馬鹿な真似はやめろ。
そんなことをしても、君には何の得もない。
周囲の人間が悲痛な声を上げても彼には届かなかった。
「う、動くな! 絶対に動くんじゃねぇぞ!」
おそらく彼は、外から流れてきた人間なのだろう。
現代という世界に合わなくなった存在、それが幻想となって流れるのはそうそう珍しいことではない。そうやって見ず知らずの世界にやってきた者のほとんどは、まず情報収集と食いぶちを求めて里を彷徨い。
そしてこの世界のルールに気づく。
ルールに気づいたからこそ、彼は行動に示した。
生きるための住処と食料を得るために。
「ふふ、この世界では人間と妖怪が仲良く暮らしているんだろう? ということはこういうのもありってわけだっ!」
「う、うぅ、は、離してっ、助けてっ」
職を求める、自ら商売をやってみる。方法ならいくつかあったかもしれない。けれど、彼は最も短絡的なものを選んだ。
運良く道具屋からその札を盗み出したときから、決めていたのかもしれない。
その行動は、幻想の世界では禁忌とも位置づけられる行為。
ある者は、世界の終わりだと嘆き。
ある者は、愛する子を抱いてしゃがみ込む。
またある者は、仏壇の前に正座し、もうすぐそちらへ行くと愛した者へと思いを掛けた。
白昼堂々と展開された惨劇であるのに、里を守るはずの自警団は動けず、
阿求は必死で訴えた。
「落ち着いてください。あなたがやろうとしていることは、あなたが想像できないほど危険な行為なのです! ですから、すぐにその子を離して、人質なら私にしなさい! 人間である私の方が安全ですし、あなたの要求を呑むこともできる!」
それでも少女の額に札を貼り付け、ナイフをその首筋に宛がう中肉中背の男は拒絶する。妖怪と人間を見比べ、やはり妖怪を取ったのは人間としての良心なのかもしれないが、口元に浮かぶ笑みは、好意的な解釈すら打ち消す。
代償で得られるかもしれないものへの期待か。
男は下卑た笑いを続けている。
けれど、知らない。
人里のほぼ全員が、人質の心配などあまりしていないことに。
彼らが案じているのは、そう。
男の方。
そして、巻き添えになるであろう人里の被害。
彼らの意思が統一される中で、とうとうその歯車のスイッチを押す響きが人里を覆いつくす。
「助けてぇぇっ!」
その声に反応して、取り囲んでいた観客たちの輪が大きく広がる。
普通ならその災厄を振りまきかねない存在はやってこられないのだが。
思い出して欲しい。
今はまだ、屋根に白銀が残る季節なのだ。
人里で人と妖怪の大きな問題が発生したときに動く、霊夢と同等の管理者。
「助けてっ! らんしゃまぁぁぁぁっ!」
鼓膜を揺らすほどの大音響が響いた瞬間に、変化は起きる。
何もなかった空間に縦に切れ目が入り。
阿求すら恐れていた存在がその姿を見せた。
「な、なんだ! なんだてめぇは!」
男と化け猫の少女の前。
野次馬と化した自警団に囲まれる中で、いきなり姿を見せた九尾は流麗な動作で尻尾をくねらせ、整った顔を男へと向ける。
そしてその腕の中に橙がいることを確認した後で、ふぅっと大きく息を吐いた。
冬季の幻想郷で絶対にからかってはいけない妖獣、八雲 藍。
その藍が娘のように大事にしている式に対して、彼が何をしているか。
状況を把握した里の人間たちは、その爆心地から少しでも離れようと、悲鳴を上げながら逃げる。
「さぁ、質問だ」
自警団と、阿求だけが見守る中、藍は尾を大きく開いた。
そして満面の笑みを顔に貼り付けると――
金色に燃える瞳を向けて、女が男を誘うように手を差し伸べる。
「命と、心、どちらを先に無くしたい?」
「は? 何言ってんだ? てめぇこの状況がわかって」
「ああ、ああ、わかっているとも。だから、せめて最期くらい選ばせてあげようと思ってね……」
そして藍は足を進める。たった一歩だけ、その体を男に近づけただけ。
それだけで止める立場にいるはずの自警団が一歩も動けなくなってしまう。
頭では理解しているのに、体が全力で前進することを拒否していた。
おそらく、妖怪ならばもっと違う反応を示していただろう。
九尾から立ち上る、不可視の力に怯え、この場にいることすら拒否したかもしれない。
もちろん、目の前の男も同様だ。
口をパクパクさせ何かを言いたそうにしているのに、声すらも出ない。
その隙を見計らって橙は男の手を離れ、藍に飛びついた。
「さて、大事なものは返してもらったよ。それでもそちらは選ぶことができないようだから、仕方ない。ちゃんと二つとも味あわせてあげるとしよう」
左腕で橙を抱き、右腕を振り上げる。
それを振り下ろせば、あの紫から預かりうけている隙間の力が発動し男を取り込むはずだ。
しかし、その手が動くより早く。
小さな影が藍の前に出て両手を広げた。
「人里で罪を犯した人間は、人間が裁く! それが世の道理でしょう!」
阿求だった。
栗色の髪を揺らし、必死に訴える。
とめる手立ては声と、彼女の体のみしかないというのに。
妖怪のことをよく知る彼女だからこそ、唯一動けたのかもしれない。
けれど、金色の瞳はまだ攻撃的な光を失わない。
「どけ……」
「そうですね。あなたは紫さんに力を貸してもらっているだけ。精密な動作はあまり得意ではないはずですから、私が近くにいては彼を攻撃することもできないのでしょう」
「どかなければ、お前も取り込む」
「できますか? 稗田家は八雲紫だけでなく地獄の閻魔とすらつながりがある家です。それをあなたの一存でどうこうできるとでも?」
ぎり、と。
怒りに身を任せた藍が牙を摺り合わせる。
本来の藍なら絶対に行動にすることはないはず、けれど……
橙のことで頭に血が上った藍は、
その手をあっさりと縦に走らせた。
どこからか悲鳴が上がり、風に乗る。
空間を開いたことによる影響か、不自然な空気の流れがその場の全員の撫でた。
砂埃が舞い、一瞬で三人を包み込む。
誰もが一瞬目を覆い、状況を見失った直後。
ぱしゃり、と。
消えはじめる砂埃の合間に、まばゆい光が閃く。
「はいはーい、藍さんも一緒とは休日の散歩といったところですかな? それにしては険しいお顔をしていらっしゃる。ほらほら、もっと笑っていただかないと」
光と、声を辿れば、屋根の上に人影ひとつ。
脇に小柄な阿求を抱え、気絶した男を足元に転がして、人懐っこい営業スマイルの天狗が写真機を片手に立っていた。
いつ助け出したかなど誰にも見えなかった。
風が吹いた直後に二人の姿が消えたので、周囲の人間は隙間に取り込まれたと誤解してしまったくらいなのだから。その姿を唯一捉えられる可能性のある人物は、藍くらい。
その藍はというと、いきなりの乱入者に目を細めて再び手を動かそうとするが、表情を変えた途端に写真機のフラッシュが襲い掛かり、手を止めて顔をしかめた。
「明るい日中は光をつかうべきではないんじゃなかったのかな?」
「いえいえ、時と場合によりますよ。特に野生動物を驚かせるにはこういった機械に頼るのが一番でしてね。まあ、動物ではない理性ある妖怪でしたら、言葉で理解できるとは思うのですが?」
「……それは私に対する当てつけか?」
「そう思うのでしたら、ご自分に多少非があったとご理解していらっしゃる、というわけですな? いやぁ、やはり優秀な式は違いますねぇ。うちの馬鹿犬どもにも教えてあげたいくらいですよ。口を開けば規則規則と、まったく自由意志のない大天狗様の腰巾着でして。あ、今のは他言無用でお願いしますね、と念を押しておきましょう」
飄々と笑顔で返す文の姿を忌々しげに見上げ、金色の瞳を細めていく。幻想郷最速を誇る天狗の動きを捉え、打ちどの手が最適か。冷徹な思考を繰り返す瞳がそこにあった。
だが、文は笑う。
阿求と人間をもう一度脇に抱えて、離れた場所に着地すると同時に男を乱暴に地面に放り投げ、藍の攻撃に対するわずかな抵抗手段でもある阿求を地面の上に置いても、その余裕は消えない。商売道具であり武器でもある写真機すらその胸の谷間に仕舞い込んで、手帳の上でペンを走らせる。戦う必要すらないと思わせる態度に、藍は尻尾の毛を逆立てるが。
その理由は、彼女の一番近くにあった。
「藍様……」
腰近くの衣服を握り締め、首を小さく左右に振る。彼女にとって大切な式であり、大切な家族でもある橙が、怯えていた。藍を見つけたらすぐ胸の中に飛び込んでくる甘えん坊が、藍を見上げて震えているのだ。
口に出さなくても、藍には橙がどう思っているのかくらいは簡単に理解できた。
「……ごめんね、橙。私はどうやらいけないことをしてしまったようだ」
文の笑みの理由がこれだった。
そう納得したからこそ、大きく放射線状に広げていた尻尾をいつものように下げて、手を胸の前で組んだ。すると橙がやっと尻尾に抱きつくようになり、顔からも険しさが消えて理性ある知的な女性の顔に戻る。
「悪かったね。身内のこととはいえ、少々熱くなってしまった。まだまだ私も若いということかな」
「おやおや、藍さんでお若いのであれば私なんてひよっこというところでしょうか」
「そのひよっこにしてやられた私の気持ちは汲んでくれないのかな?」
ふむ、と。文は一つ唸って、指を一本立てる。
「汲み取って一つの記事にできるのであれば」
「遠慮しておくよ」
「では、こちらもやめておきましょう。この季節のあなたを敵に回しても得なことは一つもありませんしね」
書きかけのページを千切りとって、風で藍へ飛ばす。
ヒラヒラと舞う紙に一瞬手を伸ばしそうになる橙であったが、それよりも早く藍の手が伸びた。くしゃりと音がするほど強く掴み取り、躊躇いもなくそれを握り潰した直後。
手を覆う紫色の狐火で消し炭に変えて、再び風の中へと散らした。
そのやり取りを眺めていた傍観者と、阿求の視界の中で文の姿がブレる。
「その代わりといっては何ですが、紫さんがお休み中の事件でおもしろそうなものがあれば私に回すということで」
「え、ええっ!?」
驚きの声が藍のすぐ横で上がった。
橙にも見えないほどの速度で接近した文が、帽子で隠れた藍の耳元へと口を近づけていたからだ。しかも空中で綺麗に逆さまになりながら。それでいて、スカートも服も重力とは反対方向に整っていて、乱れ一つない。
「そうやって無駄に力を誇示するな。橙が驚く」
「あやややや、そんなつもりはないんですけどねぇ。で? ご回答は?」
「考えておこう」
「考えるだけで終わらないことを祈りますよ」
そう答えるのが早いか藍の腕が動き、空間が大きく開いた。
なんとか丸く収まったとはいっても、己の未熟さが生みそうになった場所から身を引きたいのだろう。家路につく藍を見送った文は、音をまったく立てることなく体を捻って着地。
「さてさて、皆さん。清く、正しく、迅速丁寧、三拍子そろった新聞記者の私こと射命丸文、そして人間と天狗を繋ぐ文々。新聞をよろしくお願いいたします。ほら、ちょうど手元に」
そして、自警団全員にすばやく新聞を手渡してから、清々しい笑顔で空を見上げた。
あまりの手際のよさに、自警団が事件の犯人を捕まえるのを忘れさせてしまうほど。
しかし、阿求が隊長格の男に何かを告げると慌てて行動を始めて、まだ伸びている男を縛り上げて本部へと連れて行ってしまった。
