夕日を背いっぱいに浴びながら、黒い影が小ぢんまりと座り込んでいる。
九尾はふと、その姿を見咎めた。
「橙、何をしているんだ?」
びくんと跳ねた影は、大きく伸びて長い。縁側に敷かれた板がそれを写し、やがて藍のいっそう大きな影も加わる。
八雲邸は静かだった。藍と、橙しかこの場にはいない。
二人は並んで縁側にかけ、脚を投げ出した。
「藍さま」
隣にかけた主人を見る橙の頬は、夕焼けに負けないくらい赤い。ついこの間式をうったばかりだというのに、橙はよく藍になついていた。その証拠に、二人でいる時の彼女の頬は、いつだってほおずきみたく熟れている。
ぴょこぴょこと、二つの尾が嬉しそうに揺れた。藍の九つの尾と触れあう。悪戯にちょんちょんとつつきまわしてから、撫でる様に滑らせて。藍のふかふかとした尾もそれに答えるかの様に、ゆったりと上下左右に振れる。
しばし言葉も忘れ、尻尾だけでの交渉が続いた。
「藍さまっ。ほら」
一息をついてから、橙はようやく、両手にそれぞれ持ったものをかざして見せた。
右手に小刀、左手には、何やら良く分からぬ四角い竹の棒きれの様なもの。それだけでは何と判じ難いが、彼女がしていたのが工作の類である事に間違いはない。
見せて、すぐ橙は、嬉々として小刀を棒きれに這わせる作業に戻った。
「何を作っているんだい?」
「えへへ、秘密です」
「そうか、秘密かあ」
「はいっ」
小さな手が、薄く薄く棒きれの表面を削っていく。
シャッ、シャッ、ふぅ。
金属と素材の奏でる僅かな摩擦音と、屑を吹き飛ばす橙の息遣いのみが、逢魔が時の静謐を破った。奥の間では、八雲紫の放つ妖気が彼女の寝息に合わせ揺らいでいる。
鴉の鳴く声もしない日の入は、いつもにもまして郷愁を誘う。藍は一人そんな事を思った。無論、何の脈絡もないただの感傷に過ぎない。三つの大陸をまたにかけ、ようやくたどり着いた帰るべき場所とは、この幻想郷に、八雲紫の元に他ならないのだから。
あるべき場所におさまっておりながら、郷愁に胸締め付けられるとは可笑しな話である。
藍は、その白く細い指を橙の頭へ乗せ、ゆっくりと撫ぜた。
橙色に空が染まっている。
同じ名を与えられた自身の式を、藍は見た。
なぜ、この子を橙と名付けたのか、と思う。
自分は主から、藍と言う名を賜った。
藍とは紫 の隣にあって控える色。主八雲紫の永遠の走狗たれと、願い願われ我がものとした名だ。その為には妲己も華陽夫人も玉藻前も、そして何より白面金毛九尾であることも、どうでも良かった。それら全てを投げ捨てかなぐり捨て、八雲の藍であることだけが無上の喜びだった。
ただ紫の隣にありさえすれば、式神に身を堕としても、自分は耐えられた。
しかし橙は――橙はどうだろう?
「……いたっ」
驚いて、振り向く。
小刀が行き過ぎたか、滑ったか。橙の、棒きれを支えていた左の人差し指に赤く一筋、傷口を開いていた。
ぷつりとそこから滲み出る血。赤い色。橙の隣にあって、控え仕える色。鮮やかに、そのしずくが滴り落ちた。
今にして思えば、なぜそうしたのかは分からない。
思わず藍は、その指を食んだ。
「藍さまっ?」
鈍い、鉄の味がする。ざらついた獣の舌をぬめったその液体が唾液と共に潤していく。
橙が驚いた顔をしている。すまないなァ、びっくりさせてるなァ、そんな思いだけがのったりと、心の中を通り抜けて行った。それでも九尾は、指を食んで離さない。
橙は総毛立った。不安が色に表れて、しかし藍の離すことなく、獣性が危険を告げる。
「……う、う、ふぅッ」
ぴっ、と一筋。藍の頬に走った爪が、白く滑らかな頬を切った。
それからやっと、藍の口中を指が脱した。指は、血が止まり、温かい藍の唾液に濡れているばかり。
代わりに藍の頬をたらりと、赤いしずくが伝った。
「あ、う、藍さまっ、その、ごめんなさいッ!」
我に返り、泣きそうになって頭を下げる橙を、藍は笑って見ていた。
ぶら下げた足を振り子のように揺らして、子供のように笑んで。だから橙は、とうとう泣きだした。まだ怒られた方が彼女には安心だった。それが当然なのだから。
ポッケに入っていた竹ひごが、カラリ音を立て落ちる。
「いいのさ。いきなりあんなことされたらびっくりする。私だってそうだね、橙は、悪くないさ」
「でも、でも」
「大丈夫、だいじょうぶ」
片手に橙をあやしつつ、藍はかがみ込んで竹ひごを拾う。
ハハァ、これを使うつもりだったのか。橙の、先程まで削っていた竹の切れはしには、真中にひとつ穴が通してある。そして両端は滑らかに、プロペラ状に削られていた。
あとは二つを組み合わせるだけなのだ。
「たけトンボ、作りたかったんだな」
うつむいたまま、橙は小さく頷く。それだけで藍には、十分だった。
この子が泣きやんだら、続きを作ろう。そしてこの子の手で、飛ばさせてやろう。
震える小さな背中に手を這わせながら、藍は思う。
いつか、この子と一緒に空を飛ぶ日が来るのだろうか。
