霧の合間から青空が垣間見えた。そのままぼんやり空を眺めていると何となく周囲の気温が下がった気がして辺りを見回した。いつも湖をフラフラしている氷精が飛んでいた。お供の若草色の髪の妖精も傍らにいる。何やら騒いでいたが、そのままわかさぎ姫の直上にやってきた。氷精が何かを自慢しているのは雰囲気で伝わってくる。よく見かける光景だった。
――うん?
何か迫ってくる――と、気づいたときにはすでに遅く、「それ」はわかさぎ姫の額に直撃した。
「だっ」
何か確認する前にそれは湖に沈んでいった。
「いたたた……」
氷精が飛んできた。
「あー! どうしてキャッチしないんだよー」
「無茶言わないでよ…何、今の」
「石だよ。珍しい石なんだ」
「珍しいって、どんな」
「凍ってる石」
石にはちょっと詳しいと自負していたが目の前の氷精が言っている石がどんな石なのかさっぱり分からない。もしかしたら「氷の中に入っている石」という身も蓋もないようなものかもしれない。それでも何となく興味を惹かれた。
「拾ってきてあげましょうか」
「いいのか半漁人!」
「あのね、何回も言ってるけど私は人魚ね。で、どんな感じの石なのかしら」
「だから凍ってるんだって」
「……」
お供の妖精に目を向ける。
「あ、えーと大きさはこれぐらいで、透明な塊って感じです」
「わかったわ」
湖に潜る。この辺りは水生植物が少なく魚影も余りない場所だったので探すのは簡単だろうと思ったが中々見つからない。
――透明ねぇ。
色々考えられるが、可能性が高いのは水晶だろう。水晶自体は珍しいものではない。ただ、わかさぎ姫のコレクションの中には入っていなかった。湖の周りにある石は何の変哲もない石が多い。形が面白いものや、色が綺麗なものを集めていたが、宝石の類は持っていなかった。
ざっと探しても見つからなかったので一度水面に浮上した。
氷精もお供の妖精もずっと待っていたようだった。
「ちょ、ちょっと待ってね。これくらいで、無色透明なのよね」
「うん。あ、でも普通に探したら絶対見つからないと思うよ」
「何故?」
「水に入れると全く見えなくなるんだよ。で、取りだすと元通りになる。溶けない氷でできてるんだって」
「――」
どうやら水晶とは違う物質らしい。というか水に入れると全く見えなくなるという重要情報は早く伝えて欲しかったが妖精にそこまで期待するのは酷だろう。
「ううーん。今すぐには探せないみたいだから、見つけたら教えてあげるわ」
「ホントに? 約束だからね!」
「ええ」
妖精達が去った後、もう一度水底まで降りてみた。やはり見えないものを探すのは難しい。おおよその落下地点は分かっているから手探りしかないだろう。
――凍った石ねぇ。
不思議な存在もあったものだと感心したがここが幻想郷であることを思い出した。そういうこともあるのだろう。
苦笑してもう一度浮上した。
水底に波を起こして落下物から探す方法を取った結果なんとか「溶けない氷の石」を見つけ出すことができた。しかし妖精が果たして約束を覚えているかという点が問題だった。その辺を飛んでいた妖精に氷精を呼んできてくれるように頼んだが、その妖精も呼びに行く前に「何をしに行くのか」を忘れる可能性がある。こうなると行動範囲が限られている我が身が少しだけうらめしくなったりする。
岸辺の大岩の上でため息をつく。
――河童が言ってた陸用車椅子をもう一度考えてみるべきかしら。
行ける範囲が広がればこういう場合にこちらから相手に会いに行けるし、竹林の影狼にだって会いたい時にこちらから赴くことができる。だが河童が提示した金額を思い出して唸ってしまった。わかさぎ姫が所持している全財産では決して払えない。というか、ほとんど持っていないに等しい。釣り人が落としていった小銭くらいである。
――貴重な石とか、湖に落ちてたりしないかしら。