「いいですね、いいですね! 『妖怪が人質に、そのとき人間たちが動いた!』小さな見出しはこんなところで――」
「文さん」
「ああ、阿求さんですか。申し訳ありませんが、少々お待ちを。今回の事件の感想も聞かないと記事にできませんからね。自警団の方が犯人を連れて行く絵を頂いたら、お付き合い頂きたいのでよろしくお願いしますね。もしお急ぎの御用がありましたらお家にお邪魔させていただく形でも構いませんので、もちろん藍さんの件はできる限り内密に」
「そうではなくて、あの、ありがとうございました」
ぺこり、と阿求が頭を下げると、文は目をぱちぱちさせて写真機から目を離す。
「はて? 何か感謝されるようなことをしましたかね?」
「助けてくれたでしょう? 藍さんが攻撃をしたときに」
「ああ、なるほどなるほど」
写真機で人里の映像を撮った後、機械を手帖に持ち替えて阿求の方へと顔を向けた。
「ならばこちらも礼を言うべきだと思いますがね、妖怪の山でも話題になりそうなネタを頂いたわけですし」
「……事実とは異なるモノに仕上がりそうですが」
「おや? 多少過程は異なりますが、結果は異世界からやってきた人間が起こした事件の鎮圧成功、ということでしょう?」
舌をちょこんっと出して、得意気に微笑む。額に軽く手帖を当てて、小首を傾げるその愛らしい姿は演技か、それとも本心によるものか。
しかしながら、阿求にとってはそんなことはどうでもいいことで。
「そう、ですね。確かにそれ以上のことはなかった。ということで、よろしいでしょうか」
「いやぁ、お話がわかる人は実に素晴らしい」
お返しと言うように、指を軽く額に当てて文を見上げる。
すると嬉しそうに文が微笑み、すばやく手帖を広げて阿求へと催促した。今回の事件について思うことを話せ、と。
しかし取材に頭が完全に切り替わる前。
阿求が真剣な顔で文の目を見つめてきて、
「あなたは、人里よりの妖怪ですか?」
そんなことを言うものだから。
「興味がある、という答えではいかがでしょう?」
思わず、真顔で答えてしまった。
◇ ◇ ◇
薄っすらと雪化粧した境内に朝日が降り注ぎ、きらきらと屋根や地面が輝き始める。そうやって輝きながら、解け地面に消える儚さ。
命の輝きに似た風情があると、歌人なら詠うかもしれない。
しかし、
「さぶっ」
身体を抱き、震えながら社務所を出る霊夢には何の関係もない話。太陽と積雪が織り成す神秘的な光の空間の中で、いまにも『眩しい』と文句の出そうな顔をする。確かに、もうすぐ春だというのに、思い出したかのように空から白い贈り物が届けられるのは迷惑な話だ。が、これを別な誰かが覗き見していたとしたら、もう少し若さがあってもいいと思うのではないだろうか。
社務所の入り口を閉めることなく、一歩一歩を踏みしめながら本殿の前に進み、賽銭箱の近くの階段まできたところで白い息を目一杯吐き出した。
「ま、わかってますけどね」
賽銭なんて生活費の足しにはならないと理解していながらも、ついつい期待してしまう。あればあったで、お茶代や茶菓子代にすることができるから。
過去に妖怪の山の現人神がお神酒とか買わないんですか、と、尋ねたところ、霊夢は真顔で首を傾げたという。
「え? 晩酌のお酒じゃなくて?」
そんな発言を悪びれもなくする巫女がいる神社である。しかも辺境の地にあるという条件も兼ね備えては。
「ほら、ね?」
しゃがみ込んで、賽銭取り出し口を引っ張ってみれば、いつもと同じ光景が広がっている。
空っぽ。
まっさら。
すっからかん。
申し訳なく枯葉が二枚だけ入っているのが哀愁をそそる。
見慣れた小さな世界をぱたんっと戻して、ため息を吐けばまた顔を覆うほどの白いもやが生まれた。
と、そのとき。
視界が悪くなったせいだろうか、
「あっ」
足を踏み外し、背中から境内に傾いていく。
その身体が行き着く先にあるのは、境内と本殿を繋ぐ階段と、硬い石畳。いくら霊夢が妖怪退治の専門家であろうとも、予期せぬ事故に対しは人間の少女でしかなく。受身も取れない状況であれば、良くて打撲。
打ち所が悪ければ……
「おや? あまりの不憫さに眩暈でも?」
普段は具現化させていない黒翼を体の前で折りたたみ、正面で優しく霊夢を受け止める影一つ。崩れかけた体を持ち直して、霊夢が振り返れば、そこにはもちろん活発そうな服装の少女が一人。同じくらいの身長であるはずなのだが、高下駄靴を履いているため、霊夢よりもはずかに背の高い妖怪。
「最近の天狗は嫌味も最速なのかしらね。随分とお暇なようで」
「いえいえ、事件の中心になりやすい人物を見張っていれば、暇がつぶれる可能性が高いと思いまして」
「宝が寄ってくるうっかりさんと一緒にしないで」
「おや? 霊夢さんにも私のような素敵な妖怪が寄ってくるではありませんか」
「あんたたちが簡単に足を運ぶから神社のありがたみが失せるのよ」
文が伸ばした手を軽く振り払って境内の隅に置いてあった竹箒を拾い上げ、ようとしたとき、またぐらりと霊夢の体が傾く。
目の錯覚でも、幻でもない。
このまま放置すれば、側面から冷たい地面と愛を語り合うことになるだろう。割と激しく。
「そうやって無茶をすると、余計にいらぬ妖怪が寄ってくると思いますけどね。特にあのお方などは、あなたのことになるとわかりやすいわけで」
文が扇を軽く振って、風を無理やり霊夢に当てる。
そのおかげで転ばずに済んではいるもののどこか足取りがおぼつかない。竹箒を杖代わりにして、いつもどおりを装うが。文の観察眼はそうそう甘いものではない。
「あのお寝坊さんならまだ熟睡中よ。藍が今朝打ち合わせに来たから」
「あ~、藍さんが……真面目すぎるのというのも本当に困り者ですよね。大きく波打ったときの反動が大きいというか」
「藍と何かあった?」
「おや? 危うきに近寄らずのこの私が、率先して今の藍さんに接触するとお思いで?」
「全然」
異常があると知りながら、それでも文は普段どおりの会話を続ける。
対する霊夢も、勘の鋭さから文の何かを察したようだったが、文の目をじっと見るだけでそれ以上の詮索はしない。文はぺちっと額に手帖をぶつけておどけて見せた。
「ならば、そういうことです。しかし困りましたね。少しくらい世間話にお付き合いしてくださると思ったのですが、そうそう仁王立ちされてはお部屋にお邪魔することもできなくなってしまいますね」
「仕方ないわね、ほら、素敵な賽銭箱はあっちよ」
「残念ですが手持ちがないもので」
「じゃあツケね」
「その二文字だけで祭られている神様と先代を号泣させることができると思いますよ、私は」
居酒屋の親父と同じ扱いにされた神様に同情しながら、文は軽い足取りで霊夢の後ろを歩く。誰かの後ろを歩くというのは、速さを謳う文にとってあまり好ましいことではないのだが。
「なんでしょうね、この自然と表情が崩れてしまう感覚は」
「私の人徳のせい?」
「いえ、風邪をこじらせながらも強がりを続ける誰かさんの様子が面白いだけだと思いますが?」
「へぇ~、文に目を付けられるなんて可愛そうな人がいるものね」
「あやややや、失敬な。では、可愛そうな人はこんなことをされているかもしれませんね。密着取材ということで」
黒翼を消し、口調だけに怒気を含ませながら、文は霊夢に後ろから抱きついた。
すると予想通り、いつもよりも熱を帯びた体温が、服越しに伝わってくる。
「重い」
「……む、そこは文って暖かいね、とか、頬を赤らめてつぶやいていただいてもいいのですが?」
「だるいんだから体力使わせないでよ!」
「やっと風邪であることを認めたようですね」
「そうです。風邪ひきました。だから離れてってば」
「大丈夫ですよ、私にはうつりませんし。だって私の力は風をあやつることですから、な~んて」
「……やばいわ、気温が下がった」
「それでは尚更人肌で暖めるしか」
「だから離れなさいってば、あ、もうっ!」
霊夢が本気で嫌がる前にぱっと手を放し、するりと小脇を潜り抜けて社務所へと先回り。靴を脱いでゆっくりと歩く家主を手招きした。
「これ以上からかってお茶をいただけなくなってはかないませんしね。さあさあ、お早く」
「病人に鞭打つなんて、残虐非道ね。って、文あなた私が風邪だっていうのいつから気付いてた?」
「昨日ここに来たときですかね、息を荒くしていたようですし」
「まさかそれ、他人に話してないでしょうね?」
「ええ、もちろん」
「本当に?」
「誰にも話してませんってば、あ、わかりました。そういうことですね! もう、霊夢さんったらもっと早く言ってくれませんと」
「何いきなりくねくねしてんのよ」
霊夢の指摘を受け、文は玄関近くの柱に人差し指を当て恥らう乙女のように瞳を潤ませる。
「つまり、私と霊夢さんだけの秘密にしたい。いやぁ、繊細なお気持ちに気付かず申し訳ありません。さて、そんな率直な感想を一言いただくことにして……っと、おっとっと」
ペンと手帖で両手が埋まっているにも関わらず、無言で投げつけられる陰陽玉の連弾を器用に避ける。壁や床、天井を跳ね回る仕様だというのに、四方八方からの攻撃が掠りすらしない。
霊夢の体調が万全でないことを差し引いても文の動きは馬鹿げたもので、素早く正確に最小限の動きで身を翻し、時には受け流す。
ただ、霊夢が袖から一枚のスペルカードを取り出した途端にその顔から余裕は消え去った。
「あの、霊夢さん? できればお手柔らかに……」
からかい過ぎたと後悔してももう遅い。
青い顔になる文が逃げるより早くその手が土間に、
「おーい、調子はどうだ~。って、意外と元気だな」
叩き付けられるより早く、霊夢の後ろに見知った来客が着地する。
「いくら病気でも鴉の焼き鳥はどうかと思うぜ」
例え知り合いに話し掛けられたとしても、攻撃の手を止める必要性などありはしなかった。多少調子に乗った文に一撃を加えてからでもゆっくり話を聞けばよかったのだろう。
けれど、魔理沙が何気なく発した一言、その中に、
「病気? 私が?」
どうしても聞き捨てならない単語が含まれていた。風邪をひいたのは昨日。そして、その日は大事を取って外出せず、新聞を配りにやってきた文としか接触していない。
ということは、情報源、及び犯人は――
霊夢はパタパタと無抵抗に手を振り始めた文を一瞥してから、魔理沙の方へと半身を向ける。
「ちなみに、誰から聞いたの?」
「ん、そこの天狗が号外配ってた」
魔理沙の指が示す先、当然そこには、
「あぁ~やぁ~っ!」
大人しくなった文がいるはず。
ただ、霊夢が再び体の向きを変えるより早く、一迅の風が背中を撫でていき。
はっ、と気付いたときにはもう遅い。
「あの、嘘つき天狗!」
もぬけの空になった玄関には人影すらなく、弾幕によって少々汚れた空間が広がるだけだった。いや、よくよく見れば、紙の切れ端のようなものが文の立っていた場所に残っている。
なんだか嫌な予感に襲われながらも、箒を杖代わりにそれを掴めば。
『しゃべってはいませんので、あしからず』
可愛らしい文字で、憎たらしい言葉が並んでおり。
「あ、そうそう、地底と紅魔館からも見舞いがくるらしいぞ? お空なんて、私の力であっためてやるとか言ってて」
ぽてっ、と。
「おい、霊夢、どうした霊夢~?」
