暑くもなく、寒いと言う訳でもない。
青い空には白い雲が点々と浮いている。
吹く風も柔らかで、穏やかな今日と言う日を象徴していた。
並び立つ木々がすっかりと赤めいてきたのを眺めつつ、寅丸星は、命蓮寺の境内を歩いていた。
一歩踏み出すたびに、さくりさくりと足元から音が鳴る。
明朝には確かに丁寧に掃かれていた道に、もう落ち葉がちらほらと見受けられた。
その様を、儚いと感じるよりも風情があると思い、星は自身に対して微苦笑を浮かべた。
なんでもない一日だった。
一年三百六十五日、その何れの時にも起こりえるような平凡な一時。
記憶の中に埋もれてしまいそうなこの時を、だけれど、星は静かに楽しんでいた。
意識が窄められ、思考が曖昧になる――直前、星の耳に呼び声が飛び込んでくる。
「誰か、誰かいませんか?」
声の主は、寺の住職、聖白蓮のものだった。
響きから推測し、星は縁側に視線を向ける。
呼び声とは言え切迫したものではなく、白蓮特有の何処か間延びしたものだった。
幾つかの用事を思い出し、全て片付けたのを再確認した後、星は其方に向かって歩を進めた。
「聖、寅丸星が此処に」
その足取りが普段の自身より少しだけ速くなっているのを、星は自覚していなかった――。
何時もの装いで、星の推測通り、白蓮は縁側に座っていた。
返した声が届いていたのだろう、柔らかな微笑が浮かべられている。
両手を重ね腿に置いているその姿は、伸びをする子猫を乗せている様を想起させた。
(長閑なものだ)――笑みを返し、星は近づく。
「聖、どうかしましたか?」
問いに対する答えのように、白蓮が、傍らに置いていた包みを星へと見せる。
包みには、人の里で名前の知られている菓子屋の名が印刷されていた。
形は長方形をしていて、大きさは片手で持ち上げることができる程度。
常人には嗅ぎとることができないだろう、中から微かな甘い匂いが零れている。
くん、と星は意識して鼻を鳴らした。
「……きな粉でしょうか」
「ええ。横、どうぞ」
「では失礼して」
袴におかしな皺を付けないため膝窩に手を当て、星は白蓮の隣に腰を下ろした。
ほぼ同時に、包みの紐が解かれる。
片手で折り畳んだ紙を、白蓮は傍らの盆に置く。
箱の中には、きな粉と、それを塗すためのわらび餅が入っていた。
芋の澱粉ではなく蕨粉を原料にしているためか、透明度はさほど高くない。
けれど、少しの衝撃で輪郭がぶれるその様に、食感を予想するのは難しいことではなかった。
こくん。
小さく鳴らされた喉の音はどちらのものだったか。
顔を見合わせ、星と白蓮は互いに笑んだ。
恐らく、どちらも鳴らしのだろう。
「今しがた帰られた檀家の方から頂きまして」
「あぁ、先ほどの」
「一人で頂くのもどうかと思い、呼びかけたのです」
「結構な量ですものね」
「意地悪、そう言うことではないですわ」
笑顔で言い放った星。
白蓮が返すのは、微かに膨らませる頬だった。
互いに言葉なく視線を交わし、暫しの後、どちらからともなく破顔する。
どちらの反応も冗談によるものだと、互いに理解していた。
「さてさて、それでは一輪たちを探してきますね」
一しきり笑い終え、星は立ち上がろうとした。
量が多すぎて、と言うことではない。
白蓮だけならばともかく、星自身は胃の許容量に自信があった。
『結構な』と評したものの、彼女が頭に浮かべた三名を足すと、流石に物足りなく感じるだろう。
それでも呼びに行こうとしているのは、一人より二人、二人より三人……と考えているからだった。
「……聖?」
けれど、星の動きが止まる。
正確には、白蓮により止められた。
立ち上がる契機とした、膝に当てた手を抑えられている。
小首を傾げると、白蓮が頭を横に振った。
「一輪と雲山、村紗はいませんよ」
「……え? どうして?」
「里に、食材や備品を買いに行ってもらっています」
「買い出し、今日でしたっけ?」
「幾つか急を要するものがありまして……」
それ自体は大した量ではなかったが、どうせならばと何時もの面子で出向いたそうだ。
