古い本をまた一つ取ってみた。
見開きには鬼の子やら蜘蛛の子やら人の子やらがちぐはぐな方向を見ている。
頁にいくらかの写生が並んだ大判は図鑑に違いないが、ずいぶんといい加減なものだ。
目鼻立ちまでしっかりと見分けられる絵があるかと思えば、何だか判別しにくい生き物が並んでいたりする。
このような資料は、探せばいくらでも出てくる。机の上に放り出してあるのもだいたいはその類である。
うるわしい子供の姿を大人が描いた本は、平時の私にとって興味深い対象だった。
気味が悪くなった私は、手に持ったそれを机の山の上にうちやって、書斎の中を徘徊する。
まず視界に入ってくるのは、壁に掛かった小さな額の油絵だ。
誰に貰ったのか、いつから飾ってあるのかも判然としない窮屈な絵だが、部屋の感じを損なわないので放っておいてある。
またちょっと鑑賞してみたが、心の中に一石をも投じえないこの絵画は、明日も同じようにひっそりとしているだろう。
油絵の下の陶器がしまってある棚は、しばらく開けていないので引き戸のところがうっすらと白く積もっている。
以前、うちの猫が中で暴れたことがあって、宥めようとしたら腕にえらい引っ掻き傷ができた。
真ん中についた鍵穴はその後に付けてもらったものだ。今なら開けても差し支えないが、だいいち鍵をどこかへやってしまったのでやめておく。
隣には背丈の倍はあろうかというほどの書架がある。
膝より下は重し代わりの木箱が、膝より上はすみからすみまで紙束で埋まっている。
一番上には椅子なり台なりを踏んでようやく手が届くくらいである。不便そうに見えるが、不思議とそう思ったことはない。
私には合わなくても、この部屋にはぴったり落ち着くのだ。向かい側にもくすんだ背表紙を抱え込んだのが2つ並んでいる。
部屋の入り口に立つと、書物の散らかった机越しに大窓があり、厚ぼったいカーテンに遮られなければ中庭が見える。
庭といってもペットが時折じゃれているだけで別段の趣向もなく、地底特有の草花が気楽に生えている。
窓ははめ込みなので爽やかな風などとは無縁である。
この部屋に時計はない。
もしあったならば、椅子に腰掛けてひたすら時計とにらめっこをしているところだろう。
だいぶ安っぽく見えてきた光景から目を離して、後ろ手でドアに鍵が掛かっているか確かめる。
今日、私を危機から遠ざけてくれているのは、このちっぽけな鍵一つである。
残りの本棚に向かうと、たくさんの忘れられた表紙に混ざって、占術の大きな二文字が目にとまった。誰かに読まれるためではなく、他の本に紛れるために存在しているように思われる。
心を暴く力のおかげか、占いというものに心酔したことはないが、もしいまに至って卦を立てるとしたら凶に違いない。
「お姉ちゃーん」
元凶が扉一枚隔てたところで私を呼ぶ。ひとまず聞かなかったことにした。
「お姉ちゃん?」
抑揚の変化に、びくっと背中が反応する。
「まだできないの?」
できるはずがない。今まで作ることをあえて避けてきたのだから、そう易々とできるはずがないのである。
これが苦労もなく作れてしまうならば、私は私を疑ってかからなければならない。
「開けるよー」
「やめっ」
振り向きざまに出かかった言葉は、ノブを勢いよくひねる音に遮られた。
いったいあの子はどんな力をもってドアを開こうとしたのだろうか。
騒がしい金属音が廊下を去る足音に変わるまで、私の視線はこの健気なノブから離れることがなかった。
長い息を吐いて、背表紙の列に向き直る。放っておけばまたやってくるけれども、それまでに完成しているかどうかは皆目見当がつかない。
この部屋にあるのは、私の好んで集めた図鑑と、それに紛れて入ってきた本と、わずかな家具ばかりである。
籠もる部屋を間違えたのではないかという問いが、頭の中を雲のように漂っている。
椅子に座って落ち着こうとしても、長らく考えないようにしていたものがまたむくむくと湧きあがってきて、なかなかうまくいかない。
思考が堂々巡りをはじめれば、しまいには体の方も回ってくる。このぐるぐるに私は朝からやられている。
机に押しやってしまった物たちは元のところに戻すことにした。