風邪に加えて別な意味で頭の痛くなった霊夢は、玄関の上がり口で突っ伏したのだった。
◇ ◇ ◇
「作戦名、『三五三五』第二段階まで成功、哨戒天狗! 目標物の動きはどうか!」
時は夕刻、山が暮れないに染まる頃。
妖怪の山の一画、ひらけた場所に設置した拠点の中で文が扇を振る。
するとその先の草陰で待機していた白狼天狗が、しゃがみ込んだ体勢のままで尻尾をだらんっと力なく下げた。
「地底の猫、烏が到着、飼い主もやってきたもよう」
「一本角の鬼は?」
「何を思ったか、肩に体と同じくらいの大きさの酒樽を装備。しかも二個」
「ふむ、さすが妖怪の山で恐れられた武人ね。弱った相手にも容赦なしとは」
過去の妖怪の山で『酒は百薬の長!』とか言いながら具合が悪くなって休暇を取った天狗の家に無理やり押し掛け、休養期間を倍に延期させるという伝説を残してきた鬼である。
いくら幻想郷を管理する巫女でも、ああなった鬼の攻勢から逃れる術はない。いざというときの安全装置が必要だ。文は口元に手をもってきて、幾分か抑えた口調で問い返す。
「切り札は?」
「PARUは、4名とつかず離れずの位置で前進中。すでに黒い気配が目視可能」
「ふむ、ならば結構! 一本角が暴走した際はきっと彼女が押さえ込むはず」
「しかし小隊長、一つ問題が」
「何かね、椛くん」
どこか死んだ目をした椛が振り返り、声を低くして告げる。
「角付き幼女が、すでに神社へと侵入」
「ば、馬鹿な! そんなことがっ! ……いえ、ありえますな。存在を希薄にして霧となって進入したのであれば」
「危険人物二名に対する対処には犠牲が伴うかと」
「了解、どうやら作戦を修正する必要があるようで」
「それともう一点、意見しても?」
「ええ、発言を許します」
文が頷くと、椛は神妙な面持ちで、ごくりっと唾を飲む。
そして意を決して。
「そろそろ、にとりと将棋する時間で……」
「拒否」
「その後は仲間内での集会が……」
「却下」
「……本気で帰りたい」
「ダメ」
椛の切なる感情を容赦なく切り捨て、両腕でばってんを作り出した。しかしそれでもなんとかと、右足にすがってくるが、文はびしっと指を突き付ける。
「弾幕勝負で負けた椛が悪い。一日言うことを聞く約束よ」
「いくら勝負によるものであっても、個人の意見は尊重されるべであって! それに文嫌いだし」
「駄犬の戯言は良いとして、鬼が二人そろった場所に取材にいくのは厳しいですな。たとえ一人に椛というデコイをぶつけることができても……」
「ああ、神様……どうか迷える狼に慈悲を……」
いろんな意味での死を覚悟した椛が救いを求めるが、
「いや、だから帰れお前等」
いつのまにか横に立っていた神様、神奈子に切り捨てられる。
文もそれに気づいて小さく頭を下げた。
「おや、奇遇ですね。何か御用で?」
「何か御用で? じゃない! 人の神社の境内で勝手に陣地を張るなって話だよ!」
壮大な社、堂々とそそり立つ鳥居、本殿へと繋がる広々とした石畳に、同じく広大な境内。
そう、この広い拠点は誰がどう見ても守矢神社の一画であった。それを勝手に占拠したと、神奈子が大声を上げているというわけだ。占拠したといっても藁を引いただけなのだが。
「え? でも、早苗さんにお話したところ快く許可をいただいたわけですけどね。えーっと、霊夢さんの具合が悪く天狗の一人として何かしてあげたかったのですが、素直じゃないのでお見舞いさせてくれない。だからせめて遠くから見守らせて欲しい、というような言い方で」
「あ~、なるほどね。そのお願いのせいで私まで一緒に霊夢の見舞いってことだよ。もちろん諏訪子もね。あんたたちに留守を任せるわけにはいけないから撤収しろってことさ」
「あ~、せめて作戦の第三段階の結果を見てからにさせていただこうかなと」
「何だい? 第三段階って」
「まあ、私が勝手に考案した作戦ですね。第一段階といたしまして、霊夢さんが風邪であることを重要人物に知らせ、人里にも情報を流します」
「ふーん」
椛を振り解き、神奈子の周囲をゆっくり回りながら、得意気に話す。
けれど話を聞く方としては、特に興味があるわけでもなく。話半分で聞き流していた。
「第二段階として、その中心的人物が魔法の森、紅魔館等、人里以外のところで情報を流すのを待ち、周囲の状況をくまなく監視しておりました。少々異常がありましたけれど、ご愛嬌といったところでしょうか」
その途中で発生したのが、人里の事件だった。
文としては一つ事件のネタが増えてホクホクである。
「で、お見舞いとは名ばかりの宴会を作り上げ、記事にするというわけかい?」
「そのとおりでございます。面白みのある参加者がいなくては、記事にはなりませんからね。そちらのお二方も参加していただけるのであれば尚良しといったところですよ」
文が視線を送る本殿前では、神奈子に向かって手を振る二人組が立っていた。そろそろ出発しようとしているのかもしれない。
もう少したら離れますと、約束してから三人を見送った文は再び椛のところに戻ってきた。
「それではこちらもそれ相応の準備をするとしますか」
「……やっぱり私も参加?」
「もちろん、今日はまだ長いですよ~」
とは、言いながらも。
文はふむ、っと小さく唸る。
先ほども考察したとおり、現地には妖怪の山にいた鬼が二人揃っている。となると、何かの拍子に絡まれた場合、椛だけでは役不足ではないか。一対一で振り分けられるように、誰か適当な白狼天狗でも捕まえてみようか、などど椛の横で考えていたら。
「文! 今日こそは私の勝ちよ!」
と、なんだか息巻く鴉天狗が暗くなり始めた空から降ってくるわけで。
「このスクープを見て驚きなさい! 人里のほうに向かって念写したら、あの九尾の八雲藍とその式が事件に巻き込まれてる絵が撮れたのよ! これを話題にしちゃえば! 私の新聞の人気はウナギ上りってところね!」
しかも、大スクープというより、大問題の写真をひっさげて。
それを知る文と椛は顔を見合わせて、苦笑い。
「……あー、悪いけど。その写真は記事に使わないほうがいいかも」
「へぇ~、珍しいくらい弱気ね。それだけ悔しいってことかしら?」
「馬鹿言わないの。私だって持ってるわよ、そんなのよりも臨場感があるモノをね」
「負け惜しみはよくないよ。ま、明日から私の名前は天狗社会に響き渡るでしょ……う、けれ……どっ、って何よこれ! 卑怯よ! 卑怯だわ!」
はたてから受け取った写真を胸ポケットにしまい込み、お返しとばかりに数十枚の写真を手渡す。すると見る見るはたての顔色が変わっていき、最後はわなわなと手を震わせる始末。
なんだか目尻に涙まで浮かべているところを見ると、それだけ今回の写真に自信があったのだろう。
幸福から一気に地獄へ叩き落とされたはたてを眺めながら、ふふんっと鼻を鳴らす文だったが、はたてが食い入るように写真を見つめていたので。
にこり、と口元を笑みの形に歪める。
「その写真、欲しいならあげるわよ?」
「ば、ばば、馬鹿言わないでよ! 誰がこんな!」
「九尾の狐を記事に入れると少々問題も発生するし、書こうか処分しようか迷っていたの。もし、書きたいなら写真提供の欄に私の名前入れてくれればいいから」
「ふーん、そっか。い、いらないなら、しょうがないわよねっ! いらないなら!」
「ま、そういうことで」
文に釣られてはたても顔に笑みを浮かべた。
ただし、こちらは本当に嬉しそうと表現できる部類の。
対してもう一方はというと。
「それでね、はたて。そのネタの代わりといっては何だけど、協力して欲しいことがあるのよ」
「簡単なこと?」
「たぶん簡単な部類ね。一緒に博麗神社まで付き合って欲しいだけだから」
「ふーん、それくらいなら付き合ってあげてもいいけど?」
満面の笑みではたての両手を握り締め、瞳すら潤ませる。
「ホントに? ありがとうはたて! これからも良き好敵手として、妖怪の山を盛り上げて行こうね!」
「え、ええ、もちろん!」
何も知らないものが見れば、良き友情と思える場面を眺めながら、
「……天狗の顔を被った鬼だ」
ぼそり、と椛はつぶやいたのだった。
◇ ◇ ◇
人と酒が集まれば、どんな場所でも宴が生まれる。好みの相手が居るなら尚更だ。そもそも妖怪に好かれやすいという困った体質の存在が中心となった場合、その輪は留まることを知らず。本人の都合などどこ吹く風。ところどころで笑い声が上がり、あちこちで写真機が瞬く。
その中で上座というか、無理矢理主役に祭り上げられた霊夢は。
『こうなるってわかってたから、黙ってたかったのに』
抵抗という名のふて寝を決行。
一番高い位置の席に布団が敷かれるという、今までにない映像が誕生した。しかし、
「霊夢! この私が直々に足を運んで、精の付くものを咲夜に作らせた。その恩義は感じてくれても良いんじゃないかしら!」
「……ありがと、咲夜」
「どういたしまして」
「うぅ~っ。私が連れてきたのよ! 感謝する相手が違うのではないかしら? こら、起きなさいってば!」
レミリアを代表とする献身的な対応により、霊夢もしぶしぶその場で身を起こし、レミリアの持つスプーンをくわえる。
そうやって最初の『あ~ん』を勝ち取ったレミリアは、周囲の客人に勝ち誇った笑みを向け……
と、そこから霊夢の災難が激化するわけだが……
「続きは文々。新聞でお楽しみください」
「この状況でどうやって楽しめって言うのかしら?」
その高らかな騒ぎは脳裏と文の写真機の中にしか残っておらず。二人が見つめる大きめの居間には、宴会の後の無惨な食器たちが並んでいた。
おかげさまで霊夢の症状は回復することなく横ばいで、今も自分で持ってきた布団で横になっている。この状況では、元に戻すにも時間が掛かる恐れがあるわけだが、後で片付けに来ると咲夜やさとりが言い残していったのが希望ではある。
けれど、そうそうすぐには戻ってこないだろう。
かろうじて残った燭台の上の明かりだけが、温かく部屋の中を照らし出していた。
「二次会は地底だっけ?」
「そういう話でしたね、旧都が二次会、温泉が三次会、そして朝まで命蓮寺」
「ネズミとか泣きそうね」
「寅に噛みつけるからまだ大丈夫だとは思いますが」
ぐでんぐでんになった連中が命蓮寺で繰り広げる行動を考えると、素直に手を合わせたくなる。強く、生きろ、と。そんな共通認識を確かめ合いつつも、文は霊夢に掛け布団を被せてお腹の上をぽんぽんっと叩く。子供扱いするなと霊夢が眉を潜めてもお構いなし。
布団の横で腰を下ろして、畳の上に足を伸ばす。仕事のことを忘れて羽を伸ばしている、とでも表現すればいいだろうか。
「たまにはこういうのも悪くないかと」
「死ぬほど恥ずかしいけどね」
夜空も見ることができない、散らかった部屋。隙間風が入らないよう、宴会の時に外していたフスマはしっかりと嵌め込まれ、閉鎖的な空間を作っていた。そのせいだろうか、先ほどまでの喧噪の名残がそう思わせるのか。何か心にぽっかり穴でもあいてしまったかのように、二人の間に静寂が下りてきた。
そうなると、疲れにより眠気が顔を出し始めてくるわけで、文の側で霊夢が大きく口を開ける。
「せめて手で押さえるのが女性の慎みらしいですよ?」
「気を遣う必要のある相手がいるときはね」
「おや、つまり私はそれ以上の存在であるというわけですか」