ちらりと手の中の結晶に目をやる。
不思議な石であることは間違いない。拾い上げたときには確かにそこに感触があるのに見えなかったのだ。水中から出してやっとそれが結晶であることが分かった。しかしこれを売り飛ばしてしまえるほど良心が欠如しているわけでもない。
それに、見ていてワクワクする。とても変な石だ。
石である。
でも氷でもあるらしい。
――どっちなのかしら。
「おーい」
体感温度が下がるのと声が聞こえたのは同時だった。どうやら無事に氷精に用件が伝わったらしい。今日はお供の妖精の姿は傍らに無かった。
大岩に降りた氷精に石を手渡した。
「忘れてたらどうしようかなって思ってたところ」
「忘れるもんか。ありがとう半漁人!」
「どういたしまして――ねぇ、それは、氷なの? 石なの?」
氷精は首を傾げた。
「氷の石」
「石?」
「うん、石かな――うん。う、ううう? 氷だよ! 溶けない氷!」
「溶けない氷なんて、できるの?」
「あたいもそれが知りたいんだよねー。今まで作った氷は全部溶けてたし、そりゃずっと寒いところにあれば溶けないだろうけど、暑くても溶けない氷なんて…」
氷精は手のひらの結晶を見つめて眉間に皺を寄せた。
氷と目の前の結晶の差異について考えてみる。多分成分とか違うのだろうがまず第一点は。
「氷の割に冷たくないわよね」
「そこに秘密が?」
「…なのかしら…?」
「もう、しっかりしてよ半漁人!」
「そんなこと言っても」
そもそも本当に氷なのだろうか。氷精が言うのだから氷なのだと思うのだが相手は馬鹿で有名な妖精である。冷たくなく、手触りも石っぽく、水に入れると透過する。分かっていることはそれくらいだ。水晶ではないのだろうが、そういう類の石の可能性の方が高い。
――いや、500歩譲って氷だとして。
「そういう氷が偶然できちゃった、とか? ほら、山の上の巫女がうっかり奇跡で作っちゃったとか」
「うっかりとか奇跡じゃ困る! あたいはこれを作ってみたいんだ。溶けない氷が作れたら凄い異変が起こせる!」
「…凄い異変を起こしてどうするの?」
「えっ?」
「え?」
素朴な疑問をぶつけてみたらまさかの反応が返ってきた。いや、当然の反応か。妖精というのは大体そんな感じの存在である。
「そりゃー、えーと、そう! あたいが最強だってみんなに分からせる!」
「巫女か魔法使いかメイドが出動してやられちゃうわよ。あなたって妖精にしては強いって評判だし、もしかして妖怪になっちゃって…下手すると一回休みどころか抹殺されることだって…」
「あたいは最強だから死なないよ! 妖怪にもならない!」
何故か自信満々である。恐らく根拠はない。
「何よりレティに自慢できる!」
今の季節は山のどこか涼しい場所で眠っているはずの彼女の顔を思い浮かべる。溶けない氷などという自然から逸脱した存在は、かの雪女が一番嫌いそうだ。
改めて氷精が持っている結晶を見つめる。
――やっぱり石という方向性で考えを進めましょう。
「ううん……氷っぽい…石…のような氷…氷が石になる、む!」
「どうした」
「ちょっと思いついたことがあって、待ってて。すぐ戻る」
わかさぎ姫は自身の石コレクションの保管場所に向かった。コレクション自体はねぐらにしている場所にもあるが、一部は保管場所を変えていた。水中にあると具合の悪い石もあるからだ。それらは岩から少し離れたところの崖の下の洞に置いていた。
――ええと、こっちが色が良い感じの緑の石。
――色が良い感じの青の石。
――色が良い感じの白の石。
――ええと、こっちは風景に見える石。
――こっちが星座に見える石。
湖畔中から集めた石やらたまに釣り人がくれる石やら影狼が持ってきてくれる石が溜まりに溜まっている。そろそろ整理するべきかもしれない。
――あった。