「ですので、探すのならばナズーリンとぬえをお願いします」
微苦笑を浮かべる白蓮に、今度は星が首を振る。
「あの子たちは非番で、遊びに行っていますよ」
「そうでしたか」
「ええ」
「どちらに?」
「なんでも、近くに美味しい蒲焼屋さんがあるそうで」
誘いをかけたのはナズーリンで、場所を決めたのはぬえと言うことだった。
そう、と呟く白蓮。
ふむ、と頷く星。
手を離したのと再び腰を下ろしたのは、同時だった。
「一輪たちは、買い出しのついでに何かつまんでくるでしょうし」
「ナズたちが向かったのは、食べ物屋さんですし」
くすりと笑んで、言葉が重なる。
「私たちも、頂きましょうか」
因みに、二名が声を弾ませ餅に向かったのは、何も独占するためではない。
芋を原料にしたものと違い、蕨を原料にしたものは味の落ちるのが早いのだ。
加えて、保存するのも難しく、下手に冷やしてしまうと色や食感が変わってしまう。
かくの如き理由により、二名は歓声を上げながら、はようはようときな粉を塗すのだった。
星は、爪楊枝を餅に突き刺した。
弾力による抵抗に、小さな感嘆の声を上げる。
塗したきな粉が服に落ちないようにと片手を受け皿とし、口まで運んだ。
舌に伝わるのは、きな粉による幼い甘さと餅による心地よい冷たさ。
広がる味覚を楽しみ、次には食感を試した。
一噛み二噛みと己れで区切り、時間をかける。
その弾力は、楊枝を刺した時に推測したものよりも、更に味わい深かった。
「あぁ」
もっちり。
「美味しいですねぇ」
もっちもっちもっち。
「これは是非、皆にも伝えましょう」
もちもちもちもちもち、もちちちちちっ。
「……ねぇ聖?」
「もち?」
気付けば、白蓮があかん子になっていた。
星は微苦笑を浮かべ、盆に載っていた湯呑みを白蓮へと手渡す。
少し落ち着いてくださいと言下に訴える。
伝わらなかった。
心底名残惜しいのであろう、茶で流し込むまいと、白蓮が自らの閉じた唇を左から右に指でなぞる。
つまり、口をチャックした。
「いえ、まだ結構ありますし。飲み込んでください」
困ったとばかりに強く眉を寄せ、星は餅の入った容器を指差した。
こくんと餅を嚥下して、白蓮が言う。
「きな粉の可愛らしい甘さとわらび餅の程よい冷たさが」
「あ、それはもういいです」
「星の意地悪!」
じゃれるような言葉に、星の笑みは柔らかくなる。
勿論、白蓮も本気で詰っている訳ではない。
証拠に、差し出された湯呑みは素直に受け取っていた。
普段よりも少しばかり気が緩んでいるのは、きっと陽気の所為だろう。
一口茶を啜った後、白蓮が続ける。
「そうですね、近いうちに皆で出かけましょうか」
魅力的な提案に、星も頷いた。
もち。
もちもち。
もちもちもっちり。
「御馳走様でした」
星は、口を布で拭い、手を合わせ、虚空に頭を下げる。
「もち?」
一方の白蓮は、まだ食べ終えていなかった。
星を無作法と言うなかれ。
自身の分を腹に収めた彼女は、結構な時間待っていたのだ。
しかし、湯呑みを空にした今でも、白蓮が終える気配を読みとれなかった。
何より、そろそろ空が赤らんできた。
「洗濯物を入れませんと」
なんでもない一日は、けれど為さなければならないことがたくさんある。
なるほどと頷く白蓮。
いち早く、星はその肩をやんわりと抑えた。
付き合いの長い二名だからこそ、言葉よりも行動の方が理解しやすい時もある。
『もちもちもち』
『結構です』
『もちぃ』
理解出来ているらしい。
上目遣いで眉を強く寄せる白蓮に、星はまた微苦笑を浮かべた。
「ん……?」
まじまじと視線を交わしたからだろう、星は、白蓮の唇の輪郭がぼやけているのを発見した。
口を閉じていたとは言え、食べているのはきな粉を塗したわらび餅。
幾らかの粉が舞うのは致し方ないことだ。
「ふふ……ねぇ聖」
星の呟きに小首を傾げる白蓮は、まだ自身の唇に気付いてはいないようだった。
「もう少し、閉じていてくださいね」
言って、星は腕を伸ばした。
人差し指を唇に這わせる。
右から左に、一度きり。
「この程度なら、はしたないと言うほどでもないですが」
