも邪魔をされない暮らし! なんてすてきなのかしらね! 豊姫と依姫はいい子だし、弟子は私に振り回されていつまでもあたふたしてくれるし、あのわがままなお姫様は永遠に子どもの姿でいるのがお似合いだわ! ああ、なんてステキ」
「師匠」
「地上とはこれでおさらば。私は永遠に眠り続ける。誰にも患わされることなく、この夢の中で。これこそが真の自由ってやつね! ああ、私は今本当に自由だわ! 今から私の本当の人生が始まるのね!」
「師匠っ!!」
鈴仙は勢い込んで顔を近づけた。頭突きが出来るほどに、鼻先をぐいっと。
「……なによ?」
「全世界ナイトメアってどう思います?」
「は?」
その瞬間、師の目は間違いなく鈴仙の目にくぎ付けになった。当たり前だが。
なにせ顔も逸らせないほど、視界一杯に、彼女の弟子の顔があるのだから。
その気を逃さず、ぱん、と鈴仙は両手を打ち付けた。あっさりと術にかかった様子の永琳が、ぴくん、と鼻先を動かす。
「はい、では、そのまま私の目をじっと見てくださいね。いきますよー。はい、ワン。ツウ。スリー」
鈴仙は、ぱん、ぱん、ぱん、と手をたたいて、ぱきっと指を鳴らした。永琳は、一瞬だけほうけた顔になった。
「……」
それからやがて瞳が重たく下がり、完全に閉じられた。頭が大きく傾ぐ。
そのまま永琳は糸の切れた人形のように、床に倒れた。倒れると同時に、周囲に立っていた人影も、細かい砂粒のようになった。
同じくして、回りの景色があめ細工のようにぐにゃりとひん曲がりだし、視界が遠近感をなくし、油絵の具で塗りたくったカンバスの上にシンナーをぶちまけたように、どろりと溶け始めた。平衡もなくなり、鈴仙は、意識が遠のいていくのを感じた。
(……やった、の、かな?)
景色ががらがらと崩壊していくのを感じながら、鈴仙は、つぶやきつつ、なぜか片隅では、まったく本人にでも聞こえていたら絶対にただではすまないようなことを考えていた。なによ? だって。
(……師匠ってさ、やっぱり案外かわいいところあるのよね)
そうして意識がかき消え、鈴仙はどこか暗い海へと沈んだ。真っ暗な深海の底へと。
だが、今度、見える景色は深海ではない。海の上のきれいな青空と、あの空に浮かぶ白い月だ。
間。
暗闇。
「ええ。ええ。――ええ。ええ、どうもご迷惑をおかけして――ええ。はい。ええ。それでは。またいつか。ええ」
師の声を遠くに聞きながら、鈴仙は、うっすらと意識が醒めるのを感じた。受話器を置く音が耳に届くのを聞きつつ、重たいまぶたを持ち上げる。
何か、ひどく頭が重い。鈴仙は、のろのろと上体を起こして、はっきりしない意識に軽く頭を押さえた。
(う゛ー)
「ああ。気がついたわね。おはよう」
師の声を聞いて、鈴仙はそちらを向いた。そこには予想したとおりの師の顔がある。
似合わない白衣に似合わない眼鏡をかけた、いつもの姿だ。ただ、その格好は夢の中と同じものだったために、鈴仙は、まだ確証が持てずにその顔をまじまじと見た。
「何よ。その間抜け面は。安心しなさい。ここは間違いなく永遠亭よ。まあ、戻ってきた、と言っても、あなたはずっとここに寝かされていたんだけどね」
「はあ……」
鈴仙はさえない返事を返した。師は指を伸ばすと、その額をかるく弾いた。
「いった。……なにするんですか」
「いや。起きてないみたいだったからね。まあ、とりあえずまだ寝てなさい」
師は言うと、持っていたカップを差し出してきた。鈴仙はカップを受け取ると、中の液体のほどよい香りとぬくもりが鼻をくすぐるのを感じた。
カップに口をつけると、少し甘みのついたスープが唇を通り抜けた。自然と心が安らぐのを感じつつ、鈴仙は何となく部屋の中を見た。
「いまさっき月の姉妹姫たちとも連絡をとってね。ご無事のようだったわ。どうやら、向こうでもちょっとした騒ぎにはなっていたようね。まあ、大事にならなくてまだマシだったわ」
永琳は、さらりと言った。
「てことは……」
「ええ。問題は解決したわ。今度はしばらくは大丈夫でしょう。といって、まだどうなるかはわからないけれども」
「いったい何だったんですか? あれ」
「あれってどれ?」
「えーと。ええ、あれと――とりあえず、全部です」
「全部ねえ。まあ、自分で考えなさいと言いたいところだけど。夢の中で私が言ったことは全部聞いていたでしょう? あの通りよ。あれで全部」
「……」
鈴仙は、困惑げに眉をひそめた。複雑な目で自分の師である女性を見やる。
確かに、その通りと言われればその通りなのだが、内心では否定してほしい気持ちがあった。あるいは、期待、だろうか。
「ええ。この騒動の原因は全部私よ。私がやったの」
永琳が言うのを聞きつつ、鈴仙は、持っていたカップを握りしめそうになり、あわててやめた。
「じゃあ、あの師匠は……」
「あれは私自身よ。私の一部というか、心というか。そんなようなものか。あるいは、私の願望とか、もっと直接的に言えば、うっぷんね。長いこと生きる間にたまった憂さというやつ。それがちょっとしたきっかけで吹き出してしまったのが、今回の原因ね」
(つまり、今回のことは、全部師匠の憂さ晴らしだったって事かしら)
鈴仙は思った。永琳は、それを読んだようにうなずいた。
