テーブルに音もなく、こいしがカップを置く。ミルク入りのコーヒーはあらかたなくなっている。それだけの時間、彼女はだんまりをきめ込んでいたのだ。
「風がつよいね」
ええそうでしょうとも。でもね。
「こいし。私が訊いたのは、あなたがワインの赤と白、どっちが好きかということで」
「ふふふー」
困ったように耳のうしろを掻いている。ワインにつられて燐が、私の膝の上で酒の味を思い浮かべている。火酒というのか、喉が焼けるようなのを彼女は好む。猫の姿では一滴も飲めないけれど。
たしかに風は強い。さっきから窓枠はガタガタ鳴りっぱなしだ。
「風がみえるよ。渦を巻いてる」
声が離れたので我にかえると、こいしはいつの間にか窓に手をおいて立っている。
向こう側に映りこむ、もう一人の妹。まるで飾り窓の中に陳列されためずらしい商品を覗き込んでいる風体だ。
覗かれているのはこちら側なのかもしれないと私は思う。皆さんごらんあれ、このたび入荷したのは世にも珍しい、覚りの妖怪の姉妹でございます。しかも妹は覚りの目を閉じているときたもんだ。これはレアだ、珍品だよ、さあ買った買った……。
「お姉ちゃん、髪切ろうよ!」
だしぬけに駆け寄ってきた。硝子の方を見ていた私は、こいしが走り去ったように錯覚する。驚いた燐が音もなく絨毯に飛び降りる。
「ほらー。こんなに伸びてるし。目にかかるし邪魔でしょ? みっともないってば」
私にぴたり寄り添って、こいしは遠慮なく髪に指を入れてくる。指の腹がなめらかにのたうって、地肌を撫でこする。
「嫌よ。こんな時間に、床に散った髪を、しかも自分の髪を掃除するなんてまっぴら御免だわ」
「だから!」
と、外を指差す。こいしの瞳の奥には怯えたような私がいる。
「これだけ風が吹いていればさ、切った先から風に散ってどこかへ飛んでいくわ。これってなかなかの発見だと思うのよ、お姉ちゃん」
そして返事もきかずに部屋を出ていく。テーブルの上に、黒い帽子だけが残されている。私は燐と顔を見合わせた。あら人の姿になったのね。
「さとり様、あたいが」
「いいのよ、行ってみるわ」
申し訳なさそうにしながら、やれやれ助かったとあからさまに喜んでいる。気まぐれな妹のことだから、今頃は館を離れた遠くをうろついていることだって考えられる。探すのを面倒と思うのは無理もない。
けれど私は予感をかかえて、あてもなく廊下を歩いていく。
「ねえこいし」
「んー?」
「太陽と月なら、どっちが好きかしら?」
「ここにはどっちもないじゃない」
「それじゃあ、春と夏と秋と冬じゃ、どれが好き?」
「ここには暑い日と寒い日しかないじゃない」
「そのどっちが好き?」
……案の定答えない。
何もない、何もさえぎるもののない丘陵に椅子がぽつんと置かれ、そこに私が座っている。首もとには古いシーツが巻きつけられている。こいしは椅子の背もたれによりかかるようにして、口笛を吹いている。その手の中に、手品のように剃刀があらわれる。
首筋に冷たい感触。肉厚の刃があてられているのを、私は他人事のように見おろしていた。
「ふふふふ」
そしてぷつりと一束、髪が切り落とされる。
館をくまなく探して、中庭でペットの相手をしていると、地霊殿を囲む丘の上に立つこいしの姿を見つけた。
薄くらがりの地平で、風にスカートをひるがえして、彼方を見つめていた。
今、私の目の前には彼女の見ていた荒野がある。旧都に背をむけたこちら側は、地獄跡に通じる風穴がところどころに開いて、遠い火の残照が漏れ出ているばかりだ。空気が赤みを帯びているのは地上の夜明けにも似ているが、日が昇るわけではないから一日中このままだ。
さく。
私の一部が切り離されていくのがわかる。指に絡まる程度の髪を何度も櫛で梳いて、こいしの手つきはずいぶんと慎重だった。
さくり。
風は斜めから吹きつけてくる。弱腰な私の髪は、切られたそばから風にさらわれ、シーツの肩につもることはない。
「こいしの言っていたとおりね」
すみれ色の土ぼこりが打ち寄せ、私がシーツをめくれないよう押さえている手の間や、足の隙間をくぐって後ろへ流れていく。きっと館へ戻るころには、髪の間にも砂が入り込んでパサパサになっていることだろう。
「帰ったら、お風呂をつかいましょう。それから、燐のつくったスープがあるから、あの子のことだからきっと辛口だけど、こいし、パンもあるし、あなたも食べるでしょう。そろそろ空も帰ってくるだろうし……。今夜はもう出かけないわよね」
地上ならば今は夜中、日付けが変わる頃合だ。
こいしはずっと口笛を吹いている。地上で覚えてきた歌だろうか?