目的のものは化石である。確か釣り人がくれた石のだったように思う。葉っぱの化石と貝の化石を持って岩に戻る。
氷精は岩に座って足をプラプラさせて退屈そうにしていた。
「おそーい」
「閃いたことがあるのよ。これは、私の推論ね」
そして氷精の隣に座って、化石を並べた。
「これが何だか知ってるわよね」
「化石!」
「どんな風にできるか知ってる?」
氷精は首を傾げる。
「これは、大昔にこういう葉っぱを持った植物や貝があったの。地面に落ちたり、死んだりしてそこに土がだんだん覆いかぶさっていって、地面の中に埋まるの。凄く永い永い時間をかけて、元の形を保ったまま葉っぱや貝が石に変化するのよ地面の中で。この氷も同じじゃないかしら?」
「氷が石に?」
「地面の中に氷があって、埋もれている内に石になってしまったとかね。その結晶はどこで見つけたの」
「あたいが見つけたんじゃなくて――妖怪の山の妖精から決闘で勝ち取ってきたんだ。ええと、確かどっかで拾ったって言ってた気がする。うーん……でも、いくら土の中にあったとしても溶けるときは溶けるぞ」
「そこはほら……………ここって幻想郷だから!」
「そうか!」
最後の方は禁句のような気がしたが何故か氷精は納得している。
「じゃあ、大きな氷を作って、地面に埋めれば――いつか溶けない氷になる?」
「なる…かも…?」
「よーし!」
氷精は振り向きもしないでそのまま飛び去って行った。猪突猛進っぷりが微笑ましいが、何だか騙してしまったような感じもする。推論が当たっている保証が全くないのだ。完全に間違っているかもしれない。
しかし妖精のことだから途中で飽きてしまうことも十分に考えられる。
――まぁ、石だったとしても氷だったとしても、あの妖精が楽しそうでいいじゃない。
我ながら投げやりな結論だと思ったが、そう考えておくのが一番平和そうだった。
その年の夏から冬にかけてあちこちで氷精が氷の塊を地面に埋めている姿が目撃されたそうである。何をしているのかと誰か問えば「凄い氷を作っている」と答えるそうだ。
氷精は時折わかさぎ姫の元を訪れては、「石になるまで氷を保存するためにはどうすればいいか」を議論していった。山の洞窟などに置いておいた氷は溶けにくくはなるらしい。涼しいからだろう。他にも湖底に氷塊を埋めてくれと頼まれたこともある。
氷精と話をするたび、自分の考えが間違っているような気分に襲われていたのだが彼女が思った以上に楽しそうだったので何も言えなかった。
その日、妖怪の山に初雪が降った。
まだ秋の気配が残る湖に珍客が訪れた。氷精の首根っこを掴んで、機嫌悪そうな空気を醸し出し、ついでに寒気まで連れてきた――レティ・ホワイトロックである。吹雪や大寒波時くらいしか姿を見かけたことが無かったので、初冬に会うのは初めてである。
氷精と雪女の寒気の相乗効果からか、湖の霧が彼女たちの周辺で凍り付いてキラキラと輝いていた。丁度湖の真ん中を泳いでいたわかさぎ姫はその場に止まって二人を見上げる。そして恐る恐る訊いた。
「あの――どうかなされました?」
「あなた、チルノを唆したでしょ」
「唆す!?」
「氷塊を土に埋めると溶けない氷になるとか、いくら何でもそれはないわ」
「え、えと、それは、その」
「チルノが馬鹿なのは今に始まった話じゃないけど、そんな氷あるわけないでしょ?」
「いや、その、そうですよね」
「えっ嘘ついたのか半漁人!」
「あんたは黙ってらっしゃい」
氷精は首根っこを掴まれたままである。
「山で見かけたから何をしてるのか聞いたら、氷を地面に埋めておくと化石になるんだとか言うし…。しかも黒幕はあなただって話だし…いくらコレが阿呆でもそんな頓痴気なこと吹き込まないで欲しいわ」
「それは、ええと、違います! そういう石があったんです! 溶けない氷の石です。どうやって作るのかなって考えて、分からなかったから一応化石の話をしただけで」
