――がささっ――
花畑を後にして私たちは列をなして茂みを分けいった。背丈ほどある低木や茂みを先頭のルーミアがガシガシと踏みしめてくれるので、すぐ後ろに続く私とチルノはとても通りやすい。しばらく分けいると、廊下のように草のない通路が――獣道が眼前に広がった。
「どれくらい歩けば人里に着くの?」
「この獣道をまっすぐ行ったら人里まであっという間なのだ」
ルーミアがトコトコと歩く獣道は、花畑と違い起伏に富んでいる。初めてルーミアと出会った時と同じように木の根がそこかしこに絡み合ってとても歩きにくかった。
列の真ん中を黙々と歩いていると、ふっと影が私に差す。見上げると、ひんやりした追い風をまとってチルノが低空飛行をしていた。
「歩きにくいから飛んだほうが早いよね」
チルノは空中でくるりと宙返りをし、ウインクをする。
確かにそうだ、歩きにくいなら空を飛べばいいじゃないか。そんな当たり前のことに気づかせてくれたチルノはやはり天才だ。
「チルノ天才ね、私も飛ぼうっと」 チルノに習って私も薄っぺらい羽をはばたかせた。ふわりと地面から足が離れ、うねうねと木の根が密集した歩きにくい地面が遠くなる。
チルノが肩をちょんちょんと叩き、鬼ごっこをしようと私を誘った。私が頷くと同時にチルノはスイっと目の前から急降下する。墜落するのではというくらいの勢いで落下するが、地面すれすれで持ち直し、そこかしこの木々を器用にすり抜けた。
六つの羽を巧みに動かしチルノは私をぐんぐん引き離す。太い木にぶつかるのではとヒヤッとしながらおっかなびっくり飛ぶ私と違い、チルノの滑らかな流線飛行はキラキラとダイアモンドダストを散りばめて、さながら流れ星のようだった。空中鬼ごっこで私にできることといえば、アクロバティックなジグザグ飛行の後ろを直線的についていき、羨望の眼差しでチルノを眺めるくらいのものである。チルノの飛びっぷりに見惚れながら後ろを飛んでいると、チルノが突然クイッと体をひねり細い枝を華麗にかわす。すぐ後ろでぼーっと飛んでいた私は迫り来る枝を避けきれず、気づいたときには顔にびしゃんと当たっていた。
ヒリヒリする鼻面をさすっていると後ろの方からルーミアの声が聞こえた。
「ああ待って、アタシ空飛ぶの苦手だから待って欲しいのだ」
チルノも戻ってきてルーミアを待つ。しばらくするとルーミアがふわふわと綿毛のように飛んできた。そういえば、ルーミアが空を高速で飛んだことは見たことがない。私と同じで飛行は苦手なのだろう。
「置いていくわけないじゃない」
チルノが枝に腰掛けながら爛漫な笑顔で言い切った。キラッと輝くまぶしい歯が私の心をぴくんと動かす――私はチルノのこういうところが好きなんだろうなと、自分自身でも気づいてなかったことに今気づく――
しばらく森をのんびり飛行して、もうすぐ森の出口というところまで来たときルーミアが何かを見つけたようだ。
「ん? ありゃなんなのだ」
ルーミアが指さす方に目を凝らしてみると、生い茂る草木に紛れて白いものがチラリと見えた。
「白い髪の……人間? なにかを運んでるみたい」
「こんな森の中でも人間が歩いているんだね」 人間を見たことはなかったが、チルノが言うのだからあれは人なのだろう。するとルーミアがぼそっとつぶやく。
「人間が使うような森の里道はずっと離れたところにあるのだ。わざわざ鬱蒼とした獣道を歩いてるのだから妖怪かもしれないのだ」
