畳のにおいは、どうも苦手です。
雨の日にそれが強くなると私に教えてくれたのは、彼女でした。いわれてみればと、思います。
濡れたように光る縁側を、ひたひたと足音が近づいてきます。
「おや、文さん。いらっしゃい。すみませんね、少し出ておりまして」
暖かそうな肩掛けに、ゆったりした萌黄の袷姿の阿求さんが通ると、シャボンの香りがします。
「かまいませんよ。湯ですか」
「ええ。屋敷の湯船に穴があきまして。仕方なく湯屋まで、使いのついでに。わかりますか」
からりと障子をひいて奥の間に進み、阿求さんはまず火鉢の傍らに坐ります。火かき鋏でつまんだ炭にふうと息を吐きかけると、赤い筋がその表面に浮かび上がります。
「だって、めずらしく裸足でしたからね」
指をさすと、「いやです、見ないでください」と、小さなつま先を着物の裾に隠そうとします。小豆色の髪が濡れていたからだと、本当のことは言わずにおきます。
さあさあと、雨の音は軽いです。招かれて火鉢の前に腰を下ろし、目を閉じてみると、ここは森の中かと、思えてきます。風に触れ合う木の葉のようなのです。
阿求さんは姿勢を正して、硯に筆を浸しました。
「なんです? 今年一年を象徴する漢字一文字でも揮毫してみせようっていうんですか」
「まだ秋口じゃないですか」
「しかし、今日は冷えますからね。こういう雨には気をつけたほうがいいですよ、阿求さん。さしたる降りでないと思っていると、いつのまにかびしょぬれになっている。たちどころに肺を病んでしまいます」
蜂蜜を贅沢におごった生姜湯をすすります。使用人がそれを運んできて以来、屋敷はしんとして、聞こえるのはやはり、雨の音ばかりです。
「今日は、どうされたんで? 新聞でも配ってまわっていたんですか?」
阿求さんは紙に頬をこするくらいにうつむいています。目がよくないのかもしれません。私は、膝の上に広げていた大判の和綴じ本をばたりと閉じました。先代か先々代の阿礼乙女が記した、いわば縁起のためのネタ帳みたいなものと聞いていますが、どうにも達筆すぎて逆に読みづらいのです。
「阿求さんのは、読みやすくていいのですけどねー」
「なにか、いいましたー?」
「いいえ。阿求さんの字は、とても庶民的で親しみ深いなあ、と」
返事はありません。小さな背中は集中しているようで、文机の上を右往左往しています。桜色の足の指はぴんと伸びて、かたちよく揃っています。
もう一口生姜湯を含みます。これもあまり好きじゃありません。生姜が魔除けの力を持つと、信じられているからかもしれません。
つまり私は魔物なのです。
「雨宿りさせてもらっていたのですよ。濡れずに飛ぶことなんて造作もないですけど、あまり人里の上でおかしな風を吹かすのもどうかと思いまして」
「成る程。つまり雨がしのげればどの屋根でも構わなかったんですね」
阿求さんは子供っぽい笑みを浮かべ、自分の湯のみに口をつけました。意地悪な物言いは、相手の発言を誘うためなのです。私にはわかります。取材でいつも、やっていることですから。
私と彼女が似ているとすれば、そのあたりだけでしょうね。
「ところで、なにを書いてるんですか」
「ん……。どうもうまくいきません」
書いた先からぽんぽん放り出すから、和紙があちこちに散乱しています。次々拾って、角をそろえます。私の新聞よりはるかに上質な紙で、いい身分ですねえまったく。
「鯉ですか、これ」
「鯰ですよ」
半乾きの髪を、阿求さんはいらいらとかきあげました。
「どうも、ホンモノの鯰を見たことがあんまりないみたいで。うまい構図がね、出てきてくれないの」
アイデアを搾り出すように、こめかみを指の節で押したりしています。
図柄はどれも似ています。白い腹をさらした大鯰を、手にした瓢箪で人物が押さえ込んでいる、というもの。
「先だって、地震があったでしょう」
話し出して、しゃん、と阿求さんは小さくくしゃみをしました。
「けっこう前ですよ。神社が壊れた」
「ええ、それ。里は揺れなかったから、みな不思議がっていたのですけれど。それでこの前、家具屋の旦那がやってきまして」
「ええ」
私は立って床の間の前にたたんである布団の上から半纏をとってもどり、彼女の肩にかけてやります。すみません、と阿求さんは首をかたむけました。
「彼は倒壊した神社を目の当たりにしたらしいのですが、やはり地震は怖いと。そこで霊験あらたかな絵でも床の間に飾って、枕を高くして眠りたいと、そう仰るわけです」
「ふーん。それで阿求さんがねえ」
愛用の小筆を取り出して、私は舌先でちょっと湿してから墨をつけました。
「私なんぞがやるより、それこそ博麗にでも頼めばいいといったんですけどね。どうしてもということで」
「その神社が壊れたんじゃないですか。それに阿求さん、あの巫女に絵心なんて期待できると思います?」
「さっぱり」
さらさらと描きくわえます。縁起の挿絵も手がける阿求さんの腕前は相当ですが、カメラを手にするまでは私とて、スケッチで記録していたりしたんですよ?