「氷の石?」
「そう、氷の石――今持ってる?」
氷精に目をやると懐からあの結晶を取り出した。
「これがあるって言ったのに話を聞いてくれなかったじゃんレティ」
やっとここで雪女は氷精から手を離して結晶を受け取った。
「氷晶石じゃない。ここまで完全な結晶はグリーンランドでしか採れないんじゃなかったかしら。どうやって幻想郷に流れてきたのかな」
「ひょーしょー…ぐりーん…なに?」
「そういう石よ。氷ではないわ」
氷精は実に悲しげな表情になった。
「石なのか、それ。氷じゃないのか?」
「うん、氷ではないわ。氷が化石化したものでもない。最初からこういう石なのよ」
自分の予想は当たっていたわけである。そのことに何となく安堵した。そしてこんな石がある外界のことが気になった。「ぐりーんらんど」ということは、日本以外のどこか他の国だ。
――そうか、外国にも色々な石があるんだわ。
普段の暮らしでは幻想郷の外を考えることもない。ましてや外国産の石など想像したこともなかった。
「そのぐりーんらんどというところはどこにあるのですか?」
「うん? そうねー、この幻想郷がある日本国よりずっとずっと北の方ね。一日中日が沈まなかったり、逆に一日中日が沈んでたりする季節があるのよ。それにすっごく分厚い氷に島の大部分が覆われていたりするし、夏は涼しく冬は極寒っていう過ごし易いところね」
過ごし易さの欠片もなさそうなのだが、それは雪女の感覚なのだろう。
ふと氷精に目をやれば、結晶を見つめながらがっくり肩を落としている。流石に可哀想になり声を掛けようとすると、雪女がおもむろに片手をあげて氷精の額にデコピンをした。
「何だよ!」
「前から散々言ってるけど、あんたはどうして積極的に自然の摂理からはずれようとするのよ。そんなことばっかりやってると、力を持ちすぎて妖精でない別の何かになって死ぬわよ」
「うっ、前にも誰かに似たようなことを言われたような…」
「大体溶けない氷だなんて何に使うのよ」
「凄い異変を起こす!」
雪女は頭を抱えた。
「凄い異変を起こしたところで、あんた程度じゃ……」
しかしその視線が手の中の結晶で止まる。
「……自然の範囲ならいいんじゃないしら」
「なにが?」
「氷河を造るのよ」
「氷河を……って、幻想郷じゃいくらなんでも…」
「いやいや、条件的にはちょっと厳しいのは確かだけど――」
雪女は妖怪の山を指差した。
「そう、あの、あの辺の谷間とか陰具合がちょうどいいかもね。まず積もった雪を永久凍土になるようになんとかして……うん、できないことはないわ。人間どころか妖怪たちの度肝を抜けること間違いなしよ」
さっきまでのしょんぼり具合は何処へやら、氷精は目を輝かせている。
「造ってくる!」
また振り返りもせず飛び去ってしまった。雪女はやれやれといった体で首を振る。
「そのうち飽きるでしょうけどね」
「でも溶けない氷作りは今季の夏から今まで続きましたよ」
「あら珍しい」
そして、手に持ったままの結晶に目をやる。それをそのままわかさぎ姫に向かって放った。湖に落ちる寸前で受け止める。
「あなたにあげるわ。確か石を集めてるんでしょ?」
「え、でもこれは」
「あいつは気にしなくていいわ。興味がなくなったらすぐ忘れるでしょうし――うん? よく考えたら妖怪の山に氷河造って大丈夫かしらね。山の三柱に何か言われないかしら、ちょっと見てくるわ。じゃあね」
三柱どころか山に住む妖怪全てに何がしかの文句を言われそうである。
雪女が去ると辺りの気温が少し上がった。
――外国の石。
遠くの何処か極寒の地に思いを馳せる。なんだかウキウキしてきた。
――世の中にはまだまだ知らない石がいっぱいあるのね。
そのことが妙に嬉しかった。
――うん?
