本当に美しい娘に出会ったときが、ありますか。
傘を持った金髪の娘?
黒髪を足元まで垂らした貴族の娘?
いやいや、もっと美しい娘が幻想郷には居るのですよ。
それじゃあ今日は、私が出会ったなかで、もっとも美しい女の話を致しましょうか。
「そんなとこに突っ立っていると、あなた、死ぬわよ」
透き通る白い肌。磨き上げられたような金属のような煌きの髪。
吸い込まれるかと錯覚してしまいそうな、蒼く澄んだ瞳。
吹き荒れる雪風の中、貴女は凛として立っていましたね。
「無為に命を取るほど私は残酷じゃないの。
さ、あなたの世界にお帰りなさい。ここはもうじき、雪に埋もれる」
鈴が転がっているかのような、涼やかな響きの声に、私は一瞬で恋に堕ちました。
恋の炎が体の底で熱を発して、肌に張り付く雪をすぐさま溶かしていくかのようでした。
お名前は、あなたのお名前だけでもお聞かせくださいませんか。
そう言った私を、貴女は心底不思議そうな眼で見ていましたね。
「レティ。レティ・ホワイトロックよ。でも、もう二度と会うことはないわ。
私を探すと、命を落とすことになるわよ。ここで見たことは、忘れなさい」
まさしくあなたこそが、雪の華だ。
◇
「バカだなぁおまえは。雪女に恋をしたっていうのか、お前は」
兄は豪快な人でした。比べて私は、幼い頃から体も弱く、今日のように日射の強いと、帽子無しには外を歩けないのです。
「やめとけやめとけ。俺だって妖怪を嫁さんにしようとは思わん。ああいうのは高嶺の花と、遠くから見ているのは一番だっての」
兄はあのお方を間近で見ていないから。
他に生き物の気配が全くしない場所で一人佇む彼女の美しさは、筆舌に尽くしがたいものがあった
「それでお前は、雪女の絵しか描かないわけか」
困ったように兄は言う。
体も弱く、まともに家業である農作業も手伝えない私は、慧音先生に薦められて絵を書くようになった。
この幻想郷では娯楽も少ないためか、似顔絵や紙芝居だとかを書くことでそれなりに収入を得ることができる。
私のような人間でも、なんとか食ってはいけるのだった。
「でも、雪女は売れんぞ」
兄は顔をしかめる。
こればかりはしょうがない。
私がもっと絵を描くことに秀でていたならば、この世のものとは思えぬ美しさを伝えることができるだろうに。
「雪女は嫌われ者だ。そもそも冬を好きな人間も、妖怪も、居ないんじゃないか。
騒がしい妖精だって、冬になれば途端に顔を出さなくなっちまう。
んなとこで元気な妖怪を描いたってなぁ、そりゃなぁ?」
けれども、私の網膜には貴女が焼き付いているのです。
涼やかで寂しげな、貴女の微笑みが。
もう一度、会いたい。
雪女が来るときは家に篭り、過ぎ去るを待つ。それが賢いのだということはわかっています。
貴女が人間である私に興味を持ってくださるなんていうことが、万に一つもないということもわかっております。
けれども、私はどうしようもなく会いたいのです。
胸の奥がチリチリと燻って、煙を吹いているのです。
また冬が来るのを待たなければならないのでしょう。
そのときまで、何度も何度も何度も何度も、あのときの貴女に少しでも近づけるように絵を描き続けるでしょう。
「まぁ、好きにしろ。お前が自分の意思を通そうとすることなんて、今までなかったからな」
兄は苦笑して去っていきました。
その背を見送って、私は溜まっている依頼を横に置いて、雪の華を描き続けるのです。
◇
あくる日のことでした。地面に出たミミズが乾涸びて死んでいるぐらいに、暑い日のことでした。
「できていないじゃないの」
頼まれていた絵を期日までに仕上げることができませんでした。
理由は言わずもがな、あの人の絵を描き続けていたせいですが。
「こないだ見せたでしょう? 太陽の畑。天を貫くかのように真っ直ぐ上を向く黄色!
その力強いヒマワリを、描いておきなさいって言ったわよね?」
苛立っているのでしょう、目の前の彼女は紅い眼を細めてこちらを睨みつけてきます。
私はただ、申し訳ありません、今は手が動かないのです。
一つの題材に心うぃ奪われてしまい、それ以外を描くことはできないのですとひたすら頭を下げることしかできませんでした。
「それが、レティ・ホワイトロックということ?」
その通りですと、私は頭を下げると、彼女は嗜虐的に微笑むのでした。
「おもしろいわね、あなた。雪女は冬の精。冬は生きたものを拒む死の世界。
生ある者は息を潜めて怯えて過ごすもの。それに恋慕の情を向けるだなんて」
どうかしてるわ。だなんて、クククと笑われてしまう。
「一体あいつのどんなところに惹かれたのよ。あいつはれっきとした妖怪よ?