あの頃は文々。かわら版だったなあ。
「なるほど」
私の肩口で、阿求さんの前髪が大きく揺れます。
「瓢箪とくれば、鬼でしょう」
人物の頭に、私は二本の角を描き加えたのでした。
頼まれて、卓上のランプに火をいれます。ゆらりと影が、私たちの背に這います。
「ええと。な……鯰と」
表紙に赤い革が張られた、座布団ほどもある大きな図鑑を、阿求さんはめくっていきます。ページに乗っかった空気ごと持ち上げるようで、なんとも重労働に見えます。
「もうこれでいいじゃないですか」
「どれどれ……。あはっ」
ページに置いた私の指の先をのぞいて、阿求さんは手の甲で笑いを押し戻しました。
「これはシャチ! シャチですから。海の生き物です。川には居ませんよ」
「シャチ……ホコ?」
「それとは別」
「いいじゃないですか。なんだか強そうだし、黒と白で格好いいし」
つまり私は少しばかり退屈していたのです。図鑑に描かれたその魚体は、あまりにくっきりとした色をしていて、非現実的です。実際にそんな生き物がいるとは、とても信じられません。
いや、鴉だって真っ黒ですけどね。
図鑑の先を読む阿求さんをほっておいて、水差しの水を少し足し、私は硯で墨を磨ります。
やがてランプを手元に引き寄せた阿求さんは筆をとり、ふたたび紙に向かいます。筆を動かす顔は傾いて、唇がとがっています。
「うーん。こんなものかしら。結局図鑑だけでは、横からの姿しかわからないのよね」
首をひねりながら筆を置いた隙に、私は踊りかかり、阿求さんの手元から紙を抜き取ります。
「ああ! 待って!」
伸ばしてくる手をひらりとかいくぐり、畳に腹ばいになって、くわえていた筆を握ります。
人物の瓢箪の下で裏返っている鯰の、柔らかそうにふくらんだ胴体を、どんどん塗りつぶしていきます。
「あー、もう。今のはそこそこ上手く描けたのに」
「画面が白すぎるんですよ。これじゃ落ち着かない。一点目をひきつける箇所が肝要なんですよ。阿求さんは、芸術というものがわかっていないのです」
大きな鰭まで描きくわえて、図鑑どおりのシャチになりました。私の記憶力も捨てたものではありません。
「だからってこれは、鯰であることに意味があるでしょうに……。あはは、はは」
四つんばいに私の傍にやってきた阿求さんは、もう笑っています。腹をおさえて畳をごろりと転がり、1回転で身を起こして、
「隙ありっ」
私の前から、紙をかっさらっていきます。
それからは。
私が人物に大鎌を持たせてみれば、阿求さんが川向かいに飛びまわる妖精を描く、という具合で。
余白をどんどん、二人で奪い合って埋めていきました。お互いの成果を見るたび、底が抜けたように笑い転げて。
阿求さんが、鯰……ならぬシャチを釣り上げている霧雨魔理沙を描きくわえたところで、紙の上は幻想郷の有名人が一同に会し、隙間がなくなってしまいました。
「ああ、もう。おかげで滅茶苦茶じゃないですか。文さんたら……」
畳に仰向けに倒れこんだ阿求さんは、荒く息をつきました。私も膝を崩して、肘をついて足を伸ばします。
先刻まで濡れた葦原のようだった畳は、私たちの体と火鉢の熱を吸って、しっとり肌に馴染みます。
「そもそもね。鯰を押さえつける構図というのは有名な禅の公案なのですよ。公案とは禅における悟りの境地を、そのものをそれとして示すもの。教えをしめすものですが説明的ではありません。ただ直感的に、どこがはじまりでどこが終わりであるかというような順序もなく、丸ごとうけとめることを求められるのです。ですから私は、地震に対しての心構えとしても、けっして非常のことと浮き足立つべきではないという主張を、暗にこの図案に込めたつもりなのです」
天井を見上げて、阿求さんは語ります。運動のおかげで髪はみだれて、汗ばんだ額にはりついています。耳たぶは紅く染まり、あごには墨がついています。めくれあがった着物の裾からのぞく白い腿が、鯰の腹のようなのです。
「空白にも意味があるのです。空と雲は」
なおも続けようとした唇が、私の指が耳に触れると、半開きのまま横たわります。不安げなまばたきが二度三度、私の顔をとらえます。かがみこんで、小作りな口元を丸ごとついばむように、唇をかさねました。阿求さんの息がこぼれて、それは湯のように熱いのです。