なるほど、そういう見方もあるのか。確かに、私たちでさえ空を飛ぶような歩きにくい獣道をずんずんと気にもとめないで突き進んでいる。獣並みの足腰がある妖怪だと見るのが妥当だろう。しかも大きな袋を担いでいるのに私たちよりも歩く速度が速い。妖怪ではなく獣が化けているのかもしれない。
「人里に向かってるのかな」
「だったら途中まで一緒に行ってもいいかもね。重い荷物だったら運んであげようよ」
だしぬけにチルノが素晴らしい提案をする。あの白髪の人は見たところ私たちより体力はありそうではあるが、大きな荷物を長距離運ぶのはきっと辛いはず。このことはルーミア邸への引越しで経験したばかりなので大変さがよくわかる。大変な時、辛い時に親切に手伝ってあげることはとても良いことだ。
「チルノは優しいのだ」
のんびりした口調でルーミアはチルノを感心した。
「そうよ、チルノは優しいのよ」 私はなぜか、自分が褒められたかのような幸福感に包まれチルノの代わりに自慢する。となりで頭をポリポリ掻くチルノは、照れくさいらしくはにかみながら耳を真っ赤にしていた。
大きく息を吸って、チルノは照れくささを吹き飛ばすように元気いっぱいの大声で叫ぶ
「お~い、そこの白い人~!」
「その呼び方はどうかと思うのだ」
呆れ顔でつっこむルーミアのせいで、私は少し吹き出してしまった。
******
「ん? 何やあんたら、あてを食いに来たのか」
白い人は振り返りざまに不思議な口調で妙なことを言いだした。
白い長髪、白いシャツに赤いズボンと赤い眼。大きな荷物と裏腹に振り返った人は私たちよりちょっと背が高いだけの細いお姉さんだった。
しかし人を食べるだって? そんなことをする奴がいるのだろうか。
「そんなことしないよ」
「痩せっぽちで美味しそうには見えないのだ」
訂正、ルーミアは美味しそうだったら食べていたようだ。人間を食べるなんて発想が今までなかったから斬新だった。
「お、人語を喋れるのかい。そりゃあいいや」
「しゃべれない奴なんているの?」
「そりゃあいるさ、有象無象がそこかしこに。動物みたいなもんさね」
あたいやダイちゃんは生まれた時から喋れていたので気づきもしなかった。ルーミアとも普通に会話できたので疑問に思ったことがなかった――いや、よく考えてみたらカエルのトノサマと喋ってる時は人語じゃなかった――なぜか頭にトノサマの声が響いてきて何を話しているのか理解できたのだ。
「あなたは有象無象じゃないの?」
「へっ、言うねえ。生意気な妖精は嫌いじゃないよ。ちなみにあては人間や、動物みたいな有象無象やあらへん」
生意気だって? ダイちゃんは生意気なんかじゃないぞ、あたいにとっても優しい友達なんだぞ!
あたいは白い人にムッとしたが、ダイちゃんは気にしていないようで目をぴかぴかさせて感動している。
「あなた人間なのね! 人間って初めて見た!」
「おお、初めて出会った人間があてなのか――光栄やね。あては妹紅、藤原妹紅さ」
ニマニマしながら二人に握手し、あたいにも握手しようとする。
しかし、あたいはダイちゃんを生意気呼ばわりしたことにまだ腹を立てていた。なので、いつもより冷たい冷気をまとわせて握手する。
ふふんどうだ、まいったか。と白い人の顔を見ると、片眉をクイッとあげただけで冷たそうにも痛そうにもせず平気そうな顔のままだった――あたいの冷気が効かない?