その時この子の隣にいるのは、自分ではなく、しかるべき色の者ではないのだろうか。
橙と呼ばれる式神が空を飛べるようになる、少し前の話であった。
九尾はふと、その姿を見咎めた。
「橙、何をしているんだ?」
びくんと跳ねた影は、大きく伸びて長い。縁側に敷かれた板がそれを写し、やがて藍のいっそう大きな影も加わる。
八雲邸は静かだった。藍と、橙しかこの場にはいない。
二人は並んで縁側にかけ、脚を投げ出した。
「藍さま」
隣にかけた主人を見る橙の頬は、夕焼けに負けないくらい赤い。ついこの間式をうったばかりだというのに、橙はよく藍になついていた。その証拠に、二人でいる時の彼女の頬は、いつだってほおずきみたく熟れている。
ぴょこぴょこと、二つの尾が嬉しそうに揺れた。藍の九つの尾と触れあう。悪戯にちょんちょんとつつきまわしてから、撫でる様に滑らせて。藍のふかふかとした尾もそれに答えるかの様に、ゆったりと上下左右に振れる。
しばし言葉も忘れ、尻尾だけでの交渉が続いた。
「藍さまっ。ほら」
一息をついてから、橙はようやく、両手にそれぞれ持ったものをかざして見せた。
右手に小刀、左手には、何やら良く分からぬ四角い竹の棒きれの様なもの。それだけでは何と判じ難いが、彼女がしていたのが工作の類である事に間違いはない。
見せて、すぐ橙は、嬉々として小刀を棒きれに這わせる作業に戻った。
「何を作っているんだい?」
「えへへ、秘密です」
「そうか、秘密かあ」
「はいっ」
小さな手が、薄く薄く棒きれの表面を削っていく。
シャッ、シャッ、ふぅ。
金属と素材の奏でる僅かな摩擦音と、屑を吹き飛ばす橙の息遣いのみが、逢魔が時の静謐を破った。奥の間では、八雲紫の放つ妖気が彼女の寝息に合わせ揺らいでいる。
鴉の鳴く声もしない日の入は、いつもにもまして郷愁を誘う。藍は一人そんな事を思った。無論、何の脈絡もないただの感傷に過ぎない。三つの大陸をまたにかけ、ようやくたどり着いた帰るべき場所とは、この幻想郷に、八雲紫の元に他ならないのだから。
あるべき場所におさまっておりながら、郷愁に胸締め付けられるとは可笑しな話である。
藍は、その白く細い指を橙の頭へ乗せ、ゆっくりと撫ぜた。
橙色に空が染まっている。
同じ名を与えられた自身の式を、藍は見た。
なぜ、この子を橙と名付けたのか、と思う。
自分は主から、藍と言う名を賜った。
藍とは
ただ紫の隣にありさえすれば、式神に身を堕としても、自分は耐えられた。
しかし橙は――橙はどうだろう?
「……いたっ」
驚いて、振り向く。
小刀が行き過ぎたか、滑ったか。橙の、棒きれを支えていた左の人差し指に赤く一筋、傷口を開いていた。
ぷつりとそこから滲み出る血。赤い色。橙の隣にあって、控え仕える色。鮮やかに、そのしずくが滴り落ちた。
今にして思えば、なぜそうしたのかは分からない。
思わず藍は、その指を食んだ。
「藍さまっ?」
鈍い、鉄の味がする。ざらついた獣の舌をぬめったその液体が唾液と共に潤していく。
橙が驚いた顔をしている。すまないなァ、びっくりさせてるなァ、そんな思いだけがのったりと、心の中を通り抜けて行った。それでも九尾は、指を食んで離さない。
橙は総毛立った。不安が色に表れて、しかし藍の離すことなく、獣性が危険を告げる。
「……う、う、ふぅッ」
ぴっ、と一筋。藍の頬に走った爪が、白く滑らかな頬を切った。
それからやっと、藍の口中を指が脱した。指は、血が止まり、温かい藍の唾液に濡れているばかり。
代わりに藍の頬をたらりと、赤いしずくが伝った。
「あ、う、藍さまっ、その、ごめんなさいッ!」
我に返り、泣きそうになって頭を下げる橙を、藍は笑って見ていた。
ぶら下げた足を振り子のように揺らして、子供のように笑んで。だから橙は、とうとう泣きだした。まだ怒られた方が彼女には安心だった。それが当然なのだから。
ポッケに入っていた竹ひごが、カラリ音を立て落ちる。
「いいのさ。いきなりあんなことされたらびっくりする。私だってそうだね、橙は、悪くないさ」
「でも、でも」
「大丈夫、だいじょうぶ」
片手に橙をあやしつつ、藍はかがみ込んで竹ひごを拾う。
ハハァ、これを使うつもりだったのか。橙の、先程まで削っていた竹の切れはしには、真中にひとつ穴が通してある。そして両端は滑らかに、プロペラ状に削られていた。
あとは二つを組み合わせるだけなのだ。
「たけトンボ、作りたかったんだな」
うつむいたまま、橙は小さく頷く。それだけで藍には、十分だった。
この子が泣きやんだら、続きを作ろう。そしてこの子の手で、飛ばさせてやろう。
震える小さな背中に手を這わせながら、藍は思う。
いつか、この子と一緒に空を飛ぶ日が来るのだろうか。
その時この子の隣にいるのは、自分ではなく、しかるべき色の者ではないのだろうか。
橙と呼ばれる式神が空を飛べるようになる、少し前の話であった。
最近竹とんぼ見てないなぁ…
いい話でした。