魔理沙が博麗神社に行ってみると、ありえないことに霊夢が紫にぴったりとくっついていた。
背中からちょっぴり顔をだして震えている。
さながら背後霊。いや背後霊夢か。
紫は座布団に座りながら優雅に茶をすすっている。
顔には勝利の笑み。
「あー。おまえなにかしただろ」
「失礼ね。したわよ」
「したのかよ!」
「ほんのちょびっとだけ恐怖の境界を操ってみただけよ。霊夢の抵抗力は強くて、正直なところ寝こみを襲わなければ厳しかったわ」
「びびってるのか」
「ええ。そりゃもう、びびりまくりよ。今の霊夢は通常の百倍程度は恐怖を感じるはず。ほらごらんなさい。この小動物のような世の中に脅えきった瞳」
魔理沙が霊夢を見てみると、確かに小動物か何かのように瞳をうるうるとさせている霊夢がいた。
いつもの強気で暢気で恐怖なんて欠片も感じさせない霊夢はどこへやら……。
ぐすぐすと泣き顔になっているではないか。今の霊夢はさながら可憐な一輪の花。
手折ればすぐに枯れてしまいそうな儚げな花である。
「これはこれは……、ちょっとだけかわいいじゃないか」
思わず声が漏れてしまう魔理沙。
「でしょ! そうでしょ! 人間の恐怖を感じた顔ってとってもかわいいでしょ! 特に霊夢の泣き顔なんて超レアよ。私に頼りきってる霊夢の泣き顔なんて……もう、とびっっっっっっっっっっっっっっっっきり、かわいすぎて食べちゃいたいくらい。あぁん。もう脳汁でちゃう。脳汁が耳からでちゃいましゅわ!」
びくっ。
霊夢が飛びのいた。
「ゆかり、こわいよう……」
「あらあらごめんあそばせ。霊夢を怖がらせるつもりなんてまったく無いのよ。ほら、いい子いい子してあげるからこっちにきなさい」
「ぐす……ぐす」
霊夢は泣き顔になりながらも独りでいるのも怖いのか、再び紫にくっついた。紫は霊夢を懐で抱っこして背中をぽんぽんとさすった。
紫の顔がとてつもなくにこやかになる。
「じゃ、邪悪だぜ……」
魔理沙は額に汗を浮かべた。
「いいじゃない。ちょっとぐらい。最近は異変もなくて正直ちょっぴり飽きていたのよ。妖怪にとって飽きるということは大変よろしくないことなの」
「霊夢で遊ぶなよ。仮にも博霊の巫女さんだろうが」
「霊夢と遊んでいるだけよ。べつにいいじゃない。いざとなったらすぐにでも元に戻せるんだし」
「あとで霊夢にぼっこぼこにされても知らんぞ」
「いいの。そんな未来のことばかり夢想しているのは人間くらいなものよ。妖怪とは今ここに生きる存在。妖怪の賢者に退却などないのよッ!」
「退けよ……」
とはいえ、魔理沙にはどうしようもないことだともいえた。
境界を操る能力は魔法とは違い、論理的創造と破壊を司るものである。再び紫に境界をいじってもらうしか元に戻す方法はない。
だとすれば――魔理沙がとるべき行動は限られていた。
「霊夢。ちょっとこっちこいよ」
魔理沙はにこやかに笑いかける。
「魔理沙怖い。黒い服怖い。葬式っぽい」
「服なんかたいしたことじゃないさ。おまえいいのか。紫は妖怪だぞ。人間じゃないんだぞ」
「ちょ、なんてこと言うのよ!」
紫が抗議の声をあげるも、もう遅い。霊夢は認識してしまった。
いま、背中に張りついている存在が妖怪であること、そして妖怪は人間を襲うという事実を――。
ぶるりん。
霊夢の体がウサギかなにかのように震えた。
本当に小動物のようだ。
「たすけてまりしゃー」
どたどたと板張りの床を走って、それからぴったりとくっつく感触。
霊夢は魔理沙に鞍替えした。
そりゃもうあっさりと――。
持っていた扇子をバキリと折ったのは紫である。
「霊夢。私は霊夢を食べたりしないわよ?」
青筋を立てながらにこやかに笑っても余計怖いだけであった。
霊夢の顔に脅えが混じり、今にも泣き出しそうになる。
「ゆかり妖怪だもん。妖怪は人間を、た、た、食べちゃう……うううううう」
工事現場のようにガクガクと霊夢の体が揺れた。
恐怖のあまり歯がカスタネットのように鳴っている。
こりゃヘタすると恐怖のあまりにショック死しかねんと思った魔理沙は、霊夢を落ち着かせるために頭を撫でた。
「大丈夫だぜ。私は人間だ。霊夢を護ってやる」
「今ほど妖怪であることを呪ったことはないわ」と紫。
がっくりと床に手をついてorzの格好。
