復讐するは我にあり、とは耶蘇の神の言葉だったか。
空も白もうとする夜明け前の今、私の目の前にはだらしなく床に突っ伏す妹の姿がある。
昨夜、人里から奉納された初物の葡萄酒を二人して愉しんでいたのだが、いつもよりも早いペースで杯を乾かしてしまった結果、このざまを晒してしまっている。
かく言う私も妙な対抗心を燃やしたために大分酔いが回っているが、それでも潰れてしまうほどではなかった。
現にこうして先に目を覚まし、心身に不具合は残っていない。
とりあえず私は穣子を抱え上げた後、座布団を折り畳んで即席の枕を作り、そこに頭を横たえてやる。
こうやって寝苦しくない体勢を作っておけば、今から受ける小さな刺激で目を覚ましてしまうこともないだろう。
この作業の間にも穣子はただ寝息を零すだけで、全く起きようとする気配は見うけられない。
寝息――そう、運ぶ時に絶えず吹いてきたそれを受け続けていたため、私の眉は今かなり吊り上がっている。
それだけではない。こうして身体を離した後だというのに、いまだに残留したままの移り香を吸い込むと、思わず地団駄を踏みそうになる。
起こしてしまう恐れがあるのでやらないけど。
ひとまず窓を開けて深呼吸を繰り返した後で、私は清潔な手ぬぐいで穣子の顔を軽く拭いてやる。
それから円い容器を取り出し、中に入っていた白い微粒子を小さな刷毛ですくいとって、柔らかそうな頬にまぶしてやる。右、次に左にも忘れずに。
それが一通り終わると、次の標的を唇に定める。
少し開き気味だったので、ひとまず私はそれを閉じてやろうとして上半身を近づけた。
「……んぅ」
その途中、妹が意味不明な寝言を呟く。同時に送られてくる、芳醇な葡萄酒の匂い。
ようやく喉の奥に押し込めたものと同じそれが、濃密な塊となって再び私の鼻腔を蹂躙する。
弾かれたように身体を離す。それから音を立てないように、ぐるぐると室内を歩き回った。
ああ、芳しい。甘酸っぱく、瑞々しく、ほのかに艶めかしい――ゆえに、腹立たしい。
妹の纏う香りはどれもこれも馥郁たるものだということは、食傷気味なくらいにまで認めている。
また、この時期の穣子は人里にもよく訪れているため、その事実を知る者は私以外にもたくさん存在する。
彼らの誰もがたまに同行していた私と世間話をする折、必ずといっていいほどその話題に触れてきた。
そして衣食住のあらゆるシーンに応じて千変万化する香りを味わっていると伝えられた時、誰もが羨望の眼差しを集中させてきたことは記憶に刻み付けられている。
そういう時は決まって、私は誇らしさと敗北感を同時に抱えさせられた。
だから、これは私の反転攻勢。
甘い匂いのする妹につられて視線を向けてくる者達に、秋の色彩をまざまざと見せつけてやろう。
そして妹には、香気ではなく外観に対する賞賛を浴びせてやろう。もしかしたらその装いをどこで手に入れたのか、なんて質問を受けるかもしれない。
その時穣子はどんな顔をするのやら、想像するだけで口元が緩んでくる。
「んぁ」
などと空想に気をとられているうちに、またも穣子が寝言を呟く。
その傍らに私は再び腰を下ろし、円筒状の容器を取り出してその蓋を外した。
現れたのは同じく円筒状の白く柔らかい塊。その先端の一部を薬指ですくいとり、閉ざしてやった穣子の唇に薄く塗りつけていく。
このやり方ならスティック状のこれを直接押し当てるよりも、無駄な力が入らないために加減がしやすいのである。
しなやかに弾む唇の感触に気を払いながら上下の順になぞり、最後に両方をつまみ合わせて馴染ませてやる。
次に私は穣子の片手をそっと取り上げる。
そして小瓶を取り出し、中の乳液を別の刷毛に染み込ませてから爪に広げた。
十指全てに塗り終えると、今度はむき出しの足に狙いを定める。
一見無防備だが、この足首近くは香水がもっとも濃密に存在する部位なので油断はできない。
私は顔を逸らしながら大きく息を吸い込むと、そのまま呼吸を止めて穣子のか細い足首を掴み上げ、爪先あたりで刷毛を迅速に動かしていった。
一通り化粧を施したところで、私は穣子から離れて柏手を静かに一打ちし、神徳を発現させる。
するとまずはチーク――頬紅を塗ったあたりがほのかに赤く色付き、血色良好で小顔に見えるようになった。
そして唇は紅葉したモミジのように朱色に艶めく。