皆との握手が終わると、ルーミアがどうにも不思議そうな表情で口を開く。
「もこたんはこんな険しい獣道で何してるのだ。普通の人間はこんなところ通らないのだ」
「も、もこ……まあええ。あてはここからずうっと南にある竹林に住んでるんよ。商売するため人里くんだりまで足をのばしてるんやわ」
「ちょっと回り道すれば平坦で安全な道が歩けるのにか?」
「なにも人間だけが商いの相手じゃなし。あてくらいになると人妖獣、どれを相手にしたってたいして変わらへんよ」
そういうものなのか。もしかしたらもこたんは普通の人間ではないのかもしれない。普通の人間なら、ルーミアの言うようにこんな歩きにくい森の中を歩いたりはしないし、妖怪とは商いをしない。なら、あたいの冷気が効かないのも納得できる。
ここで、あたいはもこたんに声をかけた理由を思い出す。
「荷物重そうだし持ってあげるよ」
するともこたんはとんでもないことをあたいに言った。
「お? 新手のかっぱらいかい?」
「な……なんだって! そんなことしないもん!」 盗人と間違えるだなんて……こんな奴嫌いっ! あたいは思いっきり頬を膨らませて腕を組み、ギロリと睨みをきかせてもこたんを威嚇した。それでも、先程と同じくもこたんは平常心をそのままにニヤニヤしている。なんと失礼な奴なんだろうか。親切にしようとしたことがすごく馬鹿らしく思えた。
「ははは、冗談だよ冗談。じゃあちょっとの間この荷物持ってくれない?」
「やだよっ! もう持ってあげないもん!」 なおもヘラヘラとおどけたポーズであたいをバカにしている。冗談だって? 冗談なら面白い事を言うもんだ、相手を怒らせることが冗談なわけないじゃないか。
「今のはもこたんが悪い」
「もこたんが悪いのだ」
ダイちゃんもルーミアもあたいが怒ってるのに気づいたのか、もこたんをビッと指さし諌めている。一緒になって怒りを共感してくれる二人に感謝しつつ、あたいは組んだ腕を居丈高に組み直して怒りのポーズを完成させる。
「ありゃ……本気で怒っちゃったか。ごめんね、これで堪忍してくれない?」
もこたんはあたいたちが怒ってることにいまさら気づいてようやく謝り、あたいに箱を手渡した。
「……なにこれ」 ふてくされながら小さな風呂敷に包まれた箱を開けると、赤黒い物がかかった緑色の団子が詰まっていた。白い団子なら食べたことはあるが、緑色……かびている……訳ではなさそうだ。あと、この赤黒い物はなんなのだろう。
「草団子っていうねん。自家製あんこをかけてるから甘くて美味しいで」
もこたんは先ほどのニヤついた笑みと違い、爽やかなカラっとした笑顔を見せ、ジェスチャーで団子を食べるようあたいに奨める。
甘いのか――あたいは手を伸ばし、餡子のたっぷりかかった団子を口の中に放り込む。
途端に口に中が感じたことのない甘さに包まれた。美味しい、とても美味しい。こんなに甘いものはレティも食べさせてくれなかった。未曾有の甘味に頭の中でいろんな色が弾け、あたいの舌に革命が起こり、美味しい物ランキングがガラガラと音をたてて大きく変わる。
「んああっ! ダイちゃん、ルーミア! これすごく美味しい!」
「おいし~い!」
「ほあああああっ!」
あたいは団子にたっぷりと餡子をかけてダイちゃんとルーミアにわけた。二人共目を見開き感動している。あたいと同じく美味しい物ランキングが変わったのであろう、興奮した口調で舌鼓を打った。とりわけルーミアは、絶叫とともにものすごいエキサイトっぷりを見せる。最初に口に入れた時なんかは飛び跳ねて全身で驚いていた。あたいもダイちゃんもルーミアも、残りの餡子かけ草団子をあっという間にたいらげる。ルーミアに至っては箱の中には餡子のあの字も見当たらないほど綺麗に舐め上げていた。
「機嫌は治った?」
