僕はずっと見ていたんだ。僕はほとんどの日は、太陽が昇るより先に起きていた。自分から顔を洗い、朝食の準備をして食べた。そのころにはすっかり太陽は顔を出し、僕の体を穏やかに暖めている。そのあと僕は、ずっとここで三角に体を曲げ楽な姿勢になって、日が暮れるまでここで見ていた。ほとんどの場合において、空は青かった。居心地がよかったので僕はここから離れることはせず、ずっと同じ姿勢をとって見ていた。
太陽の昇る日がとても早い日のことだった。僕はいつものように朝早くに目覚め、顔を洗って朝食を済ませた。体を三角に折り曲げ、ゆっくりとそこに腰を下ろした。僕はそこに手を触れてみた。地面が強い熱を持っていることが分かる。それくらい強烈に暑い日だった。なかなか訪れることのない、珍しい日だ。僕の周りに生えている草木が喜んでいるのか苦しんでいるのかよく分からないような不思議な声をあげた。
いつも僕の近くに住んでいる巫女は、毎日僕と同じくらい同じことを繰り返していた。巫女の姿を僕は毎日一度は見ていた。そういう場所に座っていたからだ。毎日僕が朝食を済ませた後にゆっくりと目覚め、しばらくした後に神社の物置から箒を出してきて、石で組まれた境内を掃いていた。どうやら彼女は気分屋らしく、ひととおり境内を掃除し終えてもまだ掃き続けていることもあるし、いい加減に掃除を終わらせ、縁側の隅で座ってお茶をすすっていることもあった。彼女は掃除と同じくらい、お茶の時間を欠かすことはなかった。僕は巫女のことを毎日見ていた。毎日見ていたから、あの日の彼女の違いに気が付かないはずは絶対になかったんだ。
恐ろしいほどの日常だった。彼女は表情ひとつ変えないまま、僕が朝食を済ませた後ゆっくりと目覚め、しばらくした後に神社の物置から箒を出してきて、石で組まれた境内を掃き続けていた。掃除を続けていくうちに、彼女の頬から汗がじんわりとにじんでくるのが分かった。神社を取り囲む木々からも、僕の周りを取り囲む草木と同じ声が聞こえた。木々にへばりつく大量のアブラゼミとミンミンゼミのお陰で、良くも悪くも決して他の季節と違って耳が寂しくなることはなかったのだ。ほんの一瞬の出来事、彼女はふと掃除を止め、神社の裏側に消えて行った。そのとき僕は、ひどく不思議に感じたのを覚えている。彼女は神社の裏側に立つと、髪の毛から順に、巫女服、身体と、重力を消していった。僕はそんな巫女の姿をいちども見たことがなかったので、ひどく驚いていた。
僕はずっと見ていたんだ。彼女は重力をふと止めたまま、神社の裏側にずっと続く路を抜けて飛んでいった。こんな暑い日の中、路を歩く人間など一人もいなかったので、誰もそのことを不審に感じずに済んだ。彼女にまとわりつく緑色の強い熱を持った光は、僕のもとにも降り注いでいた。僕の体からも、じんわりと汗が滲んでいた。夏だったからだ。彼女は湖に続く空を、ゆっくりと浮かんでいた。本当に長い、僕にとっては余りにも長すぎる時間をかけて、巫女は湖のふちにたどり着いた。
ちょうどその時だった。巫女が湖に来た路と逆方向の道から、小さく愛らしい足音が聞こえてきた。その足音はリズミカルに湖に近づいてきた。巫女は、湖のふちを通り越して、僕が近づくことのできない水面上に体を動かしていた。そのとき初めて、僕は巫女の影が何重かに分かれているような気がしたんだ。はじめは気のせいだと思ったけど、今はたしかにいくつかに分かれていた、と断言できる。
