「……なあ、そこのお前さん。ちょっといいかい。紅い髪の」
最初、その声が自分に向けられたものだと分からなかった。けれども辺りをきょろきょろ見回しても条件に合う髪色を持つ者が自分以外に見付からなかったので、美鈴は「はい?」と返事をしながら振り返った。
何しろ市場に面している大通りなのだから、早朝とはいえ人の数は多い。肉やら魚やらすぐ近くにある港から漂ってくる潮やらの匂いが混ざり合い、ただでさえ賑やかな通りは雑多な喧騒に包まれている。美鈴はそんな中を、往来する人々を掻き分けながらこっちだよこっち、と手招きしている人物に近付いていった。
途中で肩がぶつかり合った相手にすみませんと謝ってからようやく男の元へ着くと、男は細い目をいっぱいに押し広げてまじまじとこちらを凝視してきた。年齢はそろそろ中年に差し掛かった辺りといったところで、額に深く刻まれている一本の皺が特徴的だ。こうして声をかけてきた以上知り合いの可能性が高いのだが、いかんせん美鈴の記憶にはこの人物は残されていない。
男は行商人のようで、通りに並んでいる他の商人達に比べればやや広めのむしろを広げてその中心にどかりと胡座をかいていた。小麦、干物、酒、羊毛、香辛料、果物。割と手広く商品を扱っているらしい。男の頭上に屋根代わりに張られている、おそらく動物の皮か何かで作られているであろう布はところどころ破けていて、そこから落ちてくる光が酒の入ったボトルに反射して光っていた。こちらが分かったことはそれくらいだというのに、男は美鈴の顔を見ながら感慨深そうな表情で何度も何度も頷いている。
「……ああ、やっぱりあんただ! 後姿見てもしかしたらと思ったんだが、まさか本当にそうだとはなあ……」
「……あの、すみません」
このままでは話が進みそうにないので男の言葉を遮る。
失礼な台詞だろうなと自覚しつつ「どこかでお会いしましたっけ」と訊ねてみると、男は不意を突かれたらしくしばしの間固まった。しばらくしてから何度か首を振り、「そうかぁ」と何度か呟いた。
「そりゃそうだよな。俺も変わちまったしあんただって覚えてるわけないよなあ……。ほら、何十年か前にお前さん、一ヶ月くらいうちに泊まっていったことがあったろう? 親父は山の麓で店開いてて……あんたもうちにいる間手伝ってくれたじゃないか。俺はまだ小さくて店番くらいしかしてなかったけど、品物卸したりとか山まで配達行ったりとか、あんたはよく力仕事やってくれたから」
「……ああ、あの時のお坊ちゃん!」
細い目と、年の割にやや幼く見える丸顔。風貌こそ変わってしまったけれど、うずもれていた記憶を引っ張り出してみるとそこから浮かび上がってきた、まだ両の指の数に満たないような年頃の少年の顔と目の前の男の顔とが重なった。驚きが素直に口調と表情に表れていたらしく、男が嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑う。
「お坊ちゃんはやめてくれよ、俺ももう年なんだから」
「うわあ、本当に久しぶり! どうしてこんなところに? お店はどうしてるんですか?」
「店は親父が死んだ時に畳んだよ。あんたがいなくなった後にうちよりでかい店が出来ちまったし、お袋は腰を悪くしていたから。今お袋は村で妹と住んでるけど、俺はこの通り行商人になったんだ。結構色々見て回ったんだぜ」
「ああ……そっか。親父さん、亡くなったんですね」
考えてみれば当たり前かもしれない。自分がこの男の家に世話になっていた時には、父親の方は既に結構な年齢になっていたような気がするから。いつか挨拶に行こうと考えていなかったわけではないのだが、その機会を得ないまま他界してしまったということか。自身の暢気さにやや呆れる。自分にとっての数十年と人間達にとっての数十年ではわけが違うということは常々肝に命じているはずなのに、気を抜けばすぐこれだ。
懐かしいなあと男は何度も繰り返し、嬉しそうに美鈴が店にいた頃の思い出話を始めた。さすがに子供の頃の記憶なので所々抜け落ちているようだったが、男が言葉に詰まった時は美鈴が代わりに口を開く。一度思い出してみれば、驚くほど鮮明にあの頃を回想することが出来た。