もこたんは首を傾げてあたいたちに優しい声をかけてくる。こんな美味しい物をくれたのだから、いつまでもツンケンするなんて失礼だ……あれ? なんであたいはツンケンしてたのだろう。とにかくあたいはもこたんに、草団子のお礼をすべく進言する。
「機嫌、治ったよ。その荷物持ってあげるね」
「おおきに。森を抜けるまででええからね」
あたいたちに大仰な礼をし、大きなずた袋の荷物を手渡した。見た目の大きさに反して思ったよりも軽く、あたいが持たなくてももこたんは軽々運んだことだろう。でも、あたいは草団子のお礼がしたかったから運ぶんだ。
よいしょと担ぐとカシャカシャと音がなる。一体もこたんは何を運んでいるのだろう。袋には漢字が書いているが、読めないので何が入っているのか皆目見当がつかなかった。
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森を抜け開けた草原を歩きながらもこたんは言った。
「そういやなんであてに話しかけようと思ったん?」
「人里に向かう途中で見かけて、チルノがもこたんを助けようと言い出したからなのだ」 当のチルノを見ると、うんうんと赤べこのように頷いている。
チルノが親切心を出さなければ、アタシから声をかけることはなかっただろう。本当ならもこたん自身には大して興味も何もなかった。が、まさかあれほどまでに美味しい物をお礼に食べさせてくれるとは。チルノのように親切だったらなにかの縁で幸せになれるのかもしれない。次に荷物を持ってる人がいたらぜひ親切にしよう。
「へえそうかあ、おおきに。ん? 人里に行こうとしてたんか……妖怪と妖精が何の用で人里に行くん?」
「あ、そうだ! もこたんに読んでもらおうよ」
突然ダイが息巻いてアタシたちにまくし立てる。こっくりこっくりと頷いていたチルノが勢いのあまり後ろにずっこけた。何事かと思ったが、さっき拾った本のことだったか。
「――ほんとだ、人里に行かなくてももこたんなら読めるかも!」
チルノも起き上がって、ダイの言うことに賛成した。確かに、もこたんなら袋に漢字を書くくらいなのだから読むことだってできるはず。人里まで行く手間が省けるってものなのだ。
「アタシたちこの本の内容が気になったけど、読めないから読める人を探しに人里へ行く途中だったのだ。でももこたんが読めるならミッションコンプリートなのだ」 アタシたちはもこたんに本を手渡した。もこたんは立ち止まり、荷物を置いて本を読み始める。
「ふうん。どれどれ……んあっ? こ、こらあかん!」
数ページめくると、もこたんは急に顔を真っ赤にさせてしどろもどろになり始める。耳まで真っ赤にして口をワナワナさせ、うまく言葉が紡ぎ出せないようだった。ついさっきまで余裕ぶったお姉さんぽさがあったもこたんが、いまやアタシたちと変わらない子供っぽさに様変わりしている。いきなり豹変したもこたんの姿にアタシもダイも戸惑ったが、チルノだけは平然ともこたんに近づき本を覗き込む。
「どう? 読めそう?」
「あ、こら、覗くんやない……あてには読めん。こんな本読めん! だいたい、こんな本どこで拾ったんや」
「森の中の花畑で落ちてたのだ。それがどうかしたか?」 こんな本、こんな本と連呼するあたりなにか危険で忌むべき本なのだろうか。しかし、先程三人で見た限りだと裸の人間が赤い生き物に襲われてるだけだったようだが……もしかしたらアタシたちが読めなかった文章の方にものすごいことが書かれているのかもしれない。
「ねえ、読めないなら返してよ」
「いや……この本はむちゃあかん本やから捨てたほうがええ」
チルノが手を出し返却を促すと、もこたんは数歩後ずさりして本を背中にまわして隠した。もこたんのなにか怪しい不審な行動がアタシたちを疑念に駆り立てる。
「えっ! 意味わかんない。ダメに決まってるじゃん! あたいたちのだよ!」
「そらそうやけど子どもが読む本やあらへん」