そして、無礼には訳がある、と這わせた指を白蓮の眼前に差し出した。
あむん。
星には、何が起こったのか解らなかった。
いや、その行為を言葉に置き換えるのは何ら難しいことではない。
けれど、余りにも衝撃的な白蓮の行動に、思考がぴたりと止まってしまっていた。
「えーと」
一拍後、動き出す――(聖が私の指を銜えている)。
動いたのは、星の思考だけではない。
白蓮もまた、指から口を離した。
互いに向き合う。
先に視線を逸らしたのは白蓮で、こほんと空咳を打ったのも彼女だった。
「きな粉の可愛らしい甘さと星のほど良い弾力が絶妙なハーモニーを生み出すことは想像に難くなく」
「それはもういいです。と言うか、誤魔化されません」
「いけず」
いけずて。
尖った唇から発せられた短い言葉が割と本気に聞こえて、星は呆れたような苦笑を強めた。
「聖。
貴女は、この命蓮寺の住職。
今の行いは流石にはしたなく、我々を見ている住人に――」
滔々と説教する。
しかし、言葉が抑えられた。
自身へと伸ばされた腕に、唇を強くなぞる指に。
右から左に、もう一度、右から左に。
離れた指が、先に星がしたように、眼前へと差し出される。
「この程度なら、はしたないと言うほどでもないですが」
そして、つんとした表情で、白蓮が言った。
星は、目を瞬き、言葉を失う。
自身の唇に粉がついているはずがない。
何故なら、今しがた口を拭ったばかりだったのだから。
(貴女とて見ていたはず。なのに)――どうして、と小首を傾げる。
「えっと。仕返しと言いますか、反撃と言いますか……」
返されたのは、たどたどしい応えと弱々しい視線。
頷くより先に――
「聖、お許しを」
――星は、応じた。
腕を取る。
口を開く。
そして、指を食んだ。
ついているはずのない粉を味わうため、
舐め、
吸い、
噛む。
「……っ」
震える白蓮。
星は、気付き、上目遣いで見る。
噛んだ個所を労わるように舐めた後、問う。
「強過ぎましたか?」
微かに首を横に振り、白蓮が応える。
「いいえ、それより……」
「……それより?」
「お味は――」
――いかが。
言葉なく、言葉を知らず、だから、星は再び、指を食む。
「あ……っ」
なんでもない一日。
何れの時にも起こりえるような平凡な一時。
記憶の中に埋もれてしまいそうなこの時を、だけれど、星は静かに愉しむのだった――。
<了>
《帰ってきていた二名》
「なにあれエロい」
「いやいやぬえ、ただ指を噛んでいるだけじゃないか」
「だって聖が女の顔をしているよ!」
「ははは、おーけいおーけい、少し落ち着こう」
ひっひっふー、ひっひっふー。
「出歯亀しといてなんだけど、何時の間にあのフタリはくっついていたのさ」
「あー……二つほど訂正がある」
「二つ?」
「一つ、対象者が察知していることから、出歯亀とは言い難いと思う」
「察知……って、ばれてるの!?」
「ぬえはともかく、私は。聖はともかく、ご主人に」
『我々を見ている住人に――』
「ほへー……意外といい趣味してるんだね、星」
「趣味て」
「だって、ナズに気付いているのに、あんなプレイを」
「プレイ言うな」
「そんで、二つ目の訂正は?」
「それにも関することだが……」
「プレイ?」
「プレイ言うな。こほん。ご主人と聖は、くっついちゃいないさ」
「……は?」
「あの行為は、御主人にとっちゃ、なんでもないことなんだ」
「……え、えええええ!? だってアレどう見てもイベントCGもんだよ!?」
「ご主人にスイッチが入っていないからね」
「スイッチって何よ」
「聖を強く意識していない。恐らく、事の始まりは聖からだったんだろう」
「あー、言われてみれば。意識してる時は空回りしちゃってるもんね。
……んー、けど」
「けど、なんだい?」
「あんなのされたら、私でも勘違いしちゃいそう、なんて」
「ほう……ぬえは、ああ言う詰め寄られ方が好きなのかい? なんなら――」
「あぁいや――
《※》
青い空には白い雲が点々と浮いている。
吹く風も柔らかで、穏やかな今日と言う日を象徴していた。
