自分の主人は屋敷から出ない。
代わりとばかりに、彼女は、霊烏路 空は地上に出て、太陽を見つけた。
雪が積もった平原。
足が冷たいな、とぼんやり頭の片隅で考えながら、魅入られたように見上げていた。
燦々とした陽射しを降り注ぎ、ただ一個の身として空に浮いている。
自分と同じだ、と彼女は思った。
だけど何かが違う。
お空の胸にあったのは、同類を見つけた喜びと、少しばかりの寂しさだった。
独りでいる孤独を知っていたから。
主である古明地 さとりに拾われるまで、お空はただの地獄鴉だった。
いつもお腹を空かせて、屍肉を求めて彷徨っていた。上に限りがある地底の中を浮遊し、地面を見下ろしてばかりいた。
それは淡々とした作業で、もはや生きる為の行動ですらなかった。
地底では屍肉を雪で覆ってしまうのだ。
眼を凝らしても見つからないものは、どうしようもない。
「……お腹、減ってないのかな」
太陽に意志があるかは分からない。
常識で考えれば、そんな事はないのだろう。それでもお空は深く考えずに地上を離れた。
ただ輝くだけの星の元へ向かうのだ。
黒く大きな翼を広げる。
濡羽色をよく映えるようにと太陽は照り付けた。
どれぐらい飛んだのか、辺りは暗くなる。
薄闇が辺りを覆い、ふとお空はゾッと全身を震わせた。
地上を見下ろしても何も見えない。ただ白い景色が広がり、凹凸のような雪で染まった山が窺えるだけだった。
怖くなった。
お空は怖くて、物寂しい雰囲気に目元を歪ませる。
それでも太陽は独りで輝いている。
自分が今しがた感じた静寂を感じているのだろう。
降りようかと脳裏に浮かんだ考えは、すぐに消えた。
また上へ上へと目指すのだけど。
次第に肌寒い空気が漂い始める。
そこでお空は良い案を思いついた。
「待っててね」
体から陽の光と熱を生み出す。
――これなら寒くないし、向こうも私を見つけやすい。
雪で埋もれた屍肉を探すよりも簡単だ。
嬉しそうにお空は頬を綻ばす。
子供のような無邪気な笑みをもって、迎え入れるように泰然と待ち構える太陽へと。
地上から離れれば離れる程に、空気は薄くなる。辺りの色も、夜のように暗く変わっていく。
そんな事を知らないお空は、少しばかりの息苦しさに気づかない。
ただ翼をはためかせ、飛んでいった。
しかし、次第に体が重たくなる。
背の翼を動かす事はおろか、腕を上げるのも億劫に思えた。
「なんで……?」
それよりもお空にとって衝撃的な事は、太陽がちっとも近くに感じられない事だった。
まるで逃げるように、飛んでも飛んでも、触れられる気がしなかった。
お空は泣きそうになった。
自分は寂しいと思った。だから、太陽も寂しいのだと考えた。
それは間違いだったのだろうか?
上手く形にできない想いが生まれる。
もどかしくて、苦しくて、胸を締め付ける感情をお空は知らない。
いや、表現をする言葉が見つからないだけで、今まで生きてきた記憶の中にはちゃんと刻まれていた。
自分の主の妹である古明地 こいしが眼を潰して、地霊殿に帰ってきた時。
さとりはこいしに抱きより、泣きじゃくった。
こいしも泣いた。
静かなリビングに、ただ主人たちの泣き声だけが響いていた。
その時、傍目から見ていたお空は、かける言葉が見つからなかった。
どうにかして悲しむのを止めたかった。
残念ながら、お空はソレを実行できるぐらいに頭は良くなかった。
地獄鴉で鳥頭だから――。
それでも、その時ばかりは違う気がした。
言葉にできない何かがあって、主人とこいしのようにお空も泣いた。だから何も言えなくて、泣くだけのさとりを見て、泣いていて良いんだと思った。
そんな、相変わらず要領を得ないような考えと、気持ちに捉われる。
太陽は未だに遠い。
気付くと、お空の頬に涙が伝っていた。
「あっ」
体が引っ張られるように沈んだ。
辺りの暗い空に、ズブズブと引き込まれるように。
お空は苦しそうに鼻筋を歪めた。
不思議な事に、近寄ろうとすれば距離は変わらないのに、離れていく事だけはハッキリと分かってしまった。
ゆっくりとゆっくりと。
お空は地上へと降りていく。
「なんで……」
求めるように腕を伸ばす。太陽は―――応えなかった。
飛ぼうとしても体に力が入らない。
それに、頭の中がグラリと揺れる。気持ちが悪い。視界も定まらず、少しだけ吐き気がした。
軋むような頭痛を感じながら、お空はあるべき場所へと戻っていく。
嫌だと思った。
どうしてなの? とも。