「霊夢は永遠に借りてくぜ」
魔法の箒でひとっとび。
魔理沙は空中へと翔け出した。いつ紫があとを追ってくるかわからない。
今のうちに距離を稼いで、霊夢の心を完全に掌握する。そうしたら紫も諦めて霊夢を元に戻すだろうと考えた。
一応、魔理沙は霊夢のことを第一に考えている。
ぶっきらぼうでそっけなくてなにもかんがえてなくて、それでいて自由な霊夢が好きだった。
弱くて見目麗しい今の霊夢もかわいいとは思うものの、なにか物足りない感じもするのだ。
霊夢は当然のことながら震えている。
「どうしたんだ霊夢。妖怪はそばにはいないぞ」
「高いところ怖いんだもん」
「おまえ空飛べるだろうが」
「怖いものは怖いんだもん」
「はぁ……わかったわかった。低空飛行すればいいんだろう」
「速くて怖い」
「おーけーおーけー」
しかたがないので、人間の歩行速度とほぼ変わらない速さだ。
客観的に見れば、遊覧飛行しているように見えたかもしれない。
「あやー。空中デートですか。お熱いですね」
「ち。嫌なやつにあっちまったぜ……」
射命丸文だった。どうせ特ダネでも探して適当にぶらぶらと飛行していたのだろう。
霊夢の魔理沙の腰にまわした腕の力が、少し強くなった。
文は妖怪なので脅えているのか。
それとも――。
文は霊夢の様子が変なことに気づき、ぴたりと空中でとまった。観察するようにカメラのファインダーで覗いている。
「あやや。霊夢さん、なんだか少し様子が変ですねぇ」
文はカメラで撮ろうとした。
すると、霊夢の体がぶるりんと大きく震えた。どうやらカメラが怖いらしい。
「写真怖い。魂吸われちゃう」
「そりゃ迷信ですよ」と文は笑っている。
「やだーやだー。死んじゃう」
「おいおい暴れるなって。ここは空中だぞ。というわけだ。今のは霊夢はちょっと怖がりなんだよ」
「こわがりな霊夢さんもかわいらしいですねぇ」
「やだー撮らないでー」
「ふひひ、良いではないか良いではないか」
文はパシャリパシャリと容赦なく撮りまくる。霊夢はそのたびに体をこわばらせて、魔理沙に体を密着させて回避しようとしていた。
もちろん無理である。
霊夢の胸がふにふにと魔理沙に当たったりもするが、べつに役得などと考えてはいない。
「もういいだろう。そろそろ行くぜ」
「今日のトップ記事は決まりですねー」
「あとでどうなっても知らんぞ」
とりあえず家に到着。
箒から降りたあとも、霊夢はあいかわらず魔理沙の背中にくっついたままだ。
「おい。霊夢。地面なんだからちょっとは離れてくれないと暑苦しいぜ」
「ま、ま、まりさが見捨てるっ!」
霊夢が顔を青くする。
右手を口のあたりにもっていって、ガクガクと震えだした。
もはやどんな台詞にも恐怖を感じてしまうのではないだろうか。
魔理沙は大きな溜息をついて、しかたなくされるがままに霊夢をオプションのようにくっつけたまま移動する。
重さはほとんど感じないのが恩の字。
どうやら霊夢はくっついてはいるものの、わずかに浮くことで体重を感じさせないようにしているらしい。
これなら確かに移動的には問題がない。非力な魔理沙でも霊夢を持ち運べる。
(持ち運べるとか……)
魔理沙は脱力するのを感じた。自分の思考が少し信じられない。霊夢を小動物のように扱ってしまうのはやっぱり何かが違うのだ。しっくりこないというか。こんな弱々しい霊夢はやはり霊夢っぽさが足りない。
霊夢っぽさというのはなんだろう。
魔理沙は霊夢をくっつけたまま腕組みして考える。
「うーん。自由な感じか?」
「じゆうこわい」
「はいはい。わかったわかった。とりあえず、ほとぼりが冷めたら紫に元に戻してもらおうぜ」
「ゆかりに境界操られるの怖い」
「元に戻らんことにはしょうがないだろ。それともアリスやパチュリーになおしてもらうか? 永琳の薬でものんでみるか?」
霊夢がムンクの格好になる。
魔法も薬も人間にとっては異物。
ほんのちょっとは恐怖を感じてしまうらしい。
その恐怖が今の霊夢は数百倍に膨れ上がってしまうらしかった。
「まりさつくって」
「ん?」
「おくすりつくって?」
「ぐふっ」
霊夢のおねだりである。
指はちょこんと組まれていて、上目づかいの瞳はキラキラと輝いている。口元はキュっと結ばれていて必死さがうかがえる。