しばらく談笑してから、男が不意に真面目な顔になって美鈴を凝視した。ああ、と思う。いつだって人間がこんな顔になった時に口にする言葉は決まっているのだ。どちらかと言えばこの男はタイミングが遅い方だろうか。
男は口元に手をやり、もごもごと何かを呟くように唇を動かす。真正面にしゃがみ込んだ美鈴の顔を上目で見ながら口を開いた。
「それにしても……あんたは、本当に」
何を言わんとしているのかは分かったので、美鈴は曖昧な笑みを浮かべてみせた。自分がまだ幼い頃年上に見えた相手が、再会した際にまったく容姿が変わっていないのだからそりゃあ驚くだろうなとは思う。目が合った瞬間に悲鳴を上げられたり大声を上げられた経験も無いこともないが、もしかしたらそちらの方が正常な反応なのかもしれない。多くの人間が行き来しているこの場所でそんな反応をされたらただでは帰れなかっただろうが。
けれども男はあまり深く考える性分ではないらしく「……まあいいや」と呟いてからまた表情を明るくした。むしろの上に並んでいる品物を目線で示しながら声を上げる。
「なあ、久々の再会の記念だ。何か持って行ってくれよ」
「そんな。お金はちゃんと払いますよう」
いくら顔見知り相手とはいえ、商売道具をただで寄越すようでは商人として失格だろう。こういう気の好い所は父親に似ているんだなと笑って、美鈴はしばしの間品物を眺めながら考え込んだ。元々人の元で何かを買わずとも生きて行けるが、色々と便利なので多少の貨幣は常に持ち歩くようにしている。
酒を買うのも悪くはないが、それよりも色とりどりの果物の山の方に目が行った。この国ではあまり見掛けないような不思議な形をしたものも混じっているが、あれは輸入品なのだろうか。ここは港町なのだからそういうこともあるかもしれない。
どれにしようか、と果物の一つ一つに目を遣りながら、もうそろそろこの国を去ろうかと不意に思った。結局は地続きの場所にいるのだから、こうして顔を知っている相手と鉢合わせになるようなことも少なくない。運が良ければ三、四度ほど同じ相手と会えたこともあったけれど、出来ればこの男とはもう会うことはないようにと心から願った。
そもそも「変わっていない」というのが冗談で済まされるレベルではないということもあったけれど、それよりも人間が老いて行く様を見る方が辛い。もしまた会えるとするならば、その時にはまたこの男も今とは違う容姿をしていることだろう。記憶の中から昔の容姿を引っ張り出して、今の顔付きと重ね合わせるあの瞬間は何よりも懐かしいけれど、何よりも寂しい。
「じゃあ。……その林檎を、一山下さい」
はいよ、と元気に返事をして紙袋に林檎を詰め込む男の、皺だらけの手のひらを見ながらなんとなくやるせない気分になる。
人間はいつだって目にも止まらないような早さで自分達を追い越していってしまう。望んで人の世に紛れていながらこんなことを思うのも何だが、後ろからただ見送ることしか出来ない立場の者の気持ちは一体どこに置けば良いのだろう。
どうしようもないことだというのは分かっているけれど、せめて同じ時間を生きられたなら、こんなにも寂しい思いをすることは無かったろうに。
▽
「……あ。起きた」
眩しさに、思わず目を開ける。
毎晩閉めてから寝ているはずのカーテンが開き切っていて、そこから差し込んでくる光が自分の顔に落ちていた。眩しさの正体はこれか、と何度か目を擦ったところで、自分を覗き込んでいる人影を視界の隅に見付ける。そちらに視線を向けると、平然とした顔付きで「おはよ」と咲夜は口にした。まだ眠気の残る頭を覚ますために何度か瞬きをすると、ようやくぼやけていた視界が鮮明になる。
「……おはようございます。どうかしましたか」
「朝ご飯出来たから、起こしに。珍しいわね、朝はいつもちゃんと起きてるのに」
「え」
慌てて身体を起こすと、目の前に懐中時計を突き付けられた。カチ、カチと正確に時を刻んでいるその盤面を見れば、いつも美鈴が起床している時間を二十分ほど過ぎている。昔から朝は苦手ではないはずなのに、体内時計が狂ってしまったらしい。
「……うわあ。思いっきり寝坊ですね」
「まあ、仕事には影響無いだろうし良いんじゃない?」
「良いんですか……。ていうか咲夜さん、もしかして朝ご飯待っててくれてました?」
「まあ、ね。誰もいない向かいの席見ながら食べても面白くも何ともないし」