人間と馴れ合うことを覚えた妖怪たちと違って、たった一人で妖怪の在り方を貫いてる時代錯誤のバカ。
外の世界の人間は、もはや冬を恐れない。だからあいつは、幻想郷に来たの。
そしてここで冬の恐怖を撒き散らしているんだわ。ああなんて滑稽なのかしら」
それは滑稽、なのでしょうか。
「滑稽よ。だって、あのままじゃああの子はいつまで経っても一人ぼっち。
幻想郷の妖怪で冬を恐れているものはいない。ただ、五月蝿いのは嫌がるからあいつの居ないところへ行く。
人間は家に篭って縄を結う。やることもないから昔話を何度も何度も繰り返して聞く。
誰もあいつのことを見ないでしょう? 誰にも相手されていない妖怪が、こうやって、ねぇ?」
ふふ、とまた彼女は笑いを零す。
「ねぇ、そんなにレティのことが好き? 愛してる? 抱きたいと思う?」
抱きたい、だなんて。
私はその言葉に俯いた。まさか、そんな直接的な言葉を使われるとは思わなかったからだ。
「いいわ。もしも会いたいのなら私についてきなさい。きちんと絵を持って、ね?」
彼女と会うことができるのか。冬でない今、会うことができるのか。
ああけれども、この笑みには一体何の意図が含まれているのだろうか?
「さっさと着いてきなさい。勇気を持って。あ、松明持ってきなさい。必要だから」
◇
連れられて、私は妖怪の山の麓へと来ていた。
相当な量を歩いたけれども、はやる気持ちが足の疲れなど感じさせることはなかった。
「レティはね、冬以外はずっと寝ているの。
冬の恐怖を体現することが自分の役目だと思っているから、それ以外を知らないの。
ま、本人がそれでいいのならば、私はなんとも思わないのだけど」
傾斜も、ぬかるんだ地面も苦にせず、さっさと歩いていく。
私はといえば、荷物を持ってもらっているというのに追うだけで必死で、発言する余裕なんて一切なかった。
十分か、二十分か。
少しばかし山に分け入ったところで、彼女は足を止めた。
肩で息をしつつ見回すと、大人が屈んでようやく入れそうな洞窟がある。
「さて、着いたわよ。ここの奥に彼女は居る。どうする? 一人で行く? 中は相当暗いけれど」
躊躇いがなかったと言えば嘘になる。
一人で暗闇に飛び込むのには相当な勇気が要ったし、何よりも、この笑みの理由がわからない。
けれども、雪の華にようやく会えるのだ。
ここでどうして、第三者が介在する余地があると言うのか。
「一人で行くのね。じゃあこれ、持っていきなさい……ごゆっくり」
持ってもらっていた荷物を渡される。
意味深な言葉であるが、その時の私は深く考えぬようにした。
◇
ぴちょん、ぴちょん、と水の落ちる音がする。
入り口は狭かったけれども、中はそこから受ける印象よりもずっと広かった。
足場は濡れていて、きちんと踏みしめていなければ滑ってしまいそうだ。
荷物から取り出した松明に火を点け、ぼんやりと洞窟の輪郭を浮き立たせる。
ようやく会える、会うことができるのだ。
私の心は、年甲斐もなく少年のように沸き立っていた。
ほどなくして、奥から冷たい空気が流れてくることに気づいた。
洞窟内だけあって涼しいのかと思ったけれども、それにしては入り口はムッとした暑さが漂っていただけに、猛烈な温度の変化だった。
ごくり、と生唾を飲み込む。
もうすぐに、私は再会することができる。
そうしたら始めに何を言おうか。
あの日見た貴女が忘れられず、寝食を忘れて絵を描いてしまったことを伝えようか。
雪原に一人立っていた貴女の姿は、人間の男に狂おしいほどの情念の炎を燃え上がらせたことを伝えたい。
貴女に一目、会いたい――
◇
「良くある話よね。あんなにも美しく思えたはずなのに、日が経ってみるとそうではないって。
死がすぐそこに迫っているときに見た幻想に、現実がどれだけで優れていようと追いつくわけが、ないじゃないの」
彼がここへ戻ってくることはあるのだろうか。
「ま、雪女に心まで囚われて、精を搾り取られるのがオチ。残念よねぇ、雪女は心から愛されていると」
人間になってしまうのに。
「虚像に勝手に舞い上がって本当の姿が見えていない男なんて、そんなの、死んでしまったほうがマシよねぇ?」
ケタケタと笑って、彼女は去っていった。
絵描きの男はついに、洞窟から出てくることはなかった。
そしてまた、幾月が過ぎて、冬の季節がやって来る。
雪女が、幻想郷を闊歩する。
今年は例年よりも、大雪が降りそうだった。
今は暑いのでこういうお話はとっても良かったです!
ちなみに自分も幽アリムラ一咲マリ大好きであります!
面白かったです。
実に妖怪らしくて素敵。