「そうね。いわば憂さ晴らしってところかしらね。あれはもうこの世界が嫌になっていて、あの夢の世界を作って閉じこもろうとしていたのよ。誰も彼をも引き込んでね。ただ、そのためには自分の中の理性がじゃまだった。それで、なにやら手の込んだまねをして、消そうとしていたわけね」
「それじゃあ、あの世界は……」
「ええ。あれは私の意識そのものよ。向こうでも言ったと思うけれど、あなたが見ていたのは私の中の意識のこぜりあいだったというわけ」
永琳があっさりとした調子で言うのを、鈴仙は冷や汗混じりに聞いた。師はなんでもないように言っているが、あれが全部、個人の意識が起こしたことだと言うのはとんでもないことだ。
鈴仙は一瞬ならず、この女性の正体の知れなさを思い、底知れない不気味な思いを抱いた。師には、それはたぶん感づかれていただろうが。
「……じゃあ、師匠が望んだのは、あの世界に閉じこもる事だったって言うんですか? 私たちを引き寄せて閉じこめたのも、望んだことだったって言うんですか?」
「そうよ」
「……師匠は、ここでの暮らしが楽しくないんですか?」
「いいえ」
「じゃあどうして」
鈴仙が言うと、永琳は小さく首を振った。少し自嘲するように、柔らかく眉をひそめて笑う。
「優曇華。私はね。地上にいるのが嫌だったのよ。地上の下せんな者たちとふれあうのが嫌だった。それはそれはとてつもなくね。私がここで過ごしたのは、ほんの千年ばかりのことだけど、内心ではね、いつも月に帰りたいと思っていたのよ。ここでの暮らしはごめんだとね。でも、私は今更何もかも捨てるのも嫌だった。なぜならね、あなたたちとここで暮らしているのは楽しいことだったからよ。いろいろな不便に悩まされるのが楽しくてしょうがなかったからよ。私の心は、その二つの心の間でジレンマを起こし、ずっと危うい平衡を保ち続けていた。そして、つい最近には地上の者たちとの封印を完全に解いて、なおさら広くつきあうようになった。姫様はそれを喜んでいたけどね。私は? 私はどうだったか? そう。私は違っていたのよ」
「そんな……」
「彼らとさらにふれあうようになり、あなたやてゐたち、さらには姫様までも通じて、私には、彼らとふれあう機会が増えた。それはとてつもない苦痛だったの。私はね、本音を言ってしまえば、静かに暮らしたかった。誰にも邪魔をされることなく、あのままずっと、永遠にね。この里の者たちの事なんて、私には少しも理解できないし、逆に、理解してしまうからつまらない。そう、まさに死ぬほどに退屈だった。私はいつも、あなたたちも、里の者たちも、てゐたちも、あの姫に絡んでくるうっとうしい子も……そして、姫のことも、そういう目で見ていたわ。もううんざりだとね。心の底では。ただし、それでも、私には退屈でない側面はあった。この千年、時が止まったように穏やかな暮らしを送っていたこと、また、幾千年も月での暮らしを送っていたことは、私の感覚にも少なくない影響を与えていたのよ。……まあ、あなたには言ったと思うけれど、私の内面というのは、いわば、細分化されたいくつもの独立する人格の統合でできているものだから、それもあった。私自身は、この地上を嫌っていたけれど、また、私自身もこの解き放たれた強烈な五感の刺激に歓喜していた。ちょうど、自分から泥にまみれて喜びはしゃぐ、いかにも頭の悪い、何も知らない子どもみたいに、このおびただしい穢れの流入を、無邪気に喜んでいた。「心」に飢えていたのね。普通の人間は、こういう、生きるのには邪魔な汚れない心を、年をとるにつれ、すり減らして捨てていく。でも、私はそれをも抱えていた。なぜなら、私が知るすべての人の面は、私の中に内包され、いまなお、一つの人格として育っているから。そして、その状態はすぐには終わらず、いつまでも続き、そのたびに、ジレンマは飛躍的に大きくなっていった。私はこの上ない喜びの中で、もう耐えきれないと悲鳴を上げた。すべてを投げ捨てたいという意志を、押さえきれなかった。そして……そして、ストレスでジレンマが爆発し、私の心は平衡を失った。その隙に、結合が崩れ、今回の反乱が起こった。ほぼ最悪に近い形で。千年という年月分を考えれば、それでも妥当だったかもしれないけれど、結果から見れば、弁解の余地はないわね」
永琳は、そこで言葉を切って、持っていたカップに口をつけた。ため息一つつかずに黙り込む。
「姫やあの子たちは私を許してくれるのかしら」
永琳は、やがて言った。それは、誰にともないものだったらしく、鈴仙に同意を求めるでもなく、指で前髪を軽くすいた。
鈴仙はかける言葉もなく師を見て、じっとなにかを待つようにした。知らず、膝に置いた手で自分のももをこする。
(謝らないわよね。まさか)
一人ごちる。何となく今の師を見ているとそんなことになりそうな気がしたのだ。
しかし、そんなことをされてしまえば、自分はきっと、師に対して失望を感じるだろう、と鈴仙は思った。そんな白々しことはしてほしくない。
だって、師からすれば、問題は解決したわけではないのだ。今の師はやっぱり変わらず自分たちや地上の民たちを見下しているのだろうし、その精神はたえずジレンマにさらされている。
しかも、経緯をたどってみれば、ほぼ彼女の正常や過去の行いから来る自業自得という側面が強く、他人が擁護できるものでもない。謝られたって、どうにもならないのだ。
(いや、だからって、どうこう言えることもないんだけど……私が、ねえ?)