一方の手を伸ばすと、膝を曲げた阿求さんの足先に、楽々と届きます。
「ほら、冷たくなってる。足袋をはきましょう」
くるんだ手の中で、彼女の足の指はやわやわと動きました。
「……汗、かいちゃいました」
私の肩を支えに、阿求さんが身を起こします。
「もう一度湯屋にいきますか? 行くなら、送ってあげますよ」
「どうしようかな」
相変わらず、屋敷は静まり返っています。開け放した書斎や、廊下の奥へと、阿求さんはぼんやり視線を移しています。
雨が小降りになったから、私は申し出たのです。油菜の畑のように黄色く縁取られた雲の下を、彼女を抱きかかえて飛ぶ未来を、待ちかまえています。
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阿求さんと飛ぶのが、好きなのです。
以前より何度か、頼まれて郷のあちこちへ案内するうちに、私はその楽しみに気がつきました。人間なら誰でもいいのかは、わかりません。知り合いの人間は大概、自力で飛んでしまいますから。
お返しとばかり、いつでも稗田の屋敷に立ち寄っていいことになりました。所蔵の書物も、阿求さんが立ち会うのなら、読み放題です。
一緒に過ごして、同じものを口にして、同じことで笑って、そうして山へ帰る道すがら、不意に不安になってしまうことがあります。
果たして、私は妖怪なのでしょうか。
いつか仲間たちに、指さされ糾される日がくるのではないかなどと。今のこの地の在り様からは考えられないことなのに、まれに夢にも見ます。
また雨が降りました。
私は、頼まれていた鯰の写真をたずさえて、稗田の屋敷の屋根に降りました。秋は深まり、雨どいに巻きついた烏瓜が、真っ赤な実をつけています。垂れ込めた雲ににじむ遠い夕陽は、拭き残した口紅のようです。
「阿求さん?」
庭石から縁側へ進むと、細くあいた障子から、弱い明かりが漏れています。部屋を囲む廊下の右からも左からも、人の気配はしてきません。
「頼まれていたもの、持ってきましたよっと」
障子を引いて、私は縁側に膝をついたまま覗き込みます。部屋の真ん中には火鉢が置かれて、入り込んだ風にあおられてちろちろ炎が立ちます。文机の上には書物がひろげられ、座布団のくぼみには、まだ家主のぬくもりが残っていそうです。
くちづけは……やっぱり、はじめてだったのでしょうかね。
ぷうん、と青臭い畳のにおいが鼻につき、迂闊にも私は、そんなことを思ってしまったのです。
そのとき屋敷の何処かが小さくざわめいて、廊下の遠い端がぎしりときしみました。
開け放した障子もそのままに、縁側から私は一気に、空高く舞い上がりました。
背中に声がかかった気もしましたが、振り返りません。雨をまともに受けて、どんどん距離をかせぎます。
そうだ。そうよ。
私は、うっかり近づいてしまったんだわ。それなのにどうして、貴女はあんなに平静でいたのでしょう? おかげで私は今頃自分のしたことがわかって、泡をくって逃げだして。
逃げる? どうして。鴉天狗の私が。どうして?
置いてくるつもりだった鯰の写真も、手の中でくしゃくしゃになっています。
そう、そう。だから実物の鯰を見せにつれていってあげればいいのです。阿求さんは軽いし、抱き上げた胸元から人間の知識を話してくれるから、少しも苦にならない。こんな天気の日じゃなくって、暖かく晴れた午後にでも、気軽に誘い出して。
畳のにおいが嫌だったからだと、今はそう思うことにしておきます。
<了>
こんなに純粋なカップルの逢い引きを見せ付けられたら、色んな意味で悶々だわ。
来年の活躍も祈っております。
これも含めて
読み終わって頭の芯が痺れたようにぼーっとしてます。
すごい。
是非、推進してくださいな。
今宵はあたたかい心持で眠れそうです。
むずがゆくなるような良さがあります。
えっ!?と目を疑って脳を疑って読み返して、っていう動作を五回くらい繰り返した後に
読んでるこちらがドキドキ赤面してしまいました。
微笑ましくむずがゆくキュンキュンします。