たっ、たっ、たっ、と可愛らしい足音が聞こえる。湖の向こう側から、小柄な金髪の少女が駆け出してきていた。彼女の瞳は不自然ではないまでも非常に大きく、なにかの病気にかかっているかのように白い肌を晒していた。この太陽の光で、ひょっとしたら彼女は焼け死んでしまうのではないかと僕は考えたが、結局そんなことはなかったようだ。少女はとても嬉しそうだった。彼女の顔を見ただけでこちらまで微笑んでしまうような明るい笑顔を輝かせ、湖のふちを走っていた。
巫女は表情を変えないまま、湖の中心まで辿り付いた。本当にさりげなく、彼女はゆっくりと湖に腰を下ろした。
巫女の影が、ゆっくりと湖に沈んでいく様子が僕にははっきりと見えた。それはあまりにも見慣れたまごうことのない彼女の姿で、僕はひどい安堵を感じた。吐き気のするような安堵だった。太陽が僕たちを直接照らしていた。木々や草木はどうやらひとつ残さず焼け死んでしまったように感じた。白い光線が僕の身体も焼いた。
それと同じくらいの速度で、金髪の少女が湖のふちを駆けた。彼女も決して表情を崩すことはなかったが、こちらは巫女と違い、白い光を跳ねかえすような眩しい笑顔だった。僕はそんな彼女に恐怖を覚え、もう二度と湖の端にたどり着かないで欲しいと願った。しかし彼女は無慈悲にも、巫女が変化を遂げていくのと同じ速度、まったく同じ速度で湖のふちを駆けた。
僕はずっと見ているんだ。永遠すら容易に朽ち果てるような時間が過ぎた。太陽は頂点を過ぎ、そろそろ肌寒くなってくる頃だった。巫女は影を湖に沈め、先と変わらぬ表情を保ったまま両腕を挙げた。恐ろしいほど長い時間だった。僕はいっときも目を離すことが出来ず、彼女の変化に釘付けになっていた。
巫女の姿が景色に溶けていくように感じた。はっきりと分断されていた紅と白の巫女服が、しだいにひとつの色に交わっていく瞬間だった。彼女から目をそらさないでいたつもりだったのに、いつの間にか巫女の姿はその場から消滅していた。大きな、一輪の人の形ほどある大きな蓮へと彼女は姿を変えていた。それは非常に当たり前の出来事で、彼女が毎日急須に茶葉を注ぐこと以上に自然な出来事であった。巫女は蓮花であり、これからも永遠に蓮であり続けた。僕が願ったことは、一度も叶うことがなかった。
大きな音がした。金髪の少女が神社の境内に走り込み、手にしていた楽器を石段に叩き壊したのは、それと同時だったのかもしれない。僕は彼女がその楽器を使い、音色を奏でている姿を何度も見たことがあった。神社の方から降り注ぐ音は、アブラゼミやミンミンゼミ、草木たちの悲鳴を一瞬にして掻き消しながら僕の耳へと届いた。その音の中には、聞いたことがあった音と、一度も聞いたことがなかった音があった。聞いたことのあった音は、彼女の演奏で聴いた曲だったかもしれなかった。
彼女が笑顔で振り下ろした楽器から放たれた音は、僕らの住む世界を通り越して、あまりにも多すぎる人々の耳に入ってしまった。すべてこれが彼女の仕組んだ罠であり、そのせいで、巫女は幼いうちから逃げ出さなければならなくなってしまったのだった。僕たちの世界は閉ざされ、彼女は笑いながらこの世界の出口へと通じる階段に足をかけ、スカートの裾を少し摘む。僕はそのとき、彼女の影も「ひとつではない」ことに初めて気が付いた。ただ、今回は巫女の場合と違い、あまりにも遅すぎる気づきだった。
黄昏が訪れようとしていた。妖怪たちの力が強くなる時間だ。僕は一斉に一筋の涙を流し、ありのままを受け入れる覚悟ができかねずにいた。