何か迫ってくる――と、気づいたときにはすでに遅く、「それ」はわかさぎ姫の額に直撃した。
「だっ」
何か確認する前にそれは湖に沈んでいった。
「いたたた……」
氷精が飛んできた。
「あー! どうしてキャッチしないんだよー」
「無茶言わないでよ…何、今の」
「石だよ。珍しい石なんだ」
「珍しいって、どんな」
「凍ってる石」
石にはちょっと詳しいと自負していたが目の前の氷精が言っている石がどんな石なのかさっぱり分からない。もしかしたら「氷の中に入っている石」という身も蓋もないようなものかもしれない。それでも何となく興味を惹かれた。
「拾ってきてあげましょうか」
「いいのか半漁人!」
「あのね、何回も言ってるけど私は人魚ね。で、どんな感じの石なのかしら」
「だから凍ってるんだって」
「……」
お供の妖精に目を向ける。
「あ、えーと大きさはこれぐらいで、透明な塊って感じです」
「わかったわ」
湖に潜る。この辺りは水生植物が少なく魚影も余りない場所だったので探すのは簡単だろうと思ったが中々見つからない。
――透明ねぇ。
色々考えられるが、可能性が高いのは水晶だろう。水晶自体は珍しいものではない。ただ、わかさぎ姫のコレクションの中には入っていなかった。湖の周りにある石は何の変哲もない石が多い。形が面白いものや、色が綺麗なものを集めていたが、宝石の類は持っていなかった。
ざっと探しても見つからなかったので一度水面に浮上した。
氷精もお供の妖精もずっと待っていたようだった。
「ちょ、ちょっと待ってね。これくらいで、無色透明なのよね」
「うん。あ、でも普通に探したら絶対見つからないと思うよ」
「何故?」
「水に入れると全く見えなくなるんだよ。で、取りだすと元通りになる。溶けない氷でできてるんだって」
「――」
どうやら水晶とは違う物質らしい。というか水に入れると全く見えなくなるという重要情報は早く伝えて欲しかったが妖精にそこまで期待するのは酷だろう。
「ううーん。今すぐには探せないみたいだから、見つけたら教えてあげるわ」
「ホントに? 約束だからね!」
「ええ」
妖精達が去った後、もう一度水底まで降りてみた。やはり見えないものを探すのは難しい。おおよその落下地点は分かっているから手探りしかないだろう。
――凍った石ねぇ。
不思議な存在もあったものだと感心したがここが幻想郷であることを思い出した。そういうこともあるのだろう。
苦笑してもう一度浮上した。
水底に波を起こして落下物から探す方法を取った結果なんとか「溶けない氷の石」を見つけ出すことができた。しかし妖精が果たして約束を覚えているかという点が問題だった。その辺を飛んでいた妖精に氷精を呼んできてくれるように頼んだが、その妖精も呼びに行く前に「何をしに行くのか」を忘れる可能性がある。こうなると行動範囲が限られている我が身が少しだけうらめしくなったりする。
岸辺の大岩の上でため息をつく。
――河童が言ってた陸用車椅子をもう一度考えてみるべきかしら。
行ける範囲が広がればこういう場合にこちらから相手に会いに行けるし、竹林の影狼にだって会いたい時にこちらから赴くことができる。だが河童が提示した金額を思い出して唸ってしまった。わかさぎ姫が所持している全財産では決して払えない。というか、ほとんど持っていないに等しい。釣り人が落としていった小銭くらいである。
――貴重な石とか、湖に落ちてたりしないかしら。
ちらりと手の中の結晶に目をやる。
不思議な石であることは間違いない。拾い上げたときには確かにそこに感触があるのに見えなかったのだ。水中から出してやっとそれが結晶であることが分かった。しかしこれを売り飛ばしてしまえるほど良心が欠如しているわけでもない。
