ノックが聞こえた。
「魔理沙、いる?」
勝手に開けろ。と常々言っているが、こいつは一向にその権利を使おうとしない。
性格の問題もあるだろうが、もう三十年来の付き合いにもなって尚その遠慮さには呆れすら感じる。
鈴仙の呼びかけに応え、やっとドアが開いた。リュックサックを背負っているから、里の薬の補充の帰りだろう。
「相変わらずね」
部屋の中をぐるりと見渡して溜め息交じりに呟いた。勝手に家には入ってこない癖に、勝手な事を言う。
これでも昔に比べれば綺麗に整頓したと思っている。何処に何があるか全て解っている。
なるべく踏み荒らさないように歩を進めた鈴仙が部屋の中央のテーブルに辿り着く頃には私の作業は終わっていた。
「今度は何の実験?」
「なに、ただの魔力の変換効率のまとめだぜ」
手早くメモにペンを走らせ、鈴仙の座っているテーブルに向かった。
そろそろ喉が渇いていたところだ。「お茶」と一言言うと鈴仙は苦笑いしながら台所へ向かった。
彼女、鈴仙は近頃私の家へ良く来る。近頃と言っても、ここまで頻繁に顔を合わせるようになったのは四半世紀位前だ。
調度種族としての魔法使いとなった私が、捨中の魔法を習得した頃。
元々私達はそこまで親しい仲と言う訳ではなかった。誰とでも気兼ねなく話せるというのは私の特技ではあるが、誰とでも仲が良いと言うことでもない。
永夜の異変で一度会い、その後アリスと一緒に永遠亭に訪れて二度会い、花の異変で三度会い、宴会で何度か杯を合わせた。それだけ。
それだけの仲なら山ほどいる。その山ほどの者達から唯一鈴仙と親しくなったのは何故か。
そのきっかけは何だったか。なんとなく良く話す仲になる、そんな仲になるきっかけ。
思えば当時の私は霊夢を追い抜かそうと躍起になっていた。霊夢との出会いのきっかけは何だっただろう。気にしたこともなかった。
強いて言うなら「なんとなく」だ。なんとなく、私達はお互いの作業の合間に顔を合わせ、談笑する仲になった。
「はい。勝手にお茶っ葉使ったからね」
気付けば、何時の間にか霊夢のお気に入りのカップは私の家からなくなっていて、何時の間にか鈴仙のお気に入りのカップが私の家にあった。
私のお気に入りのカップは長い間使った所為でその役目を果たすことが出来なくなり、こいつで三代目だ。
二代目のカップを気に入るのには随分と時間がかかった。それほどに初めてのお気に入りは私の心の多くを独り占めにしていたのだろう。
けれど、三代目のカップは割りとすんなり受け入れられた。二代目に思い入れが無かったわけではない。慣れてしまったのかもしれない。
お茶を啜ると、いつもの味がした。
美味い。もう慣れた、いつもの美味さ。
「不味くない?」
「悪くないぜ」
良かった、と微笑む。その時、一瞬眩暈がした。
鈴仙はただでさえ長過ぎる髪が多少伸びたが、姿形は殆ど変化が無い。
コップさえ無ければ、と思った。
鈴仙は里の様子や、未だに止まないてゐの悪戯や、輝夜と里に買い物に行った話や、ある丸薬の作成なら永琳に太鼓判を押されたとか、私の知らないところの話を沢山教えてくれた。
私もアリスの研究の経過や、パチュリーの合成魔法の失敗談や、咲夜の外見が変わらない謎など、鈴仙が知らないであろうことを話した。
私達はこうやって互いの知らないことを教え合い……教え合っている。
そうしないと、私の後ろを絶えず着いて来る透明の壁が私を通り過ぎてしまう気がするのだ。
きっと、鈴仙も同じことを考えていると思う。
私達は時間の変化に敏感過ぎる癖に時間の変化に囚われない身体を持っていて、時間の変化に追いつこうとせめて情報だけでも掻き集めている。
あんなに鬱陶しかった新聞を読み通す始末だ。
要するに、私達が長生きするには私達は弱すぎるのだろう。
妖怪の山に新しい巫女が引越ししてきた時の異変を最後に、幻想郷はぱったりと平和になった。
数年と経たずに、まず冥界への結界が修復された。修復される数日前から幽々子と妖夢が一緒に挨拶回りをしていた。幽霊が家を訪問して回るのも困った話だ。
妖夢はくそ真面目な口調で菓子折りと挨拶を残していったが、目は涙で一杯な上に声が震えていた。