「そうそう、その辺の小石と同じくらいのね」
「日常の風景と一体化しているというわけですか。いやぁ、そんなに褒められると困りますねぇ」
ああ言えばこう言う。
そんな切り返しを続けて、また静まり返り。その度にまたどちらかが口を開く。
「文、椛とはたてはいいの? なんか連れてかれたみたいだけど」
「問題ないわ、ちゃんとあの二人の休暇については上と相談済み。あ、でも、二日酔いで頑張って起きてから、休みだって言われたら少し驚くかも」
いつしか文からも取材口調は消え、妖怪の山で暮らす本来の口ぶりに戻っていた。
それでも霊夢はそれを指摘しない。
文に布団を優しく叩かれるまま、気持よさそうに瞳を細めていた。
「久しぶりに面白い記事がかけそうだし、明日はがんばろうかな」
「あら、今夜からがんばればいいじゃない。誰かにネタを取られるかもよ?」
「それは一大事ね、でも」
言い掛けて、ころんっと畳の上で横になり。
霊夢と視線の高さを合わせる。
「たまには、筆を休める日も必要かなと」
「悪いけど、布団は渡さないわよ?」
「問題ないわ。鴉天狗にはこれがある」
そしてばさり、と漆黒の翼を生み出し自分の体を覆った。
「羽毛布団……」
「いやいや、怖い発言はおやめください」
「それじゃあ」
そして霊夢は、布団から白い手をすっと伸ばし、文の翼の先をそっと掴んだ。
「一本だけで我慢してあげる」
「天狗からなけなしの羽を奪うとはなんと酷い」
「あんな騒がしい夜にしてくれた償いはこれでも少ないくらいよ」
「まだ夜は肌寒いのに」
「風邪を操るんでしょう?」
「あやややや、これは一本取られましたな」
文は舌先を少しだけ出して、微笑みを作ると一度だけ身動ぎする。それに合わせて霊夢も布団を被り直し、その暗闇の中で半分だけ顔を出した。その途端わずかに残った明かりも消え去り、二人の吐く息の音と、衣擦れの音だけがその場を支配する。
「おやすみ、霊夢」
「おやすみなさい、それと……文?」
閉じかけた瞳をもう一度開け、霊夢の方を見る。
しかし霊夢は布団を頭の上からすっぽりかぶって、しかも背中を向けているようだった。続く言葉をはっきりと聞き取ることができない。それでも文の耳には確かにこう聞こえた気がした。
『今日は、ありがとう……』、と。
◇ ◇ ◇
「文、あ~や~!」
「あれ? どうしたの? 宴会の出し物で動く死体でもやるの?」
「あんたねぇ、昨日、私がどれくら……うっぷっ」
その翌日、博麗神社から妖怪の山へと戻ったとき、朝日の中からふらふら飛ぶ鴉天狗が現れた。翼を出現させているのは、妖力だけでは飛ぶことができなくなったからだろう。
口を押さえて顔を青くするはたてから距離を取りながら、とりあえず文は冷静に空中で停止しながら。
「はい、笑って~」
「勝手に撮るんじゃなぁいぃぃ」
とりあえず写真機を構えてみた。
すると嫌そうに手を振るものの、写真機の範囲から逃げる元気はないようだ。
「あのねぇ、そうやって遊んでる場合じゃないのよ。大天狗様があんたに用事だって」
「ふむ、私の上司の?」
「ううん、なんか大天狗ってしか言われなかったけど。私はそう伝えろって知り合いから」
「大天狗様の名前で、伝言、ね。じゃあ、向かうとしようかな」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
素早く背を向ける文に向けて、慌ててはたてが手を伸ばす。
「誰かわかってるの?」
「ま、そういう回りくどいことをする該当者は一名しかいないわけで、じゃあね。しっかり休んでおくことをお勧めするわ」
二日酔いの状態で最高速の文に追いすがることなどできるはずもなく。
文はその一言だけを残して、一瞬のうちにはたての視界から消えた。
森の方へと姿を隠し、地面をゆっくりと踏みしめるように歩いていく。
そこは天狗があまり通らない、野生動物用の獣道。文の身長ほどの植物が両側を埋め尽くしていた。そんな細い道を肩を擦って進んでも建物などあるはずもない。
当然だろう、ここは本当に獣しか利用しないのだから。
そう、こんなところに目標となる人物が出入りするはずもない。
が、そう思わせることこそが大切。
それと、文が一人でいるということさえ条件に加えれば、呼び出した人物の方から接触してくるのだから。そろそろかと、文が歩みを緩めたところで。
「はは、まったく馬鹿げたもので……」
信じられないことに、世界がいきなり広がった。
場所に出たわけではない。
文の視界はずっと茂みだけを映していたし、それが途中で終わる気配もなかったはずだ。それでも、広い空間は生まれた。森の木が、植物が、まるで意思を持っているかのように動き。ツタが見る見るうちに絡まりあって、半球状の緑の部屋を作り出す。
本来ならありえるはずのない、八畳ほどの空間。
自然法則を無理やり捻じ曲げて、自らが望む条件を作り出す。
そんなことが可能な天狗を、文は一人しか知らない。
「これはこれは、久方ぶりでございます」
一人しか知らないから、その場で膝をつき。
部屋の中央にいきなり現れた人影に深く頭を下げた。
「天魔様」
森羅万象を司る、天狗の長に向けて。
文よりも幼く見える外見に、専用に改装された山伏の服がその魅力を引き立てている。そして活動的な天狗には珍しい長い黒髪を翻し、文へと向き直った。
「文、お主、新聞作成に明け暮れて我からの命を忘れてはいまいな?」
愛らしい声音とは一線を隔てる圧倒的な威圧感、立っているだけで山の妖怪が平伏す程の。そんな天魔がどこか刺々しい口調で文を責めて立てる。
「もちろん心得ております。変わり者の天狗、と、妖怪の山の中でも噂されている事は天魔様もご承知のはずですが?」
仲間意識が強く、必要がなければ外に出たがらない妖怪の山の天狗たち。その中にあって文は、好んで外部と接触することを好んだ。
いや、好んでいるように見せた。
時には下等な人間に笑顔を見せながら媚を売る。偏屈な新聞記者、射命丸文を演じた。
「有事のときのため、外の人間や妖怪を少しでもこちらに取り込め。もしくは、情を感じさせ、攻撃の手を緩めさせるための見えない盾と成れ、でしょう?」
「そして、もう一つ。敵となるものの弱点を探れ、じゃ」
「ええ、もちろんですとも。ですから人里の方でも、神社でも、人のいい妖怪として受け入れられつつあるわけです。この働き者の文は、常に貴方様への忠誠心の下で」
「あーあー、世辞はよい。お主の働きは見事じゃし、今呼び出したのも今回の人里の働きと、巫女たちとの接触を評価したためじゃ。お主の家には何か褒美を与えよう」
「ありがたき幸せにございます」
膝を付いたまま深々と頭を下げ、笑顔で体を起こす。けれど、天魔の表情は硬いまま。
「のぅ、文よ、こんな御伽噺をしっておるか?」
どこか悲しそうな顔で文を見下ろしていた。
「動物の国と、鳥の国、その両方に取り入った生き物の話を」
「天魔様もそういったものに興味がおありとは、いやぁ、意外で」
「知っておるか? と、聞いたぞ」
笑顔を崩すことなく、文はまた、あはは、と笑い声を零し。
「さあ? 私はそういった過去の創作物にはあまり興味がないもので」
「ふむ、そうか、それならばよい。世話をかけたな」
「いえいえ、ありがとうございました」
そうやって文がもう一度頭を下げた後には、緑の部屋も、茂みすら消え去っていて……
あるのは立ち並ぶ巨木たちだけ。
「烏と、蝙蝠は違いますよ。天魔様」
枝の屋根で隠れて見えないはずの空を見上げ、困ったように頬を掻く。
「さてさて、と。いろいろありましたが、やっと新聞が書けそうで……」
気持ちを整理し、大きく背伸びをしてから。
自分の家の方へとつま先を向けた。
そのときだった。
「おっ、と」
いきなり鼻先に刀が突きつけられ、思わず身を引く。
目線を刃に沿わせて見れば、その先にあるのは見覚えのある白狼天狗の姿。
「文、昨晩はどこにいた!」
「えっと、霊夢さんのところで一泊、二人きりで」
その強気に押し切られ、正直に口を滑らせてしまう。すると椛の顔が真っ赤になり。
「て、ててて、天狗と人間が! しかも女性同士が同じ屋根の下で過ごすなど不謹慎だとは思わないのか!」
「いやいや、種族はわかるけど、同性で不謹慎の意味がわからない」
「しかし、文は天狗でも人間でも老若男女でも気に入った相手には手を出すという噂だし!」
「……そこまで曲解されますか。まあ、その方が任務に都合がいいのかもしれませんが」
「なんか言った?」
「いえ、何にも」
とりあえず、椛は何故か文と霊夢がいっしょにいたことが気に食わないらしい。最近では外に出る度に噛み付く勢いで向かってくるのだから、文としては困ったものである。
「文は、その、霊夢のことどう思ってるの! やっぱりその、こ、こ、恋人、とか!」
「はぁ? 何を言ってるんですか?」
心の底から覚めた反応を返すと、椛はきょとんと、驚いた顔をして。一字一句聞き逃すまいと耳を立てた。
「天狗と人間の間にそういった感情が芽生えるはずがないでしょう?」
「いや、でも、一緒に寝たとか」
「ええ、正直私も眠たかったので。眠る必要はないといっても、寝ておいた方が得だし」
あちらの信頼を得る必要もありますしね、と。文は心の中で付け加えた。すると、椛は少しだけ表情を柔らかくして、武器を鞘へと収める。
「ふ、ふーん、じゃあ文は霊夢のことどんな風に思ってるの?」
「どんな風に、とは?」
「えーっと、可愛らしいとか、そういった感覚よ」
「あーなるほど、そういうことね。それじゃあ」
ふむ、と小さく唸りを上げてから、指を折り文自身の感情を整理する。
「可愛らしいというのはあるかな、年下だから。それと、いっしょにいると落ち着くっていうか。人間にしては変わってるな、とか」
「なんだ、その程度――」
「それと~」
「え?」
指を折るのが、止まらない。
それを椛が真剣なまなざしで見つめる。
「お茶が美味しい。写真を撮ろうとしたときのちょっと照れた顔がなんとも言えない愛らしさだし、冷静に見えて感情豊かなところも良いかな。あ、昨日の風邪のときも強がって、お見舞いなんて騒々しいだけって言いながらも、実は喜んでるところとか。急に驚かしたときの、拗ねた顔も捨てがたく」
「もう、いい……」
文が指を何度も折り曲げ、言葉を続ける中。
椛から酷く冷たく、低い声があがる。
「え? まだ語り尽くしてはいないのですが?」
「もう、いいっていってるのよ! このバカラス天狗! どっかいけ、いっちゃえ!」
「おっと、いきなり武器を振り回すとは、まるで狂犬ね。わかった、帰る。もう、戻るから」
落ち着いたかと思ったら剣を振り回して文を追い払おうとする。
そんな椛から慌てて距離を取って、枝を掻き分け空の彼方へ。
そして、椛の姿が見えなくなったのを確認してから顎に手を当て、
「ふむ、そういえば白狼天狗はそろそろ恋の季節でしたな」
くすくす、と微笑みながら家路を急いだ。
季節だから仕方ない、そう、心の中で割り切る文であったが。
なぜか――
『馬鹿』と叫ぶ椛の真剣な顔が脳裏から離れなかった。
そんなことをしても、君には何の得もない。
周囲の人間が悲痛な声を上げても彼には届かなかった。