答えは分からないのだけども、不意にプツンと糸が切れるように意識が途切れる。
その間際。
お空は誰かの声を聞いた。
次にお空が眼を覚ましたのは、見慣れた部屋だった。
ベットから体を起こし、部屋を後にする。
地霊殿の廊下は底冷えするように寒々しい。それは景色による部分が大きいのだろう。
殺風景な光景を過ぎると、話声が隙間風に乗って届く。
リビングへ入室したお空は立ち止まり、眼を瞬かせた。
奇妙な少女が居たからだ。
椅子があるのにわざわざ空間を裂いて、その上に腰を下ろしている。
「あら? もう歩けるのね。意外と丈夫ねぇ」
さとりは椅子に座り、円卓を挟んで彼女と向かい合っていた。
お空の主は、胸元の第三の眼で、ギョロリとお空を見やる。
「お空。貴女は何処で何をしたの?」
問われ、お空は分からないと首を傾げた。
「何がですかー?」
答えながらさとりの傍へと歩み寄る。
とぼけている訳でもなく、その様子では本当に分かっていないのだろう。
お空の腕や足は包帯で白く覆われていた。
翼以外は、至るところに擦り傷や、カサブタが出来ている。
見かねたように隙間の少女は、八雲 紫は口を開く。
「貴女はね? 冬眠中だった私の部屋に落ちて来たのよ。隕石みたいに屋根を突き破り、畳を跳ねっ返して私の貴重な睡眠時間を壊してくれたわ」
「すみませんでした」
すぐにお空は頭を下げた。
紫は悠然と笑いながら、宜しい、と返す。
「流石の私もアレには驚いたわ。犬神家よろしく、眼を覚まして誰かが生えているんですもの。水やりは面倒だからソレ専門の妖怪の元へ送ろうかと思ったぐらいよ。向日葵は太陽の花とも言うし、相性は良いんじゃないのかしら? 愉快な目覚めだったわ」
イヌガミケ? と、さとりが訝しむ。
彼女の胸元の眼は、紫を見ていなかった。お空からも視線を外し、いつの間にか瞼を閉ざしていた。
「あら? あらあらあら。貴女が心を見ないなんて珍しいわね、世にも奇妙なナンタラね」
「貴女は今、寝ぼけてますね?」
「ええ、寝起きでハッキリしてないわ。まだ眠い。まだまだ眠いわ。春眠暁不覚。私の言ってる意味わかるかしら? 私には分からないわ」
「嗚呼、頭が痛い」
さとりは悩ましげに眉根を反らした。
意図的に紫は呆けている。器用だった。
そんな者の心を視れば、眼が回ってしまう。それに、紫の言葉を聞くだけでも、酷く煩わしく感じていた。
「本当は放っておいても良かったのよ。それでも、わざわざこの子を送りに来た理由は分かる? 送りに来てお茶をよばれた意味は分かるかしら」
「ソレは分かりますから、もう喋らないでくれますか? お空。その怪我はどうして、何処でこさえてきたモノなの?」
んー、とお空は天井を仰ぎ見た。
すると、突然弾けるような声を上げて、二人を驚かせる。
「太陽を見たんです! 地上に出たら雪が積もってまして綺麗でした」
「……お空はいつも地上に出てるじゃないの。それで?」
「はい、それで太陽を見たんです」
さとりは閉口する。
紫へと眼を向け、含みのある視線を向けた。
「貴女のペットじゃない。私は何でもできるけど、なんでも屋さんじゃないのよ」
「お空、続けて」
諦めたようにさとりは言葉を促す。
「それで寂しそうだったから、近寄ってみたんですよ。そうしたら頭がクラクラして、起きたら自分のベットで寝てました」
「なるほどねぇ。それで空から落ちてきたわけね。お疲れ様、大変だったでしょう?」
紫はクスクスと楽しげに喉を鳴らした。
馬鹿にする響きはなく、子供の話を聞いた大人のような声音だった。
対照的に、さとりはつまらなそうに口を紡ぎ、お空に細い目線を注ぐ。
「貴女が何故そうしたのかは分かったけど、それは危ない事だから二度としない事、良いわね?」
「……でも、さとり様」
お空が主の言葉に疑問を挟むのは珍しかった。
いつもであれば頷いてから、首を傾げる。
ソレはソレで問題なのだけど、お空は言葉を続けた。
「声を聞きました。近寄った私に誰かが何かを言いました」
途端、微笑んでいた紫の表情が失せた。
「何か、とは? なんて言われたのですか?」
心なしか、さとりの声も震えていた。
太陽に近寄って声を聞く。
該当する存在は一つだけだった。
「えー、ぅーなんだっけなぁ?」
お空は自分の頭を両手で挟み、左右に振るった。
あっ! と、彼女は弾けたような笑みを浮かべ、主人へと報告する。
「良い事でした。私は空で輝くから、貴女は地上でその光を放ちなさいって」