並び立つ木々がすっかりと赤めいてきたのを眺めつつ、寅丸星は、命蓮寺の境内を歩いていた。
一歩踏み出すたびに、さくりさくりと足元から音が鳴る。
明朝には確かに丁寧に掃かれていた道に、もう落ち葉がちらほらと見受けられた。
その様を、儚いと感じるよりも風情があると思い、星は自身に対して微苦笑を浮かべた。
なんでもない一日だった。
一年三百六十五日、その何れの時にも起こりえるような平凡な一時。
記憶の中に埋もれてしまいそうなこの時を、だけれど、星は静かに楽しんでいた。
意識が窄められ、思考が曖昧になる――直前、星の耳に呼び声が飛び込んでくる。
「誰か、誰かいませんか?」
声の主は、寺の住職、聖白蓮のものだった。
響きから推測し、星は縁側に視線を向ける。
呼び声とは言え切迫したものではなく、白蓮特有の何処か間延びしたものだった。
幾つかの用事を思い出し、全て片付けたのを再確認した後、星は其方に向かって歩を進めた。
「聖、寅丸星が此処に」
その足取りが普段の自身より少しだけ速くなっているのを、星は自覚していなかった――。
何時もの装いで、星の推測通り、白蓮は縁側に座っていた。
返した声が届いていたのだろう、柔らかな微笑が浮かべられている。
両手を重ね腿に置いているその姿は、伸びをする子猫を乗せている様を想起させた。
(長閑なものだ)――笑みを返し、星は近づく。
「聖、どうかしましたか?」
問いに対する答えのように、白蓮が、傍らに置いていた包みを星へと見せる。
包みには、人の里で名前の知られている菓子屋の名が印刷されていた。
形は長方形をしていて、大きさは片手で持ち上げることができる程度。
常人には嗅ぎとることができないだろう、中から微かな甘い匂いが零れている。
くん、と星は意識して鼻を鳴らした。
「……きな粉でしょうか」
「ええ。横、どうぞ」
「では失礼して」
袴におかしな皺を付けないため膝窩に手を当て、星は白蓮の隣に腰を下ろした。
ほぼ同時に、包みの紐が解かれる。
片手で折り畳んだ紙を、白蓮は傍らの盆に置く。
箱の中には、きな粉と、それを塗すためのわらび餅が入っていた。
芋の澱粉ではなく蕨粉を原料にしているためか、透明度はさほど高くない。
けれど、少しの衝撃で輪郭がぶれるその様に、食感を予想するのは難しいことではなかった。
こくん。
小さく鳴らされた喉の音はどちらのものだったか。
顔を見合わせ、星と白蓮は互いに笑んだ。
恐らく、どちらも鳴らしのだろう。
「今しがた帰られた檀家の方から頂きまして」
「あぁ、先ほどの」
「一人で頂くのもどうかと思い、呼びかけたのです」
「結構な量ですものね」
「意地悪、そう言うことではないですわ」
笑顔で言い放った星。
白蓮が返すのは、微かに膨らませる頬だった。
互いに言葉なく視線を交わし、暫しの後、どちらからともなく破顔する。
どちらの反応も冗談によるものだと、互いに理解していた。
「さてさて、それでは一輪たちを探してきますね」
一しきり笑い終え、星は立ち上がろうとした。
量が多すぎて、と言うことではない。
白蓮だけならばともかく、星自身は胃の許容量に自信があった。
『結構な』と評したものの、彼女が頭に浮かべた三名を足すと、流石に物足りなく感じるだろう。
それでも呼びに行こうとしているのは、一人より二人、二人より三人……と考えているからだった。
「……聖?」
けれど、星の動きが止まる。
正確には、白蓮により止められた。
立ち上がる契機とした、膝に当てた手を抑えられている。
小首を傾げると、白蓮が頭を横に振った。
「一輪と雲山、村紗はいませんよ」
「……え? どうして?」
「里に、食材や備品を買いに行ってもらっています」
「買い出し、今日でしたっけ?」
「幾つか急を要するものがありまして……」
それ自体は大した量ではなかったが、どうせならばと何時もの面子で出向いたそうだ。
「ですので、探すのならばナズーリンとぬえをお願いします」
微苦笑を浮かべる白蓮に、今度は星が首を振る。
「あの子たちは非番で、遊びに行っていますよ」