そわそわしながら思う。こんな時、姫なら何というのだろうか。それとも、あの小憎たらしい顔の詐欺兎は?
なにか、こう、気の利いた、一言で場を丸く収めるような、そんな。鈴仙がもじもじしている間に、師は椅子を立ってしまった。
その動きを追いつつも、じっと見ているのは不自然かと思い、ふと向こうに目をそらして、鈴仙は落ち着かなさげにした。はた目から見たらさぞかし滑稽だっただろう。
(誰か来ないかしら)
「おかわり、いる?」
「え。あ。はい。あ、あ。すみません。私が……」
「いいわよ。というよりか、ぶっちゃけあんまり動かない方がいいわよ。――ウ、ウン。雲。ああ。いえ。あなた、それでも一応、病み上がりなんだからね。下手に動くと、めまいを起こすわよ」
永琳がちょっとせき払いしたのを見て、鈴仙はちょっと疑問に思った。何だろう、今のは。
なにか、こちらの顔を見て、一瞬言葉に詰まったような。けげんに思いつつ、鈴仙は、ほどよい温度のカップに口をつけた。
「……。さて、と。それでは、ぼつぼつ仕事を始めましょうか。何せ、二か月ちかくもほったらかしだもの。片づけることは山積みだわ。ああ、それを飲んでからでいいわよ」
「あ、はい」
鈴仙は、うなずいて、カップをすすった。とはいえ、師があっという間にごくりごくりと飲み干してしまったので(あの注いだばかりのを二口ほどで飲み込んでしまった)そうのんびりしているわけにもいかなかった。
あわてて飲み干して、あわただしく椅子を立ち上がる。師は、すでに器具やら何やらを取り出して、山積みにした書類の類に目を通しはじめている。
鈴仙は、まずは、薬の在庫のリストを持って、薬棚のチェックに向かうことにした。帳面を取り、部屋の入り口に向かおうとしたところで、ふと立ち止まる。
「――あ。師匠」
「ん?」
「全世界ナイトメアってどう思います?」
「うん? どうって。なかなかいいんじゃない? 独特のセンスを感じるわ。なにかこうフィーリングっていう」
師はこちらを振り向きもせずに答えてきた。
「ですよね」
鈴仙は言うと、すたすたと部屋の外へ出た。
廊下。
ぱたぱたと歩いていると、向こうから輝夜が歩いてくるのが見えた。
「あ。おはようございます」
「ええ。おはよう。ひさしぶりね」
輝夜はいつもと変わらない声で言って、それからちょっと鈴仙の顔を見た。
「イナバ」
輝夜は穏やかに笑って言った。つん、と自分の顔をつついて、指し示す。
「なにかついているわよ」
鈴仙は、意味に気づいて自分の顔をはたと触った。輝夜が差し出してきた手鏡を受け取ると、そこにでかでかと文字の書かれた自分の間抜け面を映し出して、硬直した。
『美味しい兎肉です。どうぞよろしく』
「ぶわはははははははははははははは」
背後から、すごく聞き覚えのある兎のドカ笑いが聞こえてきた。
「お、お、美味しいって。兎肉って。じじ自分で言っちゃうんだ。よろしくされても困るふはははははははははは」
「てゐいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!!!!」
設定が奇抜ですし、綿月姉妹もかわいい。月世界と永遠亭の絡ませ方が絶妙でした。
誤字かな?
>依妹姫
ちょっともう一回、と言わず五回くらいは読んでくる。
……永琳の意識を解いたの、これって少なからずレミリアが、地上の者がキーになってるのかな。
色々と考えてしまう、いいお話でした。
愛憎渦巻く綿月姉妹が新鮮でした