それは霊夢の恐怖にひきつった顔に比して実に倍率百倍程度のレア度。
媚びた姿など魔理沙の前では見せたことなど一度もなかった。誰かに向けたところを見たこともない。せいぜいが賽銭箱の前に立ってる参拝客の前で強制という名の脅しをちらつかせながらの笑顔くらいである。
果たして霊夢が心の底から誰かを頼りにしたことがあっただろうか。
その姿がいままさに展開されていた。
思わず悶絶してしまいそうなほどのかわいさである。魔理沙は頬が熱くなるのを感じた。
「あ、あのなぁ。わたしには無理だぞ。に、人間様にはちょっぴり限界ってもんがあるんだぜ」
「まりさ。魔女なのに」
「職業魔法使いの限界ってやつだぜ……」
それに長時間こんな無防備霊夢とともにいて、無事でいられる保障がない。主に精神が危ない。
いまでさえ儚げにぷるぷる震える霊夢をぎゅっと抱きしめたくてたまらないのだ。
「まりさ。わたしどうすればいいんだろう。こわいよう。未来がこわいよう」
「予期不安は人間の基本的能力だ。問題ない」
「まりさが難しいことを言う……。うううう」
「ああ……、そのなんだ。お茶でも飲むか? 霊夢の好きな緑茶もあるぞ」
「お茶飲む!」
好みの味に対する執着のほうが、なんとか恐怖に打ち勝ったようだ。
もちろん魔理沙の背中にくっついたままであったが、とりあえずほんのり笑顔が戻った。
ほっと一安心である。
(って、何が一安心なんだ。まるで子どもに泣かれるのを恐れる母親みたいじゃないか!)
カァと頬が火照るのを感じた。
「まりさ顔あかい……。も、もしかして不治の病で死んじゃう!」
びくびくっと体を痙攣させるかのように小刻みに震わす霊夢。
「死んじゃう!」
「いや別に死にはしないけどな……」
「だって、ね、熱がありそうだもん」
「熱が無けりゃ人間は死ぬ」
幽霊じゃないんだから、と心のなかでつっこみを入れた。
しかし霊夢の恐慌は収まらない。
「まりさがしんじゃったらどうしよう……ううっ。ひっく。うえーん」
ついに大泣きである。
「退行も始まってないかこれ……」
「しなないでまりさー」
霊夢はあらん限りの力で魔理沙の体を抱きしめてくる。
心は退行しても、力は普段どおり。
しかもセーブが効いてないから、かなり苦しい。
魔理沙は小さく呻いた。
「く、苦しいぜ」
「苦しいの!? いやー。まりさ。いやー! しんじゃいやー!」
大絶叫は魔理沙の家中に響き渡った。
落ち着いたのはたっぷり十時間経過した後だった。
もう外は真っ暗闇に包まれていて、フクロウの鳴き声が聞こえる時間になっていた。
「はぁ……ようやく落ち着いたか」
さすがに魔理沙も気疲れでげっそりしている。
ここ十時間の間に、トイレにひとりでいけない霊夢、お風呂にひとりで入れない霊夢の世話をしたり、なにをするにもくっついてまわる霊夢に尋常ではない精神的な疲れを感じていた。
一方、霊夢のほうはというと恐怖をアドレナリンか何かに変えているのか、あまり疲れた様子は見えない。もちろん疲れてはいるだろう。ずっと恐怖を感じているのなら、いますぐにでも眠りたいに違いない。けれど、恐怖がそれを許さない。
「眠れないんじゃ、霊夢もヤバイかもな……」
魔理沙は考える。
睡眠が摂れないつらさを訴えれば、紫も考えを改めて霊夢で遊ぶのをやめるだろうか。
そうなってくれればいいが、希望で事を進めるほど現実は甘くはない。基本的にわがままがそのままキャラクターになったような妖怪のこと。霊夢を愛でまくるためならなんでもするというのが紫の心境だろう。
紫のところに霊夢を行かせるには、霊夢を元に戻してくれるという確証が欲しい。
そのためには相手の気力に打ち勝つ必要がある。
このまま霊夢を恐怖に染めていてもなんらメリットが無いと思わせなければならない。魔理沙が自分の手に負えないと放り出してしまえば負け。
つまり逆に言えば、魔理沙のもとでもなんとか生きていけることの証明が必要だということになる。
「だから、霊夢。寝ろよ」
「ひ、ひとりじゃ寝れない……ま、まりさ……」
霊夢は、じっと潤んだ瞳で見つめてくる。
「わかったわかった。私が添い寝してやるから寝ろ」
多少は気恥ずかしい気持ちもあったが、いまの霊夢はさながらお子様のようなもの。
恥ずかしさよりも先に護ってあげたい気持ちが先行した。