「う、動くな! 絶対に動くんじゃねぇぞ!」
おそらく彼は、外から流れてきた人間なのだろう。
現代という世界に合わなくなった存在、それが幻想となって流れるのはそうそう珍しいことではない。そうやって見ず知らずの世界にやってきた者のほとんどは、まず情報収集と食いぶちを求めて里を彷徨い。
そしてこの世界のルールに気づく。
ルールに気づいたからこそ、彼は行動に示した。
生きるための住処と食料を得るために。
「ふふ、この世界では人間と妖怪が仲良く暮らしているんだろう? ということはこういうのもありってわけだっ!」
「う、うぅ、は、離してっ、助けてっ」
職を求める、自ら商売をやってみる。方法ならいくつかあったかもしれない。けれど、彼は最も短絡的なものを選んだ。
運良く道具屋からその札を盗み出したときから、決めていたのかもしれない。
その行動は、幻想の世界では禁忌とも位置づけられる行為。
ある者は、世界の終わりだと嘆き。
ある者は、愛する子を抱いてしゃがみ込む。
またある者は、仏壇の前に正座し、もうすぐそちらへ行くと愛した者へと思いを掛けた。
白昼堂々と展開された惨劇であるのに、里を守るはずの自警団は動けず、
阿求は必死で訴えた。
「落ち着いてください。あなたがやろうとしていることは、あなたが想像できないほど危険な行為なのです! ですから、すぐにその子を離して、人質なら私にしなさい! 人間である私の方が安全ですし、あなたの要求を呑むこともできる!」
それでも少女の額に札を貼り付け、ナイフをその首筋に宛がう中肉中背の男は拒絶する。妖怪と人間を見比べ、やはり妖怪を取ったのは人間としての良心なのかもしれないが、口元に浮かぶ笑みは、好意的な解釈すら打ち消す。
代償で得られるかもしれないものへの期待か。
男は下卑た笑いを続けている。
けれど、知らない。
人里のほぼ全員が、人質の心配などあまりしていないことに。
彼らが案じているのは、そう。
男の方。
そして、巻き添えになるであろう人里の被害。
彼らの意思が統一される中で、とうとうその歯車のスイッチを押す響きが人里を覆いつくす。
「助けてぇぇっ!」
その声に反応して、取り囲んでいた観客たちの輪が大きく広がる。
普通ならその災厄を振りまきかねない存在はやってこられないのだが。
思い出して欲しい。
今はまだ、屋根に白銀が残る季節なのだ。
人里で人と妖怪の大きな問題が発生したときに動く、霊夢と同等の管理者。
「助けてっ! らんしゃまぁぁぁぁっ!」
鼓膜を揺らすほどの大音響が響いた瞬間に、変化は起きる。
何もなかった空間に縦に切れ目が入り。
阿求すら恐れていた存在がその姿を見せた。
「な、なんだ! なんだてめぇは!」
男と化け猫の少女の前。
野次馬と化した自警団に囲まれる中で、いきなり姿を見せた九尾は流麗な動作で尻尾をくねらせ、整った顔を男へと向ける。
そしてその腕の中に橙がいることを確認した後で、ふぅっと大きく息を吐いた。
冬季の幻想郷で絶対にからかってはいけない妖獣、八雲 藍。
その藍が娘のように大事にしている式に対して、彼が何をしているか。
状況を把握した里の人間たちは、その爆心地から少しでも離れようと、悲鳴を上げながら逃げる。
「さぁ、質問だ」
自警団と、阿求だけが見守る中、藍は尾を大きく開いた。
そして満面の笑みを顔に貼り付けると――
金色に燃える瞳を向けて、女が男を誘うように手を差し伸べる。
「命と、心、どちらを先に無くしたい?」
「は? 何言ってんだ? てめぇこの状況がわかって」
「ああ、ああ、わかっているとも。だから、せめて最期くらい選ばせてあげようと思ってね……」
そして藍は足を進める。たった一歩だけ、その体を男に近づけただけ。
それだけで止める立場にいるはずの自警団が一歩も動けなくなってしまう。
頭では理解しているのに、体が全力で前進することを拒否していた。
おそらく、妖怪ならばもっと違う反応を示していただろう。
九尾から立ち上る、不可視の力に怯え、この場にいることすら拒否したかもしれない。
もちろん、目の前の男も同様だ。
口をパクパクさせ何かを言いたそうにしているのに、声すらも出ない。
その隙を見計らって橙は男の手を離れ、藍に飛びついた。
「さて、大事なものは返してもらったよ。それでもそちらは選ぶことができないようだから、仕方ない。ちゃんと二つとも味あわせてあげるとしよう」
左腕で橙を抱き、右腕を振り上げる。
それを振り下ろせば、あの紫から預かりうけている隙間の力が発動し男を取り込むはずだ。
しかし、その手が動くより早く。
小さな影が藍の前に出て両手を広げた。
「人里で罪を犯した人間は、人間が裁く! それが世の道理でしょう!」
阿求だった。
栗色の髪を揺らし、必死に訴える。
とめる手立ては声と、彼女の体のみしかないというのに。
妖怪のことをよく知る彼女だからこそ、唯一動けたのかもしれない。
けれど、金色の瞳はまだ攻撃的な光を失わない。
「どけ……」
「そうですね。あなたは紫さんに力を貸してもらっているだけ。精密な動作はあまり得意ではないはずですから、私が近くにいては彼を攻撃することもできないのでしょう」
「どかなければ、お前も取り込む」
「できますか? 稗田家は八雲紫だけでなく地獄の閻魔とすらつながりがある家です。それをあなたの一存でどうこうできるとでも?」
ぎり、と。
怒りに身を任せた藍が牙を摺り合わせる。
本来の藍なら絶対に行動にすることはないはず、けれど……
橙のことで頭に血が上った藍は、
その手をあっさりと縦に走らせた。
どこからか悲鳴が上がり、風に乗る。
空間を開いたことによる影響か、不自然な空気の流れがその場の全員の撫でた。
砂埃が舞い、一瞬で三人を包み込む。
誰もが一瞬目を覆い、状況を見失った直後。
ぱしゃり、と。
消えはじめる砂埃の合間に、まばゆい光が閃く。
「はいはーい、藍さんも一緒とは休日の散歩といったところですかな? それにしては険しいお顔をしていらっしゃる。ほらほら、もっと笑っていただかないと」
光と、声を辿れば、屋根の上に人影ひとつ。
脇に小柄な阿求を抱え、気絶した男を足元に転がして、人懐っこい営業スマイルの天狗が写真機を片手に立っていた。
いつ助け出したかなど誰にも見えなかった。
風が吹いた直後に二人の姿が消えたので、周囲の人間は隙間に取り込まれたと誤解してしまったくらいなのだから。その姿を唯一捉えられる可能性のある人物は、藍くらい。
その藍はというと、いきなりの乱入者に目を細めて再び手を動かそうとするが、表情を変えた途端に写真機のフラッシュが襲い掛かり、手を止めて顔をしかめた。
「明るい日中は光をつかうべきではないんじゃなかったのかな?」
「いえいえ、時と場合によりますよ。特に野生動物を驚かせるにはこういった機械に頼るのが一番でしてね。まあ、動物ではない理性ある妖怪でしたら、言葉で理解できるとは思うのですが?」
「……それは私に対する当てつけか?」
「そう思うのでしたら、ご自分に多少非があったとご理解していらっしゃる、というわけですな? いやぁ、やはり優秀な式は違いますねぇ。うちの馬鹿犬どもにも教えてあげたいくらいですよ。口を開けば規則規則と、まったく自由意志のない大天狗様の腰巾着でして。あ、今のは他言無用でお願いしますね、と念を押しておきましょう」
飄々と笑顔で返す文の姿を忌々しげに見上げ、金色の瞳を細めていく。幻想郷最速を誇る天狗の動きを捉え、打ちどの手が最適か。冷徹な思考を繰り返す瞳がそこにあった。
だが、文は笑う。
阿求と人間をもう一度脇に抱えて、離れた場所に着地すると同時に男を乱暴に地面に放り投げ、藍の攻撃に対するわずかな抵抗手段でもある阿求を地面の上に置いても、その余裕は消えない。商売道具であり武器でもある写真機すらその胸の谷間に仕舞い込んで、手帳の上でペンを走らせる。戦う必要すらないと思わせる態度に、藍は尻尾の毛を逆立てるが。
その理由は、彼女の一番近くにあった。
「藍様……」
腰近くの衣服を握り締め、首を小さく左右に振る。彼女にとって大切な式であり、大切な家族でもある橙が、怯えていた。藍を見つけたらすぐ胸の中に飛び込んでくる甘えん坊が、藍を見上げて震えているのだ。
口に出さなくても、藍には橙がどう思っているのかくらいは簡単に理解できた。
「……ごめんね、橙。私はどうやらいけないことをしてしまったようだ」
文の笑みの理由がこれだった。
そう納得したからこそ、大きく放射線状に広げていた尻尾をいつものように下げて、手を胸の前で組んだ。すると橙がやっと尻尾に抱きつくようになり、顔からも険しさが消えて理性ある知的な女性の顔に戻る。
「悪かったね。身内のこととはいえ、少々熱くなってしまった。まだまだ私も若いということかな」
「おやおや、藍さんでお若いのであれば私なんてひよっこというところでしょうか」
「そのひよっこにしてやられた私の気持ちは汲んでくれないのかな?」
ふむ、と。文は一つ唸って、指を一本立てる。
「汲み取って一つの記事にできるのであれば」
「遠慮しておくよ」
「では、こちらもやめておきましょう。この季節のあなたを敵に回しても得なことは一つもありませんしね」
書きかけのページを千切りとって、風で藍へ飛ばす。
ヒラヒラと舞う紙に一瞬手を伸ばしそうになる橙であったが、それよりも早く藍の手が伸びた。くしゃりと音がするほど強く掴み取り、躊躇いもなくそれを握り潰した直後。
手を覆う紫色の狐火で消し炭に変えて、再び風の中へと散らした。
そのやり取りを眺めていた傍観者と、阿求の視界の中で文の姿がブレる。
「その代わりといっては何ですが、紫さんがお休み中の事件でおもしろそうなものがあれば私に回すということで」
「え、ええっ!?」
驚きの声が藍のすぐ横で上がった。
橙にも見えないほどの速度で接近した文が、帽子で隠れた藍の耳元へと口を近づけていたからだ。しかも空中で綺麗に逆さまになりながら。それでいて、スカートも服も重力とは反対方向に整っていて、乱れ一つない。
「そうやって無駄に力を誇示するな。橙が驚く」
「あやややや、そんなつもりはないんですけどねぇ。で? ご回答は?」
「考えておこう」
「考えるだけで終わらないことを祈りますよ」
そう答えるのが早いか藍の腕が動き、空間が大きく開いた。
なんとか丸く収まったとはいっても、己の未熟さが生みそうになった場所から身を引きたいのだろう。家路につく藍を見送った文は、音をまったく立てることなく体を捻って着地。
「さてさて、皆さん。清く、正しく、迅速丁寧、三拍子そろった新聞記者の私こと射命丸文、そして人間と天狗を繋ぐ文々。新聞をよろしくお願いいたします。ほら、ちょうど手元に」
そして、自警団全員にすばやく新聞を手渡してから、清々しい笑顔で空を見上げた。
あまりの手際のよさに、自警団が事件の犯人を捕まえるのを忘れさせてしまうほど。
しかし、阿求が隊長格の男に何かを告げると慌てて行動を始めて、まだ伸びている男を縛り上げて本部へと連れて行ってしまった。
「いいですね、いいですね! 『妖怪が人質に、そのとき人間たちが動いた!』小さな見出しはこんなところで――」
「文さん」