これこそが私の紅葉を司る程度の能力、その応用だった。
八意思兼神を自称する薬屋から聞いたのだが、我々神々の能力は発酵に関わる物が多いらしい。
彼女が言うところ、私達姉妹は植物の生理現象に関係する酵素反応を操っているのだとか。
妹の穣子はその神徳により、植物の炭素固定を促進させて糖分を大量に蓄えさせ、その結果果実の熟成を進めることができたり、また様々な匂いを生み出す発酵を自在に操れる。
一方の私は、草木の骨格であるセルロースなるものを壊して落葉を促進させたり、アミノ酸の一種をアントシアニジンとやらに変えて葉を色付かせている、って言ってた。
今回私が使ったのはオシロイバナの実から得たデンプンの白い粉末と、紅葉する葉の抽出物を混ぜ込んだ化粧。
このデンプンを壊すことでブドウ糖が生み出され、それがアントシアニジンと結びつくと赤色の素ができるらしい。
あとペーハーが比較的低い――弱酸性であることが重要とのことだが、素肌はその条件を満たしているので大丈夫だ、問題ない。
一方で手指、足の爪先に塗ったマニキュア・ペディキュアには、中に酸っぱい成分を混ぜ込んでいる。
今は色付かないように発酵のスピードを調節しているが、穣子が今日の朝に収穫祭の打ち合わせに行く頃には綺麗な朱色を見せることだろう。
これで準備は整った。あとは急いで穣子を起こし、人里へ出発するのを見送れば事は完了する。
「んぅ……あ、おはよう姉さん。起こしてくれたの?」
何回か揺さぶってやると、すぐに穣子は上体を起こし、こちらに向けて挨拶してきた。思ったよりもお酒の影響はなさそうだ。
私は目をこすっている妹に頷き返してから櫛を取り出して見せた。
「あ、いいよ。自分でやるから」
これから髪を整えてやろうとする私を見て穣子は首を横に振り、手を伸ばして櫛を取り上げようとする。
しかし私はそれをかわし、もう片方の手で太陽を指差してみせた。
すると穣子はその高さを確認して、諦めたように手を下ろした。
「……あー、結構寝込んじゃったんだね。たしかに姉さんに任せた方が早いか。私、こういうの苦手だもんね。
じゃあお願い」
大人しくなった穣子の前で、私は任せなさいと言わんばかりに胸を叩くと、後ろに回って髪を梳り始めた。
その一方で穣子は酒臭さを払うため、帽子のブドウ飾りから一粒むしり取ると、それを間に挟む形で柏手を打つ。
その手からハッカの爽快な香りが立ち上り、それを吸い込んだ穣子はすっかり目を覚ました。
ちょうど同じ頃合で私も髪を整え終わる。
「ありがとう。ね、他におかしいところはない?」
後ろを振り向いた穣子はこちらに顔を近づけてくる。鏡を見るよりも私に判断してもらった方が早いと思ったのだろう。
計画通りだ。私は口元が緩まないように気をつけながら、穣子の顔は寝ている間にあらかじめ拭いておいたという嘘を手話で伝える。
それを受けて妹は疑いもせずに満足そうに頷いた。
「そうだ、今日は姉さんも一緒に行かない? 新嘗祭の五節の舞の予定も組み立てておかないと」
直後、穣子はこちらに手を差し伸べてながら、無邪気な笑顔で誘いかけてくる。
しかし私は首を横に振り、それから両手で手話を示してみせ、最後に妖怪の山の頂上あたりを指差した。
「そっか。そろそろ紅葉の準備もしないといけないんだね。分かったわ」
それを見て、穣子は少し寂しそうな顔をする。
先程の予定は、人里にて事が露見した時に、真っ先に穣子に責められるのを避けたいがために考えていた言い訳だった。
一応、山の紅葉の準備もあるにはあるのだけれど……かすかに罪悪感が胸をよぎる。
そんな私の胸中には気付かず、穣子は勢いをつけて立ち上がった。
「じゃあ、行ってくるね。お土産期待してて――?」
しかし穣子が踵を返す前に私はその手をとり、てのひらに人差し指を走らせて一文字ずつひらがなを書いた。
この空書きの内容は、いってらっしゃいの挨拶と、お土産は小麦のパンがいいという要望。
「ええ、分かったわ」
穣子はそれを握り締めると、人里へ向けて飛び立っていった。
しばらくその背に向けて手を振っていた私は、扉が閉まったあたりで窓の外の山を見つめる。
そして上質なカエデ蜜が採取できる場所を思い出しながら窓を開けた。
投我以桃、報之以李――私もお土産を取ってきて、帰ってきた妹の不機嫌に備えるとしよう。
なんか普通に姉妹って感じでよかったです。