ベッドのなかで霊夢は寒さで凍えるかのように震えていた。
魔理沙は雑な態度でベッドのなかに横たわる。背中は霊夢に向けた状態だ。さすがに向かい合っているといろいろと限界だった。
霊夢が”ぴとっ”とくっついてきた。
「まりさ! まりさ! 顔見せて! 怖いから顔見せて!」
「しかたないやつだぜ……」
ころりん。
顔を向ける。
霊夢は涙を浮かべていた。
魔理沙の胸が”ずきっ”とした。
護ってあげたいと思った。
少女のなかに隠された母性なのかもしれない。
それとも友人を思う気持ちってやつだろうか。
「こわくてねれない」
「なにがこわいんだよ」
「夜がこわい。なにかいそう」
「べつになにもいないぜ。いたとしても霊夢にとっては怖い存在じゃないはずだぜ」
魔理沙は霊夢の頭をぽんぽんと撫でた。
なんとなくこんな記憶がある。
子どものとき、天井の染みが顔に見えて怖かった。
どうして怖いのかわからない。
昼のうちはいろんな謎がおもしろくておかしくて探検したくてたまらなかったのに。
夜になると、そんな謎がガラリと表情を変えて、得体の知れないものとなって襲ってくる。
だから誰かに抱きついた。
甘い記憶ではないし、魔理沙自身は生存のために必死だった。恐怖が牙を剥いて襲ってくるのだ。
抱きついて、誰かが自分を見てくれて、はじめて安心した。
魔理沙は、その誰かがしてくれたときのように子守唄を歌い始めた。
自分でも驚きである。
こんな十数年も前の歌を覚えていたなんて……。
いまのいままで忘れていたのに……。
流れるように歌は続き、
それでようやく霊夢はうつらうつらとし始めて、やがて百倍の恐怖から解放された。
「魔理沙っ! 起きなさいよ」
「ん? ん?」
朝、魔理沙が目覚めると、いつもと変わらない様子の霊夢がいた。
ベッドからすでに起き上がっている。
どうやら元に戻ったらしい。
どういう原理かはわからないが、もしかすると紫の能力を無効化したのだろうか。
「起きたのね」
「ああ、起きたぜ。もうちょっと寝たいけどな」
ふあぁぁん。
大きくあくび。
「寝るな! どうして私が魔理沙の家で寝てるのよ。説明しなさい」
「あ? なにも覚えてないのか」
「覚えてないから聞いてるの」
「紫のせいだ」
「紫? どうして紫が出てくるのよ」
魔理沙は霊夢に説明した。
霊夢が神社をあけることはかなりの例外的事象であるし、そんなことが起こりえるのは紫の能力ぐらいしかないから、霊夢もすぐに納得したようだった。
当然のことながら霊夢の顔は怒りに染まっている。
恐怖から怒りへ。
昨日の霊夢のほうがよかったかもと思える変貌である。
とそこへ、ドアをノックする音。
開けてみるとにこやか笑顔の文がいた。
「あやー、お楽しみの最中でしたか」
「なんだ? 霊夢なら元に戻ったぞ」
「いやいや、ネタの提供者ということで、いちおう新聞を」
「げっ!」
そこには涙目になって必死に魔理沙にすがりつく霊夢の姿。
あの空中散歩のときの写真がばっちり新聞の記事になっていた。
「これはどういうことかしらね……」
ぞわん。
後ろからとてつもない怒りのオーラを感じる。
魔理沙が振り返ると、やっぱり怒りの霊夢。
「文! これ他のところに配ってないでしょうね」
「まだですよ。だから確認しにきたんですけど」
「だめ。絶対」
「そんなに強硬に反対しなくてもいいじゃないですか。魔女と巫女のほのぼのデート。今、幻想郷はネタに飢えているのです」
「ダメだってば。写真出しなさいよ。ネガも」
「えーもったいないですよう」
「さっさ。さっさ」
文はしぶしぶ写真を提出した。
そのうち一枚を見て、霊夢の顔がほんのり紅く染まる。
どれどれ、と魔理沙も覗きこみ。
同様に紅く染まる。
どうしてこんな具合になっているのかわからない。
しかし、そんな姿はおそらく二度とお目にかかれないだろう。
そこには、魔理沙の指先を口につっこんで眠る霊夢の姿があった。
とても安らかな寝顔で。
…………ぐふっ(吐血する音)
最後の部分
>魔理沙の指先に口をつっこんで
指先を口にでは?
後はこの私に任せておけ。
遠い空から見守っててね…
最後で死んだ
紫と魔理沙がこわい。
霊夢の人格を無視してあたかもただの愛玩動物のように扱う紫に妖怪の本性を見た気がする。