「ああ、阿求さんですか。申し訳ありませんが、少々お待ちを。今回の事件の感想も聞かないと記事にできませんからね。自警団の方が犯人を連れて行く絵を頂いたら、お付き合い頂きたいのでよろしくお願いしますね。もしお急ぎの御用がありましたらお家にお邪魔させていただく形でも構いませんので、もちろん藍さんの件はできる限り内密に」
「そうではなくて、あの、ありがとうございました」
ぺこり、と阿求が頭を下げると、文は目をぱちぱちさせて写真機から目を離す。
「はて? 何か感謝されるようなことをしましたかね?」
「助けてくれたでしょう? 藍さんが攻撃をしたときに」
「ああ、なるほどなるほど」
写真機で人里の映像を撮った後、機械を手帖に持ち替えて阿求の方へと顔を向けた。
「ならばこちらも礼を言うべきだと思いますがね、妖怪の山でも話題になりそうなネタを頂いたわけですし」
「……事実とは異なるモノに仕上がりそうですが」
「おや? 多少過程は異なりますが、結果は異世界からやってきた人間が起こした事件の鎮圧成功、ということでしょう?」
舌をちょこんっと出して、得意気に微笑む。額に軽く手帖を当てて、小首を傾げるその愛らしい姿は演技か、それとも本心によるものか。
しかしながら、阿求にとってはそんなことはどうでもいいことで。
「そう、ですね。確かにそれ以上のことはなかった。ということで、よろしいでしょうか」
「いやぁ、お話がわかる人は実に素晴らしい」
お返しと言うように、指を軽く額に当てて文を見上げる。
すると嬉しそうに文が微笑み、すばやく手帖を広げて阿求へと催促した。今回の事件について思うことを話せ、と。
しかし取材に頭が完全に切り替わる前。
阿求が真剣な顔で文の目を見つめてきて、
「あなたは、人里よりの妖怪ですか?」
そんなことを言うものだから。
「興味がある、という答えではいかがでしょう?」
思わず、真顔で答えてしまった。
◇ ◇ ◇
薄っすらと雪化粧した境内に朝日が降り注ぎ、きらきらと屋根や地面が輝き始める。そうやって輝きながら、解け地面に消える儚さ。
命の輝きに似た風情があると、歌人なら詠うかもしれない。
しかし、
「さぶっ」
身体を抱き、震えながら社務所を出る霊夢には何の関係もない話。太陽と積雪が織り成す神秘的な光の空間の中で、いまにも『眩しい』と文句の出そうな顔をする。確かに、もうすぐ春だというのに、思い出したかのように空から白い贈り物が届けられるのは迷惑な話だ。が、これを別な誰かが覗き見していたとしたら、もう少し若さがあってもいいと思うのではないだろうか。
社務所の入り口を閉めることなく、一歩一歩を踏みしめながら本殿の前に進み、賽銭箱の近くの階段まできたところで白い息を目一杯吐き出した。
「ま、わかってますけどね」
賽銭なんて生活費の足しにはならないと理解していながらも、ついつい期待してしまう。あればあったで、お茶代や茶菓子代にすることができるから。
過去に妖怪の山の現人神がお神酒とか買わないんですか、と、尋ねたところ、霊夢は真顔で首を傾げたという。
「え? 晩酌のお酒じゃなくて?」
そんな発言を悪びれもなくする巫女がいる神社である。しかも辺境の地にあるという条件も兼ね備えては。
「ほら、ね?」
しゃがみ込んで、賽銭取り出し口を引っ張ってみれば、いつもと同じ光景が広がっている。
空っぽ。
まっさら。
すっからかん。
申し訳なく枯葉が二枚だけ入っているのが哀愁をそそる。
見慣れた小さな世界をぱたんっと戻して、ため息を吐けばまた顔を覆うほどの白いもやが生まれた。
と、そのとき。
視界が悪くなったせいだろうか、
「あっ」
足を踏み外し、背中から境内に傾いていく。
その身体が行き着く先にあるのは、境内と本殿を繋ぐ階段と、硬い石畳。いくら霊夢が妖怪退治の専門家であろうとも、予期せぬ事故に対しは人間の少女でしかなく。受身も取れない状況であれば、良くて打撲。
打ち所が悪ければ……
「おや? あまりの不憫さに眩暈でも?」
普段は具現化させていない黒翼を体の前で折りたたみ、正面で優しく霊夢を受け止める影一つ。崩れかけた体を持ち直して、霊夢が振り返れば、そこにはもちろん活発そうな服装の少女が一人。同じくらいの身長であるはずなのだが、高下駄靴を履いているため、霊夢よりもはずかに背の高い妖怪。
「最近の天狗は嫌味も最速なのかしらね。随分とお暇なようで」
「いえいえ、事件の中心になりやすい人物を見張っていれば、暇がつぶれる可能性が高いと思いまして」
「宝が寄ってくるうっかりさんと一緒にしないで」
「おや? 霊夢さんにも私のような素敵な妖怪が寄ってくるではありませんか」
「あんたたちが簡単に足を運ぶから神社のありがたみが失せるのよ」
文が伸ばした手を軽く振り払って境内の隅に置いてあった竹箒を拾い上げ、ようとしたとき、またぐらりと霊夢の体が傾く。
目の錯覚でも、幻でもない。
このまま放置すれば、側面から冷たい地面と愛を語り合うことになるだろう。割と激しく。
「そうやって無茶をすると、余計にいらぬ妖怪が寄ってくると思いますけどね。特にあのお方などは、あなたのことになるとわかりやすいわけで」
文が扇を軽く振って、風を無理やり霊夢に当てる。
そのおかげで転ばずに済んではいるもののどこか足取りがおぼつかない。竹箒を杖代わりにして、いつもどおりを装うが。文の観察眼はそうそう甘いものではない。
「あのお寝坊さんならまだ熟睡中よ。藍が今朝打ち合わせに来たから」
「あ~、藍さんが……真面目すぎるのというのも本当に困り者ですよね。大きく波打ったときの反動が大きいというか」
「藍と何かあった?」
「おや? 危うきに近寄らずのこの私が、率先して今の藍さんに接触するとお思いで?」
「全然」
異常があると知りながら、それでも文は普段どおりの会話を続ける。
対する霊夢も、勘の鋭さから文の何かを察したようだったが、文の目をじっと見るだけでそれ以上の詮索はしない。文はぺちっと額に手帖をぶつけておどけて見せた。
「ならば、そういうことです。しかし困りましたね。少しくらい世間話にお付き合いしてくださると思ったのですが、そうそう仁王立ちされてはお部屋にお邪魔することもできなくなってしまいますね」
「仕方ないわね、ほら、素敵な賽銭箱はあっちよ」
「残念ですが手持ちがないもので」
「じゃあツケね」
「その二文字だけで祭られている神様と先代を号泣させることができると思いますよ、私は」
居酒屋の親父と同じ扱いにされた神様に同情しながら、文は軽い足取りで霊夢の後ろを歩く。誰かの後ろを歩くというのは、速さを謳う文にとってあまり好ましいことではないのだが。
「なんでしょうね、この自然と表情が崩れてしまう感覚は」
「私の人徳のせい?」
「いえ、風邪をこじらせながらも強がりを続ける誰かさんの様子が面白いだけだと思いますが?」
「へぇ~、文に目を付けられるなんて可愛そうな人がいるものね」
「あやややや、失敬な。では、可愛そうな人はこんなことをされているかもしれませんね。密着取材ということで」
黒翼を消し、口調だけに怒気を含ませながら、文は霊夢に後ろから抱きついた。
すると予想通り、いつもよりも熱を帯びた体温が、服越しに伝わってくる。
「重い」
「……む、そこは文って暖かいね、とか、頬を赤らめてつぶやいていただいてもいいのですが?」
「だるいんだから体力使わせないでよ!」
「やっと風邪であることを認めたようですね」
「そうです。風邪ひきました。だから離れてってば」
「大丈夫ですよ、私にはうつりませんし。だって私の力は風をあやつることですから、な~んて」
「……やばいわ、気温が下がった」
「それでは尚更人肌で暖めるしか」
「だから離れなさいってば、あ、もうっ!」
霊夢が本気で嫌がる前にぱっと手を放し、するりと小脇を潜り抜けて社務所へと先回り。靴を脱いでゆっくりと歩く家主を手招きした。
「これ以上からかってお茶をいただけなくなってはかないませんしね。さあさあ、お早く」
「病人に鞭打つなんて、残虐非道ね。って、文あなた私が風邪だっていうのいつから気付いてた?」
「昨日ここに来たときですかね、息を荒くしていたようですし」
「まさかそれ、他人に話してないでしょうね?」
「ええ、もちろん」
「本当に?」
「誰にも話してませんってば、あ、わかりました。そういうことですね! もう、霊夢さんったらもっと早く言ってくれませんと」
「何いきなりくねくねしてんのよ」
霊夢の指摘を受け、文は玄関近くの柱に人差し指を当て恥らう乙女のように瞳を潤ませる。
「つまり、私と霊夢さんだけの秘密にしたい。いやぁ、繊細なお気持ちに気付かず申し訳ありません。さて、そんな率直な感想を一言いただくことにして……っと、おっとっと」
ペンと手帖で両手が埋まっているにも関わらず、無言で投げつけられる陰陽玉の連弾を器用に避ける。壁や床、天井を跳ね回る仕様だというのに、四方八方からの攻撃が掠りすらしない。
霊夢の体調が万全でないことを差し引いても文の動きは馬鹿げたもので、素早く正確に最小限の動きで身を翻し、時には受け流す。
ただ、霊夢が袖から一枚のスペルカードを取り出した途端にその顔から余裕は消え去った。
「あの、霊夢さん? できればお手柔らかに……」
からかい過ぎたと後悔してももう遅い。
青い顔になる文が逃げるより早くその手が土間に、
「おーい、調子はどうだ~。って、意外と元気だな」
叩き付けられるより早く、霊夢の後ろに見知った来客が着地する。
「いくら病気でも鴉の焼き鳥はどうかと思うぜ」
例え知り合いに話し掛けられたとしても、攻撃の手を止める必要性などありはしなかった。多少調子に乗った文に一撃を加えてからでもゆっくり話を聞けばよかったのだろう。
けれど、魔理沙が何気なく発した一言、その中に、
「病気? 私が?」
どうしても聞き捨てならない単語が含まれていた。風邪をひいたのは昨日。そして、その日は大事を取って外出せず、新聞を配りにやってきた文としか接触していない。
ということは、情報源、及び犯人は――
霊夢はパタパタと無抵抗に手を振り始めた文を一瞥してから、魔理沙の方へと半身を向ける。
「ちなみに、誰から聞いたの?」
「ん、そこの天狗が号外配ってた」
魔理沙の指が示す先、当然そこには、
「あぁ~やぁ~っ!」
大人しくなった文がいるはず。
ただ、霊夢が再び体の向きを変えるより早く、一迅の風が背中を撫でていき。
はっ、と気付いたときにはもう遅い。
「あの、嘘つき天狗!」
もぬけの空になった玄関には人影すらなく、弾幕によって少々汚れた空間が広がるだけだった。いや、よくよく見れば、紙の切れ端のようなものが文の立っていた場所に残っている。
なんだか嫌な予感に襲われながらも、箒を杖代わりにそれを掴めば。
『しゃべってはいませんので、あしからず』
可愛らしい文字で、憎たらしい言葉が並んでおり。
「あ、そうそう、地底と紅魔館からも見舞いがくるらしいぞ? お空なんて、私の力であっためてやるとか言ってて」
ぽてっ、と。
「おい、霊夢、どうした霊夢~?」
風邪に加えて別な意味で頭の痛くなった霊夢は、玄関の上がり口で突っ伏したのだった。
◇ ◇ ◇
「作戦名、『三五三五』第二段階まで成功、哨戒天狗! 目標物の動きはどうか!」
