鈴仙・優曇華院・イナバの朝は早い。
太陽が顔を出す頃には、すでにその姿は永遠亭の炊事場にある。
永遠亭の食事係は、基本的にローテーションである。
しかし、鈴仙はとある事情から、最近の朝餉の支度には自発的に参加するようにしていた。
今日のメニューはアジの開きに、豆腐とほうれん草のとろみ煮である。
ご飯は炊きたてほくほくで、みそ汁は永遠亭スペシャルブレンド。
飢餓巫女が通りかかったら涎と咆哮を垂れ流して襲いかかってきそうな、そんな朝餉の支度が着々と進められていた。
カツオ出汁のいい香りが、炊事場の中に漂っている。
鈴仙は目を閉じて数秒間香りを楽しんだ後、てきぱきと副菜を並べられた皿の上に移していく。
ふんわり豆腐は崩れやすく、しかも永遠亭は三桁の特大所帯だ。一瞬の油断も許されない。
ふと、一枚の特徴ある皿の上に、こっそり形の良い豆腐を乗せる。
そしてきょろきょろと周囲を伺い、今度はほうれん草をサービスする。
今日の副菜はかなり上手くできたと思う。
だから、少しでも多く食べてもらいたい。
端から見ればバレバレの、しかし鈴仙にとっては秘密のつもりのそんなひととき。
昼間は基本的に、師匠について雑用をこなしつつ、偶に気まぐれで与えられる薬学の知識を必死に詰め込む。
鈴仙が目指しているのは、師匠――八意永琳のような薬師になることである。
優しくて、博識で、強い、瀟洒なメイドなんて目じゃないくらいの完璧な存在。
いつか自分もそこまで辿り着きたいと思いつつ、淹れたコーヒーを褒められてついつい頬が緩んでしまう。
夕方からは、自室で薬学の勉強である。
師匠から吸収した知識を、自分なりに噛み砕いて復習する。
夕餉の時間までは基本的に集中しているが、時折師匠が教えてくれたときのことを思い出し、気が逸れてしまうことも偶にある。
夕餉が済んだら、自由時間。
とはいっても、特にしたいこともないので、因幡軍団の皆を見回って、調子の悪い子の様子を診てあげたりしている。
危険な状態の診察は自分にはまだ無理だが、簡単な体調不良程度なら、薬を調合してあげられる程度には成長していた。
これも日々の努力の賜物である。
季節の変わり目で風邪を引いた子に座薬を一本入れてあげて、今日の診察は終了した。
その子に貰った感謝の言葉に、じんわりと胸の奥が暖かくなる。
師匠も、こんな感じなのかなあ、と。
自分の部屋に戻る途中、気付けば鼻歌が漏れていた。
消灯の時間。
永遠亭は規則正しい。
日付が変わる随分前に、灯りは全て消されてしまう。
鈴仙は個室が宛われているため、暗い部屋の中にひとりぼっち。
昼間いっぱい陽光を吸収したふかふかの羽毛布団の中、震える体を抑えつける。
自分は、逃げてしまった悪い兎。
こんなに幸せでいいのだろうか。
ここにいても、いいのだろうか。
思い出すのは、永遠亭に来た日のこと。
ボロボロになって迷い込んできた鈴仙に。
あの人は優しく手を差し伸べてくれた。
自分は悪い兎なのに。
そんなことは欠片も気にせず、あまつさえ弟子にまでしてくれた。
幻想郷に迷い込んで、知らない場所への恐怖で荒れていた自分に対し、安心させるように微笑んでくれた。
そのときの彼女の顔は、今でも鮮明に思い出せる。
震えていたはずの体は、いつの間にかポカポカに温まっていて。
知らず知らずのうち、鈴仙の片手は、秘密の場所へと伸びていた。
幸せと慕情を胸に抱き、
鈴仙・優曇華院・イナバの一日は終了する。
よい、兎で御座いました。