「返すのだ!」
チルノとアタシが手を伸ばして取ろうとするが、身長に差があるのでなかなか奪いとれない。取り押さえようとしてもフェイントをかけてするりとかわし、二人がかりでも全く捕まえられなかった。
しかし、後ろにいるダイの一声で解決する。
「もこたんが本を返さないなら、ここにあるもこたんの荷物をどこかに持ってって捨てちゃうよっ!」
ダイは恐ろしい。とっさに、もこたんにとってもっともダメージのある条件を出すとは。でも交換条件のおかげでもこたんは冷静になったようだ。真っ赤に火照った顔は青ざめ、すぐさま本をチルノに渡す。
「わかった、わかった。返すから商売の種は捨てんといて」
渋々本を返したもこたんは、ダイから荷物を受け取り大事そうに抱える。
「あんたらその本を読めるかどうか、人里で片っ端から聞いて回るんか」
「そうするしかないのだ、誰が読めるかなんてわからないもの」 当初から決まっている予定を伝えると、もこたんは渋い顔をして腕を組んでうんうん唸る。そんなに悩ましい事案なのか。
「うーむ……それは……あのセンセならうまいこと……いやしかし」
「もこたん読める人知ってるの?」
「……まあね。あての知ってる知識人ゆうたらセンセしかおらん。センセなら人外の類にも平らに相手してくれるからあんたらでも大丈夫やろうな」
「それいいなあ、そのセンセって人紹介してよ!」
「問題はこの本なんやけど……まあしゃあないな。ええで」
もこたんは頭をポリポリ掻きながら難色を示していたが、なにかが吹っ切れたのかアタシたちをセンセに合わせることに決めたようだ。
がに股で何かを奮い立たせるようにのしのしと歩くもこたんに続き、アタシたちはもうすぐそこまで見えている人里へ足を運んだ――
「ほら、ここが人里の入口やで。あんたら静かに外で待っててな。頼むからここから動かんといてや」
もこたんはことさらここで待っていることを強調した。ここは人里の入口ではなく、周りには人っ子一人見当たらない平原だ。人里と言われる、人の住む家屋が立ち並ぶ場所はここから数十メートル先の丘にあるくらい知っている。何故もこたんはこんなところで待たせるのだろう?
「待ってろだって。どこ行くのかな」
「さっき言ってたセンセって人を呼びに行くんじゃない?」
「アタシたちの目的は本を読んでもらうことだから別にいいけど、人里の中にも入ってみたかったのだ」 いままで遠巻きにしか見たことなかった人里。あたしの家より大きな建物がたくさんあるのできっと人間が大勢が住んでいるのだろう。もしかしたらもこたんみたいに美味しい団子をくれる人間がいるかも知れない。そう思うと機会を損失した気分になり、なおのこと人里に入りたくなってくる。
「あ! これってトカゲ?」
となりの岩に座っていたダイが飛び跳ね、岩の隙間をじいっと見ながら質問する。
「カナヘビじゃないの?」
「ヘビなの?」
「え……わかんない。ルーミアなら知ってるでしょ?」
チルノが知りもしないのに変な事を言うものだからダイが混乱した。とはいってもアタシもカナヘビという存在は聞いたことしかなく、実際に注視したことがないのでトカゲなのかヘビなのか、違いがよくわからない。ぱっと見た限り、トカゲらしきものは膝から足のつま先までくらいの長さで、首の周りにひだひだがある。こんなトカゲ見たことないし痩せっぽちなので興味もない。なので率直な意見を二人に伝える。
「こんな食べ甲斐のない動物のことなんてわからないのだ」 アタシの知識に勝手に期待していた二人のキラキラした目は、アタシの返答であっという間に濁ってしまった。アタシがなんでも知っているだなんて思わないで欲しいのだ。
呆れた顔してアタシからトカゲに目を移したダイは、じわりじわりと手をゆっくり伸ばし――ぱっと素早く手で掴む。