僕はずっと見ていた。桜の木の枝の下から、湖の底から、神社の鳥居のすぐ傍から。あらゆるところから、僕はずっと見ていた。その日の寝る時間に差し掛かっていた。僕はゆっくりと、最後の自分の力を振り絞り目を閉じた。
僕はずっと見ているんだ。目を逸らすつもりもない。
太陽の昇る日がとても早い日のことだった。僕はいつものように朝早くに目覚め、顔を洗って朝食を済ませた。体を三角に折り曲げ、ゆっくりとそこに腰を下ろした。僕はそこに手を触れてみた。地面が強い熱を持っていることが分かる。それくらい強烈に暑い日だった。なかなか訪れることのない、珍しい日だ。僕の周りに生えている草木が喜んでいるのか苦しんでいるのかよく分からないような不思議な声をあげた。
いつも僕の近くに住んでいる巫女は、毎日僕と同じくらい同じことを繰り返していた。巫女の姿を僕は毎日一度は見ていた。そういう場所に座っていたからだ。毎日僕が朝食を済ませた後にゆっくりと目覚め、しばらくした後に神社の物置から箒を出してきて、石で組まれた境内を掃いていた。どうやら彼女は気分屋らしく、ひととおり境内を掃除し終えてもまだ掃き続けていることもあるし、いい加減に掃除を終わらせ、縁側の隅で座ってお茶をすすっていることもあった。彼女は掃除と同じくらい、お茶の時間を欠かすことはなかった。僕は巫女のことを毎日見ていた。毎日見ていたから、あの日の彼女の違いに気が付かないはずは絶対になかったんだ。
恐ろしいほどの日常だった。彼女は表情ひとつ変えないまま、僕が朝食を済ませた後ゆっくりと目覚め、しばらくした後に神社の物置から箒を出してきて、石で組まれた境内を掃き続けていた。掃除を続けていくうちに、彼女の頬から汗がじんわりとにじんでくるのが分かった。神社を取り囲む木々からも、僕の周りを取り囲む草木と同じ声が聞こえた。木々にへばりつく大量のアブラゼミとミンミンゼミのお陰で、良くも悪くも決して他の季節と違って耳が寂しくなることはなかったのだ。ほんの一瞬の出来事、彼女はふと掃除を止め、神社の裏側に消えて行った。そのとき僕は、ひどく不思議に感じたのを覚えている。彼女は神社の裏側に立つと、髪の毛から順に、巫女服、身体と、重力を消していった。僕はそんな巫女の姿をいちども見たことがなかったので、ひどく驚いていた。
僕はずっと見ていたんだ。彼女は重力をふと止めたまま、神社の裏側にずっと続く路を抜けて飛んでいった。こんな暑い日の中、路を歩く人間など一人もいなかったので、誰もそのことを不審に感じずに済んだ。彼女にまとわりつく緑色の強い熱を持った光は、僕のもとにも降り注いでいた。僕の体からも、じんわりと汗が滲んでいた。夏だったからだ。彼女は湖に続く空を、ゆっくりと浮かんでいた。本当に長い、僕にとっては余りにも長すぎる時間をかけて、巫女は湖のふちにたどり着いた。
ちょうどその時だった。巫女が湖に来た路と逆方向の道から、小さく愛らしい足音が聞こえてきた。その足音はリズミカルに湖に近づいてきた。巫女は、湖のふちを通り越して、僕が近づくことのできない水面上に体を動かしていた。そのとき初めて、僕は巫女の影が何重かに分かれているような気がしたんだ。はじめは気のせいだと思ったけど、今はたしかにいくつかに分かれていた、と断言できる。
たっ、たっ、たっ、と可愛らしい足音が聞こえる。湖の向こう側から、小柄な金髪の少女が駆け出してきていた。彼女の瞳は不自然ではないまでも非常に大きく、なにかの病気にかかっているかのように白い肌を晒していた。この太陽の光で、ひょっとしたら彼女は焼け死んでしまうのではないかと僕は考えたが、結局そんなことはなかったようだ。少女はとても嬉しそうだった。彼女の顔を見ただけでこちらまで微笑んでしまうような明るい笑顔を輝かせ、湖のふちを走っていた。
