AM6:50
くぁ、と可愛らしい欠伸が一つ文の口から漏れる。
少々寝不足気味の体をまるで自分の物では無いかのようなぎくしゃくとした感覚で緩やかに起こすと、本来想定されているもの以上の負荷にベッドがギシギシと悲鳴を上げる。
本来の役割を全うしているとは到底言い難い安物のカーテン越しに、畳まれる事無く部屋の隅にまとめられた洗濯物や簡易テーブルの上に乗せられたままの食後の食器、電球の傘にうっすらと積もった埃。この退廃的とも言える空間全体が照らされ、空気が朝に染められているかのような感覚すら覚える。
たまには換気しないとなぁ、と霞みがかった寝起きの頭で思考するも、今尚控えめな寝息を立てている同居人に自発的なそれを期待するのは到底不可能であるという結論に彼女は即座に至った。
今度の休みに布団から何から全部干してやろう――お気に入りの涎まみれのブランケットを剥がして、ベッドのシーツから転げ落としてやった時、この娘はどんな反応をするのだろうか。眠いだるいとぶーたれるであろう彼女の眉をへの字に曲げた表情を想像するだけで、くすくすという笑いと共に愛しいという感情が沸いてくる。
ぽすん、と再び枕に頭を埋め、瞳を閉じたままの彼女――はたてをまんじりと見つめてみる。黙っていればもっと可愛いのになぁ。まあどんなはたてでも可愛い事には変わりないんだけれど。
真っ白い頬に無意識に手を伸ばしかけて、止めた。静止したかのように穏やかなこの時間が、壊れてしまうかもしれない。暫しの静寂。
二人の息遣いのみがこの空間を支配している。意を決して、愛情を込めて。 夢の中の貴女へ届きますようにと、隣で眠る愛くるしい彼女の瞼へと、ささやかな想いと共に文の唇が優しく落ちる。
「おはよう、はたて」
AM7:45
シャワーに濡れた髪の毛を妖力で起こした微風で乾かす度に、部屋のどこかで埃を被っている河童製ドライヤーの事を思い出してしまいなんとなく居たたまれない気持ちになってしまう。
貰っておいてなんだけど、正直風を起こす事に関してはこっちの方がてっとり早いし楽なんだよなぁ、などとアンニュイな気持ちに包まれながらカップの中身を啜る。
ああ、それにしてもコーヒーが不味い。台所に怨めしそうな目線を向けると、食器が積み重なっているシンクの脇に見慣れたコーヒーメーカーが無造作に放られている。これまた河童製の機械なのであるが、放置されたままのドライヤーとは異なり随分と重宝していた。が、つい先日度重なる使用に耐えきれなかったのだろうか、それはぷつり、と電源が切れて以来二度と喧しい音を立てて動く事が無くなってしまったのである。
文はあれでうんと濃く入れたコーヒーを好むのだが、今ではそれも叶わない。
我が家における薄くて高いインスタントコーヒーへの転換は、食への情熱が著しく欠如している同居人にとっては至極どうでもいい話題であるようだが文にとっては死活問題である。
朝の活力剤、新聞作成の最終兵器、ティータイムの相棒。混濁として沈みゆく意識を強引に引きずり起こすインクの如きコーヒーの味わいを思い出し、無意識の内に文の口内に唾が満ちる。慌てて半分程残っていたカップの中身をぐっと飲み干すも、現実のコーヒーの薄さに思わず溜め息が出る。
(ええい、駄目だ駄目だ!あんなもん無くても私は羽ばたける!)