右から左へ物質的に動かすだけでは解決しないとわかっていても、何かをしていなければとても気が済まない。ごっそりと空いた間隔に、一冊ずつ丁寧に収めていく。
普段であれば、このひとつひとつを開いて眺めるだけで、暇などいくらでも潰せただろう。
大人が描く子供というものは、その可愛らしさの中に必ず恐れを抱いている。この恐れが私にとっては甘露であった。仕事の合間に手が伸びることもしばしばだ。
今は不気味さのみが伝わってくる。私も久しぶりに苦々しい大人の時間を過ごしているのである。
部屋に時計はないが、さっきあの子が呼びにきたということは、もうだいぶ経ったのだろう。本を片付けた私はまた机に向かい、カーテンの合間から中庭の様子を見ていた。
見ると言っても、誰もいない庭に注意を引くものはない。ゆえに思考も空白である。
ふらついた焦点がやがてガラスに映る私自身を捉えた。
「ひゃあっ!」
ひらめきを感じたのと、逆さになった生首が窓の外に現れたのは同時だった。
変に漏れた叫びの情けなさと恥ずかしさに、頬が熱くなる。
「あ、やっぱりいた」
「こら! 何をやっているの!」
突然出てきたのはもちろん妹だ。私の叱咤もどこ吹く風で、屈託なく笑いかけてくる。
「それで、できたのかしら」
「う」
この笑顔の前にはどうしても勢いがしぼんでしまう。ましてや、今日の妹は天敵である。
「……まだ、名前を付けてないわ」
「それでいいから、早くやろうよー」
良いわけがないのであるが、きっと待ちきれないのだろう。期待に満ちた眼差しがはばかることなく物語っている。
「すぐに決めるからそこで待ってなさい」
早口で言い置いてカーテンを引いた私は、朝から立てかけてあったペンを取り、ひらめきを形にするべく書く。
どんな名前がもっとも相応しいのか。
『転回――』
あの子の心が読めない以上、私の勝ちは常に遠い。
それでも、この思いつきは試してみる価値があるし、うっかり買ってしまったものとしても、勝負からむざむざと降りたくはないのだった。
紙片に必要なことを書き終えて大きく伸びをした私は、妹との久しぶりの弾幕勝負に臨むために、鍵を開けて部屋を出る。
見開きには鬼の子やら蜘蛛の子やら人の子やらがちぐはぐな方向を見ている。
頁にいくらかの写生が並んだ大判は図鑑に違いないが、ずいぶんといい加減なものだ。
目鼻立ちまでしっかりと見分けられる絵があるかと思えば、何だか判別しにくい生き物が並んでいたりする。
このような資料は、探せばいくらでも出てくる。机の上に放り出してあるのもだいたいはその類である。
うるわしい子供の姿を大人が描いた本は、平時の私にとって興味深い対象だった。
気味が悪くなった私は、手に持ったそれを机の山の上にうちやって、書斎の中を徘徊する。
まず視界に入ってくるのは、壁に掛かった小さな額の油絵だ。
誰に貰ったのか、いつから飾ってあるのかも判然としない窮屈な絵だが、部屋の感じを損なわないので放っておいてある。
またちょっと鑑賞してみたが、心の中に一石をも投じえないこの絵画は、明日も同じようにひっそりとしているだろう。
油絵の下の陶器がしまってある棚は、しばらく開けていないので引き戸のところがうっすらと白く積もっている。
以前、うちの猫が中で暴れたことがあって、宥めようとしたら腕にえらい引っ掻き傷ができた。
真ん中についた鍵穴はその後に付けてもらったものだ。今なら開けても差し支えないが、だいいち鍵をどこかへやってしまったのでやめておく。
隣には背丈の倍はあろうかというほどの書架がある。
膝より下は重し代わりの木箱が、膝より上はすみからすみまで紙束で埋まっている。
一番上には椅子なり台なりを踏んでようやく手が届くくらいである。不便そうに見えるが、不思議とそう思ったことはない。
私には合わなくても、この部屋にはぴったり落ち着くのだ。向かい側にもくすんだ背表紙を抱え込んだのが2つ並んでいる。
部屋の入り口に立つと、書物の散らかった机越しに大窓があり、厚ぼったいカーテンに遮られなければ中庭が見える。
庭といってもペットが時折じゃれているだけで別段の趣向もなく、地底特有の草花が気楽に生えている。
窓ははめ込みなので爽やかな風などとは無縁である。
この部屋に時計はない。