「わ。ごめんなさいすぐ支度します!」
布団を撥ね除けて起き上がると、「じゃあ、先戻ってるわね」と咲夜は言い残し、ドアの方へ向かっていった。寝巻きの姿の美鈴とは裏腹に、きっちりとメイド服を着込んだその背中を後ろから眺めていると、どこを取ってもまったく似通っていないはずなのに夢に出てきた男の姿を思い出した。もう流れた年数を正確に言えないくらいに昔の話のはずなのだが。
「……咲夜さん!」けれども何故か、この部屋を出て行こうとする彼女をそのまま見送りたくはなかった。普段よりやや大きめの声量に驚いたのか、咲夜は目を丸くして振り返る。
「どうかした?」と訊かれてから初めて、美鈴は自分が何を言おうとして咲夜を引き止めたのかまったく考えていないことに気付いた。慌てて起き抜けの脳を回転させて、思ってもいなかったことを口にする。
「……えっと。朝ご飯、何ですか?」
「パンとサラダとベーコンエッグ。何か不満?」
「いえ。……ええと、ちょっとだけデザート付ける気とかありません? ……林檎、とか」
美鈴の言葉に、咲夜は怪訝な顔をして首を傾げてみせた。
「林檎、ねえ。季節だし蓄えはあるけど……食べたいの?」
「咲夜さんが嫌でなければ。……駄目ですか?」
「分かったわよ。剥いておくからさっさと着替えなさいな。どっちにしろご飯の方はもう冷めてるだろうし」
咲夜は溜め息を吐いてから「贅沢ね、貴女も」と口元に微笑を浮かべてみせた。
今日初めての笑顔だ、と美鈴が瞬きをして咲夜の顔を凝視しようとした時には、咲夜はもうドアの方を向きながらひらひらと手を振っている。最後に少しだけこちらを振り向いたかと思えば、先程よりも声のトーンを上げた。
「珈琲も淹れるから、そっちが冷めないうちに来てよ」
その台詞が終わるか終わらないかのうちに、ぱたんとドアが閉められた。
そうして部屋の中が静かになる。
美鈴はほんのしばしの間上半身を起こしたままの格好でベッドに腰掛けていたが、じっとしている場合ではないということを思い出して「……やばい」と呟いた。ベッドから降りて大きく伸びをした後、ぐちゃぐちゃになった布団をなるべく急いで整頓する。一度失敗をしてしまったのだから、これ以上咲夜を待たせるわけにはいかない。
クローゼットからいつもの制服を取り出して、寝巻きを脱いでからワイシャツを羽織った辺りでまだ顔も洗っていないことを思い出した。慌てて部屋に付いている簡易な洗面所に駆け込む。うっかり着替え途中のままなせいでひどく寒いが、これくらいならまだまだ耐えられる。
冷水を叩き付けるようにして顔を洗い、タオルで水分を拭き取っていると鏡に映った自身と目が合った。自分で見ているだけなのでもしかしたらそうでもないのかもしれないが、こうして眺める限りでは相変わらず何の変哲も無い顔立ちだ。食い入るように鏡に見入ってから、そんな自分が馬鹿らしくなって顔を離した。
とりあえず半端に留められたままのボタンの続きを引っ掛けながら、もう一度鏡を見遣る。こちらを真っ直ぐに見つめてくる自分に少し笑いかけて、言い聞かせる意味もあってわざと独りごちるように口に出した。
「咲夜さんが言う通りに、贅沢みたいです。私」
いつか昔のような思いをまた味わう日が来るのかもしれないけれど。
でも、今はとりあえず。
ようやく着替えを済ませた後、美鈴はもう一度伸びをした。
固くなっていた筋肉がほどよくほぐれるのを待ってから、「よーし」と呟いて靴を履いた。ドアを閉め、近くにいたメイドに挨拶するのもそこそこに、絨毯の敷かれた廊下を小走りで進む。レミリアやパチュリー辺りに見付かれば怒られそうなものだが、まだこの時間帯は二人ともベッドの中なのだろうから心配はいらない。それよりも、咲夜の元へ行く方が今はきっと大事だ。
早く行こう。
何しろ咲夜の作った朝食と、きっといつものようにひどく苦い珈琲と、甘酸っぱい林檎が待っている。
fin.
そして一瞬さっきゅんと同棲でもしてるのかと思ってしまった俺の邪な事といったら
素敵なお話でした。
現在の幸せと切ない胸の痛み、まさに人間らしい妖怪の美鈴だからこそ実に似合う。
美鈴はやっぱり一番人間らしい妖怪ですよね。
それともこれは美鈴だからこそだろうか。
どっちにしろ切ないけど。