時は夕刻、山が暮れないに染まる頃。
妖怪の山の一画、ひらけた場所に設置した拠点の中で文が扇を振る。
するとその先の草陰で待機していた白狼天狗が、しゃがみ込んだ体勢のままで尻尾をだらんっと力なく下げた。
「地底の猫、烏が到着、飼い主もやってきたもよう」
「一本角の鬼は?」
「何を思ったか、肩に体と同じくらいの大きさの酒樽を装備。しかも二個」
「ふむ、さすが妖怪の山で恐れられた武人ね。弱った相手にも容赦なしとは」
過去の妖怪の山で『酒は百薬の長!』とか言いながら具合が悪くなって休暇を取った天狗の家に無理やり押し掛け、休養期間を倍に延期させるという伝説を残してきた鬼である。
いくら幻想郷を管理する巫女でも、ああなった鬼の攻勢から逃れる術はない。いざというときの安全装置が必要だ。文は口元に手をもってきて、幾分か抑えた口調で問い返す。
「切り札は?」
「PARUは、4名とつかず離れずの位置で前進中。すでに黒い気配が目視可能」
「ふむ、ならば結構! 一本角が暴走した際はきっと彼女が押さえ込むはず」
「しかし小隊長、一つ問題が」
「何かね、椛くん」
どこか死んだ目をした椛が振り返り、声を低くして告げる。
「角付き幼女が、すでに神社へと侵入」
「ば、馬鹿な! そんなことがっ! ……いえ、ありえますな。存在を希薄にして霧となって進入したのであれば」
「危険人物二名に対する対処には犠牲が伴うかと」
「了解、どうやら作戦を修正する必要があるようで」
「それともう一点、意見しても?」
「ええ、発言を許します」
文が頷くと、椛は神妙な面持ちで、ごくりっと唾を飲む。
そして意を決して。
「そろそろ、にとりと将棋する時間で……」
「拒否」
「その後は仲間内での集会が……」
「却下」
「……本気で帰りたい」
「ダメ」
椛の切なる感情を容赦なく切り捨て、両腕でばってんを作り出した。しかしそれでもなんとかと、右足にすがってくるが、文はびしっと指を突き付ける。
「弾幕勝負で負けた椛が悪い。一日言うことを聞く約束よ」
「いくら勝負によるものであっても、個人の意見は尊重されるべであって! それに文嫌いだし」
「駄犬の戯言は良いとして、鬼が二人そろった場所に取材にいくのは厳しいですな。たとえ一人に椛というデコイをぶつけることができても……」
「ああ、神様……どうか迷える狼に慈悲を……」
いろんな意味での死を覚悟した椛が救いを求めるが、
「いや、だから帰れお前等」
いつのまにか横に立っていた神様、神奈子に切り捨てられる。
文もそれに気づいて小さく頭を下げた。
「おや、奇遇ですね。何か御用で?」
「何か御用で? じゃない! 人の神社の境内で勝手に陣地を張るなって話だよ!」
壮大な社、堂々とそそり立つ鳥居、本殿へと繋がる広々とした石畳に、同じく広大な境内。
そう、この広い拠点は誰がどう見ても守矢神社の一画であった。それを勝手に占拠したと、神奈子が大声を上げているというわけだ。占拠したといっても藁を引いただけなのだが。
「え? でも、早苗さんにお話したところ快く許可をいただいたわけですけどね。えーっと、霊夢さんの具合が悪く天狗の一人として何かしてあげたかったのですが、素直じゃないのでお見舞いさせてくれない。だからせめて遠くから見守らせて欲しい、というような言い方で」
「あ~、なるほどね。そのお願いのせいで私まで一緒に霊夢の見舞いってことだよ。もちろん諏訪子もね。あんたたちに留守を任せるわけにはいけないから撤収しろってことさ」
「あ~、せめて作戦の第三段階の結果を見てからにさせていただこうかなと」
「何だい? 第三段階って」
「まあ、私が勝手に考案した作戦ですね。第一段階といたしまして、霊夢さんが風邪であることを重要人物に知らせ、人里にも情報を流します」
「ふーん」
椛を振り解き、神奈子の周囲をゆっくり回りながら、得意気に話す。
けれど話を聞く方としては、特に興味があるわけでもなく。話半分で聞き流していた。
「第二段階として、その中心的人物が魔法の森、紅魔館等、人里以外のところで情報を流すのを待ち、周囲の状況をくまなく監視しておりました。少々異常がありましたけれど、ご愛嬌といったところでしょうか」
その途中で発生したのが、人里の事件だった。
文としては一つ事件のネタが増えてホクホクである。
「で、お見舞いとは名ばかりの宴会を作り上げ、記事にするというわけかい?」
「そのとおりでございます。面白みのある参加者がいなくては、記事にはなりませんからね。そちらのお二方も参加していただけるのであれば尚良しといったところですよ」
文が視線を送る本殿前では、神奈子に向かって手を振る二人組が立っていた。そろそろ出発しようとしているのかもしれない。
もう少したら離れますと、約束してから三人を見送った文は再び椛のところに戻ってきた。
「それではこちらもそれ相応の準備をするとしますか」
「……やっぱり私も参加?」
「もちろん、今日はまだ長いですよ~」
とは、言いながらも。
文はふむ、っと小さく唸る。
先ほども考察したとおり、現地には妖怪の山にいた鬼が二人揃っている。となると、何かの拍子に絡まれた場合、椛だけでは役不足ではないか。一対一で振り分けられるように、誰か適当な白狼天狗でも捕まえてみようか、などど椛の横で考えていたら。
「文! 今日こそは私の勝ちよ!」
と、なんだか息巻く鴉天狗が暗くなり始めた空から降ってくるわけで。
「このスクープを見て驚きなさい! 人里のほうに向かって念写したら、あの九尾の八雲藍とその式が事件に巻き込まれてる絵が撮れたのよ! これを話題にしちゃえば! 私の新聞の人気はウナギ上りってところね!」
しかも、大スクープというより、大問題の写真をひっさげて。
それを知る文と椛は顔を見合わせて、苦笑い。
「……あー、悪いけど。その写真は記事に使わないほうがいいかも」
「へぇ~、珍しいくらい弱気ね。それだけ悔しいってことかしら?」
「馬鹿言わないの。私だって持ってるわよ、そんなのよりも臨場感があるモノをね」
「負け惜しみはよくないよ。ま、明日から私の名前は天狗社会に響き渡るでしょ……う、けれ……どっ、って何よこれ! 卑怯よ! 卑怯だわ!」
はたてから受け取った写真を胸ポケットにしまい込み、お返しとばかりに数十枚の写真を手渡す。すると見る見るはたての顔色が変わっていき、最後はわなわなと手を震わせる始末。
なんだか目尻に涙まで浮かべているところを見ると、それだけ今回の写真に自信があったのだろう。
幸福から一気に地獄へ叩き落とされたはたてを眺めながら、ふふんっと鼻を鳴らす文だったが、はたてが食い入るように写真を見つめていたので。
にこり、と口元を笑みの形に歪める。
「その写真、欲しいならあげるわよ?」
「ば、ばば、馬鹿言わないでよ! 誰がこんな!」
「九尾の狐を記事に入れると少々問題も発生するし、書こうか処分しようか迷っていたの。もし、書きたいなら写真提供の欄に私の名前入れてくれればいいから」
「ふーん、そっか。い、いらないなら、しょうがないわよねっ! いらないなら!」
「ま、そういうことで」
文に釣られてはたても顔に笑みを浮かべた。
ただし、こちらは本当に嬉しそうと表現できる部類の。
対してもう一方はというと。
「それでね、はたて。そのネタの代わりといっては何だけど、協力して欲しいことがあるのよ」
「簡単なこと?」
「たぶん簡単な部類ね。一緒に博麗神社まで付き合って欲しいだけだから」
「ふーん、それくらいなら付き合ってあげてもいいけど?」
満面の笑みではたての両手を握り締め、瞳すら潤ませる。
「ホントに? ありがとうはたて! これからも良き好敵手として、妖怪の山を盛り上げて行こうね!」
「え、ええ、もちろん!」
何も知らないものが見れば、良き友情と思える場面を眺めながら、
「……天狗の顔を被った鬼だ」
ぼそり、と椛はつぶやいたのだった。
◇ ◇ ◇
人と酒が集まれば、どんな場所でも宴が生まれる。好みの相手が居るなら尚更だ。そもそも妖怪に好かれやすいという困った体質の存在が中心となった場合、その輪は留まることを知らず。本人の都合などどこ吹く風。ところどころで笑い声が上がり、あちこちで写真機が瞬く。
その中で上座というか、無理矢理主役に祭り上げられた霊夢は。
『こうなるってわかってたから、黙ってたかったのに』
抵抗という名のふて寝を決行。
一番高い位置の席に布団が敷かれるという、今までにない映像が誕生した。しかし、
「霊夢! この私が直々に足を運んで、精の付くものを咲夜に作らせた。その恩義は感じてくれても良いんじゃないかしら!」
「……ありがと、咲夜」
「どういたしまして」
「うぅ~っ。私が連れてきたのよ! 感謝する相手が違うのではないかしら? こら、起きなさいってば!」
レミリアを代表とする献身的な対応により、霊夢もしぶしぶその場で身を起こし、レミリアの持つスプーンをくわえる。
そうやって最初の『あ~ん』を勝ち取ったレミリアは、周囲の客人に勝ち誇った笑みを向け……
と、そこから霊夢の災難が激化するわけだが……
「続きは文々。新聞でお楽しみください」
「この状況でどうやって楽しめって言うのかしら?」
その高らかな騒ぎは脳裏と文の写真機の中にしか残っておらず。二人が見つめる大きめの居間には、宴会の後の無惨な食器たちが並んでいた。
おかげさまで霊夢の症状は回復することなく横ばいで、今も自分で持ってきた布団で横になっている。この状況では、元に戻すにも時間が掛かる恐れがあるわけだが、後で片付けに来ると咲夜やさとりが言い残していったのが希望ではある。
けれど、そうそうすぐには戻ってこないだろう。
かろうじて残った燭台の上の明かりだけが、温かく部屋の中を照らし出していた。
「二次会は地底だっけ?」
「そういう話でしたね、旧都が二次会、温泉が三次会、そして朝まで命蓮寺」
「ネズミとか泣きそうね」
「寅に噛みつけるからまだ大丈夫だとは思いますが」
ぐでんぐでんになった連中が命蓮寺で繰り広げる行動を考えると、素直に手を合わせたくなる。強く、生きろ、と。そんな共通認識を確かめ合いつつも、文は霊夢に掛け布団を被せてお腹の上をぽんぽんっと叩く。子供扱いするなと霊夢が眉を潜めてもお構いなし。
布団の横で腰を下ろして、畳の上に足を伸ばす。仕事のことを忘れて羽を伸ばしている、とでも表現すればいいだろうか。
「たまにはこういうのも悪くないかと」
「死ぬほど恥ずかしいけどね」
夜空も見ることができない、散らかった部屋。隙間風が入らないよう、宴会の時に外していたフスマはしっかりと嵌め込まれ、閉鎖的な空間を作っていた。そのせいだろうか、先ほどまでの喧噪の名残がそう思わせるのか。何か心にぽっかり穴でもあいてしまったかのように、二人の間に静寂が下りてきた。
そうなると、疲れにより眠気が顔を出し始めてくるわけで、文の側で霊夢が大きく口を開ける。
「せめて手で押さえるのが女性の慎みらしいですよ?」
「気を遣う必要のある相手がいるときはね」
「おや、つまり私はそれ以上の存在であるというわけですか」
「そうそう、その辺の小石と同じくらいのね」
「日常の風景と一体化しているというわけですか。いやぁ、そんなに褒められると困りますねぇ」