もしあったならば、椅子に腰掛けてひたすら時計とにらめっこをしているところだろう。
だいぶ安っぽく見えてきた光景から目を離して、後ろ手でドアに鍵が掛かっているか確かめる。
今日、私を危機から遠ざけてくれているのは、このちっぽけな鍵一つである。
残りの本棚に向かうと、たくさんの忘れられた表紙に混ざって、占術の大きな二文字が目にとまった。誰かに読まれるためではなく、他の本に紛れるために存在しているように思われる。
心を暴く力のおかげか、占いというものに心酔したことはないが、もしいまに至って卦を立てるとしたら凶に違いない。
「お姉ちゃーん」
元凶が扉一枚隔てたところで私を呼ぶ。ひとまず聞かなかったことにした。
「お姉ちゃん?」
抑揚の変化に、びくっと背中が反応する。
「まだできないの?」
できるはずがない。今まで作ることをあえて避けてきたのだから、そう易々とできるはずがないのである。
これが苦労もなく作れてしまうならば、私は私を疑ってかからなければならない。
「開けるよー」
「やめっ」
振り向きざまに出かかった言葉は、ノブを勢いよくひねる音に遮られた。
いったいあの子はどんな力をもってドアを開こうとしたのだろうか。
騒がしい金属音が廊下を去る足音に変わるまで、私の視線はこの健気なノブから離れることがなかった。
長い息を吐いて、背表紙の列に向き直る。放っておけばまたやってくるけれども、それまでに完成しているかどうかは皆目見当がつかない。
この部屋にあるのは、私の好んで集めた図鑑と、それに紛れて入ってきた本と、わずかな家具ばかりである。
籠もる部屋を間違えたのではないかという問いが、頭の中を雲のように漂っている。
椅子に座って落ち着こうとしても、長らく考えないようにしていたものがまたむくむくと湧きあがってきて、なかなかうまくいかない。
思考が堂々巡りをはじめれば、しまいには体の方も回ってくる。このぐるぐるに私は朝からやられている。
机に押しやってしまった物たちは元のところに戻すことにした。
右から左へ物質的に動かすだけでは解決しないとわかっていても、何かをしていなければとても気が済まない。ごっそりと空いた間隔に、一冊ずつ丁寧に収めていく。
普段であれば、このひとつひとつを開いて眺めるだけで、暇などいくらでも潰せただろう。
大人が描く子供というものは、その可愛らしさの中に必ず恐れを抱いている。この恐れが私にとっては甘露であった。仕事の合間に手が伸びることもしばしばだ。
今は不気味さのみが伝わってくる。私も久しぶりに苦々しい大人の時間を過ごしているのである。
部屋に時計はないが、さっきあの子が呼びにきたということは、もうだいぶ経ったのだろう。本を片付けた私はまた机に向かい、カーテンの合間から中庭の様子を見ていた。
見ると言っても、誰もいない庭に注意を引くものはない。ゆえに思考も空白である。
ふらついた焦点がやがてガラスに映る私自身を捉えた。
「ひゃあっ!」
ひらめきを感じたのと、逆さになった生首が窓の外に現れたのは同時だった。
変に漏れた叫びの情けなさと恥ずかしさに、頬が熱くなる。
「あ、やっぱりいた」
「こら! 何をやっているの!」
突然出てきたのはもちろん妹だ。私の叱咤もどこ吹く風で、屈託なく笑いかけてくる。
「それで、できたのかしら」
「う」
この笑顔の前にはどうしても勢いがしぼんでしまう。ましてや、今日の妹は天敵である。
「……まだ、名前を付けてないわ」
「それでいいから、早くやろうよー」
良いわけがないのであるが、きっと待ちきれないのだろう。期待に満ちた眼差しがはばかることなく物語っている。
「すぐに決めるからそこで待ってなさい」
早口で言い置いてカーテンを引いた私は、朝から立てかけてあったペンを取り、ひらめきを形にするべく書く。
どんな名前がもっとも相応しいのか。
『転回――』
あの子の心が読めない以上、私の勝ちは常に遠い。
それでも、この思いつきは試してみる価値があるし、うっかり買ってしまったものとしても、勝負からむざむざと降りたくはないのだった。
紙片に必要なことを書き終えて大きく伸びをした私は、妹との久しぶりの弾幕勝負に臨むために、鍵を開けて部屋を出る。
あなたの書くさとりがもっと見たいと思いました。