すると突然首のひだひだがバサッと開き威嚇した。トカゲの突然の動きにびっくりしたダイは思わず手の力を緩めてしまったらしく、ニョロっと手から飛び出したトカゲはものすごいスピードで一目散に丘へと走り出す。器用に後ろ足二本で直立歩行しアタシたちの手からすり抜けたトカゲは、器用に身体をくねらせながらジグザグに走って丘を登っていく。チルノは予想外のトカゲの逃げっぷりに目を輝かせ、得意の氷つぶてで進路を塞ごうとした。しかしトカゲもタフなもので、ひょいひょいと氷の結晶を飛び越えて独走する。
「あ、逃げるな! 待てっ!」
「私も捕まえたい!」
「なかなかすばしっこいのだ」 これだけすばしっこいのだからきっと肉も引き締まって噛みごたえのある面白い肉に違いない。猛スピードで走り回るトカゲに俄然興味が出てきたアタシは、二人に続いて丘を駆け巡る。しかし、どうにもアタシたちの足では追いつけない速さだ。三人で取り囲むように追い詰めても、股の間をするりと抜けて遁走する。ここはひとつ、普段の狩りではあまり使わない能力を久しぶりに使うとするか。
アタシは手を一直線に横に伸ばし、意識を集中させ暗闇を――
「あそこで待ってろって言ったやろ!」
もこたんの大きな怒鳴り声でアタシの集中力は吹っ飛んだ。気づくともこたんはもう一人の人間と一緒になって走ってくる。
はあはあと息を切らしながらアタシたちのもとに来ると、すばやく三つのチョップをかます。とは言っても加減してくれたのか全く痛くはなかったが。
「なんでブツの!」
「言うこと聞かんからやで……人外は許可されんかったら人里に入ったらあかんねん」
アタシたちはトカゲを追っているうちに、いつのまにやら人里の入口まで来ていたようだ。
「そんなの初めて聞いたのだ!」
「そら初めて言うたもん」
アタシはぽかんと口を開いた。まさか聞いていないことで怒られるとは……なんとも理不尽なことだ。ダイもチルノもアタシも、三人揃ってもこたんの傍若無人っぷりにぶうぶう文句を言って抗議した。
「おい、妹紅。いきなり殴るのも可哀想だと思うが」
「すんまへんなセンセ。こいつらがさっき言ってた三人や。本読んで欲しいんやて、あては商いが忙しいから頼んます」
そう言うともこたんはそそくさと足早に去っていった。まったく、いい加減なお姉さんなのだ。
もこたんの粗末な紹介でアタシたちの前に取り残されたセンセという人――背の高い青い髪の凛とした女性だった。背筋がぴしっとして堂々とした姿勢、キリっとした眉と何事にも動じなさそうな据わった目、口元は横一文字に結ばれている。
口を開けたまま見上げたアタシは、目の前に立っているセンセという人物に対して少し怖い印象を受けた。
そのセンセが目をつぶり、突然深々とお辞儀した。
「妹紅がすまなかった」
その、たった一言だけでアタシたちはセンセがどういう人なのかを直感した。
もこたんのようなコロコロと場当たり的に調子を変える子供っぽい大人とは全く違う、立派で賢い洗練された大人なのだ。少しとっつきにくそうな雰囲気を持っているが、かっこいいオーラを鮮烈に放っている。
一方アタシたちは初対面でこうも低姿勢な態度をされたことがないので戸惑い、曖昧にお辞儀し返すことしかできなかった。
一息ついて、アタシたちが落ち着いたのを見計らってセンセは静かに口を開く。
「君たちは妖精と妖怪らしいな」
「そうよ、私とチルノが妖精でルーミアが妖怪なの。」
ダイが率先してセンセの問いに答えた。ダイは怖いもの知らずなのだ、アタシはセンセとどう接すればいいのかまだ掴めていないというのに……
「わたしは上白沢慧音という。慧音でいい。君の名は? 綺麗な緑髪のお嬢さん」
「私はダイよ」
ダイと、それからアタシとチルノと握手したけーねセンセは満足そうに笑顔で頷いた。
「君たちなら人里に入っても問題ないだろう。お行儀よくして人間に迷惑かけちゃダメだよ」
「ハイ!」