「そうでしたか」
「ええ」
「どちらに?」
「なんでも、近くに美味しい蒲焼屋さんがあるそうで」
誘いをかけたのはナズーリンで、場所を決めたのはぬえと言うことだった。
そう、と呟く白蓮。
ふむ、と頷く星。
手を離したのと再び腰を下ろしたのは、同時だった。
「一輪たちは、買い出しのついでに何かつまんでくるでしょうし」
「ナズたちが向かったのは、食べ物屋さんですし」
くすりと笑んで、言葉が重なる。
「私たちも、頂きましょうか」
因みに、二名が声を弾ませ餅に向かったのは、何も独占するためではない。
芋を原料にしたものと違い、蕨を原料にしたものは味の落ちるのが早いのだ。
加えて、保存するのも難しく、下手に冷やしてしまうと色や食感が変わってしまう。
かくの如き理由により、二名は歓声を上げながら、はようはようときな粉を塗すのだった。
星は、爪楊枝を餅に突き刺した。
弾力による抵抗に、小さな感嘆の声を上げる。
塗したきな粉が服に落ちないようにと片手を受け皿とし、口まで運んだ。
舌に伝わるのは、きな粉による幼い甘さと餅による心地よい冷たさ。
広がる味覚を楽しみ、次には食感を試した。
一噛み二噛みと己れで区切り、時間をかける。
その弾力は、楊枝を刺した時に推測したものよりも、更に味わい深かった。
「あぁ」
もっちり。
「美味しいですねぇ」
もっちもっちもっち。
「これは是非、皆にも伝えましょう」
もちもちもちもちもち、もちちちちちっ。
「……ねぇ聖?」
「もち?」
気付けば、白蓮があかん子になっていた。
星は微苦笑を浮かべ、盆に載っていた湯呑みを白蓮へと手渡す。
少し落ち着いてくださいと言下に訴える。
伝わらなかった。
心底名残惜しいのであろう、茶で流し込むまいと、白蓮が自らの閉じた唇を左から右に指でなぞる。
つまり、口をチャックした。
「いえ、まだ結構ありますし。飲み込んでください」
困ったとばかりに強く眉を寄せ、星は餅の入った容器を指差した。
こくんと餅を嚥下して、白蓮が言う。
「きな粉の可愛らしい甘さとわらび餅の程よい冷たさが」
「あ、それはもういいです」
「星の意地悪!」
じゃれるような言葉に、星の笑みは柔らかくなる。
勿論、白蓮も本気で詰っている訳ではない。
証拠に、差し出された湯呑みは素直に受け取っていた。
普段よりも少しばかり気が緩んでいるのは、きっと陽気の所為だろう。
一口茶を啜った後、白蓮が続ける。
「そうですね、近いうちに皆で出かけましょうか」
魅力的な提案に、星も頷いた。
もち。
もちもち。
もちもちもっちり。
「御馳走様でした」
星は、口を布で拭い、手を合わせ、虚空に頭を下げる。
「もち?」
一方の白蓮は、まだ食べ終えていなかった。
星を無作法と言うなかれ。
自身の分を腹に収めた彼女は、結構な時間待っていたのだ。
しかし、湯呑みを空にした今でも、白蓮が終える気配を読みとれなかった。
何より、そろそろ空が赤らんできた。
「洗濯物を入れませんと」
なんでもない一日は、けれど為さなければならないことがたくさんある。
なるほどと頷く白蓮。
いち早く、星はその肩をやんわりと抑えた。
付き合いの長い二名だからこそ、言葉よりも行動の方が理解しやすい時もある。
『もちもちもち』
『結構です』
『もちぃ』
理解出来ているらしい。
上目遣いで眉を強く寄せる白蓮に、星はまた微苦笑を浮かべた。
「ん……?」
まじまじと視線を交わしたからだろう、星は、白蓮の唇の輪郭がぼやけているのを発見した。
口を閉じていたとは言え、食べているのはきな粉を塗したわらび餅。
幾らかの粉が舞うのは致し方ないことだ。
「ふふ……ねぇ聖」
星の呟きに小首を傾げる白蓮は、まだ自身の唇に気付いてはいないようだった。
「もう少し、閉じていてくださいね」
言って、星は腕を伸ばした。
人差し指を唇に這わせる。
右から左に、一度きり。
「この程度なら、はしたないと言うほどでもないですが」
そして、無礼には訳がある、と這わせた指を白蓮の眼前に差し出した。
あむん。