結界が修復されてから気付いたことだが、妖夢は顕界でしか人付き合いをしていなかった。そもそも冥界では人との交流すらないのだから、寂しくなるに決まっている。
妖夢の為を思うのなら、あの大結界は薄れるべきではなかったし、修復するべきでもなかった。
しかし妖夢の為を思うのなら、あの大結界は修復されなくてはならなかったのだろう。閻魔が怒るからだ。
その頃から段々と宴会も減っていった。幹事は殆ど私が行っていたが、他の誰かがすることも多々あり、その多々が無くなっていくと同時に私も宴会を開く回数が減っていた。
それから程なくして霊夢が身篭った。相手を聞き出そうとしても全く口を割らず、遂に相手がわからないまま出産した。
のんびり屋だとはわかっていたが、神社で陣痛を起こすまでのんびりしているのはどうかと思う。結局永遠亭まで担ぎ込まれての緊急分娩だった。
腹を抱えている最中は妖怪退治も行わず、妖怪も霊夢と弾幕ごっこをすることを避けているように見えた。何だかんだであいつは愛されていると思う。
今では娘の方が幻想郷を飛び回っているらしい。母親と違って仕事熱心だそうだ。
山の方の巫女は、正直解らない。鈴仙も早苗を話題に出すことはなく、ブン屋の新聞にも載ることがない。奥手っぽい奴だったから、ひっそりと暮らしているのかもしれない。
咲夜は全く歳を取っていないように見える。だが紅魔館から出てくることはなくなり、普段の仕事はそつなくこなすが物忘れがとんでもなく激しくなった。
パチュリーは咲夜の大きな冗談だと言っていた。レミリアも咲夜を一メイドとして見るようになっていた。私には、紅魔館での咲夜の影が徐々に薄まりつつあるように見えた。
もしかすると既に私が初めて会った咲夜はもういなくて、いなくなる前に作った沢山の世界から違う咲夜が一日毎に入れ替わっているのかもしれない。そうだとすると、確かに大きな冗談だ。
「魔理沙?」
体がびくりと跳ねた。随分と思い出に耽っていたらしい。
「考え事が増えたわね。歳をとった証拠よ」
「うるせい、私はまだ若いぜ」
気付かないうちに温くなっていたお茶を飲み干し、カップに目をやった。
月の兎は長生きだという。不老の身になった魔女とどちらが先に死ぬのだろう。
いつか鈴仙がどこかへ行ってしまったり死んでしまったら、私は三代目のカップを捜すのだろうか。
「やっぱり、気になってるの?」
「ん、ああ……」
少し前に私の、元親父が逝った。里の病人の相手は全て永琳と鈴仙が面倒を見るから、親父の先が長くないことは鈴仙から聞いていた。
勘当された身ではあるが、せめて逝く時は見舞ってやって欲しいとお袋から伝言も来た。
それでも私は行かなかった。もともと勘当を言い渡した方が今になって関係を戻そうとするからややこしくなるのだ。
結局命日になった日の朝には、香霖が柄にもなく私を力任せに連れ出そうとしたが、本気で殴って蹴って追い返した。帰るときの香霖は酷い顔をしていた。全く。私も酷い顔をしていただろう。
意固地になっていると言われれば、そうだったかもしれない。それでも、意固地であればよかった。私が中途半端になりきれなかったから。
「随分、言われたしな」
大馬鹿者の私は埋葬の日にひょっこり出てきてしまったものだから、お袋に捕まってしまったのだ。
ヒステリックな一面もあったし、長年連れ添った夫に逝かれてしまったら、父親の死の際にも来ない娘が何を言われてもおかしくない。
馬鹿だの阿呆だの、親不孝者だのと色々言われたが、格別に残っている言葉がある。
恨んでやる。
そう叫んで、もしかしたら私を刺す為に用意していたのか、短めの包丁を取り出して自らの首に押し当てた。
慧音が咄嗟に包丁の歴史を隠して事なきを得たが、彼女は「帰れ」とだけしか言わなかった。
生きてきて一番恐かった。途轍もない量の弾幕でも、最強と謳われた妖怪の前でも、恐怖なんて感じたことはなかった。
隔絶を持った、怨恨を抱いたまま、死なれるということ。直ぐ傍に死を臭わせるということ。
そのことを私はふとした時に思い出すことになる。忘れるまでに何十年かかるだろうか。六十年で忘れられるだろうか。
それとも、生きている限り私に付き纏うのか。
ぶるり、と体が震えた。暫くはこの感覚に悩まされるだろう。
話題を変えなくてはならない。そう無意識に感じた。