けーねセンセの引き締まった言霊は、こちらの襟を直し礼儀正しくさせてしまう力があった。今までにこんな人間がいただろうか。いや、もこたんや魔法の森に住んでいる魔法使いたちはこんなに染み入る言葉を発したことなどない。けーねセンセはアタシの知ってる人間たちと――いや、妖怪とも違っていて驚き通しだ。
「さあ、ついておいで」
けーねセンセに連れられてアタシたちは大きなお屋敷の隣にある少し小さな空き地にある木材に腰を下ろした。けーねセンセの言うことには、隣の大きなお屋敷は寺子屋という勉強をする場所なのだそうだ。そこで先生をしているからもこたんにはセンセと呼ばれているらしい。
「妹紅はあまり詳しく話してくれなかったんだが、本を読んで欲しいようだね」
「そう、これなの」
チルノが持っていた本をけーねセンセに渡す。
けーねセンセは胸のポッケから小さなガラス――鼻眼鏡を取り出した。高い鼻を挟むように眼鏡をかけると、受け取った本をしげしげと見つめている。眼鏡に反射した太陽光がアタシの目にキラッと飛び込んだ。
「これは春画……艶本だな」
「春画? 艶本?」
「うむ……人間たちが種族を増やすために行うことを絵にしてまとめた本だ。どこでこれを?」
「魔法の森の花畑に落ちてたの。これ、もこたんにも言ったよね」
「ほう。全然話してくれなかった妹紅には、後でしっかりとお話しをしないとな」
どうやらけーねセンセはほとんど情報を貰えずにアタシたちに引き合わされたようだった。
けーねセンセの静かに微笑みつつも迫力ある低い声と据わった瞳の奥に灯る焔が、もこたんにふつふつと怒りを燃やしているのがよくわかった。アタシたちよりも付き合いが長そうなだけに、もこたんには色々と物申したいのかもしれない。
アタシたちがそのまましばらく黙っていると、けーねセンセはおもむろに本を閉じてしまう。
あれ? もしかしてこれで終わりなのだろうか。本を読んでくれると聞いていたので期待していたのだが……
「本、読んでくれないの?」
「ん?……い、いいだろう」
ダイの一言にびくんとはねたけーねセンセは、キョロキョロと辺りを見回して朗読を始めた。
「いつかいつかと狙ってた甲斐あって、とうとう捕まえたぞ。むっくりしたいい秘所だ。さあさあ……」
「――とまあ、こういうお話だ。納得したかね」
「読んでくれてありがとうけーねセンセ。でも本の中身はやっぱりよくわかんないや」
しばらくして、けーねセンセは顔を耳まで真っ赤にさせてようやく朗読を終える。クイッと鼻眼鏡をかけ直し、顔を火照らせたままチラリとこちらを見る。
本の感想を求めたのだろうか。だが、アタシたちが使ったことのない難解な言葉が時折入っていたので三人とも話の内容はわからずじまいだった。
三人とも黙っているとけーねセンセは首を浅く縦に振り、コホンと咳払いをし本を閉じる。
「この本は人里では恥ずかしい物だからあまり他の人に見せてはいけないよ」
「は~い。もう持ってこないようにするよ」
チルノは本を受け取り大事そうに本を脇に抱える。
用事の済んだアタシたちはけーねセンセと一緒に空き地を出た。
空き地の周りから人里の出入り口までは人の往来が少なく、建物がいっぱいある割に小走りに去っていく人が数人ほど。結局まともに人間を見れたのはけーねセンセただ一人だけだった。人里とはこんなに寂しいところなのだろうか? 人里に入る前の期待とは大きく違い拍子抜けした。
センセの後ろに続いて歩いていると、人里の出入り口付近にボロい建物が一軒立っている。その物置のような建物の影で白い影がぴょこっと見えた。
「あ、もこたん! なんでそんなところで隠れてるの?」
チルノがそう言うやいなやけーねセンセがズイっと前に出てドスの利いた声を張り上げる。
「やあ妹紅。わたしに何か言うことはないか」
「あららセンセ……えらい怒ってるみたいやね……ほなさいならっ!」