それに、見ていてワクワクする。とても変な石だ。
石である。
でも氷でもあるらしい。
――どっちなのかしら。
「おーい」
体感温度が下がるのと声が聞こえたのは同時だった。どうやら無事に氷精に用件が伝わったらしい。今日はお供の妖精の姿は傍らに無かった。
大岩に降りた氷精に石を手渡した。
「忘れてたらどうしようかなって思ってたところ」
「忘れるもんか。ありがとう半漁人!」
「どういたしまして――ねぇ、それは、氷なの? 石なの?」
氷精は首を傾げた。
「氷の石」
「石?」
「うん、石かな――うん。う、ううう? 氷だよ! 溶けない氷!」
「溶けない氷なんて、できるの?」
「あたいもそれが知りたいんだよねー。今まで作った氷は全部溶けてたし、そりゃずっと寒いところにあれば溶けないだろうけど、暑くても溶けない氷なんて…」
氷精は手のひらの結晶を見つめて眉間に皺を寄せた。
氷と目の前の結晶の差異について考えてみる。多分成分とか違うのだろうがまず第一点は。
「氷の割に冷たくないわよね」
「そこに秘密が?」
「…なのかしら…?」
「もう、しっかりしてよ半漁人!」
「そんなこと言っても」
そもそも本当に氷なのだろうか。氷精が言うのだから氷なのだと思うのだが相手は馬鹿で有名な妖精である。冷たくなく、手触りも石っぽく、水に入れると透過する。分かっていることはそれくらいだ。水晶ではないのだろうが、そういう類の石の可能性の方が高い。
――いや、500歩譲って氷だとして。
「そういう氷が偶然できちゃった、とか? ほら、山の上の巫女がうっかり奇跡で作っちゃったとか」
「うっかりとか奇跡じゃ困る! あたいはこれを作ってみたいんだ。溶けない氷が作れたら凄い異変が起こせる!」
「…凄い異変を起こしてどうするの?」
「えっ?」
「え?」
素朴な疑問をぶつけてみたらまさかの反応が返ってきた。いや、当然の反応か。妖精というのは大体そんな感じの存在である。
「そりゃー、えーと、そう! あたいが最強だってみんなに分からせる!」
「巫女か魔法使いかメイドが出動してやられちゃうわよ。あなたって妖精にしては強いって評判だし、もしかして妖怪になっちゃって…下手すると一回休みどころか抹殺されることだって…」
「あたいは最強だから死なないよ! 妖怪にもならない!」
何故か自信満々である。恐らく根拠はない。
「何よりレティに自慢できる!」
今の季節は山のどこか涼しい場所で眠っているはずの彼女の顔を思い浮かべる。溶けない氷などという自然から逸脱した存在は、かの雪女が一番嫌いそうだ。
改めて氷精が持っている結晶を見つめる。
――やっぱり石という方向性で考えを進めましょう。
「ううん……氷っぽい…石…のような氷…氷が石になる、む!」
「どうした」
「ちょっと思いついたことがあって、待ってて。すぐ戻る」
わかさぎ姫は自身の石コレクションの保管場所に向かった。コレクション自体はねぐらにしている場所にもあるが、一部は保管場所を変えていた。水中にあると具合の悪い石もあるからだ。それらは岩から少し離れたところの崖の下の洞に置いていた。
――ええと、こっちが色が良い感じの緑の石。
――色が良い感じの青の石。
――色が良い感じの白の石。
――ええと、こっちは風景に見える石。
――こっちが星座に見える石。
湖畔中から集めた石やらたまに釣り人がくれる石やら影狼が持ってきてくれる石が溜まりに溜まっている。そろそろ整理するべきかもしれない。
――あった。
目的のものは化石である。確か釣り人がくれた石のだったように思う。葉っぱの化石と貝の化石を持って岩に戻る。
氷精は岩に座って足をプラプラさせて退屈そうにしていた。
「おそーい」