「なあ」
「何?」
彼女は頼んでもいないのにお茶のおかわりを入れていた。
「どうして私達、出会ったんだと思う?」
「んー」
それとなく、やっぱり考えていたことについて聞いてみることにした。
カップを置いて、俯き加減に髪を手で梳くように耳を撫でる。考え事をするときの癖だ。
お互いに何度かお茶を啜って、たっぷりと時間を置いた後、口を開いた。
「多分さ、人生ってのはなるべくしてなるもんなのよ」
「霊夢みたいな物言いだな」
「あそこまでのんびりじゃないけど。私は月からほうほうの体で逃げてきて、土地勘の無い場所で迷ってさ。ああここで野垂れ死ぬんだろうなーとか思ってたわ」
恥ずかしさに苦笑しているように見えたが、誤魔化しだ。赤い瞳に翳りが映っている。
鈴仙が月から幻想郷に辿り着いたのは私が生まれる前のもっと前の話だと聞いていたが、それからの時間が彼女の過去を風化させることにはまだまだ足りないらしい。
それでも彼女は「でもね」、と続けた。
「竹林を歩いてたてゐに永遠亭まで引き摺られて、寛大な姫様がいて、天才のお医者様がいた」
彼女の言いたいことがなんとなく伝わってきた。これらは全て偶然だ。彼女は沢山の偶然の後に生き延びることが出来た。
「数十年間はずっと疑心暗鬼でね。ほら、てゐなんてよく嘘をつくでしょう? 私、一番信用しちゃいけない敵だって」
まあ今でも信用しちゃいないけど、と付け足した。
「それから永遠亭を隔離しようとして、魔理沙達が殴り込みに来て、幻想郷の人達と交流するようになった。ほんとうに、これは全て嘘なんじゃないかって思うくらい世界が広がっていった。皆で私を騙してるんじゃないかとか、都合の良い夢を見てるんじゃないかとか。今じゃちょっと疎遠になりつつあるけど、皆と宴会したり、弾幕ごっこしたり、魔理沙とこうやって話してるのも全部」
幸せ。と、頬に笑みの涙が零れ落ちた。
私は彼女が戦っていた月の戦場を知らない。どれだけの敵を殺したとか、仲間が殺されたとか、全く聞いたことがない。
それでも、彼女が幸せを口にし、涙に出来る。世界が広がりを見せてゆく。その気持ちなら解る気がする。
なにより私と出会ったことを、幸せと言ってくれる。その気持ちを私は大切にしなければならない。
「でもこれは誰かが意図した訳じゃなくて、本当に偶然なのよね。それでも生きてて良かった、って思えることが私には嬉しかったわ」
「生きてて良かった、か」
いつかの死神が言っていた。死ねば死に損だと。
生きていれば、いつか何か良いことがある。
そんなもの気休めだ。
本当に辛いとき、押し潰されそうなとき、そんな不確定な未来の夢物語で心を支えることなど出来ない。不確定な恐怖には心を揺さぶられるというのに。
だから私達はもっと近くに来て欲しいのだ。手を伸ばせば掴めるような、抱きしめて実感出来るような、目先のちっぽけな幸せが欲しいのだ。
「でもまぁ、これは私の話だから」
「おいおい。それじゃあ参考に出来ないぜ」
「自分の人生くらい自分で考えなさいよ」
「おっと、そこは抜かりない。ちゃんと一つ盗んだからな」
それでも私達は夢物語を捨てることは出来ない。心のどこかで、「いつか」とか「きっと」とか、絵でしか描けないような想いを抱き続けている。
要するに、私達は長生きするには私達は弱すぎるのだろう。だから、幸せに貪欲であり続ける。
「結局自分で考えてないじゃない」
「盗んだものでも私の考えになれば、それは私が考えて私の考えになったものだぜ」
「どういう理屈よ。それで、結論は?」
「簡単だぜ」
出会ったきっかけなんて気付かないほど小さなものか、あるいは全く本当に無かったのかもしれない。
だったら、きっかけなんてどうでもいい。幸せであればいい。
ひたすら掻き集めて、堪能して、誰かに伝えて、時々思い出す。
それを一気に行える方法が一つだけある。
「毎日を大事にすること、だぜ」
ほんとうに単純で簡単な、いつかの私が出来ていたこと。
やろうと思えば誰でも出来る。
きっかけなんていらないのだから。
「普通ね」
「普通だぜ」
いい作品なんだから自信を持ってください
しかし、魔理沙と鈴仙か…珍しい組み合わせだな
ダンディズムを感じるぜ