けーねセンセの凄みを利かせた口調に恐れをなしたか、もこたんは踵を返し脱兎のごとく逃げだした。商売で売りきったのであろう、大きな荷物がないもこたんは、非常に身軽な足取りであっという間にアタシたちから距離を離す。まるでさっきのトカゲのようだ。
「あ! またんか! 三人とも妹紅を捕まえてくれ!」
「わかったのだ!」
本を読んでくれたけーねセンセの頼みとなれば、拒むわけには行かない。とはいえけーねセンセの制止を振り切り全力で走り去るもこたんに、今更アタシたちが追いつける見込みはほとんどなかった。
今こそ、アタシの能力を使うときだ。
アタシは目をつぶり、静かに真横へ手を伸ばす。
太陽の光で作られる草の影、木の影、人の影――そこかしこに散らばっている黒い影たちを、アタシは目で見なくても心の中で感じ取ることができるのだ。
統率のとれていない個々の影たちを、自身の胸元へ吸い寄せるよう厳粛に命じていく。光に形作られて物体の足元にまとわりつく影たちは、アタシの号令とともに颯爽と宙を舞っていった。細かい影が跳ねまわってぶつかり合うと、ぴちょんと黒い液体のように結合して徐々に大きく混ざりあい、漆黒の塊となって眼前に凝縮されていく。
アタシの周りの影という影が失われると、胸元に墨染の練られた球場の闇が渦を巻いて気炎をふつふつとあげていた。アタシは頃合と判断し、闇の球に右手を差し込む。手のひらに微細な感触――まるで小さな羽虫が群れをなして蠢いているような肌触りで右手にまとわりつく。久しく使用していなかったが、影を操る能力は未だ衰えていない。手のひらをひるがえせば、影たちは指揮者のアタシに従うように黒いハーモニーを奏でていた。
操闇の能力を再確認し、遥か彼方の白髪に狙いを定めて闇球の中で指をパチンと勢いよく弾く――音と同時に闇の球はざわっと霧散し、人里を脱出したもこたんに向かってものすごい疾さで追いかける。
丘を下るもこたんに、無情にも霧状の影たちが襲いかかっていった。まもなくして彼女の悲鳴が原っぱを踊ることになる。
「ぬわーーーっ!」
アタシたちがもこたんに追いつくと、暗闇の球に顔をすっぽり包まれた状態で倒れていた。闇をもこたんの顔に集中させてくっつけ、視界を奪って止まらせたのだ。しかし周りが見えなくなった時に地面のくぼみに足を取られてずっこけたのは誤算だった。
ズボンの膝小僧が破れていたが、特に怪我はないようなので安心した。
「捕まえたのだ!」
もこたんを三人で取り押さえる。どうやらけーねセンセから見ても、もこたんは悪いお姉さんらしい。確かにお世辞にも良いお姉さんとは思えないので、ここはやはりけーねセンセの味方をするのは当然の流れだった。
「こら、離せっ――逃がしてくれたら後で団子をもっとあげるで」
衝撃のセリフを、悪いお姉さんは口走った。
アタシたちは揃ってぴたっと動きを止め、どうするか目配せする。チルノは焦りの色を、ダイは驚きの色をそれぞれの眼に宿してこちらを見た。いや、そんな目を向けられてもアタシの心は決まっている。確認するまでもなかろうになぜこちらを見るのだ。
アタシはもこたんに言い放つ。
「そうまで懇願されたら協力するしかないのだ」 アタシはもこたんの頭にすっぽり被さっていた暗闇の球を、けーねセンセにポイっと投げつける。本を読んでくれた恩人の頭にスポッと収まった暗闇は、無情にも視界を奪って歩みを止めさせた。
「うわっなんだこれは! 前が見えない!」
「少ししたら見えるようになるのだ。それまで我慢なのだ……さらばけーねセンセ!」
「ワハハハ! センセ、またな~!」
「なんだとーっ!」
けーねセンセはアタシたちのはるか後ろで驚愕に満ちた大声を張り上げていた。その怒号も、アタシたちを引き連れたもこたんの高笑いにかき消されていく――
けーねセンセ、本当にすまない。