「閃いたことがあるのよ。これは、私の推論ね」
そして氷精の隣に座って、化石を並べた。
「これが何だか知ってるわよね」
「化石!」
「どんな風にできるか知ってる?」
氷精は首を傾げる。
「これは、大昔にこういう葉っぱを持った植物や貝があったの。地面に落ちたり、死んだりしてそこに土がだんだん覆いかぶさっていって、地面の中に埋まるの。凄く永い永い時間をかけて、元の形を保ったまま葉っぱや貝が石に変化するのよ地面の中で。この氷も同じじゃないかしら?」
「氷が石に?」
「地面の中に氷があって、埋もれている内に石になってしまったとかね。その結晶はどこで見つけたの」
「あたいが見つけたんじゃなくて――妖怪の山の妖精から決闘で勝ち取ってきたんだ。ええと、確かどっかで拾ったって言ってた気がする。うーん……でも、いくら土の中にあったとしても溶けるときは溶けるぞ」
「そこはほら……………ここって幻想郷だから!」
「そうか!」
最後の方は禁句のような気がしたが何故か氷精は納得している。
「じゃあ、大きな氷を作って、地面に埋めれば――いつか溶けない氷になる?」
「なる…かも…?」
「よーし!」
氷精は振り向きもしないでそのまま飛び去って行った。猪突猛進っぷりが微笑ましいが、何だか騙してしまったような感じもする。推論が当たっている保証が全くないのだ。完全に間違っているかもしれない。
しかし妖精のことだから途中で飽きてしまうことも十分に考えられる。
――まぁ、石だったとしても氷だったとしても、あの妖精が楽しそうでいいじゃない。
我ながら投げやりな結論だと思ったが、そう考えておくのが一番平和そうだった。
その年の夏から冬にかけてあちこちで氷精が氷の塊を地面に埋めている姿が目撃されたそうである。何をしているのかと誰か問えば「凄い氷を作っている」と答えるそうだ。
氷精は時折わかさぎ姫の元を訪れては、「石になるまで氷を保存するためにはどうすればいいか」を議論していった。山の洞窟などに置いておいた氷は溶けにくくはなるらしい。涼しいからだろう。他にも湖底に氷塊を埋めてくれと頼まれたこともある。
氷精と話をするたび、自分の考えが間違っているような気分に襲われていたのだが彼女が思った以上に楽しそうだったので何も言えなかった。
その日、妖怪の山に初雪が降った。
まだ秋の気配が残る湖に珍客が訪れた。氷精の首根っこを掴んで、機嫌悪そうな空気を醸し出し、ついでに寒気まで連れてきた――レティ・ホワイトロックである。吹雪や大寒波時くらいしか姿を見かけたことが無かったので、初冬に会うのは初めてである。
氷精と雪女の寒気の相乗効果からか、湖の霧が彼女たちの周辺で凍り付いてキラキラと輝いていた。丁度湖の真ん中を泳いでいたわかさぎ姫はその場に止まって二人を見上げる。そして恐る恐る訊いた。
「あの――どうかなされました?」
「あなた、チルノを唆したでしょ」
「唆す!?」
「氷塊を土に埋めると溶けない氷になるとか、いくら何でもそれはないわ」
「え、えと、それは、その」
「チルノが馬鹿なのは今に始まった話じゃないけど、そんな氷あるわけないでしょ?」
「いや、その、そうですよね」
「えっ嘘ついたのか半漁人!」
「あんたは黙ってらっしゃい」
氷精は首根っこを掴まれたままである。
「山で見かけたから何をしてるのか聞いたら、氷を地面に埋めておくと化石になるんだとか言うし…。しかも黒幕はあなただって話だし…いくらコレが阿呆でもそんな頓痴気なこと吹き込まないで欲しいわ」
「それは、ええと、違います! そういう石があったんです! 溶けない氷の石です。どうやって作るのかなって考えて、分からなかったから一応化石の話をしただけで」
「氷の石?」