ああ言えばこう言う。
そんな切り返しを続けて、また静まり返り。その度にまたどちらかが口を開く。
「文、椛とはたてはいいの? なんか連れてかれたみたいだけど」
「問題ないわ、ちゃんとあの二人の休暇については上と相談済み。あ、でも、二日酔いで頑張って起きてから、休みだって言われたら少し驚くかも」
いつしか文からも取材口調は消え、妖怪の山で暮らす本来の口ぶりに戻っていた。
それでも霊夢はそれを指摘しない。
文に布団を優しく叩かれるまま、気持よさそうに瞳を細めていた。
「久しぶりに面白い記事がかけそうだし、明日はがんばろうかな」
「あら、今夜からがんばればいいじゃない。誰かにネタを取られるかもよ?」
「それは一大事ね、でも」
言い掛けて、ころんっと畳の上で横になり。
霊夢と視線の高さを合わせる。
「たまには、筆を休める日も必要かなと」
「悪いけど、布団は渡さないわよ?」
「問題ないわ。鴉天狗にはこれがある」
そしてばさり、と漆黒の翼を生み出し自分の体を覆った。
「羽毛布団……」
「いやいや、怖い発言はおやめください」
「それじゃあ」
そして霊夢は、布団から白い手をすっと伸ばし、文の翼の先をそっと掴んだ。
「一本だけで我慢してあげる」
「天狗からなけなしの羽を奪うとはなんと酷い」
「あんな騒がしい夜にしてくれた償いはこれでも少ないくらいよ」
「まだ夜は肌寒いのに」
「風邪を操るんでしょう?」
「あやややや、これは一本取られましたな」
文は舌先を少しだけ出して、微笑みを作ると一度だけ身動ぎする。それに合わせて霊夢も布団を被り直し、その暗闇の中で半分だけ顔を出した。その途端わずかに残った明かりも消え去り、二人の吐く息の音と、衣擦れの音だけがその場を支配する。
「おやすみ、霊夢」
「おやすみなさい、それと……文?」
閉じかけた瞳をもう一度開け、霊夢の方を見る。
しかし霊夢は布団を頭の上からすっぽりかぶって、しかも背中を向けているようだった。続く言葉をはっきりと聞き取ることができない。それでも文の耳には確かにこう聞こえた気がした。
『今日は、ありがとう……』、と。
◇ ◇ ◇
「文、あ~や~!」
「あれ? どうしたの? 宴会の出し物で動く死体でもやるの?」
「あんたねぇ、昨日、私がどれくら……うっぷっ」
その翌日、博麗神社から妖怪の山へと戻ったとき、朝日の中からふらふら飛ぶ鴉天狗が現れた。翼を出現させているのは、妖力だけでは飛ぶことができなくなったからだろう。
口を押さえて顔を青くするはたてから距離を取りながら、とりあえず文は冷静に空中で停止しながら。
「はい、笑って~」
「勝手に撮るんじゃなぁいぃぃ」
とりあえず写真機を構えてみた。
すると嫌そうに手を振るものの、写真機の範囲から逃げる元気はないようだ。
「あのねぇ、そうやって遊んでる場合じゃないのよ。大天狗様があんたに用事だって」
「ふむ、私の上司の?」
「ううん、なんか大天狗ってしか言われなかったけど。私はそう伝えろって知り合いから」
「大天狗様の名前で、伝言、ね。じゃあ、向かうとしようかな」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
素早く背を向ける文に向けて、慌ててはたてが手を伸ばす。
「誰かわかってるの?」
「ま、そういう回りくどいことをする該当者は一名しかいないわけで、じゃあね。しっかり休んでおくことをお勧めするわ」
二日酔いの状態で最高速の文に追いすがることなどできるはずもなく。
文はその一言だけを残して、一瞬のうちにはたての視界から消えた。
森の方へと姿を隠し、地面をゆっくりと踏みしめるように歩いていく。
そこは天狗があまり通らない、野生動物用の獣道。文の身長ほどの植物が両側を埋め尽くしていた。そんな細い道を肩を擦って進んでも建物などあるはずもない。
当然だろう、ここは本当に獣しか利用しないのだから。
そう、こんなところに目標となる人物が出入りするはずもない。
が、そう思わせることこそが大切。
それと、文が一人でいるということさえ条件に加えれば、呼び出した人物の方から接触してくるのだから。そろそろかと、文が歩みを緩めたところで。
「はは、まったく馬鹿げたもので……」
信じられないことに、世界がいきなり広がった。
場所に出たわけではない。
文の視界はずっと茂みだけを映していたし、それが途中で終わる気配もなかったはずだ。それでも、広い空間は生まれた。森の木が、植物が、まるで意思を持っているかのように動き。ツタが見る見るうちに絡まりあって、半球状の緑の部屋を作り出す。
本来ならありえるはずのない、八畳ほどの空間。
自然法則を無理やり捻じ曲げて、自らが望む条件を作り出す。
そんなことが可能な天狗を、文は一人しか知らない。
「これはこれは、久方ぶりでございます」
一人しか知らないから、その場で膝をつき。
部屋の中央にいきなり現れた人影に深く頭を下げた。
「天魔様」
森羅万象を司る、天狗の長に向けて。
文よりも幼く見える外見に、専用に改装された山伏の服がその魅力を引き立てている。そして活動的な天狗には珍しい長い黒髪を翻し、文へと向き直った。
「文、お主、新聞作成に明け暮れて我からの命を忘れてはいまいな?」
愛らしい声音とは一線を隔てる圧倒的な威圧感、立っているだけで山の妖怪が平伏す程の。そんな天魔がどこか刺々しい口調で文を責めて立てる。
「もちろん心得ております。変わり者の天狗、と、妖怪の山の中でも噂されている事は天魔様もご承知のはずですが?」
仲間意識が強く、必要がなければ外に出たがらない妖怪の山の天狗たち。その中にあって文は、好んで外部と接触することを好んだ。
いや、好んでいるように見せた。
時には下等な人間に笑顔を見せながら媚を売る。偏屈な新聞記者、射命丸文を演じた。
「有事のときのため、外の人間や妖怪を少しでもこちらに取り込め。もしくは、情を感じさせ、攻撃の手を緩めさせるための見えない盾と成れ、でしょう?」
「そして、もう一つ。敵となるものの弱点を探れ、じゃ」
「ええ、もちろんですとも。ですから人里の方でも、神社でも、人のいい妖怪として受け入れられつつあるわけです。この働き者の文は、常に貴方様への忠誠心の下で」
「あーあー、世辞はよい。お主の働きは見事じゃし、今呼び出したのも今回の人里の働きと、巫女たちとの接触を評価したためじゃ。お主の家には何か褒美を与えよう」
「ありがたき幸せにございます」
膝を付いたまま深々と頭を下げ、笑顔で体を起こす。けれど、天魔の表情は硬いまま。
「のぅ、文よ、こんな御伽噺をしっておるか?」
どこか悲しそうな顔で文を見下ろしていた。
「動物の国と、鳥の国、その両方に取り入った生き物の話を」
「天魔様もそういったものに興味がおありとは、いやぁ、意外で」
「知っておるか? と、聞いたぞ」
笑顔を崩すことなく、文はまた、あはは、と笑い声を零し。
「さあ? 私はそういった過去の創作物にはあまり興味がないもので」
「ふむ、そうか、それならばよい。世話をかけたな」
「いえいえ、ありがとうございました」
そうやって文がもう一度頭を下げた後には、緑の部屋も、茂みすら消え去っていて……
あるのは立ち並ぶ巨木たちだけ。
「烏と、蝙蝠は違いますよ。天魔様」
枝の屋根で隠れて見えないはずの空を見上げ、困ったように頬を掻く。
「さてさて、と。いろいろありましたが、やっと新聞が書けそうで……」
気持ちを整理し、大きく背伸びをしてから。
自分の家の方へとつま先を向けた。
そのときだった。
「おっ、と」
いきなり鼻先に刀が突きつけられ、思わず身を引く。
目線を刃に沿わせて見れば、その先にあるのは見覚えのある白狼天狗の姿。
「文、昨晩はどこにいた!」
「えっと、霊夢さんのところで一泊、二人きりで」
その強気に押し切られ、正直に口を滑らせてしまう。すると椛の顔が真っ赤になり。
「て、ててて、天狗と人間が! しかも女性同士が同じ屋根の下で過ごすなど不謹慎だとは思わないのか!」
「いやいや、種族はわかるけど、同性で不謹慎の意味がわからない」
「しかし、文は天狗でも人間でも老若男女でも気に入った相手には手を出すという噂だし!」
「……そこまで曲解されますか。まあ、その方が任務に都合がいいのかもしれませんが」
「なんか言った?」
「いえ、何にも」
とりあえず、椛は何故か文と霊夢がいっしょにいたことが気に食わないらしい。最近では外に出る度に噛み付く勢いで向かってくるのだから、文としては困ったものである。
「文は、その、霊夢のことどう思ってるの! やっぱりその、こ、こ、恋人、とか!」
「はぁ? 何を言ってるんですか?」
心の底から覚めた反応を返すと、椛はきょとんと、驚いた顔をして。一字一句聞き逃すまいと耳を立てた。
「天狗と人間の間にそういった感情が芽生えるはずがないでしょう?」
「いや、でも、一緒に寝たとか」
「ええ、正直私も眠たかったので。眠る必要はないといっても、寝ておいた方が得だし」
あちらの信頼を得る必要もありますしね、と。文は心の中で付け加えた。すると、椛は少しだけ表情を柔らかくして、武器を鞘へと収める。
「ふ、ふーん、じゃあ文は霊夢のことどんな風に思ってるの?」
「どんな風に、とは?」
「えーっと、可愛らしいとか、そういった感覚よ」
「あーなるほど、そういうことね。それじゃあ」
ふむ、と小さく唸りを上げてから、指を折り文自身の感情を整理する。
「可愛らしいというのはあるかな、年下だから。それと、いっしょにいると落ち着くっていうか。人間にしては変わってるな、とか」
「なんだ、その程度――」
「それと~」
「え?」
指を折るのが、止まらない。
それを椛が真剣なまなざしで見つめる。
「お茶が美味しい。写真を撮ろうとしたときのちょっと照れた顔がなんとも言えない愛らしさだし、冷静に見えて感情豊かなところも良いかな。あ、昨日の風邪のときも強がって、お見舞いなんて騒々しいだけって言いながらも、実は喜んでるところとか。急に驚かしたときの、拗ねた顔も捨てがたく」
「もう、いい……」
文が指を何度も折り曲げ、言葉を続ける中。
椛から酷く冷たく、低い声があがる。
「え? まだ語り尽くしてはいないのですが?」
「もう、いいっていってるのよ! このバカラス天狗! どっかいけ、いっちゃえ!」
「おっと、いきなり武器を振り回すとは、まるで狂犬ね。わかった、帰る。もう、戻るから」
落ち着いたかと思ったら剣を振り回して文を追い払おうとする。
そんな椛から慌てて距離を取って、枝を掻き分け空の彼方へ。
そして、椛の姿が見えなくなったのを確認してから顎に手を当て、
「ふむ、そういえば白狼天狗はそろそろ恋の季節でしたな」
くすくす、と微笑みながら家路を急いだ。
季節だから仕方ない、そう、心の中で割り切る文であったが。
なぜか――
『馬鹿』と叫ぶ椛の真剣な顔が脳裏から離れなかった。
酷な事を命じられるなぁ…
こちらの方はもう少ししたら消させていただいて、あちらの方のを残させていただきます。
本当に申し訳ない。
何処かで分岐するかと思ったら同じ作品だったw
二度目でも楽しかった。ありがとうございます。