いつもは風で遊んでいる鴉たちも、心が伝わる範囲にはいないようだった。首を傾けて見回そうとすると、ぐいと後ろから髪を引っ張られる。動くなといわんばかりに。
「胡桃の入った固いパンだけど、こいしあなた、好きだったわよね? 胡桃」
「今大事なところなの。集中してるからさ。だまってて」
こころがけていることがある。私は、こいしの口から好悪だとか、快不快だとか、単純な返事を聞きたいのだ。気持ちを引き出したいのだ。だからなるべく、つまみ食いみたいに選べそうな問いを探して、投げかける。
「ねえ、こいし」
もう口笛はきこえない。髪をたぐる指先、後頭部にかかる柔らかい引力。
びょうびょうと途切れない風の音。
それだけだ。
地底は岩と岩にはさまれた、ただの隙間にすぎないのだと、どこで知識を得たのか空が得意げにまくしたてていた。ほんの少し前のことだ。
ならばここはどうしていつも広大なのだろう。獲物を丸呑みしておいて、消化するのを忘れて滅んだ怪物の胃袋のように。私たちの後ろにぼんやりたなびいているだろう影を、思い浮かべる。地表をかける風とおなじ、それは紫色をしていることだろう。
「地上の話をしましょうよ。このところも出かけていたんでしょう。どうだった?」
私の耳のくぼみを、こいしの指がなぞって耳たぶをつまむ。あるいは返事のつもりなのかもしれない。
「山はいちめん青々としていたかしら。そろそろ茶摘みがはじまるころかしらね。神社から見える谷あいの上を飛ぶと、新芽を摘む人間たちの歌がきこえるって、前に巫女が話していたわ」
地上との行き来がはじまっても、私は数えるほども足を運んでいない。茶摘みの歌など忘れてしまった。芽吹いた茶畑はどんな光に輝くのだろう。
「ふっ」
そんな私を嘲ったのか、笑ったような、ため息のような声がする。ごうと風が雪崩れて、その弱い気配を、たちまち押し流す。
私は、今までも私はそうやって、こいしの零すわずかなしるしを、呼び止めるか細い声を、気づかないままうち棄ててきたのだろうか。心がみえないからといって、唇や目や、胸の鼓動があからさまにもとめてくるサインを、押しのけていたのだろうか。
心のみえない者なら、当たり前にやっているだろうことを、私は。
「あー、もう。お姉ちゃんってばどうしてこんなに癖っ毛なのよ。まるで一本ずつ切っていくみたいだわ。いつになってもおわんない」
ほとんど叫ぶようにこいしは喋っている。風鳴りは耳障りなほど甲高くなっている。天も地も私たちも、そろってヤスリにかけられているみたいだ。
「いいわよこいし。どうせ前髪は自分で切れるし。その辺でやめても」
「え?」
私の声はこいしに届く前にすり潰されてしまったらしい。文句を言うわりに迷いなく、こいしの剃刀はさくさくと縦に動いて毛先をととのえていく。
「ツツジがね、いっぱい咲いてたよ」
耳のすぐ後ろでこいしの声がした。独り言のようでもあった。暖かい空気がひととき、産毛の間にわだかまった。
ツツジ。ツツジ。
情けないことにすぐには思い出せない。地上で暮らしたころの記憶は、ひどく細切れになって、やせ衰えたものばかりだ。
「ツツジが好きなの? 好きだったの?」
葬列なのか、祭事なのか、白く細長い旗をかかげた人間を先頭にした行列は、相当に古い記憶のはずだ。稲刈りの終わった田んぼの畦道を、一様にうなだれて進んでいく。
隙間のあいた木枠の荷馬車にのせられて、黒い牛が運ばれていく。枠から覗く、まん丸の目。
川にかかる橋から見おろす、こげ茶色の濁流。雨にうたれて立っている妹。
「うーん。どうだろね。蜜を舐めると甘いこともあるけど。あ、魔理沙が言ったんだ。毒の場合もあるから、気をつけろって」
「魔理沙と会ってると、楽しい?」
「うーん、どうだろ」
「地上は楽しい?」
「はは、どうかなー」
「ここにいるより楽しい?」