「そう、氷の石――今持ってる?」
氷精に目をやると懐からあの結晶を取り出した。
「これがあるって言ったのに話を聞いてくれなかったじゃんレティ」
やっとここで雪女は氷精から手を離して結晶を受け取った。
「氷晶石じゃない。ここまで完全な結晶はグリーンランドでしか採れないんじゃなかったかしら。どうやって幻想郷に流れてきたのかな」
「ひょーしょー…ぐりーん…なに?」
「そういう石よ。氷ではないわ」
氷精は実に悲しげな表情になった。
「石なのか、それ。氷じゃないのか?」
「うん、氷ではないわ。氷が化石化したものでもない。最初からこういう石なのよ」
自分の予想は当たっていたわけである。そのことに何となく安堵した。そしてこんな石がある外界のことが気になった。「ぐりーんらんど」ということは、日本以外のどこか他の国だ。
――そうか、外国にも色々な石があるんだわ。
普段の暮らしでは幻想郷の外を考えることもない。ましてや外国産の石など想像したこともなかった。
「そのぐりーんらんどというところはどこにあるのですか?」
「うん? そうねー、この幻想郷がある日本国よりずっとずっと北の方ね。一日中日が沈まなかったり、逆に一日中日が沈んでたりする季節があるのよ。それにすっごく分厚い氷に島の大部分が覆われていたりするし、夏は涼しく冬は極寒っていう過ごし易いところね」
過ごし易さの欠片もなさそうなのだが、それは雪女の感覚なのだろう。
ふと氷精に目をやれば、結晶を見つめながらがっくり肩を落としている。流石に可哀想になり声を掛けようとすると、雪女がおもむろに片手をあげて氷精の額にデコピンをした。
「何だよ!」
「前から散々言ってるけど、あんたはどうして積極的に自然の摂理からはずれようとするのよ。そんなことばっかりやってると、力を持ちすぎて妖精でない別の何かになって死ぬわよ」
「うっ、前にも誰かに似たようなことを言われたような…」
「大体溶けない氷だなんて何に使うのよ」
「凄い異変を起こす!」
雪女は頭を抱えた。
「凄い異変を起こしたところで、あんた程度じゃ……」
しかしその視線が手の中の結晶で止まる。
「……自然の範囲ならいいんじゃないしら」
「なにが?」
「氷河を造るのよ」
「氷河を……って、幻想郷じゃいくらなんでも…」
「いやいや、条件的にはちょっと厳しいのは確かだけど――」
雪女は妖怪の山を指差した。
「そう、あの、あの辺の谷間とか陰具合がちょうどいいかもね。まず積もった雪を永久凍土になるようになんとかして……うん、できないことはないわ。人間どころか妖怪たちの度肝を抜けること間違いなしよ」
さっきまでのしょんぼり具合は何処へやら、氷精は目を輝かせている。
「造ってくる!」
また振り返りもせず飛び去ってしまった。雪女はやれやれといった体で首を振る。
「そのうち飽きるでしょうけどね」
「でも溶けない氷作りは今季の夏から今まで続きましたよ」
「あら珍しい」
そして、手に持ったままの結晶に目をやる。それをそのままわかさぎ姫に向かって放った。湖に落ちる寸前で受け止める。
「あなたにあげるわ。確か石を集めてるんでしょ?」
「え、でもこれは」
「あいつは気にしなくていいわ。興味がなくなったらすぐ忘れるでしょうし――うん? よく考えたら妖怪の山に氷河造って大丈夫かしらね。山の三柱に何か言われないかしら、ちょっと見てくるわ。じゃあね」
三柱どころか山に住む妖怪全てに何がしかの文句を言われそうである。
雪女が去ると辺りの気温が少し上がった。
――外国の石。
遠くの何処か極寒の地に思いを馳せる。なんだかウキウキしてきた。
――世の中にはまだまだ知らない石がいっぱいあるのね。
そのことが妙に嬉しかった。