星には、何が起こったのか解らなかった。
いや、その行為を言葉に置き換えるのは何ら難しいことではない。
けれど、余りにも衝撃的な白蓮の行動に、思考がぴたりと止まってしまっていた。
「えーと」
一拍後、動き出す――(聖が私の指を銜えている)。
動いたのは、星の思考だけではない。
白蓮もまた、指から口を離した。
互いに向き合う。
先に視線を逸らしたのは白蓮で、こほんと空咳を打ったのも彼女だった。
「きな粉の可愛らしい甘さと星のほど良い弾力が絶妙なハーモニーを生み出すことは想像に難くなく」
「それはもういいです。と言うか、誤魔化されません」
「いけず」
いけずて。
尖った唇から発せられた短い言葉が割と本気に聞こえて、星は呆れたような苦笑を強めた。
「聖。
貴女は、この命蓮寺の住職。
今の行いは流石にはしたなく、我々を見ている住人に――」
滔々と説教する。
しかし、言葉が抑えられた。
自身へと伸ばされた腕に、唇を強くなぞる指に。
右から左に、もう一度、右から左に。
離れた指が、先に星がしたように、眼前へと差し出される。
「この程度なら、はしたないと言うほどでもないですが」
そして、つんとした表情で、白蓮が言った。
星は、目を瞬き、言葉を失う。
自身の唇に粉がついているはずがない。
何故なら、今しがた口を拭ったばかりだったのだから。
(貴女とて見ていたはず。なのに)――どうして、と小首を傾げる。
「えっと。仕返しと言いますか、反撃と言いますか……」
返されたのは、たどたどしい応えと弱々しい視線。
頷くより先に――
「聖、お許しを」
――星は、応じた。
腕を取る。
口を開く。
そして、指を食んだ。
ついているはずのない粉を味わうため、
舐め、
吸い、
噛む。
「……っ」
震える白蓮。
星は、気付き、上目遣いで見る。
噛んだ個所を労わるように舐めた後、問う。
「強過ぎましたか?」
微かに首を横に振り、白蓮が応える。
「いいえ、それより……」
「……それより?」
「お味は――」
――いかが。
言葉なく、言葉を知らず、だから、星は再び、指を食む。
「あ……っ」
なんでもない一日。
何れの時にも起こりえるような平凡な一時。
記憶の中に埋もれてしまいそうなこの時を、だけれど、星は静かに愉しむのだった――。
<了>
《帰ってきていた二名》
「なにあれエロい」
「いやいやぬえ、ただ指を噛んでいるだけじゃないか」
「だって聖が女の顔をしているよ!」
「ははは、おーけいおーけい、少し落ち着こう」
ひっひっふー、ひっひっふー。
「出歯亀しといてなんだけど、何時の間にあのフタリはくっついていたのさ」
「あー……二つほど訂正がある」
「二つ?」
「一つ、対象者が察知していることから、出歯亀とは言い難いと思う」
「察知……って、ばれてるの!?」
「ぬえはともかく、私は。聖はともかく、ご主人に」
『我々を見ている住人に――』
「ほへー……意外といい趣味してるんだね、星」
「趣味て」
「だって、ナズに気付いているのに、あんなプレイを」
「プレイ言うな」
「そんで、二つ目の訂正は?」
「それにも関することだが……」
「プレイ?」
「プレイ言うな。こほん。ご主人と聖は、くっついちゃいないさ」
「……は?」
「あの行為は、御主人にとっちゃ、なんでもないことなんだ」
「……え、えええええ!? だってアレどう見てもイベントCGもんだよ!?」
「ご主人にスイッチが入っていないからね」
「スイッチって何よ」
「聖を強く意識していない。恐らく、事の始まりは聖からだったんだろう」
「あー、言われてみれば。意識してる時は空回りしちゃってるもんね。
……んー、けど」
「けど、なんだい?」
「あんなのされたら、私でも勘違いしちゃいそう、なんて」
「ほう……ぬえは、ああ言う詰め寄られ方が好きなのかい? なんなら――」
「あぁいや――
《※》
もっと甘えろ。もっちもっち
まだ結婚どころか付き合ってすらいないとな
可及的速やかにくっつくべき
もち?にやられました
いやあかわいいかっこいい素敵なイケトラでした。ごちそうさまです。