緑したたる巨木の根の影で、若い男女が睦みあっている。男の太腿には大きな痣がある。見つめる私に気づいて二人は、あわてふためいて逃げていく。残された肌襦袢のおもてを天道虫が這っている。
葉脈のような皺で全身ひび割れた老人が死の床についている。今は名もわからない、はるか昔に知り合っていたとある覚妖怪の終焉だ。彼は頑なに微笑し、私はとりかえしのつかないことを悔やんでいる。
太鼓が何度も打ち鳴らされる。闇の中ではばたくのは山雉。強く匂う硫黄。すすきの穂を振り回して走っていく子供ら。
それから、おびただしい心の断章。怒り、にくしみ、妬み、悲嘆。隙間なく埋め尽くされた自己肯定、欺瞞、憐憫、同情。あるいは色としか形容しえない気持ち、どす黒い赤、狡猾な黄色、あきらめた群青……。
「どうかなあ。ねえ。質問ばっかりだね、さっきからさ、ずっとさ、お姉ちゃん」
「こいし」
私は立ち上がる。その拍子に、吹き上げた風にシーツを持っていかれてしまう。白い布はあっという間にハンカチより小さくなり、館の屋根まで越えていく。椅子をはさんでこいしは、剃刀を持った手を高くあげて、仰け反ったように体を傾けている。
ああ、ちゃんとそこにいたんだ。私はやっと安堵する。心がみえなくたって、いないわけじゃない。
「なんでいきなり立つの? ねえ。お姉ちゃん、なんで? 危ないじゃない」
パチンと音をたてて剃刀を折り畳みながら、こいしはぼんやりと焦点の合わない目つきを向けてくる。
「あやうく耳を切り落とすところだったよ。どうして黙って立つわけ? どうして?」
背もたれを握ったこいしの指先は、力を込めるあまり白く透き通っている。私にはそれが、むき出しになった彼女の血管であり、骨であり、神経であるかのように思えた。きっと手をつないだら、私の皮膚からも飛び出した構造とひとつになって、同じ器官のように感じられるだろう。
「ごめんなさい、こいし」
思い出していた。地上での光景を見ている私の隣には、いつもこいしがいた。繋いだ手と心を介して、すべてを共有していたのだ。あらゆるものを一緒に体験していたのだ。そうやって過ごした時代が長く、とても長く続いたのだということを。
「ごめんね、こい」
猛烈に壁のような風に打ちのめされ、私はよろけて椅子の角に膝をぶつけ、脆い言葉はくだけて消えた。こいしはもう放心したような様子はなく、むしろ不思議そうに私を覗き込んでいる。
波のように密度の濃い風があたりを埋め尽くしている。風の音なのか、音そのものが流れているのかもわからないくらいに。
うっすらと、いつものこいしらしいなめらかな表情が、その口元に浮かびあがった。きこえないね、とこいしの唇はたしかに刻む。
「ええ、聞こえないわね」
その私の声も、たぶん聞こえていない。
どうやらこいしは笑っている。手や足の末端を見ていたって、そのくらいわかる。
かくいう私も体を折って笑っている。だからこいしの顔を見上げられない。
笑い声さえも風がすぐに運び去ってしまう。だから気が楽だ。
きこえない。きこえない。
私たちはおんなじだ。昔のように、おんなじなのだ。
館の地下に岩盤をくりぬいた浴場で湯につかっていても、うなり狂う風は単純な振動になっていつまでも聞こえていた。
脱衣所で鏡をみていると、遅れてあがってきたこいしが後ろに立つ。
「あちゃあ。髪、めちゃくちゃだね。ごめんねお姉ちゃん」
その閉じた目が、弁解するように漂っている。
「はやく体を拭きなさい」
「はあい」
ミントグリーンの髪をタオルに包む彼女の肩の骨が、鏡の中で愛らしく動いている。スープを飲みながら、ツツジの花の色とかたちを、教えてもらうことにしよう。
<了>
痛みと優しさをかかえたよい古明地姉妹でした
風が吹いている様子が目に見えるようでした。
堪能しました。
なんだかATG系映画のような画が浮かびました。
さとりさまって、人の心が読めるがゆえに本当の意味では
他人のことがわからないのかもしれません。
そういう機微が感じられた作品でした。