紫とさとりは合わせるように溜息をついた。
予想が当たったのだ。もしかしたら、お空が出逢った者は――。
「大物が出たわね。厄介払いされたんじゃないの?」
「……なにか、折り菓子でも持って挨拶に行った方が良いでしょうか?」
「焼け死にたいなら良いんじゃない?」
「紫さんが渡してきて貰えないでしょうか? なんでも出来るって言いましたよね?」
「出来るか否か、とやりたいやりたくないは別じゃないの。嫌よ、私は。天照大神に近寄る事さえも恐れ多いわ」
お空が思っていたよりも、二人の反応は悪い。
自分がしでかした事を理解していないからだった。
「ねぇ、お空。その、あの方は他に何か仰ってたかしら?」
「えー、他かぁ。あと、馬鹿な子も可愛いわねって。……誰の事だろ」
論じるまでもなく、お空を差しているのだけど。
ふと、紫が肩を揺らし、静かに笑い始める。声は次第に広がり、大きくなっていった。
「とんでもないわね! くっふ、うふふ。あー面白いわ。起こされた甲斐があったわ、聞けて良かったわよ。良い土産話が出来たわ」
彼女は楽しげに足を地面についた。
その背後に、大きな隙間を作る。縦に開いた口へ、体を滑り込ませた。
「もう帰られるんですか?」
「寝なおしたいのよ。それに――いいえ。今日の事は鬼に黙っていてね」
紫はお空を一瞥して、隙間の向こうへと帰っていった。
「あの」
今更になってお空は不味い事をしたのではないかと、不安に襲われた。
さとりは安心させるように、柔らかい笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。だけど、もう太陽を目指しては駄目。あの星は怖いものよ。近寄れば肌を焼き、血を枯れさせる。気をつけなさい」
「でも、寂しくはないのかな。独りでずっとは嫌なんじゃないかなぁ」
「お空」
名を呼ばれ、お空はさとりの隣へと並び、膝を床に付ける。
「優しいのね。だからお空は生きて帰ってこれたと思うの。太陽は近づく者を焼き殺してしまう。例え、お空と言えども無傷ではすまないでしょうね」
「そうなんですか?」
「ええ。あの方はお空に声をかけた。気になさってくれたのよ。おこがましい話になると思うけど、確かにあの方は寂しかったのかもしれない。心を視る瞳があっても、太陽は見るだけで瞳を焼いてしまう。あくまでも予想でしかないけど、貴女に地上で輝きなさいと言ったのよね。それは同種を見つけたからこそ、言える言葉になるわ」
「同種?」
「同じ種族。似たような者っていう事よ」
その言葉に、お空は友達である火焔猫 燐を連想した。
彼女も自分と同じで、さとりに拾われた動物だった。
それまでをどう生きてきたのかは、お空は知らないのだけど。自分と似たような道を辿ってきたのだろうと、なんとはなしに感じていた。
――お燐と居るのは楽しい。話をして、彼女の笑みを見ると嬉しい。嬉しいから笑って、笑い合うことができる。
「わかりました!」
お空はただ嬉しそうに頷いた。
地底で唯一、陽の光を放つ彼女の笑みは、さとりにとって無二の笑みだった。
それこそ、太陽のように明るい表情だ。
「良い子ね」
さとりはお空の頭を撫でる。
気持ちよさそうにお空は身を委ねていた。
それは体が人型を取っていなくても変わらない事だった。
ふと、撫で終わると、お空は立ち上がった。
「それじゃあ、さとり様。行ってきます」
何処へ? と問うよりも早く、お空は部屋を飛び出して行った。
その背中を見送り、さとりは困ったように頬を緩める。
少ししてから、廊下から慌ただしい足音が響いてきた。
「さとり様!」
「……お燐、どうかしたのですか?」
寝ぼけてグチャグチャの心を持った紫が居なくなり、さとりは第三の眼をペットへと向けた。
心を読み取り、唐突に立ち上がった。
膝の裏で椅子を跳ねながら、駆けだした。――ぺたんぺたんっ、とスリッパを鳴らしながら廊下へと出る。
「お燐!」
「あ、はい! お空の馬鹿、地上に出て太陽作るって!」
二人は慌てて地上へと向かった。
さとりの言葉は裏目に出た、というよりも考えが浅かったのかもしれない。
こうして地底の妖怪たちは異変を起こしたとして怒られ――
「でも、そういう馬鹿な所も可愛いかもしれないわね」
「さとり様!?」
――ソレを面白可笑しく新聞記者が報じるのだけど。
彼女への復讐を行うのは、また別の話。
誤字ですかね?
素敵なお話でした
お空可愛いなぁ