巫女は表情を変えないまま、湖の中心まで辿り付いた。本当にさりげなく、彼女はゆっくりと湖に腰を下ろした。
巫女の影が、ゆっくりと湖に沈んでいく様子が僕にははっきりと見えた。それはあまりにも見慣れたまごうことのない彼女の姿で、僕はひどい安堵を感じた。吐き気のするような安堵だった。太陽が僕たちを直接照らしていた。木々や草木はどうやらひとつ残さず焼け死んでしまったように感じた。白い光線が僕の身体も焼いた。
それと同じくらいの速度で、金髪の少女が湖のふちを駆けた。彼女も決して表情を崩すことはなかったが、こちらは巫女と違い、白い光を跳ねかえすような眩しい笑顔だった。僕はそんな彼女に恐怖を覚え、もう二度と湖の端にたどり着かないで欲しいと願った。しかし彼女は無慈悲にも、巫女が変化を遂げていくのと同じ速度、まったく同じ速度で湖のふちを駆けた。
僕はずっと見ているんだ。永遠すら容易に朽ち果てるような時間が過ぎた。太陽は頂点を過ぎ、そろそろ肌寒くなってくる頃だった。巫女は影を湖に沈め、先と変わらぬ表情を保ったまま両腕を挙げた。恐ろしいほど長い時間だった。僕はいっときも目を離すことが出来ず、彼女の変化に釘付けになっていた。
巫女の姿が景色に溶けていくように感じた。はっきりと分断されていた紅と白の巫女服が、しだいにひとつの色に交わっていく瞬間だった。彼女から目をそらさないでいたつもりだったのに、いつの間にか巫女の姿はその場から消滅していた。大きな、一輪の人の形ほどある大きな蓮へと彼女は姿を変えていた。それは非常に当たり前の出来事で、彼女が毎日急須に茶葉を注ぐこと以上に自然な出来事であった。巫女は蓮花であり、これからも永遠に蓮であり続けた。僕が願ったことは、一度も叶うことがなかった。
大きな音がした。金髪の少女が神社の境内に走り込み、手にしていた楽器を石段に叩き壊したのは、それと同時だったのかもしれない。僕は彼女がその楽器を使い、音色を奏でている姿を何度も見たことがあった。神社の方から降り注ぐ音は、アブラゼミやミンミンゼミ、草木たちの悲鳴を一瞬にして掻き消しながら僕の耳へと届いた。その音の中には、聞いたことがあった音と、一度も聞いたことがなかった音があった。聞いたことのあった音は、彼女の演奏で聴いた曲だったかもしれなかった。
彼女が笑顔で振り下ろした楽器から放たれた音は、僕らの住む世界を通り越して、あまりにも多すぎる人々の耳に入ってしまった。すべてこれが彼女の仕組んだ罠であり、そのせいで、巫女は幼いうちから逃げ出さなければならなくなってしまったのだった。僕たちの世界は閉ざされ、彼女は笑いながらこの世界の出口へと通じる階段に足をかけ、スカートの裾を少し摘む。僕はそのとき、彼女の影も「ひとつではない」ことに初めて気が付いた。ただ、今回は巫女の場合と違い、あまりにも遅すぎる気づきだった。
黄昏が訪れようとしていた。妖怪たちの力が強くなる時間だ。僕は一斉に一筋の涙を流し、ありのままを受け入れる覚悟ができかねずにいた。
僕はずっと見ていた。桜の木の枝の下から、湖の底から、神社の鳥居のすぐ傍から。あらゆるところから、僕はずっと見ていた。その日の寝る時間に差し掛かっていた。僕はゆっくりと、最後の自分の力を振り絞り目を閉じた。
僕はずっと見ているんだ。目を逸らすつもりもない。