未練を断ち切るかの如くマグカップを勢い良く机の上に置くと、おもむろに立ち上がり寝間着を脱ぎ捨てる。無論片付けるつもりなど無い。
足元に散乱している諸々の物を慎重に回避しつつ窓際のハンガーラックに接近し、この混沌とした空間の中で異彩を放っているぱりっとしたシャツとスカートを掴み取り着替えると、そこにはいつも通りの射命丸文が完成していた。
「行ってきまーす」
いつものショルダーバッグを床からひっ掴みつつ一応声を掛けてみるも、案の定反応は無い。
未だに夢の世界に浸っている彼女が少し羨ましい、というか妬ましい。文の胸中にむくむくと悪戯心が鎌首をもたげてくる。
玄関へ向かっていた足取りを止め、ベッドの淵に膝をつきはたての寝顔に向き合う。解かれた栗色の髪を指先でそっと摘み、弄ぶ傍らで額に、頬に、髪に――小さな小さな口づけを落とす。
しかし、先程よりも念入りと、彼女は私の物だと言わんばかりに鳥が啄ばむように口づけの雨を降らせる。愛情表現ではなく、所有欲を具現化させたそれ。
文は暫しの間、その静かなる捕食行為に夢中になっていた。が、相変わらずのはたての穏やかな寝息。
どうやら眠りの白雪姫はこの程度では起きないという事に少なからずショックを受けた文であるが、ならばとばかりに、瞳を閉じて、己の唇を彼女のそれに重ね合わせる。
互いの息が、互いの口内を、鼻孔を、肺を満たし、循環する。互いが一つになるかのような官能的な感覚すら覚える。
暫しの間行為に夢中になっていた文であるが、ふと弄んでいた髪の毛に引っ張られるような感覚を覚え現実に意識を戻してみると、驚きに目を見開いたはたての顔が視界に入った。あ、これは不味い。
「……いいからとっとと働いてきなさいよこの色ボケ烏っ!!」
引きこもってるあんたには言われたくない、というツッコミをぐっと堪え甘んじてビンタと蹴りを食らった私って偉いんじゃないかな?などと桃色の脳内で自画自賛しつつ玄関から追い出される文の姿が数分後には見られたとか見られなかったとか。
PM7:30
「で、結局夕方まで寝てたっていうの?」
「そそ。なーんも予定無い日だったしね」
どこぞの姫様と同レベルの引きこもりね、という文のぼやきは、哀れな事にはたてにとっては適当に作ったカルボナーラにも劣る重要度であったらしい。
足の踏み場も無い部屋の真ん中にかろうじて独立して置かれているちゃぶ台という名の食卓。その上の朝食兼夕食は他愛も無いおしゃべりの傍らで熱量を失いつつも淡々と口に運ばれ、口を動かすエネルギー源となっていく。
暫くして空の器とグラスが計四つ出来上がると、何か言うでもなくはたてがすっ、と立ち上がりそれらをシンクの他の食器達の元へと持っていく。
「お、はたてが洗い物するなんて珍しい事もあるのね」
背後の鞄や衣類を横に押し退け生まれた空間に、膨れたお腹をさすりつつ寝転がる文の口から意外そうなニュアンスを含んだ言葉が投げかけられる。
「まあ、たまにはね」
そう呟いて以来黙々と動かされたはたての手によってカチャカチャと数日分の皿やフォークが片付けられると、久しぶりにシンクの底がはっきりと目視出来る状態が訪れた。
「ちょっと嬉しい事があったの」
「というと?」
「いやー、こんな駄目駄目な私でも愛されてるんだなー、って」
「ほほうほほう」
「やっぱ駄目なんだよねー、私。何か目的が無いとずーっと引きこもってそう。勿論山の仕事もやるし新聞も刷るけれど、逆にいうとそれに関わる事以外は頭からすっぱり落とされちゃってるのかなって」
台所から戻って来たはたてがベッドに倒れ込む。寝間着姿は朝から変わっていない。
「自分勝手な生活してて、人様に迷惑かけっぱなしなんだよね。一応自覚はしてる。それ分かってても変わろうとしない奴ってどうなのかなー、と」
「迷惑掛けられて喜んでるマゾみたいなのも世の中いるんだから、そこは気にしないでおきなさいな」
「どこに?」
「ここに」
「変わった人もいたもんね」
「まあ、少なくとも私は貴女の味方をしててあげるから安心して好きな事だけやってなさいな」
「今更だけれども、どうして?」
「んー、何でだろうね。自分でも分からないや」
少しの沈黙が部屋の空気を占める。暫くの後、仰向けのまま眩しそうに明かりを見つめていた文が何かを思い出したかの様に上半身を起こし立ち上がる。
「とりあえず、お風呂入ろっか」
「……うん」
文が手を差し伸べにやって来ると、ほんのちょっとだけ悩んだ様子を見せてから、はたては手の甲に軽く口づけを落とす。それから今日一番の、いや、自分にとっての一番の笑顔で微笑んだ。
「ありがと。あや」
>>同居人にとっては如く至極どうでもいい話題
「如く」は消し忘れかなにか?
>>新聞の刷るけれど
新聞も?
いや、それはどうだろう(笑)
でも、ほんの少し爛れてる関係のあやはたっていいなと思いました。
汚部屋でのいちゃらぶは萌えます
良かったです